◇聖書箇所: 詩篇 149篇◇(12月30日)

「主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。」…詩篇149:4

短い詩篇ですが、2つの部分に分かれています。前半は、主に新しい歌を歌えという呼び掛けで始まり、造り主にあって喜べ、王にあって楽しめと続き、踊りをもって御名を賛美せよ、タンバリンと立琴によって主にほめ歌を歌えと、聖徒たちをさらに主への賛美へといざなっています。そしてそれは4節にあるとおり、主がご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られるからなのです。ここでもバビロン捕囚からの解放が示唆されています。「貧しい」とは、物質的な貧しさというよりもむしろ、心の貧しさであり、異国の地での試練と困難の中で、失望し、落胆し、意気消沈していた主の民が、解放と救いのみわざを体験し、エルサレムに帰還し、一転して感謝と喜びに満たされることが、「飾られる」(「装われる」:新改訳2017)ということの意味なのです。後半は前半とはだいぶ調子が異なっています。「彼らの手にはもろ刃の剣があるように」とありますが、それは実際に武器を持って戦うというのではなく、前半の4節にあるように、主ご自身が救い主であり、預言者を通して語られたご自身のことばを成就され、敵からの解放と勝利をもたらしてくださるお方であって、その真実な神を賛美し、神のことばを宣言する中で、、神ご自身がさばきを行われる(9節)ということなのです。私たちもまた、さまざまな問題や困難に直面します。しかしそこでまず私たちがなすべきことは、武器を取り、戦いの最前線にすぐ飛び出して行くことではないのです。主権者なる神に賛美をささげ、その御名をほめたたえ、神のことばを握って確信すること、宣言することなのです。戦って勝利を与えてくださるのは主ご自身だからです。「彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように」ということばを心に留めたいと思います。

主がいつもともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 148篇◇(12月29日)

「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。」…詩篇148:5

3番目のハレルヤ詩篇です。1-6節では、天にあるさまざまなものに向かって、「主をほめたたえよ」と、詩人は促しています。それは、御使い、天の軍勢、太陽、月、星、天とその上にある水などであり、それらはすべて、主がみこころのうちに造られた被造物なのです。7-13節では、今度は地にあるさまざまなものが、同じく、「主をほめたたえよ」と促されています。それは、海の巨獣、火、雹、雪、山々、木々、獣、はうもの、鳥といった、自然界やそこにいる生きものであり、王、国民、老若男女の人々です。それらもすべて、主によって創造されたのです。どちらにも、「彼らに主の御名をほめたたえさせよ」と、結論としてのことばが書かれています(5,13節)。それらの被造物は、主が存在を現すことを願われ、ことばをもって命じて造られたのであり、その主の御名だけがあがめられるべきなのです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」というヨブのことばが思い浮かびます(ヨブ1:21)。私たち一人ひとりもまた、神が願われ、計画され、この世に生を受けた者です。そして主は、ご自身のみこころのうちに「与え、取られる」お方なのです。今年も、多くの与えられたものがありました。その一方で、取られたものもあったはずです。しかしそれは、失ったのではなく、主が取ることを良しとされたのです。それが神のみこころであったのです。主は真実であられ、最善をなしてくださるお方です。主が取られたものを人間的な思いで惜しむことなく、主がすべてのことを働かせて益としてくださることを覚え、その主の御名をほめたたえる者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 147篇◇(12月28日)

「主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。」…詩篇147:19-20

2番目のハレルヤ詩篇です。1-6節、7-11節、12-20節の3つの部分に分かれ、それらはいずれも、神への賛美の招きのことばで始まり、正しい者、神に信頼する者と、そうでない者を対照的に示すことばで閉じられています。また2節や13節のことばから、時代背景として、バビロンからの帰還を果たした民が神殿を再建し、平和と祝福が回復された状況が示唆されています。そこで歌われているのは、主の偉大さであり、創造のわざをなされ、自然界を今も支配し、生けるものに食物を与えるその恵み深さです。また、詩篇146篇にも「君主たちにたよってはならない」とありましたが、「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」とあるとおり、地上的、人間的なものに頼るのではなく、主を恐れ(畏れ)、待ち望む者となることの大切さです。そのような主の御旨、救いとさばき、祝福とのろいは、すべて神のみことばによって明らかにされています。それは最初にイスラエルの民に律法として与えられ、2千年前にキリストがそれを成就し、新しい契約としての神の国の福音が、すべての国の民に与えられたのです。そしてその福音を信じて、私たちは救いを受けたのです。20節のことばは、その私たちにとって、自分たちが神に選ばれた者、救われた者であると、霊的イスラエルとしての特権意識を持つためのものではもちろんありません。それは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と主イエスが弟子たちに命じられたとおり(マルコ16:15)、神の国がさらに拡大し、建て上げられるよう、みことばを人々に伝えよう…という主の促しなのです。祝福を分かち合うべく宮の外へ出て行きたいと思います。

遣わされている所に主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 146篇◇(12月27日)

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」…詩篇146:5

詩篇146篇~150篇は「ハレルヤ詩篇」とも呼ばれ、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わっています。私たちの日々の歩みもまた、「ハレルヤ」と主をほめたたえることから1日を始め、「ハレルヤ」と1日の恵みを主に感謝して終える、そのようなものでありたいと思わされます。「君主たちにたよってはならない」(3節)。詩人は君主、つまり地上の王たち、ひいては人間的なものに頼ることの空しさを語っています。どんなにすぐれた才能を持つ偉大な王であっても、その者を母の胎に形造り、この世に生まれさせ、生かしてくださっているのは神なのであって、死を迎えるならただちに土に帰ることとなるのです。立てられていたもろもろの計画は滅びうせるのです。「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」。それに対して、ヤコブ、つまりイスラエルの神は、天地万物を創造し、とこしえまでも真実なお方であって、この方に拠り頼み、望みを置く者こそ幸いな者なのです。その希望が失望に終わることは決してないのです。盲人、在留異国人、みなしご、やもめ…(8,9節)。それらの者たちは、人からさげすまれ、疎んじられ、社会からのけ者にされている人々です。しかし、「主は…」、「主は…」と詩人が強調しているとおり、主は神に望みを置くそれらの者たちを愛し、あわれみ、いつもともにあって、守り、支え、養ってくださるのです。私たちは何に望みを置いて歩んでいるのでしょうか…何に頼り、支えとして生きているのでしょうか…「君主たちにたよってはならない」とあります。私たちが頼るべきは、自らの能力でもなく、財産でもなく、仕事に打ち込んで得られる職位や待遇でもなく、神さまなのです。「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」という詩人のことばをじっくりかみしめつつ、新たな年を迎えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 145篇◇(12月26日)

「彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。 こうして人の子らに、主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。」…詩篇145篇11-13節

「私の神、王よ。私はあなたをあがめます」ということばで始まる詩篇145篇は、タイトルのとおり、ダビデの作とされていますが、ユダという地上の国の王であるダビデが、「王よ。私はあなたをあがめます」と賛美し、「栄光輝くあなたの主権」と語り、「あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます」と告白していることに心が留まります。そこに、神こそが王の王、主の主なるお方であり、その王国に地上の国のような栄枯盛衰はない…自分はその王なる神から一国の王として任じられ、民と領土を委ねられた…というダビデの謙遜を見ます。「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります」(8-9節)。神はまた、造られた者たちに恵みを注がれる方であり、すべての人はその恵みを覚えて感謝すべきなのです。一方で「主を呼び求める者すべてに主は近くあられる」、というダビデの告白のことばに心が動かされます。主は、私たちが主から与えられている恵みに満足し、それをよしとし、そこに留まってしまうのではなく、さらに積極的に主を呼び求める者となること、主の麗しい御顔を慕い求めてさらに主に近づくこと、深みに漕ぎ出していくことを願っておられるのです。今年もあとわずかとなったこの年の瀬において、主がくださった一つ一つの恵みを覚えて感謝するとともに、私たちの思いを越えたすばらしいみわざをなされる神とその王国を、さらに求め待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 2章13-23節◇(12月25日)

「…見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。…』。ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった。」…マタイ2:13-15(抜粋)

イエス・キリストのご降誕をお祝い申し上げます。クリスマスおめでとうございます。東方の博士たちが幼子イエスを訪ねて礼拝した後、御使いが夢でヨセフに現われて命じました。ヘロデが幼子を捜し出して殺そうとしているので、幼子とマリヤを連れてエジプトへ避難しなさい…と。そしてヨセフはその主の導きに従って速やかに行動し、幼子のいのちは無事に守られたのです。今日の箇所で繰り返されている3つの表現があります。1) 「夢で現われて言った・戒めを受け」(13,19,22節)、2) 「成就した・成就するためであった」(15,17,23節)、3) 「幼子とその母を連れて」(13,14,20,21節)、明らかにそれらをマタイはここで強調しているのです。神は確かにことばをもってご自身のみこころを示され、私たちを守り、助け、導かれるお方です(このときは「主の使い」がそのことばを取り継ぎました)。また、神が語られたことばは必ず成就するのです。マタイは、幼子の身に起こった一連の出来事が、すべて旧約においてすでに預言されていたことであり、それがその通りに実現したのだと伝えているのです。そして、ヨセフに行動を促すそれらのことばはすべて、「幼子とその母を連れて」という順序で語られました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と主イエスは言われました(マタイ6:33)。決して人間が第一になるのではないのです。常にキリストが第一とされ、中心に置かれべきなのです。その大切な原則を忘れずに歩みたいと思います。

クリスマスの喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 22章12-21節◇(12月23日)

「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」…黙示録22:20

「わたしはすぐに来る」という約束が心に留まります。それは22章の中で3回繰り返され(7,12,20節)、3章11節においてもすでに告げられていました。また10節には「時が近づいている」とあり、そのことばもまた、1章3節ですでに語られていました。黙示録の読者が受け取るべき使信として、最後に、主イエスが再び来られること、そしてそれは決して遅くなることはないということが強調されているのです。17節には、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。…」とあります。この「来てください」という元のことばは、「マラナタ」というアラム語です。そしてそれは、「御国が来ますように」という主の祈りに通じる願い、叫びです。王の王なるキリストの支配、統治が、完全になされますようにという告白です。そしてそのキリストの支配される領域はすべてであり、自分自身に対してももちろん例外ではありません。それはすべてを主に明け渡すことであり、主のみこころだけがなるように委ね切ることなのです。近い、すぐに来る、と告げられている以上、主がいつ再び来られてもよいようにと、私たちは、しっかり準備をしてそのときを待たなければなりません。「主の初臨(降誕)からもう2千年も経っているのに…」と、人間的に考えて油断したり失望すべきではないのです。主は真実なお方であり、その約束は必ず成就するのです。主の再臨に備えるとは具体的にどのようなことでしょうか。それは主イエスによる、花婿を迎える娘のたとえのように、油を用意してともしびを整えるということです。そして、眠ってしまうことなく目を覚まし続けていることです。それはつまり、聖霊さまの満たしとご支配の中に常に置かれ、その細き御声をしっかりと聴き取り、日常の些細なことも、聖霊さまの導きに従い、主のみこころを行い続けることです。「わたしはすぐに来る」。ここに聖徒たちの望みがあります。アーメン。マラナタ!と、日々祈る者でありたいと願います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 22章1-11節◇(12月22日)

「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」…黙示録22:3-4

いよいよ黙示録の最後の章となりました。ヨハネは、水晶のように光輝くいのちの水の川を見ました。それは御座から出て、透き通ったガラスのような純金でできた都の大通りの中央を流れていました。そして川の両岸にはいのちの木が植わっており、12種の実がなり、その葉は民をいやしたのです。預言者エゼキエルも神殿の敷居の下から流れ出る水を幻に見せられました(エゼ47:1-2)。また主イエスは、「わたしを信じる者は、…その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。都の大通りの真ん中に流れるいのちの水の川は、それらの幻、預言の完全な成就であるのです。エデンの園においても一つの川が流れており、園の中央にはいのちの木がありましたが、聖徒たちに、都に流れるいのちの水の川の両岸に植わったいのちの木の実を食べる権利が与えられ(22:14)、その木の葉がすべての民をいやしたことは、神がエデンの園においてアダムに与えた祝福が、都において完全に回復されることを表わしているのです。アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べたあと、主の御顔を避けて身を隠しましたが、それは彼らが、主を恐ろしい存在と感じるようになったからです。しかし彼らを惑わした蛇、サタンが火の池に投げ込まれ、もはやのろわれるものは何もない日が確かに来るのです。そして額に神の名がついている聖徒たちは、神の御顔を仰ぎ見、顔と顔とを合わせての親しい交わりを永遠に持つのです。「もはやのろわれるものは何もない」、「もはや夜がない」…それは新しいエルサレムの到来まで待たねばなりません。しかし、キリストの贖いによって罪赦された私たちはみな、今この地上にあっても、神の御顔を仰ぎ見ることができるのです。顔と顔を合わせて親しく交わることができるのです。試練の中でも希望の光に照らされて歩む者とされるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 21章9-27節◇(12月21日)

「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」…黙示録21:22

ヨハネが見た聖なる都、新しいエルサレムが詳しく描写されています。都には大きな高い城壁と、東西南北に3つずつ配置された12の門があり、その門にはイスラエル12部族の名が記されていました。驚くのは都の大きさです。それは12,000スタディオン、2,200kmという、北海道-九州の距離が一辺となる立方体の構造をした巨大なものです。ちなみに、旧約の神殿の至聖所は一辺20キュビトの立方体です。同様にその都は完全な形である立方体で、神の臨在に満ち、聖徒たちが神と会うことができるところとして備えられるのです。しかし新しいエルサレム、都には神殿はありません。なぜなら神と小羊なるキリスト自身が神殿となり、旧約の時代のようにもはや限られた空間ではなく、贖われた者たちはその都において、絶えず何の制限もなく、神と親密な交わりを持つからです。そしてその将来の都における祝福の先取りとして、キリストによって贖われた私たちは、聖霊の宮とされ、そこに住んでくださる主との豊かで親しい交わりにあずかる者とされているのです。城壁の土台石が宝石であることにも心が留まります。そこには小羊の12使徒の名が書かれてあります。旧約の祭司はエポデと呼ばれる衣装を着て、その胸当てにも12の宝石が埋め込まれていましたが、12の土台石は、旧約における神の民イスラエルと、キリストを信じて救われた異邦人を含む新約の神の民、二つのものが一つとされることを示唆しているのです。エポデの胸当ての12の宝石も(出エジ39:10-13)、都の城壁の土台石の12の宝石も(21:19-20)、すべて違う種類となっています。同じものはありません。それはイスラエル12部族(ヤコブの子どもたち)や、キリストの12使徒が個性豊かな者たちであり、かけがえのない高価で尊い存在であることの表れです。それは土の器の中にキリストという宝を入れている、私たち一人ひとりにも確かに当てはまることなのです。

主がそれぞれの働きを尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 21章1-8節◇(12月20日)

「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。』」…黙示録21:6

ヨハネは、新しい天と新しい地を見せられました。以前の天と地は過ぎ去って海もなくなりました。海は反キリストである獣が上ってきたところであり、深海の底は地上の光が届かない闇の世界であり、そのような所は取り去られるべきとされたのです。また彼は、聖なる都、新しいエルサレムが、花嫁のように飾られて天から下って来るのを見ました。花嫁のようにとありますがそれは教会ではなく、新約・旧約の時代、またユダヤ人・異邦人の区別なく、すべての聖徒たちが神とともに住む都なのです。さらにヨハネは御座から出る大きな声を聞きました。その声は、神の幕屋が聖徒たちとともにある、神は聖徒たちとともに住む、彼らとともにおられると、聖徒たちに与えられる祝福について彼に告げました。幕屋とは神と人とが親しく交わるところであり、その声は、「ともに住む、ともにおられる」と、新天新地、新しいエルサレムで神と人の交わりが回復され、永遠に続くものとされることを強調しているのです。そしてそこでは神が聖徒たちの涙をすっかり拭い取り、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもないのです。かつてエデンの園において、サタンの誘惑によって最初の人アダムは罪を犯し、そこから追放されましたが、神は愛する御子の十字架と復活による贖いによって、人類ををその罪の中から救い出してくださいました。断絶してしまった関係を自ら修復してくださったのです。その救いと回復のご計画は、サタンと獣が滅ぼされ、新天新地、新しいエルサレムが聖徒たちに与えられて、完成するのです。そのように神は、初めに天地を創造し、終わりに新しい天と新しい地を創造されるのです。最初の人アダムの罪をキリストの血によってきよめ、最後に悪の勢力を一掃し、エデンの園の交わりを回復し、聖徒たちを新しいエルサレムに住まわせられるのです。まさに神こそアルファでありオメガである方、最初であり最後である方なのです。そして今私たちはその最後の一歩手前の時代に置かれ生かされているのです。創造主であり完成者である主をあがめたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 20章◇(12月19日)

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」…黙示録20:6

いよいよサタンに対して神の御手が動かされます。獣とにせ預言者はすでに火の池に投げ込まれましたが、主はひとりの御使いによってサタンを千年の間縛り、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけその上に封印して、千年の終わるまでそこに閉じ込めてしまいました。そのようにされたサタンはその間手も足も出ないのです。そしてヨハネは、多くの座の上に座っている、さばきを行う権威が神から与えられた者たちの姿を見ました。それはその後にあるように、キリストへの信仰を捨てずに殉教した者たち、獣とその像を拝まかった者たちであり、彼らは生き返り、キリストとともに千年の間、王として神の国を治めるのです(「千年王国」と呼ばれます)。また彼らは神とキリストの祭司でもあるのです。主イエスは弟子たちに、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも12の座に着いて、イスラエルの12の部族をさばくのです」と言われましたが(マタイ19:28)、そこには、すでにキリストの空中再臨によって主の元に引き上げられた聖徒たちも含まれていると考えることができます。千年王国の後、閉じ込められていたサタンは解放され、聖徒たちの陣営を取り囲んで最後の戦いを挑みますが、サタンに召集された者たちは天から降ってきた火により焼き尽くされ、悪魔自身も火と硫黄の池に投げ込まれ、獣やにせ預言者とともに永遠に苦しみを受けるのです。そして、死者も含めてすべての者が神の審判の座に出て、自分の行いに応じてさばかれ、いのちの書に名がない者は例外なく火の池に投げ込まれることになるのです。そこには猶予はなく、中間もありません。それは最後であり、いのちか死かどちらかしかないのです。そして、神の願いはすべての者の名がいのちの書に記されることなのです。御国の王、祭司とされる私たちが今なすべきことは何か…主に尋ね求めつつそれを忠実に果たしたいと願います。

主がそれぞれの働きを尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 19章11-21節◇(12月18日)

「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた。」…黙示録19:15-16

天が開かれ、ヨハネは、白い馬に乗り「忠実また真実」と呼ばれ、義をもってさばかれる方を目にしましたが、それは、栄光に満ちた勝利者なるキリストの姿でした。その方は血に染まった衣を着ていましたが、その血は、神の怒りの酒ぶねを踏んだ際に流され飛び散った敵の血であり、その血の衣は、敵との戦いに勝利される審判者としてのキリストを表わしています。またその血は、ご自身が十字架にかかられ、その上で流された血でもあり、その血の衣は、人類を罪の奴隷として束縛しているサタンから、ご自身の尊い血潮によって贖い救い出す、解放者としてのキリストを表わしているのです。またその方の口からは鋭い剣が出ていました。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く…」とみことばにありますが(ヘブル4:12)、その方は「神のことば」と呼ばれており(13節)、ことばをもって諸国の民をさばかれるのです。そのことばを信じて従うかどうかを人々に問うのです。さらにその方の着物とももには「王の王、主の主」という名がありました(小羊としては17:14に既出)。それは、キリストがいかなる王よりも偉大な王であり、すべての王の上に君臨していることを表わしています。またあらゆる権威をその足の下に従えており、キリストこそが真の主権者であることを示しています。そして獣とにせ預言者は、そのキリストによって、硫黄の燃える火の池に投げ込まれるのです(20節)。勝利者、審判者、解放者なるそのキリストこそ、王の王、主の主としてあがめられる唯一の方であり、私たちの人生をも力強く統べ治めてくださるのです。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 19章1-10節◇(12月16日)

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」…黙示録19:8

大淫婦バビロンはついに滅ぼされました。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの」と、19章は天における勝利の賛美から始まっています。「神のさばきは真実で正しい…しもべたちの血の報復を彼女にされた」とさらにその歌は続き、さまざまな不品行によって地を汚し、獣を操ってキリストに従う者たちを殉教させた憎むべき大淫婦を、神が決して放置されなかったと証ししているのです。それは試練と苦難の中にある聖徒たちにとって、「神は決して見捨てられない」という大きな励ましです。すると24人の長老と4つの生き物もそれに呼応して、「アーメン。ハレルヤ」と、神を賛美し礼拝しました。そして、「神のしもべたち…われらの神を賛美せよ」という御座からの声に従って、すべての聖徒による激しい雷鳴のような大賛美がとどろき渡るのです。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来」た…と。婚姻の時とは結婚の約束がついに実現する瞬間です。契約のもとにそれが揺るがないものとなることです。教会が、キリスト者が、小羊なるキリストの花嫁として、永遠に続く深遠な愛の関係の中に入れられるのです。それは何ものにもまさる喜ばしく輝かしいときなのです。そしてそのときに花嫁に着せられる衣装は、「光り輝く、きよい麻布の衣」です。それは、聖徒たちの正しい行いであると大群衆は歌っていますが、その行いはもちろん、聖徒たち自身の持つ力によって生み出されたものではなく、キリストの義の衣を着た聖徒たちに主が備えてくださる良い行いであり(エペ2:10)、それを一つ一つ忠実に果たした積み(着)重ねなのです。天において神はそれを光り輝く栄光の衣とされるのです。キリストの忠実なしもべ、また証人として、いよいよ、良いわざ、主の働きに励む者でありたいと願います。

主の光が周りに輝き出ますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 18章11-24節◇(12月15日)

「おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです」。…黙示録18:20

大淫婦、バビロンの罪はあまりにも多く、それが積み重ねられたので天にまで届くようになり、それゆえ彼女は1日のうちにさまざまの災害で襲われ、火で焼き尽くされる…と天からの声は告げましたが(8節)、彼女により多くの富を得ていた地上の商人たちは、その都の滅亡を見ながら、泣き悲しんでこう言うのです。「わざわいが来た。わざわいが来た。…金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。 あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった」。さらに海の船乗りや船客たちも同様に泣き悲しみます。「わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。…この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは」。結局、彼らの悲しみは、彼女自身に対してのものではなく、自分たちの得ていた利益が失われることへのものであり、物質的繁栄を求める利己主義者の姿がここにあるのです。「おお、天よ、聖徒たちよ、…この都のことで喜びなさい。神は、…この都にさばきを宣告されたからです」。天からの声は、そのような者たちの嘆きとは対照的に、神のさばきの最終宣告のことばで終わっています。神の義が現されるとき、神に贖われた聖徒たちのうちに、歓喜の叫びが湧き起こるのです。歓楽的な音楽は消え、神の勝利と栄光をほめたたえる賛美が満ちるのです。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです」(マタイ5:12)。私たちの喜び…それは何よりも、主に愛され、贖われ、天において主からの豊かな報いにあずかることであり、永遠に主とともに生きる者とされていることなのです。この地上での歩みはあくまでも一時的なものであって、そこでの繁栄や快楽を追求しても、そのはかない喜びは、やがて悲しみと絶望へと変わってしまうのです。神の最終的な勝利、永遠への希望を新たにしつつ、旅人としての荒野の歩みを続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 18章1-10節◇(12月14日)

「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。『わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。』」…黙示録18:4

それまでヨハネに説明をしていた御使いとは別のもうひとりの御使いが、バビロン滅亡の宣言のため、特別な権威を帯びて天から下って来て叫びました。「倒れた。大バビロンが倒れた…」。それはまだ起こっていませんでしたが、確実に起こることなので、御使いはそのように過去のこととして叫んだのです。その滅亡の理由が3節に書かれています。「彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒」とは、14:8の「激しい御怒りを引き起こす不品行のぶどう酒」(「淫行のぶどう酒」:新改訳2017)と同じものです。それは道徳的に汚れた行いであり、また霊的な汚れ、つまり神が忌みきらわれる魔術や偶像礼拝などであり、すべての国々の民が、大淫婦、バビロンの影響を受け、それらを追い求める、罪と快楽の生活をしていたのです。また、「地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得た」とも書かれています。「好色」ということばは、「ぜいたく」とも訳せます(脚注参照)。商人たちが扱う商品のリストが12節以降に列挙されていますが、人々が必要以上に自分を飾り立て、華美なものを求め、物質的繁栄を第一とする姿勢がそこにはあるのです。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです」。ヨハネは天からのそのような声を聞きましたが(4節)、主は現代の私たちに対しても同じように警告しています。「バビロン」とは神を無視した人間中心の社会のことであり、そこには欲望と偽善と不正が満ちているのです。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(1ヨハネ2:16)。「この女から離れなさい」という主のことばを心に留め、神の国とその義を第一に求めていきたいと思います。

あらゆる必要を主が満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 17章◇(12月13日)

「この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」…黙示録17:14

前の16章において、第7の鉢による災害により最終的な神のさばきがなされて「事は成就し」、大きな都が3つに裂かれたと記されていましたが、17章と18章では、その大きな都、大バビロンが「大淫婦」とされ、17章ではそのさばきの予告が、18章ではその滅亡が、詳しく描写されています。ちなみに17章では大淫婦がもたらす宗教的な側面に、18章では経済的な側面に焦点が当てられています。その大淫婦は大水の上にすわっており、また、神をけがす名で満ちており、7つの頭と10本の角を持つ緋色の獣に乗っていました。そしてその額には、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名が書かれ、さらに彼女は、聖徒たちとイエスの証人たちの血に酔っていたのです。大水とはもろもろの民族を意味し、その頭と角は王たちのことだと、御使いはヨハネに明かしました。反キリストを操り地上を支配しようとするこの大淫婦は、世界のあらゆる宗教を統一する教祖的存在なのです。しかしやがて仲間割れ、内部分裂が起こります。神の働きかけにより、獣は大淫婦を憎み、裸にし、なんと彼女を火で焼き尽くすようになるのです(16節)。登る道は違っても達すべき頂上は一つ…という、世界統一教を目指す動きは人間的な企みであって、それは神によって分裂させられ崩壊に至るのです。いつの時代でも、人間的な考えとことばに基づいた、「統一」や「平等」を目指す動きが起こってきます。それは宗教においてだけでなく、社会的、道徳的にも、終末に向かってますます広がり大きくなっていくのです。しかし私たちは聖霊による一致を求める必要があります。また神のことばによって真偽を吟味することが大切です。小羊だけが主の主、王の王だという信仰を力強く告白し、キリストの御名を絶えずあがめる者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 16章12-21節◇(12月12日)

「-見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである-」。…黙示録16:15

第6の鉢が大ユーフラテス川にぶちまけられると、水が涸れ、日の出るほう、すなわち東方の国々の王たちがそこを道として侵攻するようになりました。また赤い竜であるサタンの口と、2つの獣の口から、しるしを行う汚れた3つの悪霊どもが出て来ました。彼らは、ハルマゲドン(「メギドの山」という意味)での最終決戦に備えて世界中の国から王たちを集め、最強の連合軍を結成して勝利しようとしたのです。そして最後の第7の鉢が空中にぶちまけられました。すると、御座の聖所の中から、「事は成就した」という大きな声がしました。それは、悪しき者に対する神のさばきが完了した、人類の救いが確かなものとされたという意味です。そしてそれは、第7のラッパのときの天からの声、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(11:15)ということばとつながっているものであり、さらに、主イエスが十字架上で息を引き取るときに発した「完了した」ということばともつながっている、悪魔に対する神の「勝利宣言」なのです。その後、巨大地震が起こり、大きな都は3つに裂かれ、「大バビロンは倒れ」(14:8)、1タラント(35キロ)もある大きな雹が人々の上に天から降ってきましたが、それは11章19節に書かれていることだと思われます。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。…人の子は、思いがけない時に来るのですから」(マタ24:42,44)。主イエスはそのように警告されましたが、ヨハネはそのことを思い出させるべく、15節に同様のことばを挿入しています。「どうせまださ…」と主から着せられた義の衣を脱ぎ、この世と調子を合わせて歩んでいると、終わりの日に、裸で恥をかくことになるのです。そうならないように、絶えず、贖われた者にふさわしくありたいと思います。

聖霊さまの助けと導きが与えられますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 16章1-11節◇(12月11日)

「こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」…黙示録16:9

神の激しい怒りの7つの鉢による災害が起こります。7番目のラッパ(11:15)が吹き鳴らされたときのことがここで詳しく描写されているととらえることができます。これらの災害は1~6番目のラッパのときの災害や、イスラエル人の出エジプトの際の災害と似ていますが、それらの災害が地や海や水の3分の1に、またエジプトに対してしか及ばなかったのに対し、ここでの7つの鉢による災害はそのような制限がなく、すべてのものに及ぶ最後的なものであるのです。第4の鉢が太陽に向けてぶちまけられると、神の被造物である太陽の温度が高くなり、人々はその激しい炎熱で焼かれるようになりました。また第5の鉢が獣の座にぶちまけられると、獣の国は暗黒となり、人々は苦しさに耐えかねて、舌を噛み切って自らいのちを絶とうとさえしたのです。その苦しさの原因は具体的には書かれていませんが、第4の鉢の災害としての灼熱の中に置かれた苦しみや、第1の鉢の災害として獣の像を拝む者たちにできた、ひどい悪性の腫物による苦しみだったのかもしれません。いずれにしてもそれは悲惨な終末的状況でした。しかしそのような目にあってもなお、人々は、主権者である神に対してけがしごとを言い、自分たちの行いを悔い改めようとはしなかったのです。災害が起こってもイスラエルの民を出て行かせなかった、エジプト王パロのかたくなさを思い起こさせます。しかしそのようなかたくなさは、実は私たちのうちにもあるということを思わされます。神に喜ばれない思いやふるまいを主から指摘されてもそれを素直に認めず、曲げようとしない強情さ、罪深さを、私たちは持っているのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブ3:15)みことばと聖霊さまを通して語られる主の御声を聴き、心を柔らかくされ、主の御旨に従順に従う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 15章◇(12月9日)

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。』」…黙示録15:3

ヨハネは天にもう一つの巨大なしるしを見ました。12章に書かれている巨大なしるしに続くものです。そのしるしとは7人の御使いによる7つの災害であり、その内容は16章以降に具体的に書かれていますが、それが起こる前、ガラスの海のほとりに立つ人々が、偉大な神を賛美している情景が心に留まります。その人々は、「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々」であり、神の立琴を手にしていました。海の獣の像を拝まない者は殺されましたが(13:15)、その人々が「打ち勝った人々」と言われているのです。復活のいのちが与えられ、敗北者ではなく勝利者とされ、感謝と喜びをもって主を賛美し礼拝しているのです。その彼らが歌ったのはモーセの歌と小羊の歌でした。モーセの歌とは、旧約時代におけるイスラエルの民が、主によってエジプトから脱出し奴隷から解放されたこと、そのとき海を分けられた神のみわざをあがめる歌です。また小羊の歌とは、すべての国のもろもろの民が、キリストの十字架と復活によって罪の奴隷から贖われ、永遠に生きる者とされたことへの感謝の歌であり、義をもって正しいさばきをなさる真実な主の御前に、ただただひれ伏す思いをもってささげるほめ歌なのです。またその歌は、贖われたユダヤ人も異邦人もいっしょになり、一つの神の民としてささげるものであるのです。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(マルコ8:35、新改訳2017)。サタンとその手下である獣に従うことを拒む者は、たとえそのために辛く苦しい状況に置かれたとしても、それはあくまで一時的なものであって、その決断は確かに主に覚えられ喜ばれているのです。主はご自身の愛する者たちを必ずそこから救い出して、「打ち勝った人々」として御前に導いてくださるのです。死に至るまで忠実な者として主に従いたいと願います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 14章14-20節◇(12月8日)

「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」…黙示録14:19

白い雲に乗った人の子のような方が登場します。「人の子のような方」は前にも現われており(1:13)、キリストであると考えられます。この方は、聖所から出て来た御使いの求めに応じてかまを入れ、地の穀物の実を刈り取って収穫しました。その実は、「取り入れる」と御使いが言っているとおり、焼いてしまうために集める毒麦、つまり悪者ではなく、倉に収めるべき良い麦、義なる者のことです(マタ13:30)。別の御使いがかまを持って聖所から出て来ましたが、火を支配する権威を持ったさらに別の御使いから命じられ、穀物の実ではなく、地のぶどうを刈り集めました。「ぶどうはすでに熟している」と御使いは叫びましたが、それは、収穫にふさわしく甘く熟したということではなく、腐ったぶどうをいつ取り除こうかと思案している中での、機は熟した、今がそのときだという合図であったのです。刈り集められたその大量のぶどうは、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられました。そして中のぶどうは都の中を汚さないよう外で踏まれ、流れ出た血は馬のくつわに届くほどになったとあります。その踏む行為と酒ぶねから流れ出た血は明らかに、悪者に対する神の最終的なさばきを意味していますが、その血は、馬のくつわに達する1m以上の高さとなって、1600スタディオン(約300キロ)の範囲に拡がったのです。それはヨハネにとって恐るべき情景であったことでしょう。「かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。…天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである」(ヨエル3:13-16抜粋)。刈り取りの日、審判のときは確かに来ます。しかし主は、キリストに対する信仰を持ち続ける者のとりでとなられ、ご自身の所有のものとして「取り入れて」くださるのです。感謝と希望と忍耐をもって歩み続けたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 14章1-13節◇(12月7日)

「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに14万4千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」…黙示録14:1

小羊がシオンの山の上に立っているのを見たと、ヨハネは記していますが、それが天における光景か、実際の地上のシオン=エルサレムなのかは不明です。いずれにしても小羊とともに14万4千人の人々がいる、ということに心が留まります。小羊とはキリストです。また、その14万4千人の人々とは、7章にあるように、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者のことです。イスラエルの12部族、キリストの12弟子というように、聖書において12という数字は全体を表わしますが、各部族からそれぞれ千の12倍である1万2千人ずつ、それが12部族の全体で14万4千となるのであって、それが小羊なるキリストとともにいるということは、イスラエルのすべての民族が、患難時代においては、キリストの贖いを受けているとも考えられるのです。その人々は7章では額に「印を押された」とありましたが、今日の箇所では、額には「小羊の名と、小羊の父の名」が記してあったと、より詳しい説明がなされています。6節からは3人の御使いが出て来ます。1人目の御使いは中天を飛びながらすべての人々に、神を恐れ、神をあがめよと大声で叫び、また、2人目の御使いは大バビロンは倒れた、倒れたと宣言しています。大バビロンとは固有の国を指すのではなく、人間が築き上げたものを誇る国家的組織だと言えます。注目すべきは3人目の御使いによる宣告です。獣の像を拝み、獣の名の刻印を額か手に受ける者は、火と硫黄とで苦しめられ、昼も夜も休みを得ないのです。地からの獣は、獣の名の刻印を受けていない者に対し、モノの売買ができないようにしましたが、刻印がある者への神の側からのさばきのほうが、はるかに過酷なものであるのです。悪魔とその手下、それらに従う者へのその神の怒りとさばきを見るとき、逆に牛耳られているように感じてしまう今の時にあっても、忍耐をもって信仰を持ち続け、勝利を先取り感謝することの大切さを教えられるのです(14:12)。

勝利の主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 13章◇(12月6日)

「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。」…黙示録13:18

海からの獣と地からの獣が登場します。海からの獣は赤い竜、つまりサタンと同じように、10本の角と7つの頭とを持っており、その頭には「神をけがす名」が書かれていました。その一つは致命的な傷を負いましたが奇蹟的に直り、人々はそのことに驚嘆してその獣に従うようになり、この獣は神の御名と天に住む者たちをののしり、地上の人々を3年半支配する権威を与えられたのです。これは悪魔の手下の「反キリスト」だと思われます。また地からの獣は、小羊のような2本の角を持ち、火を天から降らせるようなしるしをも人々の前で行い、海からの獣を絶えず拝ませるべくその像を人々に造らせ、その像を拝まない者をみな殺させたのです。これは同じく悪魔の手下の「にせキリスト」あるいは、「にせ預言者」だと思われます。主イエスは弟子たちに、預言者ダニエルが語った「荒らす憎むべき者」が、また、にせキリストやにせ預言者が現われ、しるしを行うと、それらの存在の出現を予告されました(マタイ24:15,24)。さらに地からの獣は、すべての人々の右の手か額に、獣の名、またはそれを示す数字である666を刻印させ、それがないと何も売り買いできないようにしたのです。この「666」が指すのは、一部の人が推理して言うような、バーコード中の3箇所の2本の縦線ではありません。「その数字は人間を指す」と明確に示されているのです。サタンの願いは自分が神になることです。そのために、手下を使って人々が自分を拝むよううまく仕向けるのです。悪魔は今も巧妙な方法によって人々を惑わしています。私たちはそれらの企みを見抜く目を持つ必要がありますが、それはみことばと聖霊の助けによって与えられるのです。もとより私たちは神の所有とされた民であり(1ペテロ2:9)、聖霊によって証印が押されている者(エペソ4:30)なのです。その自覚を絶えずしっかりと持って歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 12章◇(12月5日)

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」…黙示録12:11

理解が難しいと言われるヨハネの黙示録ですが、一つ一つのことばの解釈にとらわれ過ぎずに、全体の構造を俯瞰して把握することが大切です。6~11章には、巻物の7つの封印が解かれて起こる、神のさばき、わざわいが記されていましたが、それが、患難時代と呼ばれる7年間の出来事であり、12章以下に書かれていることはそれと別ではなく、7つの封印のさばきの原則を、別の観点から見て、側面的に補っているものだと考えることができます。つまり12章以下のさばきも患難時代のことなのです。1節に12の星の冠をかぶっている女性が登場します。彼女が産んだ男の子は、鉄の杖をもって国々の民を牧するキリストであり、女性はイスラエルのことです。またその子を食い尽くそうとした赤い竜はサタンであり、天における戦いに負けたその竜は地上に投げ落とされ、男の子を産んだその女性を執拗に追いかけ、さらに神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている女性の子孫の残りの者たちと戦おうと出て行くのです。しかしヨハネはそのときすでに、天からの大きな声が、キリストの勝利を宣言するのを耳にしたのです。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。…兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(竜)に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」(10-11節)。「小羊の血と自分たちのあかしのことば」が武器なのです。キリストは十字架で血を流しすべての人を贖われた!キリストは死に打ち勝ちよみがえられた勝利の主だ!私たちはキリストにより救われ神の子どもとされたのだ!その事実を日々高らかに宣言し、告白するならば、そのキリストの御名によって祈って悪魔を縛るならば、今も私たちはキリストにあって勝利することができるのです。それこそがキリストがもたらされた神の国の祝福なのです。

平安と確信をもって歩むことができますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 11章◇(12月4日)

「第7の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」…黙示録11:15

11章の前半は第6のラッパ(9:13)の後に起こった事(「第2のわざわい」と呼ばれている内容)の続きです。また後半には第7のラッパ(11:15)の後に起こった事(「第3のわざわい」)が書かれています。その第2のわざわいにおいて、「ふたりの証人」と呼ばれる者が登場します。彼らは荒布を着て、1260日(1年を365日とすると3年半)の期間、預言することを許された者たちであり、主の御前の2本のオリーブの木、2つの燭台だとあります。預言者ゼカリヤも、燭台と2本のオリーブの木の幻を見せられましたが(ゼカリヤ4章)、オリーブの実から搾られるのは燭台などに使われる油です。二人はキリストが救い主であることを証しし、最終的な神のさばきが起こることを世界に警告するために、神から油注がれ用いられる特別な器だと思われます。二人はあかしを終えると、底知れぬ所からの獣により殺され、死体が人々の目にさらされますが、神からのいのちの息によってよみがえり、一方で、大地震により生き残った人々は恐れを抱くのです。第7のラッパが鳴ると、大きな声が天に起こりました。それは、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」という最終的な神の側の勝利宣言です。24人の長老たちも、「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します」と、王であるキリストの完全な統治をほめたたえているのです。それは聖徒たちに報いが与えられるときであり、神のさばきにより悪しき者が滅ぼされる「御怒りの日」です。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。キリストは、昔いまし、今いまし、後に来られる王の王なるお方です。患難の多い世にあって、そのお方に望みを置き、拠り頼み、勝利に向かって前進し続ける者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 9章12-21節◇(12月2日)

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、…偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」…黙示録9:20-21(抜粋)

第6の御使いがラッパを吹き鳴らしました。すると、神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声がその御使いに、4人の御使いを解き放すように命じました。その金の祭壇とは8章3節に出ているものであり、聖徒の祈りが香の煙とともに主の御前に立ち上り、それが起こったということがわかります。4人の御使いはそれまで「つながれて」いて、勝手に行動することができない状態にありましたが、神が「定められた時」となりそこから出て行ったのです。そしてその目的は人類の3分の1を殺すことでした。その実行にあたったのは、4人の御使いの指揮下の、2億という途方もない数の軍勢であり、彼らが乗っていた馬の口から出る3つの災害、すなわち、火と煙と硫黄によって人々は死んだのです。第4までのラッパにより起こったのは自然災害で、第5のラッパによるいなごも人間は殺しませんでしたが、第6のラッパとなって、そのように直接人を殺す災害が、神によって許されて起こったのです。イスラエルの民がエジプトを脱出する際のわざわいでも、パロ王に出て行けと言わせたのは、エジプト人の初子が神に打たれて殺される決定的な出来事のゆえでした。しかし、ヨハネが見たのは、生き残った者たちがそのような恐ろしいことを体験してもなお悔い改めずに、偶像を拝み続け、性的不品行や盗みをし続けるという、罪にどっぷりとはまった者たちの姿でした。終末に向け、神のさばきの度合いが増すとともに、悪しき者たちの罪深さもまた増して行く…。何か耐性菌を連想させます。「主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません」(2歴代30:9)。主が民に求めておられるのは、自らの歩みを反省し、主の前に罪を認め、悔い改め、立ち返ることなのです。かたくなではない、柔らかい心を持ち続けたいと思います。

主の深い恵みとあわれみがいつもありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 9章1-11節◇(12月1日)

「そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。」…黙示録9:4

第5の御使いがラッパを吹き鳴らすと、一つの星が天から地上に落ちました。その星には底知れぬ穴(「底知れぬ所に通じる穴」:新改訳2017)の鍵が与えられ、その穴を開くと、空が覆われ太陽も暗くなる煙が立ち上ったのです。この星が何を指しているのかは書かれていませんが、「いなずまのように天から落ちた」(ルカ10:18)と主が言われた、サタンであると考えられます。さらに煙の中からいなごが出て来ました。エジプトへのわざわいが思い起こされますが(出10:5)、そのときとは異なり、いなごは草木は食い尽くさず、ただ、額に神の印を押されていない人間だけを、5ヶ月間、苦しめることが許されたのです。その苦痛はさそりが刺したときのような猛烈なもので、しかも人々は死を願っても死ねなかったのです。額に神の印が押された者たち、それは神のしもべです。7章には、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、14万4千人であったとあります。しかしそれだけではありません。あらゆる民族からの、白い衣を着た大群衆、すなわちキリストに贖われた聖徒たちもまた、いなごの害から守られたのです。なぜならエペソ1章13節にはこのようにあるからです。「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました」。福音を聞いて信じ、キリストを主と告白するということは、単に自らの思想、信条を言い表すことではありません。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)とあるとおり、それは聖霊の働きによって内側に起こったことであり、聖霊に証印を押された事実の外への現われなのです。印とは保証です。また所有を表わすものです。神の印が確かに押されていることを忘れずにいたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。