◇聖書箇所: マタイの福音書 17章1-13節◇(6月29日)

「…そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい』という声がした。」…マタイ17:5

主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちだけを連れて、高い山に登られました。すると、彼らの目の前で主イエスの御姿が突然変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。さらにそこに、なんとモーセとエリヤが現われて、主イエスと3人で何かについて語り合っていたのです。その光景を見たペテロは興奮して主に言いました。私たちがここにいることはすばらしいことです…私が3人のためにそれぞれの幕屋を造ります…。しかし彼がまだそのことを話し終わらないうちに、余計なお世話だとその提案を退けるかのように、光り輝く雲が彼らを包み、「これは、わたしの愛する子、…彼の言うことを聞きなさい』という神の声がしたのです。この出来事にはどういう意味があったのでしょうか…。モーセは神から授かった律法を民に伝えた人物です。エリヤは多くの預言者の中でも代表的な預言者です。ユダヤ人にとって「律法と預言者」という表現は旧約聖書全体を意味しますが、律法と預言者を象徴する二人と主イエスが語り合っていたことは、旧約、つまり古い契約が、主イエスがもたらされた新しい契約、すなわち神の国の福音へと統合される、モーセとエリヤの役割が主イエスに引き継がれることを示すものであったのです。しかし、ペテロに代表される弟子たちは、まだ霊の目が開かれていなかったため、その霊的な意義を悟ることができなかったのです。「彼の言うことを聞きなさい」。主は、律法や預言者の廃棄ではなく成就のために来られたと言われ(マタ5:17)、心と思いと知性を尽くして主を愛せよという戒めと、自分自身のように隣人を愛せよという2つの戒めに、律法と預言者の全体がかかっていると言われました(マタ22:40)。キリストのことばは神の御旨の完全な表われなのです。絶えずそのことばに聞き従う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 16章13-28節◇(6月28日)

「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」…マタイ16:19(新改訳2017)

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という、弟子たちに対する主イエスの問いに対して、ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。ユダヤ人であったペテロはヘブル(アラム)語で、「メシア(=油注がれた救い主)です」と答えたことでしょう。それを聞かれた主イエスはペテロに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われ、さらに、あなたに天の御国の鍵を与える、と伝えられたのです。新改訳2版、3版では、御国の鍵を「上げます」、また、「つながれており」、「解かれています」と訳されていますが、原文では「与える」「授ける」という意味のことばが使われ、「つながれる」、「解かれる」と未来形になっています。主は明らかに、その御国の鍵を実際に用いていくようにと、ペテロや弟子たちに求めておられるのです。その鍵は、もらったまま引き出しにしまい込むものではないのです。ではその御国の鍵とは何でしょうか…。主は弟子たちに、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るように教えられました(マタ6:10)。天と地が連動し、神の御旨が地上でも実現する…それを可能とするのは祈りです。そして、ペテロが告白したメシアが持つ主権、すなわち、イエス・キリストの御名の権威であるのです。私たちが主イエスの御名の権威によって、祈り求めるとき、みことばを告白して宣言するとき、その御国の鍵によって、地上で縛られているすべてのものを解くことができるのです。また、のさばっている悪の勢力を封じ込められるのです。それは、どんな人にも事柄にも適用可能な万能キーであり、そのような天の御国の鍵が私たちに与えられているのです。すぐには開かないさび付いたような門扉もあるかもしれません。しかし1回試してだめでも、あきらめずに鍵を回し続けるなら、祈り続けるなら、その門扉は必ず開かれ、鎖は解けるのです。その御国の鍵をもっと積極的に使う者でありたいと願います。

祈りは必ず聞かれます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 16章1-12節◇(6月27日)

「イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」…マタイ16:6

サドカイ人たちがここに初めて登場します。彼らは、奇蹟を認めず、常に人間の理性に基づいて考える者たちであり、死からの復活も信じませんでした。一方、パリサイ人たちは復活の希望を持っており、この2つのグループはしばしば対立していました。しかしこのときはどちらも主イエスを陥れようと願い、共同戦線を張っていっしょに行動していたのです。彼らは、天からのしるしを見せてくれと主に求めました。しかし主はそれを拒み、あなたがたは夕焼けのような目に見える事象で空模様を見分けることができるのに、なぜ時のしるしは見分けられないのか、しるしは、ヨナのしるししか与えられないと言われたのです。「時のしるし」とは神の国の霊的なしるしを、また、「ヨナのしるし」とは主イエスの復活を指しています。その後、主は弟子たちに、彼らのパン種には注意せよと言われましたが、パンを持ってくるのを忘れた弟子たちは、そのことばを、パリサイ人たちからパンをもらったり買ったりするなという意味に理解しました。しかし主イエスは、彼らの誤った考え方は全体に悪影響を与えるものであり、その教え(=パン種)に注意せよと言われたのです。パリサイ人たちの誤った教え、それは律法主義であり、形や儀式にこだわり、それを守ることで満足するものです。サドカイ人たちの誤った教え、それは理性主義であり、知性が納得しないことは受け容れようとしないものです。そして結局のところ、どちらも人間が中心の考えであって、その中心に神は不在なのです。的外れなあり方なのです。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」。その主イエスのことばは今もそのまま、私たち一人ひとりや教会に対して向けられています。律法の束縛から解放する御国の福音の恵みにあずかり、今も聖霊さまの働きによりなされるしるしと不思議を認め、その神の国の到来を告げ知らせていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 15章29-39節◇(6月26日)

「かわいそうに、この群衆はもう3日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」…マタイ15:32

32節以降の記事は、14章15-21節に書かれている、5千人の給食と呼ばれる出来事によく似ています。養われた人々の人数、パンの数、パンの余りでいっぱいになったかごの数は異なっているものの、これは実は同一のことなのだとする学者もいます。しかし16章9-10節の主イエスのことばによれば、それは同じではなく、別に起こった出来事なのです。ではなぜ、主は弟子たちに、この前の給食のことを忘れたのか…と言われなかったのでしょうか。また、弟子たちもそのことを思い出さなかったのでしょうか。それは弟子たちが、メシアがともにおられるというのに、必要を自分たちの知恵やがんばりで満たそうとする、そのような人間的な考えがすっかり染みついていて、そこからなかなか抜け出せなかったということであり、何より、メシアに対する信仰が薄かったからなのです。「彼らを空腹のままで帰らせたくありません」という主のことばが心に留まります。主は人々の病をいやし、それで満足されたのではなく、一人ひとりが家に戻る際、途中で空腹で動けなくなることがないようにと心配され、食べる物を与えて、飢えを満たそうとされたのです。主は全き恵みをもって私たちの必要を満たされるのです。また、主は群衆を見て「かわいそうに」と言われました。それは、病を主にいやしていただこうと、3日間も忍耐して待ち続けた人々を、心からおもんぱかってのことばです。パンや魚のような物質的な意味のみならず、私たちの心とたましいを満たすという霊的な意味においても、主イエスは、私たちのすべての必要を知って満たされるお方なのです。「わたしはいのちのパンです」と言われる(ヨハ6:48)主の、豊かな恵み、深いあわれみを絶えず覚えたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 15章21-28節◇(6月25日)

「しかし、女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』」…マタイ15:27

主イエスと弟子たちは、ツロとシドンの地方を訪れました。そこはイスラエルに属さない、異邦人が住む地域です。すると、一行の前に、ある一人の女性が進み出て、娘が悪霊につかれてひどく苦しんでいるので、どうか助けてほしい、あわれんでほしいと願いました。しかし主イエスは、彼女を冷たく突き放すようにして、わたしはイスラエルの家の羊以外には遣わされていない、子どもたちへのパンを取り上げて小犬にやるのはよくないと言われ、彼女の訴えを拒んで立ち去ろうとしたのです。しかし彼女はそれでも引き下がりませんでした。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言い、「おこぼれ」にあずかることを願ったのです。それでも十分だとしたのです。すると主イエスは、その信仰を見て、あなたの願うとおりになるようにと言われ、彼女の娘はただちにいやされたのです。「しかし」と、23~27節のすべての節に書かれています(原語では26節の「すると」も他の節の「しかし」と同じことば)。まるでオセロの盤の白と黒が一回毎にひっくり変えるようです。彼女は決してあきらめなかったのです。異邦人という自らの立場をわきまえつつも、主イエスのうわさを聞き、「主よ、ダビデの子よ」とイエスをメシアと認め、主に期待し、イスラエルの子らに与えられるパンの祝福の大きさを覚え、たとえそのおこぼれであっても、それがどれほど豊かなものかということを彼女は示され、「パンくず」を主に求めたのです。そしてそのような、彼女の決してあきらめない信仰、また、パンくずであってもという謙遜な信仰を、主は喜ばれたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか。ともすれば、主に願い求めても状況が変わらないとすぐあきらめてしまったり、自分が願っていた結果と違うと、パンくずなんかいらない…と、あくまでもパンをもらおうと自らの思いに固執してしまったり、日々の小さな恵みを感謝しないような者になってしまうのです。しかし、主イエスに心から拠り頼み、祈り求め続けるなら、私たちは確かに、主の豊かな祝福にあずかる者とされるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 15章1-20節◇(6月24日)

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。』」…マタイ15:3

パリサイ人たちは、律法を破らないようにするため、律法の周りに垣根を巡らすようにして、自分たちで考え出した戒めを守ることを最優先させていました。その彼らは、手を洗わずにパンを食べていた主イエスの弟子たちを目撃して、けしからん、戒めを破っていると憤り、主イエスを非難したのです。それに対して主は、自分たちの言い伝えのために、なぜ神の戒めを破ることをするのかと反論されました。当時、親にお金を渡すなどの扶養の義務がある者が、「渡すはずのものは神へのささげものとなる」と言うなら、その義務が免除されると彼らは教えていましたが、そんな詭弁を弄するようなしているあなたがたがは、父母を敬えという肝心な律法を破っているではないか、それは本末転倒なのだ、と主は指摘されたのです。そもそも、何が人を汚すのか…口に入るものではなく、人の口から出るものではないか…と主は群衆に言われ、さらに弟子たちに向かって、口に入るものは腹に入り、排泄されて外に出る…だから洗わない手で食べても人を汚すことはないし、それは律法を破ることにならない。何よりも人の口から出る悪いことばが人を汚すのだ、そしてそれは悪い心から出てくるのだと言われたのです。自分たちの考えや価値観をしっかりと持つことは大切です。そしてそれは固有の言い伝えや伝統として受け継がれます。しかしそれを守り通すこと自体が目的となってしまうとき、その本来の意義を失い、従わない者への裁きを生むのです。それはまさにパリサイ人たちの姿です。そしてそれは、個人の信仰生活においても、教会という共同体においても起こり得る過ちなのです。律法主義的になることなく、律法の本当の意義、主の教えを正しく悟る者となるべく、聖霊さまから与えられる啓示を求めていきたいと思います。

真理のうちを歩む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 14章13-21節◇(6月22日)

「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」…マタイ14:19

5千人の給食と呼ばれる有名な出来事、奇蹟です。そのとき、男性だけで約5千人、女性や子どもを入れた全体では1万人以上の人々が食物を必要としていました。あの人たちに何か食べる物を上げなさい、と主から命じられた弟子たちは困惑し、ここには5つのパンと2匹の魚しかない、と途方に暮れて答えましたが、主はそれらを祝福し、弟子たちに与えて分配させ、すべての人々がパンと魚を食することができたのです。主イエスにとって、違う方法で群衆の空腹を満たすこともできたはずです。旧約時代、荒野の民になされたように、天からマナを降らせ、それぞれが集めてそれを食べる…。しかしそのとき、主はそのようにはされなかったのです。5つのパンと2匹の魚というわずかなもの、しかもヨハネによれば、少年が差し出した大麦のパンと小魚を主は祝福し、それが弟子たちの手から人々に渡るようにされたのです。そしてそれは、とりあえず空腹を満たすというものではなく、人々が満腹し、なお余りが12かごいっぱいになったのです。そのように主は、私たちのさまざまな必要を満たすために、私たちが持てるわずかなものを用いて、豊かに、あり余るほどに祝福してくださるお方なのです。弟子たちは「これしかない」と否定的に考えましたが、「こんなにある」と感謝し、さらに主に期待すべきなのです。弟子たちによって食物が分配されたことに心が留まります。彼らは子どもたちが大喜びする様子を見たことでしょう。大人たちからも感謝のことばを掛けられたことでしょう。彼らにとってそれは一生忘れない出来事となったのです。そしてそれは、みことばという霊の糧を人々に伝えるための、よき訓練となったに違いないのです。主は私たちをも、その働きに召してくださっています。その一人ひとりは、決して小さな存在ではないことを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 14章1-12節◇(6月21日)

「王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。」…マタイ14:9

おぞましい出来事が淡々と描写されています。バプテスマのヨハネは、兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分のものにするヘロデに対し、それは律法にかなっていない、不法だと、その行為を公然と非難しました。するとヘロデは、そのヨハネを捕らえて牢獄に入れ、自身の誕生日の宴席で踊ったヘロデヤの娘への褒美として、彼女の願いを聞き入れ、ヨハネの首をはねさせ、血が滴るその頭部を盆に載せて運んで来させたのです。ヘロデはヨハネに殺意を抱いていましたが、一方で彼は、ヨハネを正しい聖なる人と認め、保護を加え、その教えに当惑しながらも、喜んで耳を傾けていました(マル6:20)。ヨハネの首を…と娘から要求されたとき、彼は心を痛めたと、マタイは記しています。彼には良心があったのです。ヨハネを殺すことへのためらいがあったのです。しかし、願う物は何でもやると娘に言った自分のその誓いに縛られ、人々の目を気にし、王としての立場が危うくなるのを恐れ、結局は、娘やヘロデヤの言いなりになってしまったのです。いったい誰に従うのか、誰を喜ばせようとするのか…。そのことが現代に生きる私たちにも問われています。ヘロデのように人の目や評判を気にし、自分の立場を守ることを考えるなら、私たちの歩みはズレてしまうのです。主のみこころから離れ、この世の君である悪魔によって、地の塩、世の光としての働きを奪われてしまうのです。また、ヨハネのように、不法だ…それは神のみこころにかなったことではない…と、恐れずに声を上げることを、主は今、ご自身の聖徒たちに求めておられます。長い物には巻かれろ、多勢に無勢、どうせ言っても…ではなく、何が正しくて善いことなのか…聖書が語っている真理を人々に伝えることもまた、御国を拡げる宣教の働きなのです。それは必ずしもデモのような政治的活動を意味しません。まず主に向かって声を上げ、祈り求めることができるからです。そして御霊と助けと導きのうちに伝えることができるからです。人ではなく、主に従い、主を喜ばせる者でありたいと願います。

置かれているところで主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章47-58節◇(6月20日)

「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。」…マタイ13:55

天の御国の一連のたとえを話し終えられた主イエスは、郷里、つまり、ガリラヤ地方のナザレの村に行き、そこにある会堂において人々を教え始められました。そこでも、これまで他のところで行なってきたような、病のいやしなどの奇蹟が起こったに違いありません。しかし人々は、その教えと奇蹟に率直に驚きつつも、「こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう」、「この人は大工の息子ではありませんか」と言って、イエスのことをメシアだとは認めなかったのです。人々はイエスの家族のことを良く知っていました。またイエス本人とも幼い頃から関わりがありました。しかしそれが、イエスをメシアと信じることの邪魔になり、あの大工の息子がメシアであるはずがない…と、先入観、偏見を与えることとなってしまったのです。主は人々の不信仰を嘆かれ、預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけだと言われました。家族の中にさえ、イエスをそのような目で見ていた者がいたということが、ここに示唆されています。私たちも、近しい間柄のゆえに、その人々に対して人間的な見方をし、先入観、偏見をつい抱いてしまう、ということがあります。この友人は無神論者だから、救われるのは難しい…。自分の教会の牧師に祈ってもらっても、この病気がいやされることはない…と。また、家族に証しをし、福音を語ることに対して、つい二の足を踏んでしまうこともしばしばあります。しかしそれは、その人々を自分で判断しているのです。神にとって不可能なことは何一つないのであって、私たちはその神ご自身の働きを待ち望みつつ、ますます熱心に主に祈り求めて行くべきなのです。そのようなまっすぐな信仰にしっかりと立たなければ、弱い私たちもまた容易につまずいてしまうのです。人ではなく神に目を留める者でありたいと思います。

信仰をもって進むことができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章36-46節◇(6月19日)

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」…マタイ13:44

主イエスは弟子たちだけに「毒麦のたとえ」の意味を説明されました。41節には、この世の終わりにおいて、「つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて…」とあります。昨日も見たように、それまでは良い麦と毒麦がいっしょに生えているのです。そのことを知らされると私たちは、短絡的に、毒麦を今すぐにでもきれいさっぱり引き抜いて欲しい…なぜ終わりの日まで猶予するのか…と考えます。しかしそれは毒麦、すなわち悪い者の子らに対する主のあわれみのゆえなのです。主はその者たちを愛し、悪魔に捕らえられている彼らを奪い返すべく、良い麦、御国の子らを通し、忍耐をもって働きかけているのです。神の御旨はすべての人が救われることです(1テモ2:4)。「…火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます(42-43節)。主の愛と忍耐にもかかわらず最後まで心が頑なな毒麦と、神に喜ばれる良い麦の結末の明暗が語られています。火の燃える炉とはゲヘナと呼ばれる永遠に苦しむ所です。しかし御国の子らは新天新地と呼ばれる所に迎え入れられ、栄光の主に照らされて輝くのです(ダニ12:3、黙示22:5)。44-46節には、天の御国の別の本質が記されています。その御国は、隠された宝、高価な真珠のようなものであり、見つけた者は持ち物をすべて売り払ってさえ買おうとする、それほどまでに価値のあるもの、所有すべきもの、その豊かな祝福を受けるべきものだと主は言われたのです。その宝は傷がついたり盗まれたりすることはありません。そして、今、この地上で所有することのできるものなのです。地上の宝ではなく神の国を追い求めて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章24-35節◇(6月18日)

「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、3サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」…マタイ13:33

今日の箇所には、天の御国がどのようなものかを示すべく、主イエスがさらに語られた別の3つのたとえが書かれています。共通する一つのことばは、最初のたとえにも出て来た「種」です。最初のたとえは、良い麦の種が蒔かれた畑に、畑の主人の敵が毒麦の種を蒔いて行ったために、良い麦と悪い麦とが混ざったまま育ってしまい、毒麦だけを抜き集めることを主人のしもべたちが提案しても、主人は収穫までそのままにするよう命じたという内容です。その解説は36節以降にありますが、収穫とは終わりの日を意味しています。神は悪(=毒麦)の存在を放置しているのではなく、今はあえて許容しておられ、後にさばかれるのです。あとの2つのたとえは、種がたとえ小さいとしても、それはどんどん成長して大きなものになること、また、全体に影響を与えていくことを教えています。主イエスは、天の御国はからし種やパン種のようだ、と言われました。それらは吹けば飛んでしまうようなとても小さな種ですが、種の大きいか小さいかは問題ではないのです。なぜならその種の中には豊かないのちがあり、強い生命力が宿っており、周りに及ぼすその影響力は絶大であるからです。その(良い)種とは御国の福音、キリストのことばです。またそれを信じて御国のこどもとされた聖徒たちです。日本のキリスト者は全体の1%だとよく言われますが、それを嘆く必要などないのです。なぜなら、そんな、からし種、パン種のような小さな種であっても、鳥が巣を作るほどの大木になる、40リットルものパン粉全体をふくらませるようになると主が言われたとおり、それが神の国の本質であるからです。それぞれが託されている種蒔きの働きを忠実に行いたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章10-23節◇(6月17日)

「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結びます。」…マタイ13:23

昨日の箇所、13章1-9節に書かれていたのは、主イエスが群衆に話された「種蒔きのたとえ」です。蒔かれた種のうち、道端に落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、茨の間に落ちた種は、いずれも実を結ぶまでには至りませんでしたが、良い地に落ちた種だけが豊かな実を結んだのです。それを聞いた主の弟子たちが、なぜたとえで話すのかとイエスに尋ねると、主は次のように答えられました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」(11節)。「許す」と訳されている語の元々の意味は「与える」です。御国の奥義を悟るために必要なのは人の知恵でなく、神がくださる御霊の啓示であることが示唆されています。主イエスは弟子たちに、たとえを解説されました(19-23節)。道端に蒔かれた種とは、御国のことばを悟らず、悪い者に心に蒔かれたものを奪われる人を表している…良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて悟る人を表す…。ここで主イエスが弟子たちに強調されているのは、豊かな実を結ぶという「結果」ではなく、むしろ、そのために必要な、みことばを悟るという「プロセス」なのです。御国の奥義を悟る者には、実が自然に結ばれるのです。なぜそのとき群衆には御国の奥義が知らされなかったのか…。そこにパリサイ人たちが含まれていたからかもしれません。彼らは御霊の働きを否定し冒瀆するような者でした(12:31)。人々は彼らの形式的な律法主義の教えに惑わされていました。そのような者たちはまさに道端に落ちた種のようであって、御霊に誤りを指摘されても、真実な悔い改めをしないのです。私たちには実を結ぶことが期待されています(ヨハ15:16)。しかしみことばを悟らなければそれは起こり得ないのです。そしてそのために御霊による啓示が与えられているのです。御霊が語られることをしっかりと受け止めたいと思います。

主の促しに従順に従うことができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章38-50節◇(6月15日)

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」…マタイ12:39

律法学者、パリサイ人の何人かが主イエスに、あなたからしるしを見せてもらいたいと言いました。しかし主は、そのようにしるしを求めるのは、今が、悪に満ちている姦淫の時代だからだ…。預言者ヨナのしるしが与えられているではないか、それで十分なのだと彼らに答えられたのです。神とイスラエルの関係は、夫と妻の愛の関係です。イスラエルの民が、自らの神を真実に求めることをせず、律法学者のような宗教指導者の誤った指導のもと、形式・儀式主義に陥り、それで満足していたこと…。さらにはさまざまな外国の支配下に置かれる中で、異教の神々を受け入れ、偶像に心寄せていること…。主が指摘した姦淫とは、そのような霊的な意味なのです。律法学者たちは、どんなしるしを主に期待したのでしょうか。イエスが悪霊を追い出しても、それは悪霊のかしらであるベルゼブルの力によるものだと言い張る彼らは、どんなしるしも屁理屈をつけて片付けるに違いありません。頑なな心を持つ彼らは、どんな劇的なしるしを見せられても、イエスをメシアと信じるつもりは最初からなかったのです。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(40節)。主のそのことばは明らかに自らの「復活」を示唆しています。それが、ご自分がメシアであることを示すしるしとなる…ヨナの説教によりニネベの人々が悔い改めたように、ヨナにまさる私の教えに心を留めよと主は言われたのです。イエス・キリストの十字架と復活によりなされた人類の贖い…そのことを信じる者にあたえられる救いと永遠のいのち…その聖徒たちが主の栄光を現わす者と変えられること…。それこそが主が私たちに現わしてくださる最大のしるしです。今も生きておられるキリストを証しする者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章22-37節◇(6月14日)

「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」…マタイ12:31

「御霊に逆らう冒涜は赦されません」…。32節にも、「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、…赦されません」とあります。厳しい主イエスのことばにハッとさせられると同時に、聖霊への冒瀆はなぜ特別?との疑問が湧きます。読んでいてあらためて気づかされること…それは、「逆らった」と過去形では書かれていないことです。つまり、主は、一度でも聖霊に逆らうことを口にし、御霊を冒瀆した者は赦されないと言われたのでなく、聖霊の働きを見聞きしていながら、知っていながら、意図的に、また継続的にそれを否定するならば、そのような者の罪は赦されないと言われたのです。そもそもその発言は、主イエスが神の御霊によって悪霊につかれた人から悪霊を追い出されたのに、悪霊のかしらベルゼブルの力によることだと言った、パリサイ人たちに向けられたものであったのです。「人の子に逆らうことばを口にする者でも赦される…」。主イエスは人の姿を取って地上を歩まれた神です。その主は人々から罵られ、嘲られ、十字架につけられ、殺されました。それはその死と復活のいのちにより、私たちの罪を贖い、救い出すためであったのです。ご自身に逆らう者を赦すことが使命であったのです。一方、聖霊は、私たちの霊の目と耳を開き、教え、私たちの内にある汚れたものをきよめ、内に住み、私たちを主の似姿へと造り変えてくださるのです。そのお方を心から歓迎し、その御声と導きに従い、「良い倉から良い物を取り出す」(35節)、すなわち、良い心から、愛のことば、神のことばを発することが、私たちには求められているのです。そしてそのために、聖霊さまご自身が私たちを助けてくださるのです。感謝をもって自らを明け渡していきたいと思います。

主の確かな助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章9-21節◇(6月13日)

「見よ。わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。…異邦人は彼の名に望みをかける。」…マタイ12:18、21(新改訳2017)

「人の子は安息日の主です」と言われた主は、会堂に入られ、片手の萎えた人をいやされました。おそらく、穂を摘んで食べた弟子たちを非難したパリサイ人との論争があったのと同じ日、つまり、安息日のことであったでしょう。いやしを「労働」とみなすパリサイ人たちはそこにもいて、彼らはイエスを殺す相談を始めました(14節)。それを知った主イエスはそこを立ち去りましたが、ついて来た多くの人々をそこでもいやされました。マタイはそれをイザヤの預言の成就だと記し、イザヤ書42章1-3節を引用しています(18-21節)。そしてそこには、「彼は異邦人にさばきを告げる…異邦人は彼の名に望みをかける」とあるのです。彼が強調したかったのはそのことに違いありません。主イエスについて来ていやされた人々の中には、異邦人もきっと含まれていたことでしょう。また、当時は「いやし」と「救い」はほぼ同じ意味でしたが、いやしを通してイエスをメシアと認め、告白し、救いにあずかった異邦人もいたに違いありません。だからこそマタイはそのみことばを持ち出したのです。自分たちは神の民だと、選民意識に凝り固まり、律法を守り通せば救われると考えたパリサイ人たち…。それに対し、その誤った考えを打破し、信仰による救い、全人類の贖いと回復をもたらすために来られた主イエス…。そもそもキリストの祖先のルツは異邦人(モアブ人)であり、神は「純血主義」に固執されるような方ではないのです。「…御子を信じる者が、『ひとりとして滅びることなく』、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ3:16)とみことばが言うとおりです。人の子は安息日の主であり、また、すべての国の民の主であることを感謝したいと思います。

救いの喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章1-8節◇(6月12日)

「人の子は安息日の主です。」…マタイ12:8

主イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通ったとき、空腹であった弟子たちはそこにあった麦の穂を摘み、手でしごき、中の実を取りだして口に入れました。するとそれを目撃したパリサイ人たちは、弟子たちは安息日にしてはならないことをしている、つまり、その行為は収穫と脱穀にほかならず、律法が安息日に禁じている労働だととがめたのです。そのように言われて主イエスは彼らに反論しました。サムエル記には、ダビデと連れのものも空腹になり、神の家の備えのパンをもらって食べたと書いてあるではないか…(1サム21:6)。そもそも安息日に宮で奉仕をしている祭司たちは、律法を破っていることにはならない…。宗教専門家であるはずのあなたがたの安息日のとらえかたは、間違っているのだ…と。安息日とは何でしょうか…。それは、神が世界を創造されたとき、7日目にすべてのわざをやめられ、6日間で創造されたすべてのものを見られ、「非常に良い」とされたことに起源を持つのであり、神に造られた人間も、その安息日には働くことをやめ、創造主なる神のわざを覚え、感謝し、神の祝福にあずかるためにあるのです。しかしパリサイ人たちには、いかに自らが安息日に働くことを完全にやめられるか、また人々にもそのことを守らせることができるかが、安息日の主目的にすり替わってしまっていたのです。「人の子は安息日の主です」。人の子、つまり主イエスは、三位一体の神として、世界を、人間を創造されたのです。その主イエスは、神に背き、罪を犯してしまった人間を、罪から解放し、創造されたときの「非常に良い」ものへと取り戻し、回復させるために来られたメシアなのです。安息日は、その創造主なる神の前にすべての人々が集い、贖いのわざを感謝し、喜び、主イエスを救い主として認め、また王としてあがめ、礼拝をささげるべきときなのです。安息日(キリスト教会では日曜日)を尊び、多くの者とともに、「イエスは主」と高らかに宣言する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 11章20-30節◇(6月11日)

「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」…マタイ11:20

「数々の力あるわざ」…。主イエスがなされた力あるわざとは、病がいやされ、悪霊が追い出され、死人が生き返る、そのような目に見えることだけではありません。主イエスによる律法の正しい解釈によって人々の霊の目が開かれ、自らのあり方が誤っていたことに気づかされる…。それもまた、神によってなされる「力あるわざ」であり、そのように取り扱われた人々が神の前に悔い改めないことを、主は責められたのです。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と主は言われましたが(25節)、そのように主がみことばを通して罪を指摘し、悔い改めるように迫ったのにもかかわらず、多くの人々はさまざまな理由を挙げ、自らの誤りを正当化したのです。それは悪賢く、悪知恵を働かせる大人のやり方です。しかし幼子たちは主イエスのことばを純粋に受け止め、それに忠実に従おうとする柔らかい心を持っているのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。このみことばは、未信者の人向けのものではありません。なぜ疲れるのか…負っているのはどのような重荷なのか…疲れるのは自分の努力によって正しくあろうとするからです。重荷とは過ちを責め立てる者が負わせようとする罪の重荷、良心の呵責です。幼子のようにへりくだり、素直な心で主イエスの前に出て、そのことばに真摯に耳を傾けるなら、すべての者は自らの罪深さに愕然とするはずなのです。しかし主はそんな私たちを決して見放すお方ではありません。私たちが真に悔い改めるなら、主は私たちを赦し、罪から解放し、平安と自由と喜びを与えてくださるのです。それはすべての人が毎日受け取るべき救いの恵みなのです。主の赦しの中で真の安息を得る者でありたいと願います。

主の愛をいつも感じることができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 11章1-19節◇(6月10日)

「…女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現われませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」…マタイ11:11(新改訳2017)

牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネは、イエスのみわざを聞き、あなたがメシアなのかと、自分の弟子たちを通じて主イエスに尋ねました(3節)。すると主は彼らに、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい、目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き…死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられているではないか、それはまさに神の国の祝福であって、それをもたらしたわたしにつまずかない者は幸いだと告げたのです(6節)。その後、主イエスは、バプテスマのヨハネについて群衆に話し始められ、女から生まれた者、つまり人間の中で、彼よりも偉大な者は現われなかった、と告げましたが、それは、ヨハネが主イエスに先駆けて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタ3:2)と、人々に宣べ伝えた働きを念頭に置いての発言でした。主はヨハネの人間的能力をうんぬんしたのではないのです。さらに主は、その彼より偉大なのは、天の御国に属する者たちだと言われました。「天の御国」とは、死んだ後の世界のことではなく、主イエスがもたらされた神の国、すなわち神の支配、神の力の現われを意味しています。「偉大」と訳されている原語は「この上もなく」という意味のことばです。主はここでもその者たちの人間的優劣ではなく、神の国に入ることの幸い、すばらしさを強調されたのです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」という主のことばが思い出されます(マタ5:3)。その神の国への招きこそ、主イエスが宣べ伝えた福音です。それを受け入れ、信じるだけで、御国の民とされるのです。神の国のすばらしい祝福をいただくことができるのです。感謝をもって、その幸いと豊かさにあずかりたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 10章34-42節◇(6月8日)

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」…マタイ10:37

わたしは平和ではなく剣をもたらすために来た…わたしに従おうとする者に対して、近しい者たちが逆らいその人の敵となると、主は言われました。そして、もし家族をわたしよりも愛するのならば、その者はわたしにふさわくないと続けられました。それは決して、家族への愛を捨てるべきだという意味ではありません。それは、何をおいても、主を第一にせよという優先順位の問題なのです。また主は、自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしくないと言われました。自分のいのちは自分のものだと固執するならば、結局そのいのちを失うことになる…。しかしそれを主のために失う、つまり、ささげる、差し出す者は、それを自分のものとすることができるのだと、逆説的な真理を主は弟子たちに告げられたのです。それらのことばはそのまま私たちに向けられています。では私たちはみな、家族と離れ、献身者としての学びと訓練の道へと進んで行くべきなのでしょうか…。私たちに対して主が求めておられることの本質とは、誰よりも主を愛し、主を求め、主に従うということであり、それは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ、という律法として(申命6:5)、モーセの時代から神が民に示されていることなのです。また主イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と弟子たちに言われたのです(マタ6:33)。一日の始めにまず携帯をチェックし、テレビをつけ、新聞に目を通すのではなく、まず主に賛美をささげ、主に祈り、主の前にしばし静まってみことばを聴く…。それが「わたしにふさわしい」と主は言われるのです。それは主に喜ばれるということにほかなりません。主に喜ばれることを選び取る者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 10章16-33節◇(6月7日)

「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」…マタイ10:26

主イエスは、ご自身の弟子たちに対して、これから起こる迫害のことについて語りました。主イエスの名のために、人々から憎まれ、議会に引き渡され、会堂でむち打たれるようになる…と。それは弟子たちにとって避けたいことでしたが、主は、その迫害は同時に、人々に証しをするための機会として与えられているのだと言われたのです(18節)。恐れてはならない、と主は繰り返されました(26,28,31節)。それは聖徒たちが迫害によりからだを殺されたとしても、そのたましいまで殺すことはできないからであり(28節)、神は主権者であって、ちっぽけな雀の一羽でさえも、神の許しなしには地に落ちることはないからです(29節)。「証し」とは神がどのようなお方であり、その神が自分とどう関わったのか、関わり続けてくださっているのか、自分が神から受けた、そして日々受け続けている神の愛と救いと恵みを、確かな事実として証言することです。そしてそのとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよい…なぜなら御霊がそれを示し、御霊ご自身が話されるからであり、人々はそれを聞くからだと主は言われたのです(19,20節)。「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。その真理に心が留まります。証しや宣教にとって大切なのは方法論、つまりやり方ではなく、証しをする聖徒たち一人ひとりの内側、核に何があるかであり、そのたましいがキリストにしっかりつながっているか、主への堅い信仰を持っているかが何より大切だということです。「私は神さまに愛されています!」、「イエスさまは主です!」「主は今も生きておられ、私とともにいてくださいます!」…。私たちのうちにそのような思いがいつもあふれているなら、それは私たちのことばや行動や存在自体を通して現わされ、隠すことなどできないほど、周囲に明らかにされていくのです。そのような主の証し人とされ用いられたいと心から願います。

主にしっかりととどまり続けることができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 10章1-15節◇(6月6日)

「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」…マタイ10:1

「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われた主は、12弟子に、汚れた霊どもを制する権威を授けられました。それは、主イエス自身がなされた働き、みわざを、権威を授けられた弟子たちが出て行って同じように行なうという、任命と派遣の意図があったのです(9:32-35)。主イエスは、弟子たちを遣わす際に命じられました。異邦人の道に行かず、サマリヤ人の町に入らず、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさいと。主は、異邦人やサマリヤ人を無視したわけではなく、まずイスラエルに、という優先順位を示されたのです。主イエスも弟子たちもユダヤ人、つまり、イスラエルの家の者たちです。まず自分たちの近しい者たちに、そして、何よりも神の愛とあわれみの中にあるユダヤの民、同胞のところに行って伝えよと主は言われたのです。「失われた羊」ということばに、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼ら」ということばが重なります(9:36)。その羊たちのところに行って何をすべきなのか…。弱った羊を介抱する羊飼いの働きが当然求められます。しかし主は、「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさいと、まず言われたのです。そしてそのことばに続いて、病人をいやし、死人を生き返らせ、悪霊を追い出しなさいと、弱った羊たちとの具体的な関わりを指示されたのです。それは、天の御国が近づいたことを宣言し、人々がそれを受け取るときに、そのようなみわざが起こるということです。キリストによって天の御国が到来した…。神のご支配がすべての領域において現わされている…。救い、いやし、解放のみわざはそのしるしであり、人々を悪しき者の支配から奪い返すことだということを、あらためて教えられます。この主の弟子たちへのことばは、そのまま私たち聖徒にも語られています。まず自分の近しい人から、同胞に対して、神の国が確かに到来していることを伝えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 9章27-38節◇(6月5日)

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」…マタイ9:36 (新改訳2017)

今日の箇所には、目が見えなかった二人の人、また、悪霊につかれて口のきけなかった人が、それぞれ主にいやされた記事が書かれています。そのように、9章には、主のいやしと解放のみわざが数多く記されていますが、それはごく一部であって、主イエスはすべての町や村を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気とわずらいをいやされたのです(35節)。主のみこころはそのように、すべての人が神の国の福音を聞き、それを信じ、縛られているもの、苦しめられているものから解放され、神をほめたたえ、御国の祝福にあずかることなのです。36節のことばに心が留まります。9章には、積極的に主に近づいた者たちが描かれていますが、そのような気力もなく、弱り果てて倒れ込んでいる者たちが大勢いたのです。そしてそれを目にした主は、深くあわれまれたのです。心を痛められたのです。そしてその人々を羊飼いのいない羊のようだと、主は言われたのです。人は羊のような弱い存在であって、世話をして守ってくれる、良い羊飼いが必要なのです。また主はそのとき、収穫は多いが働き手が少ない、そのために祈れと、主は弟子たちに言われました。収穫とは、畑に蒔かれた種が芽を出して成長し、実がなり、それを刈り入れ、集めて倉に入れることです。神の国の福音という種が人々の心に蒔かれるなら、それは成長して実を結ぶのです。病気とわずらいからの解放だけでなく、罪と咎からの救い、永遠のいのちをもたらすのです。それは神にとって大いなる喜びなのです。収穫されるべきたましいがまだまだたくさんいる…。弱り果て倒れている人々が町に満ちている…。私たちもかつてはそのうちの一人だったのです。主はその私たちを今度は収穫の働き手とされるのです。主の御思いを自らの思いとして歩みたいと願います。

置かれたところで主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 9章14-26節◇(6月4日)

「…12年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。『この方の衣に触れさえすれば、私は救われる』と心のうちで考えたからである。」…マタイ9:20-21 (新改訳2017)

今日の箇所の後半には、長血をわずらっている女性のいやしの記事が、会堂管理者の娘の生き返りの記事の間に挿入されるようにして書かれています。長血とは出血がずっと続く女性特有の病ですが、彼女はそれに長年悩まされていたのです。医者からは見放され、人々からは厄介者扱いされ、彼女のからだだけでなく、心も病んでいたのです。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」。彼女は心のうちでそう考えたとマタイは記しています。「触れさえすれば」という、その一点に集中する思い、主イエスに対する彼女の大きな期待に心が留まります。そして主は、彼女がご自分の衣の房に触れたとき、「あなたの信仰があなたを救った…」と告げられ、その瞬間に彼女は癒されたのです。からだも心も主に触れられて、全人的な「救い」にあずかったのです。その後、会堂管理者の家に着いた主イエスは、その娘は死んだのではなく眠っているのだと言われ、あざ笑う群衆を外に出し、少女を起き上がらせました。会堂管理者も、娘の上に手を置いてほしい…そうすれば生き返る…と確信をもって主イエスに告げましたが、それは、手が置かれさえすれば生き返るという信仰です。そして主はそれを喜ばれ、それに応えてくださったのです。娘を亡くした会堂管理者と長血をわずらっていた女性…。みことばが私たちに強調しているのは、この2人の一途さ、ひたむきさです。主イエスに触れさえすれば…主イエスの手が置かれさえすれば…という主イエスへの大いなる期待、純粋な信仰です。人の目、常識、形、慣習にとらわれずに、私たちもひたむきに主を求め、主に触れられたいと願います。

主が必要にこたえてくださいますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 9章1-13節◇(6月3日)

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」…マタイ9:13

13節に書かれている主イエスが引用したみことばは、預言者ホセアが語ったことばです(ホセ6:6)。そこを新改訳2017では、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」、また、新共同訳では、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と訳しています。中風の人(からだが麻痺した人)のいやし(1-8節)も、取税人や罪人を招き食事したことも(9-13節)も、すべては、主イエスの真実の愛と憐れみといつくしみによることであったのです。そしてそれは、人々のからだと心の病がいやされ、元の健康な状態に戻り、元気を取り戻すためであったのです。そのように、罪が赦され、束縛から解放され、神が造られた姿に戻ることが主の願いだったのです。一方、パリサイ人たちはそのような人々を白い目で見、なぜイエスはあんな奴らと食事するのかと批判しました。そしてそんな彼らを主イエスもまた批判したのです。なぜなら彼らは、自分たちは律法を守っている…奴らとは違う…罪が赦される必要はない…と、そのように主イエスのもとに集まる人々を見下し、自分たちのあり方を正当化していたからです。私たちは病気になると医者にかかって診療を受けます。しかし、心とたましいの領域では自分は健康であり、医者にかかる必要などないと常に考えているなら、そのような態度は本質的にパリサイ人たちと同じなのです。私たちは生まれつき罪という致命的な病気を抱えており、それを根本的に治すことができる唯一の医者こそイエス・キリストであり、私たちはこのお方が必要なのです。主イエスは今日も私たちを恵みの食卓に招いておられます。感謝をもってみもとに行き、愛と憐れみといつくしみを受け、からだも心もたましいも健やかにされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇65篇◇(6月1日)

「牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。まことに喜び叫び、歌っています。」…詩篇65:13

「みもとにすべての肉なる者が参ります」(2節)。すべての人が神のみもとに集ってくると、詩人は言っています。それは続く3節にあるように、自らのうちにある罪と咎によって心が責め立てられ、圧倒される思いになった者たちが、激しく飢え乾き、そこからの解放、救いを切に求めて、それらをもたらしてくださる神に近寄せられるからなのです。そのようにして主の選びにより神の所有の民とされ、主の良いもので満ち足りる者こそ幸いなのです(4節)。「あなたは、海のとどろき、その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます」(7節)。神はこの世界をすべて造られた創造主であられ、その偉大な御力によって山々を堅く建てられ(6節)、海のような自然界のみならず、民の騒ぎと争い、一人ひとりの騒いでいる心をも静めるお方です。それは人の思いやこの世の常識を越えた、不思議なしるしを伴ってなされることであって、すべての造られた者はその主のみわざを見て畏れ、主をあがめ、ほめたたえるようになるのです(8節)。「牧草地は羊の群れを着」(「群れをまとい」:2017訳)。12節には「荒野の牧場」とありますが、常識的には、牧場は荒野には作れません。その乾ききった地には、家畜が食べるための草が生えないからです。しかし主は、そのような荒れ果てた地を、草が生い茂る牧草地として祝福し、羊の群れをそこに住ませるのです。「もろもろのもろもろの谷は穀物をおおいとしています」。常識的には、谷では穀物は育ちません。肥沃な土壌や、水、日光がそこには十分にないからです。しかし主は、そこを、穀物が一面に覆うところとしてくださるのです。その主は私たちをも恵みと祝福で満たしてくださいます。主の御前に喜び叫び、賛美の歌を響かせたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。