◇聖書箇所: マタイの福音書 5章43-48節◇(4月30日)

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」…マタイ5:44

「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(48節)。「完全でありなさい」ということばを目にしたとき、あー、こんな私が完全であることなんかできない…と、多くの人が無力感にとらわれるに違いありません。ゴールがあまりにも遠くて希望を失ってしまうのです。もちろん自らの肉の力ではそのようにはなれません。しかしそれは決して不可能なことではないのです。申命記18章13節にも、「あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない」とありますが、新改訳2017ではそこを、「あなたは、あなたの神、主のもとで全きものでなければならない」と訳し、また共同訳2018では、「あなたは、あなたの神、主と共にあって、全き者でなければならない」と訳しています。つまり主イエスは、あなたがたは、天の父が完全なように、「わたしにあって」完全であれ、わたしがあなたがたを完全にする、と言われたのです。私たちが主のもとにいなければ、主がともにいなければ、主が変えてくださらなければ、不完全のままなのです。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができない、と言われた主のことばが思い起こされます(ヨハ15:5)。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい…。主は十字架上でそれを実行されましたが(ルカ23:34)、迫害されて人々から石を投げつけられたステパノもまた、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と叫びつつ、主のもとへと召されました(使徒7:60)。そのステパノは、主から離れなかったから、主がともにいてくださったから、主イエスの御霊に満たされていたからこそ、そのように、みことばに従う者、全き者であることができたのです。主にある全き者とは、自分の感情によって歩むことなく、主のみことばに自らを従わせて歩む者のことであり、その中で主の似姿へと、御霊なる主の働きによって、少しずつ変えられていくのです(2コリ3:18)。完全というゴールに近づいていくのです。そこに希望があるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章33-42節◇(4月29日)

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」…マタイ5:37

「誓い」ということについて、主イエスは、みことばが教えていることの真意を説き明かし、誓いを人々が正しく理解するようにされました。主イエスが引用された、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」というみことば(レビ19:12、民数30:2など)は、誓いは主に対して誓うものであり、誓ったならそれを必ず果たさなければならない、そのことばを決して破ってはならないということを教えています。しかし34-36節の主のことばが示唆しているとおり、当時は、主ご自身にではなく、天、地、エルサレム、自らの頭をさして(にかけて)誓うということが、人々の間で行なわれていたのです。そしてそれは、その誓いが果たせなかった場合であっても、主の前に誓ったものでないから咎められないとする、人間的な考えに基づく偽善的な「誓い」なのです。「誓い」というと高校野球の宣誓が思い浮かびますが、もとより、主がみことばによって定められた誓いとは、人が何かを目指すときの自らのがんばりや努力を意志表示するものではありません。誓いのことばを、真剣に取り組む、一生懸命やることとういこうとの表明と同じであると、安易に考えるべきではないのです。なぜならそこには、神の絶対的な主権を認めずに、自分の考えで物事を決めて、人間の持つ力を発揮してそれを達成しようとする、人間中心性があるからです。それはもちろん、神が喜ばれるものではないのです。「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」。誓いの意味を正しく理解するならば、人は軽々しく「誓う」などと口にできなくなるはずです。そして、「主よ、あなたのみこころがこの地に、私のうちになされますように…」と、主の前にへりくだり、主を待ち望む者となるはずなのです。最善をなされる主に信頼し、歩み続けたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章17-20節◇(4月27日)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」…マタイ5:17

「律法と預言者」とは旧約聖書を示す表現です。当時はまだ新約聖書は書かれていませんでした。わたしは聖書を、神のことばを成就するために来た…。そのように主イエスがわざわざ言われたのは、主の教えを先進的だと感じ、律法はもう不要だ…と考えた人々が多くいたからだと思われます。彼らはパリサイ人たちの誤った指導によって、律法の文字に縛られ自由を奪われていたのです。また、律法を重要なものとそうでないものに分け、「小さいもの」は破っても問題ないと勝手に考え、平気でそのようにしたり教える者もいましたが、そのような者は天の御国において、神ご自身から、最も小さい者だと評価されて非難を受けるのです。しかしすべての教えを神からのものとして行なう者は、神から偉大な者と呼ばれて賞賛を受けるのです。主イエスは、聖書のみことば、律法を正しく解釈し直し、それを中に含んだ新しい教えとして示されました。それは、宗教指導者たちが律法を「ねばならない」と硬直的、表面的にとらえ、それを守れば義とされる、神の祝福を受けることができると機械的に考えて教えていたことへの反論であり、真理の提示です。パウロは、「文字は殺し、御霊は生かすからです」と言っていますが(2コリ3:6)、神のみことばは、人の知恵によって頭で理解するものではなく、御霊の啓示により霊において受け取るものなのです。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」と主イエスは言われました(ルカ5:38)。新しいぶどう酒とは、主イエスによって再解釈された律法であり、私たちに真のいのちをもたらす教えです。律法を成就するために来られたキリストのみことばこそ、神の国へと通じ、神の前に人を「義」とするものなのです。それを常に柔らかい心で受け取る者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章11-16節◇(4月26日)

「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」…マタイ5:12

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(10節)。昨日のそのことばからのつながり、文脈の中で、あなたがたは地の塩です、世界の光ですと、主イエスは弟子たちに語られています。「義のために迫害される」とは、主の民として、神の国の価値観をもって生きようとするときに、「この世」が、自分たちと同化しない異質なものを排除しようとすることにほかなりません。「塩」や「光」はそのことを示唆しているのです。塩には殺菌・防腐作用があります。また、邪気を払う働きがあると日本でも古来から考えられ、相撲における塩まきもそれが理由だとされています。塩が塩けをなくしたら何の役にも立たない…と主イエスは言われましたが(13節)、この世は、その塩の存在によってきよめられ、腐敗が防がれるのです。それが神の国の拡大のために大いに役立つのです。また、光はやみを照らして明るくすることができます。この世のやみはその光に打ち勝てないのです(ヨハ1:5)。私たち自身は光源を持っていませんが、鏡のように、キリストの光を照り輝かす存在として用いられるのです。あかりを隠れたところに置くなら光が隅まで届かない…と主イエスは言われましたが(15節)、そのあかりは、全体を照らす場所にきちんと置かれる必要があるのです。それにしても、迫害されるときには「喜びなさい。喜びおどりなさい」と、主イエスが言われたのは驚きです。しかしそれは天での神からの報いが大きいからであって、この地上での歩みにとらわれてしまうのではなく、そのように、常に永遠に思いを馳せることが大切なのです。塩けをなくさず、鏡を曇らせず、この世に影響を与える者、主の働きに大いに役立つ者とされたいと願います。

置かれたところで主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章1-10節◇(4月25日)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」…マタイ5:3

「山上の垂訓(または説教)」と呼ばれる箇所です。このところを読んであらためて気づかされたこと…それは、第1に、「~者は幸いです」と繰り返され、その理由として「~だから」と語られていますが、さらにそれらのことが「~のゆえに」そうなるという、理由の「根拠」までは語られていないということです。2つ目は、語られた8つの祝福(=幸いな理由)において、「天の御国はその人たちのものだから」ということが、最初と8つ目の祝福の同じ理由であるということです。そのことから、8つの祝福が鎖の輪のようになっていて、初めと終わりがつながっているようにも思えます。気づかされることの3つ目は、その天の御国は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」という、主イエスの宣教開始の第一声で強調されたものであり、その後、ガリラヤ全土を巡って宣べ伝えられたのも、その天の御国の福音だった(4:23)ということです。それらから教えられること、それは、主が語られた8つの祝福は、主イエスをメシアだと認めて受け入れ、そのことば、良き知らせを信じる者にもたらされる、神の国の豊かな祝福にほかならないということです。この教えを単に道徳的にとらえて好む人々がいますが、彼らは、柔和な者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者であれ…と、律法として受けとめ、それを人間的な努力で達成しようとするのです。言うまでもなくそのような理解は主の意図とは違います。キリストによって天からこの地上に押し入って来た神の国、すなわち、御国の王であるキリストの主権と支配を認め、そのキリストが統べ治めておられる領域の中に飛び込め、自分を全面的にキリストに明け渡し、すべてを委ねよ、そうすればあなたは神の国の祝福にあずかる者とされる…。それが主イエスが伝えようとされたメッセージなのです。御国の祝福を今日もしっかりと受け取りたいと願います。

主の祝福を押し流す者とされますように。 

◇聖書箇所: マタイの福音書 4章12-25節◇(4月24日)

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」…マタイ4:23

主イエスは荒野からガリラヤへと移られました。「立ちのかれた」と12節にありますが(12節)、ルカは、「御霊の力を帯びてガリラヤへ帰られた」と記しています(ルカ2:14)。主イエスは、自分の身を守るために消極的にそこへ退かれたのではなく、宣教という大いなる働きのため、御霊に満たされ、ガリラヤの中心の町カペナウムに移られたのです。そのガリラヤは、異国フェニキヤやシリヤに接する、イスラエルの北のはずれの地方であり、また、かつてアッシリアによって占領され、帝国各地の異邦人が移住した地であることから、ユダヤに住む人々はそこを軽蔑していました。しかし主は、そのガリラヤで、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言って、神の国の福音を宣べ伝え始められたのです。マタイはそれをイザヤの預言の成就だと記しています。「 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」と、16節にイザヤ9章2節のことばが引用されていますが、その前の節の1節には、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。…異邦人のガリラヤは光栄を受けた」と書かれています。そして、実際、主イエスがガリラヤ全土を巡って御国の福音を伝え、病気の人に触れると、民の中にあったあらゆる病気とわずらいはいやされ、痛みによる苦しみ、悪霊の縛りからも解放されたのです。軽蔑された地、荒廃した地、異教の偶像が満ちた地…。そのガリラヤで「死の地と死の陰にすわっていた人々」の上にのぼったまことの光こそ、イエス・キリストです。そしてそれは、暗闇を光に、死をいのちに変えるために、キリストが神の国をこの地にもたらされ、悪の勢力を制し、王としてこの世界を統治されるという証しなのです。ガリラヤで宣教を開始された主のあわれみを覚えます。

主の祝福が豊かにありますように。 

◇聖書箇所: マタイの福音書 4章1-11節◇(4月23日)

「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」」…マタイ4:10

ヨハネからバプテスマを受けられた主イエスは、御霊に導かれて荒野に上り、40日40夜の断食後、悪魔の試みを3回受けられました。最初の試みは、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」という、空腹であった主イエスにとって、何よりも大きな誘惑でした。しかし主は、それに対し、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばにより生きる…と、申命記(8:3)のことばを返されたのです。2つ目の試みでは、サタンもみことばを引用しました。しかしそれは、自分の都合に合わせてことばを解釈し、自分の主張の正当化のためにみことばを持ち出す、そのような「悪用」であったのです。そしてそれは、現代においても見られる誤りであり、神のさばき等の厳しい教えから目をそらし、神の恵みと祝福と繁栄だけを求めるあり方もまた、正しいものではないのです。聖書全体を読むことの大切さをあらためて教えられます。3つ目の試みに、サタンの最大の願いが表されています。それは自分が人々から礼拝される存在になることです。「ひれ伏して私を拝むなら」ということばが示すとおりです。サタンは神になり代わり、自分が「神」になりたいのです。人が褒めそやされ、偶像の神があがめられている背後で、サタンがほくそ笑んでいることを忘れてはならないのです。今日の箇所の荒野での試みは、主が、洗礼を受け、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という神の声を聞いた「祝福」と、人々に福音を伝え、神の国を拡げようとする「宣教」の開始との間に挟まれた出来事でした。そしてそれは、私たちが祝福を受けた後に、また、宣教の働きを進めようとするときにも、悪魔の誘惑、攻撃が必ずあることを示唆しているのです。しかし私たちはそれらを恐れる必要はないのです。主イエスがなされようにみことばを剣として応戦し、「引き下がれサタン」と、主の御名の権威によって命じ、その戦いに勝利することができるからなのです。

勝利の主がともにおられます。祝福がありますように。 

◇聖書箇所: マタイの福音書 3章◇(4月22日)

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」…マタイ3:8

バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で教えを宣べ、人々に悔い改めのバプテスマを授けていましたが、そこにパリサイ人やサドカイ人がぞろぞろやって来て、自分たちもバプテスマを受けようとしました。彼らは、自分たちの先祖はアブラハムであって、神の祝福を受けている特別な民である…しかもモーセの律法を誰よりも厳格に守っており、悔い改めのバプテスマなど本来受ける必要がない…と心の中で思っていたのです。しかし、民衆が皆、ヨハネを預言者として認めて従っているのを見て、受けずに批判されるのは避けたいと考えたのです。一方、主イエスは、ヨハネからバプテスマを受けようと彼のところに来られ、固辞しようとするヨハネを説得し、ヨルダン川の中に入られました。ヨハネが言ったように、主イエスこそ、聖霊と火のバプテスマを授ける方であり、ヨハネはそのメシアの先駆者として道備えをするために、水による悔い改めのバプテスマを授けていたのです。ヨハネは、パリサイ人たちの偽善を見抜いて、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと批判しました。特権意識を持ち、悔い改める必要などないと考え、律法と祭儀ばかりを重んじ、実を結ばない彼らの受洗と、神の子であり、悔い改めなくてもよいにもかかわらず、正しいことを実行するのはわたしたちにふさわしい…と、神のみこころに従った忠実なしもべであるイエスの受洗が、強いコントラストをもってここで描かれているのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。洗礼を受けて救われたから悔い改めは不要だと考えたり、毎週の礼拝に欠かさず集い、献金もしていると誇るならば、それは本質的にパリサイ人たちのあり方と同じなのです。私たちは日々、主の前に悔い改め、主に立ち返ること、また、聖徒としてふさわしい実を結ぶことが求められているのです。聖霊さまの働きによってそのような者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。 

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 19章31-42節◇(4月20日)

「この事が起こったのは、『彼の骨は一つも砕かれない』という聖書のことばが成就するためであった。」…ヨハネ19:36

主イエスが十字架上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃のことでした(マタイ27:46)。ユダヤ人たちの律法では、処刑された者を翌日まで木に残さないことになっており(申命21:23)、さらに金曜日の日没から安息日が始まるため、民衆は、受刑者たちのすねを折って死期を早め、速やかに取り下ろすようピラトに願い出ました。しかしイエスについてはその必要がなかったので、ローマ兵たちはすねを折ることをしませんでした。著者ヨハネは、そのことは、旧約聖書のことばが成就するためだったと記しています。それは、過越のいけにえに関する規定で、その骨を折ってはならないと命じられていたのです(出エジ12:46等)。主の十字架は過越の祭りにおける出来事でしたが、イエスのすねが折られなかったという事実もまた、主が過越のいけにえとなられたことを示したのです。それは、罪を持つ全人類に対する神のさばきが、キリストの血のゆえに「過ぎ越す」ということなのです。さらに、兵士がイエスの脇腹を槍で突き刺すと、血と水が出て来たことが記されていますが(34節)、これもまた、ゼカリヤの預言のことばの成就なのです。それは、神がダビデの家とエルサレムの住民の上に恵みと哀願の霊を注ぎ、彼らが自分たちが突き刺した者を仰ぎ見、嘆き、激しく泣くという預言です(ゼカ12:10)。それはまだ、主イエスを信じるユダヤ人と異邦人の一部だけに留まっている預言ですが、キリストによって開かれた「罪と汚れをきよめる一つの泉」(ゼカ13:1)は、すべての国民がいただくべき、いのちを与える泉であって、神から恵みと哀願の霊を注がれた者たちがみな、自分たちがキリストを十字架につけたのだと心を刺され、自らの罪を悔い改め、救いにあずかるようになるのです。その預言がさらに成就するよう、祈り求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 19章23-30節◇(4月19日)

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」…ヨハネ19:30

今日の短い箇所の中に、「聖書が成就するため」ということばが2回書かれています。それは、旧約時代に神が語られた預言、約束のことばが、キリストによって実現したということです。そのキリストは、十字架上で息を引き取られる直前、「完了した」と言われましたが、それは単に、自分の任務をやり終えたという意味ではありません。その原語は受動態になっており、新共同訳聖書が「成し遂げられた」と訳しているように、それは、神によって「完了させられた」という意味なのです。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された」。創世記2章1節にはそのように書かれています。神は、6日間かかって造られたすべてのものを見られ、「非常に良い」と満足され、7日目にわざの完成を告げ、なさっていたすべてのわざを休まれたのです。しかしその後、エデンの園においてアダムが罪を犯し、人は主が造られた「良いもの」でなくなってしまいました。神はそれを悲しまれ、人を本来の姿に回復させるために、救いのご計画を着々と進めて来られたのです。メシアの到来を預言者を通して伝えて来られたのです。そして2千年前、神の御子の十字架と復活によって、再創造としての人類の救いがついに完成されたのです。しかしこの世界全体の贖いはまだ完成していません。神の救いのご計画が完全に成し遂げられるのは、この天と地がまったく新しいものとされるときなのです。「完了した(成し遂げられた)」と宣言されたキリストは、そのために、再びこの地上に来られるお方なのです。そしてキリストを信じて救われ、回復にあずかる者たちは、その心と魂の「渇き」がいやされるのです(ヨハネ4:14)。それは、キリストがもたらされた神の国の祝福なのです。いまなお「渇き」の中にある愛する人々のために、神の国の福音を伝え、救いをとりなし続けたいと思います。

救いの喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 14章36-52節◇(4月18日)

「…主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」…1サムエル14:45

サウルは、夜にペリシテ人たちを追って行き、皆殺しにすべきだと民に訴えましたが、民は、「あなたのお気に召すことを、何でもしてください」(「あなたが良いと思うようにしてください」:2017訳)と言って、自分たちと王との間に距離を置きました。それは民が、サウルの発言が人間的なもので、主のみこころでないことに気づいていたからです。「ここで、われわれは神の前に出ましょう」という祭司の促しのことばが、そのことを示唆しています。サウルは早速神に伺いましたが答えはありません。すると彼は、「きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい」と、民のかしらたちを呼び集めて、またもや意味不明のことを彼らに命じたのです。それは、ヨナタンが蜜を食べ自分が定めた誓願を破ったことを聞き、ペリシテ人に対する勝利の立役者である彼を妬み、王の地位を安泰にしたいと考えたからかもしれません。その後、くじのような方法でヨナタンが取り分けられ、サウルは、神の罰によりヨナタンが死ぬと告げましたが、それを聞いた民は、絶対にそんなことはあり得ないと、王に対してきっぱりと異議を唱えたのです。それは、自分たちの身が危うくなる可能性も意味していました。しかしその民の行為が結局、ヨナタンを救ったのです。そしてそれらの背後には、主が働いておられたのです。上に立つ権威者に対して盲目的に従うのではなく、何が正しくて神のみこころなのかを主に祈って尋ね求め、その指示が明らかに主の御旨からはずれているならば、「長いものには巻かれろ」ではなく自分の意見を述べる…。それが「地の塩」である聖徒たちのあるべき姿なのです。また、高い地位にある者が主のみこころを行なうようにと、彼らの守りと導きと祝福をとりなすべきなのです(2テモ2:1)。新天皇の即位が近づいていますが、皇室の救いのため、神事による霊的影響からの守りを祈りたいと思います。

主がこの日本をあわれんでくださいますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 14章16-35節◇(4月17日)

「その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、『夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる』と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。」…1サムエル14:24

サウルは、ペリシテ人たちが右往左往しているとの報告を受けました。そしてそれが、息子ヨナタンと道具持ちの働きによるものらしいと知りました。その後、サウル自身も戦場に出て行きましたが、敵はなんと同士討ちをしていました。ヨナタンの告白のとおり(14:6)、主がイスラエルを救われたのです。その日、イスラエル人はサウルの不可解な命令により苦しみました。疲労困憊していたにもかかわらず、サウルが敵に復讐するまで断食を強いられたのです。勝利していた状況での「復讐」の意味が不明ですが、断食しないなら「のろわれる」と、そのことがあたかも神から出たことのように、サウルは民に告げたのです。それは息子ヨナタンへの嫉妬心や、王としての対面を保つための高慢な心から出たことかもしれません。サウルはさらに、大きな石を転がして来させ、それぞれ自分の牛か羊を「私のところに連れて来て」、ここでほふって食べよと民に命じて従わせましたが、一連の彼の行動を見ると、主のみこころを求め、主の御声を聴いている様子が伺えません。むしろ、彼の人間的な考えにより衝動的に行動しているのです。そしてそれは、ギルガルでサムエルの到着を待てずに勝手にいけにえをささげたことに通じているのです(13:12)。その後彼は主のために最初の祭壇を築きましたが(35節)、サウルは何よりもまず、主の前に個人的な霊的祭壇を築き、御前に出て、主のみこころを知る必要があったのです。それは、すべての聖徒たちに求められていることなのです。忙しい歩みの中にあっても、祭壇を築いて主の前に静まり、主の御声を明確に聴いて行動する者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 14章1-15節◇(4月16日)

「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」…1サムエル14:6

ペリシテ人の先陣のところへ渡って行ったのは、ヨナタンと道具持ちの若者のたった2人だけでした。圧倒的な勢力を持つペリシテ人たちとそのように戦うのは、人間的に考えれば無謀に見えます。しかしヨナタンは全き信頼を主に置いていたのです。彼のことばが心に留まります。「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない」(6節、2017訳)。そのヨナタンは、単に主の奇蹟的な介入を願い、とどまってただ祈り求めていたわけではありません。彼は、「渡っていこう」、「上っていこう」と若者に告げ、ペリシテ人たちが「おれたちのところに上って来い」と言ったとき、手足を使ってそそり立った岩をよじ登り、道具持ちとともに約20人のペリシテ人を倒したのです。それは決して多い人数ではありませんでしたが、ペリシテの民全体に恐れとおののきが拡がったのです。なぜなら、「非常な恐れ(直訳:「神の恐れ」)」とあるように、神ご自身が人々の心に働きかけられたからなのです。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(2歴代16:9)。ヨナタンにとって、「お心のままに」と言った道具持ちは、自分といっしょに戦う味方として十分な存在でした。主の戦いは常に「少数精鋭」の者による戦いなのです。この日本における主の聖徒たちもまた少数派です。しかし主がこの国を救われるのに人数は関係ないのです。だからこそ、そそり立つ壁を前にしても絶望することなく、信仰を持ち、自らの手足を動かしてよじ登るべきなのです。主がもたらされる勝利を信じて前進し続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 13章◇(4月15日)

「今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」…1サムエル13:14

ペリシテ人たちは、イスラエル人たちと戦うために、圧倒的な勢力をもって、ミクマスに陣を敷きました。それを知ったイスラエルの人々は敵の手を恐れ、洞穴、地下室、水溜めの中などに身を隠し、ある者たちはヨルダン川を渡りギルアデに逃げました。サウルはギルガルに留まっていましたが、兵たちは、みな震えながら彼に従うというありさまでした(5-7節)。サウルはサムエルから、ギルガルに下るように言われ、「あなたは私が着くまで7日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます」(10:8)と告げられていました。しかし待ってもサムエルは来ず、そのような状況の中、何もしないでいる自分に民が失望し、敵を恐れて自分から離れて行くのをつなぎ止めるために、サウルは全焼のいけにえをささげたのです。それを知ったサムエルは、あなたは主の命令を破った、あなたの王権は取られることになると告げました(13-14節)。サウルは、主に嘆願していないと考え思い切ってささげた、とサムエルに弁明しましたが、それは間違いだったのです。サムエルを通して主から命じられたのは、サムエルの到着を待って彼の指示を仰ぐということであり、たとえその到着が遅れたとしても、敵が迫って来ても、勝手に全焼のいけにえをささげるべきではなかったのです。聖書のみことばを文字通りに受けとめて聞き従う…。置かれている状況がどのようであっても、人間の側で勝手に「例外規定」を設けたりしない…。主の命令への不従順により王権が失われてしまうという、サウルの失敗がもたらした厳しい結果を見るときに、主に従順に従うことの意味をあらためて教えられます。自らのあり方はどうなのかを吟味したいと思います。

主のみこころにかなう者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 11章◇(4月13日)

「しかしサウルは言った。『きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。』」…1サムエル11:13

ヤベシュ・ギルアデの町がアモン人に攻められ、窮地に立たされていることを聞いたサウルに、神の霊が激しく下り、彼のうちに怒りが激しく燃え上がりました。そして、イスラエルの国中から戦士を集めたサウルは夜明けに陣営を急襲し、アモン人たちとの戦いに勝利を収めたのです。そのサウルに対して民は賞賛の声を上げました。サウルに逆らった者を殺すとさえ言ったのです。サウルは、人々からそのように英雄視されて、さぞかし誇らしげな気持ちになったことでしょう。民が自分に従うことを喜ばしく思ったことでしょう。しかし彼は、「よしわかった、そうしてくれ…」と、民のその申し出を受け入れようとはしませんでした。それは、敵との戦いに勝利をもたらされたのは主ご自身であると、サウルは知っていたからです。彼は人々のことばで有頂天にはならなかったのです。そのようにサウルは、神の霊に満たされ、神ご自身の聖なる怒りを自らの怒りとして敵と戦い、主にあって勝利し、栄光を主に帰したのです。彼の怒りは、決して人間的なものではありませんでした。それに対して民は、サウルのことを思ったとはいえ、彼に逆らった者を殺すと、人間的な思いで言ったのです。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコ1:20)。私たちもともすれば、怒りや憤りを感じたとき、人間的な思いによって行動してしまうことがあります。しかし、主にある者として、絶えず主の霊に満たされ、御霊のご支配と導きのうちに歩むべきであるのです。湧き上がる感情をそのままぶちまけてはならないのです。また、さまざまの戦いに置かれても、主に拠り頼み、自らの肉の力ではなく、主にあって戦うべきなのです。絶えず祈り、主の導きを尋ね求めていきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 10章◇(4月12日)

「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。」…1サムエル10:7

サムエルはサウルに油を注いで王としました。ついにイスラエルの最初の王が誕生したのです。さらに彼はサウルに、預言者の一団に出会うこと、主の霊が激しく下って彼らといっしょに預言し、新しい人に変えられるということを告げました。7節のことば、「手当たりしだいに何でもしなさい…」。別の聖書には、「自分の力でできることをしなさい」(2017訳)、「ふさわしいと思うことは何でも行ないなさい」(共同訳2018)と書かれています。それは、好き勝手に振る舞えという意味ではなく、「行なえ」と神が御霊によって示され導かれることを、躊躇せず、臆せず、積極的に行なえということです。一方、サムエルはサウルにこのようにも言いました。「あなたは私が着くまで7日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます」(8節)。主から示されていないなら、待たねばならないのです。自分の考えで勝手に行なうべきではないのです。行なう…待つ…サウルはその両方を求められたのです。「…すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています」(1コリ9:22-23)。主の霊に満たされ、新しい人に変えられたパウロは、そのように、「ふさわしいと思うことは何でも行ない」ました。そしてその積極性は、私たちにも求められているのです。自分は苦手だから…と決めつけ、尻込みすることなく、主の油注ぎを受けて、主の証人として歩むべきなのです。一方で、肉の思いで行動しない慎重さも大切です。忍耐して待つこと、祈ること、主の御声を聴くこと…。行動を起こすためにはその過程、導きも必要なのです。サウルは「神があなたとともにおられる」と告げられましたが、「行け」と言われたら行く、「待て」と言われたら待つ、常に従順に主に従うしもべでありたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 9章◇(4月11日)

「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」…1サムエル9:21

ベニヤミン人キシュの子サウルは、父から命じられ、いなくなった雌ろばを捜しに、しもべとともに出かけました。そして山地を巡り、ベニヤミン中を歩き回りましたが、どうしても見つけることができませんでした。ツフの町に来たとき、サウルはあきらめて帰ろうとしましたが、しもべは、その町にいる神の人サムエルに尋ねるよう進言し、同意したサウルとしもべが町に入りかけたとき、ちょうど町から出て来たサムエルはサウルと出会ったのです。サムエルがサウルに、「全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか」(20節、2017訳)と言ったとき、サウルは、「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか…」(21節、2017訳)と答えました。サウルは容姿端麗で、堂々とした体格の持ち主でしたが、何よりもそのようなへりくだった心こそ、王としてふさわしいものであったのです。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)。「…みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(1ペテ5:5)。へりくだるとは、劣っていてだめな者だと卑下することではなく、何よりも神の主権を認め、主のみこころに従順に従うことです。それはゲッセマネでの葛藤を経て、十字架へと進まれた、まことの王なるキリストに見られるものであり、私たちもまた、その主イエスにならうことが求められているのです。取るに足りない者を愛し、あわれみ、救ってくださった主に感謝をささげつつ、ますますへりくだって従いたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 8章◇(4月10日)

「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」…1サムエル8:5

サムエルの息子たちがさばきつかさとして失格であることを知ったイスラエルの民は、長老たちを通して、自分たちをさばく王を立ててほしいと、サムエルに願いました(5節)。サムエルが主に祈り、みこころを尋ね求めると、民の言うとおりにせよ、ただし民を治める王の権利を彼らにきちんと伝えよと、主は答えられました(9節)。そこでサムエルは、民に対し、子どもたちを徴兵し、さまざまな奉仕に就かせ、農産物や奴隷や家畜の一部を納めさせる権利を王が持つことを伝え、後になってそのことを負担に感じて助けを求めても、主はそれに答えないと、釘を刺したのです(18節)。しかし民は、サムエルのことばを意に介することなく、「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません」と言い張り、そのことに固執しました。彼らがその理由として真っ先に挙げたこと、それは、「ほかのすべての国民のように」なる(5、20節)ためであり、それは純粋に王によるさばきと統治を求めるというよりも、他国と同じでなければならないという、人間的な思いから出たことであったのです。そしてそれは、目に見えない神に信頼することよりも、目に見える王がいれば安心できるということであり、他国のように偶像の神々に拠り頼み、仕えるというあり方と、本質的に同じなのです。それは、「心を主に向け、主にのみ仕える」歩みではないのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(2コリ4:18)。いつの時代にあっても、神の民に求められているのは、見えない神に目を留め、信仰によって歩むことなのです。そのことをしっかりと心に留めて歩みたいと思います。

主への信仰が増し加えられますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 7章◇(4月9日)

「こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、入って来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」…1サムエル7:13

神の箱はキルヤテ・エアリムに20年間とどまり、イスラエルの民はなお主を慕い求めていました(13節、別訳:「主を求めて嘆いていた」…脚注参照)。それはペリシテ人からの攻撃が執拗になされ、人々が悩み、恐れていたことを示唆しています。そのような民衆に対してサムエルは告げました。心を尽くして主に立ち返り、異国の神々、偶像を捨て、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出される…と(3節)。イスラエルがペリシテ人に打ち負かされたとき、長老たちは、なぜ主はわれわれを打ったのかと言って、シロから契約の箱を持って来させましたが、その敗北の原因は、人々の心が偶像に向いていて、主にのみ仕えていなかったからだったのです。サムエルのことばによって促された民は、ようやく偶像を取り除き、主にのみ仕えるようになり、それまで犯した罪を主の前に真実に悔い改めました。そしてペリシテ人たちが攻め上ってきたとき、サムエルに、主に叫び、とりなし続けてほしいと要請し、それを聞いて主が自分たちを救うのだと告白したのです。もはや神の箱や偶像の神という目に見えるものでなく、目に見えない神ご自身の御力とみわざを求めたのです。主はそのような彼らの信仰に応え、その力強い御手でペリシテ人の侵入を防ぎ、イスラエルを守られました。心を主に向け、主にのみ仕える…。それは、聖徒である私たちに対しても、主が求めておられることです。そしてサムエルが主のことばを預言者として取り継ぎ、祭司としていけにえをささげ、とりなし続けたように(9節)、預言者、祭司、王として油注がれたキリストが、私たちのためにご自身をいけにえとしてささげ、神の御旨を教え、とりなし続けてくださっているのです。だからこそ私たちは、敵から主の御手で防御されて歩むことができるのです。絶えず心を主に向け、主だけに拠り頼みたいと思います。

主の確かな守りがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 6章◇(4月8日)

「ベテ・シェメシュの人々は言った。『だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。』」…1サムエル6:20

ペリシテ人によって奪われた神の箱が、アシュドデ、ガテ、エクロンと運び移されるたびに、主はそれらの町の住民を腫物で打たれました(6章)。エクロンの人々は箱をイスラエルに戻そうとしましたが、災いを恐れた人々がその方法を占い師たちに尋ねると、彼らは、2頭の雌牛が引く車に神の箱を載せ、腫物を表す5つの金のねずみの像を作り、償いとして、神の箱といっしょに送り返せと答えたのです(3-5節)。人々がそのとおりにして神の箱を送り出すと、車はベテ・シェメシュへの道をまっすぐに進み、国境を越えて、畑に入ったところで止まりました。町の人々は喜び、さっそく神の箱と金の品物を下ろし、引いて来た2頭の雌牛を全焼のいけにえとしてささげました。ところが人々が神の箱を開けてその中を見たところ、多くの者が主に激しく打たれて命を落としたのです。そこで人々はキルヤテ・エアリムの住民に使者を送り、神の箱を運び上げてほしいと要請しました(21節)。ベテ・シェメシュの住民が主に激しく打たれた理由、それは、彼らが主を畏れることなく、人間的な興味から、主の臨在の象徴である神の箱を開けて中を見たからです。主に打たれ喪に服した彼らが告白したとおり(20節)、神は聖なるお方であって、人はその主の前に、絶えず畏れをもって歩まなければならないのです。彼らの行動は主の前に軽率で不遜なものだったのです。「こうして教会は、…平安を保ち、主を恐れ(畏れ)かしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」(使徒9:31)。主を畏れるとは、「恐がる」ことではなく、主の主権を認め、その主の前に自らを低くし、主のことばに従順に聞き従うことなのです。キリストの贖いを感謝しつつ、絶えず主を畏れかしこんで歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 3章◇(4月5日)

「それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。』」…1サムエル3:18

主の宮で寝ていた少年サムエルに対して、主は「サムエル、サムエル」と呼び掛けられました。そのことは3度続き、そのたびに彼は、エリから呼ばれたと思って起きて行きましたが、3度目になってエリは、サムエルを呼んだのはほかでもない主なのだということを悟ったのです。エリはサムエルに、「主よ、お話ください。しもべは聞いております」と言うように伝えました。エリに言われたとおりにしたサムエルに対して、主は、エリとふたりの息子たちの罪のゆえに、エリの家への永遠のさばきを実行すると告げました。そして、自分の身に起こることを覚悟していたエリは、主から語られたことを隠さずすべて教えてくれとサムエルに頼み、彼はそのとおりにしたのです。「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった」(19節)。それは、預言者として立ったサムエルのことばが、一つもたがわずそのとおり実現したということであり、彼が主のことばをすべて民に伝えたということです。預言者とは将来起こることを予知する者ではなく、神のことばを預かりそれを忠実に伝える者であって、何かを隠したり変えたりするなどあり得ないのです。では現代における預言者とは誰なのでしょうか…。それは、みことばを通して語られる主ご自身です。私たちはともすれば、「恵まれる」みことばだけ、関心のあるみことばだけを好んで読みがちですが、そのように聖書のみことばを選り分けて受け取るなら、それは聖書の一部を黒塗りにして「隠す」ことなのです。「主よ、お話ください。しもべは聞いております」。神が語られるすべてに聞き従う者とされたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 2章18-36節◇(4月4日)

「なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」…1サムエル2:29

祭司エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは、人々が主にささげるいけにえの肉を取り上げ、自分たちのものにしていました(2:12-17)。また性的不品行をも行なっていたのです(22節)。それらはもちろん祭司としてあるまじき行為です。それに対して父親であるエリはどうしたでしょうか。23-25節は彼の息子たちへのことばですが、そこには切迫した危機感が感じられません。「民の言いふらしているのを聞くそのうわさ」と彼は言っていますが、なにか他人事です。自分の息子たちの行動を把握していないのです。また「だれが、その者のために仲裁に立とうか」とも言っていますが、主の前に悔い改めるように求めておらず、自らが仲裁に立とうともしていません。祭司は神の前に出てとりなす者のはずです。主は、エリの息子たちの行為を非難されましたが、「あなたがたは」と神の人を通してエリに言われ、「わたしよりも自分の息子たちを重んじて…」と、エリ自身のあり方を責められたのです(29節)。「一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された」(26節)。この短い文章が、やみに輝く光のように、文脈の中で際立っています。サムエルはハンナに与えられた長子であるのに、ハンナはサムエルの一生を主にささげました。それに対してエリは自分と息子たちに甘い態度を取り、彼らは主へのささげもので自分たちを肥やしたため、「わたしをさげすむ者」と主に断じられたのです(30節)。主にささげるべきものを自分のものにしていないか…自分や身内に対して甘い態度を取っていないか…エリたちを反面教師として自己吟味したいと思います。

主の前に真実に歩む者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 2章1-17節◇(4月3日)

「主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。」…1サムエル2:9

「私の心は主を誇り(「主にあって大いに喜び」:2017訳)、私の角は主によって高く上がり…」(1節)。「主を」、「主にあって」、「主によって」と、ハンナは、弱く小さな自分ではなく偉大な主に目を向け、主に拠り頼み、そこに力と喜びを見いだしています。その神は不動の岩のように変わらないお方であり、そこに身を寄せる者は揺るがされないのです(2節)。またその神はすべてを知っておられるお方であり、主がなされるみわざは確かで最善なのです(3節)。4-5節は、主によってなされる「逆転劇」の描写です。力ある勇士の弓が砕かれて使い物にならなくなり、豊かに富んだ者がパンを得るために働くようになり、不妊の女に勝ち誇っていたような子だくさんの女が、打ちしおれるようになってしまうのです。そのように主は主権をもってすべてを支配されるのです。主は、たとえ弱く貧しくても、ご自身の前に真実に歩む聖徒たち(「敬虔な者たち」:2017訳)の足を守られ、一方、おごり高ぶってはむかう者たちを打ち砕き、自分の力に拠り頼む悪者どもを滅ぼされるのです(9-10節)。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(1コリ1:27-29)。神の選びと逆転劇…その頂点は主の十字架と復活です。神は御子を死者の中から引き上げ、栄光の位につかせ、御国の王として今もすべてを治めさせておられるのです。ハンナの祈りはそのメシアの預言でもあるのです(6,10節)。そして神の選びと逆転劇は私たちのものでもあるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第一 1章◇(4月2日)

「ハンナは答えて言った。『いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。』」…1サムエル1:15

エルカナのふたりの妻、ハンナとペニンナのうち、ハンナには子どもが与えられていませんでした。しかしエルカナはハンナに特別の受け分を与え、彼女に対する愛情を表していたのです。そのことを知ったペニンナはハンナのことを憎み、彼女をひどく苛立たせるようなことをしたため、ハンナは傷ついて食欲も失せてしまいました。シロにある主の宮に上っていったとき、誓願の祈りをささげるようハンナは導かれました。それはもし男の子が与えられるなら、その子を一生の間、主に渡すというものでした。そしてその祈りは確かに主に届いて答えられ、ハンナはサムエルという男の子を産んだのです。サムエルが乳離れしたときハンナは彼を連れ上り、誓願の祈りのとおり、サムエルを主に渡しました。ハンナの胎を閉じておられたのは主ご自身です。またハンナの祈りに答えて胎を開かれたのも主です。そこに至るまでにはペニンナの執拗な仕打ちによるハンナの悩みと苦しみと痛みがありましたが、そのことを通して主はハンナに働きかけ、主の前に心を注ぎだすようにと導かれたのです。そしてそのようにして生まれたサムエルを主は用い、ご自身のご計画を推し進めていかれたのです。「主のみこころがなりますように」と私たちは祈りますが、それは「主のご計画が推し進められますように」ということです。私たちは試練の中に置かれるときには熱心に祈りますが、そうでなくてもどのようなときにも主の前に心を注ぎだし、主の御旨がなるように願う者を主は求めておられるのです。主イエスのゲッセマネの園での祈りが思い起こされます。私たちもそのような者へとさらに変えられたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇62篇◇(4月1日)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」…詩篇62:8

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」と、詩人はこの詩の初めに主に告白しています。3-4節には詩人の敵の様子が描写されていますが、彼らは、城壁を傾け、石垣を倒すかのように、さまざまな手段で詩人に揺さぶりを掛けているのです。「黙って」とは「静まって」ということでもあります。そのような状況に置かれても決してあたふたとせず、詩人はひたすら天を見上げて神を待ち望むのです。「私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない」(1b-2節)。「私の望みは神から来る…」と、ほぼ同じ表現で、そのことばは5-6節においても繰り返されています。たとえ敵がどのようなことを仕掛けてきても、神は頑丈な岩、堅固なやぐら、確かな救いであって、その神に身を避けるなら、決して揺るがされないのです。「私の…」、「わが…わが…」、「私は…」とありますが、詩人と神との間に結ばれている強くて太いつながりは、どんな試練や困難にあっても切れることはないのです。「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている(7節a)。「かかっている」とは完全に依存しているということです。高所での作業などのときに体を預ける命綱のように、自分のいのち、全存在を神に委ねているということです。そしてその命綱がときに細くて頼りないように思えても、それは決して切れないのです。神は真実なお方であって、その信頼が裏切られることなどないのです。そのことを自ら経験した詩人は、今度は民に命じています。どんなときにも神に信頼せよ、心を神の御前に注ぎ出せと。どんなに否定的な状況であっても、感情が伴わなくても、疑いの心、騒ぐ心であっても、それを認めて神の前に差し出し、なおも神に信頼し、黙ってひたすら神を待ち望むなら、確かに神は、そのような者の避け所となってくださるのです。その神にいよいよ信頼して歩んでいきたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。