◇聖書箇所: エゼキエル書 3章◇(8月31日)

「『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」…エゼ3:3

エゼキエルは、主から、イスラエルの人々に対し、「わたしのことばを彼らに語るよう」命じられました。そしてまずエゼキエルが主のことばにより養われ、その働きのために十分備えることができるように、主はご自身のことばが書かれた巻物を彼に与え、食べさせたのです。それはエゼキエルの口の中で、蜜のように甘いものであったとあります。エジプトを脱出し、荒野の生活をしていたイスラエルの民に与えられたマナも、その味は、「蜜を入れたせんべいのよう」でした(出16:31)。神のみことばは、私たちの飢えた心を満たし、たましいを養う霊的な食物であり、それは、私たちが人生で味わう苦さやしょっぱさを、甘いものへと変えることができるものなのです。その後、主はエゼキエルにこう命じられました。「わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ」(17節)。その警告とは、自らの罪と不義を主に悔い改め、主に立ち返らなければ死はまぬがれない…しかしそうするならいのちを得る…ということです。そしてそれは人の目に明らかな悪者にだけでなく、正しい人と思える人にも、すべての者に対して、語ることが求められた「警告」なのです。なぜなら主の御目に、善を行う義なる者は、ひとりもいないからです(詩14:3、ロマ3:10参照)。私たちは、キリストによる恵みの福音を聞き、信じて救われ、永遠のいのちにあずかりました。そして今度は、私たちがそれを人々に語るのです。私たちもまた、悪に満ちたこの世界の見張り人として、責任が問われる重要な働きを担っているのです。そのことをしっかりと覚えて歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 2章◇(8月30日)

「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」…エゼキエル2:7

「あなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす」と主に告げられたエゼキエル…バビロンに捕らえ移されていた彼は、そこでの自らの役割を再確認させられました。主がエゼキエルに命じられたこと、それは第1に、人々やそのことばを「恐れるな」ということでした。彼は、神にそむいている人々からは疎んじられ、迫害を受けて身の危険を感じることもあったでしょう。しかし主は、たとえ「あなたがさそりの中に住んでも」、恐れるな、彼らの顔にひるむな、と命じられたのです。主が命じられたことの第2、それは、「彼らが聞いても、聞かなくても」語ることでした。人々が耳を傾けてくれるから、ことばに従うから語る価値があるわけではないのです。たとえ人々が、そのような態度を取らないとしても、神のメッセージを伝え続けるようにと、求められたのです。主が命じられたことの第3、それは、「わたしのことばを語れ」ということでした。預言者とは、神のことばを忠実に取り継ぐ者です。神の口となって人々の前に立つ神の代弁者です。そしてそのためにはまず預言者自身が神のことばをしっかりと聞いて受け取らなければならないのです。主はエゼキエルに「あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」と命じました。私たちもまた、「預言者」として遣わされています。福音を伝えても、人々から拒まれることもあります。しかし、私たちは恐れず、たとえ聞いてくれなくても、神のことば、主の約束をまっすぐに語り続けるのです。それが主が私たちに対して願っておられることであり、そのために主は御霊の力と助けを与えてくださるのです。主はともにおられます。

祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 1章◇(8月29日)

「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」…エゼキエル1:28

今日からエゼキエル書を読んでいきます。エゼキエルは、南王国ユダがバビロンによって滅ぼされる時代に生きた預言者です。同時代の預言者エレミヤは、エレサレムで、そんなことはないとする民に神のことばを語り、一方エゼキエルは、エホヤキン王とともにバビロンに捕囚として連れて行かれ、そこで、捕囚はすぐに終わると楽観視している民に、悔い改めと希望のメッセージを伝えたのです。今日の箇所の1章は、彼が主から見せられた幻です。4つの顔と4つの翼をもった4つの生きものについて、さまざまな描写が記されていますが、この生きものとは後の章にも出てくるケルビムです。契約の箱の贖いのふたの上で翼を広げふたを覆い、それを見守っている天使のような存在のケルビムは、エゼキエルの幻では、その頭上の大空からの声に立ち止ってその翼を垂れ、従順に従っていたのです。そしてその大空のはるか上には王座に似たものがあり、人間の姿に似た存在が輝いていましたが、それは、主ご自身であったのです。彼は畏れ、ひれ伏しました。苦難の中でエゼキエルが幻として見せられた、そのような主の御姿と栄光の輝き、そしてケルビム…それは主がすべてのものの所有者であられ、また、主権者としてすべての権力を従えておられる、すべてのことを御手に治め導いておられる、そして、ご自身の民を敵の手から守り助けることを思い起こさせ、その確信を与えるためのものであったのです。その主は今も私たちをも同じように支えてくださいます。どんなときにも主に信頼して歩んでいきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 17章20-26節◇(8月28日)

「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」…ヨハネ17:26

17章は、主イエスの父に対する祈りのことばです。今日の箇所でまず心に留まるのは、21-23節に繰り返されている「一つ」ということです。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」。彼らとはもちろん弟子たちのことです。祭司長たちに捕らえられようとしている主イエスは、弟子たちにもやがて及んでいく迫害の中で彼らが、三位一体の神のうちにある強固で真実な一致を保ち、個性豊かな彼らが互いの違いを受け入れ、愛し合い、福音宣教を力強く進められるように、とりなしたのです。「愛が彼らの中に…」ということにも心が留まります。御子への父の愛が弟子たちにも注がれていく…その神の愛の現れの頂点は主の十字架です。その愛は、そこにいた弟子たちだけではなく、「十字架につけろ」と叫んだ群衆にも、私たちにも、すべての時代のすべての国の人々に与えられる、無償の愛、無条件の愛、無限の愛なのです。その愛が弟子たちのうちにしっかりと留まるように、世がその愛を知るようにと、主はとりなしたのです。さらに心に留まるのは、「知らせる」ということです。「彼らにあなたの御名を知らせた」という主のことばは、父なる神のうちにある、いのちと力と愛とあわれみ…それらすべてを告げ知らせた、証ししたということです。主イエスの生涯はまさにそれを体現したものでした。神は、御子を通してご自身を啓示されたのです。「またこれからも知らせます」と、主は祈られました。御子が父のみもとに帰って行かれた後も、弟子たちによって、彼らが書き記した聖書によって、私たちによって、そして御霊ご自身の働きによって、神の啓示と証しはリレーのように続けられるのです。そこに自分も加えられていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 16章16-33節◇(8月26日)

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」…ヨハネ16:33

主イエスの弟子たちへの語りかけは終わりました。そしてその最後に告げたこと、それは、世にある弟子たちには患難があるということでした。そしてさまざまなことを話してきた理由は、彼らがその中で平安を持つためだと言われたのです。キリストにある者の歩み…それは主のことばのとおり、困難や試練に遭い、悩み苦しむことの多いものです。主は「世にあっては」と言われましたが、それは、この世が、神に敵対する存在、悪魔の影響下にあり、神に従う者たちは霊的な戦いの中に置かれるからです。キリストを信じたからといって、決して、平穏無事な人生を歩むことが約束されたわけではありません。むしろそれは、次から次へとさまざまなことが起こる、変化に富んだ波瀾万丈の人生なのです。「しかし、勇敢でありなさい」と、主は言われました。キリストにある者が受ける祝福、それは、そのような嵐の真っ只中にたとえ置かれたとしても、その心に平安が与えられることです。それは、世が与えるのとはまったく異なる平安であり、私たちのたましいが主につながることによって、すべてが主の御手の中にあることに目が開かれ、その主が守り、支え、介入し、最善をなしてくださる…そのことを確信し、主を待ち望む者とされて受け取る、決して何者にも奪われることのない平安なのです。「あなたがたにわたしの平安を与えます」(ヨハ14:27)。その約束は、単なる気休めではもちろんありません。そのように言われた主は、十字架にかかり、葬られ、3日目にその墓からよみがえられて、死に打ち勝たれ、この世の王だとうそぶく悪魔に勝利されたのです。主は弟子たちに、「わたしはすでに世に勝ったのです」と、そのことを先取りのことば、預言として語られ、だから、勇敢であれ、恐れるな、わたしに信頼せよ、わたしがあなたを必ず救い出す、と言われたのです。その主にあって、私たちはいたずらに心騒がせることなく、患難の中にあっても平安のうちに歩むことができるのです。

揺るぐことのない主からの平安がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 16章1-15節◇(8月25日)

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」…ヨハネ16:13

「もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ない…」と、主イエスは弟子たちに言われました。(7節) 去って行くとは、ご自身の十字架と復活を経て、天の父なる神の元に帰られるという意味です。御子が贖いのわざを成し遂げられたからこそ、約束の助け主が私たちに与えられたのです。御霊がダイナミックに働く時代に突入したのです。その御霊は、「自分から語るのではなく、聞くままを話し」、「わたしの栄光を現し」、「わたしのものを受けて…知らせる」のだと、さらに主イエスは弟子たちに説き明かされました。ここに、三位一体の神における、父、子、御霊の関係が示されているとともに、御霊に人格があることが明らかにされています。「聖霊の力を受ける」ことが時に強調されますが、聖霊さまはエネルギーのような存在ではないのです。私たちと同じく、喜び、怒り、悲しまれる方なのです。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(8節)。御霊の働きは、弱い私たちを力づけ強めるだけでなく、病のいやし、捕らわれからの解放をもたらすだけでなく、何よりも、私たちの霊の目を開いて真理を知らしめ、考えやあり方の誤りを認めさせることにあるのです。そして、その私たちを神の前に義なる者とするために、いのちを捨ててくださったイエス・キリストを指し示し、そのお方を救い主と告白させてくださるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)。聖霊さまのダイナミックな働きがさらになされるように、そしてすべての人が「誤りを認め」主に立ち返るように、祈り求めていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 15章17-27節◇(8月24日)

「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」…ヨハネ15:19

「世はあなたがたを憎む」と主は言われました。それは具体的には、人々から受け入れられず、迫害され、いのちさえ狙われる…ということです。実際、使徒たちをはじめ、初代教会においても、多くのキリスト者たちがそのような目に遭いました。主が言われた「世」とは、神に敵対する存在、サタンが牛耳っている罪深い世界のことです。その世から、わたしはあなたがたを選び出した、もはや世のものではない、と主は告げられました。選び出したとは「聖別」したということです。主は、ご自分の所有のものにしようと決められ、私たちを世から取り分け、分離されたのです。混ざらない性質になったので、世は憎むのです。では私たちは世とどう関わるべきなのでしょうか。聖別された者として世との関わりを一切断ち、人里離れた所で共同体を作り生活しなさい…主は決してそのようには言われませんでした。「この世と調子を合わせてはいけません」(ロマ12:2)は、罪深い世に同調するなという意味ですが、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3:16)と主が言われた「世」は、神が創造され「非常に良かった」とされた「世」です。神は世をさばくためではなく、救い、回復させるために、御子を世に遣わされたのです(ヨハネ3:17)。あなたがたは地の塩、世の光…と主は言われました。私たちはこの世に影響を及ぼすよう求められています。そのために私たちは主によって世から選び出され、世の救いと回復の働きの一端を担う者として任命され、悪をきよめ、やみに輝き、実を結ぶ者とされるのです。しかしそれは私たちの力でなすのではありません。聖霊の力と助けと導きを与えて私たちを用いられる、主ご自身がなしてくださる大いなるみわざなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 14章15-31節◇(8月22日)

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」…ヨハネ14:23

わたしを愛するなら、わたしの戒めを守る…今日の箇所ではこの主イエスのメッセージが、繰り返し語られています(15,21,23,(31)節)。そしてそのことをあらためて思い巡らすとき、そこに深い意味があることを教えられます。戒めを守る、命じられたとおりに行う…それは、単に「指図に従う」ということではありません。もしそうであるとしたら、神は、私たち人間に対し、ご自身の命令を忠実に実行するロボットのような存在であることを、願っておられることになります。しかし戒めを守るとは、しもべが主人の心中を察し、願っていることを実現させるために最大限に努力し、それに少しでも貢献できることを喜ぶあり方なのです。つまり神のみこころがなるようにと心から願うことです。主の御手の中に自らを置き続けることでもあります。わたしを愛するなら…。その愛とはアガペーの愛、すなわち神の愛、献身的で犠牲を伴う愛のことです。それは私たちの肉から生まれる愛ではないのです。主の戒めを守ることを私たちの感情が嫌がっても、痛みと葛藤が生じてもそれを選び取っていく…みことばが示す道がいのちに通じる道であると信じて、主に委ね従う…それが主を「愛する」ことなのです。しかし私たちは「がんばって」そうするのではありません。あなたがたは戒めを守るはずです、と言われたすぐ後に、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになると、主は約束されたのです。その聖霊の助けによって、啓示される真理に目が開かれつつ、感謝と喜びのうちに、私たちは主のことばに従う者とされていくのです。そして三位一体の神のうるわしい交わりの中に入れられ、私たちを通して主のみわざと栄光が現されていくのです。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 14章1-14節◇(8月21日)

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」…ヨハネ14:6

わたしの行く道はあなたがも知っている…と主に言われ、トマスは、私たちにはわからない…どうしてその道がわかるのか…と尋ねると、主イエスはこう答えられました。わたしが道であり、真理であり、いのちなのだ…そしてわたしを通って行く者だけが、父のみもとに行くことができるのだ…と。主は、道を教える…と言われたのではありません。イエスご自身が道そのものなのです。そして、道は通って進んで行くということは、目的地に到達しようと目指すことなのです。その目的地とは父のみもとです。永遠に神とともに住む場所のことです(2,3節)。ときどき、その場所を高い山の頂上になぞらえて、そこに至るまでの道はいくつもある…どの道を選択するかはそれぞれの自由だ…しかし最終的には必ず頂上に到達するのだから、こだわることはない…という主張を耳にしますが、それは真実ではないのです。まやかしなのです。神がイエス・キリストを通してご自身を啓示され、御霊がみことばの奥義を明らかにされるからこそ、私たちはやみに覆われているこの世にあっても、真理に目が開かれ、目的地に正しく進めるのです。また、厳しい苦難や戦いの中にあって、もうだめだ…とあきらめ、「死」を覚悟するようなときも、御霊による慰めと励ましが与えられるからこそ、いのちが保たれ、前進し続けることができるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12a)。そして、イエス・キリストという道を通して、父の元に行き、親しく交わることができるその祝福は、すでに今、地上で受け取ることができるものなのです。それはまさしく神の国の祝福であり喜びなのです。

主の確かな導きと守りがありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 13章12-20節◇(8月19日)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」…ヨハネ13:20

弟子たちの足を洗い終わった主イエスは、彼らにこのように言われました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」。そのためにわたしは模範を示したのだと(14-15節)。弟子たちに対する主イエスのその命令は、単に、互いに親切にせよ、人の世話をせよ、汚れた足を洗うのを嫌がらずに進んで行え…と言う意味ではありません。主は弟子たちに、
1) 謙遜を求められたのです。師が弟子の足を洗う…それが「模範」なのです。立場やプライドに捕らわれてはならないのです。
2) 従順と献身を求められたのです。主は父なる神のみこころに従って仕えられました。同じように弟子は主に自らをささげ仕えるべきです。
3) 愛することを求められたのです。裏切り者をも愛する無条件の愛、犠牲の愛です。そしてそれはご自身の十字架とつながっています。主の行為を模範としてイエスにならうことは、自分の十字架を負って主についていくことなのです。
「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」と、主は言われました。「受け入れる」とはその人から流れ出てくるものを、感謝と喜びをもって「受け取る」ということです。弟子たち、すなわち私たち一人ひとりを通して、周りの人々に神の愛が流れ、御国の祝福が流れ、それを彼らが受け取るならば、人々は、主イエスご自身を受け入れ、父なる神を受け入れる、そのような者とされていくのです。そのために、私たちはイエスの弟子、使節として用いられるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 13章1-11節◇(8月18日)

「ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』」…ヨハネ13:8

弟子たちとの夕食との最中、主イエスはおもむろに立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいの水で弟子たち全員の足を洗い始めました。当時そのようなことは奴隷がする仕事でしたが、主は、文字通り弟子たちの前でひざまづいて、一人ひとりの足を手に取って洗われたのです。弟子たちは主が始められたその行為に驚き、戸惑ったに違いありません。そして、申し訳ない…という思いつつ主に委ねたのです。そんな中、ペテロはたまりかねて主に言いました。「私の足をお洗いにならないでください」。しかし主は、もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない…と言われたのです。「関係」ということばに心が留まります。「分け前」、「運命」という意味をも持つことばです。主イエスが身を低くして仕える者となられた、その洗足の行為の先には十字架があります。洗足の水は流される血潮を暗示しています。苦難のしもべとして罪人のためにいのちをささげる…その贖いによって罪人は赦され生きる者とされる…それが不要だと言うならその分け前にあずかれない、栄光の運命を共にできない…と主は言われたのです。「関係」を持つことは、私たちにも求められています。私たちが、自らをささげ与えられる主に倣う者となり、しもべとして身を低くして神に仕え、また、普段かかわる一人ひとりにも真実に仕えるなら、神との、人々との、真の「関係」が築かれるのです。神の国の祝福と喜びを分かち合う者とされるのです。そのような「関係」をさらに深めて行きたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 12章36-50節◇(8月17日)

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」…ヨハネ12:48

主イエスが言われた「終わりの日」…それは、今の罪の世の終わりのときであり、神のさばきがなされ、神の国が完成し、神の永遠のご計画が完結するときです。そのときキリストは、再びこの地に来られ、すべての死んだ者はよみがえらされ、最終的なさばきが行われて、神に認められた者は栄光のからだをもって、神とともに永遠に生きるようになるのです。「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(47節)そのことばは、後の48節から明らかなように、主イエスがすべての人の罪を無条件に赦し、罪の世を救うという意味ではありません。罪のさばきがなされるのは終わりの日であり、今は「執行猶予期間中」だということなのです。主イエスはこうも言われました。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(36節)光がある間とは、終わりの日が来る前の期間、聖霊が啓示の光を照らし、しるしのわざをもって、主ご自身を人々にあかししている今のときです。終わりの日がいつかは誰にもわかりません。それは盗人のように突然やって来るのです。そのことを信じるならば、「残された日々」を漫然と過ごすことなどあり得ないのです。終わりの日が近いという意識をしっかり持って、光の子どもとしての役割を全うしたいと思います。

みこころを行う者とされますように。主の導きと祝福をお祈りいたします。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 12章20-36節◇(8月16日)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」…ヨハネ12:24

イエスに会いたい、とギリシャ人たちから言われ、アンデレとピリポは主にそのことを伝えましたが、主はそれに対して直接答えることをせず、人の子が栄光を受けるその時が来た、と言われ、さらに、一粒の麦についての話しをされました。そのとき主が言われた「栄光を受ける」とは、ご自身が十字架にかかられることであり、また、「一粒の麦」とは主ご自身を意味していました。主は、そのように、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として、いけにえとなることにより、また、神のさばきが過ぎ越すための血を流す、「過越の羊」(出12:21)となることにより、まさに、過越の祭りのときに、栄光を受けられるのです。そしてそれは、旧約聖書において預言されているまことの王、メシヤの到来を意味していましたが、そのメシヤは、人々からの称賛のうちに、華々しく栄光を受けるのではありませんでした。逆に、人々からののしられ、痛めつけられ、苦しみ、ほふり場に引かれていく羊のように従順に、黙々と神のみこころの道を進んで行かれたのです。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ…」。もし、主イエスが十字架にかかって血を流し、いのちをもって私たちを贖ってくださらなければ、私たちは今もなお、罪の奴隷として虐げられ、嘆きと苦しみと絶望の中に置かれていたのです。神のさばきを恐れて怯えるばかりだったのです。しかし一粒の麦は確かに地に落ちて死に、そこからいのちを取り戻して芽を出し成長し、信じる者に与えられる救いと永遠のいのちという、豊かな実をもたらすこととなったのです。そしてそれは、すべての者が受け取るべきものなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 12章12-19節◇(8月15日)

「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」…ヨハネ12:14-15

主イエスはエルサレムの町に入られました。人々はしゅろの木の枝を取り、「ホサナ。祝福あれ。…イスラエルの王に」と大声で叫んで主を迎えました。「ホサナ」とは、「救いたまえ」という意味のヘブル(アラム)語です(後になって神をたたえる意味でも使われました)。人々は、ローマの支配から自分たちを解放する、そのような王として、イエスに期待していたのです。この時、なんと主は、ろばの子に乗られました。しかしそれは、ゼカリヤによる預言の成就なのだ、と著者ヨハネは言い、そのことばを引用しています。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って」。ところが実際にそのゼカリヤ書9章9節を見ると、「恐れるな」ではなく「大いに喜べ」となっています。そして続く10節を見るとこのように書かれています。「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる」。おそらくヨハネは意図的にことばを変えたのです。そして霊的な意味での普遍的な真理を示したのです。大国ローマに象徴されるこの世の支配者、神の民を縛りつけ苦しめようとする悪しき勢力は、神ご自身によって必ず打ち破られ敗北する…だから王は、勝利をすでに得た者、平和の君として、勇ましい馬でなく、柔和なろばに乗られるのだ、その王がこの世界を確かに統治されるのだ…と。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。主はすでに来られ、十字架において贖いを成し遂げ、死に打ち勝ち、私たちといつもともにいてくださいます。主ご自身が戦いに勝利をもたらしてくださるのです。だから私たちは、決して恐れる必要はないのです。その主にあって、私たちは喜ぶことができるのです。

シャローム。主の平安がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 12章1-11節◇(8月14日)

「イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、そうしたのです』」。…ヨハネ12:7(新改訳聖書の別訳…脚注参照)

荒野に近いエフライムに退いていた主イエスは、過越の祭りの6日前に再びベタニヤに来られ、弟子たちやラザロとともに食事をしていました。すると突然、ラザロの姉であるマリヤは、ナルドの香油300グラムを主イエスの足に塗り、自身の髪でそれをぬぐい始めたのです。その香油は純粋で非常に高価なものでした。それを見ていた弟子の一人イスカリオテ・ユダは、その行為を咎め、その香油は売るべきだった、そうすれば貧しい人々に施せた、と言いましたが、それは彼が、預かっていたお金を着服しており、その穴埋めに使えたのに…と考えたからです。マリヤの行為…それは、過越の祭りを迎えて、いよいよ主が「過越の小羊」となられ、神のさばきが「過ぎ越す」ために血を流し、すべての人の罪のために死なれるのだ…と、そのことを悟った彼女が、主の葬りの日のために、前もって香油を塗るという意味があったのです。300デナリもする非常に高価な香油を、そのように惜しむことなく献げたマリヤ…主こそそうされるのにふさわしい方としてあがめる、礼拝者の心をそこに見ることができます。彼女は、自分に与えられているものが、主のために用いられることを感謝し、喜び、自分自身を献げる思いをもってそうしたのです。そして主は、その彼女のあり方を喜ばれたのです。私たちもまた、与えられている富や時間や労力を、感謝と喜びと礼拝する心で主に献げたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 11章30-44節◇(8月12日)

「イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」…ヨハネ11:40

妹のマリヤも主イエスを迎えに出て来て、マルタと同じように到着の遅れを責めました。そしてラザロを失った悲しみに打ちひしがれ、人々もいっしょになって声を上げて泣いたのです。主イエスはそんな彼らの様子を見て、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。それは、これまでも多くのしるしを現してきた神の子なる自分が目の前にいるにもかかわらず、彼らが、ラザロの死という現実に直面して落胆し、また自分が早く来なかったことを非難するだけで、ラザロを生き返らせて欲しいと願い、自分にそれを求めようとしなかったからです。そしてそのようにして彼らの霊の目をふさぎ、信仰を奪おうとする悪魔に憤慨されたからです。主は、ラザロの墓の入口の石を取りのけるよう命じ、今さら何を…と気乗りしないマルタに言われました。もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか…。そのとき彼女は、はっとしたに違いありません。目の前のお方が、「あなたの兄弟はよみがえります」、「わたしはよみがえりです。いのちです」と、力強く宣言されていたことを思い出したからです。「ラザロよ。出て来なさい」と主は権威をもって命じ、彼は、葬られたままの姿で墓から出て来ました。主は彼らの不信仰を叱責されたのではありません。死を引き起こし、人々の霊の目を閉ざそうとする悪魔に対して霊の憤りを覚え、ラザロを生き返らせ、ご自身がいのちの源であることを証しされたのです。その主は弱く、不信仰な私たちをもあわれみ、この世の現実の中に主権をもってみわざを現し、私たちの霊の目を開いてくださるお方なのです。神の国という領域の確かさを示してくださるのです。

主は今も生きておられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 11章17-29節◇(8月11日)

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」…ヨハネ11:25-26

主イエスたちはベタニヤの町に到着しました。ラザロの姉マルタは主を出迎えるやいなや、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに…」と、非難する思いをイエスに率直にぶつけました。しかし主は、「あなたの兄弟はよみがえります」と言われ、さらに彼女との会話を通して、その霊の目を少しずつ開いていかれたのです。「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」。その主のことばの後、マルタはイエスがキリストであると告白しましたが、彼女にとってラザロのよみがえり、メシヤの救いは、あくまで「終わりの日」のことだったのです。しかし主が言われたのは「今」のことであり、また、心とたましいにおけることであったのです。「死ぬ」とは、「もうだめだ…」と希望を失うことです。生きるための力が完全に奪われてしまうことです。しかし、パウロがイザヤ書を引用して言うとおり、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ10:11)のです。なぜならキリストは、ちりで造られた人にいのちの息を吹き込まれた方、葬られた墓からよみがえって死に勝利された方、人知を越えたみわざをなしてくださる方だからです。「ラザロが死ぬ前に来てくれてさえいれば」…そのような人間的な思いにとらわれてしまうならば、私たちはすぐ失望し、「死ぬ」者となってしまいます。しかし、よみがえりであり、いのちなるお方、キリストに信頼する者は、「死ぬことがない」のです。希望と平安のうちに歩み続けることができるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 11章1-16節◇(8月10日)

「イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」…ヨハネ11:4

荒野に退いておられた主イエスは、ラザロが病気で重篤であることを使者から聞き、「この病気は…神の栄光のため…」と言われ、ラザロの元へすぐに行こうとはされませんでした。いっしょに来てくれると期待していた使者たちは、さぞ裏切られたような思いになったことでしょう。結局、主は、その所になお2日留まられました。主は、たとえラザロが死んだとしても、私は、その死から彼を生き返らせることができる、それは父の名によってなすみわざであり、私が神の子であることのあかしであり、神の栄光がそのことを通して現されるのだ、それが私の計画なのだ…と言われたのです。私たちは問題や試練に会うときに、それが一刻も早く解決されるようにと主に願い求めます。そしてその状況が一向に改善されないと、「神はおられるのか…」と、信仰がぐらつきます。しかし主は、すべてのことを御手の中で治め、ご自身のご計画のうちに進めておられるのです。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」とあるように(イザヤ55:8)、その主の思いと道は、私たちが持っているそれとは異なっており、また、すべての営みには主が定める「時」があるのです。私たちは「今すぐ、こうして…」と自分の思いを押しつけて主に解決を求めるべきではありません。私たちのことを愛し、すべてを知っておられる主、最善をなされるお方に信頼し、一切を委ねつつ、主の栄光の現れを待ち望み続けるべきなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 10章31-42節◇(8月9日)

「しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」…ヨハネ10:38

「わたしと父とは一つです」という主のことばに、ユダヤ人たちは、イエスが神を冒瀆しているとし、石打ちにしようとして石を取り上げました。それに対して主イエスは答えられました。わたしは父が世に遣わされた者、神の子であって、神を冒瀆するということにはまったく当たらない、わたしは父のみわざを実行しているのであって、たとえわたしのことばが信じられないとしても、父がわたしにおられ、わたしが父にいることは、そのわざによって確かに証明されているのだ、そうでなければみわざを行うなどできないのだ…と。そのように、主がなされるさまざまなみわざは、「父の御名によって」行う「父のみわざ」であり、父から世に遣わされた御子がメシヤとして、人々を捕らわれから解放し、救い、祝福される方であるということの証言、「あかし」なのです。またそれは、主イエスが語ることばが、真実で確かなものだという「しるし」なのです。人々はそれらのみわざを通して、イエスがキリストであると認め、そのことばを信じたのです。そのみわざは、今もなお、三位一体の神によるあかしとして、しるしとして、神の国の祝福として、人々の生活のただ中に現されています。私たちはそれを主のことばと切り離して、みわざだけを追い求めるべきではありません。逆に、主のことばを人間的な枠組みに押し込めて、理性だけで理解しようとすべきでもないのです。ことばとみわざをもってご自身をあかしされている主というお方そのものを追い求めるべきなのです。

主の祝福がいよいよ豊かに注がれますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 10章19-30節◇(8月8日)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」…ヨハネ10:27

ユダヤ人たちのイエスに対する評価は、悪霊につかれて気が狂っているとする者と、悪霊には盲人の目は開けられないのだからそうではないとする者とに分かれていました。そこで彼らは、宮にいたイエスを取り囲んで、いったいどっちなのか、もしメシヤであるなら、はっきりそう言ってほしいと迫ったのです。そんな彼らに対して主イエスは答えられました。そのことはもうすでに話しているではないか、父の名によってわざを行っているではないか、それなのにあなたがたは信じようとはしない、そしてそれは、「あなたがたがわたしの羊に属していないから」だと、主は言われたのです。主は、「属せない」とは言われませんでした。つまり羊飼いの側でそれを認めない、拒否する、というわけではないのです。羊の側が、イエスの声に聞き従おうとしないのです。勝手に自分が行きたいところに行くのです。別の羊飼いに惑わされその声についていくのです。そしてそのような羊は結局、さまざまな危険に会い、乏しくなって、いのちを失う危険にさらされるのです。しかし良き牧者であるイエス・キリストは、ご自身の声を聞き分け、羊飼いについていく、一匹一匹の羊を良く知ってくださっているのです。迷い出た羊を捜し出し連れ戻してくださるのです。永遠のいのちという祝福を与えてくださるのです。イエスと父とは一つであられ、その主の御手から羊を奪い去ることができる者などないのです。その主に信頼しどこまでもついていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 10章1-18節◇(8月7日)

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」…ヨハネ10:11

主イエスはパリサイ人たちに、羊と羊飼いのたとえをもって話されましたが、羊飼いと言えば思い出されるのが詩篇23篇です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません…」ダビデのその詩篇はユダヤ人なら皆知っていました。羊飼いとは神であり、またメシヤを意味しており、その羊とは神に造られたすべての人のことです。主イエスのたとえは決して難しくはなかったのです。しかしパリサイ人たちは、そのたとえを聞いても、それが何のことかよくわかりませんでした。それは彼らが、自分たちが「羊」であるとはまったく考えていなかったからに違いありません。羊とは弱く、臆病で、外敵に襲われる危険に常にさらされており、羊飼いに守られ、養われ、導かれなければ生きていけない存在です。しかし彼らは、自分たちは強い、神の前に正しい、羊飼いの助けなど不要だと思っていたのです。主イエスはさらに、まことの羊飼いでない雇い人は、羊のことを心にかけず、平気で羊を置き去りにする、そんな無責任で身勝手な存在だと言われました。そしてそれは、神の律法を教える者でありながら、痛みや悲しみの中にある人々に寄り添おうとしない、人々から尊敬されることで自己満足している、パリサイ人たち自身を暗に批判することばなのです。しかし良い牧者は羊のためにいのちを捨てると、主は言われました。前の節では盗人が羊を殺す、後の節では狼が羊を奪うとありますが、良い羊飼いである主はその敵の前に立ちはだかり、愛する羊たちをご自分のいのちに代えてでも、守ってくださるお方なのです。ここに、キリストの犠牲の愛、十字架による贖いが示されています。良い牧者なる主イエスは、弱い羊である私たちをも、いつもともにいて、守り、養い、導いておられます。その羊飼いの声に絶えず聞き従いたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 9章13-23節◇(8月5日)

「彼は言った。『あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。』」…ヨハネ9:15b

主イエスが盲人をいやされたのは安息日でした。38年間病気であった人のいやしもそうでしたが、それは単なる偶然ではなく、主イエスは、意図的に安息日にみわざをなされたのです。もとより、安息日の意義とは、人が捕らわれから解放され、回復を与えられ、神が造られた本来の姿に戻されることであって、「人の子は安息日の主です」(マタイ12:8)と言われた主ご自身が、それを実現されたのです。しかしパリサイ人にとっての安息日とは、どんな仕事もしてはならないという律法のことばを額面通りに受けとめ、できるだけ身体を動かさずにその日を過ごすための細かな定めを新たに作り、それを破る者を神の名によって裁く日だったのです。彼らにとっては、イエスがその安息日に、いやしという「労働」を行うことはとんでもないこと、その人物が神から来たなど、あり得ないことでした。一方、そうであるなら、なぜいやしが起こるのか…本当に盲目だったのかとの疑いも出始めました。彼らから尋ねられたその人の両親は答えました。自分たちの息子に間違いない、目を開けた人物はよくわからない…と。しかし、著者であるヨハネは、それは、イエスをキリストだと告白すれば、会堂から追放されることを知っていたからだ、と記しています。いやされた当人も「あの方は預言者」と答えましたが、彼らはイエスがキリストであると信じていたのです。それは彼らの霊的な目が開かれていたからです。しかし義を誇るパリサイ人の目は閉じたままでした。神のことばを人間的にとらえ、自分は正しいと高慢になるなら、私たちもパリサイ人と何ら変わりません。しかし、自分は罪人だ、見えない者だ…とへりくだり、捕らわれからの解放を求めるならば、目が開かれ、キリストがもたらすいのちと救いにあずかるのです。主を待ち望みつつ安息の日を迎えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 9章1-12節◇(8月4日)

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」…ヨハネ9:3

道の途中で生まれつきの盲人を見つけると、イエスの弟子たちは主に尋ねました。盲目になったのはこの人が罪を犯したからか、それともこの人の両親の罪が原因なのか…と。弟子たちは、そのような人の「不幸」は、誰かの何かの罪の結果として起こったことであり、神が与えた「罰」だと決めつけていたのです。しかし主はこのように弟子たちに答えました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。この人が盲目で生まれたのは罪の結果ではなく、神のみわざが現され、そのことを通して神の支配がこの地に拡がり、多くの領域に及んでいくためだと、主はその霊的な「意義」を説き明かされたのです。主はさらに続けてこう言われました。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。…わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」そして、つばきした泥を主から目に塗られた盲人が、池でそれを洗うと、たちまち見えるようになったのです。神のみわざが現され、神の支配が多くの領域に及ぶ…それは、主イエスがこの地にもたらされた神の国が、サタンの国を打ち破るということにほかなりません。またそれは光がやみを駆逐するということであり、盲人のいやしはそれを象徴するしるしであったのです。私たちの生活の中に起こるさまざまな試練や苦難…それらもまた、「神のわざが現われるため」なのです。しかしそれは、必ずしもそれらがすぐになくなるという意味ではありません。たとえそのただ中にあっても、神は主権をもってすべてを統べ治めておられると信じ、主を待ち望む者とされるという意味でもあるのです。主は「不幸」ではなく「祝福」を与えられるお方なのです。

歩みの中に主のみわざがいよいよ現されますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 8章48-59節◇(8月3日)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」…ヨハネ8:51

主イエスとユダヤ人たちの問答は続きます。彼らは、主のことばを理解できずに困惑し、あなたは悪霊につかれている、と言い始め、偉大なアブラハムや多くの預言者たちもみな死んだというのに、あなたは、「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない」と言う…自分を誰だと言うのかと、主に迫ったのです。その問いに対して主は直接答えず、自分に栄光を与える方はわたしの父であり、その父とはすなわちあなたがたの神であり、わたしはその方を知っていると言われました。さらに、アブラハムも「わたしの日」、すなわち、メシヤの到来と救いの成就を信じて喜んでいた、それはまさに今わたしが実現するのだ、わたしは彼が生まれる前から存在している…と、主は彼らに決定的なことを告げたのです。それは、自分はメシヤだという宣言であり、怒った彼らは主を石打ちにしようとしました。「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」。主が言われた「死」とは、霊的な意味の死です。主イエスのことばに信頼し、聞き従うならば、たとえ絶体絶命のピンチになったとしても、もうダメだ!一巻の終わりだ!…と希望を失い、倒れ、死を待つばかりの身となることはない…死のように思えても、それは敗北ではない…その先にある勝利といのちを待ち望みつつ、主のことばによって堅く立ち、恐れず進み続ける…それが「死を見ることがない」という意味なのです。そしてそれは、復活して死を打ち破られたお方、キリストがもたらされる神の国の祝福であって、すべての人が味わうことのできるものなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 8章31-47節◇(8月2日)

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」…ヨハネ8:31-32

「真理はあなたがたを自由にします」と、主イエスはユダヤ人たちに語りましたが、私たちは誰の奴隷にもなったことがない…と、ことばの真意がわからない彼らは答えました。すると主は、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と告げられたのです。奴隷とは主人に従順に従い仕える者であって、自分の意志を通そうとする自由はありません。すべては主人の支配の下にあるからです。パウロは、善を行いたいと願っているのに、逆に悪を行ってしまう自分を見いだして愕然とし、「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」と告白しました(ローマ7:17)。確かに私たちは、罪の奴隷であって、自由が奪われているのです。私たちは誰でも「自由」であることを願います。しかしその「自由」は、何でも自分の思い通り、好き勝手に行えるということではありません。元より私たちは罪の奴隷として束縛されており、神が本来意図された喜び、平安、希望は失われ、憂うつ、いらだち、絶望というものによって、私たちの心は支配されてしまっているのです。そこから抜け出そうしてもうまく行かないのです。真の「自由」…それは、たとえ目に見える状況が、自分の願いとは異なるものであったとしても、それを安んじて受けとめ委ねることができる…それに縛られ心奪われることのないあり方です。そしてそれは、神が世に遣わされた御子である、イエス・キリストによって与えられる祝福なのです。主イエスの真理のことばにとどまり、ますますその真の自由の中に解き放たれたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 8章21-30節◇(8月1日)

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」…ヨハネ8:24

主は律法学者やパリサイ人たちに言われました。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」(21節)。それを聞いて、イエスは自殺するつもりなのかと、彼らは見当違いの受け取り方をしましたが、主は天の父のもとに行くことを意味していたのです。しかし主イエスには、その前になすべき、父から託された大切な使命がありました。それは十字架にかかって血を流し、父がすべての人の罪を赦すよう和解の務めを果たし、また、葬られた墓からよみがえって死に勝利し、すべての人が神とともに生きる者となるための永遠のいのちをもたらすことであったのです。「自分の罪の中で死ぬ…」。主イエスはそのことを、パリサイ人たちに繰り返して語られました(24節)。しかしその「罪」とは、彼らがご自分のことを妬んで殺そうと企んでいた陰謀のことではありません。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創2:17)と神から警告を受けていたにもかかわらず、蛇の姿を取った悪魔の誘惑にアダムとエバが負けて、善悪の知識の木の実を取って食べてしまった…その「原罪」を受け継ぐゆえに神に従おうとしない、「罪」とそれがもたらす霊的な「死」のことなのです。その主の宣告は、当時のパリサイ人たちだけでなく、すべての人が受けるべき普遍的なものであるのです。「もしあなたがたがわたしのことを信じなければ…」。しかしこのことばに救いがあります。なぜならそれは、わたしを信じる者は自分の罪の中で死なないという、主の約束に他ならないからです。(ヨハネ3:16参照)。そのいのちは信じるすべての人に与えられるからです。

主のいのちと祝福が満ちあふれますように。