瀬谷キリスト教会-平安と希望と喜びに満ちた人生を!瀬谷キリスト教会は横浜市瀬谷区にあるプロテスタントの教会です。

2019年3月 今日の聖書日課

◇聖書箇所: 出エジプト記36章20-38節◇(3月21日)

「ついで、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で、垂れ幕を作った。これに巧みな細工でケルビムを織り出した。」…出エジプト36:35

今日の箇所、36章の後半に書かれていることは、26章の後半に書かれている内容とほぼ同じです。しかしそれは単なる繰り返しではありません。26章は主がシナイ山でモーセに命じたことばであり、それに対して36章は、民が実際に建設作業を行ない、主の命令に従順に従って幕屋を建てた証しなのです。「あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない」と主は言われましたが(26:30)、そのように民は忠実に主の定めを守ったのです。「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない」(申命5:32)。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」(黙示22:18-19)。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1:2-3)。私たちに与えられている旧新聖書、神のことばの中に、主の御旨が示されているのです。それに従順に従い、守り行なう者は神の祝福にあずかることができるのです。しかし人間の考えをそこに持ち込み、勝手につけ加えたり取り除く者には、災いがもたらされることとなるのです。主の教えから右にも左にもそれずにまっすぐに歩み続ける者、主から目を離さずに従う者(ヘブ12:2)でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記36章1-19節◇(3月20日)

「それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。『男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。』こうして、民は持って来ることをやめた。」…出エジプト36:7

モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、感動して自分から志願して奉仕をする者たちを呼びよせて、幕屋の建設作業を開始させました。そしてそれに必要な材料となる、民がささげた奉納物を分配して、彼らに渡したのです。ベツァルエルは幕屋の建築作業の総監督であり、オホリアブは彼を補佐する助監督の立場でした。彼らは巧みに彫刻する技術や設計のスキルを持つ職人でしたが、民全体の益、祝福となるように、それらを人に教える能力も授けられたのです(35:34)。幕屋建設という神のための事業を成し遂げるために、個々の能力だけでなく、民全体を監督し、助言し、励まし、一致して進むことが求められたのです。いよいよ幕屋の建設が始まると宿営の中は活気づき、ささげ物を出しそびれた者は遅れて奉納し、またすでにささげた者も追加で奉納したことでしょう。建設作業に必要な奉納物はすでに揃っていましたが、イスラエルの民は主からの感動と促しを受けて、なおも朝ごとに進んでささげ物を持って来たのです。それ自体は感謝なことでしたが、それが働き人たちの奉仕を増やし、負担を与えることになりました(5節)。そこでモーセは、もう奉納物を持って来ないようにと、民に命じ、彼らはそれに従いました。そのことからも、良かれと思ってささげる民の気持ちを受けとめつつ、働き人たちの負担を配慮し、全体を考えて統轄する、指導者モーセの役割の大切さを学ぶことができます。私たちもまた、しばしば人を教える立場に置かれます。愛と配慮をもって人々を励まし、また全体の益を考え、御霊に満たされて(35:31)、主の知恵と助けをいただき、主の祝福の基としてそこで用いられたいと願います。

求められる務めを主にあって成し遂げられますように。

 

◇聖書箇所: 出エジプト記35章20-35節◇(3月19日)

「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。」…出エジプト35:21

「心から進んでささげる者…」という表現が何度も繰り返されています。21節を新改訳2017訳では、「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな…」と訳していますが、進んでささげるその心もまた、神によって促され、その思いを与えられたのであり、神からの働きかけへの応答としてのものなのです。モーセから告げられたことばを聞いた全会衆は、「モーセの前から立ち去った」とありますが(20節)、それは、顔の肌が輝きを放っていたモーセを通し、主ご自身の御口から出たみことばとして受け取り、一人ひとりが心動かされ、霊に促しを受け、応答としての行動を起こすべく帰ったということです。民の中のある者たちは、飾り輪、耳輪などの金でできたものを主への奉献物としてささげました。モーセがシナイ山からなかなか下りて来ないときには、アロンに神を造ってもらうべく耳輪を持って来た民は、モーセから語られた神のことばを聞いた後には、それをまことの神へのものとしてささげたのです。主の臨在の中で主が語られるみことばを聞くならば、主の民としてふさわしい歩みへと導かれるのです。教会とは主に召し集められた者たちの共同体であり、そこでなされる一人ひとりの献金や奉仕もまた、決して強制ではなく、また形式的になすものでもなく、主の贖いと恵みとみことばへの応答として、感動して、主からの促しを受けて、心から進んでささげるべきものであることを、あらめて教えられます。ともすれば人の目を気にしてしまう奉仕のわざですが、主から心動かされて、主を礼拝する思いをもって、与えられた賜物を用いてさせていただきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記35章1-19節◇(3月18日)

「 モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。『これは、主が行えと命じられたことばである。』」…出エジプト35:1

モーセは、シナイ山において主から語られたことを、イスラエルの民に預言者として取り継いで伝えました。安息日を守るよう伝え、幕屋に使う材料を持って来させ、実際に幕屋を建設する作業を民に行なわせたのです。34:29-32には、山から下りて来たモーセの顔の肌が、光を放っていたと書かれていますが、そのことは、モーセが主と出会い、主のことばを受け取ったときに、主の栄光がモーセを照らし、彼の顔がその輝きを反映させたからであり、モーセが語ることばが確かに主ご自身からのものであるということを、民に確信させる効果をもたらしたに違いありません。この出来事は、ペテロたちとともに高い山に上った主イエスの御顔が太陽のように輝き、御衣が光のように白くなったという記事を思い起こさせます(マタイ17:2)。そのとき山の上にはモーセとエリヤが現われて、主イエスと3人での話し合いがなされましたが、それはあたかも、旧約の時代における預言者たちから、主イエスがバトンを受け取って、神の御旨を人々に取り継ぐ者であることを示したかのようでした。元よりイエスは神の御子であられ、ことばなる神であり、油注がれた王、大祭司、預言者なるお方ですが、モーセと主イエスにおけるその出来事は、旧約の律法が主イエスの教えに引き継がれていること、アブラハムへの契約もまた、主イエスによる新しい契約として更新され引き継がれていることを示しています。言うまでもなく旧約聖書は不要な書物ではありません。旧約聖書と新約聖書の両方を合わせてこそ、神がご自身の御旨を語られたことば、「聖書」なのです。そしてそのみことばは「世の光」とされている聖徒たちが、輝きをもって人々に伝えるべきものなのです(マタイ5:16)。私たちも「預言者」とされていることを覚えたいと思います。

ことばと行いをもって証しすることができますように。

 

◇聖書箇所: 出エジプト記34章1-17節◇(3月16日)

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」…出エジプト34:6-7

モーセは主に命じられて、砕いてしまった前のものと同じような2枚の石の板を持ってシナイ山に登りました。すると主は、その前に彼に約束されたとおり(33:19)、主の名によって宣言されたのです(6-7節)。それは、主ご自身がどのような方かを明らかにするものでした。それを聞いたモーセは主を畏れ、地にひれ伏して、「どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように」と、とりなして求めました(9節)。すると主はそれに応えて、今ここで契約を結ぼう、わたしはどこにおいても奇しいことを行い、民はみな、主のわざを見るようになると、約束されたのです(10節)。そしてその契約には、まことの神のみを愛し拝むことや、安息日を尊ぶことなどの命令が伴ったのです(11節以降)。神の宣言、契約…それは、赦しか罪か、神との契約か先住民(人間)との契約か、まことの神か偽りの神かという2者択一であって、その中間はありません。祝福かのろいか、どちらかを選ばなければならないのです(申命11:26)。またそれは、神から民に一方的に与えられたものであり、民との協議や合意に基づくものではないのです。そもそも民はそれを受けるにふさわしい者たちではなく、主の恵みとあわれみのゆえに、罪と咎とそむきを赦され、千代にわたって恵みにあずかる者とされたのです。私たちもまた、神の一方的な愛とあわれみを受け、イエス・キリストのとりなし、すなわち十字架上で流されたご自身の血による贖い、新しい契約によって、罪と咎を赦され、恵みと祝福にあずかる者とされました。そのことを思うとき、主への感謝と賛美が湧き上がります。喜びをもって明日の礼拝にあずかりたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記33章◇(3月15日)

「それでモーセは申し上げた。『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。』」…出エジプト33:15

主はモーセに、あなたと民は約束の地に上って行け、私は使いを遣わし、先住民たちを追い払い、乳と蜜の流れるその地に行かせよう、ただし、私自身はいっしょに上らない、あなたがたを途中で絶ち滅ぼすことがないためだと言われました。そしてそのことを聞いた民は悲しみ痛み、主がともにおられなくなることの意味を深刻に捉え、偶像礼拝に使っていた飾り物を全員がはずしました。ようやく民は自分たちの罪を悔い改め始めたのです。主の臨在が常にある…主がともにいて守り導かれる…。実際、イスラエルの民はそのようにしてエジプトを脱出し、海の中の乾いた道を渡り、岩から湧き出た水を飲み、天からのマナによって養われ、荒野を導かれたのです。その主がいっしょでなく自分たちだけで行くのであれば、民にとっては見放されたも同然という思いだったのです。またそれは、モーセを通し詳細な指示がなされた幕屋を、造る必要がなくなるということをも意味していました。「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と主は言われていたからです(出エジ25:8)。しかし主が名指して選び出したモーセだけは別でした。「わたし自身(「わたしの臨在」:2017訳)がいっしょに行って、あなたを休ませよう」と彼に約束されたのです(14節)。するとモーセは主にしがみつくようにしてとりなしました。あなたが民といっしょに行ってくださらないのなら、私も民もここから導き上らせないでください…と。モーセは自分だけ良ければいいとは考えなかったのです。彼は民全体のために忍耐をもってとりなし続けたのです。そしてキリストに贖われた聖徒たちもまたモーセのように、関わっている人々、日本、イスラエル、世界の民のために、主の臨在とみわざ、すなわち神の国の現れを祈り求め、約束の地まで導いてくださいと、とりなし続けるべきなのです。主が求めておられるように歩む者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記32章21-35節◇(3月14日)

「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら-。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」…出エジプト32:32

なぜ民にこんな大きな罪を犯させたのか…と、モーセは兄であるアロンに問い詰めました。すると彼は、「民の悪いのを知っているでしょう」、「これ(金の耳輪)を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです」と言い逃れをしたのです。神の怒りとさばきを免れようとしたアロンの姿から、この女が…蛇が…と、自分たちが犯した罪を転嫁しようとしたアダムとエバが思い起こされます。「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た」(25節)。「敵」は直接的には周辺諸国の民を指すと思われますが、神の敵である悪魔が暗示されているのかもしれません。モーセは主に従い偶像礼拝をしなかったレビ族を集め、民を剣で打たせました。その結果約3千人が倒れましたが、民全体の数からすればそれはごく一部の者だったのです。32章全体をあらためて読んで気付くこと…それは、モーセが子牛のことで怒り、子牛を焼いて粉々に砕き、主につく者に民を剣で打たせたにもかかわらず、民の悔い改めのことばや主に立ち返ろうとする行動がいっさい見られないということです。民は(アロンも含めて)、自分たちの罪の重大さがまだわかっていなかったのです。そんな民のために、モーセは山を下りる前にしたように、民の罪が赦されるよう、再び主の前にとりなしをしました。しかもそれがかなわないのであれば、神の書物から、自分の名を取り去ってくださいとさえ主に願ったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と十字架上で祈られた(ルカ23:34)、主イエスの姿がモーセと重なり合います。そのキリストのとりなしの祈りと贖いのみわざによって、私たちの名はいのちの書に記されているのです(黙21:27)。そのことを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記32章1-20節◇(3月13日)

「アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。『あすは主への祭りである。』」…出エジプト32:5

モーセがシナイ山に登って行って主と交わり、そこでイスラエルの民への戒めを受けているとき、山の下では大変な事態が起きていました。何と民はアロンに「神」を造ってくれと頼み込み、それに応じてアロンが造った金の子牛の前で、飲み食いし戯れるという過ちを犯していたのです。そのようなとんでもない過ちを民がしてしまった理由…それは第1に、民が忍耐しきれなかったからです。1節には、「モーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て」(「一向に降りて来ようとしないのを見て」:2017訳)とあります。そのことばに民のモーセに対する、そして神に対する不信の思い、また、放置されている…という不満と苛立ちの思いが表されています。民の過ちの理由の第2、それは目に見える「神」のほうが、好ましいと民が考えたからです。それを手にし、常に自分たちの近くに置けば安心だと感じたからです。ここに人が陥る偶像礼拝の罪のわながあります。しかし人が自分の考えで自分のために造る「神」など、不安を紛らわし自己満足するためのものに過ぎないのです。驚くべきはそんな民からの依頼を受けたアロンの言動です。彼は金の耳輪をそれぞれ外して持ってくるよう民に命じ、それを材料にして鋳物の子牛を造っただけでなく、人々がそれを得て喜ぶ様子を見て子牛の前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と偶像礼拝を導いたのです。彼は民を説得してモーセの帰りを待たせるべきでしたが、民の声に動かされ神ではなく人を喜ばせるべく行動したのです。イスラエルの民やアロンが犯した過ち…それはまさに、「ほかの神々があってはならない」、「自分のために偶像を造ってはならない」という最重要の戒めを破る罪でした。そして私たちもまた、さまざまな「偶像」に心奪われたり、神よりも人を喜ばせようとする過ちを犯しかねないのです。悪しき者の誘惑から守られるよう祈り備えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記31章◇(3月12日)

「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。」…出エジプト31:2-3

30章までにおいて、幕屋で用いられる器具、祭司がまとう装束など、さまざまなものを作るようにと主はモーセに命じられましたが、実際にそれを行なうのはモーセではなく、巧みな技術を持つ熟練した職人たちであり、主はそのような者たちを名指して召されたのです。幕屋に関する働きにはレビ族が用いられましたが、ベツァルエルはユダ族、オホリアブはダン族であり、レビ族以外の部族からも多くの職人たちが選ばれ、それぞれの働きに用いられたと考えられます(6節)。それらの者たちは秀でた才能を有していました。しかし彼らにはさらに必要な知恵や知識が与えられ、神の霊が注がれて満たされていたのです。そのように整えられた一人ひとりが尊く用いられて、神の臨在が現される幕屋が建て上げられたのです。その才能は新約の光で見るならば聖霊の賜物であり、幕屋はキリストのからだ、教会にほかなりません。聖霊によっておのおのに異なった賜物が与えられ、それが用いられて教会が建て上げられていく…。それはすでにモーセの時から示唆されていたのです。「彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない」と主はモーセに言われました(11節)。職人たちに求められたのは芸術性やオリジナリティではなく、主がモーセに命じたとおりに作る謙遜さ、忠実さであり、その奉仕は決して自己実現の場ではなかったのです。またモーセにとっても、自分が主から語られたことをきちんと職人たちに伝える、すなわち、コミュニケーションを一人ひとりとしっかり取ることが求められたのです。そうでなければそれぞれが自分の考えで動いてしまうためにばらばらになり、主のみこころにかなう幕屋は建ちません。主が定めた霊的な秩序をわきまえる大切さを教えられます。感謝とへりくだりをもって神と人とに忠実に仕えたいと願います。

主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記30章22-38節◇(3月11日)

「あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。」…出エジプト30:30

「聖なるそそぎの油」について記されています。それは、没薬、肉桂、におい菖蒲、桂枝を2:1:1:2の割合で調合し、それらをオリーブ油に入れて混ぜ合わせて作られました。そしてその油は、幕屋と幕屋の中の器具、さらにはアロンとその子ら、すなわち祭司だけに注がれたのです。それは、その聖なるそそぎの油によってそれらのものを聖別するためであり、それと似た油を作って祭司以外の者に注ぐ者は、民から断ち切られなければならなかったのです。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」。イザヤが預言した油注がれた者とはメシアです(イザ61:1)。そのメシアなる主イエスに、ある女性が香油を注ぎました。イエス・キリストはその後、十字架に向かわれましたが、その香油は、幕屋においてすべての民を贖いをするため、自らがいけにえとなって祭壇に身をささげようとしている、大祭司キリストに対して注がれたものであり、それは、聖なるそそぎの油にほかならないのです(マタイ26:7)。旧約の時代にはレビ族であるアロンとその子孫だけが、祭司の家系として油注がれ、その務めを果たしました。しかしキリストの血による新しい契約によって、キリストに贖われたすべての聖徒も今や祭司とされ、聖なる油のそそぎ、すなわち聖霊の満たしを受け、聖別され、神の所有する特別な存在として取り分けられ、神と人とに仕え、民の救いのためにとりなす者として、尊く用いられるのです。イザヤが告げた預言のことばは、そのような主の聖徒たちに対するものでもあるのです。キリストに贖われた者、主に油注がれた者として、求められている務めを全うさせていただきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記29章22-46節◇(3月9日)

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」…出エジ29:46

39-42節には、祭壇の上にささげるべき物として、一歳の若い雄羊2頭が指示されています。それは毎日、朝と夕に1頭ずつ、全焼のいけにえとして、絶やすことなくささげなければなりませんでした。また主は、「その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る」とモーセに言われました。幕屋は「会見の天幕」とも呼ばれますが、それは、そのようにして主がそこで民と会われるからです。「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません」(ヘブ9:25)。キリストは、ご自身を傷(罪)のない小羊として、十字架という祭壇の上にささげられましたが、そのいけにえはモーセの時代のように、毎日絶やさずにささげる必要はありませんでした。それは全きいけにえであり、ただ一度ささげられ、すべての人のための永遠の贖いとなったからです。そのキリストは、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:20)と約束してくださいました。モーセの時代には、主と会う場所は限定されましたが、キリストは、ご自身が成し遂げられた贖いによって、だれでもいつでもどこででも主と親しく交わることができる、そのような恵みを私たちに開いてくださったのです。一方で神は、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」と約束されました。そしてそのために、エジプトの地から連れ出した神、主だと宣言されたのです。私たちも罪とやみの中から救い出された主の民であり、約束の地、栄光の御国へと荒野を導かれている者です。そのことを覚え、「あなたこそ私たちの神、主です」と、絶えず主に告白する者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記29章1-21節◇(3月8日)

「あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。」…出エジプト29:12

祭司の装束は、金、青、紫、緋の色の撚り糸、またそれにより織られた亜麻布、さばきの胸当ての宝石と、それだけを取れば美しく芸術的とも言えるものです。しかし、実際に幕屋において祭司の務めをする際には、祭司自身とその装束に、祭壇の上の血と注ぎの油が振りかけられていたのです。そうすることによって、彼らとその装束は聖なるものとされたのです。祭司に求められる装束は、しみやしわのないものでなく、いけにえの血と注ぎの油にまみれたものであった…。そのことを知ってあらためて驚くとともに、ここから、祭司とされた私たちがどのような装束をまとうべきか、聖なるものとされるとはどういうことかを教えられるのです。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブ9:22)。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(ヘブ10:10)。私たちがまとう装束とはイエス・キリストご自身です。そしてそれをまとうとは、キリストの十字架を絶えず見上げ、そこで流された血潮を覚え、贖いを感謝することなのです。ペテロは、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ」と言っています(1ペテ1:2)。パウロも、「神は…聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」と記しています(テトス3:5)。キリストという装束をまとった私たちは、さらに油を注がれる、すなわち、キリストの御霊によって満たされ、きよめられ、聖なる主の性質を持つ者に変えられる必要があるのです。それは決して肉の力により完成されることではないのです。キリストの血潮と御霊の油そそぎを受け続けたいと願います。

主のもとに日々立ち返ることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記28章15-43節◇(3月7日)

「アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず主の前で記念としなければならない。」…出エジプト28:29

「さばきの胸当て」はエポデの上につけるもので、そこには12個の宝石が、横に3列、縦に4列、それぞれにイスラエル12部族の名前が彫られ、さらに金の枠にはめ込まれて取付けられました。その12個の宝石はもちろん異なる種類のもので、赤めのう、トパーズ…と、指示されていました。エゼキエル書28章13節には、「あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた」とあり、さばきの胸当てとほぼ同じ宝石が記されています(ただし3つ足りない)。それは人がまだ罪に汚れていない状態を示しており、神が人を美しい存在とされていたことを示唆しています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というみことばが思い起こされます(イザヤ43:4)。しかし、アダムによって人に罪が入ったために、イスラエルの民はそのままでは神の前に立ち得ず、祭司は毎日その罪のためのとりなしをし、動物のいけにえによって贖わなければなりませんでした。さばきの胸当ては、エポデの肩当ての宝石と同様に、大祭司が12部族を代表していることを表していましたが、同時に、高価で尊い存在である民の一人ひとりを、神が愛し、あわれみ、救ってくださるようにと訴え、また防弾チョッキのように、大祭司が神のさばきから守られるよう意図されたものであったのかもしれません。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53:5a)。大祭司であるキリストは、すべての人の罪のさばきを担い、十字架という祭壇にいけにえとして身をささげられました。それはすべての人が神の目に高価で尊い存在だからです。そのことを覚えて主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記28章1-14節◇(3月6日)

「その2つの石をイスラエルの子らの記念の石としてエポデの肩当てにつける。アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。」…出エジプト28:12

モーセの兄アロンと、その子、ナダブとアビフ、エルアザルとイタマルは祭司とされました。そして特にアロン(大祭司)のためには、「栄光と美を表す聖なる装束を作れ」と、主はモーセに命じられたのです(2節)。「栄光と美」とはもちろん神ご自身のことですが、その神が臨在される聖所で仕える者として、そのような聖なる装束を着けることが、大祭司にふさわしいこととして求められたのです。「エポデ」とは大祭司が青服の上に着用する、ひざ上丈の袖のないベストのようなものです。そのエポデの両肩には、イスラエル12部族が2分され6部族ずつ名前が彫られた石(縞めのう)がつけられていました(10節)。それは、大祭司がイスラエルの民の代表として主の前に出て、民の罪が贖われるためにとりなす務めを持っていることを示していたのです。「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます」(ヘブ7:24)。キリストは、大祭司として、動物のいけにえではなくご自身をささげ、全人類の贖いを成し遂げられました。イスラエルの民だけでなくすべての国民の代表として、神と人との間の仲保者となってとりなされたのです。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(1ペテ2:9)。私たちもまた祭司として、聖なる装束をまとうことが求められています。それはキリストを着ることであり、キリストにすべてをささげ、この世の汚れから離れ、キリストのみこころの表われであるみことばに従い、隣人を愛して、救いと祝福をとりなすことなのです。その祭司の務めを全うする者とされたいと願います。

主がとりなしておられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記27章◇(3月5日)

「その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。」…出エジプト27:2

幕屋にある祭壇は、長さと幅が5キュビト(約2.2m)、高さが3キュビト(約1.3m)あるかなり大きなもので、その四隅には「角」がつけられていました。その祭壇は、幕屋の東の入口から入ってすぐの正面の場所にあり、幕屋に入り聖所に進む者はみな、必ずそこに最初に導かれようになっていました。実際に祭司が幕屋で礼拝をささげるときには、動物がほふられ、そのからだから流れ出した血が祭壇の四隅の角に塗られ、またさらにその血は、祭壇の土台にも注がれたのです(出エジ29:12)。祭司は民の罪が赦されるために、毎日欠かさず、そのようにして礼拝をささげてとりなしていたので、祭壇の角と土台にはいけにえの血がべったりとつき、焼かれた内臓の臭いもついていたに違いありません。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ9:12)。イスラエルの民は、自分たちの身代りとなるいけにえの血が流され、祭壇に注がれることにより、その罪が赦され贖われることができましたが、キリストは、すべての人が罪赦されるために身代りとなり、傷のないご自身をいけにえとして十字架にささげられ、その祭壇にて血を流し、贖いを成し遂げられたのです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)。「生きた供え物」とは、死なないいけにえということです。キリストの犠牲の死により人類の贖いが完成したので、いけにえのいのちを奪う必要がなくなったからです。しかしなおも神にささげることが求められているのです。それはすべて明け渡して主に聞き従うことでもあります。神に喜ばれる「霊的な礼拝」をささげたいと願います。

贖われた者としてふさわしく歩むことができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 26章15-37節◇(3月4日)

「その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。」…出エジプト26:33

一般に「幕屋」と言う場合、外庭も含めた全体を指しますが、26章で作り方が指示されているのは、その中にある「聖所」と「至聖所」からなる部分です。幕屋は枠組みとなる板を最初に周りに立て、その上に撚り糸で織った幕をかぶせる構造ですが、一番下のその幕の上にさらにやぎの毛による天幕、雄羊の皮のおおい、じゅごんの皮のおおいと、4重に重ねられた幕が覆っていたのです(26章1-14節)。幕屋では祭司により動物のいけにえがささげられ、民の罪の赦しのとりなしがなされますが、幕屋自体にそのように動物の犠牲が必要とされました。この幕屋はイエス・キリストの予型ですが、人類の贖いのために神の小羊キリストが犠牲となり、そのいのちがささげられる必要があったということが、その幕屋の構造においても暗示されているのです。聖所とその奥の至聖所を仕切っていたのが、撚り糸でおられた亜麻布からなる垂れ幕です。それには神の臨在の象徴、ケルビムが織り出され、至聖所の中には「あかしの箱」が置かれており、その箱の上の「贖いのふた」の両側にも、ケルビムが向かい合わせになっていました(25:20)。その垂れ幕は後の神殿でも存在していましたが、キリストが十字架の上で死なれ贖いが完成したとき、その垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました。人間が裂くなら下から上に向かって裂けますが、それは神ご自身が幕を取り除かれ、キリストにあって、誰でもご自身のみ元(至聖所)に近づけるようにされたということを表しているのです(マタ27:51、ヘブ10:19)。そしてその至聖所は、やがて私たちが迎え入れられる栄光の御国をも示唆しているのです。キリストにあって、その希望をしっかり抱きつつ歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記25章23-40節◇(3月2日)

「それにともしび皿を7つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。」…出エジプト25:37

23-30節には、聖所の中に置かれる机について、どのように作るべきかの指示が書かれています。それはアカシヤ材を使用し、純金をかぶせて作り、その上に供えのパン(「臨在のパン」:2017訳)を置き、それが絶えず神の前にあるようにしたのです。続く31-39節では、燭台について書かれています。それは純金で作られ、中心の支柱の左右に3本ずつ、6つの枝が出ている形となっているものです。燭台というとキャンドルを置くイメージがありますが、この燭台には7つのともしび皿と「心」がついていて、その皿にオリーブ油を入れて「心」に火を点すのです。ヘブル語で「メノーラー」と呼ばれるものです。聖所の中に置かれていたそれらのものは、新約の光で見るなら象徴的な意味を持っています。幕屋自体がキリストを指し示していますが、聖所の机の上に置かれた供え(臨在)のパンもまた、わたしはいのちのパン、と言われたキリストであり、完全数である7つのともしび皿からなる燭台もまた、やみを照らすまことの光、キリストの象徴なのです。そのキリストによって贖われた聖徒たちと教会もまた、神が住まわれる宮、すなわち幕屋、神殿であり、その中の聖所に置かれている燭台のように、やみに光を放つ「世の光」とされています(マタイ5:14)。もし燭台の光がなければ聖所の中は真っ暗です。燭台の油が燃える炎の光で祭司は奉仕したのです。またそのともしび皿に入れる油は聖霊の象徴です。油がなければ火は燃え続けることができないのです。油を絶やすことなく、聖霊さまに常に満たされて歩み、燭台を隠れたところでなく家の真ん中に置き(マタイ5:15)、すべての人の前で主の光を輝かせたいと願います。

主が一人ひとりを尊く用いてくださいますように。

 

◇聖書箇所: 出エジプト記25章1-22節◇(3月1日)

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」…出エジプト25:8

「彼らにわたしのための聖所を造らせよ」。8節は新改訳2017ではそのように訳されています。口語訳や新共同訳でもほぼ同じ表現となっています。主は「もし造るならば」と言われたのではないのです。モーセを通して民に対し「造れ」と命じられたのです。わたしは彼らの中に住む…と主は言われました。主は聖所の中にご自身の臨在を現されるお方ですが、なんと、ご自身の民の中に住むと約束されたのです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり…」とありますが(1コリ6:19)、聖徒たち自身が神が住まわれる宮とされるということが、モーセの時代にすでに主から語られていたのです。そして主は、「わたしのための聖所」と言われました。その聖所は、神が住まわれるためのものであり、神の臨在と栄光が現されるための聖所であって、民にとって自分たちのための聖所ではないのです。それは当たり前のように思えますが、「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」とパウロが言うように(1コリ6:19)、ともすると私たちは、キリストの血潮によって贖われ、聖霊の住まわれる宮、聖所とされている自分の存在を、神のためではなく、自分のためのものだとして、すべてを主にささげて明け渡そうとはしないのです。「これだけは取っておきたい…」と握りしめてしまうのです。「幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない」。「わたしがあなたに示す幕屋」とは、新約の光で読むならキリストご自身です。主イエスの足跡に従って歩むことを、私たちは求められているのです。そして聖霊さまは日々、私たちを主の似姿に造り変えてくださるのです(2コリ3:18)。誰のためにどのような聖所を造るのか(に造られるのか)…。そのことをしっかりと心に留めつつ歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

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