◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 10章32-39節◇(10月31日)

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」…ヘブル10:36

「苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい」と、著者は命じています(32節)。「そしりと苦しみ」(33節)、「捕らえられている」(34節)とあるように、その戦いは、真理の光、いのちの光に照らされ、キリストを信じるようになったその信仰を奪おうとする迫害者、またその背後にある悪魔との戦いです。最初はその戦いに耐えていたのに、それが長引く中で、もう限界だ…と、信仰から離れていく者がいたのです。一方で、いつまでも残る財産、すなわち永遠のいのちが自分たちに与えられていることを確信し、苦難の中にあっても、喜びと希望をもって耐え忍んだ者たちも、もちろんいました(34節)。彼らはこの地上の財産、さらには肉体のいのちは永遠に続くものでないことを知っていたのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(2コリ4:18)とパウロが言う信仰を、彼らは堅く持っていたのです。大きな報いをもたらすその確信を投げ捨ててはならないと、著者は励まします(35節)。そして、約束のものを手にするためには忍耐が必要だと読者に訴えるのです。信仰者にとって忍耐とは、単にじっとがまんすることではありません。神の約束を思い起こし認識し直すこと、神のみこころを行なうべくみことばに聞き従うこと、そして何よりも神を待ち望んで祈り求めること、そのような積極的なあり方が、信仰者には求められるのです。37-38節はハバクク書2章3-4節の引用です。「来るべき方」とは神が約束されたメシアであり、その方は、神が定められた時、今から2千年前に確かに来られ、そして終わりの日に再び来られるのです。しかし、そのキリストがもたらされた神の国は、すでに私たちのただ中にあり(ルカ17:21)、私たちはその神の国の祝福を、確かにいま受け取ることができるのです。確信と忍耐をもって、それぞれの「神の時」を待ち望み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 10章19-31節◇(10月30日)

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」…ヘブル10:25

「こういうわけですから」と、それまで述べてきた、大祭司キリストご自身の血による、ただ一度の、完全で永遠に有効な贖いを根拠として、私たちは大胆にまことの聖所に入ることができるのだと、著者は告げています(19節)。まことの聖所とは、幕屋や神殿の隔ての幕の奥にある至聖所のことであり、神の臨在が満ちているところです。キリストの死と同時に、その幕が真っ二つに裂けて取り除かれたゆえに(マタ27:51)、私たちはいつでも、キリストを通して大胆にそこに入り、主のうるわしい御顔を仰ぎ見、親しく交わることができるのです。その垂れ幕は裂かれたキリストの肉体をも意味していますが、主は贖われた聖徒たちのために、そのような新しい生ける道を設け、開いてくださったのです。それは、古い契約に生きる民のように、まことの聖所に入ることが大祭司以外に認められず、動物のいけにえによる日ごとの祭司のとりなしを必要とする、罪と律法に縛られて真の自由と平安がない生き方ではなく、救いの感謝と喜びに満ちあふれ、希望をもって歩む生き方なのです。さらに著者は、そのようにキリストによる新しい契約に生きる者たちに、「…ではありませんか」と繰り返し、強く促しています(22-25節)。「全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」、「動揺せずにしっかりと希望を告白しようではありませんか」、「愛と善行を促すよう注意を払おうではありませんか」、「集まることをやめず励まし合おうではありませんか」。4つ目の勧めが示唆するのは、教会に集わずに信仰生活を送る者がいたということです。しかし終わりの日が近いときだからこそ、神のことばに従い、愛と善行に生きるよう、神の家族が互いに励まし合うことがますます大切なのです。元より教会はキリストのからだであって、教会を通して主はご自身のみわざをなされるからです。新しい契約の民としてふさわしく歩みたいと願います。

主との親しい交わりの中に歩むことができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 10章1-18節◇(10月29日)

「そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」…ヘブル10:7

「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができない…」と著者は言っています。そして礼拝するたびに人々は自らの罪を意識させられたのだ…と(1-3節)。律法に基づいた動物のいけにえによる礼拝においては、そのようなことが確かに起こったのです。しかし、「自らの罪を意識する」という意味では、旧約の時代も新約の時代も同じです。ただし、旧約の礼拝では、その罪の赦しと救いを、動物の血によってなされる大祭司のとりなしに求めたのに対し、新約の礼拝においては、大祭司キリストご自身の血による贖いによって罪赦され、救いにあずかっていることを覚え、人々は、感謝と喜びと希望に満ちて、ただただキリストをあがめるのです。それが私たちがささげる礼拝の意義なのです。さらに著者は詩篇40篇6-8節を引用し、それをキリストのことばとして提示しています。神はいけにえを喜ばれない…私は神のみこころを行なうことを喜びとする…。主イエスも引用されたホセア6章6節のことばが思い起こされます。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである」(2017訳)。神を知るとは、神のなされたことを知ることであり、神のみこころ、すなわち神が何を求めておられるのかを知ることです。知って実際に行なう者となることです。そのみこころは律法、つまりみことばによって示され、新約の時代においては、御霊が聖徒たちの心にそれを置き、思いに書きつけておられるのです(16節)。その主からの思いに私たちの思いを日々合わせていくことが、キリストの足跡に従うということであり、それこそが、キリストに贖われた者に求められていることなのです。神を知ることを切に追い求めていきたいと思います。
主の御声をはっきりと聴くことができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 9章11-28節◇(10月28日)

「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」…ヘブル9:22

ヘブル書の著者は、これまで、レビ系の人間の祭司に対する大祭司キリストの優位性を論じてきましたが、今日の箇所においては、祭司がささげるいけにえの血についての比較がなされています。まず初めに、すでに語られて来たことですが、アロン系の大祭司が、毎年欠かさず贖罪日に至聖所に入り、全イスラエルの罪のための贖いを必要としたのに対し、大祭司キリストの贖いは、ただ一度だけの永遠に有効な、全人類の罪のための贖いであることが強調されています(12,25,26節)。そしてその贖いのために流される血として、アロン系の大祭司は、やぎと子牛との血を、至聖所に置かれている契約の箱の「贖いのふた」に注ぎかけましたが(レビ16章)、それに対し大祭司キリストは、神の被造物である動物の血ではなく、傷のない、すなわち罪も汚れもない、創造者なるご自身の血をたずさえて、十字架の死と復活を通して天にあるまことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです(11-12節)。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」と、著者は言っていますが、それは神が、「肉のいのちは血の中にある…いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17:11)と言われたからであり、血を注ぎ出す、すなわち、犠牲のいのちがささげられることなしに、民の罪への神の怒りは、なだめられることはなかったのです。しかし、動物の血による贖いは、不完全であり限定的であり、それを完全なもの、永遠に続くものとするために、キリストはご自身の尊い血を流してくださったのです。そしてその血は、私たちの良心をきよめ、神のみこころではないものから離れさせ、生ける神に仕える者として、整えさせるのです(14節)。それは私たちの救いの完成の日まで(28節)、御霊によりなされる主のみわざなのです。キリストの血潮による贖いの恵みを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 8章◇(10月26日)

「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」…ヘブル8:6

地上における人としての祭司に対するキリストの優位性について論じてきた著者は、8章で、キリストによってもたらされた新しい契約と古い契約を比較していますが、6節において「さらにすぐれた」ということばが繰り返されていることから明らかなように、著者は、新しい契約の優位性を、読者に対して強調しようとしているのです。初めの契約、古い契約とは、「彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ」とあるように(9節)、神がモーセを通して民に与えられた律法に基づく契約であり、民がその律法を守り通せなかったという意味で、その契約には欠けがあると神は言われたのです(7-8節)。契約自体は完全であっても、民の側が不完全であったのです。キリストはさらにすぐれた新しい契約の仲介者であると、著者は言っていますが(6節)、そもそも契約とは、契約を取り交わす両方の当事者がかかわるのであって、仲介者とは、その間に立ってその契約を成立させるべく、いろいろと取り持つ努めを果たす者です。しかし当事者の一方である人間が、罪あるゆえに不完全であり、その契約を有効に保ち続けることができないとしたら、仲介者は、人間の側の代理者としても行動しなければならないのです。そしてまさに罪のないキリストがその仲介者となり、新しい契約が成立するようにしてくださったのです。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(10節)。「小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになる(11節)。新しい契約においては、律法が文字としてだけでなく、御霊によって人々の心に書き付けられるのです。また、限られた宗教指導者だけでなく、すべての者が御霊がくださる知恵と啓示により、主を知るようになるのです。そしてそれは、イスラエルのみならず、すべての国民に開かれている神の恵みなのです。私たちもまた、新しい契約により神の民とされたことを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 7章11-28節◇(10月25日)

「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」…ヘブル7:27

王であり祭司であったメルキゼデクから、キリストへと読者の目を向けさせたこの書の著者は、さらに、人である祭司、すなわち旧約時代からのレビ系の祭司とキリストの違いを浮き立たせ、キリストがいかにすぐれた大祭司として、いまも働いておられるかを強調しています。その違いの第一は永遠性です。人である祭司には当然寿命があるため、その家系から次々に祭司が立てられる必要がありました(23節)。しかしキリストは全き人であり、同時に全き神であるお方であって、贖いの死から復活され、天に上り、いまも父なる神の右に座して、すべての人のために、大祭司としてとりなしておられるのです。だからこそ、キリストによって神に近づく人々の罪は赦され、永遠の救いにあずかる者とされるのです(24-25節)。その違いの第二は完全性です。大祭司は年に1度、贖罪日と呼ばれる日に神殿の一番奥にある至聖所に入り、動物のいけにえの血を神にささげて、民の罪のための贖いをする必要がありました(レビ16章)。また祭司は、同様に動物のいけにえを毎日繰り返しささげて、神を礼拝する務めを果たしました(ヘブ10:11)。しかしキリストは、罪のない聖い完全ないけにえとしてのご自身を、祭壇として立てられた十字架の上にささげられ、ただ一度のその贖いにより、すべての人々の救いを完成されたのです。その違いの第三は神の誓いです。「レビの子らの場合は、神による誓いなしに祭司となっていますが」(20節、2017訳)、キリストは「あなたはとこしえに祭司である」との神ご自身の誓いによって、祭司となられたのです(21節)。そしてそれは、神が、罪人である私たちを愛し、あわれみ、贖いのために大切な御子を遣わしてくださったという、その救いのわざの起源だということにほかならないのです。ただただ感謝をもって、偉大な主をあがめたいと思います。

救いの喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 7章1-10節◇(10月24日)

「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」…ヘブル7:3

7章にはメルキゼデクのことが記されていますが、著者はすでに6章20節で、「イエスは…永遠にメルキゼデクの位に等しい(「例に倣って、とこしえに」:2017訳)大祭司となられ」たと言っています。このメルキゼデクは、戦いに勝利したアブラハムを出迎えて、神の御名によって祝福を与え、一方アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えたのです(1-2節、創世記14:18-20)。そのメルキゼデクについて、著者はさらにこう言っています。「…その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく…いつまでも祭司としてとどまっている…」(3節)。彼がどんな人物であったのか詳細は不明です。明らかなのは、メルキゼデクがサレム(イスラエル以前のカナンの町で後のエルサレムの場所にあったと考えられている)の王であり、かつ祭司であったということだけです。旧約時代、イスラエルの祭司はレビ族が担いました。しかし大祭司として、イスラエルを初め、すべての国民の罪のとりなしをされたイエス・キリストは、レビ族ではなく、ユダ族の家系から生まれたのです。ここで著者は、カナン(異邦人)の王であり祭司であったメルキゼデクを持ち出して読者の目を向けさせ、さらに彼に重なるキリストへとその目を転じさせようとしているのです。王であり、祭司であり、預言者である、油注がれた方、イエス・キリスト…。メルキゼデクはアブラハムを祝福し、すべての物の十分の一を受けましたが、キリストは、血肉によるアブラハムの子孫を、そして信仰による霊的アブラハムの子孫である私たちを、豊かに祝福してくださいます。また、私たちがささげる十分の一を受けるにふさわしい、ただ一人のお方です。そのキリストは今も王として世界を統べ治め、祭司として聖徒たちのためにとりなし、預言者として進むべき道を指し示しておられるのです。このお方に従い続けて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 6章13-20節◇(10月23日)

「そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました」…ヘブル6:17(2017訳)

「誓い」ということばが何度も繰り返されています。誓いとは、自分のことばどおりに必ず行なうと、人が神の前において約束することです。しかし、人の心や計画は不変ではないため、その誓いが果たされずに、ことばだけで終わってしまうことがあるのです。しかし、神はそうではありません。神の誓いとは、神の約束、すなわち一方的な契約の保証となるものです。神は、疑い深い人間が、確かな希望と強い忍耐をもってご自身の約束を待ち望むことができるようにと、信仰の父アブラハムに対してわざわざ、「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と、ご自身にかけて誓ってくださったのです(14節)。誓いはすべての論争を終わらせる保証となる、と著者は言っています(16節)。神ご自身の約束であるにもかかわらず、不信仰な私たちは互いの間で、また自分の中で、本当にそうなるのか、信頼に足りるものなのか…と無益な議論をしてしまいますが、神の誓いという保証によって、そのような論争はすべてストップするのです。「…私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません」(18節)。神はこれまでに、ご自身の約束をことごとく果たして来られました。反故にされた約束など一つもないのです。神は、私たちを罪ののろいから解放するために、救い主を送ると約束され、そのとおり、御子をさえ惜しまずにささげてくださった真実なお方なのです。神の約束は、神が神であるゆえにすべて偽りないものですが、神は、約束と誓いという不変の二つのものにより、それをさらに確かなものとして保証されたのです。その神の約束、みことばに、いよいよ信頼して歩みたいと思います。

主の力強い励ましがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 6章1-12節◇(10月22日)

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。」…ヘブル6:11

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」と、この書の著者は、読者に呼び掛けて励ましています。彼らの中には、ユダヤ教の信仰に後戻りして、さまざまな儀式やそこで使われる用具など、見えるものに心奪われ、そこに身を置くときに安心する者たちがいたのです。そのような者たちに向かい、著者は「堕落」ということばを使って厳しく非難しています(6節)。堕落とは文字通り落ちることです。キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちという救いの賜物を神から受け、聖霊の満たしにあずかり、神の約束のことばを聞き、神の国の豊かな祝福の前味をすでに味わっているにもかかわらず、それを放棄して後戻りしようとするなら、それはまるで天から堕ちるようなことなのだと著者は言うのです。そしてそのような彼らは、キリストをもう一度十字架にかけて恥辱を与える(さらしものにする:2017訳)者だと言い切っているのです。さらに著者は、読者の一人ひとりが、与えられている希望について強い確信を持ち続け、信仰と忍耐をもって約束のものを相続する者となるよう励まし、強く促しています。「希望」、「約束」…。まだ得ていないものをすでに得たかのようにとらえ、そこに向かって進んでいく…。それには確かに、確信、信仰、忍耐が求められます。しかしそれが、真実である神から与えられたものであり、人から出たものとは異なるものであるゆえに、私たちは信仰の目をそこに注ぎ、神に信頼を置いて前進することができるのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。パウロもこう言っています(2コリ4:18)。弱い私たちは、目に映るものについとらわれてしまいますが、霊の目を主によってさらに開かれて、見るべきものをしっかりと見続けて歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 38章◇(10月21日)

「あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』」…イザヤ38:5-6

病気になって死にかかっていたヒゼキヤ王に対して、イザヤは非情とも思えることばで死の宣告をしました。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」。するとヒゼキヤは、主の前に子どものようになって泣き叫び、自分が御前に誠実に歩み行動してきたことを思い出してほしい、死から救ってほしいと訴えたのです。ただちに主の答えがありました。あなたはすぐに死ぬことはない…寿命を15年延ばすことにした…と。さらに主は、わたしはアッシリア王の手からこの町、エルサレムを守るとも言われました。それは、一見、主がヒゼキヤに対するご計画を変更されたかのように見えます。ニネベの町に災いを下すというご計画も、ヨナのメッセージを聞いた人々が悔い改めた結果、主は思い直され、結局そうされませんでした(ヨナ3:10)。しかし、神は、ご自身のみこころをコロコロ変えられるお方ではなく、そのことも含めてすべてをご存じの上で、確かなご計画をもって事を進めておられるのです。そしてそれは、私たちの思いを越えた、主の御手の中にあることなのです。主は、ヒゼキヤが死に直面してどのように対応するか、テストされました。そして彼は、主の前にそのことを真実に受け止め、主に拠り頼み、救いを求めました。主はその姿勢と信仰を良しとされ、奇蹟的なみわざをなされたのです。ご自身の栄光を現されたのです。また、そのことを通して、エルサレムがアッシリアの手から守られることの強い確信をヒゼキヤに与えられたのです。主はそのことを最初から計画しておられたのです。神は全きお方です。最善のご計画を備えておられます。私たちがその神のご計画に自分を合わせていくときに、豊かな神の祝福と救いにあずかることができるのです。どんなときにも主に信頼する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 37章1-20節◇(10月19日)

「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」…イザヤ37:20

家来たちからラブ・シャケのことばを聞いたヒゼキヤ王は、衣を裂き、荒布をまとって主の宮に入り、家来たちを通してイザヤにこう伝えました。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です…」(3節)。彼のその行為は、強い怒り、大きな嘆き、深い悲しみを表しています。ヒゼキヤにとって、ラブ・シャケが、「主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」(36:20)と主をそしり、エルサレムの滅亡を告げたのは、心が揺さぶられる、屈辱的なことであったのです。ヒゼキヤは「主は『おそらく』ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう」と言いましたが、もちろん主は、すべてのことを見、聞き、知っておられたのです。そんなヒゼキヤへの主のことばを、イザヤは家来たちに伝えました。「わたしを冒涜したあのことばを恐れるな…」、「わたしは、…彼を剣で倒す」(6,7節)。主は、ご自身をそしる者を、自ら滅ぼすと宣言されたのです。アッシリアの王はまた、ヒゼキヤに伝えさせました。「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな…」、「私の先祖たちは…エデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々が彼らを救い出したのか」(10,12節)。またも主をそしられたヒゼキヤは、今度は自ら、その使者の手紙を主の前に広げ、主に祈りました。「万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です…」。「主よ。今、私たちを彼の手から救ってください…」(16,20節)。もはやヒゼキヤには恐れも悲しみもありませんでした。あるのは主への全き信頼と勝利の確信だけでした。そして、全知で全能の主であることを覚えつつもなお、そのお方の前に出て心を注ぎ出して祈り求めたのです。私たちもまた、ヒゼキヤのように、主の力強い御手とまなざしを覚えつつもなお、主の前に進み出て、熱心に祈り求める者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書36章◇(10月18日)

「しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に答えるな』というのが、王の命令だったからである。…イザヤ36:21

イザヤ書36-37章には、列王記第二18-20章とほぼ同じ内容が記されています。ユダのヒゼキヤ王の治世14年に、アッシリヤの王セナケリブがユダの町々を攻め取りましたが、その後、時を経て、今度は将軍ラブ・シャケに大軍をつけて送り、首都エルサレムを攻め取ろうとしたのです。ラブ・シャケはヒゼキヤ王に仕える長官や書記たちに対して、アッシリヤの王のことばとして、こう言いました。「いったい、おまえはだれに何に拠り頼んでいるのか」、「今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか」…(4,5節)。ラブ・シャケは、イスラエルの神の名を出し、「主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われた」とさえ、調子に乗ってほざいたのです。それに対するヒゼキヤ王の反論は、ラブ・シャケのことばの中に間接的に書かれています。「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」。「主は必ずわれわれを救い出してくださる…(7,15節)。そして民の心は、その王の心と全く一つになっていたのです。だからこそ、ラブ・シャケが民に向かって、降参せよとのセナケリブのことばを告げても、「彼に答えるな」というヒゼキヤ王の命令を堅く守り、誰ひとり、声を出して反論しようとはしなかったのです。ヒゼキヤ王は主の目にかなうことを行い、高き所を取り除き、偶像を打ち砕き、「ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」と書かれていますが(2列王18:5)、そのように、主と王と民は、一つ心であったのです。そしてそのような国と民の上に、主は御力を現してくださるのです。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(2歴代16:9a)。「いったい、おまえは何に、だれに拠り頼んでいるのか…」。敵のその声に惑わされてはならないのです。ひるんではならないのです。静まって、黙して、主と心を一つにし、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

主が御力を現してくださいますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 33章◇(10月15日)

「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」…イザヤ33:22

22節のことばが心に留まります。簡潔な短い文章の中に、「主」という神の御名が3回出てきます(ヘブル語聖書での「ヤーウェ」を新改訳聖書では太文字の「主」と表現)。そこには、神が私たちにとってどのようなお方なのか、その役割、職務が3つ挙げられており、それはちょうど、現代社会における国家の権力が、司法、立法、行政の3つに分けて(三権分立)取り扱われているのと同じです。この地上の裁判では、判決は裁判官によって異なります。またその基準となる法律は不完全であって、抜け道を見つけて悪事を働こうとする者はいつの時代にもいます。さらに国家のリーダーや閣僚たちにも、その立場を利用して不正をし、財を築こうとする者が後を絶たないのです。なぜならそれらのことはすべて、罪と欠けのある人間によって考え出され、行なわれていることだからなのです。しかし、主は決してそうではありません。私たちを正しくさばき、正当な評価と報いを与えられるのです。また主の教えは完全なものであって、漏れや間違いはないのです。さらに主は、いっさいのものの上に立つ主権をもって、すべての領域を完全に統べ治めている御国の王であって、この方にあって、私たちは敵の手から救われるのです。そしてそれは、祭司(司法)として、預言者(立法)として、王として油注がれたメシア、イエス・キリストなのです。このキリストこそ、人類にとっての唯一の救い主なのです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(1ペテ2:9)。御国の民とされた者として、欠けとやみに満ちた地上の国家に混乱させられ、失望し、不利益を被っている方々に対して、御国の王を、御国の祝福のすばらしさを宣べ伝えたいと思います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 32章◇(10月14日)

「ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。」…イザヤ32:20

32章は31章までの流れとは異なって、知恵のことばのような内容がイザヤによって語られています。9-14節は、のんきな(安逸を貪る:2017訳)女性たち、うぬぼれている娘たちに対する警告と宣告です。安逸を貪るとは、気楽に過ごすことです。特に何もせず、だらけきった、生産的ではないあり方を指しています。またうぬぼれるとは「自惚れる」という字が示す通り、自分に惚れている、つまり、自分がすぐれていると思い込み、得意げになることです。高慢になることです。そのような彼女たちは、神の恵みに感謝せず、当然のように考え、ぶどうの収穫もずっと与えられるものだと楽観的にとらえ、現状に満足していたのです。主は、「うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなる…」と言われました(10節)。ぶどう畑を放置し、何もしようとしないならば、豊かなぶどうの実を得ることはできないのです。成長し、実を結ぶように、気を配って畑に関わらなければ、その地には、たちまちいばらやおどろが生えるのです(13節)。豊かな収穫を期待するのならば、畑の良き管理者となり、実際の働き手となり、勤勉であることが求められるのです。しかし、安逸とうぬぼれから自分の力では抜け出せない彼女らを、主はあわれんでくださいます。イザヤは「上から霊が私たちに注がれ」と言っています(15節)。主は、罪の性質ゆえに怠惰で現状に甘んじる私たちを、御霊によって造り変え、奮い立たせられるのです。神のみわざは、必ずしも超自然的な形で現わされるわけではありません。主は人を御霊によって動かし、ご自身のみこころをなすべく、尊く用いられるのです。種を蒔く者がいなければ(20節)、ぶどうの実がいきなり天から降ってくることはないのです。主は私に何を求めておられるのか…絶えずそのことを主に尋ね求める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 30章◇(10月12日)

「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』」…イザヤ30:15

イザヤを通し主から警告を受けていたにもかかわらず、ユダ国はエジプトと同盟を結び、アッシリヤに対して対抗しようとしました。しかし実際には、そのエジプトの助けは空しく、ユダに対して何もしないのです(7節)。神の民を救い出してくれるのはあくまでも主であって、主ご自身が杖でアッシリヤを打たれ、懲らしめ、武器を振り動かして徹底的に戦われるのです(31-32節)。その偉大な神、万軍の主、イスラエルの聖なる方に、ユダの民は信頼しようとはしませんでした。目に見える近くのエジプトの国に頼り、同盟の契約により安心し、人に過ぎないパロ王からの保護に期待したのです。しかしそれは、結局、民に恥と侮辱をもたらす結果にしかならないのです。彼らが主に信頼しないからです。しかしそのようにご自分を裏切った民を主はなおも愛し、あわれみ、イザヤを通してこう宣言されたのです。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」。私たちも、試練、苦難に遭うと、落ち着かずに慌てて動き回り、目に見えるものに頼り安心しようとします。しかし、何よりも主の前に静まって心を落ち着かせ、全てを統べ治めておられるお方に信頼すべきなのです。限られた知恵によってあれこれと人間的に対応しても、それはエジプトに頼ったユダと同じことなのです。主はさらに、イザヤの口により民にこう告げられました。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(18節)。主は恵もうと待っておられるのです。あわれもうと立ち上がられるのです。それなのにあたふたして神以外のものに頼るのは、愚かで罪深いことなのです。どんなときにもただ主を待ち望む者でありたいと思います。

確かな主の守りがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 29章◇(10月11日)

「その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。」…イザヤ28:16

「隠す」、「覆う」ということばが、この章におけるひとつのキーワードとなっています。エルサレム、引いてはイスラエルの民全体に対する取扱いとして、主は、霊的指導者である預言者たちの目を閉じ、先見者たちの頭を覆って知性を鈍くし、民が知恵を得ることがないように悟りを隠されるのです(10,14節)。そのとき、幻と真理を解き明かす預言、神のことばは封じられた書物のようになり、人々はそれがあっても、「読む」ことができなくなってしまうのです(11-12節)。それは、民が口先だけで神をあがめ、形式的な礼拝により満足し、心が主から遠く離れているからです(13節)。そんな彼らもまた、自分たちの悪事を深く隠すのです。「誰が私たちを見ていよう。誰が私たちを知っていよう」と言うのです(15節)。しかし、たとえ人が見ておらず、知っていないとしても、主はすべてをご存じなのです。そして主はあわれみをもって、民を回復させるのです。17節以降にはその回復による祝福が書かれています。「その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る」(16節)。そしてそのとき、民は再び、「…わたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れる」ようになるのです(23節)。主によって隠され覆われた霊の目や耳が再び開かれる…。神の愛と真理と将来のご計画が民に明らかにされる…。それは主が民にあわれみをもってなされる回復であり、主が私たちに与えられる「啓示」なのです。それは、神がご自身を明らかにされるということであり、神は、ご自身のことばにより、人となられたイエス・キリストにより、知恵と啓示を与える御霊によって、その啓示を私たちに与えられているのです。また、主は私たちに御目を留め、すべてを見て、すべてを知ってくださっているのです。神との間に隠されているものが何もない…。すべての人がそのような関係を築き、心から覆いが取りのけられるよう、とりなしていきたいと思います。

主の光によってすべてが明らかにされますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 28章◇(10月10日)

「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」…イザヤ28:16

28章からは再び、イザヤの時代の罪に対するさばき、現実に迫り来る脅威が語られています。具体的には、1-6節は、「エフライムの酔いどれ」とあることから、北イスラエルに対するアッシリヤの攻撃と思われます。主ご自身がアッシリヤという強いものを持っておられ、それを不従順な民が満ちた地に投げつけられるのです。また1-8節には、「酔いどれ」、「酔いつぶれた者たち」、「強い酒のためによろめき・ふらつき」、「吐いた汚物」と繰り返されており、祭司や預言者という宗教的指導者たちさえも、そのようにまともな状態ではないことが示されています。それは霊的堕落状態の象徴的表現か、実際にそうであったのかわかりませんが、いずれにせよそれでは、神のことばは正しく受け取れないのです。「酒に酔ってはいけません」とありますが(エペ5:18)、それは、神から与えられている判断能力などが正常に機能しなくなるからであり、そうなってはならないのです。15節には、「死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる」とありますが、これは南ユダ国がエジプトにすり寄り、彼らの力を頼みとする人間的な工作を示しています。しかし拠り頼むべきはそのような地上的なものではなく、神ご自身であるのです。16節にある「尊いかしら石」(「尊い要石」:2017訳)とは、建物の基礎の一部として、全体を支える役割を果たす重要なものであって、もしそれが外れれば、建物はガラガラと崩れてしまうのです。「これを信じる者は、あわてることがない」とありますが、それは明らかに神ご自身を意味しています。またそれは、後に来るメシアを示唆しているのです(1ペテ2:4-8など)。私たちががんばって人生という建物を築き上げても、その土台に主を置き、神に信頼しなければ、それは脆弱であって、しっかりと建て上げることはできません。揺るがない土台の上に、堅固な家を建てたいと願います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 27章◇(10月9日)

「あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。」…イザヤ27:5(2017訳)

1節に「麗しいぶどう畑」とありますが、それは、神が愛されるイスラエルのことです。神は、民がご自身に背を向けて身勝手な歩みをしているときにも、彼らが干からびてしまうことがないようにと絶えず水を注ぎ、誰も害を加えないようにと、夜も昼も絶えず目を留め、見守っておられるのです。「わたしにもう憤りはない」と4節にありますが、神はそのように、ご自身に従わなかった民を、あわれみによって救い出されるのです。6節には、「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」とあります。そしてその祝福は、「神と和を結ぶ」、すなわち、神との平和な結びつき、良好な関係を持った、本来意図されたあり方…神を畏れ、神に聞き従うということによってもたらされるものなのです。そしてそれは、神がイスラエルの不義を赦すことにほかならないのです。イザヤは次のようにしてそれが実現すると言っています。「祭壇の石をすべて、粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台を二度と立てなくする…」。それはつまり、偶像…神以外のものに心寄せ、信頼し、望みを置くこととの訣別です。イザヤはそれが、罪が赦され実を結ぶ者となるために求められることであり、神ご自身がそのように取り扱われると言っているのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。キリストに贖われた者とは、「イエスは主」と告白する者です。キリストを心から愛し、キリストにひたすら拠り頼み、キリストのことばに従順に聞き従う者たちであって、キリスト以外のものに心寄せるならば、それは神の喜ばれるところではないのです。敵に領土を荒らされ、神からの豊かな祝福を奪われてしまうことになるのです。「わたしと和を結ぶがよい」。神が願っておられる関係を築き直し、豊かな実を結ぶ者とされたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 26章◇(10月8日)

「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が私たちを治めました。私たちはただあなただけを、あなたの御名を呼び求めます。」…イザヤ26:13(2017訳)

君主とは、国家において主権を持ち、国と国民を統べ治めて支配する、王や皇帝のことを意味しています。北イスラエルや南ユダにおいても、多くの王が君主として支配し、そこには良い王も悪い王もいました。イザヤは、そのことを踏まえつつ、そのような目に見える血肉の王ではなく、この世界を造られ、人としての王をも造られ、それらの者の上にあって、主権をもって世を統べ治めておられるまことの王なる主だけをあがめ、その御名を呼び求める、と告白しています。国家や組織の秩序を保つためには、それらを統率するリーダーが必要です。そして神は、ご自身の御手の中でそれらの者たちを立て、用いられるのです。人間的な視点からはどうしてこのような人が…と思われる者も、主のみこころであるなら、その地位に置かれるのです。そうでないなら、ただちに退けられてしまうのです。イザヤは、地上の王の言動によって揺り動かされずに、そのような主権を持っておられる主に信頼したのです。「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから」(12節)。イザヤはそのようにも告白しています。彼が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると預言したひとりの男の子、イエス・キリストこそが、大いなる主権を持ち、ダビデの王座に就き、王の王、主の主としてその王国を治め、さばきと正義によりこの世界にあるいっさいを支配しておられるお方なのです。信仰を堅く持ち、このお方にひたすら拠り頼む者は、たとえどのような戦いの中にあっても、その心には全き平安が与えられるのです(3節)。平和の君なるキリストが、その者の歩みの上に平和を備えてくださるからです。この世の支配者たちを恐れず、その者たちのために祈り、まことの王を畏れ、求める者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 25章◇(10月7日)

「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」…イザヤ25:9

イザヤ書25章は、すばらしい勝利と祝福の預言です。「私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます」と、主への賛美をもってイザヤは書き始めています。その主は、遠い昔から、人の思いを超えた奇しいこととして、救いと回復のはかりごとを立てられ、それを実現に至らせてくださる真実なお方なのです(1節)。「横暴な国々の都も、あなたを恐れます」(3節)。異邦人の異教の神々がまつられたところは、主によって取り壊されて失われ、再建されることはないのです。その力強い主のわざを見て、横暴な国の都に住む民は、まことの神を認め、畏れざるを得なくなるのです。また主は、弱い者、貧しい者のとりでとなって、嵐や敵の敵からかくまい、守ってくださいます。そこは、この世のどんな所よりも安全で、確かで、信頼できる避け所なのです。詩篇の詩人も言っています(詩114:2)。「主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方」。8節には「永久に死を滅ぼされる」とあります。主を信じ、従う者たちに与えられる、永遠のいのちの約束です。旧約聖書でそのことが明確に語られるのはまれですが、イザヤは終末的な幻を見せられ、それを確信したのです。それは、続くことばにも表わされています。「神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる」。主の弟子ヨハネも同じように言っています(黙示21:4)。「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」それは、神が世の初めから計画され、イエス・キリストによって成就した、人類の救いと祝福にほかなりません。罪と咎にまみれた私たちを一方的に愛してくださる、神の深い恵みとあわれみを覚え、感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 23章◇(10月5日)

「その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。」…イザヤ23:18

諸国に対する一連の宣告の最後はツロへのものです。ツロとシドンは、地中海沿岸の国家フェニキアにある2大都市として、貿易により富を得て繁栄しました。特に南スペインの都市タルシシュとの繋がりは強く、ツロは「タルシシュの娘」と言われたほどです(10節)。そのツロが荒らされて、家も港もなくなってしまう…。「タルシシュの船よ。泣きわめけ」とイザヤは繰り返しています(1,14節)。ツロとシドンもまた、アッシリアによって侵略され、攻め取られてしまうのです。そしてそれは、アッシリアの強大さによるのではなく、主が計画され、ツロの誇りを汚し、尊ばれている者たちを卑しめられた結果であり、その富と繁栄は自らの力で築いたのだと彼らが傲り高ぶっていたからです(6-9節)。しかし、それから70年経つと主はツロを顧みられます。「淫行」を行って、再び「遊女の報酬」を得るのです。それは貿易の再開による収益のことだと思われますが、諸国を騙して不当な利益を得ていたのかもしれません。いずれにしても、その儲けは主にささげられ、主の前に住む者たちの衣食のために使われるようになるのです。2017訳では「主の聖なるものとなる」とあります(18節)。主はそのように、汚れたものをきよめ、主が所有される、主に帰属する、「主の聖なるもの」として聖別し、ご自身の働きのために尊く用いられるお方なのです。それは人の考えを超えた、奇しい神のみわざです。私たちもまた、かつては罪にまみれて汚れた者でした。しかしキリストが十字架にかかって流された血によってきよめられ、主の聖なるもの、神の民とされたのです。神の働きのために尊く用いられるようにされたのです。そのことを覚えて、主に感謝と礼拝をささげ、また、その働きに間に合う者として整えられたいと思います。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 22章◇(10月4日)

「しかし、なんとおまえたちは浮かれ楽しみ、牛を殺し、羊を屠り、肉を食べ、ぶどう酒を飲んで言っている。『飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ』と。」…イザヤ22:13(新改訳2017)

「幻の谷に対する宣告」と1節に書かれています。この幻の谷とは、5-11節にあるように、エルサレムの町を指しています。イザヤは、そのエルサレムに対して、「喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ」と呼び掛けていますが、それは、主の前に静まろうとせず、またへりくだろうとしない住民たちをも表しているのです。そしてそのような態度のゆえに、主ご自身が恐慌と蹂躙と混乱の日をもたらされた結果、多くの者たちが敵に捕らえられ、命を奪われてしまうのです(2-5節)。その敵として、バビロンの名前は直接出て来ませんが、同盟関係にあったエラム人の名が記されています(6節)。その軍隊の戦車と騎兵によってエルサレムの美しい谷が踏みにじられるようなことになってもなお、住民たちは「森の宮殿の武器に目を向け」、「池の水を集め」、「城壁を補強し」、その敵に立ち向かおうとしました。しかし、エルサレムの町を建て上げられ、神殿に住まわれる主ご自身へは、目もくれなかったのです(8-11節)。そんな中、主は「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と、罪を悔い改めるようにと民に呼び掛けました。今からでも遅くない、私に立ち返れと促されたのです。しかしなんと、民は捨て鉢になり、どうせ明日は死ぬのだと言って、肉欲にまかせて日々を過ごそうとしたのです。イザヤが見せられた幻は、そのようなものでした。「どうせ…」と言って、今を充実させようとする刹那的な生き方は現代にも満ちています。逆に、「どうせ…」と、限られた日々に悲観的になる人々も少なくありません。しかし私たちの命は有限ではないのです。私たちは永遠の日々を生きる者とされているのです。どのような者でも、神に立ち返るなら、キリストにあって罪赦されるのです。恐れや混乱ではなく、平安と希望の中を歩むのです。その祝福をすべての人が受け取ることができるようにと、とりなす者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 21章◇(10月3日)

「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」…イザヤ21:10

「海の荒野に対する宣告」と1節に書かれていますが、海の荒野とはバビロンのことです。ペルシャ湾に面し、広大な荒野の地を持っていたのでそう呼ばれました。そのバビロンに対し、同じように荒野からやってくる者たちとは、「エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め」とあるように、バビロンを滅ぼし、イスラエルの嘆きを終わらせるために、主が道具として用いたペルシャのことです(2節)。エラムもメディヤも、今のイランとイラクの国境付近、ペルシャ湾のそばにありました。そのペルシャ軍によるバビロンへの攻撃は徹底的で、それを幻で見たイザヤは恐怖を感じるほどでした(3-4節)。ペルシャの軍隊は勝利を収め、戦車と兵士と2列に整然と並んで凱旋の行進をする騎兵たちはこう叫ぶのです。「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた」(9節)。バビロンの民が拠り頼んだ人の手による偶像の神は、打ち倒され、砕かれてしまうのです。それらは、いざという時に何の助けにも力にもならないただの像なのです。「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ」…と、イザヤは同胞に呼び掛けます。ユダの国がバビロンによって滅ぼされようとしている時に、彼は、さらにその先に起こることを主から幻として見せられ、それを預言のことばとして民に告げ知らせたのです。今、目の前に起こっていることに心奪われてはならない…神から与えられている預言、約束のことばに心を留め、そこにしっかり焦点を当てて、信仰をもって歩み続ける…なぜならそれは必ず成就するから…現実となるから…。イザヤのことばを通してそのように教えられます。神はご自身の民を愛し、あわれみをもって導かれます。神は決して民を見捨てたり見放したりされないのです。どんなときにも主を待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 20章◇(10月2日)

「その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」…イザヤ20:6

アッシリヤの王から派遣されたタルタン率いる軍は、ガザよりもエルサレムに近い、同じ地中海沿岸の町アシュドデの住民と戦い、そこを攻め取りましたが、そのとき主は、エジプトとクシュ(エチオピア)の捕囚の民は、裸と裸足の状態で連れて行かれるようになる、そしてそれは、イザヤが3年間、そのしるしとして、裸と裸足で歩いたとおりだと言われました(3-4節)。2節のことばはアシュドデの占領に先だって、イザヤ自身が受け取るべきものとして語られていたのです。そのアシュドデの住民はこのように言うとあります。「…私たちの拠り所はこの始末だ…」。彼らは、アッシリヤ帝国の手から自分たちを守ってくれるのはエジプトでありクシュであると考えていました。彼らの拠り所は目に見える地上の国であり、他国の王や軍隊であり、イスラエルの神ではなかったのです。主は、そのような者はみな、裸と裸足という惨めな姿をさらすエジプトやクシュと同じになるということを警告するために、イザヤに3年間そのような姿をさせ、アシュドデの住民に「預言」として告げていたのです。しかしそれに心を留めて神に立ち返らなかった彼らは、その預言の成就を身をもって知ることとなったのです。その警告はすべての者が心に留めるべきことばです。自分にとっての拠り所とはいったいどこなのか…。自分は何に拠り頼み、誰に信頼して歩んでいるのか…。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」(詩篇62篇8節)。イスラエルの神こそが、世界を治める唯一の方であり、私たちを敵の手から守ってくださる避け所なのです。私たちの歩みを確かなものとされる拠り所なのです。その神に、どんなときにも信頼したいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 19章◇(10月1日)

「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。」…イザヤ19:24

「エジプトに対する宣告」と1節にあります。エジプトはモーセの時代に、神の民であるイスラエル人たちを奴隷としてしいたげ、多くの痛みと苦しみをもたらした国です。また霊的な意味では、エジプトは、神の民とされたキリスト者がかつて罪の奴隷としてとらえられ、自由を奪われていた、サタンが支配する「この世」を象徴しています。イザヤは、そのエジプトに主が雲に乗ってやって来ること、そのとき、エジプトのさまざまな偽りの神々がわななき、エジプト人の心もしなえてしまい、仲間同士で争うようになると告げています。しかしそれでも頑迷な彼らは主を認めて立ち返ろうとはせず、偽りの神々や霊媒に頼ろうとするのです。そのようにサタンは人々のうちに働いて、神に攻撃を仕掛けます、しかし結局、彼らは、神の手に引き渡され、神に従わない罪のゆえに、厳しいさばきを受けることとなるのです(4節)。イザヤが告げたこれらの主のことばは、終わりの日についての預言と考えられます。5,6節は、主がモーセの時代にエジプトになされた偉大なみわざを思い起こさせます。主はイスラエルの民を追って海に入ったエジプトの軍隊を海の藻屑とし(出エ14:21-31)また主は、イスラエルの民を出て行かせまいとするパロのかたくなな心を変えるために、ナイル川の魚が死に、川が臭くなり、人々が川の水を飲めなくなるようにされたのです(出エ7:21)。5-15節は、そのモーセ時代のことを越えた、「エジプト」に他する普遍的な主の取り扱いなのです。16-25節には、神の民イスラエルの回復と祝福が述べられています。エジプトやアッシリヤはモーセやイザヤの時代における大国であって、この世の繁栄を象徴していますが、さまざまな迫害を受け続けてきた小国イスラエルは、神からの豊かな霊的祝福にあずかるようになるのです。そしてそれは、キリストの聖徒たちも受け取ることができる、神の国の祝福にほかならないのです。小さな者に注がれる神の大きな祝福を覚えたいと思います。

主の恵みと祝福が満ちあふれますように。