瀬谷キリスト教会-平安と希望と喜びに満ちた人生を!瀬谷キリスト教会は横浜市瀬谷区にあるプロテスタントの教会です。

2018年5月 今日の聖書日課

◇聖書箇所: マルコの福音書3章13-19節◇(5月31日)

「イエスは12人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」…マルコ3:14-15(新改訳2017)

主イエスは山に登り、ご自分が望む者たち、つまり、ご自分の意にかなう者たち12人を選ばれ、呼び集められ、弟子として任命されました。その人数である12はイスラエル部族の数です。主は、新しい霊的なイスラエルである、神の国を樹立するために彼らを選ばれたのです。主は彼らを使徒と呼ばれました。使徒と訳されているギリシャ語には「遣わされた者」という意味があります。彼らは使者、使節であり、キリストから使命を受けて出て行く者たちなのです。しかし、彼らはいきなり遣わされたわけではありません。主が彼らを任命し、使徒と呼ばれた目的として最初に、「ご自分のそばに置くため」と書かれているのです。使徒たちは主と寝食をともにして生活する中で、取るに足りない自分たちのことを主がいかに愛し、受け入れ、期待してくださっているかを肌で感じたのです。そして、特に神の国について多くのことを教えられ、それを拡大するために自分たちが用いられるということを、強い確信をもって受けとめるようになっていったのです。そのことを経て、主イエスは徐々に使徒たちを、実際に人々の中に、宣教の場へと遣わされていきました。そして悪霊を追い出す権威を与えられた彼らは(マル6:7)、それを実際に使うことによって神の力を体験したのです。そのようにして主は使徒たちを整えて用いられたのです。主イエスの復活の証人が使徒だという定義がありますが、「遣わされた者」という原語の意味から言えば、私たちも、キリストに任命され遣わされた「使徒」にほかなりません。私たちはキリストの御旨のため使っていただく聖徒であり、キリストから与えられた権威を大胆に使う者たちなのです。そしてそのために、まず主のみそばに置かれ、親しく交わり、御声を聴いて教えられ、整えられることが大切なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

聖書箇所: マルコの福音書3章1-12節◇(5月30日)

「それから彼らに、『安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか』と言われた。彼らは黙っていた。」…マルコ3:4

主イエスは、会堂にいた片手の萎えた人を、いやそうとして真ん中に立たせました。それをじっと見ていたのがパリサイ人たちです。律法主義者である彼らは安息日にも規定を設け、生活に必要な労働をも制限しようとしましたが、彼らにとって人を安息日にいやすことは違反であり、自分たちのあり方を批判する邪魔な存在であるイエスを訴えるための、絶好の機会だったのです。彼らの心のうちを知っておられた主イエスは、神が定めた安息日の意義を問われました。「律法にかなっている」(2017訳)安息日の行いとは、善なのか悪なのか、救うことか殺すことか…と。安息日は何よりも「主の安息」であって(出20:10)、聖なる日として区別し取り分けるべきものであり、神がなされた偉大な創造のわざを覚え(出20:11)、また、神の救いのみわざを忘れないために(申5:15)、そしてその中で人が真の安息にあずかるために、神ご自身が制定されたものであるのです。しかし、パリサイ人たちは、自分たちの規定を遵守すること自体に安息日の目的をすり替え、守れれば自己満足し、守れない者たちを裁くという、実に愚かで、不遜で、罪深い者となっていたのです。そして主イエスは、そのような彼らに対して怒られ、頑なな心を「嘆き悲しまれた」(5節、2017訳)のです。主は彼らの目の前で、「手を伸ばしなさい」と言って、片手の萎えた人をいやされました。主は、失われた本来の意図を取り戻すために来られ、今も人々を回復させるべく、わざをなしておられます。いやし、悪霊からの解放、罪からの解放としての救い…。それらは、「見よ。それは非常に良かった」と言われた、神が意図された人を回復させるためのみわざであり、主がもたらされた神の国の祝福にほかならないのです。その主の祝福を人々と分かち合う者でありたいと願います。

主の平安がありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書2章18-28節◇(5月29日)

「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」…マルコ2:22

パリサイ派の律法学者たちは主イエスに尋ねました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか」(18節)。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネが捕らえられ殺されたことを悲しんでいました。彼らは断食を伴う祈りへと導かれていたのです。一方、パリサイ派と呼ばれる律法学者たちは、律法を遵守すべく、その周りに垣根を張り巡らすかのように、自分たちでさらにさまざまな規定を考え出して、それを守るように人々を教えていたのです。主イエスはパリサイ人たちに答えられました。花婿に付き添う友人は一緒にいる間は断食できないと。花婿とは主イエスのこと、友人は弟子たちのことです。今は断食のときではない、招かれた婚宴の席で祝い、花婿と喜びを分かち合うときなのだ…と。主は断食それ自体を否定されたわけではありません。パリサイ人たちのように形式的になり、そして何よりも、人から出たもので人を縛るあり方を否定されたのです。主は、古い着物を新しい布ぎれで継ぎをしたら破れる、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら張り裂ける、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れよ、と言われました。古い着物、古い皮袋とは、律法や規定に捕らわれ、それを守っていさえいれば神に受け入れられるとする、パリサイ人たちの間違った考え方です。またそれは、伝統、常識、慣れ親しんでいるものといった、私たちが固執しがちな人間的なものをも意味しています。私たちは新しい皮袋を主からいただき続けるべきなのです。新しいぶどう酒は発酵し続け、主の導きも変化し続けており、それにしっかり対応した入れ物が必要になるからです。そして御霊は、そのような器へと、日々私たちを造り変えてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書2章1-17節◇(5月28日)

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」…マルコ2:17

主イエスと弟子たちは取税人レビの家を訪れ、そこで取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。取税人とは、人々から多額の税金を取り立てて、ローマ当局に納めるために置かれている者であり、人々から非国民呼ばわりされていた存在です。また罪人とありますが、実際に悪事を行った者や、律法に従えず罪の意識に悩む者もいたでしょう。それらの者たちが大勢イエスに従って来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていたのです。一人ひとりにちゃんと席が備えられていたのです。彼らは招かれているのだと主は言われました(17節)。主ご自身が来てほしいと願って歓待されたのです。それを見ていた律法学者たちは眉をひそめながら、直接イエスにではなく、弟子たちに対して、「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」と言って非難しました。取税人や罪人のような「汚れた」者たちといっしょに食事をするのは、彼らにとってあり得ないことでした。それを知った主イエスは彼らに言われました。丈夫な人に医者は要らない。病人にこそ必要なのだ。私は、罪人を招き、赦し、いやすために来たのだ…と。主は、自分たちは正しい、いやされる必要などないと、うぬぼれ、傲り高ぶっている律法学者たちに対して、そのように皮肉たっぷりに答えられたのです。私たちはどうでしょうか…。主イエスが招き、歓待された、世間の人々から疎んじられているような人々に対して、関わりを持つのに抵抗を感じるようなことがないでしょうか…。私たちはすべての人が主の元に集うよう願うべきなのです。そもそも、私たち自身が罪人であり、病人であって、主に赦され、いやしていただく必要がある者なのです。今日も主は、一人ひとりを食卓に招いてくださっています。感謝をもってそれに応え、恵みにあずかりたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書1章21-34節◇(5月26日)

「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」…マルコ1:22(2017訳)

ガリラヤで宣教を開始された主イエスは、安息日ごとに会堂に入って教えを説かれました。それを聞いた人々は驚きました。なぜなら、いつも聞いている律法学者たちのようではなく、主イエスが権威ある者として語られたからです。心が責め立てられる窮屈な教えのことばではなく、喜びがもたらされるいのちのことばであったからです。主イエスが持っておられた権威、それはとりもなおさず父から与えられた権威であり、神としての権威、王としての権威です。「時が満ち、神の国が近づいた」(1:15、2017訳)。そしてその権威は神の国の統治のためのものなのです。主は会堂にいた人に取りつく汚れた霊に向かって、「この人から出て行け」と命じて追い出されましたが、そのとき主イエスは、ご自身の持つその権威を行使して、神の国にそぐわない、不要なものを取り除くべく、「不法滞在」していた霊を御国から強制退去させたのです。その主イエスによってシモン・ペテロの姑はいやされ、人々の様々な病はいやされ、多くの悪霊が追い出され、御国の王による解放のみわざがそこに起こりました。それは、その人と神との間にある邪魔な隔てを取り除き、内に神の国をもたらして、御国の王の支配のもとに置き、神との正しい関係を修復させるということであったのです。それにより、罪からの解放、救いがもたらされるのです。主イエスは神の国を拡大し、統治を推し進めるため、弟子たちにもご自身のその権威を分け与えられました。以来、その権威は、キリストの弟子とされたすべての者に、今を生きる私たちにも、確かに与えられているのです。それは私たちが遣わされたところで、神の国を拡大すべく、積極的に行使するために、付与されているものなのです。悪魔は主イエスを私たちよりはるかに良く知っています。私たちは権威をもって大胆にそのイエスの御名を宣言し、主のみわざを多くの人々と分かち合うことができるのです。

主が一人ひとりを尊く用いられますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書1章12-20節◇(5月25日)

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」…マルコ1:17

バプテスマのヨハネが捕らえられたと知った主イエスは、ガリラヤ地方において宣教をいよいよ開始されました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。人々に救いと解放をもたらすメシアが来られることは、旧約時代の多くの預言者を通して語られていましたが、神の時が満ちてついにそれが実現したのです。すべての領域において神の力と支配が顕著に現されるべく、神の国がキリストによってこの世にもたらされたのです。それから主イエスは弟子となる者たちを集められました。湖で網を打っていたペテロと兄弟アンデレに声を掛け、弟子となってご自身に従うようにと促されたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。そのように言われた2人はどのように思ったでしょうか…。魚を採るプロである自分たちの能力が活かせるなら…と考えたかも知れません。大漁のときのあの大きな喜びがまた違った形で味わえるなら…と期待したかもしれません。いずれにしても呼ばれた2人は「すぐに」従ったのです(18節)。その弟子たちの召命の出来事から3年あまりのうちに、主イエスの十字架、復活、昇天、五旬節の日の聖霊の注ぎと、神の救いのご計画は速いスピードで進められて行きました。その間、ペテロは主を3度否むという失態を演じ、その後、舟の右側に網をおろしなさいという主の命令に従って、網を引き上げることができないほどの大漁を経験し、さらに聖霊のバプテスマを受けた彼は大胆に人々に説教をし、1日に3千人もの人々が救われるという「大漁」が起こったのです。そしてそれらから教えられることは、採るべき魚、救われる人々を備えられるのはキリストご自身であり、その「大漁」は神の国の祝福であり、聖霊の働きによるのであり、弟子たちが主イエスに従う者、自分自身をささげる者となって、自らが果たすべき役割、働きを忠実に行っていくときに、その大いなるみわざ、リバイバルが起こされるということなのです。そしてそれが拡がる速さは、今日ますます加速しているのです。主の働きに間に合う者、しっかりついていく者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書1章1-11節◇(5月24日)

「彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。』」…マルコ1:7

バプテスマのヨハネと呼ばれる人物が、荒野において、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝えていました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタ3:2)。ユダヤの人々は神の国の到来を待ち望んでいましたが、彼は、それがメシアによってもたらされること、そのメシアが間もなく来られることを示されていました。そして自分が、主の道を用意するための存在であり、その来臨を人々にあらかじめ告げる者に過ぎないと、その立場と役割をきちんとわきまえていたのです。ここにヨハネの謙遜、へりくだりを見ることができます。一方、ヨハネの前に現われた主イエスもまた、へりくだり、ヨハネからバプテスマを受けられました。主イエスは罪のない神の小羊、御子であられ、悔い改めのバプテスマを受ける必要はありませんでしたが、ためらっているヨハネに対し、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタ3:15)と言われたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか。ともすれば、自分が「脇役」であることに不満を覚え、自分が「値うちのある者」として人々に認められたいと、自分にスポットライトがあたることを求める誘惑に会います。あるいは逆に、証しとして「自分のことを」人に話すことに抵抗を感じ、ためらってしまうことがあります。しかし、ヨハネがその方のくつのひもを解く値うちもないとへりくだったように、また、メシアがおいでになりますと、自分ではなく、あくまでもキリストを指し示したように、そして何よりも、主イエスが神としてのあり方を捨てて、父の御旨に従い、実に十字架の死にまでも従われたように、私たちもそのような謙遜な者として歩むべきなのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴18:12)。主に贖われ生かされていることを今日も感謝しつつ、置かれた所で自分の役割を果たす者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇24篇◇(5月23日)

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」…詩篇24:7

神の創造のみわざを賛美し告白することばをもって、詩人はこの詩篇を歌い始めています。「住むもの」とは直接的には「生きもの」のことですが、詩人は世界に満ちている被造物、生きものの中で、神に似せて造られた特別な存在である人間のことを意識していたに違いありません。自然界も人の世界も、すべては、ヤーウェなる神の支配のもとにあるのです。その人間の中で「だれが主の山に登り得るのか…」と、詩人は思いを巡らしています。その「主の山」とは、神の聖所のあるシオン(エルサレム)の山のことです。そして詩人は、そこに入ることができるのは、「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」だと言うのです。「むなしいこと」とは、人の手で作った偶像を拝み、偽りの神に頼みを置くことです。そのようなことから離れ、ひたすら主の御顔だけを慕い求める人々、二心のない純粋な心こそ、きよらかな、澄んだ心であり、主はそのような者たちに祝福を与えてくださるのです。しかし人は自分のがんばりではそのようになれません。もとより人はみな罪人であって、聖なる所に立ち得る者は一人もいないのです。私たちは神から「義を受ける」(5節)必要があるのです。そしてそのために神はメシアを遣わし、私たちに救いの道を備えてくださったのです。詩人はここで、キリストの来臨を預言的に歌っているのです。そのキリストは栄光の王です。強くて戦いに力あるお方です。私たちのために、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げ、復活し、悪魔という死の力を持つ者に勝利されたのです。そしてその王なるキリストは、今、聖なる御霊として、純粋な心で主の御顔を慕い求める人々のうちに住まわれ、ご自身の勝利と祝福にあずからせてくださるのです。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ」。かしらを上げ、心の扉を開き、王を心の中心、王座にお迎えし、キリストに人生のすべてを支配していただきたいと願います。

主の勝利と祝福が豊かにもたらされますように。

◇聖書箇所: 詩篇23篇◇(5月22日)

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」…詩篇23:4

詩篇23篇は、多くの人に愛され親しまれ、またその豊かな内容から多くを教えられる詩篇です。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」。詩人ダビデはそのように歌い出しています。良き羊飼いである主が、緑に満ちた牧場に伏させ、水のほとりで自由に水を飲めるようにしてくださる…ダビデは自分が弱い羊であることを自覚しています。羊飼いによって、守られ、導かれ、養われるからこそ、その元で常に安心して暮らせると告白しているのです。その羊飼いは、私たちの肉体の欲求を満たすだけでなく、霊的な必要に応えてくださるお方です(3節)。ダビデは、敵に執拗に付け狙われる中で、また、犯した罪の重みに耐えかねる中で、自らのたましいが干からびて死にかけているように感じていましたが、枯れた骨に主の息が吹き込まれて立ち上がるように、主の赦しと解放を受け、たましいが「生き返った」のです。その羊飼いは、先に立って私たちを導いてくださいます。牧場だけでなく死の陰の谷を通らされることもあります。そこは闇に覆われており、進むのを躊躇してしまう道です。しかし私たちは恐れる必要はないのです(4節)。羊飼いなる主がともにいて敵から守ってくださるからです。道から外れそうになる羊を連れ戻してくださるからです。ご自身のむちと杖、みことばによって導かれるからです。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(6節)。羊飼いなる主イエスが導かれる義の道、完全な道、それは天の御国へと続く道です。「私のいのちの日」は、この地上に限らない、永遠に主の家で住まう日々です。羊が自分の羊飼いの声を聞き分けてついていくように、私たちも確かな主の御声に聞き従って歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇22篇◇(5月21日)

「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」…詩篇22:24

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか…」(1節)。詩人は、試練と困難の中で、苦しさのあまり、思わずそのように神につぶやきました。助けてください、救い出してください…と祈り求めても、神からの答えが与えられない状況がずっと続くと、つい私たちも同じように考えてつぶやいてしまいます。その詩人の訴えは、私たちの思いを代弁したものなのです。主イエスもまた、十字架の上で、同じことばを、神に向かって大声で叫ばれました(マタ27:46、マル15:34)。神の御子であるキリストが父との関係の断絶を味わう…それはローマ兵によって鞭打たれた肉体の痛みよりももっと大きな、魂の痛みであったに違いありません。そしてそれは全き神かつ全き人として歩まれたキリストが、私たちの罪だけでなく、神に見放される痛みと苦しみをも負ってくださったということです。詩人と私たちの思いを、完全に理解して代弁してくださったということなのです。しかし神は、ご自身の愛する者を決して見捨てられません。キリストは3日目に死の中からよみがえらされたのです。詩人もまた、悩み、恐れ、落胆、憤りの中を通らされましたが、そのところを経て、神の助けと救いを体験したのです。神が真実なお方であり、弱い者の悩み、貧しい者の苦しみを決してさげすむことなく、御顔を向けてくださるということを、彼はあらためて知り、その主を賛美したのです(24,25節)。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命31:6,8)。モーセは主から示されたことをイスラエルの民に告げました。「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシ1:5)。主はヨシュアにもそう告げ、だから強くあれ、と命じられました。「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない」(イザ41:17)。イザヤもまた、主からのことばをそのように民に伝えたのです。それらのことばはもちろん、私たちにも語られています。愛するご自身の民を決して見捨てず見放さない真実な神を、心から待ち望み、忍耐をもって祈り求め続けたいと願います。

主は確かに答えてくださいます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇21篇◇(5月19日)

「あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。」…詩篇21:3

昨日の20篇は、王が出陣する際に、その戦いでの勝利を願うとりなしの祈りでしたが、今日の21篇の前半(1-7節)では、主がその祈りに答えて王に勝利をもたらされ、さらに王に冠を授けて喜びと楽しみを与える、そのような神の祝福について記されています。「あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました」(4節)。「あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます」(6節)。主にあって勝利を得たイスラエルの多くの王たち…しかし神からの永遠の日々と祝福にあずかる王とは、まことの王なるメシアであるのです。イエス・キリストが洗礼を受け水から上がられたとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という父なる神の声が天から響きました。キリストはその父の愛と喜びを受けて地上を歩まれ、やがていばらの冠をかぶせられて十字架にかかり、私たちの罪のために身代りとなって死なれましたが、墓から3日目に復活し、死と悪魔に勝利されたのです。キリストのかしらにはもはやいばらの冠はなく、栄光と誉れの冠が神から与えられたのです(ヘブ2:7,9)。そのまことの王なるメシア、イエス・キリストを通して、私たちもまた、王に与えられる祝福にあずかるのです。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と神をほめたたえつつ、主の恵みと祝福の中を歩む者とされるのです(詩16:11)。「まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう」(7節)。王がどんなときにも主に信頼し、神の勝利と祝福にあずかったように、私たちもまた主に全幅の信頼を寄せ、キリストにあって、いのちの冠、義の栄冠を受けるべく、主が備え導かれる歩みを全うしたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

聖書箇所: 詩篇20篇◇(5月18日)

「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」…詩篇20:7

「主よ。王をお救いください」(9節)とありますが、この詩篇は、王が戦いに出る際、民が祈りをもって送り出すときに用いられた詩だとされています。「苦難の日に主があなたにお答えになりますように…主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように…」。1-5節は、王のためのとりなしの祈りのことばです。しかし王が力強く戦えるようにと願っているのではなく、主が王に答え、助けを送り、王を高く上げ、ささえるようにと、主に目を向け、主ご自身の介入を求めているのです。とりなしていた詩人は不意に霊の目が開かれました。「主は、油をそそがれた者を、お救いになる」(6節)。油注がれた者とは王のことです。そして勝利の戦いがどのようなものであるかをはっきりと教えられたのです。それは目に見える戦車や軍馬を誇る戦いではなく、目に見えない神に拠り頼み、主に御名を誇る戦いだと。戦車や軍馬に頼る者は倒れたまま起き上がれないが、主に頼る者は倒れても立ち上がりまっすぐ立つのだと。ダビデと巨人ゴリヤテとの戦いが思い起こされます。ダビデはサウルが提供した武具を身に着けることをせず、自分の杖と石投げと石だけを持ってゴリヤテの前に進み、石投げで一つの石を相手の額を目がけて打ちました。するとそれが命中し、その一発でゴリヤテは倒れたのです。その戦いにおいて、ダビデは剣も槍も使いませんでした。そしてそのとき彼は、「私は…万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ」とゴリヤテに宣言したのです(1サム17:45)。戦車、軍馬…それらは戦いに特化した兵器、装備です。これさえあれば敵なし!と、ともすれば私たちも考えます。しかし戦いにおいて私たちが誇り、拠り頼むべきは、そのような目に見えるもの、人間的なものではないのです。それは主ご自身であって、主の御名によって私たちは戦い、主の勝利にあずかるのです。試練にあっても神に拠り頼み、主の御名によってそれに立ち向かう者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇19篇◇(5月17日)

「また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」…詩篇19:11

7,8節の「主の…は…で(て)…」と、畳み掛けるような詩人のことばに心が留まります。ちなみに、新改訳2017や新共同訳では、7-10節が同じ一つの段落として記されており、内容的には確かにそのほうが妥当に思われます。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ」(7節)。昨日の日課の箇所の詩篇18篇30節でも、「神、その道は完全」とありました。神は完全なお方であり、その神が備えられる道も、その神が告げることば、みおしえもまた完全なのです。主のあかし、主の戒め、主の仰せ…それらはすべて、主から与えられるみことば、みおしえを意味しています。そしてそれは、私たちのたましいを解放し、生き返らせ、愚かでわきまえのない者に知恵を与えて賢くさせ、嘆き悲しんでいる者の心に喜びをもたらし、私たちの目を明るくして、主にある輝きを与えるのです。言うまでもなく、それは主が与えられる良いものであって、私たちが受けるべきもの、求めるべきものです。しかしそれが見るだけ、聞くだけに留まっているとしたら、神の祝福に十分にあずかることはできません。それを「守れば」報いは大きいと詩人が言うとおりです。ヤコブもこのように言っています。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)。神のみことばを真実に行おうとするとき、私たちは、自分がいかにその神の要求に届かない者であるか、罪深く、欠けだらけの者であるかを思い知らされます。しかし、落ち込む必要はないのです。だからこそ、キリストは十字架にかかって私たちの身代りとなられ、死から復活し、私たちの贖いを成し遂げられたからです。私たちはキリストにあって神の前に義とされた者であり、私たちが自らの罪を悔い改めて主に立ち返るならば、神はキリストにある赦しと救いと祝福をくださるからです。感謝しつつ、みことばを守り行う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇18篇30-50節◇(5月16日)

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」…詩篇18:30

30節のことばが心に留まります。「神、その道は完全」とダビデは言っています。神が私たちのために備えてくださり、歩ませてくださる道は完全であって、私たちがその道に沿って歩み続けるならば、途中で迷うことなく、平安と確信のうちに、神のみもと、御国という目的地に向かって進んで行き、山あり谷あり、幾度も遠回りすることになっても、確かにそこに到達することができるのです。「主のみことばは純粋」。主ご自身が語られたことば、預言者や主が立てられた者を通して伝えられた神のことばは、不純物の全くない、純粋なものであって、人の思いや考えに基づいたことばではない、真理のことば、いのちのことばなのです。「主の仰せは火で練り清められている」(新共同訳)。またそれは、火で精錬された金属のように、朽ちることなく永遠に立つものなのです(イザ40:8)。「主はすべて彼に身を避ける者の盾」。主は、弱く、貧しく、人から見下されている者であっても、取り返しのつかない失敗、過ちを犯してしまったと、嘆き、苦しんでいるような者であっても、ご自身に身を避ける者、保護を求める者たちの盾となって、あらゆる敵の手から守ってくださるのです。その敵とは目に見える敵だけではありません。私たちの心をかき乱し、神から引き離そうとする悪しき者、悪魔が放つ矢を主は払い落とし、私たちを守られるのです。この神のほかに神はいません(31節)。私たちの歩みを確かにし、敵の手から守ってくださるのは、私たちを造られ、息を吹き入れて生きる者としてくださった神以外にはあり得ないのです。この神だけに拠り頼み、主が備えてくださっている道を歩んでいきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: 詩篇18篇1-29節◇(5月15日)

「あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。」…詩篇18:27

「あなたは、悩む民をこそ救われます…」。悩み、苦しみ、さまざまな試練や困難に遭うこと…それらは良くないこと、避けるべきことと考え、そのようなことの何一つない順風満帆の歩みこそ幸いだと、ともすれば私たちは考えてしまいます。しかし、悩みと苦しみの中で主を呼び求め、助けを求めて神に叫んだ詩人ダビデは、その叫びは確かに主の御耳に届いており、主は敵から救ってくださると告白しているのです。悩みがなかったら、すべてがうまく行っていたら(実際にはそうでなくても自分でそう思っていたなら)、私たちはすぐに「別に神は要らない」と考えるのです。そしてそれこそが人間の罪の本質なのです。「罪」ということばの元々の意味は「的外れ」です。私たちの心と思いの中心に神がおられなければ、人間の考えに基づいてことをなそうとするならば、それは的がはずれており、神の前に罪とされるのです。「主、わが力。私は、あなたを慕います」(1節)。詩人ダビデはそのようなことばで歌い始めています。そして「主はわが巌、わがとりで、わが救い主…」と、自分がいかに力のない者であるか、また神という、確かな避け所に身を寄せることがいかに心強いことかを、彼は告白しているのです。その主の御名をほめたたえ、主に拠り頼み、なお声を上げて叫び求めているのです。主イエスはこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)。また偉大な伝道者パウロもこう告白しています。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリ12:10)。悩みや苦しみがないことが幸いなのではないです。また、自らの弱さや足りなさに落胆しなくてもよいのです。私たちは主に向かって叫び求めることができるからです。そして主は、私たちのその叫びを聞き、それに応え、力強い御手を伸べて引き上げて下さるからです。試練の中にあっても、主の平安に満たされるからです。その主をさらに呼び求めて歩む者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 12章◇(5月14日)

「主のしもべモーセとイスラエル人とは彼らを打った。主のしもべモーセは、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、これらを所有地として与えた。」…ヨシュア12:6

ヨシュア記12章には、イスラエルの民が、神が約束された地であるカナンの先住民と戦い、そこを征服したことが要約として記されています。そこにはヨシュアと民の戦いの記録だけでなく、モーセと民が打ち破った、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグの名も挙げられています。どちらの戦いでも「ひとりの生存者も残さなかった」と書かれています。彼らは聖絶せよとの主の命令に忠実に従い、徹底的に敵を討ったのです。彼らは、東アラバと呼ばれるヨルダン川の東側を征服しました。7節以降には、ヨシュアに率いられた民が討ち取ったヨルダン川の西側の町々の王が記されています。名前は省かれていますが31人にも及んだのです。しかしそこに至るまでには数々の試練がありました。彼らはヨルダン川を渡らなければならなくなり(3章)、エリコの町では堅固な城壁が立ちはだかり(6章)、アイとの最初の戦いでは敗北してしまいました(7章)。しかしそのつど主は、川の中に立たなければならない、町のまわりを回ってときの声をあげよ、伏兵を置いて攻め上れ、と具体的にどうすべきかの指示を出し、ヨシュアと民はその命令に忠実に従ったのです。そして主がともにおられ、偉大なみわざがなされる中、彼らは試練をくぐり抜け、勝利することができたのです。モーセはカナン全土の征服を目にできませんでした。しかし彼は自分がなすべき分を忠実に果たし終え、ヨシュアという次の世代にたすきを渡したのです。私たちもまたキリストに率いられた神の民です。神の国の建設の働きは今もなお続けられています。征服すべき地は私たちの前になお残っているのです。私たちもさまざまな試練に会いますが、ひるむことなく、主に尋ね求め、御声に聞き従って果敢に行動し、主がなされるしるしと不思議を日々体験しつつ、自らの分を忠実に果たす者でありたいと願うのです。

主が勝利を与えてくださいます。祝福がありますように。

 ◇聖書箇所:ヨシュア記 10章28-43節◇(5月12日)

「ヨシュアはこれらすべての王たちとその地とをいちどきに攻め取った。イスラエルの神、主が、イスラエルのために戦われたからである。」…ヨシュア10:42

ヨシュアは全イスラエルを率いて、カナンにある町々を次々に攻め取っていきました。マケダ、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビル…。それらの王の何人かはすでに討ち取られており(26節)、リーダーを失った民は戦意も失っていたことでしょう。そして何よりも主がそれらの町々を渡されたので、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアと民はそれらを討ち取ることができたのです。しかしそれはもちろん、ヨシュアとイスラエルの民が、何もしないでただ見ていたということではありません。主ご自身が敵を渡され、戦ってくださったということは、ヨシュアと民が主に信頼して、恐れずに、雄々しくあって、手に剣を持ち、敵に立ち向かうその中に主がおられ、その戦いに勝利させてくださったということなのです。またヨシュアたちが、それらの町の住民に対して、ひとりも生き残る者がないよう徹底的に打ったのは、「主が命じられたとおり」に行ったからだったのです。「…にしたとおりに…」という表現が繰り返されています。ヨシュアたちは一つの町を討ち取り、聖絶すると、次の標的の町に対しても同じように繰り返したのです。一つのことを終えてそれがどうであったか評価する…それは私たちの日常の歩みでも大切なことですが、何よりも主がそれをどう評価されるかがポイントです。良かった点は継続し、改善すべき点は改めていく…絶えず主の御声を聴き、軌道修正する必要があるのです。そのように聖書のみことばから主の御旨を尋ね求め、「主が命じられるとおりに」歩む者は幸いなのです。戦いにおいて、主の勝利にあずかる者となるのです。聖書には信仰の先達たちの歩みが記されています。私たちはそこから、彼らの信仰にならって歩むことを学び、また彼らの過ちから、反面教師として学ぶべきなのです。「あなたのみこころのうちを歩ませてください」と、日々主に祈り求める者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 10章1-27節◇(5月11日)

「主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。」…ヨシュア10:14

エルサレムの王アドニ・ツェデクは、イスラエルと和を講じたギブオンの住民を打つため、他の都市の王に呼び掛けて連合軍を結成しました。その彼らがギブオンに攻め込んでくると、住民たちは、盟約関係にあったイスラエルに助けを求め、ヨシュアは兵を率いてギルガルから上っていきました。そのとき主はヨシュアに、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ」と言われ、そのことばに励まされたヨシュアたちは夜通し歩いてギブオンに到着し、エモリ人の連合軍と戦いました。そしてその主の約束は真実であったのです。10節以降、「主が彼らをイスラエルの前でかき乱した…」(10節)、「主は天から彼らの上に大きな石を降らし…」(11節)、「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡した…」(12節)と、主ご自身がイスラエルのために戦ってくださり、勝利をもたらされたことが、繰り返し記されているのです。そして主は、ご自身が創造し支配しておられる自然界(雹、太陽)をも用いて、それを成し遂げられたのです(11,13節)。エモリ人の5人の王たちは逃げて洞穴に隠れましたが、そこから引き出されて人々の前に連れて来られました。するとヨシュアは、彼らの首に足をかける(首を踏みつける:2017訳)よう、戦った兵士のリーダーたちに命じて行わせたのです。それは残酷なように思えますが、「聖絶せよ」との主の教えに従って、中途半端にせず、ヨシュアはそのようにしたのです。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵は、主がこのようにされる」(25節)。ヨシュアのこのことばは、文脈の中で捉えるなら、聖絶することに対して躊躇するな、主が取り除こうとされているものを徹底的に排除せよ、という意味でもあることを教えられます。そしてそれは、「聖絶すべきもの」を内に残したままにしてはならない、これぐらいは…と後ろ髪を引かれても断固として行えという、神の民である私たちへの霊的なメッセージでもあるのです。主の勝利を待ち望むとともに自分自身を吟味したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 9章◇(5月10日)

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった。」…ヨシュア9:14

アイの町におけるイスラエルの勝利を耳にすると、カナンの地の王たちは恐れ、結託して一つになり、イスラエルに対抗して迎え撃とうとしました。しかしギブオンの住民たちはそれには加わらず、イスラエルと盟約を結ぶという作戦に出たのです。主はモーセを通してイスラエルの民に、カナンの地の住民と何の契約を結んではならないと、命じていました(申命記7:2)。ギブオンの住民たちはそれを知って自分たちが遠い国から来たのだと偽り、わざわざ古びた着物を身に着け、継ぎはぎだらけのぶどう酒の皮袋を携え、乾いてぼろぼろになったパンを持って、ヨシュアと民を欺こうとしたのです。彼らの様子にどこか不自然なものを感じたのでしょう、ヨシュアと民は初めは彼らを疑いの目で見ていましたが、彼らの言い分を聞いているうちにそれを信じてしまい、食糧の一部を渡されそれを受け取ってしまったのです。結局ヨシュアは彼らと和を講じ盟約を結びました。ギブオンの住民の欺きはすぐに明らかになりました。イスラエルの民は盟約の破棄を族長たちに訴えましたが、主の名によって誓ったことを取り消すことはできません。ヨシュアも彼らを非難しましたが、奴隷の身分にし、たきぎ割りなどをさせるなどの方策しかありませんでした。結果的に主の命令に服従することができなかったのです。そのような事態を招いた原因、それはヨシュアと民が、「主の指示をあおがなかった」(14節)からです。神のみこころを尋ね求めることなく、人間的な思いで、彼らとの間に安易に盟約を結んでしまったからです。「主の指示をあおぐ」とは祈りを通して主に聴くことです。また、主が私たちに語られたことばを思い巡らすことです。主は「不思議な助言者」(イザヤ9:6)なるお方です。「これが道だ、これに歩め」(イザヤ30:21)と指し示し、どう判断し行動すべきかを具体的に教えてくださるのです。常にその主の指示をあおぐ者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 8章18-35節◇(5月9日)

「そのとき、主はヨシュアに仰せられた。『手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。』そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。」…ヨシュア8:18

アイの町を挟み撃ちにして攻め取るべく、まず伏兵を町の後方に配置したヨシュアと民は、アイの住民をおびき出すために前方から攻め込み、荒野への道を逃げていきました。そうとは知らないアイの住民はその作戦にまんまと引っ掛かり、町をそのままに置いて追いかけていったのです。そのとき主はヨシュアに、彼が持っていた投げ槍を、アイのほうに向けて伸ばすように命じられました。そしてまさにそのタイミングで、控えていた伏兵は、もぬけの殻であった町に入ってそれを攻め取り、火を放ちました。逃げていた前方の民も引き返し、前後から徹底的に敵を討ち、勝利を収めたのです。モーセがアマレク人との戦いにおいて手を上げ、勝利を収めたことが思い起こされます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)。主はヨシュアに、「わたしがアイをあなたの手に渡す」と言われたのです。この戦いは主の戦いであり、主ご自身がアイの攻略を成し遂げてくださったのです。ヨシュア自身は敵と相まみえて戦うことはなく、投げ槍をずっとアイのほうに伸ばすだけだったのです。私たちもまた、さまざまな戦いを余儀なくされます。しかしそれを自分の知恵と肉の力より戦うのではなく、主に拠り頼み、導き(戦略)をいただくべきなのです。モーセは手を上げ、ヨシュアも投げ槍を伸ばしました。彼らは後方で最前線の兵士たちを支援したのです。それは祈りであり、とりなしということにほかなりません。モーセの手が上がるときイスラエルは優勢になりました。ヨシュアもアイの住民がことごとく聖絶されるまで、差し伸べた手を決して引っ込めませんでした(26節)。私たちも気を抜かず最後まで祈り続けるべきなのです。

主が成し遂げてくださいます。祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 8章1-17節◇(5月8日)

「主はヨシュアに仰せられた。『恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。』」…ヨシュア8:1

主は「アイに攻め上れ」とヨシュアに仰せられました。アイへの1回目の攻撃では、ヨシュアは偵察隊を出し、「2、3千人ぐらいを上らせて、アイを討たせるとよいでしょう。…民をみな送って骨折らせるには及びません」(7:3、2017訳)という報告を鵜呑みにして従ったため、手痛い敗北を喫することとなってしまいましたが、ヨシュアはそのことを真摯に悔い改めて主に立ち返り、主の御声を聴こうと静まっていたに違いありません。主は「町のうしろに伏兵を置け」と命じられました。勢力を二つに分け、前面からの者たちが敵をおびき出し、もぬけの殻になった町を後方部隊が攻め取る作戦です。主は、どう戦うべきか、戦略を具体的に示されたのです。ヨシュアは、「主の言いつけどおりに行わなければならない(主のことばどおりに行うのだ(2017訳)」と民に命じました。なぜ1回目の攻撃では敗北してしまったのでしょうか。ヨシュアが偵察隊の提案を良しとして受け入れたからです。主の御声ではなく人間の声に聞き従ったからです。またエリコの勝利が自分たちの力によるものだとうぬぼれ、アイの町を破るのは朝飯前だとたかをくくったからです。そこに慢心があり、高ぶりがあったからです。「聖絶の物のことで主の信頼を裏切った」(7:1、2017訳)とありますが、1回目の攻撃では、ヨシュアと民は、自分たちの考え、判断だけで事を進めてしまったのです。それは子が父の信頼をよそに勝手にふるまうことです。彼らは聖絶のことだけでなくアイの戦いでも裏切ったのです。そうではなく、へりくだって小さな一つ一つを主に尋ね求める、静まって主の御声を聴き、それに信頼して一歩ずつ従う、それこそが神がご自身の民に求めているあり方なのです。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 7章◇(5月7日)

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」…ヨシュア7:1

「聖絶」とは、神が取り分けられた絶やすべきものを、滅ぼし尽くすということです。それは物だけではなく、人や家畜に対しても徹底して行われるために、どうしても私たちはそこに残酷さを感じてしまいますが、聖別されるものは神の基準で神が決められるのであり、私たち人間の側の価値判断が入る余地はないのです。ヨシュアに導かれたイスラエルの民はエリコを征服し、町の中のすべてのものを主のために聖絶しましたが、そのとき主は民に、聖絶のものに手を出すな、ただし、銀、金、青銅と鉄の器は主の宝物倉に入れよと命じていました(6:18-19)。しかし、アカンはそれらがどうしても欲しくて、自分の天幕に隠したのです(21節)。そのアカンの行為は民全体にわざわいをもたらしました。楽勝だとたかをくくっていたアイの町との戦いに敗れ、民の心はしなえ、水のようになってしまいました(5節)。主はヨシュアにそれは聖絶の命令を破ったからだと告げ、アカンと彼の所有のものが聖絶されることとなったのです。民は不信の罪を犯したと1節にありますが、2017訳では、「主の信頼を裏切った」となっています。アカンの罪は、直接的には聖絶せよという主の命令を破ったことですが、それはイスラエルの民全体に対する神の期待と信頼を裏切ることであった、それゆえに神が失望し、怒られ、アイでの戦いで敗北するようにされたということなのです。私たち人間が全能者なる神を信頼するのは当然ですが、神もまたご自身の民を信頼しておられるというのです。イスラエルの歴史は神のその信頼の裏切りの連続ですが、神はそれでもなお彼らへの愛とあわれみと忍耐をもって、真実に関わり続けておられるのです。そしてそれは、霊的なイスラエルである私たちに対しても同じなのです。主の期待と信頼にしっかり応える者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所:ヨシュア記 5章◇(5月5日)

「彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。」…ヨシュア5:12

水がせき止められるという、主の不思議なみわざによりヨルダン川を渡ったイスラエルの民の男子に対して、ヨシュアを通し、主は割礼を受けるよう命じられました。それは彼らが、荒野の旅の中で生まれた世代であり、父祖たちのように割礼を受けていなかったからです。割礼はアブラハムが神から受けた契約のしるしであり、その契約の民であることを覚えるためのものでした。民はまた、過越のいけにえをささげましたが、それは、小羊の血が塗られた家を主のさばきが過ぎ越し、奴隷とされていたエジプトから脱出できたことを感謝し、記念するための祝いであり、主への礼拝のときでした。そしてその翌日、彼らは初めてその地の産物を食べ、さらにその翌日、それまで毎日降っていたマナはやみ、神が荒野にいる民のために備えてくださった食物は、不要とされたのです。それは40年間の移住生活が終了し、カナンの地での定住生活に入ったことを意味していました。それら一連の出来事は、私たちに示唆を与えてくれます。彼らは過越のいけにえを主の前にささげて、エジプトでの奴隷生活から解放されたことを記念して祝いましたが、私たちもまた、キリストが過越の小羊として血を流され、すべての人を罪の奴隷から解放してくださったことを記念し、賛美のいけにえをもって主に礼拝をささげるのです。また、その中で聖餐にあずかり、パンとぶどう液を通して主の贖いのみわざを深く覚え、感謝をささげるのです。また、彼らの中の次世代の者たちは割礼を受けましたが、私たちはからだの割礼ではなく心の割礼を受けるのです。すなわち、砕かれた悔いた心をもって主に従うのです。アブラハムの子孫、契約の民である自覚を常に持つのです。さらに、荒野の旅を終えた彼らはマナを食べなくなりましたが、私たちは地上の荒野の歩みを続けており、神からのマナ、聖書のみことばによって、日々養われる必要があるのです。約束の地を目指し、主に信頼して歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 4章◇(5月4日)

「あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」…ヨシュア4:7

主はヨシュアに対して、水がせき止められたヨルダン川の真ん中に祭司たちが立ったその所から、12の石を取りそれを宿営地に据えよと命じられました。それは「しるし」であり、人々がその石を見るたびに、ヨルダン川で起こった神の奇蹟のみわざを思い出し、神をあがめ、畏れ、神に拠り頼んで歩む思いを新たにするためのものであったのです。そしてそれは、それを経験した者たちだけでなく、後の世代の者たちに対しても、神が生きて働かれた証拠として、永久に記念となるものだったのです。ヨシュアは神がヨルダン川の水をせき止められたのは、主が葦の海になさったのと同じであると言っていますが、それは出エジプトにおける奇蹟を指しています(出14:22)。私たちにとっての「12の石」とは何でしょうか。私たちが神によって救い出されたしるしとは十字架です。十字架は、イエス・キリストの贖いのしるしであり、神の愛と恵みとあわれみのしるし、いのちのしるしです。しるしであった12の石それ自体には実質的な意味はなく、それらは普通の石に過ぎませんでしたが、同様に、十字架それ自体には特別な意味はなく、ローマによる死刑の道具のひとつに過ぎません。しかしその十字架に、罪人である私たちの身代りとなってイエス・キリストがかかられ、尊い血潮を流され、いのちをささげてくださったからこそ、そしてその死から3日目によみがえり、死に勝利してくださったからこそ、全人類にとって、十字架は、意味あるしるしなのです。だからこそ教会はこの十字架を高く掲げているのです。主が私たちにどのようなみわざをなしてくださったのか…十字架を仰ぎ見つつ、神をあがめ、畏れ、主に拠り頼んで歩む思いを日々新たにしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 3章◇(5月3日)

「ヨシュアは祭司たちに命じて言った。『契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。』そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。」…ヨシュア3:6

ヨシュアとイスラエルの民はシティムを出発し、ヨルダン川の手前で宿営しました。主の契約の箱もいっしょでした。そしてヨシュアは祭司たちに、契約の箱をかつぎ、民の先頭を進むよう命じたのです。「あなたがたの行くべき道を知るためである」(4節)とあるとおり、民はどう進むべきか知りませんでした。民はただ、契約の箱に導かれて進んでいったのです。箱が止まれば民もそこに留まったのです。この契約の箱にはマナの入った金の壺、アロンの杖、モーセに与えられた十戒の2枚の板が入っていました。それは主の臨在の象徴であり、契約=約束のことばと、神の主権、主の恵みとあわれみを表わすものです。民がヨルダン川を渡るときも、その契約の箱が先頭でした。箱をかついだ祭司たちの足の裏が川の水に浸ると、川はせき止められ、祭司たちは乾いたところに留まり、民はそれを追い越して川を渡りきることができたのです。ヘブル人への手紙の著者は読者にこう命じています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)。それは、私たちの前を進まれる主イエスにしっかりと目を留め、離れずについて行きなさいということです。私たちは行くべき道をすべて知る必要はないのです。実際のところ、知り得ないのです。しかし大切なことは、先に進まれる主に信頼して従っていくことなのです。主の主権を認め、約束のことばを信じることなのです。そしてときに主は、試練や困難の中で、私たちがそこを通り過ぎることができるように、川の水をせきとめて、乾いたところを向こう側へと渡らせてくださるのです。「主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12)。私たちの先を進んで導き、しんがりとなって守られる主に、どんなときにも信頼して従っていく者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所:ヨシュア記 2章◇(5月2日)

「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」…ヨシュア2:11

ヨシュアはひそかに二人の者を斥候(偵察隊)として、ヨルダン川の西側にあるエリコの町に遣わしました。その彼らが泊まったのはラハブという遊女の家でした。遊女とは売春婦であり、そこであれば怪しまれずに住むと考えたのかもしれません。また、彼女の家が町の周りを囲む城壁の中に建て込まれていたので、人々の目につきにくく好都合と判断したのかもしれません。しかし彼らを目撃しエリコの王に告げる者があったのです。早速二人を捜索に来た者たちに対してラハブは、確かに来たがすでに出て行ったと嘘をつきました。彼女は二人を屋上の亜麻の茎の中に隠していたのです。危機を脱した二人にラハブは告げました。主がこの地をあなたがたに与えておられ、この地の住民も震えおののいている…。私たちは主がなされた偉大なみわざを聞いており、その主は天と地において神であられる…と。彼女の言う「主」(太文字の「主」)とは、原文にあるように、「ヤーウェ」、唯一まことの、イスラエルの神のことです。ラハブが二人をかくまい、嘘までついて逃がしたのは、その主を畏れ、そうすることが主が願っていることであり、自分に求められていることだと受けとめて従った、主に対する彼女の信仰に基づく行為であったのです。そのラハブはやがてユダの子孫であるサルモンと結婚し、モアブ人ルツを買い戻して夫となったボアズを生み、ルツが生んだオベデの子エッサイの子がダビデ王となり、そしてその家系からイエス・キリストが生まれるのです。ラハブはカナン人の遊女であり、姦淫の罪を犯す者です。その彼女がキリストの系図に連なっているのは驚きです。しかし神は、私たちが見るようには人を見ないお方なのです。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」(ヘブ11:31)。どんな罪を犯しても、異邦人であっても、まことの神を認め、受け入れ、信じるなら、義なる者と認めていただけるのです。神はその者を救いにあずからせ、ご自身の民とされるのです。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 1章◇(5月1日)

「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」…ヨシュア記1:7

「強くあれ、雄々しくあれ」(6,9節)。ヨシュア記と言えばこのことばが思い出されるほど、有名なみことばです。試練に会って悩んだときに、そうだ、おののいてはならないのだ、神がともにおられるから恐れる必要はないのだ…と、多くの者がこのみことばで奮い立ったのです。神はそのように、一人ひとりが勇者となることを望み、みことばをもって励ましてくださるお方なのです。一方、今日の箇所からあらためて気づかされること、それはまず、主がヨシュアに、強く雄々しくあれと言われ、あなたとともにいると言われたその理由は、彼がモーセの後継者、イスラエルのリーダーとして、単にふさわしいたくましさを身に着けよということではなく、敵との戦いにおいて果敢に攻めよということでもなく、神が先祖たちに誓われた約束の地カナンを、民に継がせる必要があったからだということです(6節)。そのことが強く雄々しくあることの目的であったのです。また、強く雄々しくあれと言われた主が、その後すぐ、「モーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え」と命じられたことにも心が留まります。それは、ヨシュアが強く雄々しくあるために必要なのは、単に自分に自信を持つという人間的、肉的なことでなく、むしろ、自分自身ではなく神に拠り頼む者と変えられ、神を愛する、神に従う、神にささげる者とされることであり、神ご自身が戦われ勝利を与えられることを疑わない、「信仰の勇者」となることであったのです。「私が弱いときにこそ私は強い」とパウロは言いましたが、神との関係、結びつきが強くなればなるほど、人はどんなときでも、主にあって強い者とされるのです。そして主は、神の国の祝福を多くの人々が受け継ぐために、弱い私たちをも信仰の勇者として用いてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。 

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