◇聖書箇所: ヨハネの福音書 8章1-20節◇(7月31日)

「彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」…ヨハネ8:11

姦淫の現場で捕まえた女性を連れてきて、石打ちにするのか、無罪放免にするのかと、律法学者とパリサイ人は主イエスに迫りました。石打ちに…と言えば、良い教えを説いても、結局は口だけであわれみがないのだと非難し、無罪放免に…と言えば、モーセの律法を破る不届き者だと告発とする魂胆だったのです。主はしつこく問い続ける彼らにこう答えました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。そう言われて、不意を突かれた彼らは困惑しました。自分の罪を問われるのは想定外だったからです。自分は潔白だと胸を張れる者などいるはずがなく、年長者から順に全員がその場を立ち去りました。残された女性に対して主イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない」と…。主は、「あなたには罪がない」とは言われませんでした。「見逃してあげよう」とも言われませんでした。主イエスは彼女の罪を明確に指摘し、その上で、「あなたを罪に定めない」と宣言されたのです。キリストこそその権威を持っているお方なのです。私たちも自らを律法学者の立場に置こうとします。自分の目に「梁」があるのに、人の目のちりに目をつけ取ろうとするおろかで罪深い者です。しかし私たちも、立ち去った彼らと同じなのです。また主の前に一人残された姦淫の女性と同じく、主に罪を指摘されてそれを素直に認め、その上で、「わたしもあなたを罪に定めない」という宣言を、主イエスから受け取るべき者なのです。「行きなさい。…罪を犯してはなりません」という、主のことばに従い続ける者とされているのです。罪赦された罪人であることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 7章25-36節◇(7月29日)

「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」…ヨハネ7:34

エルサレムの町では、主イエスが行った力あるわざを目の当たりにした多くの人々が、「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」と言って、イエスに一目置くようになりました。しかし彼らは、目に見える「しるし」に心奪われていたのであって、その方が「キリスト」だとはわからなかったのです。一方、群衆がイエスになびいているのを知ったパリサイ人たちは、主を捕らえようとしましたが、彼らから遣わされた役人たちに対して主イエスは、わたしはわたしを遣わした方のもとに行く…あなたがたはわたしを捜しても見つけられないし、そこに来ることもできないのだ…と言われたのです。彼らもそのことばの真意が理解できませんでした。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハ15:26)。主イエスは後に弟子たちにそう話されましたが、弟子たちもまた、主が役人たちに言われたことばを、そのときはまだ悟っていなかったはずです。なぜなら真理の御霊こそが人の霊の目と耳を開き、神のことばの奥義を解き明かしてくださるからです。主イエスご自身についてあかしされるからです。どんなに頭脳明晰で博学な人であったとしても、人間の知恵によっては主を知ることはできません。神のことばの奥義を悟ることはできないのです。それを教えてくださるのは真理の御霊なのです。その聖霊の助けと導きによって、私たちは、主イエスを捜し、見つけ、近づくことができるのです。主との親密な交わりを持つことができるのです。そしてそれは、主イエスが十字架と復活によって贖いを完成され、父の元に帰って行かれたからこそ、私たちにもたらされるようになった祝福なのです。さらに霊の目と耳を開いていただきたいと願います。

御霊の油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 7章14-24節◇(7月28日)

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」…ヨハネ7:18

神の導きのうちに祭りに上られた主イエスは、宮において公に教え始められましたが、それを聞いたユダヤ人たちは、ただの人が、神の真理を大胆に説き明かすことに驚きました。そしてそこには、妬みに燃え、イエスを殺そうと企んでいた律法学者たちも含まれていたのです。そんな彼らの心を知っておられた主イエスは、「自分から語る者は、自分の栄光を求めます」と告げて、彼らのあり方を暗に批判しました。あなたがたが人々に語り教えているのは、実は自分たちの栄光を求めるため、つまり、人からの賛辞を受けるのが最大の動機なのだ…それは偽善であり不正を行っているのだ…と。主はさらに、ご自身が安息日に行ったいやしを、彼らが非難し迫害したことに反論されました。「安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか」…と。彼らは、モーセの律法に自ら追加した規定を守り、自分たちこそ神の前に義であり聖なる者だと自負し、それを破る者を裁いて優越心を抱いていたのです。しかし主は、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」と告げて、律法に対する彼らの誤った捉え方、形式主義を批判したのです。主イエスが安息日になされたいやしのみわざは、38年間もずっと苦しめていた病からの解放でした。それは神が本来意図されたいのちの回復であり、そのことを通して神の栄光が現されたのです。私たちもともすれば自分がどう見られるか気にしたり、形式やうわべだけのことにとらわれてしまいますが、神の栄光だけを求める者でありたいと願います。

聖霊さまの助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 7章1-13節◇(7月27日)

「そこでイエスは彼らに言われた。『わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。』」…ヨハネ7:6

仮庵の祭りが近づき、主イエスの兄弟たちは、ガリラヤに留まっておられた主に対して、ユダヤに上って行き、もっと多くの人々の前でわざを行ったらどうかと勧めましたが、主は、「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時がまだ満ちていないからです」と、繰り返し答え、そのことを拒まれました。「わたしの時」とはどういう意味でしょうか。1節には、「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたとあり、また30節には、「人々はイエスを捕らえようとした」とあることから、それは、主が捕らえられ、十字架につけられ、殺される時を意味していることがわかります。ではなぜ、主は、この仮庵の祭りの時が、「わたしの時」ではないと言われたのでしょうか。それは、さらに多くの人々に福音を宣べ伝え、神の国の到来のしるしとしての救い、いやし、解放のわざを人々に現そうとしたからであり、弟子たちをさらに訓練する必要があったからです。しかしその実際的なことよりももっと大きな理由、それは、主イエスが「過越の小羊」として、自らをいけにえとしてささげ、血を流すことによって、人類に対する神のさばきが「過ぎ越す」ようになり、罪の贖いが成し遂げられるためであったのです。そしてそれは、仮庵の祭りではなく、過越の祭りでなければならなかったからです。「あなたがたの時はいつでも来ているのです」。「『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』」(2コリ6:2)今がそのような時であることを覚え感謝しつつ、恵みと救いを人々に分かち合いたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 6章60-71節◇(7月26日)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」…ヨハネ6:63

ユダヤ人たちへの主イエスの語りかけが終わると、彼らではなく、主イエスの弟子たちの多くの者が、「これはひどいことばだ…」とつぶやきました。弟子たちもまた主のことばを字義どおりに受け取り、実際に主の肉と血を食し飲む、と捉えたからです。彼らの目も残念ながら開かれていませんでした。こうして主イエスに従って来た弟子たちの多くの者が、主イエスのことばにつまずき離れ去って行きました。そんな彼らに対して主は言われました。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」。しかしそれは、肉体が悪でたましいが善という意味ではありません。主は、ご自身が語られたことばを、彼らが、あくまで肉によって理解しようとした、つまり、自分の知識、経験、世の常識という枠に押し込め、そこで考えて、真実かどうかを自分が決める…そのような人間的、地上的なあり方のことを、主は「肉」と呼ばれたのです。そしてそれは、まことのいのちを受け取る上で害を及ぼすもの、益を決してもたらさないものだと言われたのです。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラテヤ3:3)。私たちが主の与えるまことのいのちに生きる歩みは、御霊によって始められ御霊によって完成されるのです。それは、そのいのちは自分の力では決して得られない、私たちを愛し、あわれみ、贖ってくださったイエスだけが、そのみわざを信じる者に与えてくださるという信仰に、徹頭徹尾、立ち続けるということなのです。また、知恵と啓示の御霊によって日々目が開かれ、「枠の外」にある真理、新しいぶどう酒を受け入れる、柔らかい心、新しい皮袋を持ち続けるということなのです。「主よ、私のうちにある肉を砕き取り除いてください…」と、主に祈り求める者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 6章41-59節◇(7月25日)

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』」…ヨハネ6:53

主イエスとユダヤ人たちのやり取りは続きます。主はご自分が、天から下って来たパンであり、そのパンを食べる者は永遠に生きると、深遠な真理を彼らに繰り返し語られましたが、彼らは、あれはヨセフの息子イエスではないか、ただの若造がなんでそんなことを言うのかと、主とそのことばを人間的に受けとめたのです。そんな彼らの思いを知っておられた主は、さらにその会話を深みへと導いて行かれます。いのちのパンがすなわちご自身の肉であり、人がその肉を食べ、その血を飲まなければ、その者のうちにいのちはないと明言されたのです。主の肉を食べ、その血を飲む者となる…それはもちろん字義どおりの意味ではありません。何かを食べる、飲むという行為が示すことは、それらを自らの体内に受け入れるということです。そしてそれは毎日行われるべきことであり、特に今のような暑さの中であれば水分の補給は、いのちを維持するために不可欠のことなのです。主の肉を食べ、その血を飲む者となる…そこから想起されるのは主が定めた聖餐式です。これを行うたびに私を覚えなさいと言われた主は私たちの罪を贖うため十字架にかかられましたが、肉とは釘打たれ槍で突かれたそのみからだであり、血とはそこで流された主の尊い血潮なのです。その十字架の主を日々、いや絶えず見上げる…そして主に愛され、赦され、神の子とされたことを、永遠に生きる者とされていることを感謝して生きる…キリストを我が主として受け入れ、教えを反芻する…それが主の肉を食べ血を飲むことの意味なのです。そのような者こそ、まことのいのちを持つのです。

主からのいのちと平安が豊かに満ちますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 6章34-40節◇(7月24日)

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」…ヨハネ6:35

ヨハネの福音書6章は、5千人以上の人々がパンと魚で養われたという主イエスによる奇蹟の記事から始まっていますが、その「パン」ということばがキーワードとなって、さらにさまざまなことが展開していきます。奇蹟を体験した群衆が主イエスを追いかけてカペナウムまで来たときに主は言われました。パンを食べて満腹したからまた来たのか…なくなる食物を追い求める者とならずに、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい…なすべきことは神が遣わした者を信じることだ…神はマナのように天からのパンをお与えになる、そのパンは世にいのちを与えるものなのだ…と、主は群衆の心の覆いを1枚ずつはがすようにして、真理を解き明かされたのです。(6:26-33)しかしその覆いはすぐに全部は取り除かれません。彼らは、いつもそのパンを与えてください…と言い、目の前にいるイエスがまた不思議な方法によって、自分たちにそのパンが与えられると期待したのです。そんな彼らに主イエスは告げられました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」私たちはどんなに多くのモノやお金を持っていても、言いようのない空しさを誰もが感じます。それは、それらによっては決して満たされることのない魂の領域が私たちの内に存在しているからです。しかし、神が遣わされた主イエスの元に行くなら、その主が世にいのちを与える方だと信じるなら、私たちは決して飢えることも渇くこともないのです。その根源的な満たしといやしと救いを与えるため、神はイエス・キリストを私たちに遣わされたのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 6章1-15節◇(7月22日)

「ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」…ヨハネ6:9

「5千人の給食」と呼ばれる有名な記事です。半端でない数の群衆が主イエスの元に来たとき、「どこからパンを買って来て食べさせようか…」と主から言われた弟子たちは困惑しました。そこに、少年が5つのパンと2匹の魚を持って来ましたが、「それが何になる…」とアンデレは言ったのです。ところが主は、その少年からパンと魚を受け取り、それを祝福して増やし、人々に分けられました。彼らは「ほしいだけ」「十分に」食べたとあります。主がそのわずかなもので必要を満たされたのです。しかし主は天からそれを降らせたのではありません。もし少年が食べ物を主の元に持って来なかったら、また、人々を座らせなさいと言われた弟子たちが、「意味があるのか…」と従順に従わなかったなら、人々はその祝福にあずかれなかったのです。主は人を用いてみわざをなされるお方なのです。大麦のパン5つと小さな魚2匹を目の前にして、アンデレは「たったこれしかない…」と否定的に考え、主は「こんなに与えられている」と神に感謝しました。そしてそれを豊かに増やし必要を満たされたのです。私たちもまた、「これしかない」と考えるのではなく、与えられているものを感謝し、それを主に差し出し、さらに豊かにされること、それが用いられることを主に願い求めていくべきなのです。そして同時に、自分がなすべき分を忠実に果たすべきなのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:23) 

主の祝福が私たちを通して地にもたらされますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 5章30-47節◇(7月21日)

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」…ヨハネ5:39-40

今日の箇所のキーワードは「証言」です。多くのものが「イエス・キリストはメシア(救い主)」だと、証ししているのです。指し示しているのです。主イエスがご自分を証言していると言われたのは、具体的には以下のものです。
(1) バプテスマのヨハネ
(2) 主イエスご自身がなされるみわざ(しるしと不思議)
(3) 主イエスを遣わされた父なる神
(4) 聖書のみことば(旧約聖書における律法と預言)
これらのものはすべてキリストを取り囲み、キリストご自身を求めるようにと促しているのです。なぜならキリストのうちに真のいのちがあるからです。ところが律法学者やパリサイ人たちは、聖書の中に永遠のいのちがあると考えていました。つまり、律法を守り通すことによって神に義と認められ、神から永遠のいのちをいただけると思っていたのです。そして聖書を学問的に熱心に探求していたのです。しかし聖書はあくまで「いのち」を示しているものです。神のみことば、つまり律法や預言が指し示すのは、人間の罪深さであり、そこからの解放といのちを与える、キリストであるのです。そのメシアは私だ、それなのにあなたがたはいのちを得ようと私の元に来ない…と、主は、嘆かわしい思いで彼らに語っておられるのです。私たちが毎日、聖書をどんなに熱心に学んだとしても、いやしと解放、主のみわざを求めて集会に参加しても、もしイエス・キリストご自身を求めているのでなければ、そこから真のいのちを得ることはできないのです。なぜならそれはキリストを証言し指し示すものであって、いのちそのものではないからです。絶えず主イエスご自身を求め、真のいのちに満たされ、私たちもまたその主を指し示す者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 5章19-29節◇(7月20日)

「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」…ヨハネ5:29

ベテスダの池でのいやしが安息日だったため、敵意のあるユダヤ人たちは主イエスを迫害し、さらに主が神を自分の父と呼んでいたことから、彼らのうちには殺意さえ芽生えていきました。そんな彼らに向かって主イエスは口を開き、父である神と子であるご自分の関係について、真実を次のように明かされたのです。
(1)子は、自分からは何事も行うことができない。父がなさることは何でも子も同様に行う。(19節)
(2)子は、父と同様に死人を生かし、人に永遠のいのちを与える。(21,24-26,29節)
(3)子は、さばきを行う権威を父から委ねられている。(22,27-29節)
この主イエスのことばから、私たちは、三位一体の神が、父と子において協働性を持ち、一方で、権威の委任と機能の分担をしていること、神は人に永遠のいのちを与えようと願っておられ、その権威が主イエスに委ねられていること、すべての人は死からよみがえって審判を受け、いのちか死かに振り分けられることを知るのです。その選別基準は「善と悪のどちらを行ったか」です。善とは、神のみこころ、神が願っておられることです。それはキリストのことばと行いによって示されており、それを信じ、それに従ったかが問われるのです。主は、すべての人が善を行い、神のいのちのうちに、永遠に生きる者となることを願っておられます。滅びる者となることを望んでおられないのです。だからこそ、御子は父によって世に遣わされ、十字架にかかっていけにえとなられたのです。そのいのちをもって私たちを贖ってくださったのです。それは一方的な神の愛と恵みによることなのです。

感謝と喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 5章1-18節◇(7月19日)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」…ヨハネ5:6

祭りに集うためエルサレムに上った主イエスは、大ぜいの人が周りに集まり伏せっている、ベテスダと呼ばれる池を訪れました。そこでは、池の水が動いたときに、最初に入った者の病気がいやされるという、不思議なことが起こっていたのです。主は、38年間も病の中にある男性を見つけ、「よくなりたいか」…と声を掛けられました。すると彼は、「はい」と言わずこう答えました。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」。彼は、苦しみと悔しさを味わい続ける中で、いつの間にか神を恨み、人々を妬み、うらやみ、卑屈な心を持って生きていたのです。彼の病は、からだだけでなく心までも蝕んでいたのです。そんな男性に向かって主イエスは命じました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」。するとその人は直ちに床を取り上げ歩き出しました。「よくなりたいか」と言われて心が探られ、さらにそのことばによって信仰が呼び覚まされた彼は、心とからだとたましい、全人的ないやしと解放を、一瞬のうちに主から与えられたのです。「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません」。罪のゆえに病気になったと主は言われたのでなく、神をうらみ信仰を持ち続けようとしていなかった、そのような彼のあり方を主は指摘されたのです。私たちもさまざまな苦難の中に置かれますが、語られた神のことばにしっかりと望みを置くならば、主は必ず大いなるみわざを現わしてくださるのです。

主の恵みと祝福が今日も満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 4章27-42節◇(7月18日)

「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。』その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。』」…ヨハネ4:50

主イエスは再びガリラヤのカナに行かれました。そこに着くと、カペナウムから来た王室の役人が、危篤状態にある彼の息子のいやしを願いました。その役人は、主イエスのうわさを聞き、息子のところに来てもらえばきっと直ると思い、医者を呼ばず、心配ながらも息子を残したまま、ただ主イエスに望みを置いてやって来たのです。しかしそのときの彼の主イエスに対する認識は、「不思議なしるしを行う方」というものでした。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と、主から非難された役人は、なおもひるまず主イエスの訪問を願い続けました。すると主は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と告げられたのです。そして役人は、「いや、来てもらわなければ…」と固執せずに、その主のことばを素直に信じて帰宅したのです。「権威を持っている方」だと目が開かれたからです。さらに彼は、帰宅途中に彼のしもべたちに出会い、息子が直ったといううれしい知らせを聞きましたが、それが起こったのが、自分が主イエスのことばを聞いて信じた時刻であったことを知ると、役人は、主イエスがすべてを統べ治めている主権者であり、一瞬にしてことをなされる全能の主だと目が開かれ、神への畏れのうちに彼と家族は主を信じたのです。神にとって時間や空間の制限など何もありません。聖書に書かれているその神の一つ一つのことばは、私たちに豊かないのちと回復をもたらすものであり、私たちを「再創造」する力を持ったものであり、そのことばを信じる者はみな神の栄光を見るのです。どんな状況でも主のことばに信頼したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 4章27-42節◇(7月17日)

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」…ヨハネ4:29

男性との不適切な関係から抜け出せず(18節)、人目を避けて生活していたサマリヤの女性は、主イエスと出会い、会話を続けていく中で、そんな自分のことをすべて知っている…しかもその罪深い歩みを非難するのではなく、神を真実に礼拝するようにと招いているその人物が、ただ者ではないということに気付いていました。そして渇くことのない水を与えるということばの通り、自分の心の渇きがいやされつつあることを、彼女は確かに感じ取っていたのです。彼女は井戸に水を汲みに来ていましたが、水がめを置いたまま町へ戻り人々に告げました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」彼女の霊の目は完全には開かれていませんでしたが、そうに違いないと自らの体験を通して証言したのです。そしてその証しによって町の多くの者が主イエスを信じ、また実際に主イエスの元に来て主のことばを聞いて、さらに多くの人々が信じたのです(39、41節)。おそらく彼女は、町の人々に話そうとすぐには思わず、最初は自分の中にしまっておこうと考えたはずです。人々は自分を淫らな女だと思い疎んじていたからです。しかし彼女はそれを内にとどめようとしませんでした。いや、どうしてもとどめることができなかったのです。自分が人からどのように見られ思われているか…そのような人間的な思いを越えて彼女を突き動かす、神の愛が、あわれみが、御霊によるいやしと解放が、主イエスを通して注がれ、もたらされたからです。「…あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(1ペテ2:9b)。自分のうちにあった「やみ」をも恥じることなく告白し、それが「光」によって変えられたことを人々に証言する…。それが「証し」であり、主はそれを用いられるのです。主は私たちを御霊により突き動かされるお方なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 41-15節◇(7月15日)

 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」…ヨハネ4:14

 主イエスはユダヤの地からガリラヤに戻る際、サマリヤを通るコースをあえて取られました。「行かなければならなかった」とありますが(3)、それは不本意ではなく必然としてという意味です。つまりそのことは主のご計画であったのです。主イエスはヤコブの井戸に水を汲みに来た、ひとりのサマリヤの女性に声を掛けられました。彼女は当惑したに違いありません。当時は、ユダヤ人はサマリヤとのつきあいがなく、しかも、男性が女性に近づくなどあり得なかったからです。「水を飲ませてください」ということばから始まった二人の会話は、3章のニコデモとの会話と同じく、ちぐはぐしてかみ合っていません。それは、サマリヤの女性が、「生ける水」の真の意味を、すぐには理解することができなかったからです。自分の肉の目に映ることだけで考え、判断し、勝手に制限を設けていたからです。(11)しかし主イエスは最初からそれを承知の上で、彼女を愛しあわれまれました。彼女が抱えていた問題、やみに光を当てて、(4:16-18参照)心の痛みとたましいの渇きをいやすために、主のほうから積極的に近づかれたのです。主は、私たちのうちにある課題をもご存じです。そしてそれを取り扱うために、必然のこととして、自ら私たちに近づいてくださるのです。そして、心の痛みをいやし、たましいの渇きを満たす、「いのちの水」を与えてくださるお方なのです。御霊による真の解放と回復をもたらされるのです。地上的なもので渇きを満たそうとすることなく、主がくださるいのちの水を求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 322-36節◇(7月14日)

 「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」…ヨハネ3:30

 バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨルダン川の対岸でバプテスマを授けていた主イエスのところに人々がみな集まるのを見て、心穏やかではありませんでした。そして、ヨハネにそのことを告げ奮起を促したのです。しかしヨハネはイエスのライバルではありません。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」と彼は弟子に答え、「私は衰えなければなりません」と言って、人々が主イエスに向かうのを喜んだのです。以前、超教派の集会に参加したときのことです。著名な牧師がメッセージを語ろうとするときに、司会者がこのように言って会衆に促したのです。「ではこれから、○○先生のお名前を、いっしょに大きな声で呼んで講壇に迎えましょう、いいですか、123、はい、○○先生~~!…」そのときに受けた違和感は強烈でした。そこから立ち去りたくなったことを覚えています。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。」(29)花婿とはイエス・キリストであり、花嫁とは、キリストに愛され贖われるべき私たち、またキリストが建てられた共同体なる教会です。花嫁にとって、何よりも喜ばしいものとは、自分を迎えてくれる花婿のことばであって、花婿の代わりに語る者のことばではないのです。何よりもキリストご自身を慕い求めているのか…花婿のことばだけを聞きたいと願っているのか…また奉仕に立つときに、証しをするときに、人々の心がキリストに向くようにと願い、「私は衰えなければなりません」という、ヨハネのようなへりくだった者となっているか…私たちは自分を吟味することが求められています。地上に属するものに心奪われることなく、天にあるものを求める者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 31-21節◇(7月13日)

 「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』」…ヨハネ3:5

 ニコデモというパリサイ派の宗教指導者が、夜、人目を忍んで主イエスの元に来ました。2-15節はその彼と主イエスとの対話ですが、何ともちぐはぐな、かみ合わない会話です。それはニコデモが主を単なる教師ととらえ、「新しく生まれる」と言われたことの意味を、霊的に理解することができなかったからです。「水と御霊によって生まれる」とありますが、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを、水によって授けていたことが思い出されます。「水」は、自分が神に背いていたことを認め、罪を悔い改めるという「きよめ」を示唆しています。しかし神の国に入るにはそれだけでは不十分で、主イエスが神から世に遣わされた御子であると、その信仰を告白することによって、人は救われ、神の国に入ることができる者とされるのです。そしてそれは、私たちが生まれつき持っている「肉」の力によってなされることはないのです。そこには聖霊なる神の働きが確かにあり、私たちの心と思いは御霊によって捕らえられて、主にすべてを明け渡す者と変えられるのです。それが「御霊によって生まれる」という意味です。ニコデモは、律法を守り通すことを目指して、努力してまじめに生きてきたに違いありません。しかし、人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができないのです。罪を悔い改め、イエスを救い主と信じて告白し、水と御霊によってバプテスマを受ける者、自らを主に明け渡し、御霊に満たされる者こそ、神とともに永遠に生きることができるのです。肉による歩みに戻ってしまうことなく、絶えず、御霊によって歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 213-25節◇(7月12日)

 「また、鳩を売る者に言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」…ヨハネ2:16

 「宮きよめ」と呼ばれる記事が書かれています。神の宮の庭では、動物を売る者や両替人たちが、神にいけにえをささげようとする礼拝者たちから、法外な手数料を取って金儲けをしていましたが、主イエスは彼らを見ると、「細なわでむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒」されたのです。(15)ではなぜ主イエスは、彼らの行為に対して憤り、それほどまでに激しく反応されたのでしょうか。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」…。神殿、神の宮とは、すなわち父の家であって、父が住まわれるところ、神の臨在に満ちるところ、ご自身を求めて近づく人々に神もまた近づき、一人ひとりとお会いになるところであるのです。主イエスの憤りは、何よりも、そのような、礼拝者なる人と神との親密な関係の中に、人が介在して割って入ることに対してであり、しかも彼らが、礼拝者たちから利益を得ようと、神を畏れず利己的にふるまっていたからなのです。「宮きよめ」とは礼拝者と神との間に割り込む、いっさいの人間的なことの排除を意味するのです。主は今も、神の宮が本来の姿であるようにと願い、それを妨げるすべてのものを除かれるお方です。教会は献金や奉仕を強要してはならないのです。教会が礼拝より何かの事業に高い関心を持つなら、それは本末転倒だと言えるのです。さらに、一人ひとりが神を礼拝することを第一としないなら、逆に、献金や奉仕をしていることで満足するなら、それもまた主が求めているあり方ではないのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)その主イエスのことばを心に留めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 21-12節◇(7月11日)

 「イエスは彼らに言われた。『水がめに水を満たしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」…ヨハネ2:7

 ガリラヤのカナでの婚礼に招かれた主イエスに、母マリヤは困り切って助けを求めました。お祝いの席に必要なぶどう酒が切れたのです。そしてマリヤは手伝いの者たちに頼みました。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」どのような方法かはわからなくても、この窮地から主イエスが助けてくださることを、マリヤは固く信じていたのです。その主イエスが手伝いの者たちに命じたこと、それは6つの水がめに水を満たすことでした。しかも80から120リットルの大きな水がめの、縁にまでいっぱいにするように求めたのです。手伝いの者たちは困惑したに違いありません。3つめ、4つめ…とその作業を続けていく中で、「いったいこんなことして何になるんだ…」と、疑問を感じたり不信感を抱いたかもしれません。しかし6つの水がめ全部がいっぱいになったとき、彼らは主から「さあ、今くみなさい」と命じられ、水の入った杯を世話役のところに持って行くと、なんとそれは最上のぶどう酒に変わったのです。主イエスが栄光のみわざを現わされたからです。主は、手伝いの者たちに、「急いで散って行って、ぶどう酒をかき集めよ」とは言われませんでした。主ご自身が、最上のぶどう酒という祝福を与えることのできる方であられたからです。主は私たちにも「水を満たしなさい」と言われます。水を汲んで入れ続けるその作業は、祈りのように、根気の要る、結果がすぐ出ないものかもしれません。しかし私たちも、忠実に、従順に、最後のかめまで、主のことばに聞き従ってそれを行い続けるならば、主のみわざを目撃し体験する者とされるのです。主の豊かな祝福にあずかることができるのです。主の御旨を何でもするしもべでありたいと願います。

主の栄光を現わすために尊く用いられますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 143-51節◇(7月10日)

 「イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』」…ヨハネ1:48

今日の箇所のキーワードは「見る」です。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と、ピリポから聞いたナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」とそのことを信じないで否定しました。カナ出身の彼は隣村のナザレを良く知っており、メシヤがあんなところの人のわけがない…と、偏見と先入観をもって判断していたのです。そんなナタナエルにピリポは言いました。「来て、そして、見なさい。」ナタナエルは、そんなこと時間の無駄だ…と、ピリポの招きを無視しようとはしませんでした。自分の目で真実を確かめようと考えたのです。そのようなナタナエルに対して主は、「彼のうちには偽りがない」と称賛し、彼がいちじくの木の下にいたのを見たと告げました。ナタナエルはその主イエスのことばに驚き、イエスを神の子であると信仰告白したのです。私たちにもさまざまな偏見や先入観があります。それらに影響されてしまう弱さを持っています。しかし主は、「来て、そして、見なさい」と、私たちに対しても語っておられるのです。真実を求めて、その招きに素直に応じるなら、私たちのすべてを見ておられる主、すべてを知ってくださっている主、持っていた疑いの心を裁くことなく受け容れて、なおも愛してくださるお方とそこで出会うのです。主の前に出るとき私たちの目は開かれるのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」(ヘブ12:2)歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 114-28節◇(7月8日)

 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」…ヨハネ1:16

 「恵み」、「恵み」と、最初の段落の中に、神がもたらされた恵みが強調されています。17節には、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とありますが、律法ももちろん「恵み」です。律法は決して神が人々を縛る道具ではないし、それを破る者を滅ぼすことが目的ではありません。律法に従順に従いそれを守り行なうことによって、神のいのちと祝福にあずかることができるのです。それは今も変わらない律法の精神なのです。しかしその律法を実際に守り通すことができない、弱く罪深い自分を思い知らされることも事実です。パウロはこのように言っています。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」イエス・キリストは全き神であり、かつ、全き人として歩まれました。そして、神が与えられた律法に完全に従い守り通された、その要求を満たすことを実現されたお方なのです。罪人である私たちは誰もそれを実現できませんが、その罪の束縛から解放するために、キリストは十字架にかかりよみがえられたのです。このキリストを信じる信仰によって私たちは、義なる者、律法に従う者と神から認められるのです。「恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」そしてそれは、神の一方的な愛とあわれみにより、すべての人に与えられた好意の贈り物なのです。その恵みを感謝をもって受け取りたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 11-13節◇(7月7日)

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」…ヨハネ1:12 

主イエスの12弟子の一人である、ゼベダイの子ヨハネが書いたとされるこのヨハネの福音書は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という、深遠な真理の提示から始められています。聖霊さまに助けられつつ読み進めたいと思います。「やみはこれに打ち勝たなかった。」(5)この短い文章から次のことを教えられます。1) 神の意に反してやみが世を支配していた。2) 光が世に来てやみとの対決が起こった。3) 光がやみに打ち勝ってやみは敗北した。この世界の創造は、やみに満ちていた地に、神が「光があれ」と仰せられて始まりましたが、悪魔により罪というやみが世に入り込んだため、そのやみを打ち破る「再創造」のわざをなすべく、神はキリストというまことの光を送られたのです。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(11)やみの支配によって人々の心がかたくなになり、覆いがかけられ、光を受け付けようとしない、人々の罪深さがここにも示されています。「しかし、…」(12)。この「しかし」の中にこそ、世に対する神の愛とあわれみが詰まっています。やみの支配の中で苦しむ人々を解放するために、神は光なるキリストを遣わしてくださったのです。そのキリストの十字架と復活によって世を贖い、キリストを信じる人々を正しい者、「義人」と認め、神の子どもとされる特権を与えてくださったのです。そして、ご自身の資産、祝福を受け継ぐ「子」として、私たちをそれぞれの場所で用いてくださるのです。それは私たちの血筋や努力によってではなく、神の一方的な選びによることなのです。(13)私たちはその神にただ感謝し賛美をささげるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 132篇◇(7月5日)

 「わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」…詩篇132:18

 「主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください。」詩人はそのような書き出しで始めています。ユダヤの民にとってダビデは特別な存在です。姦淫の罪を犯して悔い改めることを迫られ、神殿を建てることを願ったのに許されず、粗末な天幕に神の箱を運び入れて、楽器と踊りによって主を礼拝したダビデ…。しかし彼は確かに油注がれた王だったのです。詩人はさらに、そのダビデを通し与えられた、主の祝福に読者の目を向けさせています。「そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。」(17)これは明らかにメシアの到来の預言です。ダビデの家系からイエス・キリストが生まれ、「一つの角」、御国の王として世界を統治し、「一つのともしび」として闇を照らすのです。敵は敗北し、王の冠が栄光に輝くのです。詩人はシオンの祝福についても語ります。シオンとはエルサレムでありダビデの町です。そしてキリストを信じる聖徒たち、その共同体、キリストのからだなる教会もまたシオンなのです。そこには主の臨在が絶えず満ちています。主ご自身が住みかとするよう望まれたからです。シオンの食物は祝福され乏しいことがありません。また敵からの攻撃によって痛手を受けたとしても、主の御手によっていやされ回復されるのです。そこには聖徒らの喜びの歌が満ちているのです。勝利と栄光に満ちた主がともにおられます。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 130,131篇◇(7月4日)

「私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。」…詩篇130:6

「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」そのような書き出しで始まる詩篇です。深い淵とは苦しみや困難が満ちたところ、光が届かずやみに覆われている領域です。詩人はしかし、そこから天を見上げて、主に向かって呼び求めているのです。その声を聞いてくださいと懇願しているのです。しかし詩人はその淵からの脱出を直接求めず、何よりもまず主ご自身を待ち望んでいます。主が語られるみことばを切望しているのです。それはそこに自分が置かれた意義を知り、主が与えるものをしっかり受け取ろうと、詩人は固く決意しているからです。「…夜回りが夜明けを待つのにまさり…」と、詩人は繰り返して語りそのことを強調しています。夜回りとは夜通し警戒して巡回する人のことです。夜回りにとって何より待ち遠しいのは夜明けです。やみを破り新しい朝を与えてくれる光です。夜回りは夜明けが来ることを信じて疑いません。もしかしたら来ないかも…とは考えないのです。しかしその前に夜があることを夜回りは理解し、その時間に自分の努めをきちんと果たすのです。私たちもまた、深い淵にしばしば置かれますが、この詩人のように、私たちの不義に目を留めず、赦してくださる主の御名を呼び求めるのです。夜回りのように夜が明けるのを信じて疑わず、やみを照らす光を、みことばを待ち望むのです。自らの心をしっかりと見張り続けるのです。「主には恵みがあり、豊かな贖いがある」(7節)どんなときにもその主を待ち望みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 129篇◇(7月3日)

 「…彼らは私に勝てなかった。主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」…詩篇1292b4

 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。」「私」とはイスラエルの民全体のことです。他国からの侵略によって「私の若いころから」、先祖の時代からずっと苦しめられてきたのです。イスラエルの歴史は苦しみと痛みの連続です。しかし「彼ら」、すなわちシオンを憎む悪者どもは、「私」に勝つことができませんでした。たとえ勝利を得たかのように思えたとしても、その支配は一時的なものであったのです。それは主が「私」の味方であったからです。主ご自身が悪者の綱を断ち切られたからです。 「彼らは…枯れる屋根の草のようになれ。」(6)屋根に生えた草は枯れる運命にあるのです。なぜなら、それは根をしっかり張ることができず、雨が降らなければ水分を得ることができず、太陽の日差しによって干からびてしまうからです。主イエスが話された種蒔きのたとえにおける、岩地に落ちた種を思い出します。(マタイ13:5-6)悪者、シオンを憎む者とは、その本質において、イスラエルの神を畏れず、その神の民を侮り、神が語られたことばに心を留めない者、それに聞き従おうとしない者のことであり、そのような者は枯れて滅びてしまうのです。「長いあぜを作って」、自分の考えとやり方で畑を耕し収穫しようとしても、それは空しいのです。しかし、すべて主を畏れて主の道を歩む者は、自分の手の勤労の実を食べ、主の豊かな祝福を確かに受け取ることができるのです。そのような者の歩みの上には、繁栄と平和が、主によってもたらされるのです。(詩篇128)悪者を恐れず、主に信頼して歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 127篇◇(7月1日)

 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」…詩篇127:1

 だれが真に家を建てる者であるのか、だれが町を守っていてくれる存在なのか、詩人はそのことを読む者に訴えています。それは言うまでもなく主ご自身です。主が家を建ててくださるからこそ、建てる者の労苦は無駄にならないのです。主が町を守ってくださるからこそ、見張りが意味あるものとなるのです。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(2)人は不眠不休で働き続けることはできません。そのうち意識がもうろうとして倒れてしまいます。しかし、まどろむことも眠ることもない主は、私たちが働きをやめて眠りについている間も、事をなし続けておられるのです。家を建て続け、町を守り続けてくださるのです。そのことを知る者にとって、毎朝の目覚めは、主への感謝と希望に満ちたものとなるのです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主が成し遂げてくださることを待ち望む者は、主に全き信頼を置いて拠り頼む者です。しかしそれは、自分の果たすべき分を放棄し、「主が眠っている間に備えてくださるのだから、すべて主に任せよう…あとはよろしく…」と、何もしないでいることとは違います。家を建てる者の手が求められるのです。町を見張って守る存在が必要なのです。主に祈り求めつつ私たちの最善をなしていく…そして主ご自身の働きを待ち望み、ゆだねて、平安のうちに身を横たえ、希望の朝を迎える…そのようなあり方を主は願っておられるのです。

揺るがない平安が心にありますように。主の祝福をお祈りいたします。