◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 8章(11月30日)

「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。」…黙示録8:3

巻物の第7の封印が小羊によって解かれます。神の御前には7人の御使いが立っていて、それぞれ与えられたラッパを吹き鳴らすと、7つのわざわいが次々に起こりました。8章には第4のラッパによる出来事までが含まれます。地上のものの3分の1がそれらの影響を受けて、それぞれ、地が焼け、海が血となり、川の水が苦くなり、太陽・月・星が暗くなるという主のさばきが起こるのです。イスラエルの民のために主がエジプトに下された、10のわざわいが思い起こされます。しかし、第7の封印が解かれたとき、そのさばきはすぐには起こりませんでした。天に半時間ほどの静けさがあり、さらに、7人の御使いとは別のもう一人の御使いが香炉を取り、香の煙を聖徒たちの祈りとともに神の御前に立ち上らせ、その香炉を祭壇の火で満たし地に投げつけると、雷鳴と声といなずまと地震が起こり、それを合図として、7人の御使いたちが次々にラッパを吹き鳴らしたのです。「すべての聖徒の祈り」…それがどのようなものかは書かれていませんが、主イエスが弟子たちに教えたように、「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という、神の完全な統治の実現、悪魔の最終的な敗北、主の栄光の現われを求めるものだったに違いありません。終末のさばきはもちろん神が計画されてなされることです。しかしそれが起こる前に、「すべての聖徒の祈り」が、香の煙とともに、神の御前に立ち上っているのです。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(マタ24:14)。自らのなすべき分を覚え、それを忠実に果たしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 7章◇(11月29日)

「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」…黙示録7:17

7章は第6と第7の封印の間に挿入されています。白い衣を着たあらゆる民族からの大群衆の姿が心に留まります。彼らはしゅろの枝を手に持ち、御座と小羊との前で賛美の声を上げています。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」。するとそれに呼応して御使いたちも御座の前にひれ伏して、そこにおられる神を礼拝しました。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン」。長老の一人がその大群衆がどのような者であるか、ヨハネに解き明かしました。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」。彼らはキリストの血によって贖われ、終わりの日のさばきの中で義と認められた者たちです。またその白い衣は、迫害という患難によって着ていた衣が血に染まり、殉教の死を遂げたとしても、小羊の打ち傷と流された血によっていやされ、いのちが取り戻され、勝利が与えられることをも象徴しています。「だから」(15節)、そのように罪赦され義とされた者、地上の生涯の後も永遠のいのちを与えられた者として、彼らは聖所で、昼も夜も絶えず神に仕えているのです。神はその彼らの上に幕屋を張ってくださるので、どんな炎熱にも打たれることなく、また牧者なる小羊が、彼らをいのちの水の泉に導いてくださるのです。そこに至るまでは多くの悲しみの涙が流されます。しかしそれも神が一滴残らずぬぐい取ってくださるのです。そしてその祝福は、キリストにある者に、今この地上でも、神の国の祝福として与えられているもの、やがて来る完全なものの前味として備えられているものなのです。それをもっと豊かに味合う者でありたいと願います。

御国の現われがさらに拡がりますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 6章◇(11月28日)

「すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』と言い渡された。」…黙示録6:11

御座に座る方から受け取った巻物の7つの封印が、一つずつ小羊によって解かれていきます。第1の封印が解かれてヨハネが見せられた幻は、白い馬でした。勝利の上にさらに勝利を得ようと出て行く、侵略者を表わしていると考えられます。第2の封印の幻は赤い馬です。地上から平和が奪い取られ、人々が殺し合うようになるとあり、赤に象徴される流血の戦いが起こるのです。第3の封印の幻は黒い馬です。乗っている者は、量りを手にしていました。「小麦1升は1デナリ…」という声は、1日分の賃金で小麦1升しか買えない、飢饉のような事態が起こることを暗示しています。第4の封印の幻は青ざめた(または灰色の)馬です。死という名の者が乗り、ハデス(「よみ」)がつき従い、地上の4分の1を殺す権威が彼らに与えられるのです。第5の封印の幻は祭壇の下にいる殉教者たちです。彼らは自分たちの血の復讐を催促しましたが、主は、同じように殉教する者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるようにと言われました。終末が近づくにつれ、地上における信仰者たちに対し、迫害がますます激しくなることが示唆されています。しかし、天の殉教者たちはすでに「休んで」いるのです。主の安息の中に確かに入れられているのです。「彼らはその労苦から解き放されて休むことができる」とありますが(黙示14:13)、殉教の死は敗北ではなく、主にある勝利といのちと祝福につながるものなのです。「もうしばらくの間」…再臨がいつかはわかりませんが、患難を恐れず、死に至るまで忠実でありたいと願います。

主の守りと祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 5章◇(11月27日)

「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」…黙示録5:9-10

ヨハネが見た天の御座の光景が語られています。御座に着いている方がおられ、その周りの座には24人の長老が座り、、さらに御座の前には、6つの翼を持ち前後が目で満ちた4つの生き物がいて、御座におられる方、神を礼拝していました(4章)。その御座におられる方の右の手には巻物があり、7つの封印がされていましたが、それを解き、巻物を開くことのできる者がだれもいなかったので、ヨハネは激しく泣きました。しかし長老の一人は、ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼が7つの封印を解くことができると告げたのです。それは7つの角と7つの目を持つほふられた小羊で、御座におられる方から巻物を確かに受け取ったのです。4つの生き物と24人の長老は小羊の前にひれ伏し、小羊への新しい歌、賛美をささげて礼拝しました。「ほふられ」、「血により」、「あらゆる国民の中から」、「贖い」…と、罪のないご自身をいけにえとしてささげ、十字架にかかり、血を流し、そのいのちを代価として、すべての人を罪の奴隷から買い戻したイエス・キリスト、世の罪を取り除くその小羊がほめたたえられたのです。「神のために」ということばがそこで2度使われています。「私たちのために」小羊がほふられたというだけでなく、「神のために」それがなされたという視点が重要です。すなわち、神は、ご自身の計画を成し遂げるために、人々を罪の中から救い出し、贖った者たちに油を注ぎ、王国(別訳「王」)また祭司とし、この地を治めるために、一人ひとりを遣わしておられるということです。私たちはそのために神から選ばれ、任命され、行って多くの実を結ぶように求められているのです(ヨハ15:16)。そしてそれは、キリストがこの地にすでにもたらされた、神の国を拡げるということにほかならないのです。

神のために生きる喜びに満たされますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 3章14-22節◇(11月25日)

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」…黙示録3:18

7つ目となるラオデキアの教会への使信です。ラオデキアの町は商業都市として栄え、人々は非常に裕福であったと言われています。そして主は、そこの教会の信徒たちに対して、「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(16節)と厳しいことばをもって非難しているのです。なまぬるい…それは彼らの信仰を指しています。熱心さ、真剣さに欠ける中途半端な状態です。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(17節)。彼らは、物質的な豊かさの中にあって、不自由なく暮していることで満足していたのです。しかし自分たちがいかに霊的な貧しさの中にあるか、それに気づいていないと主は指摘しているのです。そんなラオデキアの教会の人々に主は言われます。精錬された金を、白い衣を、目薬を買いなさい、と。精錬された金とは、不純物のない神のことばであり、キリストにある知恵と知識の宝(コロ2:3)です。また白い衣とは、キリストに贖われた者にふさわしい義の衣、神のみこころにかなった生き方です。そして目薬とは、知恵と啓示の御霊(エペ1:17)であり、真理を知り正しいものを見分けるために必要なのです。物質的な豊かさに満足し、なまぬるい信仰に陥る…主に飢え渇いて熱く真剣に求めようとはしない…それは現代に生きる私たちにも起こり得ることです。そして主は、私たちを愛するゆえに、時に叱ったり、懲らしめて(19節)、霊的な貧しさに気づかせるのです。そして、悔い改め、心の戸を開きご自身を迎える者と、主は親しく交わって回復を与えられるのです(20節)。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 3章1-13節◇(11月24日)

「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」…黙示録3:2

サルデスとフィラデルフィヤの教会への使信です。まず、サルデスの教会に対して主は、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」と、からだは生きていても、たましいが生きていない、霊的ないのちが失われている、と指摘しています。パウロはさまざまな迫害と苦難の中にあっても、「死にそうでも、見よ、生きており…」と言いましたが、自らをキリストにささげ、命懸けで仕える彼の生き方は、サルデスの教会のあり方とは正反対だったのです。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」と主は言われました(ルカ9:24)。そのような指摘に続けて主はこう言われています。「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」みことばが示唆するのは、「自分のいのちを救おうと」、教会、またキリスト者が、自分たちが祝福されること、自分たちが満たされることだけを追い求めるならば、霊的な成長はなく、霊の目が閉ざされ、惰眠に陥り、やがては霊的ないのちを失ってしまうということです。「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい」。さらに続けて主はそう言われています(3節)。私たちは常に原点に立ち返らなければならないのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20)。キリストとともに死んだ十字架こそが原点です。キリストとともによみがえった墓こそが原点なのです。自分が何のために、誰のために生かされているのかを、見失わないで歩み続けたいと思います(ヘブ12:2)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 2章18-29節◇(11月23日)

「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」…黙示録2:25

テアテラの教会への使信が記されています。テアテラは、交通の便が良かったため、さまざまな商工業が発達した町であり、それらの従事者たちも教会に集っていたでしょう。エペソの教会は、「初めの愛から離れてしまった」と主から非難されましたが、テアテラの教会は、「近ごろの行いが初めの行いにまさっている」と、教会の人々の成長ぶりが称賛されています。しかし主は、彼らがイゼベルという女性を「なすがままにさせている」(20節)と、非難しています。イゼベルという名前で思い出されるのが、姦淫や呪術を行ったアハブ王の妻ですが(2列9:22)、テアテラの教会においても同名の彼女は、預言者だと自称し、誤った教えを持ち込み、性的不品行、偶像礼拝へと人々を導いていたのです。そして教会はそれに対し、とがめようとしなかったのです。放置したのです。「なすがままにさせる」と訳されているギリシャ語には、許す、容認するという意味があり、新共同訳では、「大目に見る」と訳しています。彼女のことばが巧みで騙されたのかもしれません。人を惹き付けるカリスマ性があったのかもしれません。しかし彼女に惑わされない者ももちろんいたのです。主は言われました。「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい」と。それは聖書の真理のみことばに基づく信仰のことです。主は私たちにも「なすがままにさせるな」と言われます。今も、魅力的なことばで人を惹き付けようとする者や、人間的な方法で解放と回復を目指す働きがあります。主の教えとは異なる考え方、価値観が満ちています。それを教会の中に持ち込ませてはならないのです。なすがままにさせて、大目にみてはならないのです。私たちが断固としてそれを拒絶し、神の国の福音、正しい信仰をしっかりと持ち続けることが大切なのです。

主の守りと導きが日々の歩みに与えられますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 2章1-17節◇(11月22日)

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」…黙示2:4

7つの教会に対する使信が2章から始まっており、今日の箇所では、エペソ、スミルナ、ペルガモの3つの教会への主のことばが書かれています。称賛とともに、主のみこころにかなわなかった点が率直に語られ、悔い改めが求められています。また、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」という定型のことばが語られ、その後に、主の約束が預言として与えられています。エペソの教会に対して主が非難している点、それは、「初めの愛から離れてしまった」ことです。「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」と、主は命じています。初めの愛から離れる…それはまず、主から愛されること、神の愛を受けることにおいてです。神に愛される資格などない、罪に汚れた自分のために、キリストが十字架にかかり、いのちを捨ててくださった…その愛を知ったとき、私たちは感激し涙したはずです。しかし年月が経つうちにその感動が薄れてしまう…多くの労苦によって、感謝する心が失われてしまう…私たちもまたそのような者であるのです。そして主は、「どこから落ちたかを思い出し」なさいと言われるのです。初めの愛から離れる…それはまた、人々を愛すること、神の愛を与えることにおいてです。キリストがいのちさえも私たちに与えてくださったことを、無条件の、犠牲的な愛を示してくださったことを忘れて、私たちもまた、自己中心の生き方に戻ってしまうのです。しかし主は、「初めの行いをしなさい」と言われるのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである」と教えられた、ご自身の生き方にならう者であるよう求めているのです。あなたの行い、労苦、忍耐を知っていると、主は、エペソの教会に賛辞のことばを語られていますが(2節)、一方で、その現実との戦い、仕えることから退いて、あのマルタの妹のマリヤのように、ただ主のみもとで、静まり、親しく交わるように促しているのかもしれません。そしてそれは私たちにとっても大切なことであるのです。燭台を失わないよう(5節)、光を求め続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 1章9-20節◇(11月21日)

「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」…黙示1:17-18

この黙示録を書き記した主イエスの弟子ヨハネは、捕らえられ、ひとりパトモスという島に送られました。そのような苦難と孤独の中にいた彼はある日、あなたが見聞きすることを巻物に書き記して7つの教会に送れと、大きな声から命じられたのです。それは彼が、神の御旨とご計画を伝えるための重要な役割を、そのところで担わされたということです。そのヨハネが最初に見せられたもの…それは7つの金の燭台とその真ん中にいる方でした。7つの燭台は7つの教会を表わしており(20節)、真ん中にいる人の子のような方とはキリストです。金の帯を締め、白い髪と燃える炎のような目を持ち、足は真鍮のようで、鋭い両刃の剣が口から出て、太陽のように輝く顔のお方を、ヨハネは見たのです。彼はその姿に圧倒され、足もとに倒れてしまいました。「恐れるな」と、そのヨハネにキリストは言われました。それは自分が地上から取られるのでは…という恐れ、その後どうなるのかという恐れ、また迫害されている仲間の身を案じる思い、などであったことでしょう。しかし、「わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている…」と、キリストは、恐れていたヨハネに対しさらにそのように語られたのです。すべてのものを創造し、やがてそれらを新しくされる方…死に打ち勝ち、今も生きていて、すべてを治めている方…義なる者をみもとに招き、悪者を永遠の死に至らせる方…教会と、贖われ召し集められた者たちの真ん中におられ、ご自身の民を守り、支え、勝利へと導いてくださるお方…ヨハネは、主がそのような方だとあらためて知ったのです。そのキリストは今も私たちの歩みの真ん中におられます。「恐れるな」、「私は生きている」…と言われるのです。そのキリストの声をしっかりと聴いて歩みたいと思います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 1章1-8節◇(11月20日)

「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」…黙示録1:3

ヨハネの黙示録を今日から読んでいきます。この書に啓示されている内容を理解することは、私たちにとって必ずしも容易なことではありません。また、そこに書かれていることは、終わりの日、イエス・キリストの再臨のときに起こることがヨハネに幻のうちに示されたことであるため、私たちは、ともすれば、遠い将来のこと、自分には無縁のものとして遠ざけてしまうのです。しかし、1節にあるとおり、この書は、「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったもの」であって、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いなのです。再臨の日は確かに近づいていますが、実際にいつ起こるのかは誰にもわかりません。もしかすると明日かもしれないのです。花婿を迎える10人の娘のたとえが思い起こされます。5人の愚かな娘たちは、ともしびを持っていましたが、油を用意していなったため、いざ花婿が来たときにともしびを整えることができず、それを用意していた残りの5人の賢い娘たちからも油を分けてもらえず、油を買いに行っている間に、婚礼の祝宴の戸は無情にも閉められてしまったのです(マタイ25:1-12)。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る」(7節)。主イエスを実際に突き刺したのはローマ兵でしたが、キリストが十字架にかかり血を流されたのは、神に背を向けていた私たち、すべての人のためであり、私たちを愛して、その血によって罪から解き放ち、私たちを王国とし、祭司とするためだったのです。その主は、天地を新しくするため花婿として再び来られ、教会を、私たちを、花嫁として迎えてくださるのです。そのことをしっかりと心に留め、油を絶やすことなく、再臨の主を待ち望み続ける者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 143篇◇(11月18日)

「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。」…詩篇143:5

詩人は依然として敵の迫害の中に置かれています。たましいが追いつめられ、霊的な圧迫を受け、闇に引きずり込まれて光が見えなくなってしまい、「それゆえ 私の霊は私のうちで衰え果て、心は私の中で 荒れすさんでしまいました。」とあるとおり(新改訳2017)、詩人の霊も心も、つらい試練が続く中で弱ってしまっていたのです。そのような状況において詩人が取った行動…それは、自暴自棄になって神への信頼をやめることではなく、それまで主がなされたすべてのみわざを思い巡らし、また歴史に刻まれた主の偉大さをみことばから知り、主がどんなに恵み深く、あわれみに満ちておられ、無に等しい自分に目を留めてくださる真実なお方か…そのことを主の前に静まり黙想することだったのです。「あなたに向かって…手を差し伸べ…私のたましいは、かわわきった地のように、あなたを慕います」(6節)。静まりと黙想を経て、詩人は主に向き直っています。主がなされた過去のみわざに思いを向けることにより、その主がこれからも変わることなく自分に関わり続け、最善をなしてくださるということを教えられたのです。閉ざされていた目が開かれ、励ましを受けたのです。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩103:2)。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザ30:15)。心が騒ぐとき、いても立ってもいられないとき、あえて主の前に静まるのは難しいことかもしれません。しかし主は、私たちに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、一生を良いもので満たしてくださるお方なのです。慌てふためくことなく主に信頼する者は力を得るのです。主は、私たちの思いを越えた不思議な方法をもって、試練からの脱出の道を備えてくださるお方なのです。

主からの平安と祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 142篇◇(11月17日)

「私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。」…詩142:1-2

詩人の叫びが心に留まります(1,5,6節)。叫びとは、心の中の情動が、それを抑えようとする理性を突き破って、外へとほとばしり出るものです。詩人は敵からの迫害を受ける中で、そのような叫びを、主に向かってあげたのです。そして詩人は、主の御前に隠すことなく、自分の嘆きと苦しみをすべてさらけ出したのです。なぜなら誰からも顧みられない状況にあっても、逃げ込む場所がどこにも得られないと思われても、主だけは自分の歩んでいる道を知ってくださり、避け所となって敵からかくまってくださるからです。そのような中で、詩人は自分の心とたましいが、不安と恐れから解放されていくのを感じていました。目に見える現実の厳しい状況は変わらなくても、それが全能者の御手のうちにあることを示され、嘆きと苦しみの叫びは、賛美と感謝の声へと変えられていったのです。そしてその声を聞きつけた神を敬う者たちもまた、詩人の回りに集まって、ともに主の御名をほめたたえる…そんな光景を、詩人は主から幻として示されていたのです(7節)。主は今、私たちに対しても、心の殻を破って、主に叫びの声をあげるよう促しておられます。自分の内側にさまざまな思いを抱え込むのではなく、主の御前にすべてをさらけ出すことが大切なのです。実際にことばを口に出して、声をあげて、ときには叫びをもって、主に思いをぶつけるのです。主に叫ぶことを遠慮したりためらってはならないのです。主に「叫び」、「声をあげ」、「言い表し」た中で、「正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです」と、そのような告白をする者へと詩人は変えられたのです。

主はいつもともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 141篇◇(11月16日)

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」…詩篇141:5

悪者からのさまざまな迫害にあっていた詩人は、この詩篇においてはその悪者のさばきではなく、まず自分の内側が悪から守られるよう願っています。「私のくちびるの戸を守ってください」(3節)、「私の心を悪いことに向けさせず」(4節)…と。自らのことばと思いが御旨にかなうものとなるよう、まず主の前に祈り求めるのは大切なことなのです。5節のことばに心が留まります。新改訳2017では、「正しい人が真実の愛をもって私を打ち頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように」とあります。またリビングバイブルでは、「神様を敬う人のきびしい忠告は、親切心から出たものです。非難されたように感じても、結局は薬となるのです。ですから、拒絶反応を示してしまいませんように」とわかりやすく訳されています。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め…」とパウロも言っています(コロ3:16)。戒められる者は、自分の足りない点、気づかない点を教えてもらい、成熟した者となることを感謝する心、へりくだった思いを持つことが求められます。また戒める者にも、相手を裁いたり見下すことなく、主の教えを分かち合う、真実な愛が求められるのです。そして、「互いに」とあるように、別なときには、その立場が逆になることも、もちろんあるのです。そのように互いに戒め合う中で教えられる真理は、頭に注がれる油(別訳:「最上の油」…脚注参照)です。それは、神が人を通してその恵みにあずからせ、神のみこころにかなう者としてきよめ、整え、ご自身の働きに尊く用いるために与えるものなのです。感謝をもってそれを主から受け取りたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 140篇◇(11月15日)

「私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。」…詩篇140:7

詩人の訴え、それは、よこしまな者、暴虐の者、高ぶる者である悪者の手から、自分を守ってください、ということでした。彼らは詩人に日々戦いを仕掛けており、彼らの鋭い舌、毒が下に隠されているくちびる、すなわち、暴力的、破壊的なことばによっても詩人を傷つけ、いのちを奪おうとしていたのです。7節のことばが心に留まります。詩人は、救いの力である神が、武器をとる日に、つまり戦いに出て行くときに、自分の頭を覆ってくださったと告白しています。それを起こったこと、完了形として書いているのです。過去にそのような経験があったのかは不明ですが、詩人は神の守りを信じ、決して疑わなかったのです。人体の中でも頭はとりわけデリケートな部分です。ちょっとした衝撃でも大きな損傷を受けてしまいます。戦いにおいて、敵の投石や槍が上から来ると真っ先に傷つきますが、その頭を防護するために必ずかぶとをつけるのです。詩人は、主が頭を覆われる、主ご自身がかぶととなり、敵の攻撃から守ってくださったと告白しています。それに対して敵は、高ぶってかぶとをつけないので、彼らのくちびるの害毒が自らの頭を覆うのです(9節)。少年ダビデが巨人ゴリヤテと戦ったとき、サウルは自分のよろいかぶとを着せようとしましたが、ダビデは、借り物の武具は慣れていないからと言ってそれを脱ぎ、石投げ一つで戦って勝利しました。人からの借り物、人間的なものに拠り頼むのではなく、主に信頼する者は、打ち負かされることはないのです。主ご自身がかぶととなり、敵から守ってくださるからです。野球やバイクでは耳まで覆うヘルメットが使われますが、主は、人の否定的なことばからも、私たちの心と思いを守ってくださる方なのです。「救いのかぶと」(エペ6:17)をしっかりかぶり、悪者の攻撃に備えたいと思います。

主の祝福と守りがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 48章◇(11月14日)

「町の周囲は1万8千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる」。…(エゼキエル48:35)

ついにエゼキエル書の最後の章となりました。ここではイスラエルの12部族に対する、土地の新しい割り当てが記されています。そこを読んであらためて気づかされることは、領土全体の範囲は、かつてイスラエルの民が、荒野を通って入り定住したカナンの地と比べて、増えも減りもせずにほぼ同じであるということ、しかし、12部族への具体的な区分けについては、当時のかなり入り組んだものとは異なっており、奉納地、聖所(神殿)が置かれた特別区を中心に、北に7部族、南に5部族への割当地が、東西に引いた線ですぱっと切り分けたかのように、整然と区分けされているということです。それは、イスラエルに対する永遠に変わらない主の愛顧と、まったく新しい天と地、永遠の都として回復される、終末的な天の御国を現しているということです。昨日の箇所である47章でも、神殿から流れ出る「すべてのものが生きる水」は、黙示録22章の、御座から出る「いのちの水」と類似していましたが、48章31-34節に書かれている町の四方の3つの門は、黙示録21章13節の東西南北の3つの門と同じです。最後の35節には、その町が「主はここにおられる」(「アドナイ・シャマ」、「インマヌエル」)という名で呼ばれるとあります。主の臨在と主権による統治が、エルサレムに永遠に現されるということです。それを、イスラエルの民だけでなく世界中の民が認めて、「主はここにおられる」と告白するようになるのです。預言者エゼキエルと当時のイスラエルの民は、その実現を見ずに地上の生涯を終えました。しかし、天を見上げて永遠への希望を持ち続けたのです。私たちも、インマヌエルなる主の助けと導きを受け、御国を見上げつつ、荒野を歩み通したいと願います。

永遠への思いが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 47章◇(11月13日)

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」…エゼキエル47:9

47章前半には、「すべてのものを生かす」水、その豊かな流れのことが記されています。エゼキエルが実際にその中に入ってみると、最初は足首までしかありませんでしたが、ひざ、腰と、その水かさはどんどんと増えて行き、ついには泳げるほどの豊かな流れとなったのです。その水は主が臨在される神殿から流れ出ていました。そしてそれは豊かな流れの川となり、その両岸には枯れない葉をつけた果樹が生い茂り、毎月新しい実をつけて民の食物となり、さらにその葉は病をいやす薬となったのです(12節)。黙示録の22章2節にも、都の中央に川が流れており、その両岸にあるいのちの木に12種の実が毎月なり、その葉は諸国の民をいやすという記述がありますが、エゼキエルが見せられた幻は明らかに、終わりの日に完成する永遠の都を示しているのです。そしてその川は東の地域に流れていき、アラバに下って海に入るとありますが(8節)、海とは死海、塩の海(別名:アラバの海)のことです。死海はまさしく死の海です。塩分の濃度が非常に高く、硫黄も含まれているため、魚は住むことができません。しかしその川が注ぐと、すべてのものが生きるのです。死がいのちへと変えられるのです。主イエスはこう言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)。それはキリストを信じる者に与えられる御霊のことです。神の息が吹き入れられ干からびた骨が生き返るという、エゼキエルが見た幻も思い起こされます(エゼ37:10)。死をいのちへと変える…それは、キリストの十字架と復活によりなされた神の贖いのみわざにほかなりません。そしてその救いのご計画は、死からいのちへの回復は、創世記から黙示録まで聖書全体に示されているのです。その良き知らせを人々に伝えていきたいと願います。

主の豊かな祝福がありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 45章◇(11月11日)

「彼(君主)はイスラエルの家の贖いのため、罪のためのいけにえ、穀物のささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげなければならない」。…エゼキエル45:17b

新しい神殿において「聖なる奉納地」を設けるよう、主は命じています。それは祭司たちのものであり、同面積の地がレビ人たちにも与えられています。さらにその両側には君主たちの土地があります。そのように祭司、レビ人、君主たちに対して、専用の土地が割り当てられているのは、彼らがさまざまな欠乏によって煩わされることなく、心を定めて神と人々に仕えるための神の配慮です。後半の17節、また22節以降においては、君主がいけにえをささげるように定められています。しかしそれは本来、祭司としての務めであり、君主、つまり王がそれを行うことは越権行為であって、旧約の時代においては認められていなかったのです。サウル王が勝手に全焼のいけにえをささげたとき、あなたは愚かなことをした…あなたの王国は立たない…とサムエルに言われたことを思い出します(1サム13章)。君主が祭司の務めをも行うようになることの意味…それは、この君主がまことの王であり、かつ、すべての民の贖いを成し遂げられた大祭司であるイエス・キリストであるということです。またそれは、そのキリストがダビデの子孫として生まれ、新しい神殿では、ダビデ王の幕屋の礼拝、すなわち、主の臨在を象徴する契約の箱の前に人々が出て喜び踊った礼拝が、回復されることの預言なのです。実際ダビデ王だけは、君主として祭司の務めをも行い、主の前にいけにえをささげました(2サム6:17)。さらに、君主が祭司の務めを行うようになるということは、両者のそれぞれ務めが、キリストにあって、統合されていくという意味でもあると考えられます。祭司である教会とキリスト者が、置かれているところで、主の恵みを周りに分かち合い、祝福を押し流すことは、また、祈りによって国や世界のためにとりなすことは、とりもなおさず社会や国家に対する貢献であり、神の国を拡大していくことにほかならならないのです。そのような意識で神と人々に仕えていきたいと思います。

御国が来ますように。さらに拡がっていきますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 44章15-31節◇(11月10日)

「彼らは、わたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を教えなければならない。」…エゼキエル44:23

15節にはこのように書かれています。「しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる」。ツァドクはソロモンに油を注いだ祭司でしたが、その子孫のレビ人の祭司たちは、14節以前に記されている不忠実な祭司たちとは異なり、主の聖所の任務をきちんと果たしたゆえに、主に近づき直接仕えることがゆるされるのです。「わたし」ということばが繰り返され、彼らが主の御旨にかなう者であることが強調されています。17節以降には、祭司が自らをきよく保つために、主が定められた細かい規定が記されています。20節には「頭は適当に刈らなければならない」とありますが、新改訳2017では「頭の毛はきちんと切りそろえなければならない」と訳されています。中途半端、いいかげんではなく、適切に、きちんとするあり方が、祭司として求められているのです。23節では、民に、聖なるものと俗なるものとの違い、汚れたものときよいものとの区別を教えよとあります。もちろん、祭司の役割はそれを示すだけではなくて、汚れたもの、俗なるものから離れるように、聖なるもの、きよいものを追い求めるように民に指導することであり、そのためにもまず自らが、聖なる者、きよい者である必要があったのです。そしてそれは、聖なる祭司とされている私たちにも、同じように求められていることなのです。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう」(マタイ5:13)。主イエスは弟子たちに、「塩の働きをします」ではなく、「塩です」と言われたのです。主からあたえられた任務をきちんと果たすため、どのように世と関わるべきなのか…そのことを今一度みことばから教えられたいと思います。

一人ひとりの存在を主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 44章1-14節◇(11月9日)

「人の子よ。主の宮のすべての定めとそのすべての律法について、わたしがあなたに告げていることをことごとく心に留め、それに目を注ぎ、耳を傾けよ。宮に入れる者と、聖所に入れないすべての者を心に留めよ。」…エゼキエル44:5

主は、新しい神殿を見せたエゼキエルに対し、主の宮のすべての定めと律法を心に留め、だれが宮に入る資格がある者なのかを、きちんとわきまえるようにせよと言われました。7節において、「あなたがたは、心にも肉体にも割礼を受けていない外国人を連れて来て、わたしの聖所におらせ、わたしの宮を汚した」と、主はイスラエルの民を非難していますが、それは、周辺諸国によって神殿が汚されたことではなく、神殿の務めはレビ人である祭司が本来すべきなのに、その一部を「雑用」として異邦人にさせていた、そのことが指摘されているのです。かつて建てられた実際の神殿においては、肉体に割礼を受けていない異邦人はすべて、神殿の奥にまで入ることはゆるされませんでした。しかし新しい神殿では、心に割礼を受けた者、すなわち、自らの罪深さを覚えて神に立ち返り、キリストの十字架と復活による贖いを信じ、主にすべてを明け渡してその教えに聞き従う、そのような者であればたとえ異邦人であっても、大胆に恵みの御座へと近づくことができるのです。パウロもこのように言っています。「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ロマ2:29)。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」(ピリピ3:3)。神殿の奉仕に、どうでもよい「雑用」などありません。日々、置かれているところで神と人とに忠実に仕える、主の教えに聞き従い世俗的なものに染まらず、人間的なものに頼らずひたすら主に拠り頼む…それこそが聖霊の宮の祭司としての「務め」であり、人目に隠れていてもその者を主は喜ばれるのです。主から委ねられた任務をしっかり果たす者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 43章◇(11月8日)

「7日間、あなたは毎日、罪のためのいけにえとして雄やぎをささげ、傷のない若い雄牛と群れのうちの傷のない雄羊とをささげなければならない。」…エゼキエル43:25

43章には、新しい神殿に主の栄光が現われること、祭壇にささげるいけにえについての記載があります。その主の栄光は、大水のとどろきのような音とともに東のほうから現れ、神殿に満ちたとあります(2-5節)。そのような幻をエゼキエルは見せられたのです。主は彼に語りかけられました。7節、「ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である」。そしてさらに9節、「彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう」と言われたのです。汚れたもの、主に喜ばれないものを取り除くことは、その新しい神殿が意味している教会、聖徒たちにとって、その神殿が完成するときまで継続すべきことなのです。18節以降を見ると、神殿には依然として祭壇があり、いけにえをささげるよう命じられています。新しい神殿に隔ての幕や契約の箱がないなら、祭壇やいけにえも同じように不要なのではないか…もとよりキリストが一度限りの完全ないけにえとして、ご自身をささげられたはずでは…と私たちは思いますが、その命令は、キリストの贖いを記念し常に覚える意図があるのです。主は最後の過越の食事の席でパンを取り言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」(ルカ22:19)。実際に教会は主のことばに従って聖餐式を行い続けています。イスラエルの神は何よりも礼拝されるべきお方であり、礼拝は黙示録にあるとおり、天の御国へと続いて行くのです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ12:1)。毎日、私たちの贖いとなられた神の小羊を覚え、感謝し、自分自身を、聖い供え物、いけにえとして主にささげる…そのような「礼拝する民」を主は求めておられるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 42章(11月7日)

「 祭司たちは聖所に入ったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。」…エゼキエル42:14

エゼキエルが幻で見せられた神殿には、北側と南側の部分に「聖なる部屋」がありました。そこは、祭司たちが聖なるささげ物を食し、ささげる穀物や罪と罪過のためのいけにえを置き、奉仕の服に着替えるために使われました。奉仕後は元の生活着に着替えることが求められ、神聖な奉仕の衣装のままで外庭に出て行って、民に近づくことは固く禁じられていたのです。また20節にあるように、神殿の外壁が、聖なる神殿とその外側の世俗の領域を明確に区別するために、建てられていたのです。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(1ペテ2:9)。私たちもまた、キリストの血潮によって贖われ、聖なる主の民、祭司とされた者たちです。義の衣を着せられて、自由に至聖所の中へ入り、大胆に神の前に出て、親しく交わることができます。一方、神の聖なる性質は変わることがありません。主を畏れることをないがしろにしてはならないのです。普段着のまま、つまり、キリストによって罪赦され、義とされている者であることを感謝することもなく、当然のように聖所にずかずかと入って行かないように、また、外壁の外の世俗に染まってしまわないように、意識して壁を設け、「区別」することが大切なのです。「この世と調子を合わせてはいけません」(ロマ12:2)。現代はネット社会です。SNSと呼ばれるツールにより、人々と絶えずつながることが当たり前になっています。そしてともすれば聖なる祭司である私たちもまた、主とのつながりよりもそちらを優先させてしまうのです。目覚めたら、新しい朝を迎えられたことを主に感謝し、賛美し祈るよりも、枕元のスマホに手が伸びるのです。何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、それをしっかりわきまえ知る者とされたいと願います。

聖霊さまの助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 41章◇(11月6日)

「彼はまた、本堂に面して長さ20キュビト、幅20キュビトを測って、私に『これが至聖所だ』と言った。」…エゼキエル41:4

エゼキエルが見せられた神殿の幻の続きです。41章では本殿(本堂)について記されています。ソロモンによる最初の神殿と同じように、手前には聖所、奥には至聖所があって、聖所の奥行きは40キュビト、幅は20キュビト、至聖所の奥行きと幅は20キュビトで正方形でした。その寸法と形もソロモンによる神殿と同じです。主はとこしえからとこしえまで変わることがなく、ほむべきお方、礼拝されるべきお方なのです。一方、エゼキエルが見せられた神殿では、聖所と至聖所を隔てる幕がなく、また、至聖所の中には契約の箱も置いてありません。契約の箱は主の臨在の象徴であり、大祭司だけが年に1度、その前に出て、民の罪のためのとりなしを祈りをささげ、動物のいけにえの血をそこに振りかけるのです。その契約の箱と隔ての幕がないということは、この神殿が、キリストの贖いにより生まれる教会、聖霊の住まわれる宮である聖徒たち、そして、永遠の神の都を予見させているということです。主は、最後の過越の食事の席で弟子たちに、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました(ルカ22:20)。また、主が十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。キリストが十字架にかかり血を流されたということは、すべての人の罪が赦されるようとりなしをするため、大祭司として至聖所に入り、契約の箱の贖いのふたに、罪のないご自身の血潮を注がれたということなのです。罪人である私たちが、キリストを通し、何の隔てもなく、いつでも自由に神のみもとに大胆に進み行き、主と親しく交わることができるということなのです。そして、私たちはキリストの復活のいのちにあずかり、天の御国において永遠に主とともに生き、主に賛美と栄光と誉れをささげる者となるのです。教会と聖徒たちにもたらされた祝福を覚えたいと思います。

御名があがめられますように。御国が来ますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 40章1-23節◇(11月4日)

「私たちが捕囚となって25年目の年の初め、その月の10日、町が占領されてから14年目のちょうどその日、主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。」…エゼキエル40:1

40-42章には、エゼキエルが主から見せられた神殿の幻について記されていますが、その解釈として、直訳(字義どおり)か象徴的な意味か、またその実現の時期が捕囚期後か未来(教会時代・終末)かによって、大きく分けて4つのとらえ方があります。複合的にすべて含まれるとする立場もあります。いずれにしても、その預言は5節以降にあるように非常に具体的であり、エゼキエルは確信を持ってそれを受けとめ、民に知らせたに違いありません。彼にその幻が示されたのは、町が占領されてから14年目の「ちょうどその日」でした。もちろんそれは偶然ではなく、明らかに主が意図されたことです。主は、民の持つ絶望を希望に、悲しみを喜びに一気に塗り替えるべく、その日を選ばれたのです。すべてがご自身の御手にあることを示されたのです。また「神々しい幻」(2節)という表現も印象的です。それはあたかも神の元に引き上げられたかのように、主の栄光と臨在が満ちあふれる中で、主権者なる神が確かにそのことをなされると疑わない…そのような強い信仰がエゼキエルに与えられたことを示唆します。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者の書3:1)。主は、ときを支配しておられるお方です。私たちの歩みの中で、「ちょうどその日に」、「ちょうどそのときに」、さまざまな事をなされるのです。それは偶然などではなく、意図的な主のご計画です。そのことを通して主は、全知全能なるご自身を啓示し、私たちが確信のうちに御旨に従うようにされるのです。その主は、今も私たちの失望を希望に、悲しみを喜びに、実際に塗り替えてくださる主権者なるお方であり、弱い私たちに信仰をも与えてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 39章◇(11月3日)

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。」…エゼキエル39:25

ゴグに対する神のさばきの記述が続きます。主は彼らの手から弓と矢をたたき落とし、イスラエルの野や山々に倒れた部隊や民は、猛禽や野獣のえじきとなってしまうのです。おびただしいその遺体を谷に埋めるのに7ヶ月、武器を火で燃やすのに7年間かかるとあります。そもそもイスラエルが神に不信の罪を犯したので、民は諸国の敵の手に渡され、捕らえ移され、イスラエルの山々が彼らに蹂躙されたわけですが、その後にゴグがそのようにさばかれるのは、主がご自身の聖なる名をイスラエルに知らせ、その聖なる名をそれ以上汚させないためであり、諸国が主は聖なる方だと知るためなのです(7節)。そのすべては主の主権によりなされることなのです。25節は新改訳の異なる版ではこう訳されています。「…今わたしは[ヤコブの捕らわれ人を帰らせ(2版)、ヤコブを回復させ(2017)]、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの[聖なる名への、わたしのねたみによる。(2017)]」。ねたみとは、怒りです。憤りです。主は、ご自身の名が汚されることに対して、それほどまでに激しい感情を持ち、主みずから、その御名が聖とされるように熱心に働かれるのです。そしてそのためにイスラエルは回復されるのです。捕らわれていた私たちが救われ回復されることにより、主の聖なる御名が人々に知られあがめられていく…それは旧約の時代から変わらない神のみこころです。ねたむほどに熱心にそのことをなされる主のご支配が、きよめの働きが、私たちのうちにいよいよなされるよう、日々、主に祈り求める者でありたいと思います。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 38章◇(11月2日)

「ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。」…エゼキエル38:16

38,39章には、「ゴグ」がイスラエルを攻めるという預言が記されています。そのときイスラエルは、敵の剣の災害から立ち直っており、民は国々の民の中から連れ出されて、廃墟だったイスラエルの山々に安心して住んでいるとあります。ゴグは城壁さえないその町、平和な国に侵入し、獲物をかすめ奪い腕力をふるおうとしますが、神により疫病、流血が起こされ、火や硫黄が降り、さばきを受けることになるのです。そしてその目的は、全人類がイスラエルの神を知るようになることです。このゴグとマゴグは黙示録20章8節に出て来ます。そこでは地の四方にある諸国がゴグとマゴグであり、サタンが彼らを惑わし召集するとされています。このゴグが具体的にどこの国を指すかは不明ですが、北の果てから来る大軍勢だとあります(エゼ38:15)。いずれにせよ、神に敵対する悪しき者の勢力に違いありません。黙示録によれば、彼らは聖徒たちの陣営と愛された都を取り囲みますが、天から火が降って来て、焼き尽くされてしまうのです。エゼキエルの預言と、ヨハネが見せられた幻が完全に一致していること、神のご計画の一貫性にあらためて驚かされます。黙示録には、彼らを惑わしていた悪魔も結局、火と硫黄との池に投げ込まれ永遠に苦しみを受ける、とあります。それは敗北者としての悪魔の姿です。預言のことば…それは私たちにとって気休めではなく、必ず実現すること、神が約束された確かな事実です。そしてそれは、キリストにあってすでに始まっているのです。世界に起こるさまざまな事象に驚いたり恐れることなく、神の御旨とご計画をみことばからしっかりと教えられ、求められている働きを全うする者でありたいと願います。

遣わされたところでますます主に用いられますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 37章◇(11月1日)

「神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」…エゼキエル37:5

37章の前半(1-14節)において、干からびた骨が生き返ることが書かれています。主によって谷間に連れ出されたエゼキエルは、そこでひどく干からびた無数の骨を目にしました。そしてその骨に向かって、主が息を吹き入れるので生き返ると預言するように、主から命じられたのです。彼がその通りにすると、大きな音がとどろき、その枯れた骨が互いにつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をおおいました。しかし、その中に息はありませんでした。そしてさらに、「息よ、四方から吹いて来い」と彼が命じると、息が入って生き返り、彼らは立ち上がったのです。「この殺された者たちに吹きつけ…」とあります(9節)。干からびた骨とは、殺された者たちのことですが、それは必ずしも肉体的な死を意味していません。それは神の霊が吹き込まれていない状態のことです。骨がつながり、肉が生じても、息が入るまでは生き返らなかったことが、それを示唆しています。そしてその息とは神の霊のことです(14節)。すべての人は、神の霊が吹き込まれることにより、本当の意味で生きる者とされるのです(創2:7参照)。「望みは消え失せ(た)」と骨はつぶやきましたが(11節)、真の希望がなければ人の心は干からびてしまうのです。また息とは、神の口から出るみことばでもあります。主イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と、申命記のことばを悪魔に突きつけました(申8:3)。日々、主の御霊に満ち、みことばを与えられ、主の息吹を受けて生きる者とされたいと願います。

主の豊かな祝福がありますように。