◇聖書箇所: 詩篇 136篇◇(9月30日)

「天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」…詩篇136:26

この詩篇は「主に感謝せよ」で始まり、「天の神に感謝せよ」で終わっています。そして、全節に「その恵みはとこしえまで」とあります。4節以降は「方に」で止まっていますが、もちろん、「方に感謝せよ」という思いで受け留めたのです。前半のことばを祭司や聖歌隊がリードして歌い、後半をそれに応答して会衆が歌う、そのような「交唱」として礼拝でささげられたと思われます。1~9節で歌われているのは、神の創造のみわざ、すべての被造物が受けている主からの恵みです。万物の創造主であり支配者である神に向かって、イスラエルの民はまず感謝をささげるのです。また、10節~22節で歌われているのは、神がご自身の民のためになされた救いのみわざ、相続の地を約束どおり与えられた神の真実です。主は、奴隷として虐げられていたイスラエルの民をエジプトの地から脱出させ、荒野の歩みを導き、カナンの地の先住民を退けてくださったのです。そのように自分たちに御目を留め、力強く介入し、苦難の中でもともにおられる主に感謝するのです。23節以降は普遍的な、つまりイスラエルだけでなく、すべての民が心に留めるべき真理のことばです。「私たちが卑しめられたとき…御心に留められた」…人から否定されても主はその痛みを知ってくださる…かけがえのない大切な存在だと言ってくださるのです。「私たちを敵から救い出された」…目に見える敵、その背後にある見えないサタン、すべての人の罪…イスラエルをエジプトの地から救い出されたように、主はそこからすべての者を救い出し解放するのです。「食物を与えられる」…肉の糧とともに霊の糧を与え、ご自身のことばによって人を生かしてくださるのです。「その恵みはとこしえまで」…神の恵みはそのように、時を超え、国を越え、すべての人に及んでいくのです。日々受けている恵みを心から感謝したいと思います。

主の恵みにあずかる人々が増し加えられますように。

◇聖書箇所: 詩篇 135篇◇(9月29日)

「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。」…詩135:4

今日からしばらくの間、また詩篇を読んでいきます。昨日までのエゼキエル書の重苦しさとは打って変わり、秋晴れの輝きを感じさせるような詩人の描写です。「主は…イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた」と4節にありますが、その主は、天と地において、ご自身の望むところをことごとく行われるお方であり、雲を上らせ、いなずまを造り、風を出させる創造主であり、イスラエルはそのお方の主権によって選ばれたのです。特別な者として他から聖別され取り分けられたのです。それはただ、神の一方的な好意、恵みによるのです。そのイスラエルを、主はご自分の宝とされました。宝とは所有者にとって何よりも価値ある大切なものです。大人にはガラクタと思えるものであっても、それを持つ子どもにとってはなくてはならない存在であるのと同様、人間的な基準からすればふさわしくないイスラエルが、神によって選ばれ、ご自身の所有の民とされたのです。高価で尊い存在として愛されているのです(イザヤ43:4)。イスラエルは、そのような取り扱いを受けたにもかかわらず、主に背を向け、身勝手な歩みをし、偶像を慕い求めました。それは、神に選ばれて宝とされたという特別な恵み、神の所有の民であるという自覚を失っていたからです。私たちも神に選ばれた霊的なイスラエルです。神の所有の民とされた者たちなのです(1ペテロ2:9)。世間の目から見ればガラクタにすぎないような私たちを、神は、かけがえのない者として愛してくださっているのです。一人ひとりは主の目に価値のある大切な宝物なのです。そのことを私たちがみことばを通して主から教えられるなら、神の民としてのアイデンティティー(帰属意識)が与えられ、感謝と喜びが朝ごとに心に湧き起こって来るのです。ハレルヤ!と主をほめたたえずにはいられなくなるのです。主によって絶えずそのように新たにされたいと願います。

主の御名が全世界において高くあがめられますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 24章◇(9月28日)

「その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」…エゼキエル24:27

1章から続いていた、エルサレム滅亡の預言の最後の章です。1節にある、第9年の第10の月の10日というのは、ゼデキヤ王の治世において、ネブカデネザル王に率いられたバビロン軍が、エルサレムを包囲した日を指します(2列王25:1)。汚れ、忌むべきもの、情欲、淫行、…と、イスラエルが犯す罪の描写にうんざりしたり、預言の解釈の難しさを覚える書ですが、今日の24:18にもエゼキエルの妻の死があります。主は彼に「嘆くな。…喪に服するな…」と命じました。妻の死の理由は不明です。いずれにしてもそれは、エルサレムの滅亡を示唆しているのであって、エゼキエルが妻の死を嘆き悲しまないことを通して、人々がそのこと自体を嘆くことなく、自分たちの罪と咎を互いに嘆き合い、主に立ち返るためであったのです。エゼキエルはその「しるし」とされたのです(24節)。「その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る」(26節)。「知らせ」とは、エルサレム滅亡という信じがたい事実ですが、それまで誇りとしていた都の崩壊を目の当たりにし、エゼキエルの元で神のことばを告げ知らされるとき、彼らは、神こそ主であることを知るようになるのです。そしてその彼のことばとは、「嘆き悲しまくてもよい」、「主に立ち返り主だけに拠り頼め」、「悲しみの先には回復と祝福がある」というメッセージにほかなりません。私たちも、嘆き悲しむ人々にそのように伝えるなら、ともに主の元にのがれる者とされるのです。そして、悲しみの先にある喜びに預かることができるのです。私たちもエゼキエルのように用いられたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 23章29-49節◇(9月27日)

「あなたは姉の杯、深くて大きい杯を飲み、物笑いとなり、あざけりとなる。この杯はあふれるほどに満ちている。」…エゼキエル23:32

「偶像のために、自分たちの子どもを殺し、その同じ日にわたしの聖所に来て、これを汚した。彼らはなんと、このようなことをわたしの家の中でした」(39節)。オホラとオホリバという名で表わされているサマリヤとエルサレムは、偶像礼拝の淫行をし、自分たちの子どもをその偶像にささげるという実に忌まわしくおぞましいことを、よりによって、神の住まわれる家、神殿にまでやって来て、その中において平然と行ったと言うのです。彼女たちの罪の根深さをあらためてここに見ます。そんな彼女たちを、集団(アッシリアやバビロン)が、石で打ち殺し、剣で切り倒し、家々を焼き払う…と主は告げられました。主を畏れる心が皆無で、聖所を堂々と汚す彼女たちには当然の報いです。しかしそんなみだらな者たちをなおも主はあわれみ、主ご自身がその淫行をやめさせ、主こそ神だと知るようになると約束されました(48-49節)。ここに、彼女たちの罪よりももっと深い主の愛を見るのです。主はオホリバに対して告げられました。「あなたは…杯を飲み、物笑いとなり、あざけりとなる」。33節には「恐怖と荒廃の杯」とあります。主イエスが、十字架に向かわれる前、「この杯をわたしから取りのけてください…」と神に祈られとき、苦しみもだえられ、汗が血のしずくのように落ちました。そして、群衆にあざけられ、つばきされ、物笑いとなり、荒削りの木をかついでゴルゴダに向かわれたのです。それは、主を畏れることなく、神なんか必要ないとして「うしろに投げやった」(35節)全人類の罪を一身に負い、人々が主こそ神だと知るようにするためであったのです。その主の深い愛の中にあることを覚えたいと思います。

主に愛されている喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 23章1-28節◇(9月26日)

「わたしはあなたのみだらな行いと、エジプトの地以来の淫行をやめさせ、あなたが彼らを仰ぎ見ず、もうエジプトを思い出さないようにする。」…エゼキエル23:27

北イスラエル王国と南ユダ王国が、2人の姉妹、オホラとオホリバとしてたとえられ、彼女たちの淫行が生々しく描写されています。口に出して読むのがためらわれるほどです。そしてそれは主ご自身が語られたことばであって、それを読む者はいつの時代にあっても、主の、ご自身の民に対する情熱的な愛とねたみと、自分から離れてしまったことに対する激しい憤りと、取り戻そうとする固い決意をそこから知るのです。また、「彼らは…麗しい若い男たち…」、「一目見ると、彼らを恋い慕い…」、「あなたが彼らを仰ぎ見…」と、彼女たちが、いかに目に見えるものに心奪われ、本来、主だけを慕い求め、仰ぎ見て歩むべきなのに、その主を、若い男、偶像、政治的な同盟という、この世の、人間的なものと置き換えていったのか…主から離れ罪を犯す者の共通点をここに見るのです。27節の主のことば、それは、罪に足を絡め取られ、もはや自分では抜け出せなくなっている彼女たちに、ご自身が介入し、淫行をやめさせる、罪から救い出す、偶像を仰ぎ見ないようにするという決断のことばです。もし主が彼女たちへの愛を完全に失ったのであれば、好きなようにしろ、どこにでも行けと見放したはずです。「わたしはあなたをわたしのねたみとする」などとは、仰せられなかったはずです。ここに私たちは、主の、永遠に変わることのない真実の愛、深いあわれみ、ご自身に立ち返るのを待ち続ける忍耐を知るのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」(2コリント4:18)主イエスは私たちを罪から断ち切ってくださいました。この世の見えるものに心奪われることなく、その見えないキリストを仰ぎ見て生きる者とされたいと心から願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 22章17-31節◇(9月25日)

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」…エゼキエル22:30

23-31節には、エルサレムにいる者たちを非難する主のことばが書かれています。君主たち(「預言者たち」の別訳、脚注参照)は、人々を食い物にして富と宝を奪い取り、祭司たちは、神から授けられた律法を犯して、俗なる汚れたものを聖なる町に持ち込ませ、預言者たちは、むなしい幻とまやかしの占いで、偽りの主のことばを人々に伝えていたのです。一方、主は、そのような堕落しきった町の中に、「破れ口を修理する者」がいないか捜し求めました。それはエルサレムの町、引いては国のために、破れ口に立ち、神への祈りによりとりなす者です。罪に満ちたソドムとゴモラの町を滅ぼさないでと、主に願いとりなしたアブラハムが思い出されます。しかしそのような者は見つからなかったのです。ゆえに主の怒りの火は町に下されてしまうのです。キリストは王として、祭司として、また預言者として、父なる神から油注がれ地上に遣わされたお方です。そしてそのお方が、世の罪による破れ口に立ち、十字架にかかって血を流し、死からよみがえり、破れ口を完全に修理し、ふさいでくださったのです。神の怒りの火が地に下されないよう、人類のため、すべての被造物のためにとりなしてくださったのです。そのキリストによって贖われた私たちもまた、王である祭司とされ、みことばを預かっている者です。聖霊の油注ぎを受けている神の民なのです。主は今も破れ口を修理する者を捜し求めておられます。終わりの日のさばきが来る前に人々が救われるよう、祈り、とりなし、神の福音を伝えていきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 21章18-32節◇(9月23日)

「彼らがあなたにむなしい幻を見せ、あなたにまやかしの占いをするとき、その剣は汚れた悪者どもの首に当てられ、彼らの日、最後の刑罰の時が来る。」…エゼキエル21:29

28-32節に書かれているのは、アモン人に対する主のさばきです。アモン人とはアブラハムのおいロトの子孫であり、イスラエルの民とは血縁関係にありました。その彼らの「そしり」のゆえに、剣が抜かれ、激しい怒りの火が吹き付けられると言うのです。その「そしり」の意味が29節に書かれています。彼らが「あなた」、つまり、ユダ・イスラエルの民に、むなしい幻を見せ、まやかしの占いをしたゆえに、「最後の刑罰の時」を迎えることになるのです。彼らもまた、不品行と偶像礼拝の中にあり、まことの神ではない彼らの神に頼っていましたが、彼らは、近しい関係にあるイスラエルの民に対して、「むなしい幻」…つまり、偽りの幸福や繁栄を、その神がもたらしてくれると思わせていたのです。また、何をすべきか、どの道を進むべきかについて、「まやかしの占い」によって決めるあり方を、イスラエルの民にそそのかしていたのです。そのような誘惑によって民を神から引き離そうとする…それは、神に敵対する存在、サタンの常套手段です。「神のように知恵を持つことができるようになる…」と、「むなしい幻」でエバが誘惑されたことを思い出します。そのサタンは、今も人々にむなしい幻を見させ、まやかしの占いに興味を持たせ、そそのかしています。それは人々を神から引き離そうとするわなであり、言うまでもなくそのようなものに憧れ、信じても、人は、真の祝福と喜びにあずかることはできないのです。私たちが進むべき道はみことばによって示されており、主イエスこそが道であり、真理であり、いのちなのです。この世にあっても、サタンに惑わされないように、絶えず主イエスから目を離さずにいたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 21章1-17節◇(9月22日)

「人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。」…エゼキエル21:6

「彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け」と、主はエゼキエルに命じられました。それは、「なぜあなたは嘆くのか」と人々が尋ね、「この知らせのためだ」と、バビロンを通してなされる主のさばきが来ることを警告するためです。「今、それが来る、それは実現する」と告げ知らせ、切迫感をもって人々が受け取るようにするためです。そのように全身で激しく嘆かないと気づかないほど、人々の霊的な感受性が鈍くなっていたからです。私たち一人ひとりもまた、「預言者」とされています。神のことば、使信を預かり、人々に伝える者として、主によってこの時代に生かされ置かれているのです。主イエスの再臨、終わりの日は必ずやって来ます。その時、主を信じる者は永遠に生きる者として完成され、そうでない者は永遠の滅びに入れられてしまうのです。人々が聞きたがらない、話しづらいと思えるそのことも、確かに起こることとして、伝えなければならないのです。もし、私たちのうちにそのような思いがないとしたら、自分自身の救いだけで満足しているのかもしれません。あるいは、終わりの日が必ず来るという主の使信を、まだ遠い先のこととして受けとめているのかもしれません。そうでないとしたら私たちは、エゼキエルのように、人々の前でもっと激しく嘆き、使命感を持つはずなのです。同時に、すでに主の救いにあずかっている私たちは、そのことを人々の前でもっと激しく喜ぶ者でもあります。キリストにあって、神に愛され、赦され、神の子どもとされ、神の国の豊かな祝福にあずかっているその喜びは、内に留めておけないほどの豊かなものであるからです。人々は、私たちからあふれ出るその喜びを見て、「なぜあなたはそんなに喜ぶのか…」と尋ねるのです。さばきと救い、嘆きと喜び、その両方を伝える者として、神から受けているものを、もっと外に現したいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 20章27-49節◇(9月21日)

「その所で、わたしは彼らを喜んで受け入れ、その所で、あなたがたのすべての聖なる物とともに、あなたがたの奉納物と最上のささげ物を求める。」…エゼキエル20:40

20章の後半には回復のことばが語られています。33~38節を見ると、「力強い手と伸ばした腕」、「エジプトの地」、「寄留している地から連れ出す」とあり、エジプトで苦しんでいたイスラエルの民が連れ出され、約束の地カナンに入った出来事が思い出されます。そしてそれは、エゼキエルの時代のバビロン捕囚が、神に背いて偶像を慕った民への主のさばきであり、しかし、民がエジプトから脱出することができたように、主の愛とあわれみによってバビロンから連れ出され、ユダのエルサレムの地に戻ることができるという、主ご自身がなされる救いと回復のみわざなのです。39~44節ではより明確にそのことが語られています。「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上」、「その所」とは、直接的にはエルサレムのことですが、神殿=主の臨在=主ご自身をも示唆しています。神に背を向け、敵に捕まり虐げられていた者たちを、主があわれみ、そこから連れ出してご自身の元に戻し、「なだめのかおり」(41節)として喜んで受け入れられる…それは驚くべき、主の救い、回復の約束のことばです。そしてそのようなあり得ない取扱いを主から受けるとき、ようやく、「自分たちの行ったすべての悪のために、自分自身をいとうように」(43節)なるのです。つまり、自らの罪と汚れを思い知らされ、主の前に恥じるのです。そしてそのような者を愛し受け入れてくださるお方こそ、まことの神であることを知るというのです(44節)。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)。私たちもまた、あり得ない主の取扱いを受けた者です。主に出会い、自らを恥じ、主に立ち返った者たちです。救いと回復は常に主の主導によって進められるのです。その主は、人々を連れ戻すために今も働いておられるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 20章1-26節◇(9月20日)

「わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。」…エゼキエル20:11

20章は主に背き続けたイスラエルの歴史です。「わたしは…した」、「なのにイスラエルの家は…」、「しかし、わたしは…」、「だが、わたしは…」と、イスラエルが主の恵みをないがしろにし、与えられたおきてに従わないにもかかわらず、主は彼らへの怒りとさばきを何度も思いとどめ、ご自身の名を汚すことがないようにされました。すなわち、ご自身が結ばれた契約を守り通す、真実とあわれみの神であることを示されたのです。主は、おきてを与えた目的を明らかにしています。「それを実行すれば生きることの(が)できる」…と。それは、民をロボットのように自由自在に制御し、ご自分の意のままに動かすためではなく、一人ひとりを「生きる者」とするためなのです。その定めがなければ、人が自分の考え、感情、欲求に従い、そのおもむくままに歩もうとするなら、そこには神が意図された「いのち」はないのです。そこには混乱や対立や空しさが生じるのです。そしてそれらの究極にあるのは「死」なのです。「生きることのできる定め」…それは、預言者を通し、神の啓示であるキリストの生涯とことばを通し、聖書のみことばとして私たちに与えられています。キリストを信じて明け渡すことが求められています。キリストに従う歩みは決して窮屈ではありません。それは私たちを真に自由にするのです(ヨハネ8:36)。試練や苦難のただ中に置かれていても、「主がともにおられる、御手の中で守られている」と、主にある平安と希望と確信を与えられる者こそ、本当の意味で「生きる者」なのです。主に「生かされる」喜びのうちに歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 19章◇(9月19日)

「しかし、それは憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。」…エゼキエル19:12

19章はイスラエルの君主たちのための哀歌、悲しみの歌です。その中で、たとえを用いて、そのときすでに起こっていたことと、その後に起ころうとしていたことの預言が語られています。1-9節の雌獅子は南ユダ王国、雄獅子はバビロン、エジプト、その他の周辺諸国、子獅子はエジプトに連行されたエホヤハズ王、後の子獅子はバビロンに捕らえ移されたエホヤキン王だとされています。また、10-14節の母・ぶどうの木は南ユダ王国、枝は王家、強い枝はゼデキヤ王、そして、東風はバビロンだとされています。19章全体から私たちが汲み取るべきメッセージ…それは、神を第一とせず、人間的なものに拠り頼む、そのような、神の御旨に反した国家や君主(王)は、主が遣わした諸国により退けられるということです。それは歴史を貫く、厳然たる神の御旨です。一方で、主の愛とあわれみにより国や民が顧みられ、主に立ち返るようになり、贖われ、回復されていく…それもまた、神が持つ変わらないみこころであり、今もなお、なされ続けている救いのみわざであり、神が一方的に結ばれた契約の真実な履行なのです。引き抜かれ、焼き尽くされ、死に絶えた木のようなイスラエル…やがてその根株から新芽が生え、若枝が出て実を結ぶようになる…それが、イスラエルだけでなく全世界を救うために来られたイエス・キリストであり、そのお方に贖われた私たちは、まことの王が治める神の国の民とされているのです。永遠に続く御国の祝福を伝える者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 18章19-32節◇(9月18日)

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。 -神である主の御告げ- だから、悔い改めて、生きよ。」…エゼキエル18:32

イスラエルの人々は、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」ということわざを、しばしば口に出していましたが、その意味は、親が主の前に犯した罪や咎が、子にまで及ぶ、つまり、血のつながりがあるゆえに、子がその責任を問われるのは免れないということです。しかし主は、そのような考えを否定してこう言われました。「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない」(20節)。そして、たとえ人が罪を犯したとしても、主に立ち返り、主の教えを守り行うようになるなら、必ず生きる、死ぬことはないと言われたのです(21節)。さらに主は、ご自身の思いを語られました。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ」。それは、世の初めから今に至るまで、そしてこれから先も、人類に対する、変わることのない神の尊い御思いです。またそれは、イスラエルの民に対してだけではなく、すべての人に対する愛といつくしみに満ちたことばです。主のさばきによって滅ぼされた者たちは確かにいました。しかし神は痛みと悲しみをもってそれを断行されたのです。私たちは、最初の人アダムの罪と無関係ではありません。しかしそれは、自動的に罪に定められるということではなく、主が語られたように、神が定めたすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、「生きる者」とされるのです。しかし、私たちには罪の性質があるのでそうできない…だからこそ、キリストは父の御旨に従って十字架にかかり、律法を成就し、罪の連鎖を断ち切ってくださったのです。私たちはこのキリストにあって主の前に罪なき者とされ、「新しい心と新しい霊」を得て(31節)生きる者とされるのです。「悔い改めて(主に立ち返って)生きよ」という主のことばに、しっかりと立ち続ける者でありたいと願います。

主の恵みと平安が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 17章◇(9月16日)

「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行う。」…エゼキエル17:24

2~10節は主が語られたたとえですが、11~21節にその意味が解き明かされています。最初の大鷲はバビロン(ネブカデネザル王)、杉のこずえはダビデの子孫、若枝の先はバビロン(「商人の町」)に連れて行かれた南ユダのエホヤキン王だとされています。また、よくはびこるぶどうの木とは、バビロンの支配下でユダの王とされたゼデキヤで、彼はネブカデネザル王に反旗をひるがえし、別の大鷲であるエジプトに助けを求めたのです。しかしそれは人間的なはかりごとであって、主はエルサレムをバビロンの手によってさばき、完全に破壊することをみこころとしていたのです。「それは枯れる」と主が言われたとおりなのです。しかし、続く22~24節は、そのようなイスラエル、ひいては世界の回復の預言です。主は、杉のこずえ、ダビデの子孫のうちから、柔らかい若枝の先を取り、イスラエルの山に植え、それは枝を張り、実を結び、みごとな杉の木となる…と言われました。その下にはあらゆる種類の鳥が住みつくのです。その杉の木とは、全人類の救い主となられたキリストにほかなりません。神の救いは、キリストの贖いによって、イスラエルから、異邦人である私たちにまで及ぶこととなったのです。高い木が低くされ、逆に、低い木が高くされる…それは、選民意識から抜け出せなかったイスラエルと、彼らにさげすまれていた異邦人を暗示していますが、それは、一人ひとりにあてはまる真理でもあります。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)。主の前にへりくだる者こそが、芽を出し、実を結び、神の祝福にあずかるのです。主の栄光を現すのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 16章44-63節◇(9月15日)

「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。」…エゼキエル16:60

ソドムの町は、天からの硫黄の火によって滅ぼされたことで知られていますが(創世記19章)、それはその住民が、「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」(ユダ1:7)ゆえの、主のさばきでした。また、サマリヤの町はかつて北イスラエル国の首都で、バアルのような偶像の神に仕えた王と民のゆえに、アッシリヤによって滅ぼされることとなりましたが、それもまた、その罪ゆえの主の取扱いであったのです。しかし主は、エルサレムに対してこう言われました。「あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった」(48節)。「サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった」(51節)。ソドムやサマリヤのほうが、まだましだと言うのです。いかにエルサレムの罪が重く、神をひどく悲しませ憤らせたかがあらためてわかります。そして主は、なんと、そのソドムとサマリヤの繁栄を元どおりにする(2版では「捕らわれ人を帰らせる」)と言われました(53節)。さらに主は、驚くべきことに、ご自身の御旨にちっとも従おうとしないイスラエルに、アブラハムやモーセと結んだ契約を忘れることなく、新たに、とこしえの契約を立てると言われたのです。そしてそれは、最初の契約に含まれていなかった、ソドムとサマリヤにさえも好意を表わすことによって、いかに自分が愚かで罪深いものであったか、そして、ただ主の愛とあわれみによって滅ぼされずにいるということを、イスラエルが思い知るためであったのです。主が結ばれる契約は、人間社会の契約とは異なり、双方の協議と合意により決まるものではありません。それは主が一方的に決められ結ばれるものなのです。私たちが分不相応のその契約の当事者とされるとき、私たちもまた主の愛とあわれみ、自らの罪深さを知り、主に立ち返る者とされるのです。キリストの血による新しい契約に、異邦人である私たちが加えられていることを、あらためて主に感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 16章30-43節◇(9月14日)

「わたしは、あなたに対するわたしの憤りを静め、わたしのねたみをあなたから遠のける。わたしは心を休め、二度と怒るまい。」…エゼキエル16:42

エルサレムの姦淫に対する主のことばは続きます。諸国の者たちと姦淫を重ねても飽き足らず、欲情が収まることのないエルサレムに向かい、あなたはほかの遊女とは違うと指摘しています。すなわち、遊女は相手から報酬を受け取るのに、エルサレムは、逆に持参金を愛人たちに与え、贈り物さえして自分のところに来させ、そこで姦淫を行ったのだと断じているのです。それは、あからさまで破廉恥な行為であって、エルサレムを愛する神の心を踏みにじるものでした。主は、そのような彼女(エルサレム)をさばくために、彼女に関わった者たちを四方から集め、彼女の裸を彼らの目にさらけ出すようにする…すなわち、彼らが町のさまざまな美しいものを奪い、はぎ取り、まる裸になるようにする…、そしてさらに、彼女が彼らに襲われ、石で打ち殺され、剣で切り倒されるようにする、と言われたのです。それは彼女への神のねたみと憤りのゆえでした。しかしその主は、なおも愛とあわれみの心を持ち、そのことを経て彼女をご自身に立ち返らせ、回復させ、親密な関係を取り戻そうとしておられたのです(42節)。それは、人間同士では到底あり得ないことです。神の愛、それは、愛されるのに値しない者を愛し、相手からも愛されることを、報いを求めようとしない、無償の愛、ささげる愛、犠牲を伴った愛です。私たちは、あからさまに姦淫(偶像礼拝)の罪を犯していなかったかもしれません。しかし、神に背を向け、自己中心の歩みをしていたのです。けれでも、そんな私たちをも、神は愛し、あわれみ、御子イエス・キリストの贖いにより私たちと和解し、親密な関係を取り戻してくださったのです。その愛は、今もイスラエルの民に、すべての国の民の上に注がれているのです。

愛されている者の喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 16章1-29節◇(9月13日)

「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。」…エゼキエル16:6

16章には、神がどんな思いでエルサレムを見られ、取り扱われ、いとおしいものとされていったのか…そしてそのエルサレムが行った「姦淫」が、どれほど神を悲しませ怒りを引き起こしたのか…それらが生々しい描写をもって語られています。それは、人々が行っている主の忌みきらうべきこと、すなわち偶像礼拝が、いかに神の御旨に反したことであるかを、思い知らせるためだったのです。主は、かつて血の中でもがくエルサレムを見て、「生きよ」と繰り返して語った、と言われました(6節)。それは傷を負って痛み苦しんでいたエルサレムが、主によって回復されたということを意味しています。カナンの地は乳と蜜の流れる肥沃な土地であり、それを奪おうとして諸国は繰り返し蹂躙しましたが、そこは、主がイスラエルの民のために備えられた約束の地であり、エレサレムはその中心の町として、愛され、育てられ、着飾られ、繁栄していたのです。「あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。」と主は言われました(13節)。ところが「彼女」(エルサレム)はそのことを忘れ、自らの美しさや名声を「自分のもの」として悪用し、神以外の者たちに心を寄せて身を任せ、姦淫の罪を犯したのです。住民たちは偶像の前に、本来は主にささげるべき油と香をささげ、自分の息子や娘たちさえもいけにえとしてささげていました。それは実に嘆かわしくおぞましい行為だったのです。私たちもまた、サタンにより人生を蹂躙された者です。さまざまなことで傷つき、痛み、もがき苦しんでいました。しかし主はそんな私たちに目を留め、「生きよ」と励まし、キリストにある救いにあずからせてくださったのです。またキリストの花嫁として、教会を、ひとり一人を愛し、金銀ではなく御霊の賜物によってうるわしく着飾り、主とともに永遠に生きる者としてくださっているのです。その主に心からの感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 15章◇(9月12日)

「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。」…エゼキエル15:2

エゼキエルにあった主のことばにおいて、ぶどうの木が火に投げ入れられるとの預言が語られています。そのぶどうの木とは、聖書の中の他の箇所にも出て来ますが、いうまでもなくイスラエルの民のことです。ぶどうの木がほかの木とは異なるゆえん、それはその枝にぶどうの実がなるからです。みずみずしく甘い果実をたわわに実らせる…その実からさらに芳醇なぶどう酒が作られる…私たちはそのようにぶどうの木に期待しますが、主は私たち以上にそれを待ち望んでいるのです。イザヤ書5章4節、6節にはこう書かれています。「なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか…わたしは、これを滅びるままにしておく」(一部抜粋)。期待が大きければ失望もまた大きいのです。「それが完全なときでも、何も作れないのに」とエゼキエル書15章5節にありますが、ぶどうはつる性を持ち、幹が細くねじれていて、他の木のように何かを作るには不適なのです。実を結ばない、期待はずれのぶどうの木は、たきぎとして火に投げ入れるしかないのです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)。主イエスはご自分がぶどうの木だと言われました。枝である私たちがその木にしっかりとつながるなら、役立たずとして火にくべられることはないのです。豊かに実を結び主を喜ばせる者とされるのです。主の栄光を現す者として尊く用いられるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 14章◇(9月11日)

「見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。あなたがたは彼らの行いとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。」…エゼキエル14:22

前の13章に、偽預言者が登場しています。彼らはまやかしの占いをし、平安だとうそぶき、エルサレムの住民を惑わしていたのです。そして、願い事を持ってエゼキエルの前に座った長老たちを、主は、偶像を心の中に秘めている者、と言われました。神以外のものを慕いそれに拠り頼んでいるその心が、偶像にほかならないのだと、主は言われたのです。主はイスラエルの人々にあらためて命じられました。「悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ」(6節)。形あるものだけでなく、心の中の偶像もすべて捨て、ご自身に立ち返ることを、主は民に求められたのです。そして、それでも罪を犯し続けるなら、剣とききんと悪い獣と疫病によって滅ぼす…たとえ義人がいても、自分の子どもは救え出せない…と警告されたのです。しかし、その後にある主のことばは驚くべきものです。そのようなさばきをのがれた者が息子や娘を連れ出し、バビロンにいるエゼキエルのところに来ると言うのです。それは、その者もその子どもたちも偶像を慕い求めず、義とされ、助け出され、生きる者とされということです。そして、バビロンにいる捕囚の民が、彼らを通して、エルサレムに起こった事を覚え、主を畏れ、神がなさる救いに希望と慰めを見いだすということです。私たちもまた、主に立ち返って救いにあずかった者です。神のさばきがあることを教えられ知っている者です。そのさばきはまだ起こってはいません。しかしそれは、主が、残りの人々がご自身に立ち返るようになるのを、忍耐とあわれみをもって待っておられるからなのです。のがれた者、義とされた者として、私たちも出て行って、キリストにある神の救いを人々に伝えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 12章◇(9月9日)

「彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたからだ。」…エゼキエル12:6

主は、エゼキエルに、あなたは反逆の家の中に住んでいる、と言われましたが(2節)、反逆の家とは、神にそむいたイスラエルの民であり、彼らの中に、預言者としてエゼキエルを遣わすことが、主のみこころ、ご計画であったのです(2:3参照)。そして主は、彼らは見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしないと言われました。そのすぐ後に主がエゼキエルに命じられたのは、捕囚として移されるのを「演じろ」ということでした。その姿を民が見ることによって、主は、ご自身が示すことを見ようとしない、閉ざされている彼らの霊の目が開かれて、民がご自身に立ち返るようにと、あわれみをもって、そのように仕向けたのです。3~7節に「彼らの見ている前で」ということばが繰り返され、強調されていることに心に留まります。エゼキエルは、主から具体的に命じられたとおり、自分の荷物を昼のうちに整えて持ち出し、夕方になると壁に穴を開けてそこから外に出て、暗いうちに顔をおおって移される者を「演じ」ました。それはすなわち「反面教師」としての証しであって、エゼキエルは、主によってイスラエルのためのしるしとされたのです。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません」(マタイ5:14-15)。主イエスも弟子たちに、あなたがたはやみの中に輝く世の光なのだ、人々がその良い行いを見て、天におられる父をあがめるようにしなさい、と言われました。主に贖われた私たちは捕囚を演じるのではありません。罪から解放され救われた喜びを実際に表すのです。主に拠り頼んで生きることのすばらしさを証しするのです。そして人々はその歩みに現される主のみわざを目撃し、神をあがめ、神を求めるようになっていくのです。主はそのようにして私たちを尊く用いてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 11章◇(9月8日)

「…またイスラエルの全家のすべての者に対して、エルサレムの住民は、『主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ』と言った。…エゼキエル11:15

バビロンによる攻撃と捕囚を経てもなお、エルサレムに残り住みついていた民は、神のあわれみによって守られたことを忘れて、主が忌みきらうべきことを行っていました。この地、この町は自分たちの所有のものだ、そこで自分たちが好きなようにやって何が悪い、そのことを咎めて止めようとする神は邪魔だ、主から遠く離れよ、そのことばに耳を貸すな…罪深い彼らは、そのように考えていたのです。一方で彼らは、敵の存在に不安を覚えていました。けれども、このエルサレムは、まるでなべのように、城壁に囲まれた難攻不落な町であって、自分たちはその中にある大切な肉のようにして守られている、だから敵は襲うことができないと、たかをくくっていたのです。楽観視していたのです。そんな民に対して主は、「この町はあなたがたにとってなべとはならず、あなたがたはその中の肉とはならない」と、エゼキエルを通して告げられました。しかし主は、さらなるご計画を持っておられました。そのようなエルサレムの住民が剣に倒れ、残りの者が異邦の民の中へ捕らえ移され、エルサレムの町が完全に破壊され焼かれるようにし、そこにあった忌むべきものを取り除こうとされたのです。そして、ご自身のみこころにかなう者たちを連れ戻し、彼らに新しい霊、主に従う柔らかい肉の心を与えると、そのような約束のことばをエゼキエルに与えたのです。「世界とそれに満ちるものはわたしのもの…」(詩50:12)。土地や家、お金、地位、私たちの人生も、主のものです。それは主から与えられ、委ねられているのです。それを自分の思い通りにしようとするのは傲慢です。また、自分は敵にやられないと考えるのは高慢です。あわれみによって神の御前に連れ戻された者として、柔らかい肉の心でへりくだり、主に従いたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 10章◇(9月7日)

「主は亜麻布の衣を着た者に命じて言われた。『ケルブの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを町の上にまき散らせ。』すると、この人は私の目の前でそこに入って行った。」…エゼキエル10:2

主は、亜麻布の衣を着た者に、炭火を町の上にまき散らせ、と命じられました。それは、主が、忌みきらうべきことを行っているエルサレムの町にさばきをくだすため、火によって焼き尽くすということを意味しています。それが実際に起こるのはまだ先のことですが、主はそれをエゼキエルに幻として見せられたのです。その亜麻布の衣を着た者は、9章では、「腰に書記の筆入れをつけ」と描写されていましたが、10章ではそれが書かれていません。それは、繰り返すとくどくなるため省略をしたからではなく、忌みきらうべきことのために嘆き悲しむ人々の額にしるしをつける用途にその筆入れが用いられ、その作業が完了したのではずされたからです。したがって、炭火が町の上にまき散らされたとしても、すでに額にしるしがつけられている人々、すなわち、主を頼りとする、神のみこころにかなった者たちは、燃えさかる火から守られ、焼き尽くされないのです。ダニエル3:27には、ハナヌヤ(シャデラク)たち3人が、火の燃える炉に投げ込まれても、火はききめがなく、頭の毛も焦げず、火のにおいもしなかったとあります。また、主がもたらす火は、ご自身の民をへりくだらせ、不義を取り除き、練りきよめるためのものでもあります。祭壇の上の燃えさかる炭を手にしたセラフィムは、イザヤのくちびるに触れてこう告げました(イザ6:7)。「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」。私たちにとっての火は終わりの日の神のさばきです。また、日々与えられる試練や、耳痛いみことばです。それを決して恐れたり怪しむ必要はありませんが、真摯に受けとめて、絶えず主に立ち返るべきなのです。主はそのことを求めておられ、それを喜ばれるのです。

確かな主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 9章◇(9月6日)

「主は彼にこう仰せられた。『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』」…エゼキエル9:4

エゼキエルの見た幻の描写は続きます。腰に筆入れをつけ亜麻布の衣を着た人と、6人の男たちに対して主は命じられました。エルサレムの町の住民を殺して滅ぼせ…と。そして実際にその殺害が実行され始めると、エゼキエルはたまらずにとりなしましたが、主は、ご自身を否んで背いた罪は大きい、わたしは民をあわれまないと言われたのです。しかしそれは、「主はこの国を見捨てられた、主は見ておられない」と言った者たちにであり、町で行われていることに嘆き悲しむ者たち、偶像ではなく、まことの神を信じて頼みとし、そのことばに聞き従う者たちを主はあわれみ、腰に筆入れをつけ亜麻布の衣を着た者に命じて、彼らの額にしるしをつけさせ、6人の男たちが、その者たちに近づかないようにされたのです。このことはエジプト脱出のときの過越の出来事、小羊の血が門柱に塗られたイスラエルの家を、主のさばきが過ぎ越したことを想起させますが、主はご自分と心が一つである者たちを覚え、その額にしるしをつけさせ、ご自身の民として、取り分けられたのです。生かされたのです。血筋による民がイスラエルの民なのではなく、まことの神を信じ従う者が真の神の民なのです。「また小羊とともに14万4千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」(黙14:1)。私たちもそのように、キリストの名が額にしるされた神の民です。罪を取り除く神の小羊の血による贖いを信じて、真のイスラエルとされた者たちなのです。主の心を自らの心とする者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 8章◇(9月5日)

「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」…エゼキエル8:12

エゼキエルは主から、幻を見せられました。それは、エルサレムの神殿においてなされている、忌みきらうべき偶像礼拝の様子でした。そこでは、イスラエルの家の70人の長老や、主の宮の内庭にいる祭司と思われる25人の者など、本来、民を霊的に指導するべき者たちがそれぞれ、香を焚いたり、太陽を拝んだりしていたのです。主はエゼキエルに対して繰り返し、そのありさまを、「見よ、…見えるか、…見たか、…」と言われました。そこまで堕落している状況を彼に示されたのです。その70人の長老たちはこう言っていました。「主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」。だからその代わりに、別の「神」を自分たちで造り、あるいは「神」に仕立て上げ、拝んでいるのだと…。しかしその彼らの言い分は、実際には逆なのです。その偶像礼拝が行われていたのは「暗い所」でしたが、彼ら自身が、主から見られないようにしたのです。自分たちのうちを照らす光を遮ろうとしたのです。長老たちは主の宮の本堂に背を向けていましたが、彼ら自身が、要らない…と、主を捨て去ったのです。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)。「わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない」(イザ41:17)。主は私たちにいつも目を留めておられるのです。主は私たちを見捨てず、見放さず、導き続けるのです。その中で私たちは主からの真実な取扱いを受けます。それは必ずしも喜ばしいものとは限りません。しかし光に照らされることを拒んで遮ろうとするなら、自分たちにとって快適なものだけを追い求めるなら、その本質は偶像を礼拝する者と変わらないのです。何よりも主の御旨を求め、従う者でありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 7章◇(9月4日)

「銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。それらは彼らの飢えを飽き足らせることも、彼らの腹を満たすこともできない。それらが彼らを不義に引き込んだからだ。」…エゼキエル7:19

「わざわいが来る…終わりが来る…忌みきらうべきわざに報いをする…」と、主はご自身が行うさばきの宣告をしています。それは、6章にあるように、イスラエルの民が、高い山の上や茂った木の下に祭壇を築き、そこで彼らが造った偶像の神を慕い、礼拝し、それに頼って生きようとしていたからです。主は、そのような彼らの姦淫の心と目を打ち砕くと言われましたが(6:9)、偶像の神を慕うことは、主が注がれる愛を踏みにじる行為なのです。主は、「銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない」と言われましたが、それは、金や銀で造られた偶像を意味しています。金銀は今と変わらず高価なものでしたが、彼らは、金銀=信頼に値するもの=神となるにふさわしい…という誤った考えに陥り、見えない神にではなく、目に見えるその偶像に心奪われていったのです。シナイ山のふもとで、アロンが民に求められて造った子牛の偶像の神も、民の金の耳輪が材料でした。金銀自体は決して忌むべきものではありません。しかし、唯一まことの神である主に頼ろうとせず、それらの価値を誤解し、自分たちを助けてくれる…とするなら、それは偶像の神となってしまうのです。ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と、足なえの人に告げました。そしてイエス・キリストの名によって立たせたのです。私たちが頼るべきはお金や財産ではありません。主を差し置いてそれらに頼って生きようとしても、もの言えない偶像の神は私たちを救えないのです。目には見えなくても、確かに生きておられるお方、いのちを捨てるまでに私たちを愛しておられる主に、ひたすら拠り頼んで歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 5章◇(9月2日)

「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。」…エゼキエル5:13

主はエゼキエルにまた命じられました。頭の毛とひげをそり、それを3等分にし、それぞれ、町の中で焼き、町の回りで剣で打ち、風に吹き散らすよう、彼に求めたのです。それは預言的な行動であり、その毛はエルサレムに住む人々を象徴していました。その後、主は、エルサレムへのご自身のさばきを告げられました。彼らが諸国の民より悪事を働き、ご自身のおきてに従って歩まなかったからです。具体的には、敵であるバビロンに完全に包囲され、食糧の供給経路が断たれるため食物が底をつき、肉親の者を食べるというおぞましい出来事です。そして、エゼキエルに命じた象徴的行為のとおり、疫病やききんで滅び、敵の剣に倒れ、四方に散らされる者が3分の1ずつ起こるということです。それは主ご自身が怒りをもってなされることであり、生き延びた民は、そのときになってようやく、主がずっと熱心に語って来たことを思い出しました。自分たちの行った忌みきらうべきことのために、主がさばきをなされたということを知ったのです。しかし、事が起こってからでは遅いのです。主がみことばを与え、預言者を通して語られたことを、どうせ起こりやしない…と、高をくくって聞き流す…そのような傲慢でかたくなな者は滅びてしまうのです。しかし主の前にへりくだり、み教えに聞き従うなら、神のいのちと祝福にあずかる者とされるのです。主は今も、私たちに対して熱心に語っておられます。その御声をしっかりと聴く者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: エゼキエル書 4章◇(9月1日)

「あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。」…エゼキエル4:4

主はエゼキエルに対し奇妙なことを命じました。粘土板にエルサレムの町の姿を彫りつけ、包囲し、塁を築き、陣営を設けるようにと…また、鉄の平なべを彼と町(粘土板)との間に置き、それを攻め囲めと…。さらにエゼキエル自身には、左わきを下にして390日、右わきを下にして40日、なわをかけた状態で横たわらせたのです。また飲食についても一日一回と制限され、食物は牛の糞で焼かれたパンとされたのです。それはエゼキエルが主から受けた「疑似体験」です。実際にバビロンによりエルサレムの町は包囲され、食糧と水が乏しくなり、人々は飢えと渇きに苦しみ、汚れた異邦人により聖なる都は蹂躙されるのです。また北イスラエルと南ユダの国家が持っていた咎を、その年数分の日数だけエゼキエルに負わせるべく、主は彼になわをかけて横たわらせたのです。1年以上そのような「仕打ち」にあったエゼキエル…寝返りも打てないつらい状況の中で、彼は、自分が代りに負わされた咎の大きさを痛感したことでしょう。そして以前よりもっと大きな切迫感と使命感をもって、また神ご自身の愛とあわれみの心を持つ者として、人々に悔い改めを迫ったに違いないのです。キリストはすべての人の咎を代わりに負われました。神から見捨てられるという壮絶な苦しみを十字架の上で味わわれました。そのキリストこそ、私たちが抱えている罪、人生で味わう痛みと苦しみを、真に理解し、慰め、それを負ってくださる方なのです。そして、試練を通してその恵みにあずかった私たちは、エゼキエルのように確信と使命感とあわれみをもって、神の愛と救いのすばらしさを伝える者とされるのです。

すべてを益としてくださる主の祝福がありますように。