◇聖書箇所: 詩篇 72篇◇(12月31日)

「王は 弱い者や貧しい者をあわれみ貧しい者たちのいのちを救います。虐げと暴虐から 王は彼らのいのちを救います。王の目には 彼らの血は尊いのです。」…詩篇72:13-14(新改訳2017)

最後の20節には「ダビデの祈りは終わった」とあり、題として「ソロモンのために」(「ソロモンによる」:新改訳3版)と書かれています。ダビデが自らの王位を息子であるソロモンに引き継ぐ際に神に願い求めた祈りが、詩となって収められたのかもしれません。しかし同時に、この詩が預言として、後にダビデの子孫から出る、王なるメシアを指し示しているとも考えられるのです。キリストは、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている群衆を見て、あわれまれました(マタ9:36)。また、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われ、たましいに飢え乾きを覚えている人々に、神の国がもたらすいのちと祝福を伝えられました。そして神に敵対する者の虐げ、罪の束縛から、すべての民を贖い解放するために、王であるキリストは、ご自身のいのちを十字架の上でささげてくださったのです。「王の目には彼らの血は尊い」とありますが、彼らの血とは、すなわち、一人ひとりのいのちであり、その存在なのです。神の目に高価で尊い存在である私たちは、神の深い愛とあわれみによって、そのように、死からいのちへ、闇から光へと移され、永遠に神とともに生きる者とされたのです。「王の名がとこしえに続き その名が 日の照るかぎり増え広がりますように。人々が彼によって祝福され すべての国々が彼をほめたたえますように(17節、2017訳)。ダビデのその願いは、神ご自身の願いであり、すでに贖われた私たちの願いにほかなりません。15節には、「王のためにいつも彼らが祈り 絶えず王をほめたたえますように」とありますが、聖徒として、祭司として、どんなときにも主をほめたたえ、神のみこころがなるよう、とりなしの祈りをささげる者でありたいと思います。

すべての栄光が神にありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 71篇◇(12月30日)

「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。」…詩篇71:15

「あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください」、「わが神よ。私を悪者の手から助け出してください…」。詩人はそのように、神に願い求めています(2,4節)。詩人の敵がいのちをつけ狙い、また、不正を行なう者や残虐な者がのさばっているような世にあって(4,10節)、詩人は、神が遠く離れてしまったのでは…との思いにかられることもあったのです。しかし、それを振り払うかのように詩人は目を天に向け、「しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう」と告白しているのです(14節)。詩人の口はまた、神の義と救いを周りに、そして自分自身に絶えず語り告げるものとなりましたが、彼は、「私は、その全部を知ってはおりません」と言っています。神の義と救いが、いかに大きく、高く、広く、確かなものであるか、そして自分がそのほんの一部しか知り得ていないことを覚え、詩人は、感謝と畏れをもって、そのことを主の前に認めて告白しているのです。神の義とは、すなわち、神がご自身のみこころにかなう者を喜ばれ、祝福され、そうでない者を憤られ、退けられるということです。詩人は、悪者の言動に心が揺り動かされつつも、神の義が地の上に貫かれ、正しい者たちが決して恥を見ることがないことを信じて、「あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう」(16節)と言って、主にある希望を抱き続けようとしているのです。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」。パウロもそのように言っています(1コリ8:2)。偉大な神の義と救い…それは人間の考えをはるかに越えたものであって、私たちはただ、その神のみわざの現れを待ち望むべきなのです。人にとっての奇蹟(7節)も、神にとっては当然であることを覚えたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 69篇◇(12月28日)

「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」…詩篇69:13

「神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、入って来ましたから」(1節)と、詩人は初めからいきなり神に訴えています。それが具体的に何を意味しているのかは不明ですが、4節に「私を滅ぼそうとする者」とあることから、敵によっていのちを狙われ、滅ぼされようとしてたのかもしれません。また、詩人は、自らの罪過が神に知られていると認めており(5節)、そのような自分が神から見放され、ずぶずぶと泥沼の底へと沈んでいくように感じていたのかもしれません(2節)。詩人は、そのような状況と自分自身に対していてもたってもいられなくなり、荒布をまとって泣き悲しみ、断食をもって主に悔い改め、赦しと救いを待ち望むようになりました。しかし彼は、神をそしる悪者から嘲笑され、酔いどれの歌の題材とさえされて、惨めな状況の中に置かれていたのです(10-12節)。「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります」。きっぱとしたこの詩人のことばに心が留まります。人々から何と言われようと、誰も味方になってくれないとしても、悪者の咎が放置されているように思えても、たとえ一人でも、主よ、この私はあなたに祈り求めます…と、詩人は神を仰ぎ見て、恵みとあわれみに満ちた主が、祈りに答え、介入し、自分を憎む者どもから、また泥沼の底から救い出してくださるよう、懇願したのです(14節)。「主は 貧しい者に耳を傾け 捕われたご自分の民を蔑まれない」(33節、2017訳)。「貧しい者」とは、主の前に誇れる者は何もないと、自らの乏しさ、罪深さを認め、へりくだり、ただ神に拠り頼んで祈り求める者のことです。そして主は、そのような者に目を留め、「ご自分の民」として、捕われているものから解放し、ご自身の救いの中に入れてくださるのです。どんな状況にあっても、祈りのうちに、主を待ち望み続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 68篇◇(12月27日)

「神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。」…詩篇68:35

詩人は、詩篇の読者たちに対して、神に向かって歌え…ほめ歌を歌え…御名をほめたたえよ…と、繰り返して語っています。それは、その神が、悪者どもを追い払い、正しい者たちを守られるからであり(1-2節)、私たちが倒れてしまわないよう、のしかかる重荷を担ってくださるからであり(19節)、何よりも、この世界を創造され、今もなお、主権と御力をもって、すべてを統べ治めておられる、偉大なお方であるからです(32-34節)。「いにしえから 天の天を御される方に。聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を」(33節、2017訳)。地が茫漠として何もなく、やみが大水の上にあるとき、神が「光、あれ」と御声を発せられると、そのとおりに光が存在するようになりました(創世1:3、2017訳)。神のことばは、そのように、無から有を生み出すものであって、その神のことばを信じて歩む者は、試練や苦難の中を通される時にも、そのことばによって強められ、励ましを受けて前進し続けることができるのです。疲れて倒れそうになっても、起き上がることができるのです。「イスラエルの神こそ 力と勢いを御民にお与えになる方です」。「勢い」となっていることばを、新共同訳聖書では「権威」と訳しています。神の力は、私たちの弱さのうちに働くとともに、ご自身の権威として私たちに分け与えられるものであるのです。そしてそれは、私たちが、神のことばを、主の御名によって権威をもって発する時、そこに神の力強いみわざが現わされる、ということなのです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハ1:1)。神ご自身である聖書の一つ一つのことばによって強められ、支えられ、導かれ、この地上での荒野の歩みを進めて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 67篇◇(12月26日)

「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」…詩篇67:2

詩人は神に願い、祈り求めています。「私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように」と(1節)。そしてその願いの理由が、続く2節に書かれているのです。詩人の願い、それは、単に自分たちが神の祝福を享受し、繁栄し、その豊かさを味わい、楽しみ喜ぶことではないのです。詩人は、自分たちが祝福されることによって、神が、同じように、みこころにかなう者たちにご自身を現わし、特別な恵みを注ぎ、歩むべき道を示し、罪と死とさまざまな恐れから解放し、救いにあずからせてくださるようにと、切望しているのです。また詩人は、神がそのように祝福をもたらす方であると同時に、公正なさばきをなされる方であること、すなわち、神に背を向けて身勝手に歩んでいる者たちが神に退けられてしまうことを、諸国の民が知るようにと願っているのです。そして、彼らに軽蔑され虐げられながらも、ひたすら神に拠り頼んで歩んでいる者たちが、自分たちをも顧みてくださる神をほめたたえ、喜び歌うことができるようにと、求めているのです。「地はその産物を出しました(大地はその実りを産み出しました:2017訳)」(6節)。地の産物、実りは、とりもなおさず神の祝福であって、それは、神のみこころにかなうご自身の被造物すべての上に与えられるものです。その神が、自分たちをもみこころにかなう者として祝福してくださるように、そのことを通して、地の果てに及ぶすべての人々が、祝福とさばきをもたらす神を知り、畏れ、求め、ともにその祝福にあずかることができるようにと、詩人は願っているのです。ヤベツも「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈りました(1歴4:10)。私たちもまた、自分たちが神の祝福の基とされ、人々が神を知り、救いにあずかるようにと、祈り求めたいと思います。

主の祝福がみこころにかなう者の上にありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 2章13-23節◇(12月25日)

「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった。」…マタイ2:14-15

「これは、主が預言者を通して~と言われた事が成就するためであった」と、マタイは繰り返して記しています(15,17,23節)。起こった事柄一つ一つだけを見れば、それらは脈絡のないことのようにも思えますが、そうではないのです。それらは、主の御手の中でなされた繋がりのある一連の出来事であり、主権者なる主ご自身が計画され、事を進められ、時至って成就したのです。またマタイは、ヨセフが夢の中で、主の使いを通して神から語られ、取るべき行動を具体的に指示されたことを、繰り返し伝えています(13,19-20,22節)。そして、指示を受けたヨセフは、疑ったり、自分の考えを優先させたりすることなく、その命令に従ったのです。「そこで」ということばが、ヨセフのその従順さを示唆しています。いつの時代においても、神の国の働きは主ご自身により計画され、実現に至るという原理がある一方で、主が人に語り、命じ、それに従順に従う者を通して具現化していくという、両方の側面があることをあらためて教えられます。聖書には、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とある一方で、「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」(イザ6:8)とも書かれているのです。夢、幻、みことば、御霊の語りかけ…。主はさまざまな方法をもって、私たちにご自身のみこころを示してくださいます。そして主は、それに従順に従う者たちを用いて、ご自身の御国を拡げられるのです。バタバタとした日々の歩みから退いて静まり、主と親しく交わる時間を持ち、主のみこころを求める者でありたいと思います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 2章1-12節◇(12月24日)

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」…マタイ2:11

ヘロデ王は、ローマ帝国の支配下にあった属国としてのユダヤの王として立つことを認められた人物ですが、猜疑心が強く、自分の地位を守るためには、部下や家族さえも平気で殺してしまうような人物でした。東方の博士たちの訪問により、ユダヤ人の王であるキリストの誕生を知った彼が、彼らにその居場所を探らせ、みどりごを抹殺しようと企んだのは、当然の成り行きだったのです。そのように利己的で、打算的で、王宮で何一つ不自由のない贅沢な暮らしをしていたヘロデ王…。一方、キリストは、そんなヘロデ王とは対照的に、不衛生な家畜小屋で生まれ、粗末な飼葉桶の中に寝かされました。そして、人々からもてはやされるためでなく、すべての人に救いをもたらすべく、ご自身の命を与えるために来られた、世界の王、御国の王であられたのです。また、ヘロデ王から、キリスト誕生の場所を尋ねられた祭司長や律法学者たちは、ミカ書5章2節の預言を引用し、それはベツレヘムです…と即座に答えましたが、そのように、いくら聖書に精通していたとしても、肝心のキリスト誕生の出来事を知ることがありませんでした。なぜなら宗教指導者であるはずの彼らは、ヘロデのお抱えとなって安定した生活で満足していたため、キリストを待ち望み、祈り求める心を持っていなかったからです。しかし東方の博士たちは、そんな彼らとは対照的に、異邦人でありながら、キリスト誕生を知らせる星に導かれ、遠路はるばるやって来て、救い主の前にひれ伏し、高価な贈り物をささげて礼拝したのです。みどりごの上にとどまった星を見て、彼らは「この上もなく喜んだ」とあります(10節)。そして、夢の中で語られたことばに従い、ヘロデ王に会わずに帰って行ったのです。私たちもそのような礼拝者の心を持ち、持てるものを主の御前にささげ、御霊の導きにひたすら従う者でありたいと思います。

主とともに歩む喜びがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 1章18-25節◇(12月23日)

「『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。』」…マタイ1:20b

「ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」(18節)。マタイは、そのときの状況を詳しく記してはいませんが、ルカによれば、御使いがマリヤに対し、あなたはみごもって男の子を産む…それは聖霊の働きによるのだ…と告げ、その名をイエスと名付けるよう命じたとあります(ルカ1:31-35)。一方、マリヤの婚約者であったヨセフには、マリヤと同じタイミングでそのことが知らされたのではないということが、マタイの記事に示唆されています。ヨセフは、「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあるからです。さらし者になるとは、隠されたことが人々の前に公になり、恥をかかされることですが、婚約期間中であったマリヤの妊娠は、彼女の不貞の罪を意味するのです。ヨセフにとって、そのことは大きな衝撃であり、彼女のためを思ってというよりもむしろ、自らの失意と悲しみの中で、婚約を解消し、離縁しようと考えたのかもしれません(19節)。そのように思い巡らしていたとき、ヨセフの夢の中で御使いが現れ、彼に告げました。「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい」。その「恐れる」とはつまり、ヨセフが、現実に起こっている否定的なことに対して、人の目を気にし、自分の考えに基づき、マリヤを去らせるという、人間的な対処をするということです。しかし、マリヤの妊娠は人の思いを越えた主ご自身のわざであり、すべてが主の御手の中にあることを、神はヨセフに知らせたのです。それは彼にとって、大きな信仰のチャレンジでしたが、目覚めたヨセフはそのとおりにしたのです。私たちの歩みにおいても、「恐れる」ことがしばしば起こりますが、人の声、世間の評価を気にせず、自分の考えに基づいて対処せず、そのことの背後に神のご計画があることを覚え、どうすればよいか、主のみこころを祈り求めて、それに従って進む者でありたいと思います。

主の確かな導きが与えられますように。

◇聖書箇所: ナホム書 3章◇(12月21日)

「あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。」…ナホム書3:19

「ああ。流血の町…」と、ナホムは、神に逆らい、さばきに会うニネベの町の悲惨な様子を、短い箇条書きの文章を並べて描写しています(2-3節)。バビロンとペルシャの連合軍による攻撃を受け、おびただしい戦死者が出、その屍が町を埋め尽くすために、人がまともに歩けなくなると言うのです。そして、そのような徹底的な壊滅がなされる原因は、「呪術を行なう女の多くの淫行」にあるとナホムは指摘しています。神は、アッシリヤの、ユダ国に対する政治的介入だけでなく、偽りの神を慕い求めて頼みとするその霊的悪行のゆえに、ニネベの町を聖絶されるのです。この書の最後において、「アッシリヤの王よ」と主は呼び掛け、結論としてのメッセージを伝えています。「あなたの傷はいやされない」(19節)。そして、アッシリヤに蹂躙されていた諸国の民は、そのことを知り、手を叩いてニネベを嘲笑し、喝采して喜ぶのです。「主はねたみ、復讐する神」(1:2)。神にとっての復讐とは、人間がするような、怒りの感情に支配されたかたき討ち、仕返しではありません。それは、ご自身の義とご自身の民に対して背き、反抗し、自分が支配者、主権者となろうとする者や勢力に対するさばきであって、それを許さず、正義を打ち立て、主権を確かなものとするためになされることなのです。そのようなことは、アッシリヤ以外にも、歴史上、多くの国が主から受けた仕打ちですが、それは終末において、サタンが受ける仕打ちの予型であるのです。今も、反キリストの勢力は、ますます強まっていますが、神に敵対する存在は、必ず滅ぼされるのです。そしてそれを見て、聖徒たちは拍手喝采するのです。さまざまな霊的戦いの中に私たちも置かれますが、主の勝利を信じて堅く立ち続けたいと思います。

主からの励ましが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ナホム書 2章◇(12月20日)

「見よ、わたしはおまえを敵とする。-万軍の主のことば-おまえの戦車を燃やして煙にし、若い獅子を剣が食い尽くす。おまえの獲物を地から絶やし、おまえの使者たちの声はもう聞かれない。」…ナホム書2:13(新改訳2017)

ニネベに対する主のさばきがさらに語られています。「いくつもの川の水門が開かれ、宮殿は消え去る」(6節、2017訳)とありますが、洪水のような大水が押し寄せて、きらびやかな宮殿の中にも濁流が流れ込み、諸国から奪い取ったさまざまな財宝が流出していく様子が目に浮かびます(1:8参照)。また、大切な王妃も捕らえ移されてしまい、そのはしためは途方に暮れて嘆き悲しむのです。さらに、ニネベの住民は慌てふためき、何もかも置いて、一目散に町から逃げ出すのです(8節)。それらはすべて、主権者なる主によってなされることです。13節は主のことばですが、「おまえの戦車…(おまえの)若い獅子…おまえの獲物…おまえの使者たち…」と、ニネベに住む者たちに言われています。彼らは、自分たちでそれらをすべて獲得し、所有し、当然のように自由に使えるものだと思っていました。そしてそれらを誇りとし、それらに拠り頼んで生きていたのです。しかし主は、その「おまえの」ものをわたしは、燃やし、食い尽くし、絶やし、声が聞かれないようにすると、彼らの傲慢さを打ち砕くようにして告げたのです。富豪であったヨブは、所有していた家畜やしもべや、さらに息子と娘を全員失ったとき、こう言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。「わたしのもの…」という思いで、地上的なものに固執し、それに拠り頼むのではなく、へりくだり、いのちさえも主から与えられていることを覚え、すべてを主に明け渡し、拠り頼む者を、主は喜ばれるのです。そして、みこころのうちに、必要を満たしてくださるのです。絶えずその主に信頼したいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ナホム書 1章◇(12月19日)

「今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す。」…ナホム書1:13

ナホムは、紀元前640年頃、イザヤやミカの1世紀後に存在したユダ国の預言者です。1節にあるように彼は、本書書によって、アッシリアの首都ニネベに対する神のさばきを預言しましたが、紀元前612年にバビロンとペルシャの同盟軍によってニネベは陥落し、その預言は成就しました。神は、ニネベに対してヨナを遣わし、悪と暴虐を悔い改めて立ち返るようにさせさせましたが、それが一時的なものであることを知った主は、ニネベとアッシリアに対して怒り、ご自身の民であるユダを救い出すために、義を貫いて復讐されたのです。神のあわれみと義、救いとさばきの両面性をそこに見ることができます。ナホムはまず2-11節において、復讐し、さばく神について記しています。ここでは自然界を支配される神が、嵐や干ばつや洪水によってそのさばきを実行するとありますが、その中に挟まれるようにして7節に、「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる」と書かれていることに心が留まります。神は真実なお方であって、ご自身に身を避ける者たち、すなわち自らの知恵や力を頼みとせず、へりくだってひたすら主に拠り頼もうとする者の心を見ておられ、その者たちを、どのような苦難の中にあっても助け出し、導いてくださるのです。13節の「彼」とはアッシリアのことです。主は、ユダの民がアッシリアから負わされていたくびきを打ち砕き、縛られていた縄目から解放すると約束されたのです。15節には、「良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある」とありますが、イザヤやパウロのことばが重なります(イザ52:7、ロマ10:15)。神は罪のくびきと縄目に苦しむ人類をあわれみ、メシアによって私たちをそこから解放し、聖徒たちを、その救いの良い知らせを伝える者として用いてくださるのです。感謝をもって今日も主に遣わされていきたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 7章◇(12月18日)

「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。」…ミカ書7:8

1-6節には、人々の間に悪と不正がはびこっている様子が描かれています。神を畏れ、悪から遠ざかって正しく歩もうとする敬虔な者はおらず、役人たちは賄賂を民に強要し、有力者も自分の思い通りに事が運ぶように語って、事実をねじ曲げているのです。しかし神は、もちろんそれらのことを知っておられ、悪者をさばき、刑罰を与える日を、必ずもたらされるのです(4節)。そのような中にあってミカは、世の流れに逆らい、孤軍奮闘するかのように、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」と告白しています。彼は「私の神」と、偉大な神を個人的な近しい存在として呼んでいますが、それは彼が、その神との深い交わりの中にいつも自分を置いていたこを示唆しているのです。しかしそれは、ミカが他の人とは異なる、義なる者としての歩みを常にし、神に喜ばれ認められていたということではありません。彼は、「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ」とも告白しているのです(9節)。そのようにミカは、罪人としての自己認識を持ちつつなお、神の救いを待ち望んでいるのです。「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10、詩篇14:1-3)。それが聖書が伝える厳然たる事実です。しかし神は、愛とあわれみに満ちたお方であって、神にそむいた罪人に対する怒りを収められ、私たちを罪の奴隷から解放し、救い出してくださるのです(18節)。その主は光に満ちたお方であって、神を求める者たちを、闇と罪に満ちたところから、光といのちに満ちたご自身の臨在の中へと連れだしてくださるのです(9節)。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハ1:4)。光として来られたキリストを「私の救いの神」と呼び、自らの救いの完成を待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 6章◇(12月17日)

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」…ミカ書6:8

8節のみことばはミカ書の中で良く知られていますが、その前後の流れを踏まえて読むと、あらためて見えてくるものがあります。何が良いことなのか…主は何を求めておられるのか…。6-7節には、全焼のいけにえを主にささげるだけでなく、自らの罪のために子どもをささげることが言及されており、当時、イスラエルの民が、他国の異教的な教えに影響されていたことがわかります。そのような儀式的なことを、形式的ないけにえを、神は決して求めておられない…。そうではなくて、公義を行い、誠実を愛することが求められている…。10節以下には「升目不足の升、不正なはかり、欺きの重り石…」と、そのようなものを使って人々からだまし取る悪者について記されていますが、神を畏れ、悪から離れ、神の目に良いこと、神に喜ばれることを追い求める者こそ、神に喜ばれる者であり、祝福を受けることができるのです。しかし、そのような正しい生き方を、人間的な努力によって実行しようとしても、罪に汚れた人間は、そこにとどまり続けることができないのです。まず神の前にへりくだる…、すなわち、自らがいかに弱く、小さく、罪深い者であるかを素直に認める必要があるのです。そして、神とともに歩む…、インマヌエルなる主、私たちとともにいてくださる主を心の中にお迎えし、良き羊飼いである主の御声に聞き従って歩むことが求められるのです。悪者は、神を煙たい存在として遠ざけようとします。それはまるで、光を避けて植木鉢の下に固まっているダンゴムシのようです。しかし救い主は、この世の闇をご自身の光で照らし、私たちを永遠の御国へと導くために来られたのです。主とともに歩む…。神が求めているそのシンプルなあり方に、絶えず立ち続けたいと思います。

主に留まり続けることができますように。

◇聖書箇所: ミカ書 5章◇(12月16日)

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」…ミカ書5:2

主がベツレヘムの町に向かって語られた2節のことばは、ユダの国で最も(あまりにも:2017訳)小さいその町から、イスラエルを支配し治める者、すなわち王が出るという預言です。キリストが生まれたとき、東方の博士たちはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と人々に尋ねましたが(マタ2:2)、それは、王が生まれるのは王宮のあるエルサレムに違いないと、彼らが考えたからです。しかし実際にはそうではありませんでした。ミカを通して語られた預言のとおり、まことの王であるキリストは、ベツレヘムで生まれ、そのことは学者たちによってヘロデ王に伝えられたのです(マタ2:5-6)。エルサレムの王宮の中の寝台ではなく、小さな町の家畜小屋の飼葉桶こそ、貧しい者、虐げられた者、罪に縛られた者たちを解放する救い主にふさわしい誕生の場所であったのです。そのキリストは、ユダヤ総督ピラトから、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねられ、「そのとおりです」と答えましたが、あくまで地上的な王を求めた民衆はイエスを退け、十字架につけろとピラトに求めました(マタ27章)。しかしそれは、神のご計画の中にあったのです。ユダヤ人の王が全世界の王となり、ユダヤ人から始まった神の救いと祝福は、地の果てのすべての国民にまで及ぶようになり(4節)、キリストを退けたイスラエルの残りの民もまた、そこに加えられるようになるのです。それはまだ部分的にしか実現していません。現在も進行中です。そしてそれが完成するのは、終わりの日なのです。そのことをあらためて覚えつつ、主に選ばれ、神の民に加えられた者として、まだその救いと祝福にあずかっていない人々のために、とりなしていきたいと思います。

王の王なるキリストの御名があがめられますように。

◇聖書箇所: ミカ書 4章◇(12月14日)

「主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」…ミカ書4:3

4章から5章にかけては、メシアによって建てられる神の王国の祝福が語られています。それは、やがて来る終末において完成するものですが、同時に、メシアがイエスとなってこの地に来られ、その主の贖いのみわざによってもたらされた神の国において、すでに実現していることです。そしてそれは、そこに招き入れられる民が、今の時代にあっても受け取ることができる、霊的な祝福であるのです。「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し」と3節にありますが、そのような争いと戦いのない世界は、世界の人々にとって、単なる理想としかとらえられないに違いありません。実際、多く国々が軍隊を持ち、武器を装備し、それらの抑止効果により、微妙なバランスの上にある「平和」を享受しているのです。しかし、「平和の君」(イザヤ9:6)であるキリストは、自らが捕らえられるときに剣を抜いた弟子に対して、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言っていさめられたお方であり(マタ26:52)、武力による戦いを終わらせ、この世界に平和をもたらされるのです。そして、キリストがもたらされた神の国の民にとっては武器は不要であり、それは、地の実り、神の恵みを受け取るための道具に変わるのです。私たちが肉の感情に捕われるなら、「武器」を持つ、つまり、自分を守り、相手を攻撃する生き方から離れることはできません。しかし、平和の君なる主を心に迎えて、主の霊に支配されるなら、誰よりも神との、そして他者との間における争いがなくなり、和解がもたらされるのです。そのように、神の国の祝福にあずかり、平安のうちに歩む者でありたいと願います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 3章◇(12月13日)

「しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げる。」…ミカ書3:8(2017訳)

3章では、南ユダ国の指導者たちに対する神のさばきのメッセージが語られています。指導者とは、政治的な指導者である王などの権力者であり、また、霊的な指導者である預言者や先見者たちのことです。彼らは、本来、神のことばを聴き、それによって民を正しく指導し、導き、国に繁栄と安寧をもたらす責任を負っているにもかかわらず、むしろ自分たちが繁栄するために、立場の弱い民を食い物にしていたのです。「彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、『平和があるように』と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する」と書かれていますが(5節)、それは、食事を自分たちに提供する者に対しては、耳障りの良いことばを語るが、そうでない者に対しては、冷淡で敵対するような、えこひいきの態度を取るということです。預言者たちがいかに欲深く、自己中心的であるかを物語っています。そのようにして民を惑わし、神の御旨から外れた歩みをしている彼らは、闇に覆われてしまうのです(6節)。そのような中でミカが、「しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。」と語り、私は偽預言者と決して同じではないと、断固とした調子で主張していることに心が留まります。そしてそこに、主イエスが約束されたことばが重なります。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。主の証人となるということは、主のことばとみわざを、預言者として、確信と使命感をもって人々に語り告げることであり、そのために、主の霊に満たされ、力と勇気に満ち、恐れずに出て行く者とされることなのだ、ということを教えられます。私たちもそのような者とされ、主に用いられたいと心から願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 2章◇(12月12日)

「ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。」…ミカ書2:7

2章には、権力や財力を持った者たちの無法な振る舞いと、彼らに対して主が下されるわざわいが預言されています。神の民においては、土地は主の所有とされていました。ヨベルと呼ばれる50年目の年には、律法により、土地は元の所有者に戻されたのです。しかし、ミカの時代にはそのことが平気で無視され、富んだ者たちが強欲に駆られ、悪巧みを計り、人々から土地や家や財産を力ずくで取り上げ、獲得していたのです(1-2節)。そんな権力者たちに、主はわざわいを下されます。異邦人たちを彼らの土地に侵入させ、それを奪い取るように仕向けるのです。権力者たちは、神の律法を破り、悪事を行い、神に背いて裏切っていましたが、神のさばきとして用いられるその侵入者たちを「裏切る者」と呼び、自分たちが奪った土地を「私たちの畑」と言うほどに、彼らには罪の意識が完全に欠如していたのです(3-4節)。権力者たちは、預言者であるミカが語る、神のさばきの警告のことばにも、「たわごとを言うな」と反発し、まったく耳を貸しませんでした。主は、彼らのそのことばこそたわごとであり、そのようなことを言われて、見過ごしにすることはない、我慢しないと告げられたのです(7節)。たわごととは、ばかげたことばということです。神のことばをそのように侮って退ける者は、神ご自身をののしっているのであり、そのような者に対する神のさばきは、厳しいものとなるのです。しかし、主のことばは、主を畏れ、主に拠り頼む者にとっては有益なものであり、歩む道を照らす光となり、いのちをもたらすものとなるのです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハ6:63c)。主の前にへりくだり、たえず主の教え、主のみことばに聞き従う者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 1章◇(12月11日)

「このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう。わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう。」…ミカ書1:8

ミカは、1節にあるとおり、南ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世の時代における南ユダの預言者であり、北イスラエルの預言者ホセア、南ユダの預言者イザヤと同時代に生きた人物です。彼はペリシテとの国境に近い、ユダ南西部の町モレシェテ・ガテ(14節)の出身で、北イスラエルの首都サマリアおよび南ユダの首都エルサレムへの主のさばきと回復について、主から見せられた幻を語り、施政者や民に対して警告を与えているのです。まず、イスラエルへのさばきが語られています(5-7節)。またそれは、ユダへの警告ともなっています。サマリアは野原の廃墟となり、瓦礫の山となる(2017訳)のです。そしてそれは、「刻んだ像」とあるように、彼らの偶像礼拝の罪がもたらす、悲惨な結果なのです。天地万物を創造され、世界を統べ治めておられる主権者である神に背を向け、自らの手で刻んでこしらえた偶像を拝み、頼るという王や民のあり方は、神にとって霊的な意味での性的不品行であって、その「遊女の儲け」によって彼らが得た利益は、異邦人のものとなってしまうのです。8節以降にはユダへのさばきが語られています。10-16節は主のことばと考えられます。「侵略者」(15節)とは、アッシリアを指しています。アッシリア王セナケリブはのちにユダに侵入し、多くの町を攻略しましたが、その結果、ユダの若者たち、喜びとする子らは、捕囚として取り去られてしまうのです。イスラエルとユダのそのような取扱いを知ったミカが、「わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう」と語っていることに心が留まります。彼は、国の運命を自らのことのように深刻に受けとめ、民の痛みと悲しみを先取りし、なんとかそれを、ことばだけでなく、自らの姿で表そうとしているのです。そしてそれは、私たちも学ぶべき、「預言者」としての心、あり方なのです。主のことばを預かり、委ねられた者として、語り続けて行きたいと思います。

それぞれの働きが主に祝福され用いられますように。

◇聖書箇所: ピレモンへの手紙 17-25節◇(12月10日)

「もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。」…ピレモン18(新改訳2017)

オネシモがピレモンの家の奴隷であったときに、何を盗んだのかは明らかではありませんが、パウロは、オネシモが負っている負債を自分が肩代わりして支払うと、ピレモンに書いています(19節)。そのようにパウロは、ことばによるとりなしだけでなく、オネシモのための償いを、彼への愛を、具体的な行動として現わしたのです。そのパウロのあり方に、主イエスが話されたたとえの中の、良きサマリヤ人が重なります。彼は、強盗に襲われた人を介抱し、連れて行って宿屋の主人に託し、費用は私が払うと告げたのです。そして、その良きサマリヤ人とは、主イエス自身であり、瀕死の状態で倒れていた旅人とは、キリストによって贖われた私たちやパウロのことなのです。私たちはみな、神に対して、罪の負債を負っている者でした。多額の借金を抱えて、にっちもさっちも行かなくなっていたのです。しかしその負債を、キリストがご自身のいのちを代価として支払い、私たちの罪を償い、贖ってくださったのです。パウロは、「私は…返さなければならない負債を負っています」と言っていますが(ロマ1:14)、彼は、キリスト者を迫害していた自らの罪を赦され、キリストの使徒とされたことに対して、負い目とともに、筆舌に尽くしがたい感謝の思いを、絶えず心に抱いていたのです。そしてそれが彼の、情熱に満ちた宣教の原点であり、原動力であったのです。「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」(使徒20:35)。主イエスの、そしてパウロの、そのスピリットを私たちも与えられ、置かれているところで隣人を愛し、具体的に行動する者でありたいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ピレモンへの手紙 1-16節◇(12月9日)

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」…ピレモン11

この手紙は、ローマの獄中にいたパウロが、同労者ピレモンにあてて書いたものです。当時は奴隷制度が社会的に認められており、裕福であったピレモンも奴隷を持っていましたが、その中にオネシモという人物がいました。彼は、こともあろうに、ピレモンの家から物を盗み、ローマに逃亡しましたが、そこでパウロと出会って導かれ、キリストを信じて救われ、パウロに仕えるようになったのです。パウロは彼を深く愛して、「獄中で生んだわが子オネシモ」と呼び、また「彼は私の心そのものです」とさえ言っています。しかしパウロは、このオネシモを、所有者であるピレモンのもとへ送り返すべきだと考えました。それが正しいあり方だったからです。しかし罪を犯したオネシモがピレモンから罰せられないように、愛とあわれみによって赦しを受けることができるようにと、とりなしの意図をもって、パウロはこの手紙を書き送っているのです。オネシモという名前は、「有益な者」という意味です。その名前は、もし彼がキリストに出会わず、救いにあずからなかったら、まったくふさわしくないものでした。しかし、その彼はキリストにあって、有益な者、役に立つ者と変えられたのです。そしてそのようなオネシモを主にあって受け入れてほしい、赦してほしいと、パウロはピレモンに対して懇願しているのです。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:12)。私たちもまた、罪を犯した者であり、神の前に無益な者でした。しかし、キリストが神と人との間に立ってとりなし、和解のつとめをなしてくださったので、私たちは、神に罪赦され、受け入れられ、キリストにあって有益な者とされたのです。義なる者、神の子どもとされたのです。そのことを覚え、感謝を主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 66章◇(12月7日)

「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、-主の御告げ-あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」…イザヤ66:22

「エルサレムとともに喜べ。…これとともに楽しめ…喜び喜べ」とイザヤは、自分勝手な道を選ばず、主のことばにおののき、それに聞き従う者たちに対して告げています(10節)。それは、主の愛する聖なる都エルサレムが他国により蹂躙され、廃墟とされても、主ご自身がその都の繁栄を回復させ、やがて終わりの日に、新しいエルサレムとして建てられるときが来るからです。12節以降はそれについての主のことばで、その時のさばきが、イザヤの描写として15-16節に挿入されています。その主の御旨は、エルサレムが回復されるだけではなく、罪に汚れた世界全体が救われることです。すべての国民が贖われることです。主はそのためにメシアを遣わし、彼を信じて贖われた者は、確かに主の栄光を見るのです。またその者たちを通して主は、偉大なご自身のみわざ、しるしと不思議を現わされるのです。さらにその者たちを、祭司、すなわち神と人との間に立ち、祈りをもってとりなす者として、用いられるのです(18-21節)。「わたしの造る新しい天と新しい地」…。65章17節にも同様の主のことばがありますが、この書の最後において、旧約の預言者イザヤはすでに、主イエスの弟子ヨハネと同じように、終末のことについて語っているのです。そしてそれは、アダムが罪を犯したことを主が悲しまれ、この世界、全人類に対して救いを計画し、やがてこの天地を新しく再創造されるということであり、その前に、ご自身の民をすべての国民の中から起こすために、神は、御子を遣わし、十字架につけ、死からよみがえらせて、罪人である私たちの贖いを成し遂げてくださったのです。そのキリストは、王の王として世界を統べ治めておられ、新天新地をもたらすために、再びこの地に来られます。「マラナタ」、主よ来てください…。主の約束のことばをしっかり心に留め、忍耐と希望を持ち、心から主を待ち望みつつ、歩み続けて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 65章◇(12月6日)

「見よ、わたしのしもべたちは心の底から喜び歌う。しかし、おまえたちは心の痛みによって叫び、霊に傷を受けて泣き叫ぶ。」…イザヤ65:14(新改訳2017)

13-14節には、神のことばとして、「わたしのしもべたち」と「おまえたち」の対比が描かれています。主のしもべたち、すなわち主のことばに従順に聞き従う者たちは、主が養ってくださるので、十分に食べて飲むことができるのです。しかし、おまえたちと呼ばれる、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちは(2節)、自らが得たものを飲み食いしたとしても、その飢えと渇きは、決して満たされることがないのです。その両者の違いは内面にまで及びます。主のしもべたちは、心の底から喜び歌うことができるのに、そうでない者たちは、その心の痛みとたましいの傷のために、耐えきれず、助けを求めて泣き叫ぶこととなるのです。「わたしのしもべたち」…。民ではなく、者たちでもなく、しもべたちと言われていることに心が留まります。しもべとは王に仕える者であって、王の命令に従順に従い、自分の使命を忠実に果たすことが求められているのです。しかしそのしもべは、かつてエジプトにおいて、パロ王のもとで強制労働させられた奴隷とは異なり、神である王によって愛され、守られ、養われ、主のことばとしてイザヤが告げているように、心の底から(心の楽しみによって:新改訳3版)喜び歌う者とされるのです。「おまえたち」…。それは、王を王としていない者、神を第一としていない者、神以外のものに拠り頼んでいる者…そのようなすべての人々を意味しています。そして、人々が抱えるさまざまな問題は、そのたましいが救われ、心の痛みと霊の傷がいやされ回復していくならば、主によって取り扱われ、除かれるようになるのです。その救いと解放といやしは、イスラエルだけでなく、異邦人にも及ぶものであって、主は今も、すべての国民に向かって、「わたしはここだ」と呼び掛けておられるのです。先に救われた者として、キリストのしもべとして、そのことを人々に伝えていきたいと思います。

主にある楽しみと喜びが与えられますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 64章◇(12月5日)

「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。…」…イザヤ64:5a

「山々は御前で揺れ動くでしょう」、「国々は御前で震えるでしょう」とイザヤは繰り返し、主がご自身の義をもって諸国の民をさばかれるときに、人々は震えおののき、揺れ動かされると告げています。そのさばきとは、人々が正義を行なう者であるか、すなわち、主が示す道を歩んでいるか、主のみこころにかなう者であるかの審判です。そして、それにパスする者は神の御前に迎え入れられるのであって、何も恐れることはないのです。しかし、自分たちが罪を犯し続けており、人々の義が不潔な衣のようだと自覚しているイザヤは、神の怒りは免れないと感じ、「それでも私たちは救われるでしょうか」と、神のあわれみにすがる思いで尋ねています(5-6節)。揺れ動くイザヤの心が伝わってきます。そして彼は、「しかし、主よ」と、創造主である主を見上げ、こう告白したのです。「今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」(8節)。預言者エレミヤは、主から促されて陶器師の仕事を見、こう記しました。「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」(エレ18:4)。陶器師である主は、罪深い私たちをも造り変えることができるのです。それは人の努力を越えた、創造主なる神ご自身のみわざなのです。私たちにとって大切なことは、がんばって正義を行い続けることではなく、日々、主の前に静まり、自らを吟味し、主の道からはずれていることを知り、陶器師である主の元に立ち返って、主のみこころにかなう者へと造り変えていただくことなのです。そして、キリストに贖われた私たちは、御霊なる主の働きによって、栄光から栄光へと、主の似姿へと変えられていくのです。それが、私たちの救いの完成へとつながる道なのです。主が備えられた道を、希望をもって歩み続けて行きたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 63章◇(12月4日)

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」…イザヤ63:9

7-9節においてイザヤは、神の豊かな愛と恵み、深いいつくしみとあわれみを覚え、また神がなされた奇しいみわざを振り返って、神への賛美をささげています。神は、ご自身の民が苦しむときにはともに苦しまれ、疲れ果てて歩けないときには背負ってくださり、傷ついた者をふところに抱き、慰めてくださるお方です。神は決して超然とした存在ではなく、ちっぽけな私たち一人ひとりに真実に関わってくださり、日常の些細な事柄の中にも確かに介入して、導いてくださるお方なのです。その神にイスラエルの民はしばしば逆らい、身勝手な歩みをし、自分たちの手で作った偶像を慕い求めて、神を悲しませました。神は人をご自身に似せて造られたお方であって、豊かな感情を持っておられ、私たちがみこころに従って歩むとき喜ばれ、そうでないなら悲しまれるのです。「彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた(悲しませた:2017訳)…」とあるとおりです。そして神は、民をその過ちから立ち返らせるため、自ら敵となって、戦いを挑むことさえされるお方なのです(10節)。15節以降はイザヤの祈りのことばです。罪と咎に満ちた民を神があわれみ、贖ってくださることを彼は確信し、こう告白しています。「まことに、あなたは私たちの父です。…主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です」(16節)。また主ご自身も、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と言ってくださっていたのです(8節)。そのように、父である神が私たちを贖うと約束され、御子である神がその贖いを成し遂げ、インマヌエルなる主として私たちとともにおられ(7:14)、聖霊なる神が私たちを慰め、平安をもたらしてくださるのです(14節)。その神に聞き従う者、神を喜ばせる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 62章◇(12月3日)

「彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」…イザヤ62:12

聖なる神の都エルサレム、シオンの町に向かってイザヤは、「あなた…」と繰り返し呼び掛け、語っています。それを擬人法による表現と理解することもできますが、イザヤは単なる「入れ物」としての町だけではなく、そこに住む人々の姿を見ていたに違いありません。だからこそ彼は、「あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる」と、エルサレムに告げたのです。「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」(5節)。神はエルサレムの町を喜ばれ、その住民たちを喜ばれるのです。エルサレムは、バビロンやローマの手によって滅ぼされ、その住民は捕らえ移され、離散しましたが、神はそのシオンの娘を見捨てることなく救い出し、彼らは聖なる民、主に贖われた者と呼ばれるのです。それは、すでに起こったこと、今も起こっていること、やがて完全になされることなのです。そしてそれは、メシアの贖いのみわざにほかならないのです(11-12節)。そのメシアはイエス・キリストとして2千年前に来られました。、私たちはその主によって救われ、キリストのからだなる教会に加えられました。教会というギリシャ語はまさに「召し集められた者」という意味の「エクレシア」であり、教会もまた、単なる入れ物、建物ではなく、キリストに贖われ、召し集められた人々を指しているのです。また教会は、キリストの花嫁とされているのです(エペ5:25-32)。エルサレムの救いと回復を見ていたイザヤは、麗しい花嫁の姿である教会をも見ていたに違いありません。「あなたの神はあなたを喜ぶ」…。「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と、神が御子に告げたことばが思い起こされます(マタ3:17)。そしてそれは、キリストに贖われ、神の子とされ、キリストのからだなる教会に加えらている私たちへのことばでもあるのです。神に喜ばれる者とされていることを喜びとして歩みたいと思います。

主にある喜びを人々と分かち合えますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 61章◇(12月2日)

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。…」…イザヤ61:1

「神である主の霊が、わたしの上にある」…。イザヤはそう語りました。それは貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすためであり、さらに彼は、捕らわれ人に解放を告げ、神の復讐の日を告げ、悲しみ、嘆き、憂いの代わりに、喜び、輝き、賛美をもたらすために、主から油を注がれて民のもとに遣わされたのだと、自分が神から受けた召しを告白したのです(1-3節)。イザヤのそのことばは、後の世代にも語り継がれ、ユダの民がバビロンから帰還し、廃墟となった町々を建て直すときに、現実のものとなりました。さらにそのことばは、神が、罪の奴隷となっているすべての民を解放するため、この世に御子をメシアとして遣わされたときに、その通りになったのです。主イエスがヨハネから洗礼を受けられ、水から上がられたとき、天が開けて、神の御霊が鳩のように下られたのをご覧になったと、マタイは福音書に記しています(マタ3:16)。その主イエスは、十字架と復活による贖いを成し遂げ、天に昇って行かれましたが、主は、ご自分の弟子たちを地の果てにまで遣わし、ご自身がもたらされた救いを、良い知らせとして人々に宣べ伝えるために、五旬節の日に、聖霊を彼らの上に注がれたのです(使徒2章)。イザヤのことばは、そのようにして、キリストに贖われた聖徒たちを通しても、実際のこととされていったのです。その聖徒たちの中に、私たちも加えられています。良い知らせを伝える働きは、決して重荷とはなりません。なぜなら、私たちのうちには、神に愛され、罪赦され、主がともにいてくださることへの感謝と喜びがあるからです。おりにかなう助けと力を御霊がくださるからです。そして、主ご自身が私たちを遣わし、すべての国の前に義と賛美を芽生えさせてくださるからなのです(11節)。そのように主に用いられる光栄を覚えたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。