◇聖書箇所: 詩篇 2篇◇(1月31日)

「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。…幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」…詩篇2:11-12(抜粋)

この2篇は、終末の内容を含む預言的な詩篇です。1-3節には、主と主に油注がれた者に逆らう、国々の民や地の王たちのことが記されています。油を注がれた者とはメシア=救い主のことですが、人々は神が地上に送られた救い主を拒み、主の教えに聞き従って歩むことが「かせ」や「綱」、つまり自分たちの自由が束縛されることだと考えて、それらを打ち砕き、解き捨てようとしたのです。主は「十字架につけろ」と人々から拒まれましたが、後に起こるそのことがここに暗示されているのです。4-6節には、その者たちに対する神の反応とことばが書かれています。主は笑い、あざけり、燃える怒りで彼らを恐れおののかせるのです。なぜなら、「わたし」、「わたし」…と繰り返されているように、主がご自身のみこころにかなう王を自ら立てられ、聖なる山シオン、エルサレムに進ませるのに、地の王たちや民衆が受け入れようとせず、神の絶対的な主権を認めようとしないからです。そしてそれは人間の自己中心、罪深さのゆえなのです。しかしその油注がれた王は、「鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々に」されるとあります(9節)。「彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める」とヨハネの黙示録に書かれていますが(2:27)、それはイエス・キリストによって実現するのです。また「打ち砕き」と訳されていますが、その元のことばは、「牧し」とも訳すことができます(2017訳)。「この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される」(黙19:15)とあるとおりです。主イエスは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われました(ヨハネ10:11)。畏れつつ、そのまことの羊飼いである主に仕える者、また、王なる御子の主権を認め、その足に口づけするようにしてへりくだって歩む者こそ、主に身を避けることができる、終わりの日に主の怒りから守られる、幸いな者なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 1篇◇(1月30日)

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」…詩篇1:1

「幸いなことよ」ということばで始まる詩篇1篇の前半は、「何をしても栄える」、神に祝福された人の描写です。「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かなかった」と、神のみこころにかなう正しい者、義なる者とされた人の姿がここにあります。一方、「悪者はそれとは違い」という書き出しの後半は、「正しい者のつどいに立てない」悪しき者について、正しい人とは非常に対照的に描かれています。では私たちは、いったいどちらに属しているのでしょうか…。あなたは正しい人なのか…という御声が聞こえてきます。また、「その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」という2節のみことばを、これまで、主の教えを守り行う「ならば」、実をならせることができる、神から祝福を受けることが「できるようになる」という、あまりにも単純化された律法主義的な見方でしか、とらえていなかったということに気づかされるのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ3:23-24)。罪人の道に立たない人など一人もいません。そこに立ち得るのは、罪のないお方、キリストだけなのです。その神が人となって人類の罪を背負うために十字架にかかり、死からよみがえられたことを信じるその信仰によってこそ、私たち罪人は主の前に正しい者とされるのです。メシアへの信仰による義は、この詩篇においても暗示されているのです。主に贖われた者は、主の教えを喜びとする者に変えられます。そして、実を結び、主の栄光を現す器として用いられるのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」とあるとおり(ロマ11:36)、あくまで主導権は神にあるのです。人間の努力の結果として繁栄と祝福がもたらされるのではなく、それらは、神の恵みとして与えられるものであるのです。神のわざを人のわざで置き換えないよう注意したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コロサイ人への手紙 4章(1月29日)

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」…コロサイ4:2

パウロは、手紙を書き終えるのにあたって、祈りの大切さをあらためて伝えようとしています。2節は、元のギリシャ語聖書での語順によれば、「たゆみなく祈りなさい、目をさましていなさい、感謝をもって」となります。そして、「たゆみなく祈りなさい」と訳されている箇所を直訳すれば、「祈りから離れないでいなさい、祈りに固着しなさい」という意味になります。また「たゆむ」は「弛む」と書き、気がゆるむ、油断するということを意味することばです。パウロはどんなときにも油断せず、またあきらめずに、しがみつくようにして祈り続けなさいと言っているのです。そのパウロは、テサロニケの教会の人々に対しても、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。…」と言っていますが、絶えず祈るとは言うまでもなく、四六時中祈っていなさいということではありません。私たちはともすれば、こんな小さなことは祈らなくても…と考えてしまいますが、すべてにおいて主に拠り頼む、主によらなければ何もできないというへりくだりの心で、主よ助けてください…という思いを持ち続けることなのです。「キリストの奥義を語れるように、祈ってください」(3節)、「はっきり語れるように祈ってください」(4節)と、伝道者パウロが、離れたところにいるコロサイ教会の一人ひとりに祈りを要請していることに、心が留まります。彼は祈りの力がどれほど大きいかを知っていたのです。そして祈りを通して現される主のみわざを信じて疑わず、それを心から待ち望んでいたのです。12節では、エパフラスというコロサイ教会の仲間のひとりが、いつも教会の人々のために祈りに励んでいるとあります。そのようにたとえ離れていても、互いに祈り合うことによって支え合い、励まし合えるのは、主にある者の特権です。私たちも、いやしを必要としている人々のためにとりなし、救いにあずかっていない人々のためにとりなし、また、自分自身の具体的な必要を神の家族と分かち合い、「祈ってください」と率直に言える者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コロサイ人への手紙 3章1-11節◇(1月27日)

「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」…コロサイ3:9b-10

今日の箇所においてパウロは、「あなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい」ということばをもって書き始めています。あなたがたの古い人はキリストとともにすでに死んだのだ、そして、キリストとともによみがえらされ、キリストにあって生かされているのだ、だから地上のものではなく、天にあるものを求めよ、それが主に贖われた者にふさわしいことなのだと、パウロは言っているのです。では地上のものとは何を意味しているのでしょうか。5節には、「地上のからだの諸部分」として、不品行、汚れ、情欲、むさぼりなどが、また8節にも、怒り、憤り、悪意などが具体的に挙げられています。古い人は死んだはずではなかったのか…なぜそのようなものが依然として残っているのか…そのようにわたしたちは矛盾を感じるかもしれません。しかし「死んだ」ということは、自らの力で身勝手に生きようとする、生まれながらの罪の自分に訣別したということであって、その罪の性質が完全になくなったわけではないのです。キリストを信じて義の衣を着せられた新しい人は、主に似せられて日々新しくされ続けていきますが、それが完成するのは主が再び来られるときなのです。では私たちはどうすべきなのでしょうか…。パウロは、「殺してしまいなさい」、「捨ててしまいなさい」と、強い口調で命じています。それは切られた蛇のように、残っている部分がまだ動いているということです。ぼろぼろの服のように、脱いでも一部が残っているということです。主は私たちに対して、堅い決意と毅然とした態度をもって、「とどめを指す」、「かなぐり捨てる」ことを求めておられるのです。しかしそれは、自分のがんばりで行うのではありません。私たちがそれらの性質が残っていることを主の前に正直に認め、その領域を明け渡し、主に取り除いていただくのです。へりくだってそのことを祈り求める者を、主は確かに顧みてくださるのです。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: コロサイ人への手紙 2章16-23節◇(1月26日)

「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」…コロサイ2:22

かつて、ある教会に行ったときのことです。玄関でスリッパに履き替えて礼拝堂に入った際に、スリッパが違うと軽く注意をされたことがありました。そこでは男性と女性とでスリッパの色を分けており、私は間違えて女性用のものを履いていたのでした。集会の前なのに心が騒いでしまったのを覚えています。その教会では、スリッパの色を分けることが昔からの習慣、誰もが知っている当たり前のことなのかもしれませんが、それが絶対化してしまうと、教会を囲む垣根となって、その外にいる人を遠ざけることになってしまうのです。当時、コロサイの教会に入り込んでいた偽教師たちは、飲食に関する規定や、暦に関する教えなどを持ち込み、それに従わない者たちを裁いていました。そしてその結果、信仰の弱い人たちに罪の意識が生じ、神から与えられた自由が奪われてしまっていたのです。しかし、債務証書はすでに十字架に釘付けされたのです(14節)。「すがるな。味わうな。さわるな」(21節)という禁欲主義的な誤った教えは、主が定めた律法とは異なる、あくまでも人間の戒めと教えによるものであったのです。教会には御使いを礼拝する者たちもいました(18節)が、御使いは神の被造物であって、神ではありません。御使いを礼拝するのは神のみこころに反しているのです。「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り…」とありますが、それは、神秘主義的な、自分が受けた幻や啓示をことさらに強調するものであり、それによって彼らは自分の考えを正当化していたのです。ともすると私たちも、「主に示された、語られた」と言って、反論を寄せつけない空気を作ってしまうことがありますが、そのような独りよがりの態度を取るべきではないのです。「彼らは…かしらに堅く結びつくことをしません」とパウロは言っています(19節)。私たちがなすべきことは、教会のかしらであるキリストに絶えず堅く結びつき、主のみこころを謙遜に探り求め、それに従うことなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コロサイ人への手紙 2章1-15節◇(1月25日)

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」…コロサイ2:11

当時、教会に入り込んでいた異端の教えの中に、誤った律法主義、つまり、神の律法の要求に対し、人間的ながんばりで応えようとする考え方があり、人々はそのような教えに惑わされていました。偽教師たちは異邦人である教会員に対しても、ユダヤ人と同じように割礼を受けることを主張し、さまざまな戒めや規定をすべて守ることを強要し、そうしないと救われないとさえ言っていたのです。しかしパウロは、それに反論してこう言っています。あなたがたは確かにキリストの割礼を受けたのだと。その割礼は目に見える身体上のものではありません。それは、キリストを信じる信仰によって与えられる、主ご自身が私たちに施される「心の割礼」であって、罪をもった古い私たちの肉は、不要な包皮として、キリストによって取り除かれたということなのです。パウロはさらに、「債務証書」ということばを持ち出し、キリストを信じる者に与えられた救いを強調しています。債務証書とは、借りるお金などを返済することを約束し、署名や押印をしてそれが確かなことを示す文書です。神の律法を自らの肉の力で必死に守り通そうとしても、そうできず、罪の意識がまるで借金のように積み重なり、律法が債務証書となって人の良心を責め立てるのです。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ロマ3:20)とある通りです。しかしキリストは、そのようにして苦しむ私たちのために、十字架にかかり、ご自身のいのちを代価として支払い、すべての人が持つ借金を肩代わりして一気に返済し、その債務証書を、無効なただの紙切れとしてくださいました。イエス・キリストこそ律法を成就された唯一の方であり、私たちはその主を信じる信仰によって義とされるのです。キリストにある者を責め立てるものはもはやないのです。そのことをあらためてしっかりと覚えたいと思います。

救いの喜びが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所: コロサイ人への手紙 1章21-29節◇(1月24日)

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」…コロサイ1:28

「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」とパウロは告白しています(24節)。彼は、教会と聖徒たちがキリストにあって成長し、迫害する者たちや異端の教えから守られるようにととりなし、手紙をもって彼らを教えて励ますというその働きを、たとえ捕らわれの身であっても喜びのうちに行っていたのです。「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました」(25節)。パウロは、神から与えられた召命、自分の務めが、異邦人、つまりイスラエル以外の国の人々に対して、神の救いの奥義を伝えることだと受けとめていました。旧約の時代から預言者により伝えられたその救いは、御子が肉のからだにおいて十字架にかかって死なれ、人を神と和解させてくださったことにより、すべての国のすべての人に及ぶものとなったのです(22,28節)。28節でパウロは「私たちは…」と言っています。彼は福音宣教の働きを、決して自分ひとりで担おうと考えていたわけではありません。実際、そのとき彼は、自由に行動できる状況にはなかったのです。そして、だからこそ、「知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教え…すべての人をキリストにある成人(「成熟した者」:2017訳)として立たせるため…」とパウロは言っているのです。聖徒たち一人ひとりが、栄光の望みであるキリストを宣べ伝える者となるように、彼は軟禁されたローマの家で祈り願っていたのです。主イエスもまた弟子たちへの最後のことばの中で、「彼らを教えなさい」と言われました(マタイ28:20)。一人ひとりがみことばによって教えられ、目が開かれ、霊的に成熟することが、福音の前進、御国の拡大につながっていくのです。教えられた者が今度は教える者となっていくことが神のみこころなのです。「教育」ということの大切さをあらためて教えられます。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コロサイ人への手紙 1章1-20節◇(1月23日)

「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。」…コロサイ1:19-20a

今日から1週間、コロサイ人への手紙を読んでいきます。この手紙はパウロによって書かれたものであり、彼がローマにおいて捕らえられ、比較的自由な生活を許された中で書いた、「獄中書簡」のうちの一つです。パウロは、コロサイの教会の中に異端の思想、つまり、キリストの教えとは異なるものが侵入したことを聞き、人々が福音を正しく理解して信仰生活を送るようにと、この手紙を書き送って教え諭そうとしたのです。13節以降には、神の御子イエス・キリストがなされた、創造と和解のみわざについて記されています。「すべて」、「万物」ということばが繰り返されています。御子は、すべての被造物より先に生まれた方であり、御子自身が万物を創造されたとあります(15-16節)。「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた」という、使徒ヨハネのことばが思い起こされます(ヨハネの福音書1:2-3a)。また、「万物は、御子によって造られ、御子のために造られた…」という、パウロのことばに心が留まります。それは、創造された目的がキリストにあるということです。キリストのために生かされ、存在しているということです。決して自分自身のためではない、ということなのです。しかし人は生まれつき罪の性質を持っているために、自分の人生を自分のやりたいように歩もうとし、結局、本当の喜びや生きがいを見いだすことができません。そしてその罪の暗闇、空しさの中から人々を救い出すために、神は御子の十字架の血によって人をご自身と和解させ、御子のご支配の中に移して下さったのです。パウロが、「御子のために和解させてくださった」と語っているように、その和解の目的もまた、罪人が御子のために生かされる、御子の栄光を現す者となり、御子があがめられようになる、そのために用いられる者とされるということなのです。そしてそれが神が造られた私たちの本来の姿なのです。御子のために生かされていることを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 19章23-38節◇(1月22日)

「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」…創世記19:29

主は、天から硫黄と火をソドムとゴモラの上に降らせ、その町々に住んでいたすべての住民を滅ぼされました。2人の御使いはロトに町が滅ぼされることを事前に告げ、身内の者を町から連れ出すように命じましたが、ロトが娘婿たちにそのことを話して逃げるように促しても、冗談だろうと言ってまともに取り合わなかったのです。結局その滅びを免れたのは、御使いに連れ出された、ロトと妻と娘2人の4人だけでした。そしてそれは、主のロトに対するあわれみのゆえだったのです(19:16)。ロトへの主のあわれみはそれだけではありません。彼は主が山に逃げなさいと命じられたにもかかわらず、身体的に困難を覚えたのでしょうか、近くの小さな町、ツォアルに変更してほしいと大胆にも主に訴えたところ、主はご自身の思いとは違うその願いを承諾されたのです。しかしそのような特別の配慮を受けても、ロトの妻は、逃げる途中で塩の柱になってしまいました。御使いから、後ろを振り返ってはいけないと命じられていたのに、そのくらい大丈夫だろうと勝手に考えて行動したからです。神はそのようにしてロトと2人の娘を逃れさせましたが、「神はアブラハムを覚えておられた」と29節にあります。それはつまり、アブラハムのとりなしがあったからこそ、ロトは救い出されたということです。アブラハムは主に、正しい者のゆえに町を滅ぼさないでくださいと懇願し、結果的にその望みは叶えられませんでしたが、愛する者の身を案じて救いを願った彼の思いと祈りは、確かに主のもとに届き、主に覚えられていたのです。彼が主に対してとりなしたのは無駄ではなかったのです。アブラハムが願っていたのとは違う形、違う導きではありましたが、主は確かに答えてくださったのです。そのことを知るときに、私たちは大いに励まされるのです。とりなし続けることの大切さを教えられるのです。

祈りは確かに聞かれています。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 18章16-33節◇(1月20日)

「彼はまた言った。『主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに10人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その10人のために。」…創世記18:32

主はソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられました。そしてそのことを、アブラハムに事前に知らせました。それは、彼のおいのロトの家族がそこにいるからであり、その町の人々の罪がきわめて重いことを彼に伝え、それを反面教師として、アブラハムが子どもたちに命じて主の道を守らせ、正義と公正を行わせるためでした。そして主は、その町のありさまを実際に見た上で、滅ぼすかどうかを最終的に判断しようとされたのです。主のみ思いを知ったアブラハムは主にとりなしました。「その中にいる50人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか」と。彼は、正しい者を悪い者といっしょにしないでください、正しい者たちだけは別に取り分けて救ってくださいと、主に願ったのではありません。たとえわずかであっても、正しい者たちのゆえにその町全体を赦してくださいと、彼は訴えたのです。主はそれを受け入れました(26節)。しかしその後でアブラハムはふと不安になりました。正しい者が50人に足りなかったらどうしよう…と。そしてそれから、まるで値下げ交渉のようにして、その正しい者の人数の設定変更が繰り返されたのです。50人→45人→40人→30人→20人→10人と、彼は、なんと5回も、正しい者の人数を減らしてもらったのです。しかし結局、ソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいます(19:25)。正しい者の人数が10人に達しなかったからです。その町だけでなく、神の前にこの世界の人々の罪は大きく、滅ぼされても当然でした。しかし、たった一人の正しい人、キリストのとりなしによって、十字架と復活の贖いによって、救いがもたらされ、この世は滅ぼされることを免れたのです。その救いにあずかる者とされた私たちもまた、そのことへの感謝とともに、終わり日のさばきが来る前に、愛する人々の救いのために、まず祈りをもってとりなし、キリストの救いの良き知らせを伝えていきたいと思います。また、子どもたちに主の道を守らせていきたいと願います。

主のあわれみと祝福がとこしえにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 18章◇(1月19日)

「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。」…創世記18:13-14

日中、天幕の入口に座っていたアブラハムは、突如、3人の客人の訪問を受けました。彼は彼らをもてなし、サラに上等の小麦粉で急いでパン菓子を作るよう命じ、また若い者には柔らかくておいしそうな子牛を渡して調理させ、それらを自ら客人の前に運び給仕しました。アブラハムは彼らがただ者でないと感じていましたが、それは主と2人の御使いだったのです(18:1,22, 19:1)。食事を済ませると彼らはアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいますか」と。妻が客人の前に姿を見せる慣習は当時なかったので、天幕の中にいるとアブラハムが答えると、客のひとりは、自分は来年の今ごろ必ずあなたのところに戻って来る、そのときあなたの妻サラには男の子ができている、と告げたのです。それはアブラハムにとっては、すでに主から聞かされていたことでした(17:21)。しかし彼らは、天幕の中で聞いているサラ自身に対し、そのことを告げるためにわざわざやって来たのです。それを聞いたサラは、思わず心の中で笑いました。なぜなら、89歳という老人の自分が子どもを産むなど、世の常識から考えてあり得ないことであったからです。すると主はアブラハムに仰せられました。サラはなぜ笑うのか、なぜ神のことばを否定するのか、主に不可能なことなどあるだろうかと。それは、主がアブラハムに告げられていたことば、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」ということばと同じメッセージなのです。主は、「主に不可能なことなどない」というその霊的事実を、アブラハムとサラが信仰を持って受けとめるようにと、彼らの元を訪れ、直接働きかけられたのです。私たちもこの世の常識にとらわれ、「あり得ない…」と、神のことばを一笑に付す思いになることがありますが、もとより主は無から有を生み出す創造主であられるのです。常識にとらわれず、ただそのお方に信頼したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 17章◇(1月18日)

「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」…創世記17:5

イシュマエルが生まれてから13年が経ちました。依然としてサライには子どもが与えられませんでした。しかし主は、アブラムとの約束をもちろん忘れてはおられませんでした。彼が99歳になったとき、主は彼のところに直接現われて、まずこう言われたのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と。アブラムに対するその主のことばには、アブラムがサライの提案を聞き入れ、女奴隷ハガルのところに入り、生まれた子イシュマエルを自分の跡取りにしようとした、アブラムの不信仰、不従順に対する非難があります。と同時に、それは、ご自身が全能者であることを宣言し、自らの失敗を反省し、これからは100%神に信頼して歩む者となれという、アブラムへの励ましであったのです。イシュマエルが生まれてからの12年間、妻の子ではない彼の成長を日々目にしながら、アブラムはいったい何を思っていたのでしょうか…。おそらく、主の約束のことばを信じ切ることができず、サライの人間的な提案を安易に受け入れてしまった自分の愚かさ、罪深さを痛感していたことでしょう。そして主の前に悔い改めていたに違いありません。主はそんなアブラムを見ておられました。そして、イシュマエルが13歳、成人となったときに彼の前に現われ、わたしの契約をあなたと結ぶ、あなたは多くの国民の父となる、だから名前も、そのことを意味する「アブラハム」に変わるのだ、と主はアブラムに告げられたのです。私たちもときに、人間的な思いで行動して失敗をします。それがもたらしたものと向き合うことを余儀なくされます。しかしそれは自らを省み、悔い改める大切なときであって、それもまた、主が備えられた恵みの期間であるのです。主は私たちを見捨てることなく、そのように取り扱われ、時を経て再び私たちに現われ、語られ、祝福の道へと再出発させてくださるのです。「全き者」とは、何よりも、その主の御前に、畏れをもって真実に歩む者なのです。全能の神に100%信頼して歩もうとする者のことなのです。

主の恵みはとこしえにあります。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 16章◇(1月17日)

「サライはアブラムに言った。『ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」…創16:2
アブラムたちがカナンの地に住んで10年が経ちました。しかし依然として子どもが与えられない中、妻サライは、夫と女奴隷ハガルとの間に子どもを産ませようと考え、アブラムに提案したのです。アブラムは以前に主から、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と言われていましたが、サライの提案はそれに反しないと判断したのでしょう、妻の言うことをすんなり受け入れてしまったのです。しかし主はアブラムに満天の星を見せて、「あなたの『子孫』はこのようになる」と約束されたのであり(15:5)、婚姻関係にない者の子を主が意図しておられないことは、アブラムには明らかであったに違いありません。にもかかわらず、サライのことばに従ってしまったため、ハガルとの間に生まれたイシュマエルの子孫は、後にイスラエル人と敵対し、アラブ人の祖先となり、両者のその緊張関係は今も続いているのです。サライは、主は私が子どもを産めないようにしていると、否定的、不信仰なことばをアブラムにぶつけましたが、そのとき、アブラムは夫として、妻との間で、自分が主から与えられた約束をもう一度分かち合い、主は必ず自分たち夫婦に子どもを与えてくださる、と妻を励まして、心合わせて祈り求めるべきだったのです。何も変わらない目の前の状況、耳にする否定的なことば、それらに影響されたアブラムの弱さがここにあります。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36)。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。信仰とは、真実な主への全き信頼の心にほかなりません。神のことばを自分の都合の良いようにすり替えたり、手っ取り早く妥協したりせずに、どんなときにも主に信頼し、忍耐をもってその約束の実現を待ち望みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 15章◇(1月16日)

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」…創世記15:6

「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですが、揺るがない信仰が最初からあったわけではありません。敵との戦いに勝利し、メルキゼデクから「祝福を受けよ」と告げられたアブラムに、主はこう仰せられました。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」(1節)。恐れるなとありますが、それは敵への恐れではなく、家系が自分の代で途絶えてしまうことへの恐れであり、「大いなる国民とし」という主の約束(12:2)への疑いです。それは主を非難するような彼のことばに現われています。「私は子がないままで死のうとしています」(2節、新改訳2017)。「あなたが子孫を私に下さらないので…」(3節)。そして、「奴隷が私の跡取りになるでしょう」と、アブラムは人間的に考えて対応しようとしていたのです。そんな彼に主は言われました。「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と。語られたその主のことばを聞いてもなおアブラムは、「そんなこと言ったって…」と主を信じなかったことでしょう。その思いを知った主は、彼に満天の星空を見上げさせ、これを造ったのは誰か、この星を数えられるか…と迫り、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されたのです。アブラムは、偉大な主の前に思わずひれ伏して礼拝し、主よあなたを信じますと、告白をしたに違いありません。信仰とは、疑いの思いを意志で抑えることではありません。信仰とは、神が私たちに与えてくださる賜物なのです。ペテロが、足の不自由な人が立ち上がったときに、「イエスによって与えられる信仰が、この人を…完全なからだにしたのです」と人々に告げ(使徒3:16)、パウロが、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは…神からの賜物です」(エペソ2:8)と言っているとおりなのです。主に対するアブラムの信仰は、主ご自身が彼とのやり取りを通し与えられたものなのです。その主は、ときに非難がましい思いになる私たちに対しても、ご自身の奇しいみわざを見せ、信仰を与えてくださるのです。主の前に絶えずへりくだって歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 14章◇(1月15日)

「彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』」…創世記14:19-20

エラムの王を中心とする4人の王の連合軍と、ソドムやゴモラの王たちによる5人の王の連合軍が、シディムの谷、今の死海の場所で戦いましたが、前者が優勢となり、ソドムに住んでいたロトたちは、財産とともに彼らに奪い去られてしまいました。するとそれを知ったアブラムは、ロトを助け出すべく、3百人あまりのしもべたちを召集して彼らを追跡し、ダマスコの北の地で戦って、見事打ち破ったのです。聖書にはその事実が淡々と書かれていますが、あらためて考えてみますと、アブラムとしもべたちは、戦いの経験などない「ふつうの人」です。その彼らが、百戦錬磨の王たちの連合軍に対し、勝利を収めたということは驚きです。しかしその戦いは、アブラムを出迎えたシャレムの王メルキゼデクが、「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ」と言って神を賛美したことからわかるように、神が勝利させてくださった戦いであったのです。「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(Ⅰサムエル17:47)。ダビデもまたそのように宣言しました。そして彼は、剣や槍ではなく石投げと一つの石によって、強敵であった巨人ゴリアテを見事に倒したのです。王であり、いと高き神の祭司であったメルキゼデクは、キリストの予型とされています(ヘブル5:8,10)。そのキリストは、神と人との間に立ってとりなし、十字架にご自身をいけにえとしてささげ、死に勝利され、「神の祝福を受けよ」と私たちに告げておられるのです。そして、アブラムのように戦いに未熟な私たちの手に、敵を渡してくださるのです。私たちもまたダビデのように、「この戦いは主の戦いだ」と宣言したいと思います。

主が戦いに勝利させてくださいますように。

◇聖書箇所: 創世記 12章◇(1月13日)

「そのころ、主がアブラムに現れ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える』と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」…創世記12:7

アブラムが登場します。すでに11:27-32において、父のテラに連れられ、妻サライ、甥のロトとともにカルデヤ人の地のウルからカナンの地に向け出発し、はるか西にあるハランに住みついたとありましたが、テラの死後、主は、わたしが示す地に出て行きなさい、そうすればわたしはあなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう…とアブラムに言われたのです。ハランを出たアブラムはカナンの地に入りました。そして彼は、シェケムとベテルの東の地に祭壇を築き、守り導いてくださった主に感謝をもって礼拝をささげ、主のみこころを求めて主の御名によって祈ったのです。しかしそのようなアブラムにも弱さがありました。カナンの地で飢饉が起こると、安易にそこを離れ、エジプトに避難して生き延びようとしたのです。さらにそのエジプトにおいても彼は過ちを犯しました。エジプト人たちが妻のサラが美しいのを見たならば、夫の自分を殺すに違いない、でも兄なら良くしてくれるだろうと考え、妹と偽るようにサラに頼んだのです。しかし主は、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と言われたのであり、そのことばを信じ切っていたなら、そのような人間的な策を弄する必要はなかったのです。にもかかわらず、うそがばれたパロの手から守られ、すべての所有物とともにエジプトから送り出されたのは、主の恵みとあわれみ以外の何ものでもありません。私たちも恐れ、安易に人間的なものに頼ろうとしますが、みことばは、「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」と言っているのです(詩62:8)。そのように、どんなときにも主に信頼する者でありたいと願います。

主の豊かな祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 11章◇(1月12日)

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」…創世記11:4

1-9節には「バベルの塔」の記事が出て来ます。主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られ、それがご自身のみこころにかなっていないことを知り、人々のことばを混乱させて、建てることをやめさせました。その結果、人々は全地に散らされることとなりました。では何が主のみこころにかなわなかったのでしょうか…。第一に、それが自分たちのためだったからです。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂きが天に届く塔を建てて…」とあります(新改訳2017)。人々は自分たちの都合により、自分たちの利益を求め、自分たちの計画に基づいて行動したのです。また、「天に届く」、「名をあげよう」ということばのとおり、神ではなく自分たちが有名になって注目されたい…自分たちがこれを建てたという誇りを持ちたい…そのような思いであったのです。そこに神は不在でした。第二に、自分たちが全地に散らされないためだったからです。人々は一つの所に集まり、人間的な結束を固めて、「自給自足」で生き延びていこうとしていたのです。そこにも神を不要とする彼らの思いがありました。しかし主のみこころは、「地に満ちよ」と言われたとおり、拡がって地の全面に満ちていくことであったのです。そこには未知への不安、未開の地での苦労もあります。しかし人々を助け、導き、必要を満たされるのは神であり、人々はその主に信頼して拡がっていくべきだったのです。同様に私たちも、未知の領域に踏み出すことを恐れます。「自給自足」ができる、慣れたところに留まろうとします。また神のしもべとして人々に仕えると言いつつ、どこかに、人から認められ注目されたいという思いがあるのです。パウロは言いました。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです」(ローマ14:8)。すべてのことを主のために、それを自分たちの力ではなく、全能の主に拠り頼んで行う者でありたいと願います。

それぞれの働きを主が祝福し用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 創世記 10章◇(1月11日)

「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。」…創世記10:8
ノアの息子、セム、ハム、ヤペテの子孫の名が記されています。3人の息子たちの子が16人、その子たちの子、つまりノアの孫が36人、さらにその子たちの名も一部書かれてありますが、それらを除いても合計52人という大家族です。主は真実なお方であり、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」という祝福のことばが実現したのです。その中で、ハムの子孫であるニムロデについて、他の子孫には説明が一切されていないのに、力ある猟師、地上で最初の権力者となったと、わざわざ記されていることに目が留まります。そのニムロデの祖父はハムであり、そのハムは父のノアがぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸であったのを見たにもかかわらず、何もせず、兄弟にそれを告げただけだったため、彼の息子として生まれるカナンの名で呼ばれて、ノアからのろいのことばを受けたのです(9:25)。彼の行為が父を敬おうとしないものだったからです。そのハムの孫であるニムロデは、権力者として王国をシヌアルの地に築きますが、シヌアルとはバビロンの地のことであり、そこにやがて「バベルの塔」が建てられることになるのです。またハムの息子のカナンの子孫はやがて、イスラエルの民に敵対する諸氏族となるのです。カインの子孫は洪水によって滅ぼされましたが、「人の心の思い計ることは初めから悪であるからだ」と主が言われたとおり(8:21)、父なる神を敬わず、神の権威に従わない者たちが必ず出てくるのです。「義人はいない、ひとりもいない」(ロマ3:10)…人の罪深さをあらためて思わされます。しかし神は、そのような中でセムの家系を選ばれ、その子孫からやがてアブラハムが生まれ、ダビデが生まれ、イエス・キリストが生まれるのです。主が計画された救いは何にも妨げられないからです。その救いと選びの中にあることを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 9章◇(1月10日)

「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。」…創世記9:9-10a

ノアは祭壇を築き、全焼のいけにえをささげ、救いへの感謝をもって主をあがめ礼拝するとともに、生き物が地に増えるようにせよと言われた主の、具体的なみこころが何かを祈り求めました。すると、神はノアと3人の息子たちにこう言われたのです。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。…地の上を動くすべてのもの…これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている」(1-2節)。この主のことばは、ご自身のかたちに似せて造られた最初の人アダムに与えられた、子孫繁栄の祝福と、被造物支配の命令の再現です(創1:28)。アダムがエデンの園で神に背いて罪を犯し、園から追放され、生まれた子カインが弟アベルを殺し、そのカインの子孫を含む人々の悪が地上に蔓延したため、神は心を痛めて大洪水を起こされましたが、アベルの代わりに与えられたセツの子孫であるノアと息子たちに、再びそのことばが語られたということに、人類への神のあわれみと不変のご意志を見るのです。8-17節には、神がノアと息子たちに対して告げられた、ご自身の「契約」について書かれています。それは神が人類との間に結ばれた最初の契約であり、それは「あなたがたの後の子孫」にも及ぶものであり、後のアブラハム、モーセ、ダビデとの契約もまた、ノアたちに告げられたこの契約につながっているのです。「わたしの契約を『立てよう』」と神は言われました。その契約は神が一方的に立てられたのであり、「これを守るなら…」と条件をつけられたのではないのです。そしてそれは人だけでなく、すべての生き物との間の契約であって、そのご自身の契約ゆえに、再び大洪水により被造物が滅びることはないのです。被造物の贖いは神のみこころであり(ロマ8:21)、それは、キリストの血による新しい契約として成就されるのです。「契約の民」とされていることを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: 創世記 8章◇(1月9日)

「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」…創世記8:20

大水は150日間、地の上に増え続けましたが、神が水の源と天の水門を閉ざされると、水は徐々に減り、やがてすっかり乾きました。その後、神は、ノアにこう仰せられました。あなたは家族といっしょに箱舟から出なさい、そして舟の中の動物たちを外に連れ出しなさい、それらが地に群がり、増えるようにしなさい…と。ノアにとって、動物たちを外に出すことは、その数が多くて大変であったかもしれませんが、自らの力によって何とか行える範囲のことでした。しかしそれらが地の上で群がり、増えるようになるために、ノアが直接関われることはなかったのです。ノアが動物たちをすべて舟の外に出した後、行ったことが心に留まります。彼は祭壇を築いて、出てきた動物たちのうちから、きよいものを取り、祭壇の上で全焼のいけにえとして主にささげました。それは何より、自分たちが主によって選ばれたこと、大水から守られて生き残ることができたことに対し、感謝と畏れをもってささげた主への礼拝です。と同時にそれは、生き残った動物たちが、地に群がって増えることを可能にする唯一のお方、創造主であり、主権者である神に向かって、そうなるようにと願い求める、祈りでもあったに違いありません。そしてそれは、「わたしは、あなたと契約を結ぼう」と祝福を約束された主のことば(6:18)への応答であり、神への信仰に基づいてなされた行為であったのです。私たちにできることとできないことがあります。自らなすべきことと主に委ねるべきことがあります。私たちは常にそれらのことをしっかりとわきまえ知り、救われたことへの感謝をもって主を礼拝する中で、神から与えられた契約、約束のことばを信じて、主に祈り求めていべきなのです。

主は真実なお方です。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 7章◇(1月8日)

「彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。」…創世記7:14

6~9章は、有名なノアの箱舟の物語です。神は大洪水を起こされ、すべての肉なるものを地上から滅ぼしてしまわれたのです。それは、地上に人の悪が増大したからです(6:5)。弟アダムを殺したカインの子孫の中から、人類の文明の礎を築く者たちが出ましたが(4:20-2)、人の悪ということばには、道徳的な意味だけでなく、神に逆らうという霊的な意味があると思われます。その中にあって神はノアを選ばれました。それは彼が、主の心にかなった、全き人であったからです(6:8-9)。そして神はノアに、すべての肉なるものを滅ぼすと告げ、ノアの家族8人とすべての生き物のつがいが入るための巨大な箱舟を建設するように命じられたのです(6:15)。ノアはすべて神が命じられたとおりにしました(6:22)。すべてのつがいも言われたとおり集めたのです(5節)。「すべて」ということばの繰り返しに心が留まります。それは600歳のノアには大変だったに違いありません。彼の息子たちが手伝ったとも書かれていません。しかしノアは忠実に主からの命令を遂行したのです。それは神があわれみをもって救おうとされている、すべての生き物のつがいが箱舟に入って、生き残るようにするためです。その中にはなんと、きよくない動物のつがいも含まれていたのです(2,8節)。神が起こされた大洪水は、終末のさばきの予型です。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」という主イエスのことばが思い起こされます(マタ24:14)。神にとって、イエス・キリストという箱舟、救いの中に、すべての造られた者が入ることがみこころであり、そこには、私たちの目に「きよくない」と思える者も含まれるのです。そしてそのために私たちは、ノアの働きを担う者として、神によって選ばれ、任命され、用いられているのです。ノアのように忠実にそれを果たしていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 5章◇(1月6日)

「彼はその子をノアと名づけて言った。『主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。』」…創世記5:29

1節に「アダムの歴史の記録…」とありますが、そこにはカインの家系は記されていません。実際にはアダム-セツの系図となっています。10代目のノアと彼の3人の子どもたちまでです。その中でエノクとレメクには、他の者にはないコメントが書き加えられています。エノクについては、彼が神とともに歩んだことと、神が彼を取られたことです。エノクは死を見ずに、神によって天に引き上げられたのです。ここに、神とともに歩む者に与えられる祝福が、予型として表わされています。一方レメクについては、息子ノアが生まれたとき、「私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう」と言ったとあります。働く苦労とは、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べてしまったとき、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」と神がアダムに言われたことを指しています(創3:17)。ではノアが与えてくれる慰めとは何でしょうか…。ヘブル人への手紙11章には、アベル、エノク、ノアが信仰によって歩み、それが神に喜ばれたこと、また、天の故郷にあこがれていたことが書かれています。真の平安と慰めは、必ずしも平穏無事に過ごす中で得られるものではありません。たとえ波瀾万丈、さまざまな労苦に満ちた歩みの中に置かれたとしても、神とともに歩む、すなわち神のことばに聞き従い、人間的、地上的なものではなくひたすら神に拠り頼み、天の故郷にあこがれて歩む者にもたらされるのです。「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」とパウロが言っているとおりなのです(2コリ1:5)。主のみこころにかなう歩みを重ねたいと願います。

平安と慰めが主から与えられますように。

◇聖書箇所: 創世記 4章◇(1月5日)

「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』」…創世記4:25

人類最初の殺人事件が記されています。アダムとエバに生まれた2人の男の子のうち、弟アベルは最上の羊の初子を主にささげ、兄カインは地の作物を主にささげましたが、主はアベルとそのささげ物に目を留められました。それはカインのものが最上ではなかったからです。また7節には、カインへの神のことばとして、「正しく行ったのであれば、受け入れられる」とあることから、カインのあり方が真実でなく、神を欺くようなものだったのかもしれません。カインは、弟とそのささげ物に主が目を留めたと知り、ひどく怒って紅潮しひきつった顔を隠そうと伏せました。しかし主はすべてを知っておられ、彼に告げました。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」。ところが結局、カインはアベルを殺してしまったのです。罪を犯したカインのいのちを主は取られませんでした。そればかりか彼を殺そうとする者から守られたのです。それは人の思いを越えた主のあわれみです。そして、アベルは最良の羊の初子を主にささげていましたが、そこにもキリストによる贖いの予型が示されているのです。章の後半にはカインの家系が記されていますが、その後に、エバが3人目の男の子セツを産んだとあります。殺されたアベルの代わりに、セツが主から与えられたのです。ここにも主のあわれみと偉大な救いの計画があります。このセツの家系からノア、アブラハム、ダビデが生まれ、イエス・キリストが生まれたのです(ルカ3:23-38)。そして、そのキリストに贖われた者は神の子どもとされ、罪の血が流れるカインの家系ではなく、キリストにつながるセツの家系へと移されるのです。その子孫こそ「主の御名によって祈る」(26節)者なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 3章◇(1月4日)

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」…創世記3:21

3章は、蛇として表わされたサタンの誘惑に会い、神から禁じられていた善悪の知識の木の実を、アダムとエバが食べてしまった記事です。「蛇が一番狡猾であった」(1節)とあるとおり、サタンのだまし方は実に巧妙であるのです。神は、「どの木からでも…食べてよい。しかし…」と(2:16)、自由を与えて肯定的な表現で言われたのに、サタンは、「どんな木からも食べてはならないと、本当に言われたのですか」と否定の表現にすり替え、神からの制限への反発を起こさせようとしたのです。惑わされたエバは神のことばを曲げてしまいました。3節には蛇へのエバのことばが書かれていますが、神は、「園の中央の木の実を食べるな」ではなく「善悪の知識の木からは食べるな」と言われたのであり、「それに触れてもいけない」とは言っておらず、「死ぬといけないから」ではなく「必ず死ぬ」と言われたのです(2:17)。「死ぬといけない」とは、死ぬかもしれないということです。エバは死なない可能性を勝手に作り出しているのです。神を信じなくても、神のことばに従わなくても、生きられると考える、人間の罪深さがここにあります。アダムの罪深さもあらためて思わされます。彼は、エバの蛇へのことばの誤りを指摘しませんでした。また、エバが実を食べようとしているのを止めませんでした。そして、渡された実を自分も食べたにもかかわらず、神を暗に非難し、エバにその責任を転嫁したのです。自分は何も悪くないと、正当化したのです(12節)。しかし、そんな2人のために皮の衣を着せてくださった神のあわれみに心が留まります。それを作るためには動物の犠牲が必要です。そこに、キリストによる贖いが予型として示されているのです。罪深い私たちに対する、神の愛とあわれみを覚え、感謝をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 2章◇(1月3日)

「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」…創世記2:7

神は第7日目に、なさっていた創造のわざを完成し、その日を祝福して聖であるとされました。2節には、すべてのわざを「休まれた」とありますが、それは、私たち人間のように疲れたからではなく、被造物に不備や不足がなく完全なものであったので、そのわざを「やめられた」(新改訳2017)のです。それらのものは確かに「非常に良かった」のです。4節からあらためて創造の経緯が書かれていますが、それは1章の繰り返しではなく、人に焦点を当てて、違う観点から書かれた神の創造のみわざです。1章では、人が神ご自身のかたちに似せて造られたということが強調されていましたが、2章では、主が人を土地のちりから造り、その鼻から息を吹き込まれ、人が生きものとなったと、詳しく説明されています。それはつまり、神から息を吹き入れられなければ、人の形をしていても土地のちりのままであった、いのちがなかったということを意味しています。「そこで人は『生きもの』となった」ということばの意味は、「生きるもの」(新改訳2017)となったということなのです。そして人は獣などの「生き物」(1:24など)とは違うのです。人の形をしていても、神の息が吹き込まれなければ、「生きるもの」とはならない…その真理を教えられます。「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」と、干からびた骨に告げられた主のことばも思い起こされます(エゼキエル37:5)。人が本当の意味で「生きるもの」となるためには、神が造られた「非常に良い」本来のものであるためには、神の息が吹き込まれなければならないのです。それは神の口から出る一つ一つのことばであり、私たちの内に住まわれる聖霊さまであるのです。神の息吹を受けて生かされる者でありたいと願います。

主の豊かな祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 1章14-31節◇(1月2日)

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」…創世記1:27

世の始まりにおける神の創造のみわざの後半、4日目から6日目までのことが記されています。すでに5日目に水の中の生き物や、大空を飛ぶ鳥が造られていましたが、6日目に地に住む家畜や野の獣が造られ、最後に特別な存在として人が創造されたのです。「われわれのかたちとして、われわれに似せて」、「人をご自身のかたちとして…神のかたちとして」と、繰り返されていることに心が留まります。「かたち」とありますがそれは単に容姿ではなく、そのご性質を含むトータルな意味に違いありません。神はそのように、ご自身に似た者として人を造られ、すべての被造物は「非常に良かった」のです。しかし人は、悪魔に誘惑されて神に逆らい、罪を犯し、身勝手に歩み、憎しみ合う者となってしまいました。神ご自身に似せて造られたにもかかわらず、本来の姿とは全く異なる者となってしまったのです。そして神は、その本来のあり方を取り戻すために、イエス・キリストの十字架と復活による贖いによって、私たちを罪から解放してくださったのです。その救いとは、まさしく本来の姿への「回復」であり、神の「再創造」のわざであり、初めに戻ることなのです。「見よ。それは非常に良かった」。創造のわざを終えてすべてのものを見られたとき、神のうちには大きな喜びがあったに違いありません。人がキリストの救いにあずかるとき、それは神にとって、失われた者が自分の元に帰って来るということであり、放蕩息子のたとえに表わされているように、神のその喜びは私たちの想像を超えたものなのです。そしてその神は、すべての造られた人が、その回復とご自身の祝福にあずかることを願っておられるのです。

新しい年の歩みの上に主の祝福がありますように