◇聖書箇所: 詩篇57篇◇(2月28日)

「神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」…詩篇57:5(,11)

「神よ。私をあわれんでください」と、そのような詩人の訴えからこの詩は始まっています。私を心に留めてください、見放さないでください、あなたの恵みにあずからせてください…と、詩人は主の前に自らを低くして呼び求めているのです。「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に」(2節)。そして詩人は、神こそが確かな避け所であり、その主の御翼の陰に身を避けるならば、敵の手から自分の身が守られることを知り、その主の元に行き、小さき自分のためにすべてを成し遂げてくださるいと高き神、偉大な神を呼び求めているのです。「神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように」。しかし彼にとっての真の願いは、単に自分が敵の手から救い出されることではありませんでした。それは、神の御名と栄光が全世界であがめられ、すべての民が主をほめたたえることだったのです。「神よ。私の心はゆるぎません。…私は…国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう」(7,9節)。詩人の堅い決意と、世界を見る目が心に留まります。たとえいま、敵から追われて苦しむ中にあっても、味方となる者が誰もいない孤独な状況であっても、神がともにおられて私の避け所となってくださる…。主が私のためにすべてを成し遂げてくださる…。だから私はこのところで神をほめたたえるのだ…と。「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです」(10節)。詩人はそのように神を賛美し、最後にもう一度、神があがめられることを願ってこの詩を閉じています。私たちもまた、「わたしの心はゆるぎません」と、決意を新たにし、神をほめ歌う者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇56篇◇(2月27日)

「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」…詩篇56:4

神への訴えに続いて神への信頼が告白される…それが繰り返され、神への感謝がささげられる…。本誌篇はそのような流れに従って書かれています。「行きつ戻りつ」する詩人の心が表われています。それは弱さを抱えている私たちの心でもあるのです。みことばをほめたたえます、と詩人は告白しています。聖書に記され、また御霊ご自身によって語られる一つ一つの神のことばは、神ご自身であって、私たちに対する真実な神の約束のことばです。そのみことば、すなわち神に信頼する者は、何も恐れることがないのです。なぜならみことばは、神がこの世界を造られ、主権をもってすべてを統べ治めておられることを示しているからです。詩人を踏みつけ、しいたげている敵のいのちさえも、神の御手の中にあることを詩人は確信していたのです。「肉なる者」、神に造られた存在である人間が、みこころに逆らい好き勝手にすることはできないのです。「神が私の味方である」…。それは決して、詩人のひとりよがりの思いからのことばではありません。神を認め、神に拠り頼もうとするすべての者にとって、神はとりでであり、避け所であり、力の源なのです。たとえ孤軍奮闘のような状況に置かれたとしても、神が味方となって守り、支え、助けてくださるのです。12-13節は詩人が神にささげる感謝のことばです。あるいは、依然として戦いの中に置かれている中で、信仰によって感謝を先取りしたのかもしれません。いずれにしても、神の守りと助けが与えられる中に、詩人は「いのちの光」を見いだしているのです。それはまさに、詩人がほめたたえた神のことばであり、それは今も、すべての人を死から救いだす光なのです。その光のうちに、主の御前を歩み続けたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇55篇◇(2月26日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」…詩篇55:22

22節のみことばはよく知られています。「重荷」を自分に課せられた仕事や責任と考え、主に委ねるなら主が助けてくださると理解します。そのように捉えることは決して間違っていませんが、全体の流れの中でこの節をあらためて黙想するとき、別の角度からの光によって新たな発見を得るのです。詩人は、悪者の迫害に会って苦しんでいます。恐れおののき、そこから逃れることを願っています。しかし、自分を責め立てる存在は遠くにではなく、実は親友の中にもいることを詩人は知るのです。彼らは神を畏れようとしない者たちです(19節)。彼らが頼り誇るものはあくまで人の知恵と力です。そんな彼らはひたすら神に拠り頼もうとする詩人を、「異質」なものとしてとがめ排除しようとするのです。そんな中、「神に信頼するだけでいいのかい…」と、真の敵である悪魔は詩人にささやいてくるのです。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」。「心配してくださる」と訳されている元のことばは、「支えてくださる」とも訳すことができます(2017訳)。「主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」とありますが、主が弁護してくださるのです。「重荷」とは、ひたすら神に信頼する信仰者が直面する、この世における「生きづらさ」と言えるかもしれません。しかし私たちが救い主への信仰によって義とされ、神の祝福の中にあることは、主ご自身が証しされるのです。私たちの存在と正しさを認めてくださるのは主なのです。この世では肉のがんばりを要求されることがありますが、「重荷」を負ってくださる主にすべてを委ねたいと思います。

主の確かな守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇54篇◇(2月25日)

「神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。」…詩篇54:7

「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください」(1節)。詩人はそのように主に訴えています。それは見知らぬ者たちが詩人に立ち向かい、横暴な者たちがいのちを狙っているからです(3節)。「見知らぬ者」を口語訳では「高ぶる者」と訳し、新共同訳では「異邦の者」と訳しています。彼らは自分の前に神を置いていない者たちなのです。そのように自分の前に神を置いていない者にとって、進むべき方向とその道を決めるのは自分です。こっちに、あっちにと、自分の思うままに進んでいく…。それは誰にも干渉されない自由な歩みであり、人はそのようなあり方を理想的なものとしがちです。しかしその道が行き着く所にあるのは闇と死です。なぜならそれは神という「的」をはずした歩みであり、罪に満ちた生き方にほかならないからです。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」。詩篇16篇8節にはそのようなことばがあります。自分の前にたえず主を置いている者にとって、その歩みは決して窮屈で不自由なものではありません。それは、どんなことがあっても揺るがされることなく、心が喜び、たましいが楽しみ、安らかに住まう歩みであり(詩篇16:9)、永遠のいのちへと続くものなのです。自らの前に主を置く…。それは、私たちの歩みを主に全面的に委ね、主のことばに聞き従うということです。前を進む主の足跡を忠実にたどるということでもあります。ヘブル書の作者も、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と命じています(ヘブル12:2)。そのような者こそ、試練の中にあっても、本誌篇の詩人のように、「神は、すべての苦難から私を救い出し(た)」と、先取り感謝できるのです。前におられる主にしっかり目を留め続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇52篇◇(2月23日)

「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」…詩篇52:8

おのれの財産に信頼する者たちや、豊かな富を誇る者たちの愚かさについては、詩篇49篇でも語られていましたが、本誌篇においても、豊かな富に頼り、おのれの悪に強がる者への神の扱いが語られ、それとは対照的に、詩人のように神の前に正しく歩む者たちの幸いが描かれています。1-7節は詩人と対立する悪しき者の描写です。彼は欺く者、偽りとごまかしを愛する者であり、何よりも、神の恵みに拠り頼もうとはせず、神を力としない者であって、それゆえ神は、悪者を打ち砕き、打ち倒し、幕屋から引き抜き、地から根絶やしにされるのです(5節)。8-9節において詩人は、自らを、そのような悪者とは全く違う存在だとして語っています。「神の家にあるおい茂るオリーブの木」という表現に心が留まります。それは、神にある豊かないのちと繁栄の象徴であり、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」という、詩篇1篇3節のことばが思い起こされます。詩人はそのようにしてくださる神とその恵みに、世々限りなく拠り頼む、と告白しています。そして感謝をささげています。とは言え詩人は、すべてが満たされ順風満帆というわけではなく、さまざまな必要を覚えていたに違いありません。だからこそ、「いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます」と、なお主を求めているのです。「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」(詩篇27:14)。私たちもまた、主にある幸いを覚え感謝しつつ、なおも主を待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇51篇◇(2月22日)

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」…詩篇51:10

表題によれば、この詩はダビデによるものであり、彼がバテ・シェバとの姦淫の罪を犯した後に、預言者ナタンによってそのことを指摘され、神の前に罪の赦しときよめを求めている詩です。「私」と「あなた」ということばが数多く繰り返して使われていることがわかります。それはダビデが神とのいのち通う結びつきの回復を、切に求めていることの表れなのです。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください」(1節)。ダビデの嘆願は、ひたすら神の恵み、情け、あわれみに基づいてなされています。そのように、罪の赦しは私たちに対する神の一方的な恩寵であって、人間の側の努力やがんばりによるものではないのです。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」(7節)。ヒソプは汚れた者のきよめの儀式に使われる植物です。自分は雪の純白さからほど遠い者であって、罪に染まっている…というダビデの思いをここに見ます。罪の赦しと完全なきよめへのダビデの強い願いは、さらに内側からの刷新への思いへと進ませています。10節には「きよい心を造り」、「ゆるがない霊を新しく」とあり、母の胎の中で造られた自分の心と霊が神に再創造され、古い自分とは全く違う者へと変えられることを切望するダビデの思いが表されているのです(2コリ5:17参照)。この詩は決して「人ごと」ではありません。私たちもまた、神の愛と恵みとあわれみのうちに、キリストの贖いによって罪赦された者として、しかし罪の性質を依然持つ者として、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に日々願い求めるべきなのです。そして神は確かにその祈りに応えてくださるお方なのです。

主の似姿へとさらに変えられますように。 

◇聖書箇所: 詩篇50篇◇(2月21日)

「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」…詩篇50:14

詩人は神こそが審判者であると告げています。神はご自分の民をさばくために、上なる天と、また地とを呼び寄せられ、いけにえによって神との契約を結んだ者たちを、ご自身の元へと集められるのです(4-6節)。そのご自身の民に対して「聞け。わが民よ」と、神は呼び掛けられ、戒めを与えておられます。それは民がささげるいけにえのことではありません。確かにいけにえはいつも神の前にありました。しかし神はそれでよしとはされないのです。実際、民は、動物のいけにえをささげるという、目に見える儀式を形式的に行なうだけであり、それで神の求めに応えていると考えていました。しかし神が本当に求めておられるものは、民の内側からささげられる感謝のいけにえであり、感謝の心が伴っていない形だけのいけにえを、神は喜ばれず、受け入れようとされなかったのです。また誓いを果たさない者、すなわち主の御声を聞き、アーメンと口ではいいながらそれに従おうとしない、行動が伴わない者をも、神は喜ばれないのです。16節以降においても、そのような言行不一致の偽善者に対し、神は厳しいことばで責めているのです。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サム15:22)。「正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる」(箴言21:3)。「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」(ヘブル13:16)。主に喜ばれる真のいけにえをささげたいと願います。

主の喜びが自らの喜びとなりますように。 

◇聖書箇所: 詩篇49篇◇(2月20日)

「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」…詩篇49:15

詩人は中傷する者たち取り囲まれていました。彼らは自分の財産に拠り頼んで歩み、その豊かな富を誇る者たちであったのです。彼らにとっては、財産は幸せをもたらす源であり、富は何でも手に入れられる大いなるものでした。詩人は財産や富そのものを否定していません。ただそれに信頼し、それを誇り、万能とするなら、神を不要とする心になることを暗示しています。「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない-」(7-8節)。どんな財産家でも、自らの罪の刑罰を減じるための身代金を支払うことができない…。たましいの贖いの代価は気が遠くなるほど高く、一生かかって貯めてもその額には到達しないため、それを支払うのをあきらめなくてはならないのです。富に信頼する者たちは自分の家が永遠に続くと考え、土地に自分たちの名をつけようとさえします。しかし人は栄華のうちにとどまれないのです(11-12節)。ただ神だけが私たちのたましいを買い戻し、よみの手から私たちを奪い返してくださるのです。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました」(1テモ2:6)。この詩篇にそのキリストが予型として示されています。主イエスも人々にこう言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(ルカ12:15)。財産のみならず、神以外のものに拠り頼む者はすべて、神のいのちの中にいきいきと生きることができない…。その真理を悟ることができる者は幸いなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: 詩篇48篇◇(2月19日)

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」…詩篇48篇14節

「主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において」…。そのような書き出しで始まる詩篇48篇は、詩人が神の宮において、神の偉大さ、恵み、守り、そして救いについて思い巡らし、その神をほめたたえている賛美の詩です。「神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された」。ここで「やぐら」と訳されている原語は、46篇7節で「とりで」と訳されていることばと同じです。敵の襲来を見つけ攻撃するための高い塔のことです。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」と詩篇121篇4節にもあるとおり、主は民が敵に襲われないよういつも見張り、城壁を張り巡らせて攻撃から守ってくださるので、民は安心して宮において過ごすことができるのです。新約の光で見るなら、その宮殿は私たち自身です。聖霊さまが内に住み、臨在を現してくださるのです。そしてそこに責めて来ようとするさまざまな敵から、主ご自身がやぐらとなり、城壁を張り巡らせ、宮殿の中にいる聖徒たちを守っていてくださるのです。12節では「そのやぐらを数えよ」とあります。やぐらはいくつもあるのです。そのように主は、私たちの日々の歩みのさまざまな局面に介入され、気づかないときにも御手を動かしてくださるのです。やぐらを数え、城壁に心を留め、宮殿を巡り歩く…(13節)。それはそのような偉大な主を思い巡らすことです。そして私たちはその主を後の世代に語り伝えるのです。主が私たちをとこしえに(死を越えて:2017訳)導かれる方であることを子孫や隣人に告げ知らせるのです。そのような者とされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 6章◇(2月18日)

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」…ガラテヤ6:2

互いの重荷を負い合いなさいと、あります。それは、それぞれが抱えているやるべき事柄を担い合いなさいという実際的な意味にも取れますが、1節から5節の文脈を考えるならば、一人ひとりのうちにある罪の性質のゆえに、他者の言動によっていやな思いにさせられたり、傷つけられて赦せない思いになったとしても、キリストにあって互いに赦し合いなさい…と、パウロが命じていると理解することができます。つまり重荷とは、すべての人が持つ罪の重荷です。その重荷はキリストが代わりに負ってくださいました。ゆえに私たちがそれに押し潰されることはありません。しかし罪の性質は依然として残っているのであって、自ら苦しみ、他者を傷つけることが確かにあるのです。だからこそ、キリストがそれを負ってくださったように、互いにそれを負い合う…つまり赦し合うべきなのです。コロサイ3:13には、「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」と書かれています。新改訳2017では2節の後半を、「そうすれば、キリストの律法を成就することになります」と訳しています。キリストの律法とは、主が大切な戒めだと示された、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という旧約時代からの律法です(レビ19:18、ガラ5:14参照)。私たちはキリストにあって神から愛され、赦された…。だからこそ、同じようにして隣人を愛し、赦すべきだと、この律法は今も変わらず聖徒たちに求めているのです。種を自分の肉のために蒔くのか御霊のために蒔くのか…。8節のことばは、自己中心に生きるのか、それともキリスト中心に生きるのか、と読むことができます。キリスト中心に生きるとは、キリストに愛され、赦された自分を愛し、他者を愛し、赦すあり方です。そのような者として生かされたいと心から願います。

主の似姿へとさらに変えられますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 5章1-12節◇(2月16日)

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」…ガラテヤ5:6

パウロは、割礼を受けずにキリストを救い主と信じてキリスト者とされたガラテヤの諸教会の聖徒たちが、割礼派の者たちの教えに惑わされてしまい、「割礼を受けなければ救われない」と考え、実際に割礼を受けてしまっていることについて、もしそんなことをするなら、キリストの存在とその贖いは無意味であり、何の益もないのだ、と言っています(2節)。キリストは律法の奴隷となっていた私たちを解放し、素晴らしい自由を得させてくださったのであり、その自由を誰にも奪われるな、奴隷のくびきを再び負わせられるなと、パウロは強調しているのです。ガラテヤのキリスト者たちは多くの者が異邦人であり、本来、割礼を受ける必要はありませんでした。そのことは、その「割礼問題」について、パウロがエルサレム教会で話し合い、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避ければよい」と決まったのです(使徒15:29)。そしてパウロが言うように、もしも割礼派の主張のとおり異邦人が割礼を受ける必要があるとするならば、律法のすべてを同様に行わなければならないのであり、そんなことは到底不可能なのです。つまり、救いが得られなくなってしまうのです。ユダヤ人はユダヤ人として割礼を受けたままで、異邦人は異邦人として割礼を受けていないままで、どちらもキリストの贖いのみわざを信じて救われる…。それが首尾一貫しているパウロの主張なのです。割礼という目に見える儀式的なものにとらわれず、罪深いこの私が神に愛され、キリストの十字架と復活によって救われたことをただ感謝する…。そのようなあり方こそ神が求めているものなのです。キリストの福音をしっかり心に留めたいと思います。

主の恵みへの感謝がますます満ちあふれますように。

 ◇聖書箇所:◇コリント人への手紙4章21-31節◇(2月15日)

「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」…ガラテヤ4:31

「律法の下にいたいと思う人たち」(21節)…。律法は人を「奴隷」として支配し、神が人に与えられた自由を奪う存在です。しかしキリストを救い主として信じてもなお、律法を守ることによって、平安を覚えたり、神の祝福が得られると考える者がいたのです。しかしパウロはそのような者たちに対して、律法の言うことを聞かないのか、つまり、それならなぜすべての律法に従わないのか…、それは中途半端であり矛盾だと指摘しています。「アブラハムにふたりの子があって」(22節)…。それはアブラハムと女奴隷ハガルとの間の子イシュマエルと、高齢の妻サラとの間の子イサクのことです。パウロは、女奴隷ハガルの人間的な思いから生まれたイシュマエルが「肉によって生まれた子」であると言い、一方、アブラハムへの主の約束の成就として与えられた最初の子孫であるイサクが、「約束によって生まれた子」だと言うのです。キリストを信じて義とされた聖徒たちもまたイサクと同じく神の約束のこどもであって、律法を守ることにより祝福を得る存在ではない。だから律法に愛着を残すべきではない、それでは真の自由を得たことにならない…。それがここでパウロが言おうとしていることです。私たちも神の約束を心細く思うこともありますが、自分の力、地上的なものに頼ろうとする思いを、追い出す者(30節参照)でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

 ◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 4章1-20節◇(2月14日)

「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」…ガラテヤ4:6(新改訳2017)

信仰によるアブラハムの子孫は、神の祝福を相続できる神の子どもであっても、実際にはキリストが来られる時まで、義認、御霊、永遠のいのちといった本来の祝福を受けることができずにいました。パウロはそれを、一般的な相続人を引き合いに出して説明しています。相続人というものは、父親の全財産の持ち主なのに、未成年のうちはその家の奴隷と少しも変わらず、管理人の監督の下で一人前扱いされずにいるため、豊かな財産を得ることがまだできずにいるのです。パウロはまた、そのように私たちが小さかったときは、この世の幼稚な教え(「もろもろの霊」:2017訳)の下に奴隷となっていたのだと語っています。それは8節の「本来神ではない神々」、すなわち、偶像の神、人間中心主義、律法主義などを指します。それらに捕らわれてしまい、自分で自分を救おうとするむなしい努力を重ねていたのが私たちの姿なのです。しかしそのような支配から人類を解放する、父なる神の定めの時が来たので、キリストが遣わされ、律法に完全に服従する義なる者となったのです。そしてそれは、律法の下にがんじがらめにされている私たちを解放し救い出すためであり、その結果、御子を信じる者は神の子とされる特権を得たのです。そのようにキリストにあって神の子とされた私たちが、神を「アバ」(「パパの意)と親しく呼べるということは、驚くべきことです。そして「呼ぶ」というその原語には、「大声で叫ぶ」という意味が本来あるのです。どんなことでも父なる神に叫びをもって祈り求める、そのような深い関係を常に保ち続けたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 3章15-29節◇(2月13日)

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」…ガラテヤ3:24

パウロは、3章13節において、「キリストは、…私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と言っています。そのことばだけを抜き出して捉えるなら、律法は悪いものであり、私たちにのろいを与えるもの、という理解になってしまいます。しかしパウロは律法を否定してはいません。律法を守り抜いて神の義を得ようとしても、罪人である私たちにはそれは不可能であって、その意味で、律法はいのちを与えるものでない、神から義と認められるためにあるのではない、それがパウロが言おうとしていることなのです。パウロは再びアブラハムを持ち出しています。それは、神がアブラハムと結ばれた契約は、モーセを通して神が民に与えられたよりも430年も前のことであって、アブラハムはそのとき律法のことを知るよしもなかった…。アブラハムは神の約束を信じて祝福を受けた、義とされた…。後からできた律法によって、その以前の契約が取り消されることなどない…。そのことを読者に強調するためなのです(17-18節)。では律法とはいったい何のためにあるのか…。パウロは律法の役割を明らかにしています。律法は人をキリストへ導くための「養育係」なのだ…と。それは、律法があるからこそ、それを守ろうとしてもそうできない自分、また、うちにある罪を私たちが思い知らされ、その罪から救われたいと、もがき苦しむ中で、キリストへと導かれるためだと言うのです。しかし救われた私たちは、もはやその養育係の下にはおらず、キリストの下にいるのです。キリストこそいのちをもたらすお方なのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。 

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 3章1-14節◇(2月12日)

「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」…ガラテヤ3:14

3章でも引き続き「信仰による義」を説くパウロは、ユダヤ人の祖であるアブラハムについて語ります。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました」と書かれていますが(6節)、それは、彼が主に連れ出されて満天の星を見上げたとき、「あなたの子孫はこのようになる」と言われ、彼が主を信じ、主がそれにより彼を義と認められた、その出来事を指しているのです(創世記15:5-6)。さらにパウロは、主がアブラハムとの間に結ばれた、契約のことばを示しています(8節)。創世記12章3節、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。ここで「すべての民族」がイスラエルの民以外の民、すなわち異邦人を含んでいることは明白です。新改訳2017は「すべての異邦人が…」と訳しています。「信仰による義」は、パウロが考え出した新しい教理、神学ではありません。また、イエス・キリストによって人々に伝えられた、新しい神の教えでもないのです。パウロは、星空を見せられ、主を信じて義と認められ、全人類の祝福の基とされたアブラハムに言及して、神がアブラハムに語られたことばに読者が心を留め、真理に霊の目が開かれるようにと願っているのです。私たちは、信仰によって生きる異邦人です。血肉ではなく信仰によるアブラハムの子孫であり、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者なのです。そしてそれは、律法ののろいを受けてくださった(13節)、キリストによってもたらされた神の驚くべき恵みであり、そのキリストの御霊を、私たちは今受けているのです。そのような者とされていることを感謝したいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 2章11-21節◇(2月11日)

「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」…ガラテヤ2:16a

パウロはペテロに面と向かって抗議しました。それは彼が、アンテオケ教会の異邦人キリスト者と食事をともにして交わりを持っていたにもかかわらず、ある人たちがエルサレムから来たのを知ると、割礼派の人たちから非難されることを恐れて、異邦人から身を引くようになってしまったからです。ユダヤ人にとって異邦人は「罪人」であり(2:15)、一緒に食事をすることはあり得なかったのです。それは律法の規定に反する行為だったのです。ペテロに向けられたパウロの憤り、それは何よりも、その行動が、キリストの福音が意味のないものとされ、他の人々をも引き込むこととなっていたからです。13節には「本心を偽った行動」とありますが、その部分の直訳は「偽善を行なう」ということです。キリストを信じているというその心とは裏腹に、割礼派、つまり異邦人にも割礼を強要する者を恐れ、異邦人との食事を避けようとするのであれば、それは信仰と行動の不一致であり偽善ではないか…と。「肉なる者はだれも、律法を行なうことによっては義とみとめられないからです」(16節c、2017訳)。パウロはそのように明確に語っています。すべての人は罪人であって、神からの律法の要求を自分の頑張りによって満たすことはできないのです。私たちは律法を守り通すことによっては神から義とされず、律法を全うされたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされるのです。神の前に罪のないものとされるのです。ここで「信仰によって義とされる」という意味をはき違えると、信じるという「行い」を頑張ることになってしまいますが、そうではないのです。それは、私たちの義認の根拠が、律法を全うされたキリストにあるということなのです。律法に死んだ私たちがキリストにあって生きる者とされた…。それがパウロが伝えようとしていることなのです(19-20節)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章11-24節◇(2月9日)

「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき…」…ガラテヤ1:15-16

15節は「けれども」ということばで始まっています。パウロはそのとき、かつて神の教会、キリスト者たちを激しく迫害し滅ぼそうとしていたにもかかわらず(13節)、ダマスコへの途上でまばゆい光に照らされて倒れ、「なぜ私を迫害するのか…」というキリストの御声を聞き、そのキリストの十字架と復活による罪の贖いという、驚くべき神の恵みが御霊により啓示された出来事を、ありありと思い返していたに違いありません。その「けれども」に続いて、パウロは告白しています。神は、自分が生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださっていたのだと…。2017訳では、「母の胎にあるときから私を選び出し」となっています。パウロは言わずにはおれなかったのです。そのように、人には測り知れない神のご計画の中で、自分はこの世に生まれて導かれてきた…。そして、律法学者からユダヤ教の教えを学び、それに精通し、伝承することに人一倍情熱を燃やしてきた自分が、なんと、迫害していたキリストによって捉えられ、今度はキリストの福音を伝えるため、キリストの使徒として、今もこうして異邦人の元へ遣わされているのだ…すべてが主にあって益とされているのだ…ということを。「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」。詩篇の作者もそのように主に告白しています(詩篇22:10)。私たち一人ひとりもまた、母の胎にあるときから神に愛され、選ばれ、主にあって生きる者となるよう、あらかじめ定められていたのです。それは人知を越えた奇しい神のご計画であって、私たちの人生は、決して、自分が計画し、やりたいように歩むものではないのです。神の御手の中で導かれ、主に用いられるものなのです。そのことを覚え、すべてを委ねる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章1-10節◇(2月8日)

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」…ガラテヤ1:8

パウロは「驚いています」と言っていますが(6節)、原文ではそのことばが文頭にあります(…2017訳)。その驚きがいかに大きいかを強調しているのです。なぜなら、手紙を宛てたガラテヤの諸教会の人々が、キリストによる福音を信じて救われたはずなのに、その福音から急に離れて、それを見捨てて、「ほかの福音」に移って行こうとしているからです。もちろん、「ほかの福音」とパウロが呼ぶその教えは偽りのものであり、神から出たものではありません。それを信じて従っても、そこにはいのちはないのです。それは「福音」…良き訪れの知らせではないのです。それなのにその教えに多くの人々が心を奪われ、そちらに移って行こうとしているのを見て、パウロは、皮肉を込めてそう呼んでいるだけなのです。そのようにガラテヤの人々を惑わしてかき乱す者に対し、パウロは強い憤りを感じて、「のろわれるべきです」と、強い表現で非難し、それを繰り返しています(8,9節)。いかにパウロが、神の恵みによって与えられた福音を守ろうとしているか、福音をないがしろにしようとする者、その背後にある悪魔の思うままにはさせない…という、断固戦おうとするパウロの思いをそこから感じます。「ほかの福音」…。それは、キリストの福音以外のもので、私たちの心を満たそうとすることであり、人生を生きていくための力としようとすることであり、キリストの福音は不要だと思わせるすべてのものです。そしてそれは、いつの時代にも存在しているのです。私たちもパウロに倣い、それを断固として否定し、拒否し、自分や人々がそれらに惑わされることがないように、祈りをもって、キリストの福音を宣べ伝えることによって、立ち向かっていく者でありたいと思わされます。

それぞれの働きを主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 24章◇(2月7日)

「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」…出エジプト24:8

20~23章には、モーセを通して主が語られた、十戒を初めとする律法が書かれています。神はイスラエルの民との間に、ご自身の契約を結ぶためにそのように準備を進められたのです。モーセは、語られた主のことばをことごとく書き記し、全焼と和解(交わり:2017訳)のいけにえをささげ、その血の半分を祭壇に注ぎ、契約の書を読み上げ、それに同意した民に血の残りを注ぎかけました。ついに神と民と間に契約が締結されました。その後、モーセとアロン、ナダブとアビフ、70人の長老たちはシナイ山に上っていきましたが、驚くべきことに、彼らはそこでイスラエルの神をはっきりと見たのです。しかもそこで食べたり飲んだりしたのです(10-11節)。当時、神を見るということは死を意味しました(出33:20)。しかし彼らは確かに神の御足を見たとあります。神が人と同じ姿をしておられたということです。それは受肉前のキリストの顕現にほかなりません。「主があなたがたと結ばれる契約の血である」…。モーセのこのことばから、過越の食事の席において、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と弟子たちに言われた、主イエスのことばが思い起こされます。そこでも主は弟子たちと食事をともにされたのです。イスラエルの民はそのように契約を結ばれたのに、やがて偶像礼拝や多くの罪をおかすことになります。それは初めの人、アダムが犯した罪のゆえであり、私たち異邦人を含む全人類のその罪を赦すために、イエス・キリストは自らいけにえとなって血を流され、私たちとの間に新しい契約を結んでくださったのです。そのように、キリストにあって神の民とされたことを覚え、「聞き従います」(7節)と告白する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 23章18-33節◇(2月6日)

「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」…出エジプト23:20

神は、モーセを通して、イスラエルの民に、あなたの前に「使い」を遣わすと言われました。その使いは荒野での道中を守り、ご自身が備える約束の地、カナンの地に導きいれるのです。そして神は、その使いに心を留めるように、先に立って民を導く声に従順に聞き従うようにと命じられたのです(21節)。その使いが具体的に何を指すのかは不明です。神が立てられた指導者であるモーセのことなのか、それとも御使いのような存在を意味しているのか…。21節には「わたしの名がその者のうちにある」、「その者はあなたがたのそむきの罪を赦さない」とあるので、ヤーウェなる神ご自身やその教えを擬人的に表わしているのかもしれません。あるいは、三位一体なる神の御子としての姿がすでにここで暗示されているのかもしれません。いずれにしても、その使いは、主が民のために遣わしてくださる導き手であり、神のみこころを語られ教えられる存在であり、民がその御声に従順に聞き従ってついていくならば、神が求められることを行なう者となるならば、神ご自身がカナンの地の先住民の敵となられて、彼らをそこから追い払い消し去ってくださるのです。そのようにしてイスラエルの民は、自らの力ではなく、主にあって、確かに勝利することができるのです。私たちもまた、天の御国という約束の地に向かい、この地上という荒野を進み続けている主の民です。そして主は、イエス・キリストをご自身の使いとして、私たちの導き手として遣わしてくださったのです。キリストは良き牧者です。この方が導く声に聞き従い、しっかりとついていく者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 23章1-17節◇(2月5日)

「年に3度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」…出エジプト23:17

14-17節にはいわゆるイスラエルの3大祭りのことが書かれています。主がそれらの祭りを、「わたしのため」守るよう命じたとあります(14節)。日本においても多くの伝統的な祭りがありますが、人々はそれらを神から命じられたものとして、行ない続けているわけではありません。先祖代々伝わってきた慣習としているだけです。しかしイスラエルでは現代でもその3大祭りを、神から命じられたものとして、神のために、その祭りの中心に神をおいて行なっているのです。主はそれらの祭りを通し、ご自身がなされたことをイスラエルの民が覚えるようにと意図されました。種を入れないパンの祭りとは過越の祭りのことです。イスラエルの民に種のないパンを食べるよう命じ、かもいと門柱に血が塗られていない家を見て、わざわいが過ぎ越すようにされたのは主であり、その決定打によって民はエジプトを脱出したのです。そのことを思い起こすのが過越の祭りです(15節)。また、初穂の刈り入れの祭り(7週の祭り)も、神が最初の刈り入れをさせてくださったことを覚え、それに続く収穫を先取りして主に感謝するときです。後に五旬節の日の不思議な出来事として、人々に聖霊が降られたのもこのときだったのです(使徒2:1-4)。さらに、収穫祭は仮庵の祭りとも呼ばれます。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野をさまよい、天幕生活をしたことを覚えるものです(レビ23:39,43)。そのように常に神のなされたみわざを覚え記念する…。主の愛と恵みとあわれみに感謝して賛美をささげる…。これからも守り導いてくださる主への信頼を新たにする…。大きな祭りは年に3回ですが、イスラエルの民は常にその心を持っているのです。そしてその心は、主の民とされている私たちにも求められているのです。

主のみわざを常に覚えることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 22章◇(2月4日)

「…彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。」…出エジプト22:27

呪術を行なう者、獣と性的行為をする者、ほかの神々にいけにえをささげる者に対する、厳しい規定・処罰が記されています(18-20節)。そのような者は殺されなければならないのです。現代における倫理・道徳観からすれば、それは行き過ぎだということになるでしょう。しかし、神は義であり聖なるお方であって、そのようなご性質に逆らって歩もうとする者を、そのまま見過ごすことはなさらないのです。神を神とせず、神でないものに心奪われる…そのような者への怒りは決して小さくないのです。その規定に続き、在留異国人、やもめ、みなしご、貧しい者…いわゆる弱者を苦しめ、悩ませてはならないという戒めが書かれています(21-27節)。「わたしは情け深い」と神ご自身が語られたことに心が留まります。主は、聖いお方であると同時に、愛とあわれみに満ち、情け深いお方なのです。1-17節までは償いの規定が記されていますが、それによれば盗人のいのちさえ守られるのです。また、自分がかつて苦しみを受けた者なのだから、相手の苦しみを理解できるはずだという思想が、奴隷の人権を尊重せよとの教えと同様に(21章)、在留異国人に対しても適用されています(21節)。主イエスは、律法は2つの戒めに集約できるとして、人々にそれを教えられましたが(マタイ33:37-40)、それは、あなたの神である主(だけ)を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、という戒めです。そしてそれは言うまでもなく、私たちも心に留めて日々実行すべきことなのです。神以外のものに心奪われてはいないか…人々への愛とあわれみの心をもって真実に関わり、実際的な助けをし、主の恵みを分かち合っているか…神のみこころにかなう者かを点検したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 21章1-17節◇(2月2日)

「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は6年間、仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる。」…出エジプト21:2

1-11節は奴隷の扱いに関する定めです。ヘブル人の男性を奴隷とする場合には、その主人は7年目には彼を自由の身とし、しかも無償で去らせるようにと命じられています。申命記によれば、さらに奴隷を去らせるときには必ず羊や穀物を分け与えるようにとさえ、命じられているのです(申命15:13-14)。また女性の奴隷はその弱い立場が守られるべく、保護が加えられました。しばしば主人は自分の妻として彼女を迎え入れましたが、彼女が主人の気に入らなくなったとしても、外国に売り飛ばすことはできなかったのです(8節)。また他の女性を迎え入れた場合であっても、彼女の衣食住を満たすよう求められたのです(10節)。当時、奴隷は、イスラエル以外の国々においても、貴重な労働力として重宝されていましたが、イスラエルに与えられた律法が、その奴隷の人格を尊重し、手厚く保護しているというのは驚くべきことです。それは、神の目には奴隷は単なる「労働力」ではなく、7日目の安息にあずかり、神を礼拝すべき民であり(出エジ20:10)、ご自身の愛とあわれみを受けるべき者だからです。そしてそれは、イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷であったことと決して無関係ではありません。「あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる」と主が言われるとおりなのです(申命15:15)。自分も奴隷であったから奴隷を思いやることができる…。「…私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる…」とパウロも言っています(2コリ1:4)。主に贖われた私たちが、その役目を担う者とされていることを覚えたいと思います。

主の祝福を分かち合う者とされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 20章◇(2月1日)

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」…出エジプト20:3

神はシナイ山でモーセに律法を授けられました。「十戒」と一般的に呼ばれている大切な戒めです。主は、それをモーセに告げた際、まず最初に、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と言われ(2節)、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(2017訳)と言われました。さらに主は、偶像を造ってはならない、それらを拝んではならない、それらに仕えてはならないと告げたのです(4,5節)。神を神とする。神でないものを神としない…。当たり前のようにさえ思えることを主は真っ先に語り、何よりもそのことを心に留めるよう命じられたのです。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない…という戒めも、もちろん大切です。しかし、世界を造り、イスラエルの民を奴隷から解放し、エジプトから連れ出された偉大な神のみを神とすること…それを最優先、最重要とせよと神は言われたのです。それは、人はすぐに神でないものを神とするからです。実際、イスラエルの民は偶像礼拝を繰り返しました。目に見えるものに頼ろうとする誘惑は大きいのです。そして、だからこそ、神との関係を確かで太いものとし、さまざまな罪の誘惑が入り込む余地がなくなるほどに、どんなときにも神を畏れ、神を愛し、神の教えに聞き従う者とするために、主は民に、エジプトから連れ出されたときの奇しいみわざを思い起こさせ、そのことを現したご自分にのみ心を向けるよう命じられたのです(20節)。神を神とする。神でないものを神としない…。それは、今を生きる私たちにとっても、最優先すべき教えです。お金、仕事、趣味、家族や友人とのつながり、…。それらが自分の中でどのような位置を占めているのか、神を神とし、神の国とその義を第一に求めているかを(マタイ6:33)、自らに問いかけて吟味したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。