◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 5章13-21節◇(2月28日)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」…1ヨハネ5:14

「これこそ神に対する私たちの確信です」と、ヨハネは神が祈りを聞かれる方であると強調しています。原文では、「これが確信である」という表現が、文の冒頭に来ています。「はっきり言う」という意味です。単なる知識としてではなく、さまざまな困難な状況において、祈りが答えられる体験をヨハネが重ねていたからこそ、そのようにきっぱり言い切ることができたに違いありません。「何事でも」とありますが、もちろんそれは、いっさいの制限なくという意味ではありません。その願いはあくまでも「神のみこころにかなう願い」(「神のみこころにしたがって願う(願い)」、2017訳)なのです。祈りとは、人間の側の要求を神の前に差し出して、神のみこころが何であるかなどお構いなしに、「この通りにしてください」と一方的に願うことではなく、自分の都合の良いように神を動かす道具でもありません。「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と、主が弟子たちに祈りの模範を教えられたとおりなのです。「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります」(15節、2017訳)。ヨハネはまた、私たちが神に願い求めるものは、祈った時点で先取りして手にしているのだと言っています。言うまでもなくそれは、神が願いを聞かれる方であるという信仰によるのであり、それが「先取り感謝」の祈りなのです。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」と、主イエスも弟子たちに言われました(マルコ11:24)。そして、祈りの答えはあくまで神が持っておられるということを、これらのみことばからあらためて教えられます。祈る私たちに何か律法的な努力が求められるのではないのです。降ってくる疑いの火の粉を必死になって払う必要はないのです。神は私たちに最善のものを与えてくださる方であると信頼して、神のみこころがなるように願いつつ委ねることが大切なのです。

主の平安と祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 5章1-12節◇(2月27日)

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者をも愛します。」…1ヨハネ5:1(2017訳)

「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」(4:21)と、ヨハネは、兄弟を愛することの大切さを訴えていますが、今日の箇所において彼は、その理由として、私たちが神から生まれた者同士であるということを、あらためて明らかにしようとしています。「神によって生まれた」という従来の訳は、新しい訳では「神から生まれた」と、意味がより明確になっています。「神から生まれた」ということは、霊的な意味において、神の血筋を引く者、神のご性質を受け継ぐ者とされたということです。また、父の大きな愛を受け、好意と祝福に預かっている神の子どもだということです。イエスがキリストであると信じる信仰によって、神から生まれ、そのような特別な身分とされた私たちが、父なる神を愛し、同じように神から生まれた者たちを、兄弟姉妹と呼んで互いに愛し合うということは、神の家族とされた者として、ある意味当然のことなのです。そのように神から生まれた者たちを神は召し集めて、キリストのみからだなる「教会」として建て上げておられます。そこにはさまざまな考えや価値観を持ったものが集い、家族という近しさゆえに、特にそれが摩擦を生んだり、逆に互いに甘えてしまったり依存し過ぎたりしてしまいます。しかし御子キリストこそ兄弟たちの長子であり(ローマ8:29)、その御子に兄弟たちが従うときに家族は一つとなるのです。そして悪の領域としての「世」に打ち勝つことができるのです。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(4節、2017訳)。「世に打ち勝った」と、過去形となっていることに心が留まります。死に打ち勝ち、やがて再び来られて最終的に悪を滅ぼされる、神の御子、メシアなる主イエスを信じる信仰によってこそ、私たちたちは、神によって新しく生まれ、神の家族に加えられ、キリストにある勝利にあずかる者、群れとされるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 4章13-21節◇(2月26日)

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」…1ヨハネ4:16

「神は愛です」(“God is love”)。この短く、しかし豊かで深い一文に心が留まります。それは神が愛そのものであり、愛のかたまりであり、愛の源であるということです。私たちはかつて、その愛を知らずに生きていました。そして、自分は何のためにこの世に存在しているのか…わからず、悩み、苦しんでいたのです。しかし神は、その愛の中に私たちを取り込むようにして、私たちをご自身と一つにしてくださいました。私たちが自分たちに対する神の愛を知ったということは、単に知的に理解したということではなく、その愛に固く結びつけられたということなのです。「愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」(16節、2017訳)。神が私たちのうちにとどまっておられるということは、私たちが愛のうちに生きる者とされているということです。そしてそれは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒め(レビ19:18、マタイ22:39)を、「…ねばならない」という「律法」としてではなく、内にあるものの発露として自然に行うということであり、私たちのうちにとどまっている神の愛が、私たちを通して周りの人々に及んでいくということなのです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(19節)。自分勝手に歩み、神を悲しませるばかりであった私たちを、神がまず愛してくださった…一方的に何の見返りも求めず…。そして、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わし、十字架にまでつけてくださったのです(10節)。この大きな愛にいつも立ち返り、神のみもとにとどまり続け、神の愛がますます流れ出ていく者とされたいと願います。

神に愛されている喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 3章13-24節◇(2月24日)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」…1ヨハネ3:18

「神の命令とは…キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(23節)。ヨハネはそのように明確に主張していますが、彼は11節でも、「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです」と述べ、それは主自身が弟子たちに命じられたことなのだ、そのことを忘れないでほしい、と読者に強調しています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34,15:12)。主イエスはそのように言われたと福音書にあります。私たちが人々を愛することにおいて倣うべきお手本は、主イエスがすでに示してくださっているのです。またそれは、主の愛に私たちが押し出されるようにして、兄弟たちを愛する者とされるということでもあるのです。さらにそのように兄弟を愛するということは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という、神がイスラエルの民に与えられた律法(レビ19:18)として、旧約の時代から人々はそれを守り行ってきたのであり、主イエスもそれが、神である主を愛せよとの教えとともに、律法全体を要約する戒めだと言われたのです(マタ22:40)。ヨハネが、「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」(2017訳)と訴えていることに心が留まります。「私はあなたを愛します」と言うのはたやすいことです。しかしそれを行いをもって表わすことが求められるのです。では真実をもって愛するとはどういうことなのでしょうか…。それは、主イエスが私たちの罪を赦して救い出すために、身代りとなってご自身のいのちを捨ててくださった、その犠牲の愛、無償の愛をもって愛するということです。まさに主が、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われ、「私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(16節)とヨハネが言っていることの意味にほかならないのです。私たちがまずその神の愛によって満たされるならば、それに押し出されて人々を真実に愛する者とされるのです。

行いと真実をもって愛する者とされますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 3章1-12節◇(2月23日)

「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」…1ヨハネ3:9

ヨハネは2章において、キリストのうちにとどまるようにと読者に対して訴えてきましたが、最後の29節で、「義を行う者がみな神から生まれたこともわかる」と言い、キリストにある者が神の子どもであるということを、3章以降においてさらに詳しく論じています。「私たちは今すでに神の子どもです」(2節)とあるように、それは、キリストの贖いを信じ救われた私たちのうちにすでに起こった、紛れもない霊的な事実であって、人間的なものによっては取り消せないのです。「あなたがたは…聖霊によって証印を押されている」というパウロのことばが思い起こされます(エペソ4:30)。9節のことばが心に留まります。ヨハネはここで、すでに神の子どもとされた者と罪との関係を述べていますが、神から生まれた者、すなわち神の子どもとされた者は罪を犯さない、罪を犯すことが「できない」とさえ言っているのです。そしてそれは「神の種」がその人のうちにとどまっているからだとあります。また6節でも、「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」とあります。私たちの罪の古い自分はキリストとともに十字架に死に、復活のキリストとともに死からよみがえり、神の子どもとされて新しい歩みをしているのであって、私たちのうちにはキリストの性質が確かに宿っているのです。換言すれば神との霊的な血縁関係ができたということです。異なる型の血液を輸血すると不適合反応が起こるように、神の子どもとされた者は、罪を犯そうとしても、何の痛みを感じずに平気で行える者ではあり得えないのです。そのように、キリストによって贖われた私たちは、人間の努力で罪から離れると言うよりもむしろ、遺伝子とも言える神の種である御霊の働きによって、罪に対してアレルギーを起こす者へと変えられているのです。そしてそのような私たちが自分を清くし(2節)、義を行うことは(7節)、当然であって、神の子どもとしてふさわしいことなのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 2章18-29節◇(2月22日)

「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、みな真理を持っています。」…1ヨハネ2:20(2017訳)

ヨハネは、「小さい者たちよ。今は終わりの時です」と、主イエスの再臨が決して遠くはないとの認識を示し、その根拠として、主イエスが言われたように、多くの反キリストが現われていることを挙げています。彼らは、イエスがメシア、救い主であることを否定し、その御子を遣わされた父なる神をも否定する者であり、ねじ曲げた真理により人々を惑わす偽り者なのです。そして、彼らの新しい教えに傾倒して真理から迷い出てしまう者たちが、当時の教会の中に実際にいたのです。そこでヨハネは、あなたがたには神からのそそぎの油、すなわち御霊が与えられ、とどまっているではないか、この方こそ、神を知るための知恵と啓示を人にもたらし、真理を教えてくださる真の「教師」であるのだ、だから偽教師が説く誤った教えに惑わされてはならない、「初めから聞いた」、主イエスが宣べた神の国の福音をしっかりととどまらせなさい…と、読者に訴えているのです。「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい」と、ヨハネは言っています(28節、2017訳)。また主ご自身、「わたしにとどまりなさい」と言われました(ヨハネ15:4)。私たちがキリストのうちにとどまるとはどういうことか…それは、私たちに与えられた注ぎの油、御霊ご自身により、神のことばの啓示、解き明かしが日々与えられ、その真理によって私たちの霊の目が開かれ、闇の中ではなく光の中を歩み続けることだと言えるのです。耳新しい教えに興味を持つ者たちはいつの時代にもいます。カリスマ的なメッセンジャーを追っかけ回す者たちもいます。権威ある注解書の解説に全面的に信頼する者もいます。しかし、御霊こそ真の教師であることを忘れてはなりません。日々私たちが聖書を開き、みことばを読み、御霊に教えられ、その真理のうちを歩み続けることが、何より大切なのです。そしてそのようにしてキリストのうちにとどまり、みことばに聞き従い続け、主のみこころを行い続ける者こそ、豊かに実を結ぶ者とされるのです(詩篇1:2-3、ヨハネ15:5)。

キリストのうちにしっかりとどまることができますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 2章1-17節◇(2月21日)

「しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」…1ヨハネ2:5

5節のことばが心に留まります。ヨハネはみことば、つまり、神の命令を守る者のうちには、確かに神の愛が全うされていると言っています。全うされているとはもうすでに実現しているということです。これから全うされるのではないのです。そのように神に愛されているから、私たちもその神を愛し、神のことば、神の命令を当然のものとして喜んで行うのです。神のおしえに忠実に、従順に聞き従う者となるのです。そのようなあり方はキリストによって示されました。御父である神の愛は御子イエスのうちに全うされ、御子も神を愛し、御父のことばを忠実に守り行い、罪人の身代りとなっていのちを捨てよとの命令に聞き従い、荒削りの十字架を背負ってゴルゴタの丘を上られたのです。同じように神に愛され、御子の贖いによって救われ、神の子どもとされた私たちもまた、そのキリストにならって、喜びをもって神のことばに聞き従うべきなのです(6節)。12節から15節のことばにも心が留まります。ヨハネはそこで、手紙を書き送っている理由を述べています。主の御名によってあなたがたの罪が赦された、世の初めからおられる方をあなたがたが知った、キリストにあってあなたがたが悪い者に打ち勝ったと、すでに成し遂げられたそれらのことをあらためて提示した上で、だからこそ、そのようなあなたがたは、悪しき者サタンが支配している領域である「世」を愛することなく、あなたがたの御父である神を愛する者でありなさい、神のみこころを行い、いつまでもながらえる者、「永遠に生き続け」(2017訳)る者となろうではないかと、ヨハネは手紙を宛てた者たちに対して訴えているのです。「闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです」(8節)。すでに罪赦された、神を知った、サタンに打ち勝った者として、まことの光なるキリストのうちにしっかりととどまり、キリストのおしえに従って歩み続けていきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第一 1章◇(2月20日)

「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」…1ヨハネ1:4

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの…」。ヨハネはそのようなことばでこの手紙を書き始めていますが、その「もの」とは、言うまでもなくイエス・キリストです。「初めにことばがあった」と彼が福音書の最初でも書いたように、御父とともにあって世界を創造された御子は、「いのち」としてこの地上に現れて下さったのです。ヨハネはそのキリストの弟子として生活をともにし、多くの教えを耳にし、なされた奇しいみわざを目にし、墓の中からよみがえられたみからだに触れたのです。そしてその御父と御子との豊かな交わりにあずかるようにと読者に促し、さらに、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです」と言っているのです。「私たちの喜びが満ちあふれるためです」(新改訳2017)。喜びはまだ全きものとなっていない、満ちあふれていない、もっと大きな喜びが待っている、その喜びが増し加わるように、そしてあなたがただけでなく私たちもいっしょにそうなるために、この手紙を書いているのだと、ヨハネは言っているのです。そして、神との交わりが豊かにされ、喜びが全きものとなるために、闇ではなく、ともに光の中を歩む者とされようではないか、そうするなら御子イエスの血が私たちを罪からきよめてくださる、罪を告白するなら神は赦し、すべての不義からきよめてくださると、光から闇へといつの間にか歩みがずれていってしまう、罪深い者としての同じ視点から、ヨハネは読者を励ましているのです。そのことばは、私たち一人ひとりに対しても語られています。私たちは決して完成した者ではなく、罪を犯してしまう者です。しかし神は、私たちの喜びを全きものとし満ちあふれさせようと、ご自身との交わりをさらに親密で豊かなものにしようと、待っておられるのです。その主の前に日々自らの罪を告白し、主に立ち返り続ける者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: 創世記 27章30-46節◇(2月19日)

「エサウは父に言った。『お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。』エサウは声をあげて泣いた。」…創世記27:38

イサクがエサウを祝福しようとしているのを知ったリベカは、ヤコブに入れ知恵をしました。イサクが好む料理を作り、エサウに変装させたヤコブに父のところに持って行かせ、祝福を横取りさせようとしたのです。怪しまれないように、エサウのにおいが染みついた着物をヤコブに着させ、毛深い肌にするために毛皮をかぶせる念の入れようです。2人はその計略をエサウが野に出ている間に実行しました。料理とパンを渡されたイサクは、「どうして、こんなに早く見つけることができたのか…」、「声はヤコブの声だが…」と訝しがり、本当にエサウかと変装したヤコブに尋ねましたが、彼は「私です」と答えました。思わず冷や汗が出たことでしょう。そして結局、ヤコブをエサウだと思い込んだイサクは、彼を祝福しました。イサクはまんまと騙されてしまったのです。ヤコブが出て行くとちょうどそこにエサウが戻って来ました。何が起こったかを知った彼は泣き叫んで父に訴えました。「祝福は一つしかないのですか…私をも祝福してください」と。人間的に考えれば、ヤコブが得た祝福は「だまし取った」もので、イサクがエサウをあらためて祝福するのは妥当なことに思えます。しかし「私はいったい何ができようか」と彼が言うとおり(37節)、主の御名により継承する祝福とは、神ご自身が与えるものであり、それを人間の意志によって自由に決めることはできないのです。「兄(エサウ)が弟(ヤコブ)に仕える」と主がリベカに告げたことを、イサクが知らなかったはずがありません。またイサクは、自分が好む料理を食べさせてくれ、おまえを祝福するためにとエサウに言いましたが、それは本来関係がないことのはずです。そこに、神の主権を軽んじ、神の祝福の意義とその大きさを侮り、自分の肉的な思いを通そうとしたイサクの姿があります。そしてそれは、空腹を満たすため、一杯の豆の煮物と引き換えに長子の権利を侮って弟に売ったエサウと、本質は同じなのです。神の主権を軽んじたり、神の祝福を侮ったりしてはなりません。それがどれほど偉大なものかを、私たちはよく知るべきなのです。

キリストにあって神に祝福された者とされますように。

◇聖書箇所: 創世記 26章17-35節◇(2月17日)

「そして彼は言った。『今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。』」…創世記26:22

井戸を巡ってイサクたちとゲラルの羊飼いたちとの間に争いが起こりました。かつてアブラハムが掘った井戸をペリシテ人がふさいでしまっていたので、イサクたちが再びそれらの井戸や近くの谷間を掘っていたところ、そこで彼らは湧き水の出る良い井戸を見つけました。ところがゲラルの羊飼いたちはそれを横取りしようとして、「この水はわれわれのものだ」と所有権を主張したのです。イサクは決してその井戸に固執しようとはせず、しもべたちに別の場所に井戸を掘るように命じたところ、そこからも湧き水が出ましたが、ゲラルの羊飼いたちはそれも自分たちのものだと譲らず、またもや争ったのです。そんな彼らの執拗な妨害に対して、イサクは憤って、徹底的に戦えとしもべたちに命じることもできましたが、彼はそうせず、さらに別な場所に井戸を掘らせました。するとそこからも湧き水が出て来たのです。今度は、ゲラルの羊飼いたちも横取りをしようとはしませでした。このときイサクは、横取りされたことを悔しいと思いつつ、あきらめてしぶしぶ場所を変えたわけではありません。主が別な所に良い井戸を備えてくださるという信仰を持ち、積極的に違う所に動き、祈り求めつつ井戸を掘ったのです。人や家畜が生活し生きていくためには水は不可欠です。「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう」、「あなたの子孫を空の星のように増し加え(る)」(26:3,4)と約束された主が、その水を与えられないわけがない…と、イサクは堅く信じて疑わなかったのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。主イエスはそのように言われました(ヨハ7:38)。また使徒ヨハネは、天の聖なる都においていのちの水の川が、神と小羊の御座から流れ出ているのを幻で見せられました。主を信じる者はそのいのちの水により生きる者とされるのです。私たちの魂の渇きは御霊によって満たされいやされるのです。泉の湧き出る井戸を与える主を、さらに求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 26章1-16節◇(2月16日)

「そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」…創世記26:4

アブラハムの時代にも飢饉がありました。そのときはアブラハムはエジプトに下って行きましたが、主はイサクに対しては、そうしてはならない、あなたはこの地に寄留しなさいと命じられました。そしてさらに主は、「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう」とイサクに約束してくださり、そのようにしてアブラハムへの誓いを果たす、つまり、ご自身が結ばれた契約を実行すると言われたのです。4節の中に「あなたの子孫」ということばが3回出て来ます。3節にも「あなたとあなたの子孫に与える」とあります。主はイサクに対して、ご自身が与える祝福は、次の、またその次の世代が受け継ぐのだと言われたのです。実際、アブラハムの子であるイサクが受ける祝福は、ご自身へのアブラハムの信仰と従順を喜ばれた主が、イサクにもたらしてくださったものにほかならないのです。「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったから」(5節)とあるとおりです。そのことを思うとき、私たちの主に対する信仰と従順は、私たちの子孫、将来の世代に対しても大きな影響を及ぼし、彼らの祝福につながっていくということを教えられます。イサクの子孫…それはヤコブであり、彼の子どもたちであり、その子孫は約束の地カナンでイスラエル12部族を形成し、そこから王が立てられ、国が築き上げられていったのです。霊的なアブラハムの子孫である私たちも同じです。主への私たちの信仰と従順は、私たちの子孫、続く世代に大きな影響を与え、彼らの祝福につながっていくのです。私たちの人生は決して自分自身だけのものではないのです。神の国の拡大は、世代を越えてなされ続けていくのです。そのことを覚えるとき、今この時代に生かされている私たちが将来の世代に繋ぐべきものは何かを、深く考えさせられます。永遠を思う心、永遠を見る目を持つ者でありたいと願います。

主の祝福を受け継ぐ者とされますように。

◇聖書箇所: 創世記 25章19-34節◇(2月15日)

「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」…創世記25:34

イサクとリベカの夫婦には子どもが生まれませんでした。リベカのからだが妊娠できない状態であったからです。二人にとってそれは辛いことであったに違いありません。またイサクには、父アブラハムが不妊の妻サラのことで悩んだ気持ちがよくわかったことでしょう。しかし彼は、主がその母の胎を開いてくださったことを知っていました。だからこそ自分は今いるのだと。そしてイサクはその主に、同じようにリベカの胎を開いてくださいと祈ったのです。その祈りは聞かれ、彼女は結婚20年後に身ごもりました。生まれてきた子どもは双子でした。巧みな猟師(狩人)、野の人であるエサウ、一方、穏やかな性格を持ち、天幕での暮らしをしていたヤコブ。二人は対照的でした。そのこと自体に問題はありません。しかし28節には、イサクはエサウを、リベカはヤコブを偏愛していたとあります。しかもその理由は、イサクがエサウの猟の獲物を好んだからなのです。またリベカは、「兄が弟に仕える」(23節)と、妊娠中に主から語られたことばを覚えていたことでしょう。そしてその人間的な見方が子どもに影響を及ぼしたのです。疲れて猟から帰ってきたエサウは、ヤコブが調理していた豆の煮物を食べさせてくれと頼みました。するとヤコブは、長子の権利を今すぐ売るならそうしてあげると答えました。長子の権利とは財産などの2倍の相続権を得ることですが、それは家長が持つ霊的権威を受け継ぐことでもあります。空腹のエサウにとっては長子の権利より豆の煮物のほうが、そのときは価値あるものと思われました。彼は結局、たった一杯の食物と引き換えに長子の権利を売ったのです。長子の権利…それは神が与えられる将来的な祝福です。しかしエサウはそれを軽蔑した(「侮った」:2017訳)のです。煮物を食べて空腹を満たすことを優先させたのです。そしてそのように目の前のことしか考えずに刹那的に生きる者は、神の祝福を失うという真理を私たちはここから学ぶのです。近視眼ではなく永遠を見る目を持って歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 25章1-18節◇(2月14日)

「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。」…創世記25:5

アブラハムはケトラという名の女性をめとりました。それがいつのことなのかは明らかではありませんが、サラを失ってからの再婚であったのかもしれません。ケトラは6人の子どもを生みましたが、アブラハムは、全財産をサラとの間の子イサクに与えたとあります。一方で彼は、そばめたちの子らにも贈り物を与え、イサクとの間にもめ事を起こさないよう、東方の国に行かせて遠ざけるという配慮も忘れてはいませんでした。5節において「全財産」と訳されている原語の意味は、「所有するすべて」です。口語訳では、「アブラハムはその所有をことごとくイサクに与えた」と訳されています。アブラハムがイサクに与えたのは、目に見える財産である、羊や牛、銀や金、土地、奴隷だけではなかったのです。彼はイサクに、霊的な財産、すなわち、神に対する信仰、従順、謙遜などを学ばせ、神の契約=祝福の約束を、自分の直系の子であるイサクに継承しようとしたのです。11節には、「アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された」とあります。確かに祝福は受け継がれたのです。そのイサクにとって、あのモリヤの山での出来事は、生涯忘れられないものであったに違いありません。父アブラハムの手によって命を絶たれそうになったこと、しかし御使いを通して神がそれを止められたこと、自分の代わりにささげられる雄羊が備えられていたこと…そしてそのような試練を通して「体で覚えさせられた」、全能者である神に対する揺るがない信仰は、まさに父との間で共有した霊的な財産であったのです。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:29)。私たちは、キリストにあって神の子どもとされた者であり、霊的なアブラハムの子孫です。神はその私たちをも、訓練の場へ導き、主の山に必要を備えてくださるのです。ご自身のみわざを日々経験させ、信仰を体得させるのです。そしてそれは神が子に与える財産にほかならないのです。神がくださる「全財産」を感謝して受け取りたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 24章50-67節◇(2月13日)

「するとラバンとベトエルは答えて言った。『このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。』」…創世記24:50

アブラハムのしもべはリベカの家に招かれましたが、彼女がイサクの妻となることの承認を家族から得るまでは、出された夕食にも手をつけませんでした(24:33)。彼は何よりそれを確かにすることが自分の使命であり、そのために自分は遣わされたという自覚があったのです。彼は彼女こそ主が備えた女性だと確信していましたが、自分の思いを押し通すのではなく、家族の判断もまた、主の御手のうちにあると信じて了承を求めました(24:49)。すると父と兄は、このことは主から出たことであるから、自分たちが良し悪しを言うことはできないと答えたのです。それは、神がみこころとして定められていることに対して、人間である自分たちがとやかく言うことはあり得ない、それに従うことは至極当然であるという信仰の告白です。彼らは、「主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように」と、リベカを嫁がせることを承諾しました。彼らのそのことばを聞くやいなや、アブラハムのしもべは、彼らに感謝やお礼のことばを返すのではなく、まず、そのような確かな導きに対して主に感謝をささげるために、地にひれ伏して礼拝しました。主を畏れ、主を第一とし、栄光を主に帰す、信仰者としての姿勢がそこにあります。しもべはただちにリベカを連れて出発することを望みましたが、母と兄は、その前に10日間ほどもらえないかと申し出ました。それは、おそらくもう一生会えなくなるリベカとの別れを惜しむ、家族の心情に基づいた願いでした。しかしながら当のリベカは、「この人といっしょに行くか」(=すぐに行くか)と尋ねられて、「はい。まいります」と、きっぱり答えたのです。彼女もまた、主の導きに従順に、遅滞なく従う信仰者であったのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」(ローマ11:36)。主から出たことに対して自分の考えで良し悪しを言う者ではなく、また、ぐずぐずと決断と行動を遅らせるような者でなく、「はい。まいります」と、即座に主の導きに従う者でありたいと願います。

主が確かな道に導いてくださいますように。

◇聖書箇所: 創世記 24章28-49節◇(2月12日)

「そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。」…創世記24:48

アブラハムは自分の全財産を管理させている家の最年長のしもべに対し、息子イサクの妻を、今の居住地のカナン人の娘の中からではなく、自分の出身地にいる親族の中から探し出して、カナンの地に連れてくるように命じました(24:3-4,37-38)。するとそのしもべは、アラム・ナハライム(ハラン)にあるナホルの町に着くと、井戸のそばにらくだを伏させ、私のためにどうか取り計らってくださいと主に祈りました。そして水を汲みに出て来た娘が自分に水を飲ませてくれて、らくだにも同様にしてくれるなら、その娘こそが求める人だと、具体的な条件を定めたのです(24:14,44)。その祈りが終わらないうちに、一人の娘が現われました。そしてまさに、その条件のとおりに彼女は行動したのです。それは、アブラハムの兄弟ナホルの孫娘リベカでした。それが主の導きであることを確信したそのしもべは、主に感謝し、そのみわざをほめたたえ、栄光を帰すべくその場でひざまずいて、主を礼拝したのです(24:26,48)。彼がそのとき主に告白したことばが心に留まります。「主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた」(24:27)。彼はそのことをリベカの兄ラバンにも証ししています(48節)。その「正しい道」とは「確かな道」(2017訳)であるのです。主は恵みとまこと(真実)に満ちておられます。その主は、ご自身に拠り頼む者を顧みてくださるのです。私たちの祈りと願いは確かにその主のもとに届いており、主はみこころにかなう良きものを備えてくださるのです。自らの思いと願いを主の前に具体的に言い表して祈りつつ、確かな道への導きを求め続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 23章◇(2月10日)

「こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。」…創世記23:20

アブラハムの伴侶、サラは127歳で亡くなりました。さまざまなところを通される中、労苦をともにしたそのサラの死は、アブラハムを嘆き悲しませました。しかしそれはわずか2節で簡潔に記されるのみです。23章の大半は、サラを埋葬する墓地についての、ヘテ人たちとのやり取りの記述に費やされています。アブラハムは、カナンの地に居留する異国人として、ヘテ人たちに私有の墓地を譲ってほしいと頼みました。譲るとは代金を取って売る、譲渡するということです。アブラハムはツォハルの子エフロンを名指しして、彼が所有する畑地とその中にある洞穴を得るべく交渉に臨みました。エフロンは当初差し上げますと申し出ましたが、アブラハムはそれを受け入れず、あくまで代価を払って買い取りたいと主張したのです。結局、その畑地とそこの洞穴は、エフロンの提案により、銀400シェケルでアブラハムの所有の土地となりました。実はこの洞穴は、サラだけのための墓ではありません。アブラハムもそこに葬られ(25:9)、後には、イサク、リベカ、ヤコブ、レアも葬られることになるのです(創49:29-32)。アブラハムが代価を払って買い取ることにこだわった理由がここにあります。彼は、カナンの地に入ったとき、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(創12:7)と、主が仰せられたことを決して忘れてはいませんでした。異邦人の地カナンに、たとえ小さな墓地ではあっても自分の所有地を持つことが、大きな意義を持っていたのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(2コリント6:20)。たとえ1%であっても、キリストに贖われた私たちが神の所有の民とされ、この日本の中に置かれているという大きな意義を、しっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 22章◇(2月9日)

「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」…創世記22:12

ある日、アブラハムは神から大きな試練を受けました。なんと神は、ようやく生まれた大切なひとり子イサクを、山の上で全焼のいけにえとしてわたしにささげよと、アブラハムに命じられたのです。それを聞いたアブラハムは、驚き、悩み、苦しんだに違いありません。しかし、なぜですかと、彼が神に問いただしたとは書かれていません。翌朝早く、その神のことばに従順に従ったアブラハムは、イサクと2人の若者とともにモリヤの地に向かったのです。いけにえを燃やすたきぎをイサクに負わせ、若者を残して、アブラハムとイサクは山頂を目指していっしょに進みました。途中、いけにえの羊はどこにあるのかとイサクに尋ねられ、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」とアブラハムは答えましたが(8節)、それは彼にとって決して、苦し紛れに言ったまったくの嘘ではありません。神は、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と、確かにアブラハムに約束されていたのです(21:12)。そしてその同じ神が、イサクをいけにえとしてささげよと言われたのです。それは人間的に考えれば明らかに矛盾しています。しかしアブラハムは真実なお方である神を信じたのです。たとえその約束がどのようにして実現するかはわからなくても、神はご自身の約束を反故にされはしないと堅く信じたのです。山頂についたアブラハムが、イサクを縛ってたきぎの上に載せ、刀を振り下ろそうとした瞬間、神はそれをストップされました。あなたは自分のひとり子さえも惜しまずにささげたと、神は御使いを通してアブラハムに告げ、イサクの代わりにいけにえとしてささげるべき雄羊を備えてくださったのです。私たちも、日々の歩みにおいて試練の道を通らされます。そんな中、いつどうすれば解決するのかわからなくても、「試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリ10:13)という主の約束のことばを信じて、主に信頼し続けるならば、真実な主は、私たちの思いを越えた主のときと方法をもって、それを実現してくださるのです。主が解決してくださるのです。

主の山の上には備えがあります。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 21章22-34節◇(2月8日)

「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。」…創世記21:33

20章に出て来たゲラルの王アビメレクが再び登場します。彼は「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」と告げ、自分たちを裏切らずに真実を尽くすと、今ここで神によって誓ってほしいと、アブラハムに迫ったのです。アブラハムを通して神を知り、畏れるようになった彼は、自分たちの将来に何か不安を覚えたのかも知れません。アブラハムは「私は誓います」と、彼の求めに応じました。その後、今度はアブラハムがアビメレクに抗議しました。アブラハムが所有する井戸を、アビメレクのしもべたちが奪い取ったからです。それは知らなかったと言いつつ、アビメレクは自分の部下の非を認めて謝罪したため、アブラハムは羊と牛を彼に与え、二人は契約を結びました。するとその後、アブラハムは奇妙な行動に出ました。与えた羊の群れの中から7頭の雌の小羊をより分けて、わたしがこの井戸を掘った証拠となるよう、この7頭の雌の小羊を受け取ってくれと、アビメレクに言ったのです。二人は誓いを交わし、そこをベエル・シェバと呼びました。「ベエル」は「井戸」、「シェバ」は数字の「7」を意味します。また「誓い」は「シャバ」で、「シェバ」と同じ語根を持ちます。つまりそのベエル・シェバは、「完全な誓い(=契約)の井戸」(7は完全を表わす数)という意味の名の地となったのです。アブラハムはそのベエル・シェバに一本の柳の木を植え、祝福の約束(=契約)を与えてくださった神の真実を覚え、すべてを導いてくださった主に感謝の祈りをささげました。私たちにとっての「ベエル・シェバ」とは、傷のない完全ないけにえである、神の小羊イエス・キリストの贖いによって、私たちを救い出された神を覚え感謝するところ、すなわち、礼拝であり、聖餐式であり、日々の主との交わりの場です。主が私たちに真実を尽くしてくださっていることを感謝し、私たちもその神に真実に仕える者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 21章1-21節◇(2月7日)

「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」…創世記21:1

100歳のアブラハムと90歳のサラの老夫婦に、男の子が与えられました。1節の「約束されたとおり」、「仰せられたとおりに」ということばに、主がいかに真実なお方であるかが表わされています。人間の約束は不確かであっても、真実である神が、ご自身の約束を破ることなどあり得ないのです。アブラハムは主から以前命じられたとおりに(創17:19)、その子を「イサク」(「彼は笑う」という意味)と名づけました。アブラハムにとってイサクの誕生は喜ばしいことでしたが、問題も起こりました。アブラハムと女奴隷ハガルの間の子イシュマエルがイサクをからかっているのを見たサラが、ハガル親子を追い出すようアブラハムに迫ったからです。彼は非常に悩みましたが、結局そのことを受け入れました。そして主は、彼らのことをもあわれんで顧みてくださり、荒野で生きながらえさせてくださったのです(17-21節)。イサクが生まれたとき、サラは、「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」と言いましたが、それは相手をばかにする嘲笑ではありません。他の訳では、「神は私に笑いを下さいました」(2017訳)、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」(新共同訳)とあります。その笑いとは神が与えてくださる喜びであったのです。しかし彼らは1年前神の約束を信じられず確かに笑いました。その嘲笑が喜びの笑いへと主によって変えられたのです。彼らは、その子を「イサク」(=「彼は笑う」)と呼ぶたびに、自分たちの不信仰を恥じるような思いにさせられたでしょう。と同時に、神は不可能を可能とする全能なるお方であり、無から有を生む出す創造主だと覚えたに違いありません。神は真実なお方、あわれみ深いお方、全能者なるお方…私たちも主がいかに偉大なお方かを日々覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 20章◇(2月6日)

「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」…創世記20:6

今日からまた、創世記を2週にわたって読んでいきます。アブラハムはロトと別れてから南のネゲブ地方に移り、ゲラルに滞在していましたが、彼は妻サラのことを自分の妹だと偽ったため、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れました。すると神は夢の中で彼に現われ、彼女はアブラハムの妻であり、彼女に触れるならばあなたと民のいのちは取られると、警告されたのです。驚いたアビメレクがサラには近づいていないと訴えると、神は、そうだ、よくわかっている、あなたは正しい。あなたが罪を起こさないように、彼女に触れることを許さなかったのは、このわたしなのだ、と言われたのです。アブラハムがサラを自分の妹だと人々に偽ったのは、エジプトのパロに対する偽りに続いて2回目です(創12:13)。しかしそのことを咎める主のことばは一切ありません。これらすべてのことが、主のご計画であったからです。嘘をつくという行為は人間的に考えるなら悪いことであり、アブラハムとサラの弱さが露呈されたととらえられますが、主のご計画は私たちの思いを越えたところにあるのです。アビメレクがアブラハムに羊と牛の群れと奴隷を与え、領地を与え、銀千枚を与えたことはある意味驚きですが、それもまた神が祝福として与えられたものなのです。さらに主はアブラハムのことを、「あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう」とアビメレクに言いましたが、実際彼が祈ると、アビメレクの妻たちの閉じられていた胎は、再び開かれました。そしてそのことを通し、神がおられることが、それまで神を恐れていなかった者たちに証しされたのです。神は主権者であられます。ご自身のご計画を遂行されます。すべてのことを働かせて益としてくださるお方なのです。私たちに求められるのはその主に信頼して歩むことなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 7篇◇(2月5日)

「神は正しい審判者、日々、怒る神。」…詩篇7:11

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください…」(1節)。そのようにダビデは敵から自分を救ってくださいと、主に要請しています。しかし彼は、神に対して、その場しのぎのような思いでそうしているのではなく、また、神を自分だけのものとしているのでもありません。「神は正しい審判者、日々、怒る神」という彼のことばは、(「怒る神」の別訳は「宣告を下す神」…脚注参照)そのように、神の目に正しい者が正しいとされ、悪者がきちんとさばかれることの願いの表れなのです。ダビデはこうも言っています。「主は諸国の民をさばかれる。主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください」。「弁護してください」と訳されていることばは本来、「さばいてください」という意味です(=2017訳)。現代の裁判における弁護士の大きな役割は、弁護の依頼者が不当なさばきを受けることがないように、自らの弁と法によってその人を守ろうとすることですが、神は正しい審判者、裁判官であるがゆえに、そのような弁護する者を立てる必要がないのです。正しい者を正しい者としてさばくことが弁護だからです。「私の義と、私にある誠実とにしたがって…」とダビデは言っていますが、それは、自分が神の前に罪がない、さばかれる必要がないと言っているわけではありません。敵の不当な訴えに対しての潔白を訴えているのです。事実に従ってさばいてくださいと彼は願っているのです。神は正しい審判者であられます。そしてそれは、神がすべてを知ってくださっているということでもあります。私たちには、自分の真意がうまく伝わらず誤解されたり、善意をもってしたことが裏目にでてしまうことがありますが、正しい審判者なる主はすべてをご存じなのです。私たちが不当に責められないようにしてくださるのです。私たちの敵であるサタンの不当な訴えに対しても、主は正しくさばき、私たちの心とたましいを守られるのです。

主からの平安が絶えずありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 5篇◇(2月3日)

「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」…詩篇5:12

12節に「正しい者」とありますが、それは、道徳的に正しい行いをする者のことではありません。それは何よりも、主との関係において正しい、すなわち、主のみこころにかなっている、という意味なのです。ダビデはこう告白しています。「しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します」(7節)。また、こう言っています。「あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように」(11節a)。そのように、主の恵みによって生かされていることを覚えて感謝し、自らを主の前に低くして、常に礼拝者の心をもって歩む者こそ、正しい者なのです。また、自分の力で敵との戦いに勝とうとするのではなく、主を呼び求め、主を待ち望み、主に身を避ける者こそが、正しい者なのです。主は、そのような者を喜ばれ、祝福をもたらし、心を喜びで満たしてくださるのです。またダビデは、「大盾で囲むように愛で彼を囲まれます」と告白しています。彼は、「あなたは私の回りを囲む盾」と言いましたが(詩篇3:3)、主はそのように、正しい者を剣や槍による敵の攻撃から守られるだけでなく、大盾で囲むようにご自身の愛で囲ってくださる、「いつくしみでおおってくださる」(2017訳)お方なのです。パウロも、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる…」と言い、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」と語っています(2コリント5:14,9節)。ダビデは敵に取り囲まれていましたが(詩篇3:6)、彼は孤独感や恐れに悩まされることはなかったのです。「私の王、私の神」と、朝ごとに主を呼び求め、主との親しい関係の中に歩み続けていたからです。主が正しい者を祝福し、真実な愛といつくしみで包み、いのちを守ってくださると信じて疑わなかったからです。私たちもまたそのような者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 4篇◇(2月2日)

「私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」…詩篇4:2

この詩篇も昨日の3篇と同じく、ダビデが敵に追われ、なんとか逃れて生き延びることができている、そんな状況の中で書かれたものとされています。ダビデの日々は、そのように苦難の連続でした。しかし彼は、「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」と告白しているのです。私たちが望むべき歩みとは、試練や苦難のない日々、ただ平穏無事に過ごして終える生涯ではありません。聖書が教えているのは、ダビデが経験したように、たとえ苦しみの中に置かれたとしても、神から与えられる平安、すなわち心のゆとりのうちに、神への感謝と信頼をもって歩むことであるのです。またそれは、そのような追いつめられた状況の中で、私たちが現実にとらわれ心縛られてしまうことなく、そこから解き放され、人間的な恐れや悲しみの感情から自由にされるということでもあるのです。このところを新改訳2017では、「追いつめられたときあなたは私を解き放ってくださいました」と訳しています。主イエスはこう言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33b)。この世に影響力を持つサタンは、私たちが苦難に会うとき、その心から平安や希望や喜びを奪い取ろうとします。しかし主イエスはそれを阻止し、私たちを救い出すために、十字架にかかり、しかし3日目に墓からよみがえり、死とサタンに打ち勝たれたお方なのです。私たちもまた、キリストにあるその勝利にあずかり、苦しみの中にあっても、ゆとりを持つことができるのです。追いつめられても、「もうだめだ…」と絶望することなく、主からの平安と希望によって、心が解放されるのです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)。苦しみのただ中で主と出会い、みことばの真実を学び、主の救いのみわざを体験する者でありたいと願います。

主がゆとりを絶えず与えてくださいますように。

◇聖書箇所: 詩篇 3篇◇(2月1日)

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」…詩篇3:3

表題に、「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」と書かれています。アブシャロムだけではなく、多くの者が敵となり、自分に立ち向かっているような状況にあって、「彼に神の救いはない」とあざけられても(1-2節)、ダビデは「主よ」と、声をあげて主を呼び求めたのです。「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾…」と、追い迫る敵、現実に目を奪われてしまうのではなく、ダビデはそこから天に目を転じて告白しています。盾は、剣や槍による敵の攻撃から身を守るものであり、通常はそれを自分の前に置いて使用します。しかしダビデは「周りを囲む盾」と言っているのです。主は、そのように、前方だけでなく四方八方、あらゆる方向からの敵の攻撃から守ってくださるのです。6節には「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」とありますが、それは、主が盾となって周りを囲み、その敵の手から守り、支えてくださるからなのです。「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」(5節)。主の守りと支えの中で、ダビデはそう告白しました。悩みや不安があると、人はなかなか眠ることができません。彼は実際、寝ている間に敵に襲われる状況にありました。しかしダビデは、主から与えられる平安のうちに安眠し、希望をもって新たな朝を迎えることができたのです。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)とありますが、ダビデは、その主の守りと支えを信じて疑わなかったからです。「あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。 救いは主にあります」(7-8節)。「彼に神の救いはない」…そのような否定的なことを、悪魔は私たちにもささやきます。しかしダビデのように、私たちも告白すべきなのです。「救いは主にあります」と。「あなたは私の周りを囲む盾です」と。どんなときにも、私たちを守り支えてくださる主に信頼したいと願います。

主はいつもともにおられます。祝福がありますように。