◇聖書箇所: マタイの福音書 22章23-33節◇(7月31日)

「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。』」…マタイ22:29

パリサイ人たちから質問を受けた同じ日、今度は、同じユダヤ教の信奉者でも死者の復活を信じない、サドカイ人たちと主イエスとの問答がありました。彼らはモーセ五書以外の権威を認めませんでしたが、その中にある申命記25章5節の律法を持ち出し、いっしょに住んでいた兄弟が死んだ場合、未亡人となったその妻を他の兄弟がめとるように命じられているが、他の兄弟も同じように死んだなら、復活の際には誰の妻になるのか…と尋ねたのです。彼らは主イエスが答えに困るだろうと思っていました。それに対して主イエスはまず、あなたがたは聖書も神の力も知らない…と言われ、彼らがモーセ五書しか認めず、神のふしぎなわざを受け入れようとしない、あくまで人間の考えの枠の中で物事をとらえようとする、かたくなで合理主義的なあり方を批判したのです。そして、復活の時には人はめとることも嫁ぐこともない、神は死んだ者の神ではなく生きている者の神であると、サドカイ人たちが復活の信仰を持つよう促されたのです。私たちはどうでしょうか…。キリストにある永遠のいのち、復活への希望を持って歩む者とされているはずです。しかし、試練、困難の中に置かれて悩み苦しむとき、いったい神は本当に生きておられるのか…と、ついその存在とみわざを疑い、不信仰な思いを抱いてしまい、サドカイ人と同じように、神を人間の考えの枠に押し込め、偉大な御力を持つ神に期待するのをやめてしまうのです。しかし私たちもまた、思い違いをしてはいけないのです。神のことばと神の力を正しく知り、受け取るべきなのです。神は確かに生きておられ、私たちとともにおられるお方であり、その神に拠り頼み、主を呼び求める者には必ず答えられ、ご自身のことばのとおりにみわざをなされるお方なのです。どんなときにもその神に信頼して歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 22章15-22節◇(7月30日)

「そこで、イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」…マタイ22:21

パリサイ人たちは主イエスを陥れようと企みました。税金をカイザル、つまりローマ皇帝に納めることは、律法にかなっているのか、かなっていないのか、どちらかを主イエスに選ばせようとしたのです。かなっていると答えれば、神の民が異邦人に対してそのような義務を負うのを是認することになり、納税に苦しむ民衆からの批判を受けるのは必至だ…。またかなっていないと答えれば、カイザルや国主ヘロデへの反逆者とみなされて告発される…。そのように、どちらにしても窮地に追い込める…と、その作戦がうまくいくのを彼らは信じていたのです。しかし、主イエスの答えは思いもよらぬものでした。デナリ硬貨の肖像と銘は誰のものかと問いつつ、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返す、それが神のみこころなのだと彼らに告げたのです。パリサイ人たちはその答えに驚嘆して立ち去りました。カイザルのものはカイザルに。それは主イエスが機転を利かせて用いたデナリ硬貨が示す真理です。では神のものは神にとは、自明のことなのでしょうか…。そうではないのです。すべては神によって創造され、すべては神が所有され、すべての源は神にある…。それなのに、お金や時間やさまざまなものの所有者は自分だとする心こそ、人の罪の本質を表しているのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ローマ11:34)。パウロがそう告白しているように、私たちもまた、すべての源、所有者は神だと信じているでしょうか…。そうでない者は、神にきちんと返そうとしないのです。持っているものを握りしめ、明け渡そうとしないのです。「神のものは神に返しなさい」。神に感謝し、栄光を帰し、すべてのことを主に委ねて生きる者でありたいと思います。

従順な主のしもべとされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 22章1-14節◇(7月29日)

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」…マタイ22:14

前の章の後半には、「二人の息子のたとえ」と「悪い農夫たちのたとえ」が書かれていますが、今日の箇所はそれを合わせた「3部作」の最後となる、主イエスが神の国について話されたたとえです。王は息子である王子のための結婚披露宴を設け、しもべに招待しておいた客を呼びに行かせましたが、彼らは来たがらず、それぞれ自分のことを優先させ、別の者たちはそのしもべたちを殺してしまいました。怒った王はその者どもを滅ぼし、今度はしもべたちを大通りに行かせ、すべての人を宴会に招いたのです。その後、客で満ちた宴会場に王が来て見てみると、婚礼の礼服を着ていない人がおり、理由を尋ねても答えようとしません。王は召使いに命じ、婚礼の場にふさわしくないその者を、そこから追い出させました。その解釈はこうです。王は神、王子はイエス・キリスト、披露宴は神の国、招待しておいた客はメシアと神の国の到来の預言を受けていたユダヤ人たち、王のしもべたちは旧約の預言者たち、バプテスマのヨハネ、そしてキリストの弟子たちのことです。また、大通りにいて王子の披露宴に招かれたのは、ユダヤ人、異邦人、罪人、すべての人々のことであり、婚礼の礼服を着ていない客とは、キリストの義の衣が与えられているのに、自分たちの衣を脱ごうとしない、パリサイ人や祭司長のような宗教指導者のことです。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マル2:17)。「…福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです」(エペ3:6)。罪人であり異邦人である私たちもまた、宴会に招かれ、キリストにある救いと神の国の祝福を受ける者とされた…。そのことを覚え、神に感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 14章1-17節◇(7月27日)

「…王さまは、神の使いのように、善と悪とを聞き分けられるからです。あなたの神、主が、あなたとともにおられますように。」…2サムエル14:17

ダビデがアブシャロムに敵意を抱いているのに気づいたヨアブは、それがさらに良くない結果を生むのを恐れ、アブシャロムとの和解を家来である自分が進言してもまともに取り合ってもらえないと考え、テコアに住むある女性を通してダビデに働きかけようともくろみました。彼は彼女に、王の前で話すべきことばを託したのです。彼女はヨアブから言われたとおりにダビデに伝えました。ふたりの息子が喧嘩し、一人が相手を打ち殺してしまった…親族がその者を殺せと迫るが、そのような血の復讐がなされないようにしてほしい…と。するとダビデは、主は生きておられる、息子は守られると告げたのです。彼女はすかさず、王は追放された者を戻しておられない…それは王がたった今言ったことと矛盾しないかと、アブシャロムのことに話しを変えようとしました。彼女は、主は生きておられると主の御名を語ったダビデに対し、主があなたとともにおられますようにと同じように語り、ダビデの心が主に向けられるように働きかけたのです。一連のことはダビデの側近ヨアブが仕組んだことでした。しかしその思いをヨアブの中に起こし、ダビデに伝えるべきことばを示し、彼の意図を理解できる知恵ある女性を備え、ダビデの元に遣わされたのは主ご自身であったのです。それは、弱さを持つダビデが王の働きを全うするための、主の深い恵みとあわれみと配慮によることであったのです。「主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い」(詩篇116:5)。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」(2コリ9:8)。私たちの弱さを覆ってくださる主の恵みとあわれみを覚え、肉なる思いを主に明け渡す者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 13章20-39節◇(7月26日)

「ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。」…2サムエル13:39

自分の息子アムノンが娘タマルを辱めたことを聞き、ダビデは激しく怒りました(21節)。しかしその後、ダビデがアムノンに対してその行為を厳しく責めたり、傷心のタマルを訪れて慰めた様子はありません。ダビデはいったい何に対して何を怒ったのでしょうか…。そして彼らの父親としてどう対処したのでしょうか…。その後、2年が経過しました。アブシャロムは、羊の毛の刈り取りの祝いに、王と王の息子たち全部を祝宴に招こうとしました。しかしダビデはそれを断り、アムノンを含めた息子たちだけを行かせたのです。いつかアムノンを殺そうと決めていたアブシャロムは、その機会を捕らえ、若い者に命じてそれを実行しました。息子が全員殺されたとの知らせを受けたダビデは、衣を裂き、地に伏して嘆き悲しみましたが、その後、逃げ延びて来た彼らと会うと号泣しました(36節)。一方、殺人者となったアブシャロムはゲシュルに逃げ、3年間そこに留まっていましたが、そのときもダビデは、彼のところに行って会おうとはしなかったのです。「ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた」とありますが(37節)、3年もの長い間ずっとそうだとしたら、アブシャロムと話しをし、叱責と訓戒を与えないのなら、それは親としての責任を放棄していると言えるのです。そしてそのようなダビデの腰が引けた態度が、良くない結果を生み出していったと考えられるのです。「命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ」(箴6:23)。「父たちよ。…主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペ6:4) 。親は子を、主の教育と訓戒により育てる責任があるのです。関わりを煩わしいと避けるようであってはならないのです。私たちもまたダビデのような弱さと足りなさを持つ者ですが、親子いっしょに主を見上げて歩んで行きたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 13章1-19節◇(7月25日)

「彼女は言った。『いけません。兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことをしないでください。』」…2サムエル13:12

ダビデの長子アムノンは異母姉タマルに恋していました。その切々とした思いは病をわずらわせるほどでした。アムノンのいとこヨナダブはそんな彼に対し、仮病を使い、タマルに料理を作らせて食べさせてもらえばいいと悪知恵を与え、アムノンはそのとおりに実行しました。見舞いに来た父ダビデにそれを直々に頼んだのです。タマルは父の命令に従い、兄アムノンの家に行き、料理を作って彼に食べさせようとして近づきましたが、突然アムノンから力ずくで辱められてしまいました。しかも彼女への思いが憎しみへと変わったアムノンは、彼女を外に追い出したのです。そのような仕打ちに会ったタマルが受けた心の傷は、とても深いものでした(19節)。タマルはアムノンに抵抗した際、「あなたもイスラエルで愚か者のようになるのです」と告げましたが(13節)、肉の欲望にとらわれていたアムノンにとっては、そのようなことばはまったく耳に入りませんでした。ここに、父ダビデがバテ・シェバを奪ったときと同じように、神の声とまなざしを無視する、愚か者の姿があります。箴言の作者はこのように語っています。「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)。またパウロは次のように警告しています。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ローマ8:13)。肉の思いに従って生きるアムノンのような愚か者でなく、神の忠告、訓戒のことばを聞き入れて従う知恵ある者、御霊の満たしと助けによって主のいのちに生かされる、そのような者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 12章◇(7月24日)

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。』」…2サムエル12:13

預言者ナタンがダビデのところに遣わされました。ナタンは、貧しい人の羊を取り上げ、自分の客人のもてなしのために調理した富んだ者のたとえを語り、そんなことをした男は死刑だ、と憤ったダビデに向かって、「あなたがその男です」と、ずばり指摘したのです(7節)。主ご自身もナタンを通してダビデに告げられました。「どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした…」(9節)。ダビデはヨアブにウリヤを戦死させるよう命じましたが、彼を剣で打って殺したのはダビデ自身であると指摘し、何よりも、ダビデが主のことば、教えを知っていながら、主を侮ったこと、主をさげすんだことを責められたのです。「私は主に対して罪を犯した」。ダビデは自らの罪を認め、ナタンに告白しました。するとナタンは、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」とダビデに告げたのです。それはひとえに、ダビデへの、主の深い愛とあわれみによる赦しであり、それはまた、主の前に罪を真実に悔い改め、主に立ち変えろうとするすべての者に与えられる一方的な神の恵みなのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハ1:9)。一方で、ナタンのことばどおり(14節)、産まれた子は、ダビデの断食の祈りにもかかわらず病気で死にました。神のいつくしみときびしさをここに見ます(ローマ11:22)。またパウロの次のことばが思い起こされます。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。キリストの贖いによって義とされていることを感謝しつつ、主を畏れ、みことばに聞き従う者でありたいと思います。

主の道をまっすぐに歩む者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 11章◇(7月23日)

「喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」…2サムエル11:27

主に油注がれた者として、真実に歩んできたダビデ…。しかしそのダビデも誘惑に会って罪を犯してしまう…。そのことを聖書は包み隠さずに読者に伝えています。人妻バテ・シェバの美しさに心奪われたダビデは、彼女と性的な関係を持ち、彼女がみごもったのを知ると、その子が夫婦の子どもと受け取られるようにするため、夫ウリヤを戦場から急遽呼び寄せて家に帰らせ、自分の罪がばれないように工作をしたのです。しかし真面目なウリヤは遠慮して帰宅しませんでした。それを知ったダビデは、ウリヤを戦いの最前線に出して戦死させるよう将軍ヨアブに書いた手紙をウリヤ自身に持たせ、戦場へと送り返したのです。彼の作戦はまんまと成功し、未亡人となったバテ・シェバをダビデは妻に迎えました。しかし、「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」のです。ダビデが犯した罪…それはバテ・シェバとの姦淫罪であり、ヨアブに命じて間接的にウリヤを殺した殺人教唆罪です。しかし、それ以上に主のみこころを損なった罪とは、一連の事は見られていない、知られていないと主を侮り、人間的な方法によって罪を隠蔽しようとしたことです。しかし、主はすべてを見ておられ、知っておられるのです。主の前に隠しおおせることなど何一つないのです。「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた」(5:10)。主はともにおられたのです。ともずれば私たちも、試練や困難の中で主を呼び求め、それに答えてくださる主のみわざを感謝しあがめますが、祝福されて余裕があるときは、主に少し離れてもらって、自らの思いを実現させたい誘惑にしばしば会うのです。しかしそれに乗ってしまうなら、それはサタンの思うつぼです。どこにいても主のまなざしが注がれていることを忘れず、主がともにおられることを覚えて歩みたいと思います。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 10章◇(7月22日)

「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。」…2サムエル10:12

ダビデは、代替わりをしたアモン人の王ハヌンに、先代の父ナハシュが自分にしてくれたことを恩義に感じ、同じように真実を尽くそうと考えました。そこでダビデは、彼の父の悔やみを伝えるために自分の家来たちを遣わしたところ、アモン人の首長たちは、それをアモン攻略の偵察だとハモンに告げ、彼らは家来たちに辱めを与えて送り返したのです。それを知ったダビデは憤り、ヨアブを将軍とする全軍を派遣して、アモンを征伐しようとしました。するとアモン人たちは隣国のアラムに応援を求め、大勢の兵士たちを雇い、戦いに備えたのです。一方ヨアブは、彼の兄弟アブシャイと手分けをして、アモンはアブシャイに任せ、自分はアラムを討つべく出て行きましたが、なんと彼らは一目散に逃げ出し、彼は戦わずして勝利を得ることとなったのです(13節)。ダビデの持っていた純粋な心と礼節を重んじる態度…それに対するハヌンたちの曲がった心と無礼な行動…。「われわれの民のため、われわれの神の町々のため…」と言って奮い立ち、全力を尽くして戦おうとしたヨアブと、雇われた身とは言え、自分の身の危険を感じると、戦いを交えずに敵の前で逃げ出したアラムの兵士…。神と民のために自らをささげて生きる聖徒たちの姿と、そうでない者たちとの対比がここに描かれています。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:8)。誰のために生きているのか、いや生かされているのか…自己実現を目指すのか、神のみこころを追い求めるのか…主は心がご自分と全く一つになっている者たちに、御力を現わしてくださるのです(2歴16:9)。主のため、御国のために仕える者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 8章◇(7月20日)

「ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」…2サムエル8:6

8章には周辺諸国に対する扱いが記されています。アラム、アモン、モアブ、エドム、ペリシテは、それぞれ、イスラエルの北、東、南、東に位置し、まさにぐるりと周囲を取り囲んでいる国々ですが、ダビデは、それらの諸国の者たちを滅ぼさず、しもべとして従属させ、貢ぎ物を納めさせたのです。さらにそこに守備隊を置き、その従属から逃れようとする動きを察知し、封じ込めるようにしたのです。そのような戦略は、ダビデ自身の知恵によらない、何よりも主の導き、指示であったに違いありません。なぜなら6節、14節に、「こうして主は、…彼に勝利を与えられた」とあるからです。その勝利はダビデが得たものではなく、主から与えられたものだったのです。ダビデは、戦いにより敵から金、銀、青銅を奪い取り、また、ハダデエゼルの軍勢を打ち破ったことへの謝意としてハマテの王から送られた、同様の素材でできた器を受け取り、それらを聖別して主にささげました(11節)。そのように、戦いにおいて勝利を与えてくださった主に、感謝と賛美と礼拝をささげ、栄光と誉れを帰するのは、ダビデにとってしごく当然のことであったのです。「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(1コリ15:57)。私たちにとっての真の敵、すなわち悪しき者、サタンとの戦いにおいて、またそのサタンの誘惑によって最初の人アダムに入り、人類が受け継いでいる罪との戦いにおいて、イエス・キリストは私たちに勝利を与えてくだいました。その主に、ダビデと同じように私たちも、心からの感謝と賛美と礼拝をささげるべきなのです。また、主に贖われた私たち自身を明け渡し、生きた供え物として、主にささげるべきなのです(ロマ12:1)。その主は今なお、さまざまな戦いに勝利を与えてくださることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 7章◇(7月19日)

「…あなたは、ご自身の国のために、あなたの民の前で、大いなる恐るべきことを行い、この民をあなたのためにエジプトから、そして国々とその神々から贖ってくださいました。」…2サムエル7:23

エルサレムの王宮に住むようになり、主の御手によって周囲のすべての敵から守られ、安息が与えられていたダビデは、神の箱が天幕の中に留まっていることを思い、主が住まわれる家、神殿を建てようと考えました。しかし、預言者ナタンを通して主はダビデに、私はそれを求めていない、と言われたのです(7節)。それを聞いたダビデは、自分の不遜さを覚えつつ、取るに足りない者を導かれる主をあがめ、感謝し、さらなる祝福を求める、礼拝と祈りのときを持ちました。23節においてダビデが、イスラエルの民の贖いは、「ご自身の国のため」、「あなたのため」だと、神に告白していることに心が留まります。「ご自身の国」とはイスラエルという国であるとともに、後にキリストによってもたらされる「神の国」という、神が主権をもって支配される領域を示しているのです。私たちもエジプト、すなわち罪の奴隷としての身分から、キリストのいのちによって贖われ、買い取られた者です。そしてそれは、「神のため」に、「神の国のため」に、偉大なご計画の中でなされた主の救いのみわざであって、私たちのその救いは、ゴールではなくスタートなのです。私たちは主に選ばれ任命された者たちであり(ヨハ15:16)、神の御旨がなされるため、御国が建て上げられるために用いられるべく、世に遣わされ、生かされているのです。私たちがその理解、その自覚をもって歩む者となるとき、日々の試練や困難の意味はまったく変わってきます。それは単なる辛いこと、いやな避けるべきことではなく、贖われた聖徒たちに与えられる神からの必要な訓練、神のため、神の国のために有益なものとなるのです。御国の拡大のために、喜びをもって仕えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 6章◇(7月18日)

「ダビデはミカルに言った。『あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。」…2サムエル6:21

ダビデは、ユダのアビナダブの家にあった神の箱を、ダビデの町エルサレムに移すことを計画しました。民とともに出かけ、家から運んで新しい荷車に載せ、ダビデたち一行は、進みながら主へのほめ歌を歌い、立琴やタンバリンなど、種々の楽器を持った者たちがそれを奏で、打ち鳴らす調べに合わせて、主の前で力の限り喜び踊ったのです(5節)。いよいよその神の箱がダビデの町に入ったとき、サウルの娘ミカルはダビデが踊っているのを目にし、王のくせに、なんてはしたない…と心の中で軽蔑しました。このときミカルはダビデの妻でした。ダビデは彼女を、別の男性の元から交渉により取り返していました(3:15)。それなのに妻ミカルは、夫であり王であるダビデが主の前で喜び踊ることに対して、否定的であったのです。その後、神の箱を天幕の真ん中に置いたダビデは家に帰り、ミカルを初め、自分の家族を祝福しようとしました。しかし彼女は、イスラエルの王は本当に威厳があった…家来の女奴隷の目の前で裸になられて…と、皮肉たっぷりにダビデの態度を揶揄し、批判したのです。「私はその主の前で喜び踊るのだ」。ダビデのことばに心が留まります。踊るのは人の前ではない、人に見せるためではない、人からなんと思われようともかまわない…。自分が喜び踊るのは、自分を王とされた主の前なのだ…。神が喜ばれるのはダビデのその思いであり態度なのです。ミカルのような冷めた、人を気にする態度ではないのです。私たちが主を賛美し礼拝するあり方はどうでしょうか…。主の前で喜び踊る…その「心」が主に喜ばれるのです。私たちが神と人々に奉仕するあり方はどうでしょうか…。人が見ていてもいなくても「主の前に」忠実に仕える…そのような者が主に喜ばれ、祝福を受ける者となるのです。絶えず主の前に真実に歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 5章◇(7月17日)

「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。」…2サムエル5:12

イスラエルの全部族は、ダビデを自分たちの王として迎えるべく、ヘブロンのダビデのもとにやって来ました。するとダビデは主の御前で彼らと契約を結び、民はダビデに油を注いだのです。ついにダビデは、イスラエルとユダ全体を治める王に就任しました(3節)。その後、ダビデがエルサレムに拠点を移そうとすると、そこの住民のエブス人がそれを阻止しようとしました。彼らは、ここに来ることはできないと侮っていましたが、ダビデはそのシオンの要害を難なく攻め取り、そこをダビデの町と呼び、周りに城壁を築いたのです(9節)。次の敵は、かつて一時的にダビデが身を寄せていたペリシテの国の者たちでした。寝返ったと恨んだのか、彼らは「ダビデを狙って」攻め上ってきたのです。それを知ったダビデはすぐにそれに応じることなく、彼らのところに攻め上るべきかをまず主に伺いました。すると主は、攻め上れ、敵をあなたの手に渡すと約束され、その戦いを勝利させてくださったのです。なおも執拗に彼らは攻め上りましたが、ダビデは再び主に伺い、今度は後方に回るよう指示され、敵を打ち破ったのです(25節)。この5章には、ダビデと主との一体さが表されています。「万軍の神、主が彼とともにおられた」(10節)とあります。またダビデが主に伺い、指示を仰ぎ、それに忠実に従って戦いに勝利を得たことが、強調されています。何よりも、「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」との告白のとおり(20節)、ダビデは、その戦いを戦われ、勝利をもたらされたのは、主ご自身だと認めていたのです。油注がれてイスラエル・ユダ全体の王となったダビデ…。しかし彼は、自分が王として主から国と民を委ねられたこと、そして真の王は全世界を治めておられる主ご自身であって、自分はその神のしもべだと自覚し、へりくだっていたのです。そのような自覚と謙遜は、私たちにも求められています。委ねられた働きを忠実に果たすしもべでありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 4章◇(7月16日)

「すると、ダビデは、ベエロテ人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。『私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。』」…2サムエル4:9

側近であった将軍アブネルの殺害の報を耳にし、イシュ・ボシェテはすっかり気力を失いました。すると、彼に仕えていたレカブとバアナの2人は、自宅で昼寝をしていた彼を突き殺し、首をはね、それをヘブロンのダビデのもとに持って来たのです。敵であったサウルの子イシュ・ボシェテの殺害を、さぞダビデが喜ぶだろうと思っていた彼らでしたが、ダビデは、その血の責任を問うと言い、2人を殺させ、ヘブロンの池のほとりで木につるさせたのです。「主は、きょう、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです」(9節)。2人はそのように、主の御名を持ち出し、自分たちの行なったことが主から出たかのように偽り、ダビデに取り入って、報酬としての良い地位を得ようと考えたのです。しかしダビデは彼らのその魂胆を見抜いていました。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる」と彼らに告げ、人間的な考え、こざかしいやり方で世渡りする2人を断罪したのです。ダビデは、サウルに追われるという試練を通され、その中で、「あらゆる苦難から救い出してくださった」主のみわざを体験していました。そして、その主は確かに生きておられ、これからも、主権をもって、すべてを最善に導いてくださると信じていたのです。彼は、目の前に起こるさまざまな問題に心奪われず、主に信頼していたのです。ダビデを支えていたのは、そのような全能者なる神への信仰であったのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)。私たちも、人間的なものに頼らず、神を信じ待ち望む者でありたいと思います。

主は生きておられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 3章22-39節◇(7月15日)

「この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者には、その悪にしたがって報いてくださるように。」…2サムエル3:39

3章前半には、サウルの子イシュ・ボシェテ側の将軍、アブネルの背信が書かれています。彼は主君を見限り、ダビデとの契約、ユダとイスラエルの併合を図りました。一方、彼からその提案を受けたダビデは喜びました。自分がユダを含む全イスラエルの王となれるからです。彼は来訪したアブネルと部下たちを祝宴を張って歓待し、アブネルがイスラエルの民をさらに束ねることを期待して、一行を送り出しました。そのことを後から知って憤慨したのがダビデ側の将軍、ヨアブです。彼はアブネルを信用していませんでした。アブネルのダビデへの接近は、惑わし、動静を探り、ユダ王国を占領するためだと主張したのです(25節)。何より彼は、アブネルに兄弟アサエルを殺されたのであり、一度は報復をやめて退却しましたが(2:28)、その恨みをずっと心の中に抱き続けていたのです。彼はアブネルをヘブロンに呼び戻し、隙を見て殺害し、復讐を果たしました。思わぬ展開にダビデは驚き、失望しましたが、アブネル暗殺が自分の意志ではないことを示すため、国を挙げてアブネルの葬儀を大々的に行ないました。そして彼は家来たちに、自分はまだ力不足であって、ヨアブたちは手に負えないと、正直に告白したのです。それは一見、弱々しく情けない王ダビデに思えますが、しかし彼は、真の王が世界を治める神であることを認め、その神が介入してくださることを待ち望んだのです。私たちも、さまざまな争いの中に巻き込まれます。しかしそのとき、思い煩ったり、むやみに動くのではなく、自らの力の無さを素直に認め、手に負えないと主に訴え、主権者である神が介入して解決を与えてくださるようにと、油注がれた王ダビデのように、へりくだって祈り求めるべきなのです。そして主は確かにそれに答えてくださるのです。どんなときにも主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 2章18-32節◇(7月13日)

「ヨアブは言った。『神は生きておられる。もし、おまえが言いださなかったなら、確かに兵士たちは、あしたの朝まで、自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。』」…2サムエル2:27

ダビデの姉妹ツェルヤには3人の息子がいましたが、その一人のアサエルは単独でアブネルを追いました。彼は野にいるかもしかのように足が速かったため、アブネルに容易に追いつくことができました。彼に気づいたアブネルは、私を追うのはやめよ、なぜおまえを地に打ち倒さなければならないのか…とアサエルに忠告しましたが、彼は聞く耳を持たず、結局、槍で突かれていのちを奪われてしまったのです。なぜ、アサエルはアブネルを追ったのでしょうか…。サウルとダビデの家来たちによる闘いの決着は、すでについていました(17節)。それなのに執拗にアブネルを追いかけて行ったアサエルの行動は、浅はかで、わきまえのないものだったと言えます。あるいは彼は、俊足という自分の能力にうぬぼれ、手柄を立てようと考えていたのかもしれません。いずれにせよ、そのような人間的、衝動的なあり方は神の御旨ではないのです。身の破滅を招くのです。アサエルの後を追った兄弟ヨアブとアビシャイは、アサエルが息絶えているのを見、さらにアブネルを追いかけましたが、ベニヤミン人たちは戦うために集結しており、明らかに不利な状況となっていました。アブネルは、剣による犠牲者をさらに出すつもりか、退散するように兵に命じるべきではないかと言い、そのことばを聞いたヨアブは、それを神からのものと受け止め、戦いを交えずに素直に引き上げたのです。「わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ」(箴言8:5)。私たちもさまざまな試練や戦いの中に置かれますが、アサエルのように人間的、衝動的に動くのではなく、静まって主の御声を聴き、御旨を尋ね求め、神ご自身の介入を待ち望む者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 2章1-17節◇(7月12日)

「あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、主の祝福があるように。今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。…」…2サムエル2:5-6

戦士したサウルとその息子たちのからだは、ヤベシュ・ギルアデの住民によって火葬され、木の下に骨が埋められましたが(1サム31:11-13)、そのように丁寧に、真実を尽くして王を取扱い、何よりも主への畏れをもって対応したことに対し、ダビデは、謝意と賞賛の気持ちを表し伝えるべく、使いをヤベシュ・ギルアデの人々に遣わしました。そして主もまた、恵みと真実を施されるようにと、住民たちの祝福を主にとりなしたのです。そのときすでにダビデはユダの王となっていました。主に伺い、ヘブロンに行けとの御声を聞いた彼は、家族や家来とともにヘブロンに移り住み、そこでユダの人々から油注がれて王とされたのです。一方、サウルの将軍であったアブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテをマハナイムに連れ行き、そこで全イスラエルのための王としました。しかし油注ぎがなされたことは書かれていません。12節以降に書かれている記事は、サウル、ダビデ、それぞれの側の家来たちが考えて行なった「闘技」であり、後のより大きな対立の元となる出来事です。どちらが支配権を持つのか安易に決着をつけようとする…それはチンピラ同士のけんかのような幼稚なものであり、神のみこころにかなうことではありません。「さあ、強くあれ。勇気のある者となれ」(7節)。ヤベシュ・ギルアデの人々へのダビデのそのことばは、サウル王を失ってもなお主を求め、信仰を持って歩み、主の前に真実を尽くし続けよというメッセージです。人間的な考えに基づいて安易に事をなすのではなく、恐れず、主からの力を受けて堅く立てとの奨めです。私たちも主に信頼し、そのように歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 1章◇(7月11日)

「彼らは、サウルのため、その子ヨナタンのため、また、主の民のため、イスラエルの家のためにいたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した。彼らが剣に倒れたからである。」…2サムエル1:12

サムエル記第一31章の記事の続きです。一人のアマレク人がダビデのところにやって来ました。サウルとヨナタンの死を報告するためです。しかし、わざわざサウルの王冠と腕輪を取って持って来たのは、ダビデの敵サウルの最期において自分がとどめを刺したことを伝え、ダビデに喜んでもらい、何らかの報いを受けようとする魂胆があったからです。しかしその報告を聞いたダビデは喜ぶどころか、自分の衣をつかんで引き裂き、サウル、ヨナタン、イスラエルの家のために悼み悲しんで断食したのです。彼だけではなく家来も同じようにしたとあります。ダビデはそのアマレク人を、「主に油注がれた方に手を下して殺すのを恐れなかったのは、どうしたことか」と非難し、家来に命じて討たせました。確かにダビデはサウルからいのちを狙われていました。サウルの死はまた、自分が王となる日が近づいたことを意味していました。しかしダビデは、サウルの命を奪うチャンスが訪れたときも、家来たちから殺すよう促されてもそうしなかったのです(1サム24:6,26:11)。それは何より、サウルに油を注がれた神を畏れていたからなのです。19節以降には、ダビデがサウルとヨナタンのために作った哀歌が記されています。「サウルもヨナタンも、愛される、立派な人だった…」(23節)、「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった」(26節)。主と主に油注がれたサウルに対するダビデの畏れと謙遜、またダビデを愛し、彼に喜びを与えていたヨナタンの真実さ…それらは、すべての神の民に求められているあり方です。人間的な感情や自己中心的な思いに支配されることなく、御霊の助けによってそのような者とされたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章33-46節◇(7月10日)

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」…マタイ21:43

主イエスはまた別のたとえを話されました。ぶどう園の主人が自分の収穫を得るべく遣わしたしもべたちが、農夫たちに暴力を振るわれ、さらにその後に遣わした主人の息子も殺されてしまった…という内容です。農夫たちは跡取りである息子を殺して、主人の財産を分捕る魂胆だったのです。主人はその農夫たちをどうすると思うかと尋ねられたパリサイ人たちは、情け容赦なく滅ぼし、収穫をきちんと納める別の農夫に貸すはず…と答えました。そのうちに彼らは、自分たちをその悪い農夫たちだと、主イエスが言おうとしていることに気づきました。このたとえにおける主人とは神、農夫たちは祭司長のようなイスラエルの宗教指導者たち、遣わされたしもべたちは多くの預言者たち、主人の息子とはイエス・キリスト、そして別の農夫たちは異邦人を含む、キリストを信じて神の国の祝福にあずかる者たちです。悪い農夫たちは主人の財産を手に入れようとしましたが、そのように宗教指導者たちは、自分たちの考えにより、神からの好意と救いと祝福を得ようとしていたのです。しかし主人の相続財産としての神の国の祝福、すなわち、罪の赦し、救い、いやし、解放、永遠のいのち、患難の中にあって与えられる真の喜び、希望、平安…。それらは人間の努力により獲得するものではないのです。神ご自身が定められた者たちに与えられるものなのです。そのような神の民においても、きちんと収穫を納めること、神の国の実を結ぶことが求められています(41,43節)。神に感謝と礼拝をささげ、自らをささげ、栄光を主に帰す…。それは、神のみこころがこの地になされるために、用いられる者となるということであり、地の塩、世の光としての働きをきちんと果たすということでもあるのです。良い農夫として主人に仕える者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章23-32節◇(7月9日)

「…まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」…マタイ21:31(新改訳2017)

今日の箇所の後半にある主イエスのたとえですが、いくつかの聖書の間で訳と文の順序が異なっています。新改訳3版や口語訳では、兄は行くと答えたのに行かなかったとありますが、新改訳2017や新共同訳では、兄はいやだと答えて後になって出かけた者(29節に記載)、弟は結局行かなかった者となっているのです(30節に記載)。ちなみに原文では後者の訳と文の順序になっています。そのように、混乱を生じてしまうこの箇所ですが、兄、弟、どちらであっても、主が強調されているのは、「あとから悪かったと思う」ということの大切さです。原文では「心を変える」という意味のことばが使われ、32節で「あとになって悔いる」と訳されている部分にも同じその原語が使われているのです。取税人たちや遊女たちが先に神の国に入る…。取税人であったザアカイが思い出されます(ルカ19:1-9)。主イエスから声を掛けられた彼は、主を家に招き、そこで、「だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と心を変え、それまでの罪を悔い改めました。その彼に対して主は、「きょう、救いがこの家に来ました」と言われたのです。「あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった」と、主は祭司長たちを非難しました(32節)。バプテスマのヨハネが人々に語ったメッセージ、そして、主が宣教を開始されて最初に語られたメッセージ、それはどちらも、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。ヨハネが持って来た義の道とはすなわち、悔い改めて神に立ち返る道であり、それは、キリストがもたらされた神の国に入る道にほかならないのです。神の国がすでに来ているのに入ろうとしなかった祭司長たち…神の国から遠い歩みをしていたのに悔い改め、そこに入る恵みにあずかったザアカイ…主はここでその対比を示し、どちらの者になるのか…と私たちに尋ねておられるのです。「父の願うとおり」(31節)の者でありたいと願います。

みこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章12-22節◇(7月8日)

「…『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」…マタイ21:16

「主イエスの宮きよめ」と呼ばれている出来事です。宮とは神殿であり、そこは神の臨在が現わされ、人々が神を礼拝し、神との交わりを持つ場所です。そこに集まる大勢の人々を相手にして、金儲けをしていた商売人や両替人たちに対して主は憤られ、売り買いの道具を倒し、彼らを追い出されました。そして、神が人にもたらされる回復のみわざとして、盲人や足の不自由な者たちをいやされたのです。一方、祭司長や律法学者たちは、神殿においてイエスが人々に注目され、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と賛美の声を上げていることに立腹しました。宗教指導者であった彼らは、自分たちこそ誰よりも尊敬を受けるべき存在だと自負していたからです。また「ダビデの子」とはメシアを意味することばであり、それを放置するのは神への冒涜だとしたからです。彼らは、そのことばを聞いたかと、主を詰問しました。すると主は、「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」とあるのを読んだことがないのか、知っているはずだ、と逆に彼らに尋ねたのです。それは詩篇8篇2節のことばであり、その後半には、「それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」と書かれています。祭司長たちは主を十字架につけた首謀者ですが、その敵、そしてその背後で働く悪魔を黙らせるのは、そのように、幼子たちの口による神への賛美なのです。幼子や乳飲み子とありますが、それは肉体的というより、心がこの世のものに染まっていないという意味であり、それは神を信じ、主イエスを慕い求めている聖徒たち、私たちのことです。賛美は神にささげられるものですが、その賛美によって主が力を打ち建てられるということを教えられます。私たちも日々戦いの中に置かれますが、どんなときにも主を賛美する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 20章17-34節◇(7月6日)

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」…マタイ20:28(新改訳2017)

主イエスは、エルサレムに向かう道すがら、ご自身の受難と復活を12弟子に話されました。するとそのとき、彼らのうちの二人であるヤコブとヨハネの母が来て、二人といっしょに主の前にひれ伏し、天の御国においてこの息子たちを、あなたの右と左に座らせて欲しいと懇願したのです。それに対して主は、あなたがたは私の飲む杯を飲めるのか…もしできるとしても、誰が私の左右に座るかは、天の父が決めることだと言われました。現代でも、我が子を有名校に入学させるためなら何でもする「お受験ママ」が時々話題になりますが、ヤコブとヨハネの母でさえも同じような者であったこと、その母親の行動を二人が止めようとしなかったこと、御国の座を前もって確保しようとした彼らのあり方に、驚きを覚えます。しかもそれは、主がご自身の十字架上の死を予告された直後のことだったのです。自己中心性が霊性を奪うということを教えられます。主は、二人に腹を立てた10人の弟子に言われました。偉くなりたいと思う者は皆に仕える者になりなさい…人の先に立ちたいと思う者は皆のしもべになりなさい…。そして、自分のいのちを多くの人の贖いの代価として与える私と同じようにせよ、と結論づけられたのです。「…主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」。パウロもそのように言っています(使徒20:35)。仕えられるよりも仕える者となるように、受けるよりも与える者となるように、自分の思いではなく主の御思いが心を満たすようにと、卑しい私たちを主の似姿へと変えてくださる聖霊さまに、いよいよ祈り求めていきたいと思います。

主の恵みとあわれみがとこしえにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 20章1-16節◇(7月5日)

「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」…マタイ20:14(新改訳2017)

イエスは弟子たちに、天の御国の奥義について、次のようなたとえをもって説明されました。自分のぶどう園で働く者を朝早く雇った主人は、1日1デナリの賃金を払うと彼らに約束をしました。その後、彼は9時、12時、3時、5時にも市場に行き、仕事をもらうべくそこで待ち続けている者を雇い、同じように自分のぶどう園で働いてもらったのです。仕事を終えて賃金をもらう段になり、朝から働いていた者たちは驚きました。それは、ぶどう園の監督が、後から働いた者たちから1デナリの賃金を払い始め、最後に自分たちにも同額の1デナリを渡したからです。彼らはより長く働いた分、当然多くもらえるものだと思っていました。しかしそうではなかったのです。彼らはそれでは不公平だ…と苦情を言いましたが、主人は、あなたとは1デナリの約束をしたはずだ…それとも私が他の人に気前がいいのでねたむのか…最後の人にも1デナリを渡すのは私の願いなのだ…私がそうしたいからそうするのだ…と言ったのです。主イエスがこのたとえによって教えようとされたこと…それは、天の御国における神の報いは、聖徒たちに平等に与えられるということです。それは賃金ではなく贈り物であり、神の一方的な恵みだということです。それはこの世の考え方とはまったく異なるものですが、私たちはあわれみに満ちた主の絶対的主権を認め、人と比較せず、1デナリの恵みを感謝すべきなのです。神の国の報いは、若いときから主を信じて歩む者にも、死の間際で信仰を告白する高齢の者にも等しいのです。主のあわれみによって救われた異邦人である私たちにも、メシアの到来を待ち続けるユダヤ人たちにも等しいのです。主は朝から汗水流して働いた者の労苦を知っておられ、仕事を待ち続けた者の心の痛みをも知っておられるのです。「この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」…。あわれみに満ちたその主のこころを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 19章16-30節◇(7月4日)

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」…マタイ19:24

ひとりの青年が主イエスのもとに来て尋ねました。永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをすればよいのか…と。主は彼が、天の御国に入ることを切望していること、多くの戒めを守っていること、なお自分に欠けているものは何なのかと、真摯な態度で神を求めていることを知っていました。しかしそれは外面を重視するパリサイ的なものであり、彼は自分の心に目を留めようとはしていなかったのです。主イエスはその青年にチャレンジしました。あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに施しをし、そのうえでわたしについて来なさい…と。すると、自分にはそれがどうしてもできないと悟ったその青年は、悲しみながら主イエスのもとを立ち去ったのです。それを見て主は弟子たちに、金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことだ、と告げられました。主イエスが挙げ、青年が守っていると答えた戒めはすべて、他者との関係についての教えであり(18-19節)、十戒にもあるものです。しかしその青年には、十戒の第一戒である、「わたしのほかにほかの神々があってはならない」(出20:3)や、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)という何よりも重要な戒めを守って、神との親密な関係を築こうとする思いはなかったのです。富への執着を捨てきれない彼の姿がここに表されています。主は、金持ちは天の御国に入る資格がないと言われたのではありません。私よりも大切なものがあるなら、それを手放せないなら、そのような者は天の御国に入るのがむずかしい、と言われたのです。それは富に限らず、仕事や趣味など、すべてのことに当てはまるのであり、もしそうであるなら、それらは「偶像」だということなのです。自分の中でいま何が最も大切なものとなっているのか…神を第一とし、心を尽くして主を愛する歩みをしているか…そのような問いかけを自分自身にしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 19章1-15節◇(7月3日)

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」…マタイ19:9

パリサイ人たちの主イエスへの質問、それは、何か理由があれば妻を離別することは、律法にかなうのかという、申命記24章1節の教えについてでしたが、そこには、「…妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いて…」と書かれてあり、「何か理由があれば」というのは、その教えを正しく理解していることにならないのです。実際、当時、「何か恥ずべき事」を、自分の口に合った料理を作ることができない、というようにとらえたり、「気に入らなくなり」を、妻への関心がなくなり、他の女性に好意を抱くようになった状態と解釈する、そのような身勝手な拡大解釈がなされていたのです。彼らへの主イエスの答えは、神が定めた結婚の意義を強調するものでした。神は人を男性と女性に造られた…そのふたりが一体となることは神のみこころであって、神が結び合わせたものを「人」が引き離してはならない、つまり、不貞を働くようであってはならない。それなのに、妻が意図的に不倫をし、姦淫の罪を犯すようであるなら、離縁状を渡して離縁するという申命記の教えに従うのは、理にかなっていることなのだ…と言われたのです。そして、「何か理由があれば」妻を離別できるとして、自分たちの思いを押し通す罪深さを指摘したのです。一方、弟子たちは、イエスのことばから、結婚がそのように、神の前に真実であるべきなのをあらためて教えられ、その大変さを思い、だったら独身を通したほうがいいと、別な意味で律法を正しく理解せず、人間的に考えたのです。主は彼らに、みこころならばそうなると言われました(12節)。みことばを拡大解釈する…逆にみことばに縛られてしまう…。もちろんそれは、どちらも正しいあり方ではありません。みことばの真意は何か、主の御思いはどのようなことか…。主の前に静まり、御霊による啓示を求めたいと思います。

真理の光に照らされて歩むことができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 18章15-35節◇(7月2日)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」…マタイ18:33

ペテロは主に尋ねました。罪を犯した兄弟は7度まで赦せばよいでしょうか…と。当時のユダヤ教のラビたちは、3度まで赦せと教えていましたが、主イエスの心を知ったペテロは、それより多い7回なら十分だと考えたのです。しかし主イエスの答えは彼の想像を超えるものでした。7の70倍と言われたのです。それは、数え切れないほど、徹底的に兄弟を赦しなさいという意味にほかなりません。23節以降のたとえに出てくる王のしもべには、1万タラントの借金がありました。脚注にあるとおり、1タラントは6千デナリ、1デナリは1日分の労賃ですから、1万タラントは20万年間働いて得るお金に相当します。結局このしもべは、主人からかわいそうに思われて、あわれみを受けて、何とその借金を免除されました。ところが彼は百デナリ、つまり自分の負債の60万分の1の借りのある者の首を絞めて、返済を迫ったのです。それを聞いた主人は怒り、しもべの借金免除を撤回し、全額返済するまで彼を牢に入れたままにしました。百デナリの借りを赦そうとしない、心が頑なな王のしもべ…実はそれは私たちのことです。些細なことで他者を責め、そうされて当然だと、堅い心で赦そうとはしないのです。しかし私たちは1万タラントもの借金を免除されたのです。23節の「地上の王」(「王である一人の人」:2017訳)とは、十字架にかかって血を流し、いのちを代価として支払い、私たちの罪の負債を帳消しにされた主イエスなのです。その主が、兄弟を7の70倍赦しなさいと言われたのです。「心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさる」と言われたのです(35節)。私たちは肉によって兄弟を愛し赦すことはできません。十字架を仰ぎ、主の全き愛を受け取り、悔い改め(向きを変え)、聖霊に助けられてこそ、真に兄弟を赦すことができるのです。あわれみの心を持つ者にさらに変えられたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 18章1-14節◇(7月1日)

「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」。…マタイ18:3 (新改訳2017)

天の御国ではだれが一番偉いのでしょうかと、弟子たちは主イエスに尋ねました。すると主は、一人の子どもを彼らの真ん中に立たせ、向きを変えて(「悔い改めて」:新改訳2・3版)子どもたちのようにならなければ決して天の御国には入れない、子どものように自分を低くする者が天の御国では一番偉い、と言われたのです。弟子たちにとってその答えは意外だったことでしょう。なぜなら、能力が高く、行動力を持った者こそ、人々から一目置かれ、リーダーに選ばれる…。彼らもそのような世的な価値観を持っていたからです。それなのに主は、無力で未熟な子どもを呼び寄せ、この子のように自分を低くする者こそ一番偉いのだ…と言われたからです。「向きを変えて」ということばは、弟子たちがそうでなかったことを示唆しています。実際、彼らは、自分が他者よりまさっているとうぬぼれ、それを確認したいがために、愚問を主に出したのです。「つまずかせる」ということばが繰り返されています(6-9節)。その意味は、天の御国に入るのを妨害することであり、神にではなく人間的なものに心を向けさせることであり、「つまずき」とは、そのように人を不信仰にさせるものです。からだの器官がつまずかせるならそれを切って捨てよと、厳しいことばで主は弟子たちに命じられました。それは、そのようにたとえ一部を失っても「いのちに入る」、つまり、天の御国に入ることを全力で追い求めよということなのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。高慢にならず、子どものように自分を低くしているでしょうか…。つまずきとなるものを回避しようと努力しているでしょうか…。教会に行っているから大丈夫と油断していないでしょうか…。御国に入れられるのにふさわしい者となっているだろうか…と、語られている主のことばによって自己吟味したいと思います。

主の守りと導きがありますように。