◇聖書箇所: サムエル記第二 19章24-43節◇(8月31日)

「こうして、みなはヨルダン川を渡った。王も渡った。それから、王はバルジライに口づけをして、彼を祝福した。バルジライは自分の町へ帰って行った。」…2サムエル19:39

ギルアデ人バルジライは、エルサレムに戻るダビデとユダの民をヨルダン川で見送るためにログリムから下って来ました。するとダビデは、すでに80歳の高齢であったバルジライに対して、いっしょに川を渡ってエルサレムに行ってほしい、あなたを養いたいと願っていると告げたのです。ダビデはなぜそのような申し出をしたのでしょうか。それは、ダビデと民がマハナイムに来たときに、飢え渇いて疲れていると考えて食糧を提供し(17:29)、それ以来、滞在期間中、それをし続けたからです。彼は非常に裕福で、王を「養った」とあります(32節)。結局、彼は、高齢であることを理由として、ダビデのその申し出を丁重に辞退しましたが、彼の行為は報酬を受けるに十分に値するものだと、ダビデは受けとめていたのです(36,38,39節)。異邦人であるバルジライが、神に油注がれた王であるダビデや、神の祝福の基とされたアブラハムの子孫であるユダとイスラエルの民のことを、どこまで正しく理解していたかは不明ですが、彼は、ダビデたちから政治的、経済的な報いを期待していたわけではなく、純粋な思いで王と民の必要を満たそうとしたのです。そして何よりも背後におられる神がその思いを与え、バルジライたちを助け手として用いられたのです。「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる」(イザ58:10)。また主イエスも、強盗に襲われた人のたとえから、その人にあわれみをかけてやったサマリヤ人のように、良き隣人となるようにせよ、と言われました(ルカ10:37)。この地に主のみこころをなし、御国を拡げるために、私たちもそのような者として主に用いられたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 19章1-23節◇(8月30日)

「こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた。ユダの人々は王のもとに人をやって、『あなたも、あなたの家来たちもみな、お帰りください』と言った。」…2サムエル19:14

イスラエルとの戦いに勝利したにもかかわらず、ダビデとともにいるユダの民は戦場から逃げ帰る者のように、町にこっそりと帰って来ました。ダビデ王が息子アブシャロムの死を嘆き悲しんでおり、戦勝祝賀ムードとはほど遠い空気であったからです。ヨアブはそれが兵士たちに悪影響を及ぼすことを懸念し、家来たちに戦いの労をねぎらう言葉がけをするようにと、兵士たちや民への配慮をダビデに対して要請しました。それに対するダビデの対応は書かれていませんが、彼は、アブシャロムを失ったイスラエルの民が、自分を王として連れ戻そうとしていることを聞き及び、ユダの民もまた王宮に自分を連れ戻すべきだと考え、人を遣わしてそのことをユダの人々に伝えたのです。アブシャロムの死を悲しむばかりであったダビデは、ようやく我に帰り、ユダとイスラエルの統一国の王としての地位に就くことに心を動かされたのかもしれません。しかしヨアブからの指摘を彼はどう受けとめたのでしょう。王としての、指揮官としての立場を忘れて、私情に流されてしまったことを素直に認めようとはせず、人間だからそういうこともあると軽く流そうとするならば、そのことを反省・教訓として活かすことができないのです。そしてそのように直言する部下を煙たい存在だと感じ、自分から遠ざけるようにさえなってしまうのです。実際ダビデは、アブシャロムの軍団長であったアマサをヨアブの代わりに将軍に据えようとしたのです(13節)。他人からの忠告を喜んで聞き入れる人はまれです。自分は間違っていない…と人は思い込みがちだからです。しかしその指摘がたとえ誤解や誤りを含んでいるとしても、他者からの声を、そしてその背後におられる主の御声を、へりくだって受けとめることが大切なのです(ピリ2:3)。絶えず砕かれた心をもって歩む者でありたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 18章19-33節◇(8月29日)

「するとクシュ人が入って来て言った。『王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。』」…2サムエル18:31

ツァドクの子アヒマアツは、戦いの結果について、ダビデにいち早く知らせたいと願いましたが、ヨアブはそれに否定的でした。それを聞いても王は勝利を喜ばず、息子の死を嘆き悲しむことを知っていたからです。だから彼はアヒマアツに、何のほうびも得られない…と言ったのです(22節)。それでもアヒマアツは王に伝えることを強く望み、先に出発した一人のクシュ人の後を追いました。走って来る者がいるとダビデが見張りから聞いたとき、「吉報だろう」と言いましたが、彼はいったい、どのような報告を期待して待っていたのでしょうか…。ダビデにとっては、自軍が敵を打ち破ること以上に、息子アブシャロムの安否が最大の関心事だったのです。それは、二人の報告者に対する彼の第一声が「勝ったか」ではなく「アブシャロムは無事か」であったことに表われています。そしてそれは、兵士たちや民に対して否定的な感情を与えたに違いありません。なぜならそれは、王の思いが彼らの身の安全や国の安寧に向いていないことを意味していたからです。息子の身を案じる…それはダビデにとって父親として当然のことだと言えます。しかし報告者たちが、主が王を救って正しいさばきをされたと、主の御名を出して語ったように、主のみこころ、主のご計画は、ダビデが抱いていた思いとは異なっていたのです。一国の王としての、また軍の最高司令官としての立場…かたや一人の父親としての立場…その間で葛藤するダビデの弱さは私たちにもありますが、私情に流されず、冷静に主の御旨を尋ね求め、それに従順に従う誠実さが求められているのです。御霊の助けと導きを受けつつ、常にそのように歩む者でありたいと願います。

主のみこころがなりますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 18章1-18節◇(8月28日)

「ヨアブは、『こうしておまえとぐずぐずしてはおられない』と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。」…2サムエル18:14

ダビデは兵たちの上に千人隊長、百人隊長を任命し、全体を分けて統率する3人の指揮官を立てました。さらにダビデは自らいっしょに出陣しようとしましたが、身を案じた兵士たちから町に留まるように説得され、王は兵士たちを見送りました。そしてその際、「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と、隊長たち全員に対して直々に命じたのです(5節)。いよいよ戦いが始まると、アブシャロムにつくイスラエル軍は打ち負かされ、2万人の者が打たれました。そして出陣していたアブシャロムは樫の木に引っ掛かり、宙づりになりました。それを見た一人の者はダビデ王のことばを思い出し、手を出すことをしませんでしたが、そのことを告げられたヨアブはただちに3本の槍を取り、アブシャロムの心臓を突き刺して殺害したのです(14節)。ヨアブの行為は王の命令に反したものであり、そのやり方も冷酷無情で非難すべきものに思えます。しかし彼は、単に戦うことを好む暴力的な者ではなく、民がイスラエルを深追いするのをやめさせるような冷静かつ客観的な視点の持ち主であったのです(16節)。一方ダビデは、アブシャロムをゆるやかに扱うってくれと隊長たち全員に頼み込みましたが、それは明らかに自分の息子なので特別に情けをかけてやってくれという肉親への情に基づいた依頼であり、そうでないならば、クーデターを起こし自分の身を脅かすような存在に対し、そのような扱いを求めるはずがないのです。ヨアブや、民はそのことを知っていました。アブシャロムの殺害は、国家とダビデにとって必要だと理解していたのです。主はそのようにして、ヨアブを立てて用いられたのであり、ダビデが持っていた弱さをカバーされようとされたのであり、この出来事はそのような視点でとらえるべきなのです。主はあわれみをもって私たちの弱さをも覆われる方です。主の御手の中で守られていることを覚えたいと思います。

主がいつもともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 17章◇(8月27日)

「…これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」…2サムエル17:14

アヒトフェルが進言する助言は人が神のことばを伺って得ることばのようであったとあります(16:23)。しかし神と心が一つとなっていない者に対して、神がご自身のことばを示されるはずがありません。それはあくまでも人の知恵、人のことばなのです。そして主はダビデが送り込んだフシャイを用いて、そのアヒトフェルのはかりごとを打ち砕かれたのです。アヒトフェルはアブシャロムに、王だけを打ち殺し、民をみな連れ戻すように提案して気に入られましたが、その後、アブシャロムから意見を求められたフシャイは、王だけでなく部下の兵士や、逃げ込む町の住民を含め、皆殺しにすべきだとする強硬策を代わりに提案し、アブシャロムと民は彼のその案のほうに賛同しました。主がその背後で働いておられたからです(14節)。15節以降にはさまざまな出来事が書かれていますが、それらもまた、主の介入によってなされたことでした。ダビデ陣営のヨナタンとアヒマアツは敵に見つかっても、井戸の中に隠れて誰にも知られずに済み(19節)、ダビデと民がヨルダン川を渡る際に困難を覚えても、夜明けまでに渡りきれなかった者は一人も出ず(22節)、ダビデの一行がマハナイムの町に到着したとき、異邦人であるアモン人やギルアデ人たちが、さまざまな種類の食糧を用意して持って来たのです。民が飢えて疲れていると彼らが思ったからです(29節)。そしてその思いもまた主からのものであったのです。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリ4:19)。主は私たちにも御目を留め、必要な助けと守りを与え、栄光の富をもって必要をすべて満たしてくださるのです。どんなときにもこのお方に信頼して歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 16章◇(8月26日)

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」…2サムエル16:12

アブシャロムが反旗を翻したことを知ったダビデは、戦わずに逃げることにし、彼の家来と民もみないっしょになって、荒野のほうへ渡って行きました。一行は、オリーブ山の坂にさしかかったときには、頭をおおい、泣きながら登ったとあります(15:30)。ダビデの心中は無念さとともに、自らの足りなさと、何よりも主から心が離れていたことを悔やむ思いが去来していたに違いありません。彼はようやく、それまでのあり方を悔い改め、主に立ち返り、アブシャロムの側近アヒトフェルの助言を愚かなものにしてほしいと、祈りの声を上げたのです(15:31)。その後ダビデは「神を礼拝する場所」である山の頂で、フシャイという人物と会いますが、彼はまさにダビデの祈りへの答えとして、主が送られたのです(15:34)。主はそのようにしてダビデを顧みてくださいました。ダビデ自身、自分がその主の恵みとあわれみのうちに生かされていることを確信することができたでしょう。だからこそ、さらに進む途中、シムイというサウル家の一族のひとりがダビデたち一行に石を投げつけ、ダビデに向かってのろいのことばを吐き続けても、意に介さず、心乱されることなく、「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」と、そのこともまた主の御手の中にあるのだと受けとめ、最善をなしてくださる主に信頼して委ねたのです。私たちも、責められることばを受けることがあります。それが事実であっても、そうでなくても、そのことばが、とげのようにチクチクと心に刺さるようになるのです。しかし私たちは何よりも主の前に自らのあり方を問い、悔い改め、あるいは主の弁護のことばを受け取り、主によって義とされて歩むことが大切なのです。主はすべてをご存じで私たちの心を守られるお方です。その主にますます信頼して歩みつづけたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 15章1-18節◇(8月24日)

「アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」…2サムエル15:6

アブシャロムは、ダビデ王に逆らって謀反を起こそうと企んでいました。彼は、訴えのために王のところに来る者たちとその前に接触し、王の側にはそれを取り上げてくれる者はいないと告げ、自分がこの国のさばきつかさになれば正しくさばくといって期待を抱かせ、一人ひとりへの抱擁と口づけをもって親しくなろうと努めたのです。4節の「私…私…私…」という自己中心な彼のことば、また6節の「心を盗んだ」ということばに心が留まります。一方ダビデは、アブシャロムが、主に立てた誓願を果たすためにヘブロンに行きたいとの願いを申し出たとき、「元気で行って来なさい」と行って送り出しました。ダビデはアブシャロムのことばと行動に、不穏な空気をまったく感じなかったのです。しかし4年もの長きにわたり、門に通じる道に立って人々を懐柔していた彼に対して何の疑いも持たずにいたというのは、一国の王として、危機管理意識があまりにも低いと言わざるを得ないのです。さらに王は、事情を知らない2百人を伴った彼について、民の心がなびいていると告げる者のことばを聞いただけで、王宮を離れて逃げることを即断し、しかも留守番として、部下ではなくなんと10人のそばめを残したのです。そのときにダビデが主の前に出て祈り、主のみこころを尋ね求めた様子はありません。そのような、ダビデの王としての意識、また神を中心として歩む霊性の欠如、そして、アブシャロムの人間的な野心と身勝手さが、イスラエルの国に大きな問題をもたらすことになるのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか。敵の悪巧みをすぐに察知する敏感さを備えているでしょうか。またそれに対して恐れず立ち向かう勇気があるでしょうか。「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ4:7)。キリストにあって、常にそのような者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 28章11-20節◇(8月23日)

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」…マタイ28:20

ユダを除く、最初に選ばれた弟子たち11人は、マリヤたちが告げたことばに従ってガリラヤへ戻り、よみがえられた主イエスとの再会を果たしました。死に打ち勝たれた主を彼らはあがめ礼拝しましたが、中には復活の事実がまだ信じられない者もいました。しかし主イエスは、そのような者たちのことも含め、ご自分を置いて逃げた弟子たちを叱責することなく、彼らを赦し、受け入れるために自ら近づかれ、そこで彼らに重要なメッセージを語られたのです。19-20節は「大宣教命令」と一般に呼ばれています。「…しなさい」という動詞の命令形のことばが用いられ、人々を弟子とせよ、バプテスマを授けよ、彼らを教えよと、弟子たちがなすべき働きが具体的に指示されています。そしてその19節の始めには「それゆえ」とあるのです。前の18節にある主のことば、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」という重要な事実が、その宣教命令の根拠なのです。その主の権威は、弟子たちにも付与されているのです。また、敵の迫害と背後にあるサタンの悪巧みも、あくまでもその主の権威の下でなされていることであり、弟子たちの歩みは、主の御手の中で守られているのです。「それゆえ」、マルコが記しているように(マル16:17-18)、弟子たちはその主の権威によって、悪霊を追い出し、新しいことばを語り、病人に手を置いていやすのです。また蛇をもつかみ、毒を飲んでも害を受けないのです。「だからこそ」、恐れずに、主の命令を遂行するのです。主は、あとはよろしく頼む…と弟子たちに全て任せるために宣教命令を与えたのではありません。それは、主と「ともに」、弟子たちが主の手足となり、口となって働くためなのです。宣教の主体はあくまで主ご自身なのです。そしてその主は世の終わりまで、いつも、聖徒たちとともにおられるのです。そのことをしっかりと心に留めて歩み続けたいと思います。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 28章1-10節◇(8月22日)

「すると、イエスは言われた。『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。』」…マタイ28:10

週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤともう一人のマリヤが主イエスの墓を見に来たとき、地が大きく揺れ動き、主の使いが天から降りて来て、墓の入口の石をわきに転がし、その上に座りました。そして、その光景を見て恐れ、気が動転していた彼女たちに対し、恐れてはいけないとまず告げ、さらに次の3つのことを伝えたのです。① 主イエスはよみがえられた(墓にはもういない) ② 主イエスの復活を弟子たちに急いで知らせよ ③ 弟子たちは主イエスとガリラヤで会うことができる 主イエスがよみがえられたことを知った彼女たちは、大喜びで弟子たちに知らせに走って行きましたが、途中、復活の主は彼女たちの前に現れ、御使いが告げた③のことを、ご自身の口からも語られました。しかも主は「わたしの兄弟たちに」と言われたのです。他の福音書記者はエルサレムでの弟子たちとの再会を記していますが、明らかにマタイは、弟子たちが復活の主と会うのはガリラヤだと明言しているのです。ガリラヤ…そこは漁師などの職に就いていた者たちが、主イエスに呼ばれ、召命を自分のものとして受け取り、弟子としてついていくことを決心したところです。また、主の語る教えを聞き、主のなさる奇しいみわざを目撃し、羊飼いのいない羊のように弱り果てている多くの人々の痛みと苦しみを、彼らなりに感じ取ってきたところです。主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たち…。ユダやペテロだけでなく、弟子たちはみな主を裏切り、主から離れてしまったのです。そのことを悔い改め、主から赦され、初めの愛に戻り、再献身を決意するところ、それにふさわしいのがガリラヤだったのです。私たちもときに主から離れてしまう弱さを持っていますが、初めの愛、信仰の原点にいつも戻りたいと思います。

主の愛は決して変わりません。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章57-66節◇(8月21日)

「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。」…マタイ27:57

主イエスが十字架につけられ殺されるという、いわばクライマックスの場面を描いた27章において、「弟子」ということばが出てくるのは57節が最初です。その弟子とは、アリマタヤ出身のヨセフという人であり、彼は、主イエスが語る神の国の福音を聞いて信じ、主の「弟子」とされた、一人の信者だったのです。そのとき最初に選ばれた弟子たちはいませんでした。イエスを見捨てて逃げてしまっていたからです(26:56)。また、主を裏切って敵に渡したユダは自ら命を絶ち、同じく裏切って主を否んだペテロも姿を消したからです。ヨセフについての詳細はわかりません。しかしマタイが、「金持ち」とわざわざ記していることに心が留まります。以前、主イエスは弟子たちに、金持ちが天の御国に入るのはむずかしい…と告げられましたが(19:23)、その金持ちであるヨセフがピラトのところに行って、主イエスのからだの下げ渡しを願い出たのです。それは自分がイエスの仲間だと認めることであり、同じように捕らえられて殺される危険もあったはずです。しかしヨセフは恐れずに「弟子として」行動したのです。「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」(19:29)。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(16:25)。金持ちが天の御国に入るのはむずかしい…と言われた主イエスの真意は、財産の有無自体が問題なのではなく、お金を捨てても、いのちを捨てても、私に従う意志があるか…そのような者こそ天の御国に入るのだ…ということであり、最初の弟子たちとヨセフのあり方を通し、マタイはそのことを伝えているのです。「きれいな亜麻布」、「新しい墓」…主の埋葬のために用いられたのはヨセフの財産でした。私たちも持てるものを主に献げて用いられたいと願います。

主のために生きる者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章45-56節◇(8月20日)

「また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」…マタイ27:52

十字架にかかられた主イエスは大声で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは、御子イエスとして御父に向かって発したことばではなく、主イエスが身代りとなられたすべての人が本来叫ぶべき、神に見捨てられた者の嘆きのことばであったのです。やみと絶望に満ちたその所にまで主は行かれたのです。やがて主はもう一度大声で叫んで息を引き取られました。そのことばは具体的には記されていませんが、ヨハネによればそれは「完了した」と言うことばでした(ヨハ19:30)。十字架上で主は、贖いは完成した、成し遂げられた、人々が罪に苦しむ必要はなくなったと、宣言されたのです。その瞬間に同時に起こった出来事をマタイは記しています。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。地震が起こり、地が揺れ動いて岩が裂けました。墓が開き、眠っていた多くの聖徒たちのからだが行き返り、主イエスの復活後に墓から出て来て多くの人に現れました。それらはすべて、イエスの十字架がもたらしたことなのです。「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」(1コリ15:54)。主イエスによる十字架の贖いの完成の瞬間に、確かに死はいのちに、勝利に呑み込まれました。主ご自身の復活は死から3日目に起こった出来事でしたが、多くの聖徒たちの復活がイエスの死とともに起こったとことに心が留まります。そしてそれは最終的な聖徒の救いの完成、すなわち、終わりの日に起こることの先駆けであったのです。上から下まで真っ二つに裂けた神殿の幕…それはまた、イエスの贖いによって回復された、神と人との親密な交わりを意味しています。大祭司イエス・キリストが自らささげられたいけにえによって神と和解した私たちは、何の隔てもない中、大胆に恵みの御座に近づき、主の御顔を仰ぎ見るのです。そのような者とされていることを心から感謝したいと思います。

救いの喜びがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章27-44節◇(8月19日)

「また、イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。」…マタイ27:37

祭司長たちや扇動された群衆に迫られたピラトは、イエスを十字架につけることを認めて引き渡しました。すると、ピラトの兵士たちはイエスの着物を脱がせ、緋色の上着(「紫の衣」(マルコ15:17))を代わりに着せ、長いとげのある茨で編んだ冠を王冠のように頭に置き、葦の木を杖のようにして右手に持たせ、イエスの前に家来のようにひざまづいて、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」と言ってからかいました。ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ね、主イエスは「そのとおりです」と答えられましたが(27:11)、兵士たちは誰一人、目の前のみすぼらしい姿の男が、そのことばのとおり「王」だとは思っていなかったのです。彼らはそのようにしてイエスを嘲笑したあげく、もとの着物を着せて刑の執行場所まで連行しました。そしてゴルゴダの丘に立てられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王イエス」という罪状書きが掲げられ、周りの者たちは「王なら十字架からおりてもらおうか」と言って主イエスをあざけったのです。そのようにマタイは、主イエスがイスラエルの王であると自ら認めて告げたこと、しかし兵士たちや祭司長たちが惨めで何もできない、王には到底ふさわしくない姿を見て、こんな者が王だとは笑わせるとした様子を描いています。そのマタイは、主イエスの降誕直後に東方の博士が来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と尋ねたことを記し(2:2)、ベツレヘムからイスラエルを治める支配者が出るというミカの預言を学者たちがヘロデ王に告げた記事をも書いていますが(2:5)、それによって、イエスが確かに王であられたこと、また、人々がそれを信じなかったことが強調されているのです。そのイエスはよみがえり、全世界の王、御国の王として、主権をもってすべてを統べ治めておられます。このまことの王の御前にへりくだって歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章1-10節◇(8月17日)

「それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」…マタイ27:5

夜が明けました。一晩中審議していた祭司長たちは、イエスを死刑にしてもらうべく、縛って連れ出し、ユダヤの総督であったピラトに引き渡しました。一方、主を裏切ったユダは、深い後悔の念を抱き、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」(2017訳)と言って祭司長たちに銀貨30枚を返そうとしましたが、彼らは「自分で始末することだ」と言って拒みました。するとユダは、銀貨を神殿に投げ込み、出て行って首を吊って自殺したのです。それは悲惨な結末でした。なぜユダは、そのときになって後悔したのでしょうか。過越の食事のときにもそのチャンスはあったはずです。ルカはユダのうちにサタンが入ったと記していますが(ルカ22:3)、彼は惑わされてしまっていたのです。自分がやっていることは正しいと思い込んでいたのです。ここに人間の罪深さをあらためて見る思いがします。マタイはこのユダの出来事を、ペテロが主を否んだ記事のすぐ後に書いていますが、そのユダもペテロも、同じように主イエスに対する裏切行為をしたのです。また、同じように自分のあり方を深く後悔したのです。しかしその後の歩みは同じではありませんでした。ユダは死を選び、ペテロは主によって生かされたのです。ここに主の2人の弟子たちの明暗が描かれています。ユダは決して自ら命を絶つ必要はなかったのです。ペテロのように後悔だけでなく主に立ち返って赦され、主の愛とあわれみのうちに生きることができたのです。主の御手はユダにも確かに伸ばされていたのです。しかし残念ながら彼はその道を選ばなかったのです。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。…神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇51:1,10)。ダビデはそう祈りました。私たちもまたそのような者でありたいと思います。

主の恵みはとこしえにあります。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章57-75節◇(8月16日)

「そこでペテロは、『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」…マタイ26:75

捕らえられた主イエスのあとをこっそりつけて行き、成り行きを見ようと大祭司の中庭に入ったペテロは、素知らぬ顔をして役人たちと一緒に座っていましたが、そこにいた人々から気づかれ、ナザレ人イエスの仲間だと指摘されると、そんな人は知らないと言って否定しました。それは3度も繰り返され、最後には、嘘なら呪われてもいいとさえ言って誓ったのです。そのとき鶏が鳴きました。ペテロはようやく我に返り、「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言う」と前に告げられた、主のことばを思い出したのです。そして彼は出て行って激しく泣いたと記されています。ペテロは感情を抑えきれなくなって号泣したのです。なぜそれほどに彼の感情は動かされたのでしょうか…。それは自分のふがいなさ、罪深さを思い知らされ、自分こそ一番弟子というプライドがペシャンコにされ、主イエスが言われたとおりになったことに愕然とし、主を裏切ったことへの悔恨の情にかられたからです。ペテロにとってそれは人生最大の汚点、大失態でした。しかし主は、後にガリラヤでそんなペテロに対して、「あなたはわたしを愛しますか」と、彼が主を否んだのを帳消しにするかのように3回尋ね、「わたしの羊を飼いなさい」と言って再献身に導かれたのです(ヨハ21章)。ペテロの涙と深い悔い改め…それは主に覚えられ、深いあわれみの中で赦しと回復が与えられたのです。ペテロのような大失態ではなくても、私たちにもまた、主のみこころに従い切れない弱さ、罪深さがあります。ペテロのようにそのことを深く覚え、真実に悔い改め、主からの赦しと回復を受けて再び立ち上がる者とされる…。主が願われるそのようなあり方に歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章47-56節◇(8月15日)

「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。」…マタイ26:56

ユダに先導され、祭司長たちから差し向けられた群衆が、イエスを捕らえるべく、剣や棒を手にしてやって来ました。彼らが主に手をかけて捕らえると、ペテロはすかさず剣を抜いて大祭司のしもべに斬りかかり、彼の右耳を切り落としました(ヨハ18:10)。すると主イエスは、剣を納めよ、剣を取る者はみな剣で滅びる、わたしは多くの御使いを配下に置いていただくことさえできる、と彼に言われたのです。その後、イエスの弟子たちは一人残らず、イエスを置いてその場から逃げてしまいましたが、マタイは、「弟子たちはみなイエスを見捨てて…」と記しています。では、なぜ見捨てたのでしょうか…。それは何より、自分たちも一緒に捕らえられる…と、本能的に身の危険を感じて恐れたからです。しかし彼らはみな、たとい一緒に死ぬようになっても、あなたを否定しないと言っていたのです(26:35)。そのことばは、ペテロが3度主を否むより前に、すでにこの出来事の時点で吹っ飛んでいたのです。弟子たちが主を見捨てたもう一つ別の理由として、剣をもとに納めよとの命令への反発もあったに違いありません。彼らにとって、この場面で剣を使うのは当然のことであり、それをするなというのであればどうすればいいのかという人間的な思いを彼らは抱き、多くの御使いを配下に置いていただくこともできるという主のことばを聞いても、その権威に従おうとはせず、主を「見限って」離れていってしまったのです。私たちも、問題が起こると信仰が吹っ飛んでしまい、人間的な方法でそれを解決しようとすることがあります。しかしどんなときにも主に拠り頼み、みこころにかなうあり方を尋ね求め、それに従って歩むべきなのです。あたふたと動き回るのではなく、まず主の前に静まり、主の御声を聴いて行動する者でありたいと思います。

主はともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章36-46節◇(8月14日)

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」…マタイ26:41

主イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来ました。そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを伴ってさらに進んでいき、あとの者たちはそこで座って待っているようにと命じられました。その後、3人と一緒にいた主は悲しみもだえ始められ、わたしと一緒に目を覚ましていなさいと言われて、ご自身は少し離れた所で父なる神にひれ伏して、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と、心を注ぎだして祈られたのです。「杯」とは待ち受ける十字架の受難を意味していました。しかしそのように主から命じられたにもかかわらず、ペテロたちは眠ってしまいました。そんな彼らに主は、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい、と再び言われましたが、結局3度繰り返されたのです。「一緒に」ということばが何度も出て来ますが(38,40節等)、その3人は代表であり、主は弟子たち全員に対して、ご自分と一緒に、同じ思いで、みこころがなるようにと、父なる神に祈るように願っておられたのです。主は、彼らがそこで座って待つこと、眠らないで起きていることを、単に求められたわけではないのです。「誘惑に陥らないように」と主は言われました。そこに、祈りを妨害する悪しき者の働きが示唆されています。悪魔は人を神から引き離そうとして働いているのです。その悪魔にとって私たちの神への祈りは脅威なのです。またその主のことばは、悪魔の誘惑に陥らないために、目を覚まして祈っていなさいという意味でもあります。主が弟子たちにこう祈りなさいと言われたことばに、「…みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。…私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」とあることを思わされます(マタ6:10,13)。「肉体は弱い」…。弱い私たちを導きとりなしてくださる御霊に助けられ、目を覚まして祈り続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章26-35節◇(8月13日)

「ペテロは言った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』弟子たちはみなそう言った。」…マタイ26:35

過越の食事を終えてオリーブ山に向かう途中、主は、あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずくと、予告されました。しかしペテロは、たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずかないと言って認めませんでした。すると主は、確かにあなたは、今夜、鶏が鳴く前に、わたしのことを3度知らないというと彼に告げましたが、それを聞いてもなおペテロは、そんなことはないと、主のことばを頑なに否定したのです。ここではペテロにスポットが当たっています。彼だけが頑迷で意固地な者のように思われがちですが、「弟子たちはみなそう言った」とマタイは記しているのです。ペテロだけでなく弟子たち全員が、そんなことはない、あなたを知らないなどと言う訳がないと言い張ったのです。しかし実際には、あなたもイエスの仲間だろうと言われて、ペテロは、そんな人は知らないと3度否定したのです。主イエスと一緒に殺される状況でなかったにもかかわらず、また、1度否んでも、2度否んでも自分のことばを思い出さず、3度否んでからようやく主のことばを思い出したのです。(26:75)。あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまづく…と主イエスは言われました(31節)。それは正しかったのです。ペテロはあくまで、弟子たちの、さらには、すべての人の代表なのです。しかし主イエスは、そんなペテロのことを決して見捨てませんでした。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(32節)と言われた主は、彼を召し出されたガリラヤの地で、初めの愛に立ち帰らせ、再献身へ導かれたのです(ヨハ21章)。私たちもつまずくのです。自信過剰であってはならないのです。また、悪しき者の攻撃や誘惑を甘くみてはならないのです。しかし私たちは、つまずいても、主に導かれてガリラヤに戻り、自らの救いと召しを思い出し、再び歩み出す者とされるのです。主の深い愛とあわれみと忍耐を覚えて、感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章14-25節◇(8月12日)

「…人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」…マタイ26:24b

主の12弟子の一人であるイスカリオテ・ユダは、祭司長たちのところへ行って主イエスを売る交渉をし、銀貨30枚でそれを成立させました。それ以来彼は、イエスを彼らに引き渡する機会を探っていたのです。過越の祭りの食卓に主と弟子たちはつきました。すると主イエスは、弟子たちのうちのひとりが自分を裏切ると予告され、そのような者はわざわいだ、生まれなかったほうがよかったと言われたのです。それは人権無視のひどいことばのようにも取れます。今ならパワハラで訴えられるかもしれません。しかし主がそのような厳しいことを使われた意図は、人の子を裏切るということが、いかに神を悲しませ、憤らせるものか、そしそのような者が神から受けるわざわい、のろいがどれほどひどいものであるかを、弟子たちに伝えることにあったのです。それはそもそも、ユダ個人に向かってのことばではなかったのです。それはむしろ、ユダに悔い改めを促すことばでした。主は彼に裏切りを思いとどまるチャンスを与えたのであり、そのことばは、「死んでしまえ」という裁きではなく、「生きる者となれ」というあわれみのことばなのです。ユダはそれを聞いて悔い改めることもできたのです。イエスの居場所を教えるのをやめることもできたのです。しかしユダはしらじらしく答えました。「まさか私のことではないでしょう」…。彼は主のあわれみを拒んだのです。そしてそのようにあくまで主に背を向けようとするなら、その結末はわざわいとのろいに満ちたものとなるのです。祝福かのろいか…いのちか死か…。その選択は私たち一人ひとりにも求められています。日々の歩みの中で語られる主の御声を無視することなく、みこころから外れている自らのあり方を素直に認め、主の前に悔い改め、立ち返る者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 25章31-46節◇(8月10日)

「『…あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」…マタイ25:40

主イエスは、人の子、つまりメシアなるご自分が、御使いを伴い、栄光を帯びて来られるときのことを弟子たちに話されました。それはたとえのように思えますが、そこで語られる王とは主ご自身のことであり、終わりの日についての預言のことばと取れます。そのとき、人の子は栄光の位に着いて王となられ、すべての国の人々を御前に集め、王に従う者たちを正しい者、羊としてご自分の右側に置いて取り分け、そうでない者を悪い者、やぎとして左側に置くのです。王は右にいる者たちに言います。あなたがたは、私が空腹でいたり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気であったり、牢に入っていたときに、関わり、世話をし、訪ねてくれた…。だから、あなたがたは、備えられた御国を継ぐ者とされる…と。そして彼らが心当たりがないと答えると、王は、私の兄弟である最も小さい者たちの一人にしたのは、すなわち私にしたのだと、驚くべきことを告げたのです。最も小さい者たちとは、人々から厄介者扱いされる、やもめ、みなしご、在留異国人のような者たちであり、正しい者たちは、彼らに愛とあわれみの心をもって接し、助け、寄り添ったのです。律法は2つの重要な戒めに集約できると主は言われました(マタイ22:36-40)。最も小さい者たちもまた「隣人」であり、第二の戒め(レビ19:19)にあたります。しかし主イエスは、その愛とあわれみの行為は王、すなわち主にしたのだ、同時に第一の戒め(申命6:5)にあたると言われたのです。それは、その2つの戒めは別々ではなくつながっている、私たちの神との関係が、私たちと隣人の関係を形作る、いうことにほかなりません。正しい者たちは、何よりも、神の愛とあわれみに満たされていたのです。だからこそ、その心をもって当然のように隣人に関わったのです。そして主は自分へのものとしてそれを喜ばれたのです。私たちもまたそのような者でありたいと心から願います。

主に愛されている喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 25章14-30節◇(8月9日)

「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」…マタイ25:30

「タラントのたとえ」と呼ばれている記事です。ある人が自分の財産をしもべたちに預けて旅に出ました。5タラント、2タラントを任された者たちは、それぞれその額を倍に増やしました。ところが、1タラント任された者はそれを地の中に隠しておき、主人が帰ってきたときそのまま差し出したのです。5タラント、2タラントを増やしたそのしもべたちに、「よくやった。良い忠実なしもべだ。…主人の喜びをともに喜んでくれ」と主人は告げましたが、一方、1タラントをそのままにしておいた者に対しては、「悪いなまけ者のしもべだ。…おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった…」と非難したのです。「悪いなまけ者のしもべだ」…。厳しいことばです。なまけ者とは、動かないで楽をしようとする者です。汗をかこうとはせず、自分だけ良ければいいと考え、平穏無事に時が過ぎてほしいと願っている者です。主はそんな者を叱責し、持っていたタラントを取り上げ、外の暗やみに追い出しなさいと命じられたのです。しもべは、主人から預かったものの良き管理者として、それを活用することが求められているのです。しかし、悪いなまけ者のしもべにはその自覚がなく、預かったものをきちんと管理せず、放置したのです。「…私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます」(1コリ4:1-2)。私たちも、キリストのしもべ、神の恵みと賜物の忠実な管理者として、それを宝の持ち腐れとすることなく、主のために活かし用いることが求められています。時間、能力、財産…与えられているすべてのものです。そしてそのようにして増やすことが主の喜びなのです。その喜びを自らの喜びとする者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 25章1-13節◇(8月8日)

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」…マタイ25:13

花婿を出迎える10人の娘のたとえです。5人の愚かな娘たちはともしびを燃やすための油を用意していませんでしたが、5人の賢い娘たちは器に油を入れて、花婿が来るのを待っていました。花婿が来るのが遅れ、みなまどろんでしまいましたが、ついに夜中に花婿が到着したときに、賢い娘たちは自分のともしびを整え、迎えることができたのです。一方、愚かな娘たちはそのときになって慌てて油を用意しようとしましたが、間に合わせることができず、結局、婚礼の祝宴に入ることができなかったのです。なぜ愚かな娘たちは油を用意しなかったのでしょうか…。面倒くさかった…花婿は当分来ないと思い込んでいた…来たときに他の人から分けてもらえばいいと考えていた…分けてもらえなくても買いに行けばいいと考えていた…。そのように彼女たちは高をくくっていたのです。安易に、楽観的に、自分の都合のいいように考えていたのです。そのたとえを話されたあと、だから目をさましていなさい、と主は弟子たちに言われましたが、主が教えておられるのは、単に眠らないでいることではなく、主が「だから、あなたがたも用心していなさい」と言われたように(24:44)、いつ花婿が来ても迎えられるように、ともしびを燃やす油を用意しておかなければならない、ということなのです。花婿が来てから慌てて準備しても遅い、ということなのです。私たちはどうでしょうか…。油を用意しているでしょうか…。どうせまだ来ないさ…と楽観的に考えていないでしょうか…。パウロは、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」と言っていますが(ロマ12:11)、ともしびの炎を燃やし続けるための油とは、私たちの内側を満たし、救われた喜びと主に仕える情熱を起こさせる御霊であり、主に選ばれ、油注がれた聖徒たちはみな、主からのその油を受け続け、御霊に満たされ続ける必要があるのです。十分な備えをし、花婿なるキリストをお迎えする者でありたいと願います。

主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 24章29-51節◇(8月7日)

「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」…マタイ24:44

主イエスは、人の子、すなわちご自分が、大能と輝かしい栄光を帯び、天の雲とともに再び来るのを人々が見るようになる、と言われましたが、そのときには、大きなラッパの響きとともに御使いたちが遣わされ、神に選ばれた者たちが集められるのです(31節)。それは、彼らを御国に迎えるためであり、それを心待ちにしていた彼らは、歓喜と賛美の叫びとともに人の子を迎えるのです。しかしそうでない者たちは、悲しみをもってそのときを迎えることになる…(30節)。ここに明暗があるのです。さらに主は弟子たちに対し、こう告げられました。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(36節)。「だから、目をさましていなさい」(42節)。「だから、あなたがも用心していなさい」(44節)。「…用心していなさい」。他の聖書ではその部分を、「用意していなさい」と訳しています。用心するとは、いつ主イエスが再び来られてもいいように、眠りこけてしまわないようにせよ、良き備えをせよ、ということです。またそれは、与えられている「今」を大切にする、一つ一つの事を主にあって意義のあるものとして生きる、ということでもあるのです。キリストが再び来られるのはいつかはわかりません。ひょっとしたら今日かもしれません(37-38節)。だからこそ私たちは、そのことをしっかりと心に留め、与えられている時を、漫然と、何となく過ごすのではなく、悲しみをもって人の子を迎える者がなくなるように、任された主の働きを、忠実な賢いしもべとして、行い続けていくべきなのです(45-46節)。そのような者として整えられ、神と人とに仕えて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 24章15-28節◇(8月6日)

「ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」…マタイ24:20

終わりの日の到来がいつになるかわからない…。そのことを踏まえ、どう注意し、どう対処すべきか、主イエスはご自分の弟子たちに語られました。ダニエルが預言した「荒らす憎むべきもの」とは、誰であれ、神を畏れようとはせず、聖なる領域にずかずかと入ってそこを征服して立とうとする、地上的な権威者を持つ存在に違いありません。そのような者が実際に聖なる所に立つのを見たら、ユダヤにいる人々はぐずぐずせずに山に逃げなさい、この世に未練を持ち、何かを持ち出そうとするなと、主は警告しています。そのとき大変なのは、妊婦や乳飲み子の母親です。自分一人だけでなく、守るべきいのち、いっしょに逃げるべき愛する者がいるからです。そのときには、かつてなかったようなひどい苦難が起こるようになるからです。「しかし選ばれた者のために、その日数は少なくされます」(22節)。「選ばれた者」ということばに心が留まります。24節にも「選民」(「選ばれた者」:2017訳)ということばがあります。神が、ご自分のみこころにかなう聖徒たちを選んでくださるのです。それは、主権的な主の働きによることであって、私たちの努力によらない主の恵みとあわれみです。しかし、だからと言って、すべてが神によって計画され、定められ、私たちは神の敷かれたそのレールの上を、自由を奪われて進んでいくわけではありません。主は、「あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい」と、弟子たちに命じられました。それは、私たちの祈りは神との一対一の会話であり、その祈りが神の心を動かし、神がご計画を変更され、私たちの歩みに介入されることを示唆しているのです。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」(22:14)。すでに主に選ばれている者として、いま主の御前に招かれている方々が「選ばれた者」とされるよう、さらにとりなし祈りたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 24章1-14節◇(8月5日)

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」…マタイ24:13

神殿の立派さに驚嘆している弟子たちに向かって、主イエスは、終わりの日にはこの神殿の石もまた、崩されずに残ることはないのだと告げられました。すると、それを聞いた弟子たちは、そのようなことがいつ起こるのか…何か前兆があるに違いないと考え、ひそかに主イエスのみもとに来てそれを尋ねたのです。主イエスは、キリストの名を名乗る偽キリストの出現、民族間の紛争や国家間の戦争の勃発、さらには、あちこちでの飢饉と地震の発生といった具体的な事柄を挙げつつ、それらはあくまでも前兆、産みの苦しみの始まりであって、それらが起こっても惑わされるな、慌てないようにせよと言われ、さらに、そのときキリストを信じる者たちは迫害され、信仰を捨てる者も出て、互いに裏切り、憎しみ合いようになり、偽預言者により多くの人が惑わされると告げられました。そしてその後、主は、不安げな弟子たちの顔を見回し、彼らの恐れを取り除き、励ますようにして言われたのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と。弟子であるヨハネも主からのことばを伝えています。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示2:10)。私たちの地上の生涯の中で、その終わりの日が来るかどうかはわかりません。その時は、父なる神が定めておられるからです。しかし終末がいよいよ近づいて、主イエスが言われたようなことが次々起こったとしても、私たちに求められていることは、それらに惑わされず、慌てず、うろたえることなく、さまざまな試練や戦いの中にあって、最後まで耐え忍ぶことなのです。そして、御国の福音が全世界に宣べ伝えられるために(14節)、置かれたところで、キリストを証していくことなのです。いのちの冠をいただくべく、主が備えておられる道を最後まで走り抜く者とされたいと、心から願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 23章15-26節◇(8月3日)

「おまえたちは、…律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」。…マタイ23:23

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」。主イエスはそのように繰り返しつつ、彼らのさまざまな過ちを指摘しています。16節には、「だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない」とありますが、彼らは人々に偽りを教えていたのです。18節にも同様な彼らの誤った教えが書かれていますが、彼らは目に見えない生ける神よりも、目に映る黄金や祭壇上の供え物に目を奪われ、心が縛られてしまっていたのです。そしてそれは、昨日も見たように、絶えず人の目を気にし、神との関係ではなく、人との関係の中に生きていた彼らの本質から出るものであり、人間中心、形式的、地上的なあり方だったのです。主イエスはまた、彼らが正義とあわれみと誠実をおろそかにしていると断じています(23節)。宗教指導者であるはずの彼らが、人との関係を重んじているはずの彼らが、そのような、何よりも律法として大切なこと、しなければならないことを行なっていないのは、本来あり得ないことであって、そんな彼らが、目に見えない神に対して、畏れと真実と従順さをもって仕えるという姿勢は、なきに等しかったのです。だからこそ主イエスは、「偽善者」、「目の見えぬ手引きども」と言って、彼らのことを厳しく非難したのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。23節には十分の一の献げもののことが書かれていますが、それもまた主ご自身が求められ、主の御前に差し出され、主が喜んで受け取ってくださるものであるのです。目に見えない神の御前に真実に歩んでいるか…人に対して誠実さとあわれみの心をもって関わっているか…パリサイ人たちを反面教師とし、自己吟味したいと思います。

霊の目を主が開いてくださいますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 23章1-14節◇(8月2日)

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」…マタイ23:13

主イエスは群衆と弟子たちに話しをされました。ユダヤ教を人々に教える指導者の立場にある、律法学者やパリサイ人たちの偽善と不法について明らかにし、彼らに盲目的に従わないように、また、彼らを反面教師として学ぶように促されたのです。「ですから、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(2節)。言行不一致、口で言うだけの彼らは偽善者であり、人の目を意識して集会の上座に座ることを好み、着ている衣のふさを長くして人と違うことを強調し、先生と呼ばれて一目置かれることが大好きな彼らは、神との関係より人との関係の中に生きていたのです。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(12節)。上着を脱ぎ、腰をかがめ、弟子たちの足を洗われた主の姿が思い浮かびます(ヨハ13:5)。主イエスの生涯は徹底的に自らを低くし、神と人々とに仕えられた歩みであり、それは律法学者やパリサイ人たちとは正反対のものです。そして主は、今を生きる私たちにも、ご自身に倣う者であってほしいと願っておられるのです。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」。23章においてこのことばが主から繰り返し語られています。そして最初の13節では、彼らが人々が天の御国に入ろうとするのを助けるのではなく、逆にさえぎっている、邪魔をしていると指摘し、非難しているのです。主イエスが宣べ伝えた神の国の福音は、メシアを信じ、罪を悔い改めて神に立ち返るなら誰でも救われるという、一方的な神の愛と恵みとあわれみによるものでしたが、彼らの律法主義的な教えは、人間の力とがんばりにより、律法を守り通すことを要求するものだったからです。そのように信仰がずれてしまう恐れは私たちにもあります。キリストに目を留め続けて歩みたいと思います(ヘブ12:2)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 22章34-46節◇(8月1日)

「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」…マタイ22:40

パリサイ人のうちの一人である律法の専門家が、律法の中でどの戒めが一番重要かと主イエスに尋ねました。すると主は、第一に重要な戒めとして、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という申命記6章5節を挙げ、さらに、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも同じく重要だと告げ、この二つの戒めに律法全体と預言者、すなわち、旧約聖書全体がかかっている、集約することができるのだと、主イエスは答えられたのです。その主イエスはまた、私は律法や預言者を成就するために来た、と言われました(マタ5:17)。生涯を通し、その重要な戒めはもちろん、すべての律法を完全に守り通されたのは、主イエスただお一人であり、その二つの戒めの実現の頂点は十字架にあったのです。ゲッセマネの園において主イエスは、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました(ルカ22:42)。十字架にかかり、いのちをささげるという父の御旨に従うことと、それから逃れたいという思いの間で、葛藤し、苦しみもだえて、主は父に祈られたのです。また、キリストなら十字架から降りて自分を救え…とあざ笑う民衆のために主は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、彼らを赦し、とりなす祈りをささげられたのです(ルカ23:34)。神が私たちに求めている愛とは、単に、好きになる、大切にするというものではありません。それは主イエスが現わされた、従い通す、与え尽くすという愛なのです。残念ながらそのような愛の源泉は私たちにはありません。しかし御霊がその愛を実らせてくださるのです(ガラ5:22)。二つの重要な戒めを、主にあって実行したいと願います。

主の愛が心に満ちあふれますように。