瀬谷キリスト教会-平安と希望と喜びに満ちた人生を!瀬谷キリスト教会は横浜市瀬谷区にあるプロテスタントの教会です。

2018年12月 今日の聖書日課

◇聖書箇所: 詩篇 41篇◇(12月31日)

「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。」…詩篇41:13

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は」。そのような書き出しでこの詩篇は始まっています。そしてそのような人への主の祝福が述べられています。「主はわざわいの日にその人を助け出される」(1節)、「主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ(る)」(2節)、「主は病の床で彼をささえられる」(3節)。そのように主はその人を特別に顧みられるのです。弱っている者をいやし、再び立ち上がらせる…。それは何よりも主ご自身のみこころであるのです。だからこそ主の手足となってそのために労する者を、主は喜ばれ、用いられ、豊かに祝福してくださるのです。「弱っている」とありますが、それはからだだけでなく、心やたましいが折れ、傷ついていることをも意味します。そしてそのように元気が失われたままでは、私たちは生き生きとして歩むことができないのです。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです」(4節)。詩人自身、罪を自覚し、主の赦しといやしによって、たましいが解放され、心に喜びが取り戻されることを、願っていたのです。その苦しみが人に理解されなくても、また自分を憎む敵から責め立てられたとしても、主は、罪深い自分のことをなお愛し、喜んでおられる、御前に立たせてくださると信じていたのです(10-11節)。「誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください」(12節)。詩人は自らの誠実さを誇っているわけではありません。その誠実さは主からの恵みだと知っているのです。「あなたは私を全き者として支え、とこしえまでもあなたの前に立たせてくださいました」(同、共同訳2018)。今年一年、弱っているときに手を取り立たせてくださった、元気を取り戻させてくださった主に、感謝したいと思います。

すべての栄光と誉れが主にありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 39篇◇(12月29日)

「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。」…詩篇39:12

「私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう」(1節)。詩人はそのように言って沈黙を守りました。置かれている試練と苦難の中で、口を開けば悪者に対するののしりのことばや、神へのつぶやき、不平不満がつい出てしまう…。だから口輪をはめることによってそれを避ける…。しかし人のことばは心の思いの表れであって、それまで抑えつけることはできないのです(3節)。口輪をはずした詩人は主に訴えました。残された自分の地上の歩みはどれくらいなのか…。人の一生など、はかないものではないか…。どんなに繁栄して富を築き、財を蓄えたとしても、死んだらそれはどうなってしまうのか…(5-6節)。「空の空。すべては空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう」(伝道者1:2-3)。詩人はまさにそのような思いになっていたのです。しかし主に訴える中で、詩人の思いは変えられます。「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」(7節)。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」とみことばが言うとおり(伝道者12:13)、人生がむなしく、はかないもののように思えたとしても、いのちを与えて生かしておられるのは神さまなのです。そして主を畏れ、その教えに聞き従う者にとって、この地上での歩みがすべてではないのです。むしろ聖徒たちはこの地上では旅人、寄留者であり、天の故郷にあこがれて歩む者なのです(ヘブ11:16)。詩人は口輪をすることが愚かしいことを知りました。その口は主に助けを叫び求めるためにあり(13節)、主を賛美するために与えられているものだからです。私たちの口もまたそうであることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 38篇◇(12月28日)

「まことに主よ あなたを私は待ち望んでいます。わが神 主よ あなたが私に答えてくださいます。」…詩篇38:15 (新改訳2017)

「主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください」。詩篇38篇は、このようなことばで始まっています。「ダビデの賛歌」とありますが、もし詩人がダビデなら、ウリヤの妻バテ・シェバを奪った罪のことで(2サム11章)、主に懲らしめられていると感じているのかもしれません。「あなたの矢が私の中に突き刺さり」(2節)と語る詩人は、心もからだもたましいも、ぼろぼろの状態だったのです。そのように、深くうなだれて一日中嘆いている詩人を、家族や友人はただ遠巻きにして見ているだけです。だれも詩人に寄り添い、慰め励まそうとはしないのです。そればかりか、その苦しみに追い打ちをかけるように、詩人のいのちを求める者によりわなが仕掛けられ、徹底的に痛めつけようとする者が詩人の破滅を告げる…つまり、そんなひどい罪人にはもはや救いはないのだと、真実ではない、欺き、偽りのことばを投げつけるのです。しかし、そのような四面楚歌の状況に置かれてもなお、神への望みを詩人が抱いていることに心が留まります。自らの罪を言い表して赦しを求める者を主は拒まず、それに答え、罪を赦してくださる、縄目から解き放ち、回復を与えてくださると信じて告白しているのです(15節)。だから詩人は、責め立てる者のことばをまともに聞かず、それに反論して言い争おうとはしないのです(13-14節)。ただ善を、主のみこころを追い求めているのです(20節)。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。使徒ヨハネもそのように言っています(1ヨハネ1:8-9)。真実な主の前に自分をごまかしたり偽ったりすることなく、絶えず主に立ち返り、赦しと解放を受け取りたいと思います。

救いの喜びがいつも心にありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 37篇23-40節◇(12月27日)

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」…詩篇37:23

人は誰でも確かな歩みをしたいと願いますが、みことばは、主がそのことをなされると言うのです。それは、ともにおられる主によって、歩みが導かれ、守られ、支えられるということにほかなりません。その人は「倒れてもまっさかさまに倒されはしない」とあります(24節)。倒れない人などいないのです。しかしたとえ倒れても、主が手を支えておられるので、地に打ち当たらずに起き上がることができるのです。正しい者、すなわち主を愛し、慕い求め、主のみ教えに聞き従って歩む者は、主の顧みを受け、試練の中に置かれても見捨てられることはなく(25節)、さまざまな必要は主によって満たされ、祝福され、それを周りの人々にも押し流す者となるのです(26節)。後の世代にもそれは受け継がれ、主が与える地に、いつまでも住みつくことができるのです(29節)。悪者は生い茂る野生の木のようにはびこり、その横暴ぶりはいよいよ目に余るものとなります(35節)。彼らは正しい者たちを食い物にし、責め立てて来ます。しかしそれに心奪われ、嘆く必要はないのです。なぜなら、主がそのような悪者どもをさばかれ、断ち切られるからです。主が聖徒たちの前から取り去り、滅ぼされるので、捜しても見つからなくなるのです(36節)。どんなときでも主に拠り頼み、身を避ける者は幸いです。苦難にあっても、主がそのような者たちのとりでとなり、彼らを脅かす悪者どもや、いっさいのものからかくまって、その束縛から解き放ってくださるからです(39、40節)。「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」(34節)。私たちの歩みを確かにしてくださる主、悪者を聖徒たちの前から取り去られる主、すべての必要を満たし祝福を与えてくださる主を、どんなときにも待ち望む者でありたいと心から願います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 37篇1-22節◇(12月26日)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」…詩篇37:5

「あなたの道を主にゆだねよ」とあります。道…それは私たちの日々の歩みのことであり、その中の一つ一つの営みを指しています。では、その道を主に委ねるとはどういうことなのでしょうか…。ゆだねるということばの意味は、辞書によれば、「すっかり任せる」ということです。そのように、自分ですべてを行なわずに人に任せるのは大切ですが、相手に押し付け、われ関せずという「丸投げ」ではなく、任せた後も監督し、フォローすることが求められます。それはその任せた相手が何かの間違いをしたり、ごまかしたりする可能性があるからです。そのように、人との関わりにおいてはゆだねても任せきれないのです。しかしみことばが言う「ゆだねる」はそうではありません。私たちが委ねる相手は人ではなく神だからです。主がすべてのことを成し遂げてくださるからです。私たちはその主に信頼し、すべてをお任せするのです。自分が握りしめているものを主にゆだね、明け渡すのです。悪者のことが繰り返し語られています。「悪を行う者に対して腹を立てるな」と始まり(1節)、「怒ることをやめ、憤りを捨てよ」と命じています(8節)それはもちろん、その悪を容認するということではありません。また怒りの感情を押し殺せということでもありません。それは感情に捕われて怒りを持ち続けるなということです。悪を行なう者に対して主ご自身が正しいさばきをなされ、その悪が主によって取り除かれるということを信じて疑わず、主にゆだねよ、すっかりお任せせよということなのです。主はご自身の前に全き者であろうとする人々、すなわち、主の教えにことごとく従おうとする者たちの日々の歩みを、またその心を、確かに知ってくださっているのです(18節)。そして主は、そのような者たちを決して見捨てることなく、顧みてくださるのです。欠乏を覚えるときにも必要を満たし、祝福を豊かに与えてくださるのです(19、22節)。絶えず主に信頼して善を行う者(3節)でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 2章1-21節◇(12月25日)

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」…ルカ2:10

今日はイエス・キリストの降誕日、クリスマスです。ルカ2章1-20節はそのキリストの降誕の記事であり、しばしば子どもたちによって劇として演じられます。「トントン。すみません、泊めてもらえませんか…」「だめだめ!部屋は満員だよ。ほかを探しな。バタン…」。そういって宿屋の主人に断られ、しょんぼりするヨセフ…。それを観る者はだれもが、かわいそうに…と感じます。何とか隅にでも居れなかったのかと疑問が湧きます。しかし今日、みことばを読んであらためて思うのです。もし宿屋の部屋が空いていてそこに泊まっていたら、異邦人である東方の博士たちは会えただろうかと…。身分の低い羊飼いたちは入れてもらえただろうかと…。キリストが家畜小屋の飼葉おけに寝かされたことからは、王であるキリストのへりくだりを確かに教えられますが、誰もが入れるその「開かれた場所」で主が生まれたのは、宿屋の部屋の囲いを除く神の意志ではなかったのかと…。「それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた」。18節にはそうあります。降誕劇では、羊飼いのほかには、マリヤとヨセフとみどりごであるイエスさましかいませんが、そこに多くの者たちがいたことが示唆されているのです。それはマタイが伝える東方の博士たちかもしれません。あるいはベツレヘムの村の住民たちかもしれません。いずれにしても、御使いが羊飼いたちに告げたように、救い主の降誕は、民全体のためのすばらしい喜びであり、異邦人も、貧しい者も、身分の低い者も、子どもも老人も、すべての民が救い主にお会いして礼拝をささげることが、降誕の喜びをともに分かち合うことが神のみこころなのです。家畜小屋を宿とし、飼葉おけを寝台とされたキリストは、いま私たち一人ひとりのうちに住んでくださっています。それは聖徒たちを通してさらに多くの人々が主にお会いし、キリストがもたらす救いの喜びに共にあずかるためなのです。主がそのことを推し進めてくださるよう求めたいと思います。

いと高き所に、栄光が、神にありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 1章67-80節◇(12月24日)

「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」…ルカ1:68-69

バプテスマのヨハネの父ザカリヤによる預言です。彼は聖霊に満たされてそのことばを告げましたが、その中で繰り返し語られていることに心が留まります。「(われらの)敵」(71節、74・75節)…ザカリヤの時代、イスラエルはローマ帝国に支配され、しいたげられた歩みを余儀なくされていましたが、彼が語った「敵」とはそのような目に見える敵ではなく、人の心とたましいに働き、罪ある者として責め立てる、霊的な存在である悪魔、サタンのことです。「救いの角」はその敵の手から、そして罪そのものから、イスラエルを、全世界の民を救い出すのです(77節)。「聖なる契約」(72節)…73節には「アブラハムに誓われた誓い」とありますが、「聖なる契約」が違う表現をもって繰り返されています。その救いの約束は、イスラエルの父祖アブラハムに、神が一方的に誓われ結ばれた聖なる契約であって、それを神が「救いの角」を立てて成就されることが、多くの預言者たちによって告げられていたのです(70節)。「あわれみ」(72節、78節)…そのようにして神は、「救いの角」、すなわちメシアをダビデの子孫の中から立て、ご自身の民の元に遣わし、そのメシアの先駆けであるヨハネを、祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦に与えられました。そして彼は、人々に罪の悔い改めを説き、道備えをしましたが(76節)、それらはすべて主のあわれみによることであったのです。救いの角として神に立てられた、全人類の救い主…。そのイエス・キリストは、まことの光として(ヨハ1:9)、罪と悪によって暗黒に覆われているこの地を照らし、死の陰に座って脅えているすべての民に希望を与え、平和の道、いのちの道へと導いてくださるのです(79節)。そのお方を「私の救い主」としてお迎えしたいと思います。

主からの祝福と平安が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ハバクク書 3章◇(12月22日)

「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」…ハバクク3:18

3節からは神のさばきのみわざが描かれています。主によって起こされた疫病、熱病が人々を襲い(5節)、諸国の民は神を恐れて震え上がるのです(6節)。地を行き巡り、国々を踏みつける…と(12節)、神の怒りがいかに大きく激しいかが記されています。しかしそれは、主がご自分の民を救い出すため、ご自身が油注いだ者、すなわち主が尊く用いるために選ばれた民を回復させるためのさばきなのです(13節)。エジプトになされたさまざまな災いが思い起こされます。それを知ってもなお、カルデヤ人が祖国を蹂躙するのを、ハバククは受け入れがたい思いで悩んでいましたが、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(2:3)の主のことばを再度受けとめ、真実な主に信頼し、カルデヤ人を襲う悩みの日の到来を心静めて祈りつつ待つと、決意を新たにしたのです(16節)。「そのとき」とありますが、17節の描写は、必ずしもカルデヤ人が打たれる日のことだけではありません。預言者ハバククは、その先に起こる終わりの日、すなわち、地上におけるすべての罪と悪、主のみこころにかなわない者たちが滅ぼされるときをも、主から見せられていたのです。それは木々が花を咲かせず、実を実らせず、畑からの産物も途絶え、家畜もいなくなる恐ろしい日です。そしてその日がいつ来るかは誰にもわからないのです。しかし神に信頼するハバククは、それを知らされてもなお、救いの神にあって喜ぼうと告白しているのです。なぜなら、「正しい人はその信仰によって生きる」のであって、この地に神のさばきがなされても主に信頼する者たちを、主は、「高い所」を歩む者、すなわち天の御国において、神とともに永遠に生きる者としてくださるからなのです。「わたしたちはキリストによって義とされ永遠に生きる」。その救いの恵みを覚えて主に感謝をささげたいと思います。

救いの喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ハバクク書 2章◇(12月21日)

「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」…ハバクク2:4

4節の前半は2版では、「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる」と訳されています。それは「彼」、すなわち、神がユダ王国に住む民を懲らしめるために遣わす、カルデヤ(バビロン)人たちのことを指しています。ハバククが神からご自身の計画を聞かされたとき、そんな者がユダを蹂躙することに彼は驚きましたが、彼らはあくまで主の「むち」として用いられるのであって、高慢な彼らが神に良しとされるわけではないのです。4節後半のことばは新約聖書の中にも出てきます。パウロはキリストがもたらした福音による救い、律法の行いではなく信仰による救いを強調するために、「義人は信仰によって生きる」というこのことばを、彼の書簡の中で引用しています(ロマ1:17、ガラ3:11)。またヘブル書の作者も、忍耐の大切さを教えるために、「それは必ず来る。遅れることはない」という3節と合わせ、このことばを用いているのです(ヘブ10:37-38)。「正しい人はその信仰によって生きる」…。「信仰」と訳されていることばの別訳は「真実」です。信仰によって生きるとは、単に律法主義的な生き方を対立的に否定することばではありません。それは、罪人を救い出すために十字架にかかってくださった、キリストのいのちに生かされる者となるということです。また、ご自身を求める者を決して失望させることがない、真実な主にひたすら拠り頼んで歩むということです。そして、「しかし、正しい人はその信仰によって…」と、4節前半のカルデヤ人のあり方と対比されているように、うぬぼれない、心高ぶらない、主の助けなしには自分は何もできない…と、主の前にへりくだることなのです。「正しい人はその信仰によって生きる」…。それは、新約の光に照らして言えば、「キリストによって生きる」、「キリストにあって生かされる」ということなのです。このアドベントのとき、そのことを深く覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ハバクク書 1章◇(12月20日)

「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」…ハバクク1:5

ハバククはユダ王国の預言者の一人であり、彼によるハバクク書は、エホヤキン王の治世の初期、BC605年前後に書かれたと考えられています。当時、カルデヤ(バビロン)人はまだユダには達していませんでしたが、ユダ国内には悪が蔓延し、神の律法は人々に無視されてまったく機能せず、いったいこれが神の民の姿かと思われるほどの、ひどく落ちぶれた状態であったのです(3-4節)。ハバククはそのような国の窮状を嘆き、神に助けと救いを求めて叫び続けていました。しかしそのことへの答えが一向に与えられず、神が沈黙を守り、手をこまねいていることに不満を持ち、なぜですか、いつまですかと神に訴えたのです(2節)。神はハバククの問いに対して答えられました(5-11節)。それは、強暴な国民であるカルデヤ(バビロン)人を用い、悪を一掃するためユダ全体を懲らしめるということでした。ハバククの神への非難は的を得ていなかったのです。神は確かに悪者の暴虐と闘争とを見て知っておられ、正しい者が労苦でうめくのを聞いておられたのです。私たちもまた、悪がはびこり、正しい者が苦しむとき、また自分自身がさまざまな問題で揺さぶられるとき、なぜですか、いつまでですかと神を非難したくなります。しかし神は全てを知っておられ、また義なる方であって、人の考えを越えた最善の計画を持っておられるのです。それぞれの時代において主は確かに事をなされるのです。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ」(詩篇62:8)。私たちはよくわからない神をただ信じるのではありません。その神はご自身の民をエジプトやバビロンから解放し、全人類を罪の奴隷から解放して救い出されたお方です。救い主の預言、その成就、そしてやがて来る再臨の日…。それらはすべて神のことばとして告げられているのです。どんなときにもその主に信頼する者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 箴言 31章◇(12月19日)

「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」…箴言31:30

箴言の最後の章です。王への母からの戒めとあります。女性は王をその地位から転落させる存在となり得る…。だから女性に力を費やすなとまず警告しています(3節)。それは王が受ける性的な誘惑を懸念しているのです。それにとらわれると自制が効かなくなってしまうからです。王は酒を飲むべきでないとも戒められています(4節)。絶対飲んではいけないという禁止ではありませんが、酒もまたそれに依存する者にさせる危険があるのです。そうなってしまうと、勅令を出すのを忘れてしまうなど、王としての職務にも悪影響を及ぼすこととなるのです。特に強い酒は、死の間際にある人や心を病む人に対して、苦痛を和らげるために用いるものであって(6-7節)、弱者を守り、公平なさばきをし、国を治めるべき王が、それに支配されるようなことがあってはならないのです。10節以降には「しっかりした妻」の描写があります。夫は彼女を称賛し、子どもたちも賛辞を惜しみません。「彼女は…」ということばで始まる各節には、理想的な彼女の態度、生き方が記されており、何か読んでいて圧倒されるような思いにさせられます。しかし私たちが心に留めるべきことは30節にあるように、彼女が主を恐れ(畏れ)ているということなのです。なぜなら、彼女に兼ね備わっている良きものはすべて、主が与えてくださっている祝福の表れだからなのです。「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)。主を畏れること…知恵のことばに従って歩むこと…。箴言はその大切さを最初から最後まで教えています。また、主を畏れるということは、自分を主に明け渡し、聖い御霊なる神を内に迎えるということでもあります。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とパウロもまた、御霊に満たされ、御霊に従って歩むなら、さまざまな誘惑から守られるのだと教えています。「しっかりした者」とされる祝福を受けたいと願います。

主のみこころにかなう者とされますように。

◇聖書箇所: 箴言 30章◇(12月18日)

「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」…箴言30:8

作者は2つのことを神に願い求めています。1つ目は、不信実と偽りから遠ざけられることです。「不信実」ということばは、他の聖書では「むなしいこと」、「うそ」とも訳されています。また原文を見ると、「偽り」は「偽りのことば」、あるいは「偽りの仕事」と訳せることがわかります。2つ目は、定められた分の食物で養われることです。8節のことばを読むと思い出されるのが、荒野を旅するイスラエルの民に与えられたマナです。神が天から降らせてくださる食物であるマナは、多く集めた者もそれが余ってしまうことはなく、少なく集めた者も足りないことはありませんでした。神はご自身が定めた分の食物で民を養われたのです。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈れと、主イエスも教えられました(「日ごと」の別訳は「必要な」)。主は私たちにとって必要な分を与えてくださいます。そしてそれは多くも少なくもない、ふさわしい分なのです。私たちはともすれば、これでは少ない…不安だ…と感じ、もっと余裕を持つべきだと人間的に考えてしまいますが、主の恵みは私たちの必要を満たす十分なものなのです。もし食べ飽きるほどの分が与えられたらどうでしょうか…。9節にあるように、神を否定し、主とはだれだ、不要だと、それを得たのは自分だと言って、うぬぼれてしまうのです。自らの分を越え神の前に高ぶる、不遜な者となるのです。その者のことばはまさに「うそ」、「偽りのことば」なのです。また逆に足りなくて、ひもじい思いをしたらどうでしょうか…。不平不満を漏らし、神なんかいないと自暴自棄になり、主の御名を汚すようなことをしてしまうかもしれないのです。その者の行動は「むなしいこと」、「偽りの仕事」なのです。偽りのない真実な主に、なお信頼して歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 29章◇(12月17日)

「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。」…箴言29:11

自分の内に湧き上がる「怒り」をどう取り扱うか…。それはすべての人に問われる大きな課題です。みことばはそのことについての答えを与えています。8節に「あざける者」とありますが、それは、神の知恵のことばを受け入れない愚かな者です。神をあざけり、人間的な思いの中で生きる者は、個人的、社会的なさまざまなことに怒りをぶちまけ、引いては町全体に騒乱をもたらしてしまうのです。しかし知恵のある者、神のことばに聞き従う人々は、感情に決して支配されることなく、怒りを内におさめ、自分が置かれている状況を神に知っていただき、心を治めてくださるよう、主の御旨がなるよう、主に解決を祈り求める冷静さが与えられるのです。またみことばは「懲らしめ」の大切さを教えています。15節に「むちと叱責とは知恵を与える」とありますが、知恵のことばである神のみ教えは、時に聞く者に、むちと叱責となり痛い思いをさせることがあるのです。しかしそれは愛する子に対する懲らしめであって、それによって子を訓練し、成長させ、正しい道へと導くためのものなのです(箴言3:11-12)。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」とヘブル書の作者も言っています(ヘブ12:11)。「あなたの子を懲らせ」(17節)とは、知恵を与える神のことばを子どもたちに良く教え込めということであり、それこそが愛をもってむちと叱責を与えることです。そうすればその子はこの世の悪の影響から守られ、健全に成長し、親に喜びをもたらす者となるのです。甘やかすだけなのは主の御旨ではないのです(21節)。なにが正しいことなのかをわきまえたいと願います。

主の確かな助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 箴言 28章◇(12月15日)

「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」…箴言28:14

今日の聖書日課の箇所である箴言28章においても、主を恐れる(畏れる)人とそうでない人が受ける報いが、全体を通して、対比をもって鮮やかに描かれています。「誠実に歩む人」(6節)とは、神の教えを守る者(7節)、主を尋ね求め(5節)、みことばに聞き従う者であり(9節)、そのような者には分別があって、すべての事において、神から与えられる悟りのうちに歩むことができるのです。そのような者はまた、常に自らの歩み、あり方を省み、それが神のみこころにかなうかを吟味するのです(11節)。そしてもし主の道からはずれていることが示されれば、それを告白し、神に喜ばれないものを手放すのです。そのとき真実で正しい神は、それを良しとされ、恵みとあわれみをもって赦してくださるのです(1ヨハ1:9)。そのように絶えず主を恐れる(畏れる)者は、羊飼いなる主の御手の中で守られ、導かれ、養われて、幸いな日々を過ごすことができるのです。しかし、心をかたくなにし、自分が正しいとし、自らの罪を認めない者はわざわいに遭うのです(14節)。争いと不安に満ちた歩みを余儀なくされてしまうのです。主を畏れ、自らの果たすべき分をきちんとわきまえ、自分の畑を耕す者は多くの収穫を得ることができます。しかしそのことをいとい、そのための労力を惜しみ、貪欲な心で空しいものを追い求めてばかりいる者は、貧しくなり、みじめな生活を送るのです(18-20,22節)。「主に拠り頼む人は豊かになる」(25節)。主イエスも、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」と言われました(マタ5:6)。自分の思いに従って富を得ようとする者は貧しくなり、主を畏れ、義に飢え渇く者は祝福を受けて満ち足りる…。すべての者がこの真理のうちに歩むようにと願います。

主の祝福が豊かに注がれますように。

◇聖書箇所: 箴言 27章◇(12月14日)

「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。」…箴言27:9

友についての真理のことばが書かれています。友の慰めはたましいを力づけるというのです。それは、私たちの心を喜ばしく高揚させてくれる、香油や香料のような物質的なものよりもまさり、たましいを力づける、すなわち励ましを与え、生きる意欲をもたらす、人格的な交わりなのです。「慰め」とありますが、それは必ずしも、気の利いたことばを掛けることを意味していません。失意や悲しみや不安の中にある友に対して、どのようなことばを掛ければよいのかわからず、また月並みなことばが逆に作用することもあります。「寄り添う」という表現がありますが、そのように、ただそばにいる…いっしょに時間を過ごす…ことばではなく「存在」による慰めがあるのです。「近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる」(10節)。「近くにいる」と、そこでも存在の大切さが説かれています。私たちが良き隣人、友人として他者と関わるためには、時間や思いを共有し、それをささげることが求められます。そしてそれは、その人を愛することに他ならないのです。「あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。主は弟子たちにそう言われました。その主イエスは、友のために、すなわち私たちのため、全人類のために、いのちさえもささげて愛してくださったのです(ヨハネ15:13)。そしてその主は、インマヌエル、世の終わりまでも、いつも私たちとともにいてくださるお方なのです。私たちにとっての良き友である主の慰めと励ましほど、私たちのたましいを力づけてくれるものはありません。さまざまな問題が起こると私たちはその解決を求めて、あたふたとしてしまいがちですが、そのようなときこそ、主との一対一の親しい交わりを持つべきなのです。祈りを通して現状と思いを包み隠さずに主に伝えるなら、主はそれに対して必ず答えてくださるのです。真実な友なるイエスがともにいることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 26章◇(12月13日)

「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」…箴言26:12

愚かな者と怠け者について書かれています。4節では「…その愚かさにしたがって答えるな」とあり、5節では「…その愚かさにしたがって答えよ」とあって、一見すると矛盾しているように思えますが、それは、本来は愚かな者に答えるべきではないが、愚かさを暴露するには知恵をもって答えるしかない、そこまでしないと自分の愚かさに気づかないのだという、愚か者への皮肉に満ちた対応を表わしているのです。「愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ」(8節)。「気違いに刃物」という慣用句が日本にもありますが、愚かな者、すなわち知恵のない者のことばやふるまいは、周りの人や自分をも傷つけることになるのです(10節参照)。多くの人が自分を知恵のある者だと考えています。その知恵により人生を幸せにできると信じて疑いません。しかしその知恵が神からのものでないとしたら、人の知恵で十分だとするなら、その人は愚かな者なのです。その人の歩みには不和や争いが絶えることがないのです。怠け者もまた、自分を知恵のある者と思うのです(16節)。愚かな者とその本質において同じなのだと教えられます。すなわち、神からの知恵を求めようとしないということです。自分の考えに頼り、自分を常に正しいとし、自分の好むことだけを求めて生きようとするあり方です。しかしそのような者には、将来への望みがないのです。なぜなら神からの誉れが与えられないからです(1,8節)。自分には知恵がない、知恵がなくては生きられない…。そのように主の前にへりくだり、知恵を神に求めて生きる。神のみ教えに聞き従う。その不退転の決意をもって、一歩一歩、主が備えられた道を歩み続けて行く…。そのような者こそが神からの誉れ、義の栄冠を得る者とされるのです(2テモ4:8)。目指すべきところをしっかりと見定めて歩む者でありたいと願います。

豊かな知恵と確かな導きが主から与えられますように。

◇聖書箇所: 箴言 25章◇(12月12日)

「知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。」…箴言25:12

他者との関わりにおける大切な原則、特に、私たちの「ことば」がどうあるべきかを教えられます。「軽々しく(「急いで」:2017訳)訴えて出るな」(8節)。私たちは、ともすれば物事を深く考えようとせず、表面的な事象だけを見て判断してしまいがちです。また自分が正当に扱われていないと感じると、よく調べないですぐに訴えようとしてしまいます。しかし、それではいけないとみことばは言うのです。しばしばその訴えは真実ではく、思い違いであり、それが明らかになると恥をかくことになるのです。事の本質が何かを見極めることが大切なのです。「知恵のある叱責は…黄金の飾りのようだ」(12節)。叱責とは、怒鳴って叱り飛ばすことではありません。叱責とは、相手の成長を願い、失敗を繰り返さないよう、自分に与えられている気づきを分かち合うことです。そして、相手が前向きな気持ちでさらに取り組めるよう、次に期待していると伝えて励ましてあげることです。そのように説得力のある知恵のことばが語られるならば、それは聞く者にとって高価で喜ばしいものとなるのです。「忍耐強く説けば、首領も納得する」(15節)。忍耐とは、単に我慢することではありません。忍耐とは、必ず願うようになると、心を強くすることです。何よりも主権者なる神に信頼し続けるということです。何かのことで他者から拒まれてもすぐにあきらめずに、忍耐と確信をもって、主に祈り求めつつ説き続けるなら、上に立つ者もそのことばに納得するようになるのです。「時宜にかなって語られることばは…金のりんごのようだ」とありますが(11節)、確かに、「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」のです(伝道者3:7)。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロ4:6)。主の御旨にかなうことばを語る者でありたいと願います。

語るべきことばを主が与えてくださいますように。

◇聖書箇所: 箴言 24章23-34節◇(12月11日)

「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。」…箴言24:27

箴言では、怠け者のことがたびたび語られています。31節には、怠け者の畑の描写があります。そこは、いばらといらくさ(とげがあり皮膚がかぶれる植物)が覆い、石垣も壊れていて、醜い姿をさらけ出しているのです。そして箴言の作者は、その怠け者の畑を反面教師とし、自分の畑をそうしないようにとの戒めを主から受けたのです。「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え…」。27節にあるのは、怠けないで勤勉であれという教えです。与えられた仕事に励み、畑を整えるということは、他者に仕え、益をもたらし、全体に貢献するということです。そしてその後で、自分の家を建てる…つまり、自分が住むための場所を整え、そこで楽しみ喜ぶのです。ところが現代は、自分の家を建てることを最優先し、他者のことは顧みない自己中心性がますます強くなり、社会や家庭の中にさまざまな問題が生じているのです。「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます」。箴言10章4節にはそうあります。パウロも、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」と言っています(ローマ12:11)。主に贖われた聖徒たちには、自分たちに与えられた時間、機会、賜物を最大限に用いることが求められているのです。それが仕事(働き)を確かなものとし、自分の畑を耕し、整え、蒔かれた種を育て、豊かな実を収穫するということなのです。それを怠り、自分の家を建てることだけに一生懸命…というあり方は、主の御旨にかなうものではないのです。怠け者は、置かれている状況を正しく把握することができず、いつでも当然のように眠り、まどろんでしまいます(33節)。しかし今は終わりの日が近づいている時代であって、私たちは花婿なるキリストがいつ来てもよいように、絶えず目を覚まして備える必要があるのです(マタイ25:13)。そのように、仕事を確かなものとし畑を整える私たちのために、主は、必要な住まいをこの地上に与えてくださるのです。永遠に住まう家を天に備えてくださっているのです。主から託された働きを忠実になす者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 24章1-22節◇(12月10日)

「わが子よ。主と王とを恐れよ。」…箴言24:21a

知恵のある者、主を畏れる者の幸いと、愚か者、悪を行なう者の対比が描かれています。神からの知恵、知識、英知に満たされる者は、堅固な家を建てることができます(3節)。その家は嵐にあっても倒れることがないのです。「家」は試練に遭う私たちのことを暗示しています。一方、神からの知恵を珊瑚のようだと考えている者、高尚で自分とは無縁だと求めようとしない愚かな者は、町の門のところでも口を開くことができないのです。すなわち、決断が求められる状況に置かれても、どう考えて何とことばを発するべきかがわからなのです。町の「門」とは会議や裁判が行なわれる場所であり、私たちの人生の岐路を暗示しています(7節)。「わが子よ。蜜を食べよ」と命じられています(13節)。神からの知恵は口に甘くておいしい蜜であって、私たちの心とたましいに喜びと祝福をもたらし、将来への希望を与えるのです。そして甘い蜜である知恵とは、主のみことばであるのです(詩19:10)。そのように知恵ある者は、悪と不正を行う者に対して、腹を立てたり、ねたみを起こすことはないのです。なぜなら悪者どもの歩みは決して長続きしないからです。主が彼らを退け、そのともしびを消されるからです(20節)。人にとって何より大切なのは主と王とを畏れることです。王の絶対的主権を認め、主の前にへりくだることです。しかしそれは王を近寄りがたい存在とすることではなく、私の人生のすべてを治めてくださるお方として慕い求め、庇護を願ってみそばへと積極的に近づくことなのです。すべての人の王としてお生まれになられたキリストは、家畜小屋の飼葉桶に寝かされたお方なのです。異邦人である博士たちや、世間から除け者にされていた羊飼いたちがその王に近づき、礼拝をささげたのです。私たちもその王のみそばへもっと近づきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 23章19-35節◇(12月8日)

「わが子よ。よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。」…箴言23:17

「わが子よ」と、ご自身の愛する子である民に対し、父なる神の呼び掛けのことばはさらに続いています。「よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ」…。知恵と訓戒と悟りを得、それらを蓄え、道をまっすぐに歩ませるのは頭ではなく心なのです。15節にも「あなたの心に知恵があれば」とあり、また申命記には、「あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」とあるのです(申6:5)。そのように私たちの心に神のことばが満ちるなら、主の心もまた喜びに満ちるのです(15節)。私たちの心に主のみこころにかなう思いが常にあり、それがくちびるからことばとなって発せられるとき、主の心もまた「喜びに躍る」(16節、2017訳)のです。主はご自身と同じ心を私たちが持つように願っておられ、主の喜びが私たちに真の喜びをもたらすのです。「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ」(26節)。私たちの心を向けるべき対象は、人ではなく、この世のものでもありません。それは神なのです。また私たちの心の目は、主が備えておられる道を、どんなときにもしっかりと見守り続けるべきなのです。肉的な快楽に楽しみと喜びを見いだそうとする者、神から与えられている時間を無駄に過ごす者は、ぼろをまとうほどに貧しくなってしまいます(20,21節)。しかし神からの知恵と真理に満ちた心を持つ者、主の教えを喜びとしてその道をまっすぐに歩む者は、水路のそばに植わった木のように生き生きとし、豊かに実を結び、何をしても栄えるのです(詩篇1:2-3)。キリストを信じ、神の子どもとされた者として(ヨハ1:12)、「わが子よ…」との主の呼び掛けに耳をしっかり傾け、その教えに忠実に従い続けていきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 箴言 23章1-18節◇(12月7日)

「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。」…箴言23:17

いつの時代、どこの国においても、不正の富を得、私腹を肥やす者たちがいます。ある者は自分もそのおこぼれにあずかりたいと考え、お世辞やおべっかを使って彼らに近づこうとします。別の者は正直者がばかを見ることに嫌気がさし、誠実に日々を生きることをやめようとします。しかし、私たちに求められていること…それは、いつも、ただ主を畏れて歩むことなのです。それは、人ではなく神に目を向けるということです。また、地上ではなく天にあるものを求めるということです。さらにそれは、今にとらわれず永遠を思うということです。なぜならば終わりの時が確かに来るからです。そのとき、罪人は永遠のさばきに定められ、義と認められた者は主とともに永遠に生きるのです。「子どもを懲らすことを差し控えてはならない」(13節)。訓戒と知識のことば、すなわち主のみことばによって、子どもたちを教育し、訓練するのは大切なことです。しかし親もまた、身勝手で成熟していない者であって、「わが子よ」と呼ぶ神から教えられる必要があるのです。「わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、 あなたのくちびるが正しいことを語るなら、私の心はおどる」(15,16節)。私たちが主の前に正しく歩み続けようとするならば、主はそれを喜ばれるのです。主の心は喜び躍るのです。「ただ主をいつも恐れて(畏れて)いよ」…。人ではなく、地上ではなく、今のこの時ではなく、神に、天に、永遠に心を向けていくことが大切なのです。何よりも、神さまとの親密な関係の中に日々歩む者、絶えず主のみこころを尋ね求め、それに聞き従う者、主の喜びをおのれの喜びとする者となるべきなのです。主の前にへりくだり、誠実でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨエル書 3章◇(12月6日)

「あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。」…ヨエル3:17

「わたしの民」、「わたしの地」という主のことばが心に留まります(2節)。王である主にとって、国民である一人ひとりと、住む土地である領土はなくてはならないものであって、主は主権をもって、それらを奪った敵に対してさばきをなされるのです。ご自身の民と領土を奪い返してくださるのです。そして、神の都と呼ばれるエルサレムは、主が「わたしの聖なる山」と呼ばれる聖なる地であり、神殿が築かれ、主が住まわれる特別な場所です。ご自身の財宝が敵の手によって奪われたとしても(5節)、それは異教の神の宮に置かれたままにはされないのです。「わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする」。その預言は歴史において現実となりました。主の民は、失った国家を国連決議によって取り戻し、散らされた国々からの帰還は今なお続いているのです。そして、今は異教の者たちにより一部が支配されているエルサレムも、完全に解放されるときが必ず来るのです。そのように、主が預言者を通して語られたことは、主のときに、目に見える形で確かに成就するのです。しかし、しばしばそれは段階的に実現していくのであって、今も続き、これから後に完成することであるのです。またそれは、政治的な意味でのことであると同時に、霊的な事柄を意味する、多重性を持ったものなのです。「神の国は、あなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)。キリストは御国の王として今も力強く統治しておられます。そしてその国民は、血筋によるイスラエル人だけでなく、キリストを信じて贖われたすべての聖徒たちなのです。その領土は目に見えない神の国として拡大し続け、教会と聖徒たちが主の住まわれる宮とされているのです。ご自身のことばに真実な主にただ信頼したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨエル書 2章15-32節◇(12月5日)

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」…ヨエル2:28

「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ」と、1章14節のことばがふたたび語られています(15節)。乳飲み子から老人まで、民が主の前に出て、心を引き裂いて真実な悔い改めをするならば、ご自分の地と民を愛し、あわれまれる主は、北から来るものを遠ざけて、砂漠の地や海へと追いやってくださるのです(20節)。「地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。…シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ」(21,23節)。ヨエルは民に対してそのように呼びかけています。それてそれは民を義とするために、主が初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだと言うのです。パレスチナ地方では2回の雨季を経ることにより、麦の豊かな実りが得られますが、そのように、霊的な収穫をもたらすために、人々を義とするために、主が天から地へと、必要な恵みを送られるのです。それは2度到来するメシアを示唆するのかもしれません。28節以降はペテロが五旬節の日に語ったことばです。「わたしの霊をすべての人に注ぐ」…。ヨエルは「その後」、ペテロは「終わりの日に」と言いましたが、それは確かに、主を待ち望む人々に聖霊が注がれるという出来事として、2千年前に部分的に起こりましたが、同時にまた、最終的な恐ろしい主の日が来るときに、完全な形でその主のことばは成就するのです。主イエスは「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、…地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われました(使徒1:8)。主の霊が注がれている私たちは、キリストの証人として、終わりの日が近づいているこの時代に生かされ、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(32節)と伝えるために、それぞれのところに遣わされているのです。そして主は、その一人ひとりを「預言者」として用いてくださるのです。

御霊の助けと導きが与えられますように。

◇聖書箇所: ヨエル書 2章1-14節◇(12月4日)

「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。」…ヨエル2:12b-13a

「主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」(11節)。ヨエルは主の日のありさまについて述べています。それは太陽や月も光を失う闇と暗黒の日であり、強大で数多い民が襲ってきて炎のようになめ尽くし、彼らが去った後は荒れ果てた荒野となってしまう…。まさに1章にあるようにいなごの大軍の襲来を受け、徹底的に食い尽くされるわざわいのときであるのです。「しかし、今、-主の御告げ-」と、ヨエルは、民を見捨てない主のあわれみのことばを語ります。「…わたしに立ち返れ。…あながたの心を引き裂け…」。神が求めている悔い改めは、単なる反省ではなく、心に痛みと悲しみを生じるような自己否定であり、裂けたその心を修復される主への明け渡しなのです。私たち自身の思いに満ちたその心を破り捨てるとき、主はご自身の思いがあふれる心へ造り変えられるのです。わたしに立ち返れ…主に立ち返れ…と繰り返されています。主イエスが語られた放蕩息子のたとえが思い起こされます。「立ち返る」とは、元々いたところに戻るということです。人は本来、神のみもとにずっと留まっているべきなのです。しかし身勝手な私たちが神に背を向けて出て行き、神でないものに心奪われ、それに信頼しようとしたゆえに、神はそれを悲しみ、憤り、わざわいを起こされるのです。しかし、一方的に突然それを実行することなく、警告を与え、民が心を引き裂き、悔い改め、神に立ち返るなら、元のところに戻って来るなら、祝福してくださるのです。「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」(13節)。自らのあり方を吟味し、心を引き裂いて真実に悔い改め、恵みとあわれみと満ちた主の元に常に立ち返る、戻っていく、そのような者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨエル書 1章◇(12月3日)

「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」…ヨエル1:14

預言者ヨエルについては、ペトエルという人の子であること以外には何もわかっていません。彼が生きた年代がいつかもわかっていません。その彼が預言し、民に伝えようとしたのは、「主の日は近い。その日が来る」という警告です。いなごの大軍の襲来が4節に書かれています。中東の国々ではそれが実際にしばしば起こり、穀物を食い荒らされて飢饉をもたらしました。いなごの食い残しをさらに別のいなごが食い、その食い残しをさらにまた別のいなごが食う…徹底的に食い尽くすさまが描かれています。6節には敵国からの攻撃を受けるとあります。それは強大で圧倒的な勢力を持つ国です。それはぶどうやいちじくの木を荒らすとあります。いなごの大軍とその敵国が重なっているのです。「主の日」とはそのような破壊の日なのです(15節)。そしてその「主の日」は多重的な意味を持っています。神の民を蹂躙しようとする強大な国とは具体的には、アッシリヤ、バビロン、ローマなどの帝国であり、反キリストの勢力を擁するサタンの帝国です。最終的な「主の日」に起こることとは、神がこの世と人々に対してなされるさばきなのです。「主の日は近い。その日が来る」…。だからこそ、断食ときよめ、すなわち悔い改めが必要なのです(14節)。自らのありかたを省み、主に従い信頼することにおいて決して十分ではないことを悔い改め、主に立ち返る…愛とあわれみに満ちた主を仰ぎ見、御名を呼び求め、主の赦しと救いをしっかりと受け取り直す…。それは、救い主を待ち望むアドベントにふさわしいことなのです。

主の豊かな恵みを覚えることができますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 13章◇(12月1日)

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」…2コリント13:5a

「不適格」ということばが繰り返し使われています。「失格とされた者」という意味です。しかし、その判定基準はコリント教会の人々のものであり、厳しいことばで正しい信仰のあり方を説くパウロを、煙たい存在として彼らは排除しようとしたのです。しかしそんな彼らをパウロはもちろん見捨てません。あなたがたに正しい行いをしてもらいたいのだ…私たちはあくまで真理を伝えようとしているのだ…あなたがたが完全な者になるよう祈り願うのだ…と、パウロは偽教師たちに惑わされることがないように、神のことばに従い続けるようにと訴えているのです。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか(「信仰に生きているかどうか」:2017訳)、自分自身をためし、また吟味しなさい」。信仰に立って生きるとは、疑いを持たないということだけを意味しません。それは神に、みことばに、自分を明け渡して全面的に従うということなのです。パウロは、「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです」と言っています(10節)が、この部分を直訳すれば、「建物のためであって破壊のためではない」となります。パウロがコリント教会の人々に受け入れられなくても、権威をもって神のことばをまっすぐに語り続けたのは、一人ひとりが神の宮として建て上げられるためであり、何よりもそれを神が望んでおられたからであるのです。自分にとって耳障りのよいことばだけを受け入れる…それは信仰に立って生きる者のあり方ではありません。主はみことばを御霊により、立てられた器を通して語り、私たちを成長させ、建て上げようとしておられるのです。霊のマナを好き嫌いなく頂く者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

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