◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 13章18-25節◇(11月30日)

「(神が)あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」…ヘブル13:21(新改訳2017)

さまざまなことを分かち合ってきたこの手紙の著者は、「私たちのために祈ってください」とへりくだり、「何事についても正しく行動したいと思っているから」と、その願いが神に聞かれるようにとりなして欲しいと祈りを要請しています(18節)。「正しく」と訳されている原語は、「立派に、称賛されるように」という意味を持つことばであり、道徳的な正しさというよりむしろ、神の御前に正しく、みこころにかなうように行動する者とされたいとの思いが、そこには込められているのです。20-21節は著者の祈りのことばですが、そこにも、主のみこころがなされることを切望する思いが表れています。著者はまず、読者のために祈っています。神がご自身のみこころを、あなたがに行わせてくださいますように。そのために良いものをもって整えてくださいますように。十字架の血による贖いを成し遂げ、永遠の契約を成就した御子を死からよみがえらせた神が、そのことをなしてくださいますように…と。さらに著者は、自分たちも含めたすべての聖徒たちのためにも同じように祈っています。神が御前でみこころにかなうことを、私たちのうちに行ってくださいますように。弱い羊である私たちにとっての偉大な牧者であるイエス・キリストを通して、そのことをなしてくださいますように。ただ神のみこころがなされることによって、キリストの御名があがめられ、すべての栄光と誉れが世々限りなくキリストにあるように…と。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタ6:10)。みこころを私のうちになしてください…と、日々主に祈り求める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 13章1-17節◇(11月29日)

「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」…ヘブル13:13

この書簡の最後の部分になりました。「さらにすぐれた」ものを追い求めるように読者に訴えてきた著者は、ここでも別な側面から、異なることばを用いて、そのことをあらためて強調しています。「宿営の外」、「門の外」ということばに心が留まります(11-13節)。宿営とは、荒野を旅したイスラエルの民が、幕屋を中心としてその四方に、整然と設営した移動式の住まいのことです。11節にあるように、動物のいけにえの血は祭壇に注がれ、脂肪は祭壇の上で焼かれましたが、その肉と皮と汚物は幕屋の中に持ち込まれず、宿営から離れた外の場所で焼かれたのです(出29:14)。しかし、罪のない完全ないけにえであるキリストの血は、神殿の中ではなく、門の外、ゴルゴダの丘に立てられた十字架の上で流されました。そこがまさに「祭壇」となったのです。そしてキリストに贖われた私たちも、宿営の外に出て主のみもとに行くよう求められているのです。ではその「宿営の外に出る」とは何を意味するのでしょうか…。それは、私たちがもはや、宿営の中、すなわち、この地上に安住する者ではなく、この世の生活を愛し、それに満足するのではなく、また迫害を恐れることなく、キリストの足跡に従って、今の試みや苦しみの先にある、来たるべき新しい都、天の故郷にあこがれ、そこを目指して歩み続ける者となるということなのです。その旅路は、決して孤独な行程ではありません。主は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(5節)と言われ、イエスは、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださっているのです。主が同伴者、ガイドとなって、その荒野の旅を最終目的地まで導いてくださるのです。地上のものに希望を置かず、宿営の外に出て、変わることのない主(8節)に信頼して歩み続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 12章14-29節(11月28日)

「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」…ヘブル12:22

聖さがなければだれも主を見ることができない…だれも神の恵みから堕ちないように…だれもエサウのようにならないように…と、著者は「だれも」ということばを繰り返し用い(14-16節、2017訳)、試みの中にあっても、だれひとりとして脱落しないようにせよ、すべての者が神の救いにあずかれるせよと命じています。お腹を空かしたエサウは、一杯の食事を得るために、大切な長子の権利を弟のヤコブに売ってしまいましたが(創25:33)、そのときが良ければそれでいいという刹那的な彼のあり方は、「淫ら」で「俗悪」なものだと厳しく非難されています。そしてそれは、「後悔先に立たず」、後から悔い改めようとしても遅いということであり、私たちが神の祝福の約束、警告のことばに心を留めて、今のときだけでなく、常に先を見る目をもって歩むことの大切さを教えているのです(16-17節)。18節から21節までのことばは、神がシナイ山でモーセに語り、彼を通して民に律法が与えられたときのことを指しています(出19章)。もしも律法を人間の努力で守り通して神の救いを得ようとするならば、罪ある人間の不完全さのゆえに、その歩みを進めて近づくのは暗闇でしかないのです(18節)。それは恐れに満ちた歩みなのです。しかし、あなたがたが近づくべき、神によって備えられたところはそこではない…。著者は、それに対比させ、シオンの山、天上のエルサレム、長子たちの教会、新しい契約の仲介者イエス、そして十字架に注がれた主イエスの血…と、次々に読者たちが見るべきものを挙げています。当時、ユダヤ人キリスト者たちをユダヤ教に引き戻そうとする者たちがいましたが、その惑わしから守るべく、聖徒たちがどこに近づいているかを示しているのです。私たちもまた、自分がいったいどこに近づいているのか、先をしっかりと見て、注意したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 12章1-13節◇(11月27日)

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」…ヘブル12:11(新改訳2017)

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない…」。5-6節に引用されているこのことばは、箴言3章11-12節からのものです。そこで「懲らしめ」と訳されている原語は、「教育」や「しつけ」等の意味を持つことばで、7節で「訓練」と訳されていることばと同じものです。また2017訳では、5節の「懲らしめ」も「訓練」と訳されています。「懲らしめ」は「懲罰」と同じととらえられがちですが、神は、ご自身の御旨に従い切れない聖徒たちに試練を与えて、「罰して」いるのではないのです。スポーツにしても技能にしても、訓練や鍛錬は楽ではありません。「喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるもの」とあるとおりです(11節、2017訳)。しかしそれは、私たちが望んでいる何かを得るために必要なもの、過程であって、その訓練を嫌がって避けていたのでは、その望むものを手に入れることはできないのです。私たちが訓練される目的は、神が「私たちの益のために、私たちをご自身の聖さにあずからせるため」とあります(10節)。訓練が私たちには喜ばしく思えなくても、それは私たちにとって善いものなのです。そしてそれによりて私たちは、主の似姿へと変えられ、主の働きに間に合うものとして、整えられるのです。そしてそのように鍛錬された人々は、義という平安の実を結ぶことができる…すなわち、神に認められ、用いられる者とされていることへの感謝と喜びがあり、心に平安が与えられるのです。「訓練として耐え忍びなさい」(7節、2017訳)。「信仰の創始者であり完成者であるイエス…」としばしば引用されますが(2節)、主は、その信仰を易々と完成されたわけではないのです。苦難のしもべとして試練を耐え忍ばれたのです(3節)。そのイエスから目を離さないでいなさいとの教えに、心を留めて歩みたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 11章32-40節◇(11月26日)

「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」…ヘブル11:40(新改訳2017)

ヘブル書の特徴の一つ、それは「さらにすぐれた」(もっとすぐれた:2017訳)ということばが多く使われているということです。8章6節には、「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」とあり、11章16節には、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた…」と書かれています。今日の箇所の35節にも、「さらにすぐれたよみがえりを得るために…」とありますが、エリヤやエリシャ、そして主イエスは、死んだ者たちを生き返らせました。しかしそれは地上でのいのちであって、それらの者たちも、やがては死を迎えたのです。しかしさらにすぐれたよみがえり、すなわちメシアがもたらされる救い、永遠のいのちにあずかるという、さらにすぐれた希望をもって、聖徒たちは厳しい迫害の中でも信仰を守り通したのです。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした」(39節)。それは、約束された永遠のいのちを、「この地上では」得なかったという意味であると同時に、「そのときにはまだ」得なかったということでもあります。40節を2017訳では、「私たちを抜きにして」と訳していますが、神の救いは旧約の聖徒たちだけでなく、すべての国民が受け取るべきものであり、御国の福音は地の果てにまで宣べ伝えられなければならないのです(マタ24:14)。神の救いは漸進的です。イスラエルから異邦人へ、古い契約から新しい契約へ、約束からその成就へ…。そしてそれらは切り替わりではなく拡がりです。溝ではなくつながりなのです。救いにあずかった私たちも、まだその完成途上にあることを覚え、さらにすぐれた故郷を、救いの完成を、心から待ち望む者でありたいと思います。

主は再び来られます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 11章17-31節◇(11月25日)

「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」…ヘブル11:19

アブラハムは主の命令に従い、サラが生んだ息子イサクをモリヤの山の上で全焼のいけにえとしてほふり、主にささげようとしました。彼は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」という主の約束が、それにより反故されるとは考えませんでした。どのようにしてかはわからなくても、その神のことばは必ずそのとおりになると、信じて疑わなかったのです(創22章)。ヘブル書の著者は、アブラハムは「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と考えた、と言っています。著者はさらに、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ…と、「信仰によって」ということばを繰り返し用いてその歩みについて述べ、彼らの持っていた信仰に言及していましかし、彼らが人とは違う「超人」だったわけではありません。彼らもまた、私たちと同じように、恐れや疑いを抱く弱さを持っていたのです。しかし彼らは、目の前の現実に心奪われず、その先にあるものを見、そこから目を離さず、神に信頼してそこを目指して進んだのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と、11章の冒頭に信仰の定義、あるいは信仰がもたらす祝福が語られています。望み得ないと思われるときになお望み、目に見えないものを見えるもののように見て歩む…それが信仰であって、それは幼子が、「おいで」という親の声に、何も疑わずに親のふところ目指して一目散に飛び込んで行く、そのような、私たちを愛しておられる神への全き信頼なのです。そして信仰は、私たちががんばって、疑いの火の粉を必死で払いのけて獲得するものではありません。むしろ、私たちが自分の弱さを素直に認めるとき、恵みとあわれみに満ちた神から賜物として受けるもの、神が私たちとの間に結んでくださる強い信頼関係なのです。そのような関係をさらに求めつつ、主と交わりたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 60章◇(11月23日)

「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」…イザヤ60:20

「起きよ。光を放て」という主の命令をもって始まるこの章はさらに、「主の栄光があなたの上に輝いているからだ」と続きます。「光」と「栄光」が「あなた」の上に輝き、闇に覆われた諸国の民も、その光に照らされて歩むようになると、イザヤは告げているのです(1-3節)。「あなた」とは誰のことでしょうか。イザヤは霊の目をもって神の都エルサレムを見、ユダの国を見、イスラエル全体を見、さらに異邦人を含めたすべての国々とその民をも見ているのです。その「あなた」の上に「光」が来て輝く…。それは神によって起こされるメシアにほかなりません。そしてその預言は、2千年前に世に来られたイエス・キリストによって、確かに成就したのです。歴史が示すとおり、イスラエルは諸国の手によって蹂躙されました。しかし主がその都を、国を回復させ、ご自身の喜びとされるのです。そして、すべての民は、その主こそ救い主、贖い主、力強き方であることを知るのです(14-16節)。また、主がもたらされる平和と正義によって、暴虐、暴行、破滅はなくなり、賛美が満ちるようになるのです(17-18節)。そのように闇に巣くうもろもろのものが消滅するのは、とりもなおさず、主の光が地に輝き、闇を打ち負かすからです。「主があなたの永遠の光となり」と繰り返されています(19-20節)。その光こそやがて来られるメシアであり、その光は諸国の民を覆っている闇を打ち負かし、嘆き、悲しみ、絶望の中に苦しんでいる人々の心を、喜びと希望と主への賛美に変えるのです。そのような日々は、キリストによって終わらせられるのです。イザヤが見ていたその光…。それは今もこの地に輝いています。そしてそれを受けて周りに照り輝かすために、主はご自身の聖徒たちを用いられるのです。「起きよ。光を放て」。その呼び掛けに応答したいと思います。

主の光がますます輝き出ますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 59章◇(11月22日)

「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。」…イザヤ59:17

主の耳が遠くて、聞こえないのではない…あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ…。そのように語ったイザヤは(1-2節)、その罪と咎について3節以降でさらに語り、民は闇の中を歩んでいるのだと告げています(9-10節)。不義、不正、偽り、暴虐、破壊、破滅…それらはみな、闇に巣くうものなのです。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた」。そのような闇に覆われている世を見て、主は深く悲しまれました(15節b)。それは、主が本来意図された状態ではなかったからです。またその救いのためにとりなす者がいなかったからです。主は、自ら義と救いをもたらすためにそれらを身に着けられましたが、それと同時に、復讐とねたみもまとわれました(17節)。救いとさばき、祝福とのろい、神はそのどちらももたらす方なのです。20節には「…ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る」とあります。主は一人ひとりに対して、罪を悔い改めのるか、それとも闇の中にとどまるのかと、問うておられるのです。そして一人ひとりが、救いと祝福の道か、さばきとのろいの道かを選択するのです。「…わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」(21節)。主は、ご自身の約束のことばを、私たちの「口」に置かれているのです。それは、その口が、主の救いとさばきを、祝福とのろいを、光と闇を自らに告げて言い聞かせ、日々再確認するためです。また、それを人々に宣べ伝え、それを聞いた人々が主の救いと祝福を求め、闇の中から光の下へと導き入れられるためなのです。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハ1:4-5)。まことの光なるキリストによって贖われた者として、闇に閉じ込められている人々に、その光を証しし、伝えていきたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 58章◇(11月21日)

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」…イザヤ58:6

断食をしているのになぜ顧みてくださらないのか…と、民が不満を抱いていることに対して主は、あなたがたがしている断食は私が求めているものではないと、そのあり方を非難しています。民は確かに荒布を敷いて座り、灰をかぶって頭を垂れていましたが、それはあくまでも形式的なものに過ぎませんでした。断食の日にもかかわらず、彼らは普通に自分の好むことをし、労働者たちを平気で圧迫し、争いとけんかをしていたのです。それは断食ではない、私が喜ぶものではない、だからあなたがたの声は私に届かないと、主は言われたのです(3-5節)。主が望まれる断食のあり方とは、そのような外面的なことよりもむしろ、内面的なことにあるのです。すなわち、主のみこころがなることを切に願い、そのことに集中すべく食を絶ち、そのための時間と思いをささげ、主との交わりに当てるのです。その中で、自分の肉なる思いは取り去られ、主の御思いがますます強くされるのです。神を愛し、何よりも第一とする。また隣人を愛し、良き行いをもってそれを実践する…。それは神のみこころです。労働者を追い立てることをやめ、虐げられている者たちを自由にし、飢えた者にパンを与え、貧しい者に衣服を着せる…。主は、わたしの好む断食とは、そのようなものだ、と言われるのです。そこには、受けるよりも与える、持つよりもささげるという精神があるのです。断食とは、単に食べない、やらないという消極的なあり方ではなく、愛する、与える、ささげるという積極的なあり方を意味しており、主がそれを喜ばれるのだということを、あらためて教えられます。そしてそれは、断食ということに限らず、信仰者の歩みのすべてにおいて、当てはまることなのです。表面的、消極的なあり方ではなく、私たちの心が主に喜ばれるものとなっているか、主の前で絶えず自らを吟味する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 57章◇(11月20日)

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」…イザヤ57:15b

義人はわざわいから取り去られて平安に入る…と、この章の最初でその祝福が語られています。そして最後には「悪者どもには平安がない」と対照的に、悪者どもへの報いが告げられています(21節)。不義を行なう悪者とは神に背き、自分たちがしたいように歩む者たちであって、3節以下には、占いや偶像礼拝に心を寄せる者たちのありさまとその結末が示されています。彼らは、子どもを屠り、ただの石を神とし、偶像との間で契りを結ぶのです。そのような者たちに主は、それらのものどもに自分たちを救わせよ、しかしそれらは風がみな運び去ってしまうのだ、あなたがたの道から、私が良しとしないつまずきを取り除けと、主は民に告げておられるのです(5-13節)。そのような文脈において、良く知られた15節後半の主のことばを受け取るとき、心砕かれてへりくだるとは、単に高ぶらずに謙遜に歩むという意味ではないことに気づかされます。自分を正しいとし、自分を中心として歩むことをやめ、神だけが正しいとし、神のことばに従い、神を中心に迎えて歩む…。それこそが、心砕かれてへりくだるということの意味なのです。それなのに、神以外のものに頼ろうとするなら、自分自身でさえも、神が忌み嫌われる「偶像」となり得るのです。「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす…」。私たちは肉体だけでなく、心も霊も備わった存在として造られています。肉体のいのちが保たれているだけでは「生きている」とは言えないのです。肉体も心もたましいも、すべてが神によって生かされている者こそ、真の喜びと平安に満たされて、生き生きと歩むことができるのです。それは主のいやしであり、救いであり、義人に与えられる祝福なのです。そしてその義はメシアによってもたらされるのです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というイザヤのことばが響きます(53:5b)。「キリストにある義」の恵みを覚えたいと思います。

主の恵みと平安が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 56章◇(11月19日)

「主はこう仰せられる。『公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。』」…イザヤ56:1

主は命じられました。「公正を守り、正義を行え」と。それは、主の救いがなされ、主の義が現わされるのが近づいているからです。そしてそれは、主が正しい者と悪者とを区別され、正しい者には永遠のいのちを与え、悪者を永遠の滅びに至らせる、その正しい評価と処置、すなわちさばきがなされるときであるのです。そして、公正を守り正義を行なうということは、単にみなしごややもめを顧みるというような、道徳的なことを意味するだけでなく、何よりも、主との関係を確かなものとして保つという意味があるのです(2-4節)。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには…絶えることのない永遠の名を与える」と主は言われているのです。「公正を守り、正義を行え」。そう言われるのはイスラエルの神、主です。しかし、その祝福の契約がユダヤ人ヤ人に限定されず、異国の民に対しても差別なくもたらされるとの約束がなされていることに、驚きを覚えます。主は、異邦人が祭壇にささげるいけにえをも受け入れると、明言しておられるのです(6-7節)。「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す」(イザ11:4)。それは、主ご自身がえこひいきなどなく、公正と正義をもって事をなされるお方であるということにほかなりません。そしてそのためにメシアは不正と不義に満ちたこの世に来られ、ご自身がすべての民のためのいけにえとなられ、贖いを成し遂げられたのです。そしてその主は、救いの完成と最終的なさばきを行なうために、再び来られるのです。その日は近い…。そのような切迫感を持ちつつ、主に喜ばれる事を、日々選び行なう者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 55章◇(11月18日)

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」…イザヤ55:9

飢え乾いている者に対して、主は、代価を払わずに穀物やぶどう酒を「買って」飲み食いせよと命じられています(1節)。それは、誰もがそれを主からの恵みとして受け取ることができるということです。主は、ご自身のことばに聞き従う者は、良いものを食し、元気づき、「生きる」と告げられています(2-3節)。荒野において、イスラエルの民は天から降るマナによって養われましたが、私たちも、霊的なマナである神のみことばを食べて養われ、元気になり、主にあって生きる者とされるのです。主がダビデと結ばれた永遠の契約…その約束のとおり、彼の子孫からメシアが生まれました。そのキリストは、諸国の王として、霊の戦いの司令官として働きをなし(4節)、死からの復活によって悪しき者に対して勝利し、神の国を確かにこの地にもたらしてくださったのです。その主は、ご自身の聖徒たちを、いまだ闇に満ちたこの世において輝かせ、その光を通して、残りの者を救いへと導かれるのです(5節)。自分勝手な歩みにあった者も、主の元に立ち返るなら、主は豊かに赦されるのです。「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる」とあるとおりなのです(7節)。神は、放蕩息子をも抱いて迎える、愛とあわれみに満ちた父なのです(ルカ15:20)。主の思いと道は、私たちのそれとは異なります(8-9節)。7節のことばに続いて、そのことが語られていることに心が留まります。神の祝福は、努力のがんばりによって獲得するものではないのです。人々から蔑まれるご自身のしもべに対し、全人類の罪を負わせることによって、私たちは罪ののろいから解放されたのです(イザ53章)。主のなさることはそのように人知を越えたものであり、私たちがなすべきことは、その主を恐れ、主の前にへりくだり、主に拠り頼み、備えられたその道を歩み続けることなのです。それは喜びと平安に満ちた歩みであって(12節)、そこには回復と祝福がもたらされ、主の御栄えが現わされるのです(13節)。感謝をもってその道を進んで行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 53章◇(11月16日)

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」…イザヤ53:5

イザヤは、この章において、「彼」について多くのことを語っていますが、「彼」とはメシアを指しています。そしてそれは、ダビデの子孫として生まれ、全ての人々に神の救いをもたらされたイエス・キリストのことです。そのメシアが十字架を担がされ、よろけながら歩いたとき、そこには見るべき姿や輝きはなく、慕われるような見栄えもありませんでした。メシアは人々から蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれることはなかったのです(2-3節)。人々は、彼が神に罰せられ、打たれたと思いました。しかし彼は、私たちの罪と咎のために、そのようにされたのです。彼は、私たちの病を負い、痛みと悲しみを担われたのです。それは「身代り」であって、本来は私たちが、それを受けなければならなかったのです(4-5節)。そしてそれは、神がみこころとしてなされたことでした。主は全人類の罪と咎を彼に負わせたのです(6,10節)。ここに、ご自身に背いた罪人への神の大きな愛があり、深いあわれみがあります。アダムとエバが罪を犯し、神を恐れて身を隠したとき、神は彼らのために、皮の衣を着せてくださいましたが、そのために流された動物の血は、キリストの十字架の血を、またその衣は、キリストを通して与えられる義を暗示しているのです(創3:21)。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。その「いやし」とは、単に病気が治ることではありません。そこには、罪という、神が本来意図しなかった、私たちを死に至らせるがんのような存在を、神が、キリストにあって取り除かれるという霊的な意味があるのです。聖書が言ういやしとは、そのように全人的なものであり、それは罪によって失われた、神とアダムとの親密な関係の修復であり、その和解を可能としたのが、キリストの血によるとりなし、贖いなのです(12節)。私たちもまた、その救いにあずかっていることを感謝したいと思います。

キリストの御名があがめられますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 52章◇(11月15日)

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」…イザヤ52:7(新改訳2017)

「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ」と、イザヤは語り、もう嘆く必要はないと、民を励ましています(1節,2017訳)。それは主が、「あなたがたは…金を払わずに買い戻される」と告げられたからです。贖うとは、買い戻すことであり、主は、民をかつての出エジプトのように、バビロンから贖う、取り戻す、救い出すと約束してくださったのです(3-5節)。7節のことばが心に留まります。前半は宣教への励まとしてしばしば引用されますが、後半には、「救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は」とあります。救いとは、罪の赦しや永遠のいのちの獲得のみならず、王なる主の、すべての領域における統治の確立であるということを、あらためて教えられます。そしてそれは、終わりの日における神の国の完成、新天新地の実現のことなのです。その部分を新改訳3版では、「あなたの神が王となる」と、これから起こることのように書かれていますが、原文では完了形となっています。すでに神が王となり、それは今も続いているのです。いまだ神の国は完成していませんが、それはすでにキリストによりこの地上にもたらされ、人々のただ中に確かに存在しているのです(ルカ17:21)。神が私の王であられる…神は私の歩みのすべての領域を統べ治めておられる…それは最善の道であり、私は乏しいことがない…。そのように告白する者は幸いです。そのことに目が開かれるならば、目の前のことに一喜一憂することはないのです。揺り動かされることはないのです。天に国籍を持つ者として、王なる主に全幅の信頼を寄せ、歩み続けていきたいと思います。

感謝と喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 51章◇(11月14日)

「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」…イザヤ51:3

聞け、見よ、考えてみよ、と主は民に語られています。主はアブラハムという一人の人物を選び、召し出し、祝福の約束を与えられました。そして不妊の妻サラの胎を開き、なんとアブラハムが100歳、サラが90歳の時にイサクを与え、さらにヤコブ、その息子たちと、子孫を増やし、約束を確かに成就されたのです(1-2節)。廃墟、荒野、砂漠…それらがエデンの園のようになると主は告げています(3節)。そこには、楽しみと喜び、感謝と歌声が満ちるとあります。それは、神が世界を創造されときの、アダムが神に背いて罪を犯す前の、すべてが良かった状態への回復にほかなりません。そして主は再び、わたしに心を留めよ、耳を傾けよ、と民に命じています(4節)。主はご自身のみこころを、教えとして語られ、それは暗やみを照らす光となり、イスラエルだけではなく、すべての国々の民に、救いとさばきをもたらすものとなるのです。ここに、義なる方、メシアの到来が暗示されています。その主のことばを受けて、イザヤは奮い立ちました。彼は、かつて主がなされた偉大なみわざを思いつつ、「主に贖われた者たちは帰って来る。…楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」と預言したのです(11節)。そしてそれは現実となったのです。まことの光として来られたキリストによって贖われ、異邦人であった私たちもまた、罪から解放されて主の救いにあずかり、やがて完全に回復する主の園、御国の祝福をすでに味わっています。楽しみと喜び、感謝と歌声に満ちたその神の国の到来を、キリストによる救いを、周りの人々に伝えて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 50章◇(11月13日)

「見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」…イザヤ50:9

イスラエルの民は捕囚となりましたが、それは、神が彼らを追い出したのでも売ったのでもなく、彼ら自身の咎と背きのゆえであり、主は出エジプトの時のように、力強い御腕をもって彼らを贖い、救い出そうとされたのです(1-2節)。そしてイザヤをご自身の弟子、しもべとし、耳を開き、語るべきことばを授け、意気消沈している人々を教えて、励まそうとされたのです(4-5節)。しかしそのイザヤは必ずしも歓迎されませんでした。しばしばひどい仕打ちを人々から受けました。しかし彼は、顔を隠すことなく、ひるまずに語り続けたのです。なぜなら主がイザヤを助け、弁護してくださったので、人々からの侮辱のことばが彼に突き刺さることなく、その心は守られ、恥を見ることがなかったからです。イザヤは、「神である主は私を助ける」と、主は常に近くあられる方だと、繰り返し告白しています(7-9節)。私たちも人から受け入れられないように感じるときがあります。しかし決して人を恐れてはならないのです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」とあります(箴29:25)。私たちは人を恐れず、神を畏れ、神に信頼する者となるべきなのです。主を畏れ、主のしもべ、預言者や弟子たちによって語られた主の教えに聞き従う者は、暗やみに満ちたこの世を歩く中でも、主の光に照らされて進むことができます。そのように、神に拠り頼む者の歩みは確かであって、決して揺るがされることはないのです。しかしながら、「自分たちの」火のあかりによって歩もうとする者は、歩みの途中で倒れてしまい、苦しむことになってしまうのです(10-11節)。主はともにおられる、主は私を助けてくださる、と告白しつつ、ただ主を畏れ、主の教えに聞き従い、主の光に照らされて歩み続けたいと願います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 49章◇(11月12日)

「主は言われる。『あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」…イザヤ49:6(新改訳2017)

主が預言者イザヤに言われたことばが心に留まります。バビロンの地に捕らえ移され、意気消沈している民を奮い立たせ、そこにとどめられ、残されている者たちを祖国に帰らせることが主のみこころであり、そのために主はイザヤを遣わし、そのことを民に告げ知らせるわけですが、主は、イザヤがそのようにしもべとして用いられるのは、そのためだけではないと言われるのです。それは偉大なことに違いありませんが、主はそれを、「小さなこと」だと言われるのです。では大きなこととは何でしょう…。それは主が言われるとおり、イザヤが諸国の光となり、地の果てにまで主の救いをもたらす者とされるということです。つまり、主の救いはイスラエルだけに留まることなく、全世界の人々にまで及ぶものとなる、それが主のみこころ、ご計画であるということです。ここにすでに、私たち異邦人に対する主の救いが明確に示されているのです。そしてその主のことばは、イザヤだけではなく、主に油注がれた預言者、祭司、王であり、ご自身のみこころに忠実に仕えるしもべとしてのメシアをも暗示しているのです。そしてさらには、キリストによって贖われる聖徒たちをも意味しているのです。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(イザ9:2)、すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハ1:8)、「あなたがたは世界の光」(マタ5:14)、「地の果てにまで、私の証人となり」(使徒1:8)というみことばは確かに繋がり、実現するのです。「帰らせる」…。その帰る所は、エルサレムであり、アダムとエバが追放されたエデンの園であり、やがて来る新天新地です。私たちも主のその壮大な救いのご計画の中で救われ、用いられることを感謝したいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 48章◇(11月11日)

「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」…イザヤ48:11

わたし、わたしと、主が繰り返し語られていることに心が留まります(9-12,15-16節)。頑なで、うなじがこわく、自分たちが作った偶像に頼り、主を裏切ったご自身の民に対して主は、怒りを抑え、絶ち滅ぼされませんでした。バビロンによるエルサレム神殿の崩壊、捕囚という大きな試練の中に民を入れられましたが、主は、ペルシャ王クロスを用いて民をバビロンの手から救い出し、ご自身に立ち返らせるのです。それらはすべて、主が計画され、主が仕組まれ、主が成し遂げられることであって、主がご自身の名をきよく保ち、栄光を誰にも与えないようにするために、断固としてそれを遂行されるのです。さらに主は、わたし、あなたと繰り返し、ご自身と民との関係についても明確に語られています(17-19節)。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに…」。民が、そして私たちが何よりも耳を傾けるべきは、人のことばではなく、全能主であられ、主権者であられる主のことばです。それは神のみこころを示し、私たちに益になることを教え、豊かな祝福を与えてくれるのです。「川のように…波のように…」とありますが、それは、絶えることなく流れ、次から次へと地に押し寄せるように、天から私たちに注がれるさまを表しているのです。「あなたの子孫は砂のように…なる…」(19節)。神がアブラハムに与えられた祝福の約束が思い起こされます。そしてそれは、キリストに贖われ、信仰によるアブラハムの子孫とされた私たちへの祝福でもあるのです。「これが道だ。これに歩め」(30:21)という御霊の声をしっかり聴き、道を逸れずに歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 46章◇(11月9日)

「わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。」…イザヤ46:13(新改訳2017)

1節の「ベル」や「ネボ」とは、バビロンの偶像の神々のことです。その偶像は家畜に載せられ、荷物となって運ばれなければならないのです。またそれらは置かれた場所から自分では一歩も動くことができず、民がそれらに向かって叫んでも何も答えず、苦悩から救ってもくれないのです(1-2,6-7節)。それに対してイスラエルのまことの神は、ご自身の民一人ひとりを、生まれる前から担い、運ばれるのです。その主は、民が年を重ねて白髪になったとしてもなお、背負い続けてくださるお方なのです。また敵の手から、さまざまな苦難から救い出してくださるのです(3-4節)。そのことに思いを至らせよ、昔なされたことを覚えよ。わたしが神である。ほかにはいないと、前章に続いて主はそのように宣言されています。イスラエルの民にとって、出エジプトの出来事は忘れるはずがないものであり、そこでの偉大なみわざを思い起こせ、私に信頼せよ、恐れるなと、主は言われるのです(8-9節)。その主は、クロスによるバビロンからの解放と、さらにはメシアによる罪からの救いを計画し、預言されたその約束を、ことごとく成就されるお方なのです。その中でバビロンは、「東からの猛禽」として用いられたのであり、その苦難と救いを通して、頑迷な民は悔い改め、主に立ち返り、義なる者とされ、主の栄光が現わされる国民とされるのです(10-13節)。義なる方、キリストの贖いによって、私たちもまた義なる者、神の民とされました。そして主はいつも私たちとともにあり、苦難や敵の手から守り、救い出してくださるのです。私たちが年老いてもなお、背負い続けくださるのです。感謝をもって、ひたすらその主に拠り頼む者でありたいと思います。

力強い主の御手により支えられますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 45章◇(11月8日)

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」…イザヤ45:22

「わたしが主である。ほかにはいない…」と、主が力強く、繰り返し宣言されていることに(5,6,21,22節)、心が留まります。主は、ご自身のみこころのうちに、すべてを造られ、すべてを成し遂げ、すべてを統べ治められる、創造者であり、全能者であり、主権者であられるのです。その主によって、光や平和だけでなく、やみやわざわいもまた創造されたとあります(7節)。ともすれば私たちは、そのことを認めようとせず、やみやわざわいを見るときに、なぜ神はこのことを許されるのか…と非難したくなりますが、それらもまた、主の御手の中にあって、意味のあるものとして私たちに与えられているのです。その主に向かって不満を漏らすのは、粘土が陶器師に対して注文やいちゃもんをつけるような、主客転倒のあり方であって、被造物である私たちが創造者に抗議するのは、実に不遜な、思い上がった態度なのです(9-10節)。しかしそれは、ただ黙っていろということではありません。詩篇には赤裸々に思いを神にぶつける詩人のことばが満ちています。けれどもその過程を通して、私たちは罪深く愚かな自分を知り、ただただ主の前にひれ伏す者とされるのです。その主は、バビロンに捕らえ移された民の解放を、異邦人であるクロス王を用いてなされました(13節)。神のご計画は、人の考えをはるかに越えた奇しいものであり、私たちがなすべきことは、その主を畏れ、信頼し、拠り頼み、すべてを委ね、主の道を歩み続けることなのです。「こうあるべきだ」と自分の考えに固執する者は、置かれた状況や周りの者に常に不満を持ち、平安がありません。しかし、主の主権を認め、自らを主に明け渡すなら、私たちは心安らかにされるのです。肩の重荷はなくなるのです。そしてそれは主が願っておられることなのです。絶えず主を仰ぎ見て生きる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 44章◇(11月7日)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」…イザヤ44:22

「わたしのしもべヤコブ…わたしの選んだイスラエルよ…」と呼び掛けられた主は、一人ひとりを母の胎内で形造って生まれさせたのはこのわたしなのだと、ご自身が創造者であることをあらためて強調しています(1-2節)。その主は、乾いた地に水を注がれるだけでなく、イスラエルの子孫にご自身の霊と祝福を注がれるのです(3節)。そのようなお方が神であるにもかかわらず、民は、目に見えるもの、身近に置けるものとして偶像を作り、見ることも知ることもないそれを神として慕う、そのような、主が忌み嫌うことを行い、罪を犯し続けてきたのです。「ただ恥を見るだけだ…」、「何の役にも立たない…」と主は、人の手による偶像に頼ることが、いかに愚かなことであるかを、繰り返し指摘しています(9-11節)。「自分の偶像とし…」と17節にありますが、民は、自分の考えで、自分のために、自分の手によって偶像を作って神として拝んだのです。しかし、もちろんそれは自分を救い出してくれないのです。そして、そのような過ちは、常に自分は正しいとする高慢な態度から出るのです。しかし人は、「私の右の手に偽りはないか」(20節、2017訳)と、主の前に出て、神の教え、基準に照らして正しいかどうか、自らのあり方を絶えず吟味すべきなのです。「ヤコブよ…イスラエルよ…あなたはわたしのしもべ、わたしが、あなたを造り上げた…」と、主は再び、民がご自身の御手によって形造られた者であると語っています(21節)。主は陶器師であって、私たちが主の前に自らを差し出すなら、何度でもその制作中の器を壊し、粘土である私たちをご自身の気に入ったもの、みこころにかなうものとして造り直してくださるのです(エレ18:4)。不純物を取り除き、そむきの罪をぬぐい去ってくださるのです。絶えず主の前に出て、自らを明け渡し、御手によるその取扱いを受ける者でありたいと願います。

主のみこころだけがなりますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 43章◇(11月6日)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」…イザヤ43:4

「だが、今、ヤコブよ」と、イザヤは民に呼び掛けます。主の道に歩まず、教えに聞き従わなかった民に対して、主は燃える怒りを注ぎ、敵との戦いの中に置かれました(42:24-25)。「だが」と、その背信にもかかわらず、愛とあわれみに満ち、一人ひとりを創造して形造られた主のことばを(1節)、イザヤは取り継いでいるのです。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」。主はそのように、最初に「恐れるな」との命令のことばをもって語り始めます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」という2節のことばは、イスラエルの民がエジプトを脱出し、水がせき止められた紅海を渡った出来事や(出14:22)、ダニエルの仲間が火の燃える炉に投げ入れられても、何の害も受けなかった出来事(ダニ3:25)を思い起こさせます。それらは、主がともにいて守られたゆえに起こった奇蹟なのです。4節のことば、特に前半は良く知られていますが、「代わりにする」と後半に書かれていることに、あらためて気づかされます。神が民を愛するということは、単にそれまでの不従順を忘れ、燃える怒りを収めるということではないのです。イスラエルの民の代わりに、主が怒りの矛先をエジプトやクシュ(エチオピア)に向けるからこそ、イスラエルは主の好意と祝福にあずかることができるのです。そこには、やがてメシアがすべての人の身代りとなって、不従順という罪に対する神の怒りを一身に受けられ、それゆえに私たちが神の好意と祝福を受けることができるようになった、キリストの十字架の贖いが暗示されているのです。キリストにあって、神の目に高価で尊い者、神に愛されている者とされていることを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 42章◇(11月5日)

「主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。しかし、これは、かすめ奪われ略奪された民、彼らはみな穴の中に陥れられ、獄屋に閉じ込められた。」…イザヤ42:21-22a(2017訳)

1-4節に書かれている、国々に公義をもたらす(さばきを行なう:2017訳)「彼」とは、メシアのことです。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」とありますが、イエス・キリストは、多くの病む者、弱っている者をあわれみ、いやし、救われました。マタイがイザヤのことばを引用して言っているように(12:17-21)、神のしもべとして遣わされたキリストの働きにより、そのイザヤの預言は確かに成就したのです。神はご自身の義をこの地にもたらすために、ご自身が選ばれた民と契約を結ばれ、律法をあたえ、その教えを地に広め、真理の光で諸国の民をも輝かせることを望まれました。しかし、イスラエルの者たちは、目に見える偶像に拠り頼み、耳障りのよいことばに心奪われ、それを神として歩もうとし、神に退けられてしまったのです。アッシリアやバビロンの手により彼らは奪われてしまいますが、そのようにされたのは主ご自身なのです(24節)。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、ご自身の民を見捨てることなく、なおも敵の手から奪い返してくださる、贖い出してくださるお方です。そしてそのことを通して民を立ち返らせ、彼らの霊的な目と耳を開き、ご自身の働きのために用いることが主のみこころなのです。そのことに思いを至らせるとき、「義をもって召し」、「国々の光とする」、「やみの中に住む者を獄屋から連れ出す」と神が言われた「あなた」とは(6-7節)、メシアのことであると同時に、ご自身に立ち返らせ、霊の目と耳を開き、み教えを広めてこの地に輝かすために用いられる、主の民でもあることを教えられます。そしてそれは、キリストに贖われた私たちのことを意味しているのです。わたしがあなたがたを選び任命した(ヨハ15:16)、あなたがたは世の光(マタ4:14)と言われた主イエスのことばを、あらためて覚えたいと思います。

主の働きに尊く用いられますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 41章◇(11月4日)

「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。」…イザヤ41:13

41章に書かれていることばはすべて、主ご自身のものです。主は、「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ」と、すべての人に呼び掛け、「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。…だれが、これを成し遂げたのか…」と問い掛け、「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」と、力強く宣言されています(2-4節)。そこには三位一体なる神が、世界のすべてを創造され、人を造られ、罪の世を贖い、新しい天と地を打ち建て、救いと回復のみわざを成し遂げられることが暗示されています。そしてそれは、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」と告げられた主のことばのとおりなのです(黙示22:13)。その主は、ご自身の選ばれた民、イスラエルを祝福し、今も導き続けておられます。かつてエジプトにおいて奴隷となっていた民をそこから連れだし、約束の地へと導かれた主は、後に、捕らえ移されたバビロンの地からも連れ戻してくださる主であり、主はどんなときにも民とともにあり、見捨てることなく支え続ける、愛とあわれみと真実に満ちたお方なのです(9節)。さらに主は、ご自身が遣わされた救い主、キリストを信じる者を霊的なアブラハムの子孫とし、ご自身の民として、約束の地、天の御国へと導いてくださいます。その主は、この地上の荒野の患難の中にあっても、インマヌエルなる方として、世の終わりまでも、いつも聖徒たちとともにいてくださるのです(マタ28:20)。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(10節)。ともにいてくださる主は、弱い私たちを助け、強め、導いてくださいます。その主にあって、恐れることなく、主の道を歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 40章◇(11月2日)

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」…イザヤ40:10

慰めよ、語りかけよ、呼び掛けよ、呼ばわれ、声をあげよ…と神は、イザヤに対して繰り返し命じています。では何を語り告げ、呼ばわれと言われるのでしょうか。それはまず、労苦は終わり、咎は償われ、すべての罪に引き替え、2倍のものを主の手から受けた、ということです(2節)。そのことばに続き、荒野に呼ばわる者の声が記されていますが、これは福音書に登場するバプテスマのヨハネ、すなわちメシアの満ち備えをする者のことを指しています。罪を償い、神からの2倍の祝福を民にもたらすのは、神が遣わされるメシアにほかならないのです。呼ばわるべきことのもう一つは、草は枯れ、花はしぼむが、神のことばは永遠に立つ、ということです(6-8節)。草とは、血肉を持ち、限りある地上の歩みを続ける私たちであり、花とは人が受ける束の間の栄光のことです。しかし、それらは決して永遠に続かないのです。やがて取り去られるときが来るのです。けれども、神のことばは永遠に立ち、その神のことばに従って歩む者は、メシアの救いにあずかり、永遠に生きることができるのです。さらにそのメシアについてイザヤは語ります(10-11節)。メシアは力をもって来られ、御腕でこの世界を統べ治める御国の王なのです。メシアを信じ、贖われる者は、その御国の民とされ、平和と喜びの中を主とともに永遠に歩むのです。またメシアは、良き羊飼いとして、羊のように弱い民一人ひとりを御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく導いてくださるのです。緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴ってくださるので、羊たちは決して乏しいことや渇くことがないのです(詩篇23:1-2)。預言されたそのメシアは、2千年前、確かに来られ、十字架と復活により人類の贖いを成し遂げられました。キリストにより贖われた私たちもまた、感謝と喜びをもって、その良き知らせ、福音を人々に語り告げたいと思います。

救いの喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 39章◇(11月1日)

「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」…イザヤ39:6

病気にかかって死にかけていたユダの王ヒゼキヤは、主によっていやされて元気になりましたが、それを聞いたバビロンの王は使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けました。すると、そのことに感激したヒゼキヤは、なんと、自分の家や国の財宝や武器などをすべて、使者たちにさらけ出したのです(1-3節)。それはまるで、敵の前に獲物を並べ、戦いの手のうちを見せ、さあこれらを奪うことができますかと、挑発するような行為でした。なぜそのような愚かなことをヒゼキヤがしたのか…その理由は明らかではありませんが、病気がいやされ、バビロンの使者から贈り物をもらって、有頂天になっていたのかもしれません。また、これほどに祝福されているのだと、自らを誇り、自慢したかったのかもしれません。しかしそれは、主が喜ばれることではなかったのです。イザヤはそれらはすべてバビロンに運び去られ、また、息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王宮で宦官にされる者が出るだろうと、ヒゼキヤに宣告しました(6節)。病気で死に瀕したとき、ヒゼキヤは顔を壁に向け、ひたむきに主に心を向けて、いやしを祈り求めました(38:2)。しかし病気が快復すると、そのことをすっかり忘れ、彼は、肉の思いで、愚かなことをしたのです。主の前にへりくだり、砕かれた心で歩もうとしなかったのです。また彼は、自分のコレクションをひけらかすかのように財宝などを使者に見せましたが、それは、先祖たちが昔からずっとたくわえて来たものであって、世代を越えて引き継がれてきた神の祝福であったのです。彼はイザヤから宣告を受けても、息子たち、次の世代はかまわないように発言しましたが(8節)、そのように、自分のこと、今のことしか考えようとしない、利己的、刹那的な態度は、主に喜ばれるものではないのです。「誇る者は主を誇れ」(1コリ1:31)と主は言われます。ヒゼキヤを反面教師とし、全ての栄光を主に帰す者でありたいと思います。

ただ主のみこころがなりますように。