◇聖書箇所: 詩篇 36篇◇(8月31日)

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」…詩篇36:9

「罪は悪者の心の中に語りかける」。詩人はそのような書き出しでこの詩を始めています。罪はまるで生きものであるかのように、私たちの心にささやき、誘惑し、働きかけるのです。エバに語りかけた蛇が思い起こされます(創3:1)。罪の語りかけを聞く悪者は、神を畏れることなく、不法と欺きのことばを発し、善を行なうこともありません。5節に入るとそれまでの調子から一変します。「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます」。4節までの悪者の姿とは非常に対照的に、恵みと真実に満ちた神の姿が描かれています。私たちはふだん地上での生活をしていますが、詩人の視点は人間のそれを越えたところにあるのです。「あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ」。6節の最後にあることばですが、2017訳では、「人や獣を救ってくださいます」と訳しています。私たちを罪から遠ざけるのは自らの力ではありません。それは天に満ちる主の恵みとあわれみによるのであり、雲にまで及ぶ主の真実がそれを確かにするのです。高くそびえる山のような神の義の要求を満たせず、海の深淵のような徹底した神のさばきを受けるべき者、そのような私たちを主は恵みにより救ってくださるのです。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」。主のうちにある光こそ、真理を示し、救いの道へと導くまことの光です(ヨハ1:9)。また、主がもたらされるいのちの泉の水は、私たちの心とたましいの渇きをいやすことのできる水であり、永遠のいのちをもたらすものとなって湧き出るのです。(ヨハ4:14)。ここに御子なる神と、御霊なる神を含む、三位一体の神にあるいのちと救いが示されています。主の家の豊かさを受け、主の楽しみの流れで潤される…。そのような者とされていることを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

 

◇聖書箇所: 詩篇 34篇◇(8月29日)

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」…詩篇34:1-2

「私のたましいは主を誇る」…。詩人のその告白のことばが心に留まります。自分には力がなく、知恵もなく、富もない…。人に対して誇れるものは何一つない…。しかし私は主を知っており、私も主に知られている…。主から愛されており、敵の手から守られている…。だから私は、私のたましいは、その主を喜び、主を誇るのだと告白し、宣言しているのです。それは主へのほめ歌、賛美であり、主に救い出された者の証しでもあります。そしてそれは、同じように、自らの貧しさを覚える者たちに、喜びをもたらすものとなるのです。その主は、詩人の叫びに耳を傾けられ、その求めに確かに答えられるお方、あらゆる恐怖と苦難から救い出してくださるお方です。またその主は、正しい者、すなわち主を尋ね求め、待ち望む者たちの上に御目を注がれ、彼らが辱められないよう守ってくださるお方なのです。「主を恐れよ(「畏れ敬え」:新共同訳)。主の聖徒たちよ」。詩人は主を信じる者たちに、そう呼び掛けています。なぜなら、主を畏れる者には乏しいことがないからです。それは必ずしも目に映るところによらず、この世の基準にもよりません。それは神がもたらされる霊的な豊かさであり、メシアが統治される神の国の祝福なのです。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう」(詩20:7)。誇るとは自慢する、拠り頼むということでもあります。自分自身の力、知恵、富を誇る者ではなく、万軍の主である神の御名、神ご自身を誇る…。そのような者こそ真に強く、豊かで、富んでいるのです。あらゆる時、どのような状況においても主をほめたたえ、主の御名をあがめ、主を誇る者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 16章◇(8月28日)

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」…マルコ16:20

週の初めの日の朝によみがえられた主イエスは、マグダラのマリヤにご自分を現されました。彼女は、主の死を嘆き悲しんで泣いている人々の元に行き、主が復活されたことを知らせましたが、彼らはそれを信じようとはしなかったのです。また、彼らのうちの二人が歩いていたとき、主イエスは別の姿でご自分を現されました。そこでその二人も仲間の残りの者たちの元に行き、復活された主に出会ったことを知らせましたが、彼らはその二人の話も信じようとはしなかったのです。その後、主イエスはその残りの者たちの前に現われ、彼らの不信仰とかたくなな心を責められました。14節には「11人が食卓について…」とあります。それはおそらく、主がガリラヤで召し出された12弟子からユダを抜いた11人であったでしょう。多くの弟子の中でも宣教開始当初から主とともにいた、いわば主イエスの側近、コアメンバーである彼らが、復活の主に出会ったと証言する人々を信じようとしない、不信仰とかたくなな心を持っていたのです。そのような心は私たちにもあります。あのトマスのように、自分の目で見、自分の手で触れなければ信じないと、罪深く不信仰でかたくなな心を持つ私たちは思うのです。しかし私たちには神のことば、聖書が与えられています。そこには救い主の到来の預言が数多く記されており、その預言が成就され、主イエスが多くのみわざをなされ、十字架と復活により人類の罪の贖いを成し遂げられたことが、復活の主に出会った人々の証言が書かれているのです。そして20節にあるように、主が天に上げられた後も、主は弟子たちとともに働き、そのみことばに伴うしるしをもって、みことが真実であることを主ご自身が確かにされたのです。そしてそれは2千年後の今でもなされ続けているのです。主は私たちに、「信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを」(エペ1:19)日々教えてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 15章22-47節◇(8月27日)

「そして、3時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」…マルコ15:34

主イエスは、十字架上で息を引き取られる直前、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と悲痛な叫びをあげられましたが、なぜ神である主イエスがそう叫ばれたのでしょうか。実はそのことばは、詩篇21篇1節のことばであり、それは、神としてのことばではなく人のことばであり、人類の代表としての叫び、身代りのことばだったのです。全き神であり、かつ全き人として歩まれた主イエスは、そのとき、全き人として、神に見放されるという痛みと悲しみを、私たちの代わりに味わわれたのです。しかし詩篇の詩人はこのようにも告白しています。「私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。…彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」(詩篇22:4-5)。主イエスが詩篇22篇のことばを引用されたということは、それが預言として成就したというメッセージでもあります。詩篇22篇18節には、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」とありますが、確かにローマ兵はそのようにしたのです(マル15:24)。神から見捨てられたように私たちが思うことがあるとしても、それは人の思いであって、決して事実ではありません。詩人が告白したように、神に信頼する者は必ず助け出され、恥を見ることはないのです。またそのような絶望を私たちが味わうとしても、その痛みと苦しみは、主イエスによって知られているのです。主イエスはすでに2千年前に、全人類のその重荷を、一身に受けてくださっていたのです。それは私たちがそのような自分の思い、重荷から解放され、平安と希望をもって歩むことができるようになるためであり、死からよみがえられた主の勝利に私たちもあずかり、永遠のいのちを持つことができるようになるためなのです。どんな状況でも、もうだめだ…と希望を投げ出すことなく、助け出してくださる主に拠り頼む者でありたいと思います。

折りにかなう主の助けが与えられますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 15章1-15節◇(8月25日)

「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。」…マルコ15:15

律法学者たちは主イエスを殺したいと願っていました。訴える正当な理由は何もありませんでしたが、議会で死刑に定め、ピラトに引き渡しました。それは主イエスが真理のことばを宣べ伝え、病をいやし、悪霊を追い出し、人々に人気があると、主イエスに強いねたみを抱いていたからです。また群衆は、そのような多くのみわざを見て、メシアの到来かと、最初は主イエスに期待しましたが、彼らが望んでいたのは、自分たちの国をローマ帝国の支配から解放する政治的リーダーであったのです。主イエスがそのような人物ではないと知ったとき、彼らの期待は失望へ、そして祭司長たちの扇動により、殺意へと変わって行ったのです。一方ピラトは、律法学者たちが、ねたみによって無実の主イエスを自分に引き渡し、十字架刑によって葬り去ろうと企んでいることを見抜いていました(10節)。そしてそれを止めるべく何度か群衆に働きかけましたが、狂気に満ちた彼らが暴動を起こしかねないと見ると、ユダヤ総督としての自分の立場が危うくなるのを恐れ、群衆のきげんを取るために、十字架刑を認めたのです。そしてバラバです。彼は罪人として牢に入っていましたが、過越の祭りの慣習であった赦免の対象者として、主イエスの代わりに突然釈放されることとなったのです。これらの人物…それは実は私たち一人ひとりなのです。ねたむ心を持ち、神の真理のことばに耳を傾けようとせず、この世の繁栄を求め、世間の風潮に流されてしまい、神に従うと持てるものを失うのでは…と恐れる者だからです。そんな私たちが彼らといっしょに主を十字架につけたのです。しかしその十字架は、神の一方的な恵みとあわれみにより、罪人である私たちが赦され、釈放されるためであったのです。私たちは、赦免され釈放されたバラバなのです。主の十字架の意味を、あらためて覚えたいと思います。

救い主イエスの御名があがめられますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 14章53-72節◇(8月24日)

「するとすぐに、鶏がもう1度鳴いた。ペテロは、『鶏が2度鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」…マルコ14:72 (新改訳2017)

捕らえられた主イエスを追い、大祭司の家の庭に入ったペテロは、人々から主イエスの仲間だと言われ、「何を言っているのかわからない」と言って否定し、それを、2度、3度と繰り返しました。そしてそのとき、鶏が2度目に鳴いたのを聞いたペテロは、そのようになると主から言われていたのを思い出し、泣き出したのです。その場に泣き崩れたのです。それは、「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と主に反論していたにもかかわらず、まさにそのとおりになってしまったことに愕然とし、自分の高慢とふがいなさに打ちのめされたからです。私たちはそのようなペテロのふるまいと姿を見て、しょうがない奴だ…と見下すことはできません。なぜならここでのペテロの問題の本質は、主を信じ切ることができなかったということであり、そのような局面は私たちの日常の歩みにおいても、「小さなつまずき」として、いくつもあるからです。ペテロは、弟子たちの、そして私たちの代表なのです。しかし主イエスはそんなペテロに対して、「だから言ったとおりじゃないか、不信仰な者よ…」と、彼をさばくようなことはされませんでした。よみがえられた主は、ガリラヤ湖のほとりでペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」と3度尋ねられ、3度ご自身を否んだ彼の失態を、「はい」と答えるそのことばにより一つ一つ帳消しにし、赦し、回復させるようにされたのです(ヨハネ21:15-17)。それはペテロに対する主イエスの深いあわれみです。私たちは、ペテロのように、不信仰なふがいない自分に愕然として泣き崩れることはないかもしれません。しかしそのような私たちの悔いた心、砕かれた心を、主はさげすまれないのです。むしろ喜ばれるのです。主の深いあわれみは私たちの上にもまたあるからです。

主の確かな守りがありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 14章43-52節◇(8月23日)

「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」…マルコ14:50

主イエスを捕らえるために、裏切り者のユダを先頭に、祭司長や律法学者たちから差し向けられた群衆が、剣や棒を手にして主イエスの元にやって来ました。そのとき、弟子のひとりが剣を抜いて斬りかかり、大祭司のしもべの耳を切り落としましたが、弟子たちはその後、一人残らずイエスを見捨てて、逃げてしまいました。そしてそれはまさしく、主イエスが引用して予告された、「羊は散り散りになる」という、ゼカリヤの預言のことばのとおりであったのです。主がそのことを予告されたとき、ペテロは真っ先に、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と豪語していました。そして、主イエスから、「あなたは、きょう、今夜、鶏が2度鳴く前に、わたしを知らないと3度言います」と告げられたのです。しかしその出来事が起こる前に、彼はすでに、他の弟子たちとともに、主を見捨てて逃げ出したのです。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、…私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)。主イエスは捕らえられ、いよいよ苦難のしもべとして、十字架に向かわれます。その十字架上で主は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、主は、まず、ご自分の弟子たちから見捨てられるという、屈辱と悲しみを味わわれなければならなかったのです。ルカの福音書15章4-6節には、いなくなった1匹の羊を捜し出すために、残りの99匹の羊を置いて、その羊を見つかるまで歩き回る羊の所有者のたとえを主イエスが話されたとありますが、その者こそ、良き羊飼いである、イエス・キリストなのです。主はどんなことがあっても、私たちのことを決して見捨てず、見放さないのです。主は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださったお方なのです。またその主は、弟子たちからも、父なる神からも見捨てられるという苦難と痛みを受けられたお方であり、私たちの痛みや悲しみをすべて知っていてくださるのです。それをご自分のものとして受けとめ負ってくださるのです。私たちはその主に、ただ感謝と賛美をおささげするのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 14章26-42節◇(8月22日)

「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」…マルコ14:28

「あなたがたはみな、つまずきます」と、主イエスは弟子たちに予告されました。「つまずく」とは主イエスへの信仰を失うことです。そしてそれは、自分が試練や逆境に置かれたとき、主イエスに信頼するだけで大丈夫かと恐れるからです。自分を守るにはそれでは心もとないと考えるからです。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』。主イエスはゼカリヤのことば(ゼカ13:7)を引用されました。主はご自分を牧者、弟子たちを牧者の元にある羊とし、その羊飼いが打たれる、すなわち苦難に会うとき、羊は自分たちの身の危険を感じて、羊飼いを置いて、てんでんばらばらに逃げていくと言われたのです。しかしそのとき主イエスは弟子たちに、「あなたがたは私につまづいてはなりません」とは言われませんでした。なぜなら彼らがつまずくのは、ゼカリヤが預言したとおり、それもまた主のご計画のうちにあったことだからです。そのことにより羊である弟子たちは、自分たちの弱さと信仰のなさを、思い知らされることになるのです。ペテロを初め弟子たちが、自分たちはつまずかないと言い張った根拠、それは、自分の意志、肉の力です。しかしそれは試練の中でもろくも崩れてしまうのです。そして主はそのことを百も承知であられたのです。その主は、「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と言われました。主は信仰のない弟子たちを見捨てず見放さず、「わたしについて来なさい」と言って漁師であった彼らを召し出されたガリラヤで、彼らと会うと言われたのです。私たちに求められるのは、自分の弱さ、信仰のなさを主の前に素直に認めることです。私たちを見捨てず、私たちが主に従うことを決心した原点、初めの愛に立ち帰らせてくださる主と、日々親しく交わることです。信仰と力を主からいただくべく願い求めることなのです。そして主は確かにその祈りに応えてくださるのです。

主はいつもともにいてくださいます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 14章12-25節◇(8月21日)

「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」…マルコ14:25

過越の食事をどこで取れば良いのですかと、弟子たちは主イエスに尋ねました。過越の祭り、すなわち、イスラエルの民がエジプトの地において、奴隷から解放されそこから脱出できるようになるため、ほふられた小羊の血がかもいと門柱に塗られた家を主が過ぎ越され、そうでない家の初子が打たれた、そのことを記念するための祭りでの食事の場所です。主イエスは、ある人の2階の広間が備えられている、そこに食事の用意をせよと、具体的に指示されました。そして、過越の食事の場所を備えられた主はその後、いよいよ十字架へと向かって行かれるのです。それは、自ら過越のための傷のない小羊となられて、十字架にいけにえとしてほふられ血を流される、その血により、キリストを信じる者が罪から解放され、約束の地である御国に入る者とされるということであり、その救いが過越しの出来事を祝う中で起こったのは、人知を越えた奇しい神のご計画であったのです。自らが備えられた過越の食事の席で主イエスは、神の国で新しく飲むその日までは、ぶどうの飲み物を取ることはない、と言われました。それは逆に言えば、小羊とご自身を信じる者たちとのそのような祝宴が、将来備えられているということです。黙示録に、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから」と書かれてあるとおりなのです(黙19:7)。信仰共同体である教会で執り行なわれる聖餐式…。それは、私たちが神の小羊の血によって贖われたことを記念するだけのものではなく、やがて来る終わりの日に、教会が花婿なる小羊、キリストの花嫁として迎えられることを覚え、希望を新たにし、喜び感謝するときなのです。またそれは、キリストのからだの各部分である私たちが、日々の主との交わりの中においてもそのように思いを馳せ、小羊を見上げて賛美する「恵みのとき」であるのです。

主はすべてを備えてくださいます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 14章1-11節◇(8月20日)

「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。」…マルコ14:8(2017訳)

一人の女性が高価なナルド油の入った壺を割り、突然その香油を食事中の主イエスの頭に注ぎました。一同はその出来事に驚き、何人かの者たちは、この香油なら3百デナリ以上、今のお金で数百万円で売れるはずだと、その価値を見積もりました。そして、なぜそのような高価な油を無駄にしたのか、それよりも、売って貧しい人たちに施すべきだったと、憤慨し、その女性を厳しく責めたのです。しかし主イエスは、彼らのことを逆にとがめました。彼女がするままにさせてあげなさい。彼女は、私を愛し、私のために良いことをしてくれたのだ、これからのことに対して、自分ができる最高のことを精一杯してくれた、惜しみなくささげてくれたのだ…と。主が私たちに求められていること、それは、この女性と同じように、神を愛することを第一とし、主に最高のものをささげることであり、その時々で自分にできることを精一杯行なうことです。弟子たちは、なぜ貧しい人たちに施さなかったのかと非難しましたが、この高価なナルド油を、主のために惜しみなくささげ、主への愛を表わすことは、主に喜ばれることであったのです。主イエスは、一番大切な戒めは、心と思いと知性と力を尽くして、神である主を愛することであり、その次に大切なことが、隣人を自分自身のように愛することだと、申命記とレビ記の律法を示されました(マルコ12:29-31)。この女性と主イエスのことばから教えられるのは、その第2の戒めが、第1の戒めよりも大切になってはいけないということです。ボランティアのような社会的貢献活動が、主を礼拝することに優先されるなら、それは主を喜ばせることにはならないのです。今、主のために「自分にできること」は何か…。それは、主を賛美すること、みことばに従うことかもしれません。いずれにしても、心から主を愛する思いをもって、最善、最高のものを主におささげしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 13章14-27節◇(8月18日)

「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」…マルコ13:27

終わりの時について、主イエスはさらに語られました。「荒らす憎むべきもの」が自分の立ってはならない所、すなわち本来は神が立つべき聖なる場所に立ち、自分を神であるとするなら、それが終わりの時だ…と。この「荒らす憎むべきもの」とは、ダニエルが預言した異教徒の王であり、究極的にはサタンのことです。そしてそれは苦難の始まりであり、その苦難は、過去にも将来にもない激しいものとなるのです。また偽キリストや偽預言者が現われ、しるしと不思議を行なって人々を惑わし、神から引き離そうとして働きます。しかし、その苦難に続いて天の万象は揺り動かされ、人々は、人の子、キリストが、偉大な力と栄光とともに雲に乗って来られるのを見るのです。そしてそのキリストは、地の果てから天の果てまで選びの民を集められるのです。「選びの民」とは血筋によるユダヤ人たちではありません。それはキリストを信じて贖われた者たち、霊的なイスラエルの民とされた私たちのことです。この選びの民ということばは20節にも使われています。主はご自分が選ばれた民のために、苦難の日数を少なくしてくださるのです。「…くださった」と過去形を使い、定まった不動のこととされているのに心が留まります。キリスト者にとって、終わりの時は恐ろしい時ではなく、キリストと再びまみえるようになる時、選びの民としてキリストの元に集められて、歓喜に湧く時なのです。だからといって、漫然と日々を過ごすべきではありません。主は「気をつけていなさい」(23節)、「目をさまし、注意していなさい」(33節)と、繰り返し警告しておられるのです。そのときまで信仰をしっかりと保ち続け、その時になって慌てふためくことがないよう、霊の目をさまし、良き備えをし、また、家族や友人が選びの民として加えられるように、キリストの救いと再臨を伝えていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 13章1-13節◇(8月17日)

「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」…マルコ13:10

弟子の一人が神殿の立派な礎石を見て感嘆し、なんと見事な石、なんとすばらしい建物でしょうと、主イエスに言いました。しかし主は彼に対して、これらはやがて崩される、積まれたままでずっと残ることは決してない、と告げられたのです。それを聞いた弟子たちのうちペテロたち4人は、いつそのようなことが起こるのか、そのときにはどんな前兆があるのかと主イエスに尋ねました。主イエスは彼らに、多くの偽キリストが現われること、民族間、国家間の争いや、地震、飢饉が起こること、それらは産みの苦しみの始まりだと教えました。そして彼らが捕らえられ、引き渡され、打ちたたかれ、迫害されるときが来ることを予告されたのです。しかしそれには神の明確な目的があるのです。「それは彼らに(迫害する者たちに)あかしするため」と主イエスは言われました(9節)。11節にも、自分に示されることを話しなさいとあります。そしてそれに挟まれる10節には、「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」と書かれているのです。それは、「福音宣教」が、単に、「救いについての説明」ではないことを示唆しています。すなわち、キリストの弟子たちの歩みの中に現された、神のみわざ、起こった事実を人々に証言することが、神の国の到来という良き知らせを伝えることであり、一人ひとりのその生きた証しが尊く用いられるのです。立派な神殿、目に見える建物もやがては崩れ落ちます。しかしどんな戦い、試練の中にあっても決して崩れない、霊的な神殿こそが大切だと主は語っておられるのです。それはイエス・キリストという揺るがない土台の上に立つ、私たちの神への信仰です。またそれは私たち自身です。試練や戦いの中に置かれた私たちが体験する主の助け、救い、揺るがない平安…。それを私たちが積極的に証しし、それを聞いた人々が主を求め、主と出会い、みことばを信じて救われていく…。それは「福音宣教」にほかならないのです。聖霊さまの助けと導きの中で人々に証ししたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 12章38-44節◇(8月16日)

「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」…マルコ12:44

主イエスは律法学者たちの偽善を指摘されました。権威を誇示するような長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶され、集会で上座に座り、長々と祈りをし、人々からの尊敬を受けることに満足する彼らは、一方で、宗教的立場を利用して、貧しいやもめからも、あわれみなしに利益を得ようとしていたのです。彼らは人一倍きびしい罰を受けると主は言われました。それから主イエスは、神殿の献金箱の前に座り、多くの金持ちが大金を献金箱に投げ入れる中、ひとりの貧しいやもめがレプタ銅貨2枚を投げ入れたのを見られ、弟子を呼び寄せて、彼女は誰よりも多くをささげた、と賞賛されました。そのレプタ2枚は彼女にとって生活費のすべてでした。主は弟子たちに、皆はあり余る中から投げ入れたのに…と言われましたが、持っているお金の額に対する献金額の割合が問われているわけではありません。主がレプタ2枚をささげたやもめを賞賛された理由は、彼女が神に100%信頼する心を持っていたからです。生活費の全部をささげたら次の日から生活できない…。そのやもめは決してそのようには考えなかったのです。どうやってかはわからないが、神が必ず養ってくださる…。そのことを信じて疑わなかったのです。そして神は、彼女のその信仰を喜び、応えられたに違いないのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サム16:7)。主が偽善者だとした律法学者たちが気にしていたのは、「人の目」です。「人はうわべを見る」ゆえに、彼らは見栄を飾り、外見、体裁、形にこだわったのです。長い衣を着ても人がいないところには行かないのです。しかし、その彼らが利益をむさぼる貧しいやもめは主に全面的に信頼して持てるものすべてをささげた…。ここに、私たちが神の前にどう生きるべきかということが、対照的に描かれています。絶えず神のまなざしを覚え、主の前に真実に歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 12章28-37節◇(8月15日)

「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」」…マルコ12:29-30

ひとりの律法学者が主イエスに尋ねました。すべての命令の中でどれが一番大切なのかと。すると主イエスは、申命記6章4節、5節を引用し、心と思いと知性と力を尽くして神を愛することが何よりも大切な戒めなのだと答えられたのです。「あなたの神である主」ということばに心が留まります。それは、恐ろしくて近寄りがたい存在の神ではなく、イスラエルという共同体全体の神でもなく、「あなたの神である主」、すなわち、私たちとの個人的で近しい関係を結んでくださる神、卑しいしもべ、はしためのような私たちの主人として、真実に愛し、守り、目を掛けてくださるお方なのです。その神の愛と恵みに感謝し、応答し、神を愛しなさい、それも口先だけでなく、心と思いと知性と力を尽くして、私たちの全存在を掛けて、持てるものを総動員して、神の愛と恵みに応えなさいと、命じられているのです。主イエスが引用された申命記の箇所の後には、他の神々に従ってはならない、主を試みてはならない、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守りなさい、エジプトから連れ出されたことを覚えなさいとあります。それらはすべて主を愛するための具体的なことであり、それを、私たちの感情と知性とすべての領域において、最善を尽くして実行することが求められているのです。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出エジ20:2)。「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジ20:6)。私たちにとって一番大切なことは、モーセの時代も、イエスの時代も、そして今も変わらないのです。「わたしの神である主」を、全存在を掛けて愛する者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 12章13-27節◇(8月14日)

「するとイエスは言われた。『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』彼らはイエスに驚嘆した。」…マルコ12:17

パリサイ人たちは主イエスのことばじりをとらえ、わなに陥れようとして主イエスに質問しました。ローマ皇帝であるカイザルに税金を納めることは、律法にかなっているのか、かなっていないのか、税金を納めるべきか、納めるべきでないのか…と。彼らは、主イエスが納めるべきだと言えば、神よりもカイザルのほうを大切だとする不敬虔な者だ、神を冒とくしているとし、納めるべきでないと言えば、カイザルに反逆する危険な反乱分子だと訴えようと、企んでいたのです。しかし主イエスは彼らの欺瞞を見抜いて、デナリ銀貨を持って来させました。そしてそこに誰の肖像と銘があるのかと尋ねたのです。彼らが戸惑いつつ、カイザルのだと答えると主は、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に、それぞれ返すようにしなさいと言われました。パリサイ人たちは二者択一での答えを求めましたが、主は、カイザルも神も、両方を肯定したのです。彼らは知恵と真理に満ちた主のことばに驚嘆しました。主はカイザルを神と等しいとしたわけではありません。カイザルの存在とその治世は神の御旨によることであり、ローマ帝国によってユダヤの国は支配されてはいるうが、それによって治安が保たれ、経済活動が成り立ち、一定の秩序の中で混乱なく暮らすことができている…。そのことを認め、感謝し、税金を納めるのは当然なのだと、主は神とカイザルの関係を明らかにされたのです。私たちに国家、社会が与えられているのは神の恵みです。パウロは、王や高い地位にある人たちのために祈り、とりなし、感謝するようにと命じています(1テモテ2:1-3)。私たちがそれぞれ置かれている職場、学校、地域もまた、神の御手の中にあることを覚え、主に感謝するとともに、そこで求められている義務と役割を忠実に果たしつつ、神の国の祝福を押し流す者とされたいと願うのです。

主が一人ひとりを尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 12章1-12節◇(8月13日)

「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」…マルコ12:9

主イエスはぶどう園と農夫のたとえを話されました。それを聞いていたのは祭司長や律法学者たちです。そのたとえにおけるぶどう園のオーナーは父なる神、遣わされた多くのしもべは旧約時代の預言者たち、悪い農夫たちはたとえを聞いている律法学者たちを含め、イエスをメシアだと信じようとしないすべてのユダヤ人、そして愛する息子はイエスご自身を示しているのです。神はぶどう園の収穫を手にするのを期待しておられました。そのためにしもべを何度も農夫たちの元に遣わしたのです。すなわち預言者たちはメシアの到来を告げ、不品行や偶像礼拝を悔い改めて主に立ち返るように促し、愛と忍耐とあわれみをもって民に関わり続けたのです。しかしユダヤ人たちはその神のしもべたちの声に耳を貸さず、自分たちがやりたいように歩み続けていたのです。そして愛するかけがえのない神のひとり子イエスさえも、十字架につけろと言って殺してしまったのです。ぶどう園の農夫に取って求められること、それは、オーナーから任されたぶどう園をしっかりと管理し、甘いぶどうの実がたくさんなるように世話をすることです。そしてオーナーが権威を与えて遣わしたしもべや息子を、オーナーとまったく同じように敬い、命じられたことに従い、ぶどう園の収穫を差し出してオーナーを喜ばせることです。そうでない悪い農夫たちは期待を裏切って、打ち滅ぼされ、ぶどう園は他の人(異邦人)に渡されてしまうのです。このぶどう園は神の国を、収穫はその祝福を示唆しています。農夫たちはぶどう園の財産を独り占めしようと企みました。それは律法学者たちの選民意識を表わしているのです。ひるがえって救いを受けた私たちも、それで満足するならば、神の国の祝福を独り占めすることになってしまうのです。それでは神が私たちに託されている役割を果たせないのです。主イエスを敬い、みことばを重んじ、それに聞き従う者となる、神の期待にしっかりと応えて神を喜ばせる者となる…。それが、このたとえから学ぶべきこと、私たちのあるべき姿なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 11章12-25節◇(8月11日)

「イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」…マルコ11:14

空腹を覚えられた主イエスは、葉の茂ったいちじくの木が遠くにあるのを見られ、何かありはしないかと、わざわざご自分から見に行かれました。それは明らかに、いちじくの木になっている実を取って食べ、空腹を満たすことを期待されていたということです。しかしその木は葉ばかりが生い茂っており、肝心の実は一つもついていませんでした。主イエスは厳しいことばをその木にかけられました。翌朝、そのいちじくの木の前を一行が通り過ぎると、なんとその木は根まで完全に枯れていたのです。それを見たペテロは主が言われたことばを思い出し、その通りになったと主イエスに告げると、主はそのことに直接答えず、「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」と言われました。それは、いちじくの木もまたその例外ではないということです。この記事から思い起こされる次のようなみことばがあります。「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです」(ロマ11:22)。これは直接的にはユダヤ人と異邦人におけるキリストにある救いのことを言っていますが、神の報いが正しいことをこのみことばは教えています。このいちじくの木の記事から学ぶべきこと、それは、主の期待に答えて実を結ぶ者は主を喜ばせ、主の期待に反して実を結ぶことができない者は、主を失望させてしまうのだ、ということであり、結果に対して主は正しい報いをなされるということです。神はいつくしみとともにきびしさを持っておられるのです。神に選ばれた者として、大きな実、多くの実でなくても、日々、小さな実を着実に結ぶ者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 11章1-11節◇(8月10日)

「もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」…マルコ11:3

主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られました。マタイの福音書の並行記事を見ると、そこには、ゼカリヤ書9章9節のことばが引用されており、預言者が語ったことが成就したのだとあります。そしてそのみことばを開いて見てみると、そこには、「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」と書かれています。さらに脚注を見ますと、「柔和」と訳されていることばは、「へりくだり」とも訳せるとコメントされているのです。柔和で、へりくだり、従順に神に従われ、私たちのあがないのために十字架に進まれた方…。それはイザヤ書53章に書かれている苦難のしもべ、人類の救い主、メシアである主イエスのことです。キリストは王なる方なのに、この世の王とは異なり、強くて目立つ軍馬に乗られたのではないのです。柔和でへりくだったキリストに最もふさわしいのは、同じく柔和で従順な性格を持つ子ろばであったのです。主は、子ろばを連れてくるように弟子たちに頼んだ際、「主がお入用なのです」と言うようにと命じました。そしてそのことばは、いま私たちにも語られているのです。主は強い軍馬を必要としておられるのではないのです。どんくさい、しかし従順な子ろばを必要としているのです。主イエスを乗せたその子ろばは、まだだれも人を乗せたことのないものであったと記されています(3節)。主がお入用だ、主の働きに用いたいのだ、と言われて、経験がないから…と私たちは尻込みすべきでないのです。また弟子たちは自分たちの上着をろばの背に掛け、その上に主イエスが乗られたとあります(7節)。それはあらかじめ用意してあった専用の布ではなく、弟子たちの上着がそのままの形で用いられたのです。主は私たちのあるがままを用いてくださるお方なのです。持てるものを喜んで差し出す者でありたいと思います。

置かれたところで主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 10章46-52節◇(8月9日)

「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』」…マルコ10:51

一行がエリコを出ると、道端に座っていたバルテマイという名の盲人の物乞いが、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めました。それを聞いた弟子たちは、主イエスが迷惑しないようにと彼を黙らせましたが、全く意に介さず同じことを叫び立てる始末でした。しかしその声を聞かれた主イエスは歩みを止め、弟子たちにバルテマイを呼んで来させました。そしてご自分の前に立った彼に向かって、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられたのです。そのことばを聞いた弟子たちはこう思ったことでしょう。見えるようになることに決まっているではないか、なぜ主はわざわざそのことを聞かれるのか…と。彼は主イエスに答えました。「先生。目が見えるようになることです」。すると主は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、そのときバルテマイの目は見えるようになったのです。バルテマイは、主イエスのことを人々から聞き、その方なら必ず自分の目も見えるようにしてくださると信じて、会える日をずっと待ち望んでいたのです。それを知っておられた主は、彼に何をしてほしいかをあえて尋ね、自らの口をもって答えさせたのです。彼は「ダビデの子のイエスさま」と叫んでいました。「ダビデの子」とはメシア(キリスト)を示す称号です。彼の答えは、イエスが見えるようにしてくださるという、メシアに対する信仰の告白にほかならなかったのです。「わたしに何をしてほしいのか」…。主は私たちにも尋ねておられます。言わなくてもわかっているはず…ではなく、あえてそれを自らの口からのことばとして言い表すことを主は求めておられるのです。それは、神への祈りであり、信仰の告白であり、賛美なのです。主は御前に立ち上るその香りを大いに喜ばれるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 10章32-45節◇(8月8日)

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」…マルコ10:43-44

先頭に立ってエレサレムに上っていく主イエスに、弟子たちは驚き、恐れを覚えました(32節)。それは、主の顔の表情や足取りが、有無を言わせないようなきっぱりとしたものであったからに違いありません。弟子たちの心を知っておられた主は彼らを呼び寄せ、ご自身の苦難とよみがえりについて語られました。その主のことばを聞いた後に、ヤコブとヨハネの2人が、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」と主に頼み込みました。しかし主イエスは、それは自分が許すことではない、それに備えられた人々がある(「人たちに与えられる」:2017訳)と言われたのです。なぜヤコブとヨハネはそのように頼み込んだのでしょうか。それは2人が、偉くなりたい、人々から一目置かれたい、尊敬と称賛を受けたいと願っていたからです。誰が一番偉いかと、少し前に弟子たちが論じ合っていたことが思い起こされます。そしてそのときも、直前に、主はご自身の苦難と復活を告げておられたのです。「ささげる」ことと「受ける」ことの対比がここにあります。主イエスは弟子たちに言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(45節)。ヤコブとヨハネの願い、それはイエスのあり方とは真逆です。そして偉くなりたいと思っていたのは実は弟子たち全員であり、ヤコブとヨハネの申し出はそれを代表したと言えるのです。仕えるよりも仕えられることを、与えるよりも受けることをと、ともすれば、そう願う生き方を私たちもしてしまいます。しかし主がご自身の弟子に求めておられるあり方は、それとは正反対のものであり、それが御国の価値観であり、天に宝を積むことなのです。主に贖われたしもべとして、そのように歩んでいるかを絶えず自問自答したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 10章23-31節◇(8月7日)

「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」…マルコ10:27

どうしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるのか(2017訳)、と尋ねたある人は、自分は律法をみな守っていると、誇らしげに主イエスに告げました。しかし、持ち物をすべて売り払って貧しい人たちに与えよ、と主イエスに言われると、彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのです。マルコは、「この人は多くの財産を持っていたから」と記しています(22節)。その後、主イエスは弟子たちに、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と言われ、さらに、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とも言われました。弟子たちはそれらのことばに驚き、それでは誰も救われない…と言い合ったのです(26節)。しかし主イエスは、貧乏でなければ神の国に入れない、と言われたのではありません。裕福であること自体は悪いことではなく、それはむしろ神の祝福です。問題は、この人がそれを手放せなかったことなのです。主はそれを元通りに、それ以上に祝福される方であり、真の「裕福」とはお金や物を所有することではないのです。主イエスが、あなたは天に宝を積むことになる、また、どんなことでも神にはできると言われたとおりなのです。昨日の箇所で教えられたように、神の国に入る、永遠のいのちを受けるために求められるのは、何かをすることではありません。また、今日の箇所から教えられるのは、何かを持つことでもないということです。求められるのは、何ができなくても、何を持たなくても、神の国の祝福、永遠のいのちを与えてくださる方への信仰なのです。何も持たない子どもたちのように、ただ主に拠り頼み、主を待ち望む者となることなのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)。主にすべてを明け渡し、天からの良きもの、霊的祝福を求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 10章13-22節◇(8月6日)

「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」…マルコ10:15

主イエスに触れていただこうとして、人々が子どもたちを連れてあちこちからやって来ました。主イエスがなされるみわざのことを聞いた親たちは、子どもたちが神の祝福にあずかることを願ったのです。ところがその様子を見た弟子たちは彼らを叱りつけ、子どもたちを主イエスの前から追い払おうとしました。おそらく、主が忙しくて疲れておられたのを知って、煩わされないようと配慮してそうしたのでしょう。それを見た主イエスは強い憤りを覚えられました。弟子たちがそのように子どもを邪険に扱ったからです。彼らは、自分たちの中で誰が一番偉いか論じ合っていたとき、子どもを抱いた主から、このような子どもたちの一人をわたしの名によって受け入れる者は、わたし自身を受け入れるのだと言われたことを、すっかり忘れてしまっていたのです(マルコ9:37)。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」。主イエスにそのように言われた弟子たちは驚いたことでしょう。神の国はこのような子どもたちのものなのか…と。彼らにとって、大人が手助けしないと何もまともにできない、そんな未熟で弱い存在である子どもたちより、主イエスとともにさまざまな働きを行っている自分たちのほうが、神の国にはよりふさわしいと考えていたに違いありません。そしてそれは、永遠のいのちを受けるために何をしたらよいかと、主イエスに尋ねたひとりの人も、弟子たちと本質は同じなのです。彼は、律法をすべて守っていると誇らしく主に答えました(20節)。神の国に入るため、永遠のいのちを得るために求められること、それは、私たちが「何かをする」ことではありません。キリストを通して神の国に入ることができると素直に信じて、子どもたちのようにご自身の元に来ることが主の願いなのです。神の国の祝福にあずかるために、絶えず主を慕い求め、幼子のように主のふところに飛び込んでいきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 9章38-50節◇(8月4日)

「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」…マルコ9:47

「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません」(41節)。昨日の箇所である37節からの文脈の中で、この主イエスのことばは語られています。「キリストの弟子だからというので」とは、つまり、「わたしの名のゆえに」ということであり、主は、わたしを信じる者たちに水一杯を飲ませる人は、神に確かに覚えられていると言われたのです。その逆に、キリストの名を信じる小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、神が許さず退けられるのだと主は言われました(42節)。「小さい者」とは子どもという意味ではなく、社会の中で、取るに足りない、価値がないと見られている者です。神は決して、社会的に地位の高い者、富んだ者、能力のある者だからといって尊ばれる方ではありません。そうではなく、キリストの名のゆえに、御名を信じる者を、罪から救い出し、ご自身のこどもとし、神の民として、尊い特別な存在として扱ってくださるお方なのです。また「つまずきを与える」とは、神が備える正しい道をまっすぐ歩ませようとせず、つまずくための石のようなものを持ち込んで転ばせようとして、妨害することです。主は自分自身のうちに、つまづきになるものがあるなら、それらを切り捨てなさい、えぐり出しなさいと言われました。手が、足が、目が…と、からだの中の異なる部分を挙げ、同じことを3度繰り返して強調しているのです(43-47節)。もちろんそれは、字義どおりせよということではありません。それほどの犠牲を払ってでもつまずきとなるものを取り除き、真のいのちにあずかるほうが、神の国に入るほうが、はるかによいこと、望ましいことだと主は言われたのです。つまずきを与えるものは外だけでなく私たちの内にもある…。それを不退転の決意で取り除きなさい…神の国に入るため…。その主のことばをしっかりと受け留めたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 9章30-37節◇(8月3日)

「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」…マルコ9:37

主イエスは弟子たちに質問されました。道で何を論じ合っていたのか…と。しかし弟子たちは答えず黙ったままでした。誰が一番偉いかを論じ合っていたからです。主がそれを喜ばれないと感じていたからです。弟子たちのその思いを知っていた主イエスは、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」と彼らを諭されました。後になってその主は実際に、腰をかがめ、弟子たちの足を洗われたのです。また主は、ひとりの幼子を腕に抱き寄せながら、このような者をわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた方、父なる神を受け入れるのだと言われました。当時、幼子はしばしば邪魔者扱いされていました。また一方的に大人に服従させられていたのです。「受け入れる」とは、認めること、尊重することです。さらに言えば、愛すること、自分をささげることです。それは、「仕える者となりなさい」という主の命令と同じ文脈の中で語られている教えであり、世の価値観とは真逆の、神の国の価値観なのです。いじめ、虐待、パワハラ、過剰な接待の強要…今の世に蔓延しているそれらは、自分が支配したい、自分が偉くなりたいという思いの表れであり、それは、神ではなく自分…という罪の性質から来ているのです。そして弟子たちもその罠にはまってしまったのです。「わたしの名のゆえに」とは、「わたしの名のために」という意味でもあります。御名があがめられるために、御国がもたらされるために、小さき者、他者を受け入れ、愛し、仕える弟子を、主は今も求めておられるのです。神の国の価値観に生きる者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 9章14-29節◇(8月2日)

「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」…マルコ9:23

ある父親が汚れた霊につかれた息子を連れてきました。主イエスにその霊を追い出してもらうためにです。しかし主イエスと3人の弟子は山に行って不在だったので、残りの弟子たちに代わりにそうしてくれるよう頼みました。しかし彼らには追い出すことができなかったのです。父親は失望し、弟子たちは面目を失い、騒ぎとなりました。そこに戻って来た主イエスがいったい何事かと尋ねると、父親は事情を説明し、願いが叶わなかったと訴えました。すると主は、「ああ、不信仰な世だ(「時代だ」:2017訳)」と嘆かれ、「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか…我慢しなければならないのか」と言われ、その息子を自分のところに連れてくるよう命じられたのです。主イエスが言われた「あなたがた」とは誰のことでしょう…。それは霊を追い出せなかった弟子たちであり、また、弟子たちにできるのか…と疑っていた父親だったのです。その父親は主イエスに対しても、「もしおできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と半信半疑でした。主イエスは父親のそのような姿勢を非難されました(23節)。そして父親は、主のそのことばに引き出されるようにして、「信じます。不信仰な私をお助けください」と願ったのです。主イエスは汚れた霊を叱りつけ、息子から追い出しました。私たちもともすれば、このようなことは…こんな状況では…と、世の常識やこれまでの経験からつい考えてしまいます。全能者なる神の働きに、勝手に限界を設けてしまうのです。そして「できるものなら…」と、控えめな態度で主に求め、そうならなかったときに、「みこころではなかった…」と、自分を納得させようとするのです。そう決めつけるのです。しかし主イエスは、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と、今も語っておられるのです。結果についてあれこれ考えるのではなく、主にすべてを委ね、「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫びつつ、ひたすら主に祈り求めていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 9章1-13節◇(8月1日)

「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい』という声がした。」…マルコ9:7

今日の箇所は「キリストの変貌」と呼ばれる記事です。主イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山に登られました。すると突然、彼らの目の前で、着ていた衣がこの世にはない白さで輝いたのです。それは、キリストが罪と汚れを全く持っておらず、神の栄光に満ちたお方であることを表わしていました。またそこに、いつの間にかモーセとエリヤが現われ、主イエスと3人でしばらく語り合っていましたが、モーセは律法の象徴、エリヤは預言者の代表であり、2人は律法と預言者、つまり旧約聖書を表わしています。その旧約聖書の最後の書、マラキ書の最後のことばは、「モーセの律法を覚えよ」(4:4、2017訳)であり、「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(4:5)であって、その預言は、先駆者であるバプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストによって確かに実現したのです。その後、モーセとエリヤは消えてイエスだけとなりましたが、それは、律法による古い契約が、神の国の福音による新しい契約によって引き継がれたということを意味します。またそれは、いけにえの動物の血による罪の赦しが、罪と汚れのないキリストの血によって与えられ、その救いが神の一方的な恵みによるものだということを示しているのです。モーセとエリヤが消える直前、人々を覆った雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がしました。それは、主イエスが洗礼を受けて水から上がられたときに聞こえた天からの声、父なる神の御声であり、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせ」、「わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」(マラキ4:6)に神が遣わしてくださった「預言者エリヤ」、すなわちイエス・キリストのことなのです。そのキリストのことばを聞き、御国の福音、良き知らせを信じ、キリストの血による新しい契約の中に生きる民となること、それが神がすべての人に望んでおられることなのです。そのために神は私たちを用いて、その救いの働きを進められるのです。

キリストのことばがますます拡がっていきますように。