◇聖書箇所:ヨナ書 4章◇(4月30日)

「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」…ヨナ4:11

大きな魚の腹の中から陸地へ吐き出されたヨナは、再びニネベに行き、託されたメッセージを伝えるよう、神から命じられました。主のことばに従った彼が、「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫ぶと、町の人々は、神が思い直されるかもしれないと考え、悪の道から立ち返るべく努力し、それを見られた主は、わざわいを起こすのを思いとどまられました(3章)。ところがヨナは、そのことで腹を立てました。その後、神がヨナのためにとうごまの木を生えさせ日陰を作り、彼がそれを喜んだのも束の間、翌日にはその木は虫に噛まれて枯れてしまいました。ヨナは再び怒り、「生きているより死んだほうがましだ」とさえ言ったのです。ニネベが滅びを免れたとき、なぜヨナは怒ったのでしょうか。ヨナはそこがイスラエルの敵国アッシリアの町であり、当然滅ぼされるべきだと思っていたからです。また人々に伝えたことばが実際には起こらなかったことで、面目がつぶれ自分が偽預言者扱いされると思ったからです。とうごまが枯れたとき、なぜヨナは腹を立てたのでしょうか。ヨナはその木が自分のために与えられたはずなのに、たった一匹の虫により一晩で枯れてしまい、太陽がまともに頭を照りつけるようになったからです。それを神はなぜ赦されたのかという思いがあったからです。しかし神は言われました。この町を惜しまないでいられようか、そこには多くの人間や家畜がいるではないか…と。その町の人々を愛し、救い出すことが神の御旨だったのです。ヨナの憤り、それは私たちの憤りでもあります。そしてそれは、自分の考えや価値観にとらわれてしまい、自分が益を受けるのが当然とすることから生まれるのです。また、したことが認められず無駄になったとすぐ腹を立てるのです。しかし主は、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」と言われます(イザ55:8)。こうあるべきだと、狭い人間的な思いで決めつけ、怒るのでなく、たえず主権者なる神の前にへりくだる者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨナ書 2章◇(4月28日)

「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」…ヨナ2:2

海に投げ込まれたヨナは大きな魚に呑み込まれました。その魚の腹の中からヨナは主に祈りましたが、彼の祈りのことばが2章全体に記されています。そしてそのことばを読んで気付かされること、それは、祈りであるにもかかわらず、「…してください」という表現が出てこないことです。それは、自分の身に起こった主のみわざの告白であり、主に対する感謝のことば、賛美でさえあるのです。ヨナは3日3晩、魚の腹の中に入ったままでした。そこは何とも奇妙な空間であったに違いありません。しかし彼は、早くここから出してくれと叫ばなかったのです。海に投げ込まれたヨナは、すぐに魚に飲み込まれたわけではありません。その前に海水を飲み込み、おそらく意識を失って海底に沈んで行ったのです(5-6節)。しかしヨナは大きな魚に呑み込まれることによって、九死に一生を得ました。そしてその魚は、主ご自身によって備えられたものであったのです(1:17)。ヨナは、「しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました」と告白しています(6節後半)。ヨナは自分が神に救い出されたことを悟っていました。そして、主に聞き従わなかったことを悔い改め、その神が必ず地上に戻してくださることを信じ、一度は拒んだニネベへの宣教に再度遣わされることを願って再献身したのです。主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させました。主は私たちの日々の歩みにおいても、「魚」を備えてくださるお方です。もうだめだ…と、あきらめそうになるときでも、主は助け出してくださるのです。それは見逃せばわからない小さなことかもしれませんが、そこに主の御手を覚えて、感謝し賛美する者は幸いなのです。主イエスは、ヨナの魚の腹の中での守りと地上への帰還は、ご自分の葬りと復活の予型だと言われました(マタイ12:40)。私たちがキリストの贖いによって、滅びの穴から、泥沼から引き上げられたことを感謝したいと思います(詩篇40:2)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨナ書 1章◇(4月27日)

「ヨナは彼らに言った。『私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています』」。…ヨナ1:9

ヨナは「ニネベに行き、これに向かって叫べ」という主の声を聴きました。ニネベはイスラエルの東方、アッシリアの国の首都となった大きな町です。主はそこに住む人々の中で悪が増大したのを見、悔い改めてご自身に立ち返るようにさせるべく、ヨナを預言者として遣わそうとされたのです。しかし彼は主の御顔を避け、タルシシュへ逃れようと、ヨッパからの船に乗船しました。タルシシュは現在のスペインとも言われていますが、いずれにしても、地中海を西に向かう船であり、ニネベと逆の方向です。ヨナは単に主の御声に聞き従おうとしなかっただけでなく、「主の御顔を避けて」…神に正面から向き合おうとはせず、神に背を向け、自分の召しから離れようとしていたのです。すると主は激しい暴風を起こし、船は難波しかけました。きっとだれかのせいで災いが降りかかっているのだと、不自然な成り行きの中でそう判断した船員や乗客たちは、皆でくじを引いて「犯人」を捜しました。そしてそのくじはヨナに当たったのです。起こっているすべてのことは、主の御手の中にあることを悟ったヨナは自分の身を明かし、事情を話し、自分を海に投げ込むように告げました。そしてそのようにすると海はうそのように凪になったのです。難船しかけたとき、人々は自分の神に助けを求めました(5節)。しかし14節では人々は「主」(太字の「主」)に願っているのです。「主」とはヤーウェの神、唯一まことのイスラエルの神です。その人々の変化をもたらしたのはヨナの告白です。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています(「礼拝しています」:2版)。」と…。そしてそれは、彼が主の御顔を避けていたことを悔い改め、主の御旨をなすために自分が存在すると認めた結果なのです。信仰者が主の御顔を避けずに、主の召しと働きに献身するとき、人々が主の御名によって祈り求め、主を恐れる者と変えられる…。このヨナ1章の出来事はそのことを私たちに示唆しています。「…あなたの国はどこか。いったいどこの民か」(8節)との問いは、人々から、神ご自身から、私たちに向けられています。そしてそれに対して、どのような意識を持ってどう答えるかが問われているのです。

人の計画ではなく、ただ主のご計画が推し進められますように。

◇聖書箇所: 詩篇17篇◇(4月26日)

「主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。」…詩篇17:13

私の正しい訴え、叫び、欺きの唇から出たものでない祈りを聞いてくださいと、詩人は神に願っています。彼は、ことばと行いにおいて責められるところがなく、神のことばに従い、主の道を堅く守って歩んでいると、自らの潔白を主張し、正しい裁きを求めているのです。さらに詩人は、自分を苦しめている敵、悪者の手から守り、かくまってくださいと、神に願っています。彼らは飢えた獅子のようであり、いつ獲物を襲おうかと、その機会を窺って待ち伏せしているのです。詩人の訴えはさらに強く、具体的になっていきます。「主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください」と、敵に対する神の直接的な介入を願い求めています。それに続く詩人のことばに心が留まります。「あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください」。「私を助け出してください」と言ったのではないのです。詩人は、自分が敵に傷を負わされないように…ではなく、たましいが守られ、助け出されることを願ったのです。それはつまり、「あなたがどれほど私を愛してくれているか…私を、かけがえのないものとして、ご自分の瞳のように、親鳥がひなをかくまうように御翼の陰に守っておられるか…そのことを敵の攻撃の中にあって覚えさせ続けてください、どんなときにもあなたに信頼する者とさせてください…」と、神との親密な関係が保たれることを願う祈りだったのです。主イエスは言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。私たちのこの地上でのからだはやがて朽ち果てます。しかし私たちのたましいは、キリストにあって生かされ、主を信じるなら、栄光のからだを与えられて、天の御国において永遠に神とともに生きる者とされるのです。永遠への希望をしっかりと持ち続ける者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇16篇◇(4月25日)

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」…詩篇16:8

「神よ。私をお守りください」。詩人(ダビデ)はそのようなことばで書き始めています。敵に追われていたのかもしれません。しかし心が押し潰されそうになるような中で彼は、「私はあなたに身を避けます」と決意を新たにし、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」と告白したのです。8節のことばが心に留まります。「私はいつも、私の前に主を置いた」。自分の前に主を置くということはどういうことでしょうか。前の7節には、「私は助言を下さった主をほめたたえる」とありますが、絶えず主の教え、みことばによって、自らの歩みが導かれる者となるということです。羊が自分の羊飼いの声に安心してついていくように、良き牧者なる主の御声に絶えず聞き従うということです。「主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」。詩人はそのようにも言っています。前を進んで導いてくださる羊飼いなる主は、自分が弱ってしまったとき、疲れたとき、恐れで足がすくんで前に進めなくなるようなときには、自分のすぐそばに来て慰め、励まし、支えてくださるので、揺るがされず、歩み続けることができると言うのです。「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう」と詩人は告白しています。私たちの歩みにおいてもさまざまな試練や困難があります。一体どうなるんだろう、どうすればいいんだろう…と、不安にかられて心が騒いでしまうことがあります。しかし私たちがこの詩人のように主に身を避けるならば、絶えず自分の前に主を置くならば、主とともに歩むならば、私たちの歩みは決して揺るがされることはないのです。その心に主の喜びがもたらされ、たましいは楽しみ躍り、身を安らかにして住まい、生活することができるのです。どんなときにも主に拠り頼んで歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇15篇◇(4月24日)

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」…詩篇15:1

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか…だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか…。」詩人はそのように神に尋ねています。幕屋の中に入ることができるのは祭司のみであり、幕屋の一番の奥にある至聖所に入ることができるのは、年に1度の贖いの日において大祭司だけでした。しかも、動物のいけにえの血を携えることが求められたのです。そこは聖なる神の臨在が満ちあふれている場所であり、罪ある者が入ればたちまち打たれてしまうのです。また、聖なる山とは神の都エルサレムのことです。そこには神殿があり幕屋と同様に至聖所がありました。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか…だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか…」。だれが…だれが…という詩人のことばは、前の詩篇14篇3節のことば、「善を行う者はいない。ひとりもいない」ということばと重なって響いてきます。聖なる神の幕屋に宿る…聖なる山に住む…神の御前に自宅のようにいつでも自由に出入りできる者…正しく歩み、義を行い、真理のことばを語り、レビ記19章で要求されている、人を中傷してはならない、隣人を自分自身のように愛せよとの律法を全うし、罪のないご自身の血を十字架の上で流され、全人類の贖いを完成された大祭司イエス・キリストこそ、神の幕屋に宿り、聖なる山に住まわれるお方なのです。そしてキリストに贖われた私たちもまた、キリストにあって、その血によって、いつでも大胆に至聖所に入って行き、主と自由に親しく交わることができる者とされているのです。またわたしたちのからだがきよめられ、聖霊の宮として、主がそこに住まわれる、宿られるようにされているのです。キリストに従って真理の道を歩み、神のみこころを行い、キリストの愛をもって隣人を愛する者とされているのです。そのことを覚え、主への感謝と礼拝をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 50章◇(4月23日)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」…創世記50:20

臨終に際して12人の子どもたちを呼び寄せたヤコブは、一人ひとりに預言的なことばを告げて祝福を与え、マクペラの墓に自分を葬るよう命じて息を引き取りました。その後、ヨセフと兄弟たちは、カナンの地へ上って行き、そこで荘厳な葬儀を行って彼を葬り、エジプトに戻りました。ヨセフの兄たちは、父の亡き後、自分たちがしたことをヨセフが恨んで仕返しをするのではないかと恐れました。ヨセフとの涙ながらの再会を経てもなお、兄たちの心には、依然としてそのようなわだかまりと恐れがあったのです。彼らは、ヤコブが生前に、「兄たちの背きと罪を赦すようにヨセフに伝えよ」と言っていたと、ヨセフにことづけしましたが、それはおそらく兄たちが作りだしたことばであったでしょう。私たちはあなたの奴隷ですと、命乞いをするようにひれ伏す兄たちへのヨセフのことばが心に留まります(19-21節)。「私が神の代わりでしょうか」…報いをされるのは神であり、自分は一人の人間に過ぎず、神の代わりにはなり得ない…。「神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」…自分への行為は確かに罪、悪であったが、神はそれをも、ご自身の祝福をもたらすために用いられた、益とされた…。「それは…多くの人々を生かしておくためでした」…自分の受けた苦しみにより、父ヤコブの子孫は飢饉から守られ、繁栄できた…。だから恐れなくていい、あなたがたはもう赦されている…と。ヨセフはヤコブによって兄弟の中で実質的な長子とされました。そして彼は、自分に対して兄たちが犯した過ちを赦したのです。キリストは「長子」となられたとパウロは言っていますが(ロマ8:29)、兄たちを赦すこのヨセフに、キリストの予型を見るのです。ヨセフは兄たちを慰めた(安心させた:2017訳)とあります。罪人であった私たちも、キリストにあって神から赦されたのです。キリストから慰めを受け、平安のうちに歩む者とされているのです。そしてさらに多くの人が神に生かされるために用いられるのです。

神に赦されている喜びと平安がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 48章◇(4月21日)

「私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」…創世記48:22

ヤコブの死が近づきました。ヨセフは二人の息子、マナセとエフライムを父の元に連れて行きました。するとヤコブは、エジプトの地で生まれた二人の子は、ルベンやシメオンと同じように私の子となる、つまり、私は孫を養子とするのだと告げたのです。ヤコブが二人を祝福しようとして呼び寄せたとき、ヨセフは兄が当然長子の権利を受けるものと考え、兄マナセがヤコブの右側に、弟エフライムが左側に来るようにさせましたが、ヤコブはなんと、わざわざ手を交差させて、右手をエフライムの頭に、左手をマナセの頭に置いて、彼らを祝福したのです。ヨセフはてっきり、父が兄と弟を間違えたものと思い、その手を取って逆にしようとしましたが、ヤコブは、「分かっている…」とそれをきっぱりと拒んだのです。ヤコブはヨセフに言いました。「弟は彼(兄)よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなる…」と。その前にすでに、「エフライムとマナセは…」とヤコブは兄弟の順序を逆にしてヨセフに告げていましたが(5節)、それは彼が神から示されていたことであったのです。そしてヤコブはヨセフに対しても、「あなたの兄弟よりも、むしろあなたに」と、長子の権利を与えたのです(1歴5:2)。ヤコブ自身、エサウの弟ですが長子の権利を受けました。ヨセフの二人の息子は、エジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが生んだ子であり、異邦人の血が流れています。しかしヤコブはその二人を自分の子とし、その子孫がカナンの地で領土を与えられ、繁栄することとなるのです。神は人が重んじる順序、伝統、血筋にとらわれる方ではありません。ご自身の主権により選ばれるお方なのです。そして異邦人である私たちがその選びに入れられているのは、「残りの者」の救いと祝福のためであるのです。同胞のため、またユダヤ人、世界の民のためにとりなしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 47章◇(4月20日)

「さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。」…創世記47:27

ヨセフは、父とその家族がカナンから到着したことをパロに報告し、5人の兄弟を彼に引き合わせました。すると、パロはヨセフが想定したとおりに職業を尋ね、兄弟たちもヨセフの指示どおりに羊飼いだと答えました。そしてパロは、ゴシェンの地に住むようにと命じたのです。そこはエジプトの地で「最も良い地」(6,11節)でした。すべてがヨセフに示されていたとおりに進んだのです。一方、起こっていた飢饉はますますひどくなり、エジプトの地もカナンの地もそのために衰え果てました。食物を得るために、人々は、銀を納め、家畜を渡し、農地を手放し、ついには自分たちの身を奴隷として売り、パロに仕える者とならなければなりませんでした。しかしゴシェンの地に住むことを認められたヤコブたちは、神に豊かに祝福され、そこで多くの子どもたちが生まれ、イスラエル(ヤコブ)一族は非常に多くなっていったのです。神は、ヤコブの祖父であるアブラハムに対して、「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし…」と言われました(創17:6)。またヤコブの父イサクにも、「あなたの子孫を空の星のように増し加え(よう)…」と約束されました(創26:4)。そしてヤコブ自身に対しても、「生めよ。ふえよ…王たちがあなたの腰から出る」(創35:11)、「わたしはそこで、あなたを大いなる国民にする」(創46:3)と仰せられました。ゴシェンにおける一族の繁栄は、神が与えられたその契約、約束の実現であったのです。そしてそれはやがて、約束の地カナンでさらに拡がるのです。ヤコブは、自分の死期が近いことを知り、ヨセフを呼び寄せ、エジプトではなくカナンの地にある先祖の墓に葬るよう頼み、それを誓ったヨセフに感謝して床に寝たままおじきしました。それもまた、「私自身が必ずあなたを再び導き上る」という主のことば(創46:4)、ヨセフが見た夢(創37:9-10)が現実となるということなのです。霊的なイスラエル民族である私たちも、真実な神ご自身と約束のことばに信頼し、主が備えられるゴシェンの地で祝福され、霊の家族を増し加えられ、約束の地カナン、永遠の御国へ導き入れられたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 46章28-34節◇(4月19日)

「…そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」…創世記46:34

ヤコブたちはエジプトのゴシェンの地に着きました。そのゴシェンはエジプトの中心地より手前にあり、居住と牧畜に適した地域です。そこでついに父ヤコブとの再会を果たしたヨセフは、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けました。さまざまなことが思い出され感無量だったことでしょう。ヤコブも同じでした。死んだと思っていた息子に会えて感激した彼は、もう今死んでもよいとさえ言ったのです。しばらくして落ち着くと、ヨセフは父の家族に対し、パロに呼び寄せられて職業を尋ねられるときには、家畜を飼う者だと答えるようにしなさいと指示しました。それはエジプト人たちが羊飼いを忌みきらっているため、パロがそう聞いて彼らがゴシェンの地に住むことを認め、そのことが確実にされるとヨセフが判断したからです。ヨセフはヤコブたちをゴシェンに住まわせようと最初から決めていました(45:10)が、そこが牧畜に適するだけでなく、人々が多くいる中心地から少し離れた場所であり、彼らがエジプト人から反感を買ったり、財産を奪われたり、エジプトの異教の神の影響を受けたりしないようにと、ヨセフが神から示されていたからに違いありません。ゴシェンで彼らを祝福することが主の御旨だったのです。私たちも「エジプト」というこの世に住んでいます。そして主は「ゴシェンに留まる」ようにと願っているのです。パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」と言っています(ローマ12:2a)が、それはつまり、この世の人間的な考え方に同化しないということです。異教的な風習やしきたりに迎合しないということです。常に神の国とその義とを第一に求めるということです。しかしそれはエジプトの人々と一切関わらないようにするということではありません。むしろそこで、神の民、アブラハムの子孫としての自覚と誇りを持って歩み、神の祝福を押し流し、神の救いを伝える者となるのです。自らの役割と立ち位置をしっかりと覚えたいと思います。

一人ひとりを主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 創世記 46章1-27節◇(4月18日)

「すると仰せられた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。』」…創世記46:3

ヤコブは、「ヨセフはまだ生きています」と告げられても、すぐにそのことが信じられず茫然としていましたが、エジプトへ行くためにヨセフから送られた車を見ると、死んだはずのヨセフに会えると知って元気づきました。そして孫たちを含めた総勢70名のヤコブ一族は、家畜や財産とともに、エジプトに向けて出発したのです。しかしヤコブにとって、ヨセフの招きだとは言え、カナンの地を離れてエジプトの地に行くことは、必ずしも喜ばしいことではなかったはずです。かつて同じように飢饉があったとき、主はイサクに、エジプトへ下ることを禁じられていました(26:2)。ヤコブは、異教の神を信じているエジプトの民に、一族が同化してしまうのを懸念したに違いありません。彼はベエル・シェバでいけにえをささげて神を礼拝しましたが、そこは以前イサクに主が現われて、「恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう…」と約束された場所であり、イサクが祭壇を築いて礼拝し祈ったところです(26:24-25)。主はそこで彼に、エジプトへ下ることを恐れるな、あなたを大いなる国民にする、「このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る」(4節、2017訳)と言われました。イサクのときとは違い、エジプトに下れと主は命じられたのです。なぜならそこには、先に遣わされたヨセフがいたからです。ヨセフは異教の祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚し、見た目には全くエジプト人と変わらない人となっていました。しかしイスラエルの神に対する信仰は少しも揺るぐことなく、むしろパロを初めエジプト人たちに証しする者となったのです。その子マナセとエフライムの子孫が12部族に加えられたのです。私たちもまた、異教に満ちた「エジプト」に遣わされていますが、主は、地の塩、世界の光(マタ5:13-16)として用いてくださいます。大いなる国民として祝福し、御国に連れ上ってくださるのです。その主がともにおられるので、恐れる必要はないのです。そのことをしっかり覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 45章◇(4月17日)

「それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。」…創世記45:7

ユダの弁明と身代りの申し出を聞かされたヨセフは、それ以上兄弟たちに隠しておくことができなくなり、「私はヨセフです」とついに自分のことを明かしました。それを聞いた兄弟たちは驚きのあまりことばを失いましたが、自分たちがヨセフにしたひどい仕打ちをあらためて思い出し、強い自責の念に駆られたに違いありません。また何らかの報復があるのではと恐れた者もいたでしょう。しかしヨセフは恨みがましいことは一切言いませんでした。このひどい飢饉においてあなたがたと家族のいのちを救うために、生きながらえさせるために神が先に私を遣わされたのだ…すべては神のご計画の中で神がなされたことなのだ…と。そこには主権者なる神に対するヨセフの揺るがない信仰と、自分をひどい目に遭わせた兄たちへの愛と赦しがあります。そのヨセフのことばを聞いた兄たちは神のあわれみを覚え、ただ神の前にひれ伏す思いにさせられたに違いありません。カナンの地にいったん戻り、父ヤコブやそれぞれの家族を連れてエジプトに下ってくるよう、ヨセフは兄弟たちに伝えました。このヨセフの姿こそ、イエス・キリストの予型です。神は罪人を救い出すために、生きながらえさせるために、大切なひとり子をこの世に遣わしてくださったのです。キリストは苦難のしもべとして痛みと苦しみを味わわれ、その頂点である十字架上での血によって私たちの罪を赦し、復活のいのちによって永遠のいのちを与えてくださったのです。またヨセフは、キリストに贖われた私たちの予型でもあります。神は、家族、学校、職場、地域の「残りの者」を救うために、私たちを先に遣わされたのです。初穂とされたのです。まず私たちを選び、救い、福音を伝えるべく任命されたのです。それぞれつらく苦しいところを通らされて主と出会いましたが、それは、自分の救いのためだけのことではないのです。その苦難は、さらに多くの人々が神の救いにあずかり、永遠に生きながらえる者となるために益とされるのです。すべてが神の御手の中にあることを覚えたいと思います。

主は私たちを尊く用いてくださいます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 44章18-34節◇(4月16日)

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」…創世記44:33

食糧が尽きて、再びエジプトのヨセフの元に食糧を買いにきたヨセフの兄弟たちは、歓待を受け、カナンの地へと戻っていきましたが、ヨセフは、前回と同じように銀を彼らの袋の口に戻させ、ベニヤミンの袋には自分が使っている杯を入れ、彼らに濡れ衣を着せるようしもべに指図しました。そしてそれが見つかって戻った彼らに対してヨセフは、杯を持っていた者を奴隷にすると告げたのです(44:17)。18-34節はそのことを受けてのユダの弁明です。ベニヤミンはカナンに残っている父の最後の子であり、その兄は行方不明でおそらく獣にかみ殺されと思われ、父はそのことでとても悲しんだ…。もしさらに末の弟が帰れなかったら、父は死んでしまうに違いない…と。そして、その子の代わりに自分を奴隷としてくださいと、ユダはヨセフに申し出たのです。そのユダは、ヨセフを売り飛ばすことを兄弟に提案し、獣の血をつけたヨセフの服を見せてだますことに加担し、父を嘆き悲しませた張本人です。そのユダがなんと、自分がベニヤミンの身代りになると申し出たのです。奴隷になれば一生戻れないかもしれません。しかし、それでもよいと考えるほどにユダは変えられたのです。自らの行動の悔い改め、父と弟への愛をここに見ます。このユダの子孫からイエス・キリストが生まれます。ベニヤミンの身代りのユダはキリストの予型です。罪にもがき苦しむ人間を見て悲しむ父の思いを知り、罪の奴隷から解放され父の元に帰ることができるように、身代りとなってキリストは十字架にかかられたのです。そしてその愛と自己犠牲と献身の血は、霊的な意味で、キリストに贖われた私たちにも確かに流れているのです。ユダは結局一緒に帰ることができました。キリストもまた、死からよみがえられました。イサクも生き延びました。神は犠牲を犠牲で終わらせない贖い主であられます。その神に私たちも自らを献げる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 43章16-34節◇(4月14日)

「彼は答えた。『安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。…』」…創世記43:23

ヨセフの家に連れて行かれたヨセフの兄たちは、てっきり、前回の訪問時の銀のことでとがめられ、捕らえられ、罰せられると考え、恐れました。そして、その銀は知らない間に袋の口にあった、自分たちは穀物の代金としてちゃんとそれを渡した、それは何かの間違いに違いない…と、彼らは、ヨセフの家の管理人対して必死に釈明したのです。するとその管理人は彼らに、「安心しなさい。恐れることはありません…」と答えました。そしてさらに、あなたがたの神がそうされたに違いない、と告げたのです。自分たちの身を案じていた彼らは、そのことばを聞いて、さぞかしほっとしたことでしょう。彼らの銀を袋に返すように命じたのはヨセフでした。そしてその管理人がそれを実行したのです(創42:25)。しかし彼は、真相を兄たちに明かしませんでした。それは、兄たちに気づかぬように、ヨセフがわざとそれを行わせたことを、彼が知っていたからです。主人の意に沿って行動するしもべの姿をここに見ます。そして神がそれをなしたに違いないと彼が言ったのは、ヨセフの背後に働いておられ、ヨセフが信じている神を、ヨセフを通して彼も信じていたからにほかなりません。ヨセフは、献酌官長やパロの夢を解き明かした際に、それは神がなさること…、神が知らせてくださる…と彼らに告げましたが、しもべもまたそうであったのです。神は、キリストのしもべである私たちをも用いられます。恐れ、悩み、苦しんでいる人々に、愛に満ちた神を伝え、その神は、人には測り知れないご計画を持っておられ、すべてのことを益としてくださる方であると伝え、「安心してください。恐れなくてもよいのです…」と、「これも神の御手の中にあります…」と分かち合うのです。絶えずキリストの意に沿って歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 43章1-15節◇(4月13日)

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」…創世記43:14

ヤコブの息子たちがエジプトから買ってきた穀物も、ひどい飢饉でまったく食糧が得られない状況の中、しばらくすると食べ尽くされ、彼らは再び苦しみました。ヤコブは、またエジプトで食糧を買い求めるように息子たちに依頼しましたが、ユダが代表して彼に、ベニヤミンが一緒でないと総理大臣は会ってくれないと、エジプトで言われたことをあらためて伝えたのです。しかしヤコブは決して首を縦に振りませんでした。ためらって自分の思いから抜けられない父を見たユダは、「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います」(9節、2017訳)とヤコブに告げました。すると、そのユダのことばで目を覚まされたかのように、ベニヤミンを連れて行くことにヤコブは同意したのです。43章では「ヤコブ」ではなく「イスラエル」となっています。その彼が言った14節のことばが心に留まります。そして、新改訳2017などの他の聖書の訳では、「全能の神がその方の前でおまえたちをあわれんで…」と、神ご自身が息子たちをあわれまれると書かれているのです。さらに新共同訳などでは、「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」と訳されています。きっぱりと覚悟を決めたイスラエルの姿がここにあります。ヤコブからイスラエルの名前が変わった出来事…それは、神が彼のもものつがいをはずされたことでした(創世32:25)。それには彼の自我が砕かれたという霊的な意味があります。人間的な思いでためらってベニヤミンを握っていたヤコブは、ユダのことばによって神への信仰を呼び覚まされたのです。神ご自身が息子たちのいのちを保証してくださる…神ご自身がすべての責任を負ってくださる…と。アブラハムがイサクを献げようとしたことが思い起こされます。私たちが握りしめているものを主の前に明け渡すならば、「生きながらえる(「生き延びる:2017訳」)」(8節)者となるのです。全能の神のあわれみを信じ、主権者なる主にすべてを委ね、主がくださる永遠のいのちに生きる者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 42章18-38節◇(4月12日)

「ヨセフは3日目に彼らに言った。『次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。』」…創世記42:18

あなたがたの中の誰か一人をカナンの地に戻らせ、その者に末の弟のベニヤミンを連れて来させなさい、それまであなたがたを監禁すると言ったヨセフは、3日目にその考えを変えたことを彼らに告げました。それは、逆に誰か一人を人質として監禁したままとし、他の者たちがみな穀物を持ってカナンの地に戻り、ベニヤミンを連れて再び自分の元に来るということでした。監禁してから3日目にそのように告げたヨセフの意図…それは、カナンの地で飢えて待っている父ヤコブたちをおもんぱかってのことであり、何よりも兄たちが、思いもよらずすぐに父の元に帰れることになったことを通し、神の恵みとあわれみを覚える者となるためでした。それは神がヨセフに与えた思いによることだったのです。すっかり長期の監禁を覚悟していた兄たちは、「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから」とヨセフに言われ、わずか3日で監獄から出されてそのようなあわれみに満ちた扱いを受けたとき、確かに神の恵みとあわれみを覚える者とされました。だからこそ自分たちにあわれみを求めたヨセフを無視し、商人に売り飛ばしたことに良心の呵責を感じたのです。ヨセフへの愛とあわれみがなかったと悔いたのです(21節)。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者…しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし(てくださった)」(エペ2:1,4-5)。私たちもまた罪のゆえに監獄に監禁されていた者です。しかし、一方的な神の愛とあわれみによってそこから出され、父なる神の元に帰ることができるようにされたのです。それはただ、キリストによる贖いのわざのゆえです。そして主はその旅路に必要なものをも与えてくださるのです。ヨセフは「生きよ(生き延びよ:2017訳)」と兄たちに命じました。私たちも神の愛とあわれみにより「生かされている者」として、愛とあわれみと悔いた心をもって歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 42章1-17節◇(4月11日)

「このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。」…創世記42:15

全世界に起こった飢饉はカナンの地にも及びました。ヤコブは穀物がエジプトにあることを聞き、それを買うために息子たちをエジプトに行かせましたが、最愛の妻ラケルが生んだ自分の12番目の子である、ヨセフの弟ベニヤミンは、一緒に行かせませんでした。ヨセフが獣にかみ殺されたと思い込んでいたヤコブは、ベニヤミンが同じようなことになるのを恐れていたのです。彼の受けた悲しみがいかに大きいかがうかがい知れます。何日も掛けてエジプトに着いたヨセフの兄たちは、今やエジプトの総理大臣の地位にあったヨセフに謁見し、エジプトにある穀物を売ってくれるようにと願い出て、顔を地につけてヨセフのことを伏し拝みました。このとき、兄たちの束が自分の束におじきをしたという、ヨセフが見た夢(37:7)は現実のもの、正夢となったのです。もちろんヨセフはそれが兄たちだとすぐにわかりましたが、気づかれぬよう、見知らぬ者のようにふるまいました。そして間者、つまりスパイだとわざと言いがかりをつけ、誰かが末の弟を連れて来るまで監禁すると告げたのです。9節には、ヨセフが彼らについて見た夢を思い出して、間者だとのいいがかりをつけたとありますが、その夢とは彼が見た2つ目の夢(37:9)を指しています。それは、太陽と月と11の星が自分を伏し拝むというものでした。その内容を聞いたヤコブは、それが自分や母親や兄弟たちを意味していると知ってヨセフを叱りましたが、エジプトで再会した自分の家族の中に、父ヤコブと弟ベニヤミンが含まれていないと知ったヨセフは、神が2つ目の夢をも実現しようとしておられると悟り、自分はどうすべきかを祈り求めて行動したのです。そしてそのことにより、結果的に家族全員が飢饉から守られ、エジプトにおいて神の豊かな祝福にあずかり、やがてカナンの地に戻る準備がなされていくのです。一つ一つが主の御手の中で意味を持ちつながっていること、私たちもその主に導かれていることを覚えたいと思います。

主の確かな導きと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 41章46-57節◇(4月10日)

「そこで、ヨセフはエジプトの地に産した七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々にたくわえた。すなわち、町の周囲にある畑の食糧をおのおのその町の中にたくわえた。」…創世記41:48

エジプト全土を監督せよとパロに命じられたヨセフは、早速出て行ってエジプト全土を巡り歩きました。7年間の豊作の後に7年間の飢饉が来るということを、パロだけでなくエジプトの全国民がきちんと受け取り、そのための備えを着実に進める必要があったのです。人々の中には、豊作が毎年続いている状況において、そのあとにききんが来るというヨセフの言うことを、にわかには信じがたいと疑問視する者もいたでしょう。またヘブル人のヨセフに偏見を持つ者もいたでしょう。ヨセフは巡り歩いた町の住民としっかり対話をしながら、豊作の後に必ずやって来る飢饉に今から備えるべく、町の周囲の畑の食糧を町の中に蓄えさせたのです。役割を果たすために労を惜しまず積極的に出て行き、人々に伝えていったヨセフのあり方に教えられます。飢饉の年が来る前にヨセフに二人の子が生まれました。彼はマナセ、エフライムという名前を二人につけましたが、その名前はそれぞれ、「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」、「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」(2017訳)という意味を表わしていたのです。そしてそれは、兄たちからいじめられて穴に落とされた…エジプトに連れて行かれてポティファルに売られた…その妻から濡れ衣を着せられて監獄に入れられた…夢を解き明かした献酌官長に忘れられてしまった…自分が受けたそれらの苦しみを神は忘れさせてくださった、それだけでなく、不思議な導きの中で神は私を用い、豊かに実を結ぶ者としてくださったという告白なのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。パウロのこのことばが思い起こされます。すべてが主の御手の中にあること、また、神は試練を通して、私たちをも実り多い者としてくださることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: 創世記 41章25-45節◇(4月9日)

「夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。」…創世記41:32

献酌官長と調理官長の夢を解き明かしたヨセフは、2年後、今度はパロの夢を解き明かすべく呼ばれます。パロに犯した過ちを赦され元に戻された献酌官長は、ヨセフの出獄のために取り計らうのを忘れていましたが、見た夢を誰も解き明かせずパロが困っているのを見て、ヨセフという人物がいることをようやく思い出したのです。「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが」とパロに言われ、ヨセフは答えました。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」(41:15-16)。ヨセフは献酌官長たちにも、「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか…」と言いましたが(40:8)、そこには、自分には夢を解き明かす能力があるという、高慢な姿勢は見られません。かつて兄たちに対して、あなたがたの束が私の束におじぎをした…と、自分の見た夢を臆面もなく話したヨセフとは対照的です。パロが見た夢の内容を聞かされたヨセフはまず、「神がなさろうとすることをパロに示されたのです」と、なぜそのような夢を見たのかを知らせました(25,28節)。そしてその夢は、7年間の大豊作と、そのあとに続く7年間の飢饉だと解き明かし、それは神によって定められ、神が速やかになさることなのだと、そこでもヨセフは、主権者なる神を指し示すようにしてパロに語ったのです。そしてそれを聞いたパロは、「神がこれらすべてのことをあなたに知らされた…」と、神の主権を認めたのです(39節)。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ローマ11:36、2017訳)。神は主権をもってすべてのことの中に働いておられ、ご自身のみこころのうちに事を成し遂げてくださるお方です。その神は私たちの日常生活の隅々にまで介入されるのです。そして私たちは、そのように神がなさるみわざを日々体験し、人々に神を主権者として指し示し、証しする者となるのです。

主はともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 40章◇(4月7日)

「ヨセフは彼らに言った。『それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。』」…創世記40:8

無実の罪で監獄に入れられていたヨセフは、パロ王に対して過ちを犯した(1節、2017訳)献酌官長と調理官長の付き人にされました。そして、ある夜二人が見たそれぞれの夢の意味を、ヨセフが説き明かすことになったのです。献酌官長が見た夢は、自分が元の地位に戻され、再びパロの好意を得て働けるということであり、犯した過ちが赦されるという意味を持っていました。それは彼にとってうれしい解き明かしでした。一方、調理官長が見た夢は、犯した過ちが赦されず、3日のうちに木につるされ殺され、その肉が鳥にむしり取られて食べられてしまうという、耳を塞ぎたくなるような恐ろしい解き明かしだったのです。淡々とその解き明かしを伝えるヨセフが印象的です。「それを解き明かすことは、神のなさること…」と彼が二人に言ったことばのとおり、ヨセフは、神から示されたことをに包み隠さず語り伝えるのだと、自分の役割をきちんとわきまえて忠実に行動したのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」(ヘブ4:12、2017訳)。神は私たちの思いやはかりごとも「解き明かす」お方です。ご自身のみことばによって、また立てられた器を通して、知恵と啓示の御霊がそれを解き明かしてくださるのです。それが神の子どもとしてふさわしいものであるのか…それはいったいどこから来ているのか…。主は、私たちの心の深いところを探り、それを明らかにされるのです。私たちはそれに対して目をそらしたり、耳を塞いだり、勝手に割り引いたり、すり替えてしまってはなりません。調理官長はパロに赦してもらうことができませんでしたが、真実な神は、私たちが悔い改めて主に立ち返るならば、過ちを犯してもキリストにあって赦してくださるお方なのです。その主の前に私たちもまた真実でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 39章◇(4月6日)

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」…創世記39:3

「主がヨセフとともにおられ」(2,21節)、「主が彼とともにおられ」(3,23節)、「主がそれを成功させてくださった」(23節)…そのように繰り返されていることに心が留まります。主がいつもヨセフとともにいてくださったということ、出来事の真の主人公はヨセフではなく主であること、そして、「主」(太文字の「主」)が、ヘブル語聖書における「ヤーウェ」を表わしていることからわかるように、その主がイスラエルの神であることを教えられます。兄たちによってイシュマエル人に売られたヨセフは、エジプトに連れて行かれ、パロの部下で侍従長であるポティファルによって買い取られ、しもべとなりました。ヨセフはたちまち頭角を現し、主人に愛され用いられ、家と全財産を委ねられ管理することになったのです。ヨセフは体格も良く、顔立ちも美しかったので、主人の妻は毎日彼に言い寄って誘惑しましたが、彼は拒み続けました。しかし上着を残して逃げたため、乱暴されかけたという彼女の嘘の訴えの証拠に使われ、怒った主人により監獄に入れられてしまいました。しかしそこでもヨセフは監獄の長に気に入られ用いられ、すべての囚人を委ねられ管理するようになったのです。主がヨセフとともにおられるということを、ポティファルや監獄長はどのようにして理解したのでしょうか…ヨセフがヘブル人であることは明らかでしたが(14節参照)、彼がイスラエルの神に全面的に信頼し従っていることを、日々の彼のことばやふるまいによって知り(9節参照)、彼がなすことがすべて成功し祝福されているのを目撃して、そう認めざるを得なかったに違いありません。主はヨセフと同じように私たちとともにいてくださいます。そして周りの人々がそれを認めざるを得なくなるように、私たちの歩みの上に主が多くのみわざを現されるのです。私たちを通して神の祝福が人々にもたらされるのです。私たちの人生の真の主人公は主ご自身であることを覚え、その主に全面的に信頼して従っていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 38章12-30節◇(4月5日)

「ユダはこれを見定めて言った。『あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。』それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。」…創世記38:26

タマルは、ユダの3男であるシェラが成人したのに、自分がその妻にされる見込みがないのを知って、ある作戦を立てました。それは自分を実家に帰らせ、シェラから遠ざけたままにしていたユダをだますべく、何と、遊女に変装して彼との性的関係を持ち、死んだ夫エルの跡継ぎを得ようとする企てでした。ユダは羊の群れの毛を刈るためにある町に上りましたが、それを知ったタマルは遊女の姿で彼を待ち伏せました。その罠にまんまと引っ掛かったユダは彼女を欲し、見返りとして群れの中から子やぎを送ることを約束し、そのしるしとして印形とひもと杖まで与えたのです。その後ユダは、約束どおり子やぎを送ってしるしを取り戻そうとしましたが、もちろん遊女は見つかりません。さらにその後、タマルが売春をして身ごもったと聞き、ユダは憤って、タマルを焼き殺せと命じましたが、彼女がその相手の持ち物として送ってきたものを見て、驚愕しました。それが自分の印形とひもと杖だったからです。タマルとの関係を拒んだオナンは主に殺されましたが、タマルとシェラの関係を絶とうとしたユダはいわば同罪であり、しかも姦淫を犯した彼こそ殺されて当然だったのです。しかし主は深いあわれみのうちにユダを生かされました。後にエジプトのヨセフの元に兄弟たちが行ったとき、末っ子のベニヤミンが人質にされようとするのを知り、ユダは、自分が身代りになると申し出ました(創44:33)。それは38章のユダからは想像できないあり方です。自分も主に殺されて当然だった、しかし生かされた…そのことが彼に真の悔い改めをもたらしたに違いありません。ダビデが犯した姦淫の罪と悔い改めが思い起こされます。そしてそのユダ、ダビデの子孫からメシアが生まれるのです。聖書が彼らの罪の事実を赤裸々に記していることにあらためて驚きます。と同時に、主の深いあわれみと、真実に主に悔い改めることの大切さを教えられるのです。私たちも絶えず主に立ち返る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 38章1-11節◇(4月4日)

「それでユダはオナンに言った。『あなたは兄嫁のところに入り、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」…創世記38:8

創世記38章は読む者に少なからず戸惑いを与えます。37章からヨセフの記事が始まっていますが、それが39章へとつながっている文脈の中で、なぜその間に挿入されたかのようにこの章があるのか…また、人々の罪深い行動をどう受けとめればよいのか…著者とその背後の主の意図は明らかではありませんが、そこに出てくるユダ、タマル、ペレツの子孫から、やがてダビデが生まれ、イエス・キリストが生まれるということは、人の思いを越えた神の奇しいご計画だと言えるのです。ユダはカナン人であるシュアの娘をめとりました。そして、エル、オナン、シェラの3人の息子が生まれましたが、エルが「主の目に悪しき者」(2017訳)として主に殺されたため、弟のオナンは兄嫁のタマルを妻とし、兄の子孫を絶やさないようにする義務があったのです(申命25:5)。しかしオナンは婚姻関係を持っていたにもかかわらず、タマルが妊娠する可能性を自らつぶしていたのです。「生まれる子が自分のものとならないのを知っていた…」、それがそのようなふるまいをオナンがした理由です。そしてそれは「主の目に悪しきことであったので」(2017訳)、彼もまた主に打たれて殺されてしまったのです。オナンはただ自分の損得勘定によって行動しました。タマルに対する愛やあわれみの心などありませんでした。何よりも神の定めた教えに従おうとしなかったのです。「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来た…」(使徒20:35)。ルツに近い親類が買い戻しの権利を放棄し、ボアズが異邦人ルツをめとったことも思い起こされます。何より主イエスは十字架上でご自分のいのちさえささげて、身勝手な私たち罪人を贖ってくださったお方なのです。そのキリストの足跡に従って歩む者でありたいと思います。

主に従順に従う者とされますように。

◇聖書箇所: 創世記 37章18-36節◇(4月3日)

「ルベンはさらに言った。『血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。』ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。」…創世記37:22

創世記37章は「妬み」が中心主題だと言えます。ヨセフが、ヤコブが最も愛していた妻ラケルの子であり、ヤコブが年老いてから生まれた年寄り子であり、ヤコブがそのヨセフを誰よりも愛して特別扱いし、そでつきの長服を与えていたことが妬みの原因です。そして、自分の束に兄たちの束がおじぎをしたという、自分が見たその夢をヨセフが兄たちに話したことで、兄たちの彼に対する妬みは決定的になったのです。父に遣わされ兄たちを追ってドタンまで来たヨセフ…彼がそのとき着ていたのは、そのそでつきの長服です。兄たちは、はるかかなたにヨセフを見たときに、ヨセフを殺そうとたくらんだとありますが(18節)、ヤコブの偏愛の象徴であるその長服を野で見たときに、兄たちにくすぶっていたその思いに火が着いたのです。しかしそこには主の守りの御手が置かれていました。レアが生んだ長子であるルベンは殺すことに反対し、ヨセフを荒野の穴に投げ込むように提案したのです。投げ込まれたその穴の中には水がありませんでした。また同じくレアの4男であるユダも、それよりも奴隷として売ったほうが得策だと主張し、ちょうどそこに通りかかったミデヤン人の商人に銀20枚で売ったのです。主の受難も祭司長たちの妬みがきっかけでした(マル15:10)。主が神の真理のことばを語り、さまざまなみわざを現し、人々に慕われているのを嫉妬し、十字架につけ殺したのです。しかし神は、その主イエスを死からよみがえらせ、その主によって、人々を罪から救い、御国の祝福にあずからせてくださったのです。ユダヤ人に対する迫害も、異邦人の妬みがその根底にあります。神に祝福された彼らを虐殺したのがホロコーストです。しかし神の守りの御手は彼らの上に確かに置かれているのです。パウロは、異邦人の救いを通して彼らに妬みが起こされ、イエス・キリストを求めるようになると言っています(ロマ11:11)。人には測り知れない神の摂理があることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 37章1-17節◇(4月2日)

「あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。」…創世記37:5

5-10節に、ヨセフが見た2つの夢が書かれています。最初の夢は、まっすぐに立ったヨセフの束の周りに兄たちの束が来てヨセフの束におじぎするというものでした。2つ目の夢は最初の夢と似ており、太陽と月と11の星が、やはりヨセフを伏し拝むというものでした。夢の内容を聞かされた父ヤコブは、伏し拝んでいるのが自分や母や兄たちを意味していることを知り、おまえの見た夢はいったい何なのだとヨセフを叱りましたが、その夢で兄たちは決定的にヨセフを憎むようになったのです。5節には「ますます彼を憎むようになった」とあります。つまり、兄たちはその夢の前からヨセフを憎んでいたのです。それは年寄り子であり、しかも最愛の妻ラケルの子ヨセフをヤコブが特別に愛し、彼にそでつきの長服を与えたことため、兄たちはそれを妬み、えこひいきだと憤っていたからです。2節には「父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた」とありますが、特にそばめの子である4人の兄は生い立ちに劣等感を抱き、羊飼いとしての仕事をなおざりにしていたのかもしれません。ヨセフの見た夢はやがて現実のものとなります(創世42:6)。その夢は主が彼に示された預言的なものだったのです。ヨセフはエジプトで用いられ、彼を通してヤコブや兄たちは、守られ、養われ、神の祝福にあずかることになりますが、ヨセフを神の御手にある一人の人として偏りなく見ることができず、寵愛や、嫉妬と憎悪の対象としか見ていなかったのです。それは彼らの心が肉の思いにとらわれていたということです。私たちもまた、さまざまな肉の思いにとらわれてしまうと、霊的な目が閉ざされてしまいます。そしていつの間にか、神のみこころにかなう歩みからずれていってしまうのです。パウロは言っています。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」(ガラテヤ5:17a)。肉の思いにとらわれ、心が支配されてしまうことがないように、御霊に満たされ、御霊のご支配のうちを歩むことができるよう、主の御旨を悟る者となれるよう、主に祈り求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。