◇聖書箇所: レビ記 12章◇(1月31日)

「祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。」…レビ12:7

12章には、子どもを産んだ後の汚れときよめに関する、イスラエルの女性に対する主の教えが書かれています。男子の場合には、汚れの期間が7日間であり、その後も33日間、血のきよめのためにこもることが求められました。また女子の場合には、汚れの期間が2週間、血のきよめの期間は男子のときの倍にあたる66日間でした。それは、神が定められたことです。子を産んだ女性たちは、あなたは汚れている、こもりなさい、きよめられなさいと、神から命じられたのです。では、その期間中の彼女たちの思いはどのようであったのでしょうか…。また、きよめの期間の後、さらに全焼のいけにえと罪のためのいけにえをささげることが求められましたが、感謝と献身を表す全焼のいけにえは理解できるとしても、なぜ罪のためのいけにえが求められたのでしょうか…。神から禁じられていた善悪の知識の木の実を食べたエバに対して、神は「あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と言われました(創3:16)。汚れた者とされ、きよめの期間をこもって過ごす産後の女性たちは、そのとき、出産の痛みと苦しみと、その神のことばを思い出していたのではないでしょうか。そして、その苦しみからの解放、汚れからのきよめを受けた者として、あらためて、新しく与えられたいのちを胸に抱きつつ、神をほめたたえ、感謝と賛美をささげたに違いないのです。苦しみからの解放、汚れのきよめ、神の前にささげられるいけにえによる贖い、新しく与えられるいのち…。そこにもキリストによる救いが暗示されています。「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)。すべての人は神の前に汚れた存在であり、きよめられなければならないのです。そしてそのために、キリストがご自身をささげ、贖いを成し遂げてくださったのです。いのちを得た者として、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: レビ記 11章29-47節(1月30日)

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」…レビ11:45

11章には、イスラエルの民にとっての食物の規定と、死んだものに触れることによる汚れについての教えが事細かに記されていますが、章の終わりの44,45節において、そのように命じられる神の意図が示されています。それは、神が聖なる方であるので、神の民も同じく、聖なる者とならなければならないということです。「聖別」するとは、特別なものとして取り分ける、選別して区別するという意味ですが、神はそのように、ご自身の民を選ばれ、アブラハムとの契約を通して彼とその子孫への祝福を約束され、奴隷となっていたエジプトの中から取り出され、ご自身の御旨を教えるべく、モーセを通してさまざまな戒めを与えられたのです。そして、「聖なる者であれ」という命令は、民がその神の祝福を確かなものとし、その祝福を他国の民にも与えていくために、またその中で彼らからの影響を受けて汚れてしまわないように、逆にきよめの働きをするために、必要なものであったのです。もし「聖なる者であれ」との命令を、いっさいの汚れから身を避けよという意味にしか理解しないのであれば、神の民は、山奥を切り拓いて自分たちだけが住む町を作らなければなりません。しかし神の御旨はそうではないのです。イスラエルの民は、異国の民に囲まれたカナンの地に導かれ、そこで神への礼拝と生活の全領域において、神の聖さを証しし、同時に神の救いと祝福を証ししたのです。そしてそれは、信仰による神の民である私たちに対しても求められているのです。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです(1ペテ1:15-16)」。神の民としての自覚を忘れずに歩みたいと思います。

「地の塩」となることができますように。

◇聖書箇所: レビ記 11章1-28節◇(1月29日)

「あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。」…レビ11:8

11章には、イスラエルの民への「食物規定」が記されています。ユダヤ教では今もこの教えを忠実に守り、コーシェルと呼ばれる、食物規定を満たすものしか食べません。モーセの時代に神ご自身によって、食べてよいものといけない汚れたものとの区別が明確になされ、それが現代までずっと守られているということは驚きです。しかしながら、その食物規定の根拠は明確ではありません。動物の場合では、ひづめが分れておりかつ反芻するものが食べてよいとされ、豚やらくだや野うさぎなどはそれから除外されました。また水産物の場合は、ひれとうろこを持つものだけを食べることができ、貝類やうなぎやいかなどは食べることが禁止されたのです。寄生虫による病気を避けるための衛生上の理由、あるいは異教の礼拝で使われていたものを排除するための宗教上の理由などが考えられますが、それは定かではありません。いずれにしても、イスラエルの民は、神が定めたこととして、その教えに素直に従ったのです。その規定の根拠が何かを調査し、分析し、納得した上で受け入れたわけではないのです。その規定が「あなたがたには」ということばで書かれていることにあらためて気づきます。24節以降半では、食べることの是非に加えて、その生き物自体が汚れているものかどうかが示されていますが、それはあくまで「あなたがた」、つまりイスラエルの民にとってであって、神にとってはすべてがきよいもの、良いものなのです。なぜならそれらもまた、神による被造物であるからです。「すべての物はきよいのです」(ロマ14:20)。なぜこれが存在しているのか…と何かについて私たちが考えるなら、それは傲慢です。神は私たちにとって何が必要かをご存じであり、何を避けるべきかを示しておられるのです。その主の前に絶えずへりくだって歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 10章◇(1月28日)

「それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」…レビ10:10-11

衝撃的な出来事が起こりました。それまでアロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたとおりにいけにえをささげ、その結果、主の栄光が民全体に現れ、祭壇の上の全焼のいけにえが焼き尽くされ、民は偉大な神をほめたたえ、ひれ伏して礼拝していましたが、なんと、アロンの子ナダブとアビフが、主の前から出た火により焼き尽くされてしまったのです。そしてその原因は、二人が「主が彼らに命じなかった異なった火」を主の前にささげたからだということが、1節からわかるのです。「異なった火」が具体的に何を意味するのか、その詳細は不明ですが、「おのおの自分の火皿を取り」とあることから、自分の考えで、自分のものとした火皿に、自分の好みの香を盛ってささげたのかもしれません。またそこに、異教的な要素が含まれていたとも考えられます。いずれにしてもそれは、「主が彼らに命じなかった異なった火」であり、聖なる祭司であるアロンの子らが、その火を主の前にささげようとする行為は、神にとって決して看過できないことであったのです。その文脈の中で、「聖なるものと俗なるもの」、「汚れたものときよいもの」をきちんと区別すべきことが、二人の父であるアロンに対して、モーセを介さず、主が直接告げておられることに心が留まります。「主が命じたとおり」ではない「異なった」ものは、すなわち「汚れた」もの、「俗なる」ものであって、それは主に喜ばれないものなのです。私たちの歩みも、この世からさまざまな影響を受けています。そして、ともすれば無意識のうちに、それらのものを自分のうちに取り入れてしまいます。しかし私たちは、その一つ一つが「主が命じたとおり」のものかを、みことばに照らしてしっかりと見極め、「区別」すべきなのです。御霊の知恵と導きをいただきつつ、そのような歩みをしていきたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 9章◇(1月27日)

「それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。」…レビ9:22

9章では、1章から述べられてきた動物のいけにえによる神へのささげ物を、アロンとその子らが規定どおりに、忠実にささげたことが記されています。22節はその要約です(「それから」は2017訳では「こうして」)。罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえとありますが、それらをささげる順序には意味があるのです。まず、罪のためのいけにえが求められます。その罪とはイスラエルの民の罪のことですが、それをささげる祭司自身にも罪があるため、祭司は自分のための罪のいけにえをもささげる必要がありました(7-8節)。そしてそのいけにえによって祭司と民の罪はきよめられ、神の赦しを受けることができたのです。そのことが何よりも優先されなければならなかったのです。次にささげるのは全焼のいけにえです。それは、焼き尽くされるべきささげ物であって、ささげる者の全き献身と聖別、すなわち汚れたものからの分離を表しています。そして、最後にささげるのは和解のいけにえ(2017訳では「交わりのいけにえ」)です。それは神との交わりの回復を表していました。そのように、定められた順序に従っていけにえがささげられることによって、民の上に神の祝福がもたらされ、主の栄光と臨在が現われたのです(23節)。また、それらのいけにえがささげられる際には必ず、そのいけにえの血が祭壇に注がれたのです。「…キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブ9:26b)。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(ヘブ10:19b)。私たちの罪の赦しのために、大祭司なるキリストが十字架にささげられたご自身のからだこそ完全ないけにえであり、その贖いによって私たちは、神と親しく交わり、神の豊かな祝福にあずかる者とされたのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 8章1-13節◇(1月25日)

「次に、モーセはアロンの子らを近づかせ、彼らに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、彼らにターバンを巻きつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。」…レビ8:13

7章までにおいては、主はモーセに対し、イスラエルの民に、またアロンとその子らに、このように告げよと、語るべきことばを示されたことが書かれていますが、8章では、このようにせよと、行うべき行動を示されたことが記されています。具体的には、アロンとその子らや聖所を聖別するということです。主はそのようにしてモーセを、神のことばを人々に取り継ぐ預言者として、また主が取り分けたものに油を注いで聖なるものとする祭司として、大切な役割を担わせ、用いられたのです。その記述の中で、モーセが主に命じられたとおりを行なったと、繰り返されていることに心が留まります(4,9,13,17,21,29節)。それは、モーセが主からの指示をしっかりと聴き取り、その一つ一つのことを漏れなく誤りなく忠実に行い、主の御旨が民やアロンとその子らになされるために、自らを主に明け渡し、主の手足となって行動した、ということにほかなりません。主イエスもまた、ゲッセマネにおいて父の御声を聴き、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタ26:39)と自らを明け渡し、すべての人を罪の中から救い出すために十字架へと進まれ、ご自身のいのちをもってその贖いを成し遂げられました。そのイエス・キリストは、油注がれた預言者、祭司、そして王であり、モーセはそのキリストの型であるのです。キリストに贖われた聖徒たちもまた、キリストに倣い、神のことばに従い、自らを主に明け渡し、主の御旨がこの地になされるために、置かれたところで「行動する」ことが求められています。そして私たちがすべき「良い行い」は、主によって備えられているのです(エペ2:10)。それを忠実に行なう良きしもべでありたいと願います。

手のわざが祝福され用いられますように。

◇聖書箇所: レビ記 7章11-38節◇(1月24日)

「また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。どんな血でもこれを食べる者はだれでも、その者はその民から断ち切られる。」…レビ7:26-27

主はイスラエルの民に対して、動物の脂肪や血を食べることを明確に禁じています(22-27節、3:17)。その理由は必ずしも明らかではありませんが、「いっさい食べてはならない」、「決して食べてはならない」、「食べる者は民から断ち切られる」と、その教えを厳格に守るように、主は命じておられるのです。主がそのように求められるのは、食中毒などの衛生上の観点からの民への配慮ではなく、そこには霊的な意味があるに違いありません。食べるとは、食物を体内に取り入れ、自分のものとし、それが血肉となり、生きる力を生み出すということです。すでに3章において、血はいのちの象徴、脂肪は力の源であることを教えられましたが、それらを食べて自分のものとするなら、本来、いのちや力は神から与えられるものであるにもかかわらず、それが自分のうちから出るものと考え、神を脇に置いて自分が主体となって生きようとする、そのような罪を犯すことにつながりかねず、おそらく主は、ご自身の民をそうさせまいとする意図をもっておられたのです。レビ記の17章11節にはこうあります。「…肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である」。元より私たちは、土地のちりで神のかたちに似せて造られ、鼻にいのいちの息を吹き込まれて「生きもの」とされたのです。人のいのちは主の御手の中にあるのです。また、私たちの力と助けは主から来るのです。「私の助けは、天地を造られた主から来る」と詩人が言うとおりです(詩121:2)。キリストの血によって贖われた者として、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」というパウロの告白を、私たちも、自らの告白として歩んでいきたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: レビ記 6章8節-7章10節◇(1月23日)

「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。」…レビ6:13

レビ記の1章からは、主がモーセを通してイスラエルの民に対して命じられた、ささげ物に関する教えが書かれていましたが、6章8節から7章においては、同じささげものについて、今度は主がアロンとその子ら、すなわち祭司に対して命じられた内容が記されています。9-13節は全焼のいけにえについての教えです。ここで強調されているのは、祭壇の火を燃え続けさせる、ということです(9,12,13節)。たきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、脂肪を焼いて煙にすることが、絶え間なく続けられたのです。歴代誌第一16章40節には、「全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた」とあります。その全焼のいけにえが表すこと、それは、神への不断の礼拝と全き献身です。キリストに贖われ、祭司とされた私たち(1ペテ2:9)もまた、賛美のいけにを神に絶えずささげるべきなのです(ヘブ13:15)、また、この世と調子を合わせることなく、聖い、生きた供え物として、自らを主にささげるべきなのです(ロマ12:1-2)。穀物のささげ物、罪のきよめのためのささげ物、罪過のための(代償の:2017訳)ささげ物については、主にささげられた後、アロンとその子らはそれを食べることができました(16,26,7:6)。祭司は自らを主にささげ、神と民とに仕える者ですが、もちろん主は、祭司たちに必要なものを備えてくださるお方なのです。主イエスも、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言われました(マタ6:33)。私たちも、衣食住をどうするかと、心騒がせてはならないのです。主は私たちのすべての必要をご存じであり、それを満たしてくださるからです。ますます主にささげ、主に拠り頼む者とされたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: レビ記 5章14節-6章7節◇(1月22日)

「祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。」…レビ5:18b

今日の箇所では、「罪過のためにいけにえ」(代償のささげ物:2017訳)についての規定が書かれています。18節にあるように、あやまって犯してしまい、しかも自覚がない過失の罪についても、そのいけにえによって償うことが要求されたのです。「彼は確かに主の前に償いの責めを負った」とありますが(19節)、神はそのように、民に対して、全ききよさを求めるお方であるのです。そして、私たちがどんなにがんばっても、自分の肉の力、すなわち生まれつきの性質によっては、そうあることはできないのです。だからこそ、傷のない雄羊が「代償」として、祭司によって主の前にささげられたのです。6章1-7節は、他者に対して不実なことを行って利得を得た罪への対処が記されています。当然のことながら、その不正な利得、欺いて自分のものとしたものはすべて、元の所有者に返すことが求められました。そしてそれには、奪ったものの五分の一の価値分を加えなければならなかったのです。しかし、そのようにして他者への償いをすれば、それで終わりではありません。その規定の記述の最初に、「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行うなら」とあるとおり、直接的には人に対する罪の行為であっても、それは全ききよさを求める神に対する罪であり、他者への償いに加えてさらに、傷のない雄羊を罪過のためのいけにえとしてささげる必要があったのです。「…だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」(ルカ19:8)。取税人ザアカイは、主イエスにこう言い、主も、「きょう、救いがこの家に来ました」と告げました。主はザアカイに、私たちに、すべての人に救いをもたらすべく、ご自身を罪過のためのいけにえとしてささげてくださったお方なのです。その贖いによって罪が赦されていることを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 5章1-13節◇(1月21日)

「祭司はもう一羽のほうも、定めに従って全焼のいけにえとする。こうして祭司はその人のために、その人のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。」…レビ5:10(新改訳2017)

今日の箇所では、「知ってはいたのにその人の目に罪となることが隠れていて、後に咎(責め:2017訳)を覚える場合」の扱いが記されています。その意味は、薄々良くないことと感じていながら、それが明確に罪と認識されないということです。いずれの場合も自分のその罪を告白し、神の前に悔い改め、罪のためのいけにえとしての動物を連れて来て、祭司がその人のためにそれを主の前に献げることにより、罪の贖いがなされるのです(6節)。2-3節には、汚れたものに触れて、そのような扱いを受ける人について書かれていますが、その汚れたものとは、必ずしも獣の死体のような、目に見えるものだけではない、ということに気づかされます。すなわちそれは、目に見えないもの、神に喜ばれない思い、「汚れたもの」として、すべての人のうちにあるのです。そしてそのことに対する良心の呵責で苦しみ悩むことがあっても、主の前にその罪を告白するなら、罪のためのいけにえがささげられるなら、その人は赦され、解放されるのです。「その人は赦される」ということばがあらためて心に留まります(10,13節、4:26,31,35節)。神がそう宣言してくださるからこそ、人は本当の意味で生を全うすることができるのです。すなわち、神に罪赦され、咎を責め立てるさまざまな声から解放され、真の自由の中に生きる者とされるのです。中風の人が人々によって連れて来られたとき、彼らの信仰を見られた主イエスが、「あなたの罪は赦された」と宣言されたことが思い起こされます(マタ9:2)。罪の責めを覚える私たちが主の前に悔い改め、十字架の贖いを成し遂げられたキリストを信じるなら、その罪は赦されるのです。動物のいけには不要なのです。日々、その救いの恵みを覚え、信仰の原点に立ち返りたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: レビ記 4章22-35節◇(1月20日)

「祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。」…レビ4:34

4章には「罪のきよめのためのささげ物」の規定が書かれています。2-21節では、祭司自身が陥った罪や、イスラエルの全会衆の罪のきよめのため、また今日の箇所では、民の上に立つ者や民衆の一人が罪を犯した場合のきよめのために、動物をどのようにしてささげ物とすべきかが、主ご自身によって明らかにされています。そして、それらには共通点があることがわかります。共通点の第一、それは、傷のない動物の血が求められたということです。雄牛、雄やぎ、雌やぎ、雌の子羊…と、罪を犯した者の地位や貧富の差により、それらのささげ物を入手する困難さが配慮されているように思われます。そのささげ物は主の前でほふられ、その血は幕屋の中に持ち込まれて香の祭壇の角に、あるいは幕屋の外にある全焼のいけにえの祭壇の角に塗られ、残りの血はすべて祭壇の土台に注がれたのです。共通点の第二、それは、そのようにしてささげ物の血を祭壇の角に塗り、土台に注ぎかけるのは祭司の役目であったということです。それは、会見の天幕の中には民衆は入ることができなかったからであり、何よりも祭司は、神と人との間に立って、罪の赦し、神へのなだめのために奉仕する存在であったからです。共通点の第三、それは、ささげ物となる動物の脂肪が焼かれて煙になり、それは主への芳ばしい香りとなって立ち上った、つまり、主がそれを喜ばれたということです。それらの共通点が指し示すのは、全人類の罪がきよめられるために十字架にかかられたキリストです。まさに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)として、また大祭司としてまことの聖所に入り、罪(傷)のないご自身をささげ、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブ9:11-12)。このキリストにあって、私たちのすべての罪が赦されていることを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: レビ記 3章◇(1月18日)

「祭司は祭壇の上でそれを食物として、火によるささげ物、なだめのかおりとして、焼いて煙にしなさい。脂肪は全部、主のものである。」…レビ3:16

3章は、和解のいけにえ(交わりのいけにえ:2017訳)についての規定です。アダムが神の命令に背いて罪を犯したことにより、神との親密な関係は断たれ、人は神の怒りとさばきを受けるべき者となりましたが、神とのその関係が修復され、交わりが回復されるためのささげ物が、主がご自身の民に求めているこの和解のいけにえです。そのささげ物の規定を見ると、9-10節のように具体的かつ詳細な指示がされており、さらに、さまざまな部分の脂肪を焼いて煙にするようにと命じられていることに、心が留まります。ではなぜ主は、脂肪をささげるように求めておられるのでしょうか…。和解のいけにえの場合も、全焼のいけにえと同様に、ほふった動物の血を祭壇の回りに注ぎかけましたが、血は「いのち」の象徴です。一方、脂肪は、人や動物が活動するための重要なエネルギー源となるものであり、その意味で「力」の象徴であると言えます。その脂肪を主にささげるとき、ささげ物の頭に手を置く者は、生きていくための力の源が自分たちのうちにはなく、その力と助けはただ神から来ることを、覚えたに違いありません。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩121:1-2)。アダムの罪の本質…それは、善悪の知識の木の実を食べて知恵を得て、神の力と助けなしに、自らの力によって生きようとすることでした。神の支配のもとで歩むよりも、そのほうが自由で好ましいように思えたのです。しかしそれは、蛇(悪魔)の策略でした。そのような誘惑は、聖徒とされている私たちにもあります。「脂肪は全部、主のものである」と言われる主の前にへりくだり、自らを明け渡し、どんなときにも、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: レビ記 2章◇(1月17日)

「あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、主への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。」…レビ2:11

2章には「穀物のささげ物」についての規定が書かれています。「人が主に穀物のささげ物をささげるときは」と1節にありますが、全焼のいけにえの頭の上に人が手を置いて、自分の「代わり」だとしたように(1:4)、穀物のささげ物に対する神のさまざまな要求は、それをささげる民自身への要求でもあると考えることができます。穀物のささげ物は、主にささげられる際、粉々に砕かれる必要がありました(6節)。かまどで焼いたときには形あったパンであっても、それはそのようにされたのです。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心…」ということばが思い起こされます(詩51:17)。また、主イエスがパンを取って裂き、弟子たちに与え、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われたことにも思いが至ります。神は聖徒たちに、へりくだりと従順を、砕かれた悔いた心を求めておられるのです。また、穀物のささげ物は、パン種や蜜を入れないものでなければなりませんでした(11節)。それらは腐敗をもたらすからです。そのように不要なものを排除したささげ物には、さらに塩を加える必要があったのです(13節)。その塩には腐敗を防ぐ働きがあり、そこから「不変」や「永遠」という意味をも表します。「神の契約の塩を欠かしてはならない」とありますが、それは、「永遠に変わらない神の契約の民」であることを思い出させ、その神の前に真実であり続けよ、異邦人のように偶像に心を寄せて汚れないようにせよ、とのメッセージなのです。穀物のささげ物は、油が加えられ、乳香が添えられて焼かれ、芳ばしい香り、主に喜ばれるものとなりました。そして主は、聖徒たちを、人々の間で、「神に献げられた芳しいキリストの香り」(2コリ2:15,2017訳)として用いてくださるのです。そのことを感謝しつつ、自らを聖く保ち、すべてを主におささげしたいと思います。

主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: レビ記 1章◇(1月16日)

「…祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」…レビ1:9(新改訳2017)

「レビ記」というこの書のタイトルの由来は、レビ人である祭司によってなされた礼拝の規定がそこに記されているということにあります。ヤコブの12人の息子の一人であるレビを祖とするレビ族は、主ご自身を相続地(ゆずり)とするよう定められ、礼拝をつかさどる祭司を初め、幕屋、後には神殿の奉仕者として任命されました。レビ記1章には、全焼のいけにえのささげ物の規定が書かれています。民は、牛、子羊、やぎの中から、傷のない雄を選んで主の前でほふり、その内臓や足も含めて、祭壇の火の上ですべてを焼いて煙にするのです。またその際、連れて来た人はいけにえの頭の上に手を置き、いけにえの血は、祭司によって祭壇の回り(側面)に注ぎかけられました。手をいけにえの頭の上に置くという行為は、自分には罪があり、ゆえに死に値する者であることを認め、動物が自分の身代りとなって死ぬということを表しています。それは、いのちの象徴である血が祭壇に注ぎかけられることによっても表されています。また、いけにえのすべてを焼くことは、神への全き献身を意味しています。さらに、傷のないいけにえは、アベルのささげ物のように(創4:4)、それが最上のものだということを意味します。そしてそれらはすべて、すべての罪人の身代りとして、罪のないご自身を十字架という祭壇にささげ、完全ないけにえとなられた、キリストを指し示しているのです。その全焼のいけにえは、「芳ばしい香り」です。「芳ばしい」とは「喜ばしい」という意味でもあります。神がそれを喜ばれたのです。民は、単なる儀式ではなく、神との人格的な交わりの一部としていけにえをささげ、神を喜ばせたのです。私たちにとっても、そのあり方が、礼拝や奉仕だけでなく、すべての歩みにおいて求められているということを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 6章10-24節◇(1月15日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」…エペソ6:11

「武具」は戦う者がつけるものです。平和な日本で暮らしている私たちには、それを身に着けよということばはピンと来ないかもしれません。しかしパウロは、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために」すべての武具を身に着けなさい、と命じているのです。「どれかを選んで」ではなく、「すべての」です。完全武装です。そしてそれは、その戦いを決してあなどるな、相手を見くびるな、ということを意味しているのです。では、その戦いのために、具体的に何を身に着けよと、パウロは言っているのでしょうか。それは、①真理の帯、②正義の胸当て、③平和の福音の備え(靴)、④信仰の大盾、⑤救いのかぶと、⑥御霊が与える(御霊の:2017訳)剣です。それらは地上的なもの、目に見えるものではありません。それらは天におられる神から与えられる、霊的なものなのです。パウロがここで言う戦いとは、12節にあるように、血肉、つまり人に対するものではありません。この暗闇の世界の支配者たち、もろもろの悪霊との霊的な戦いを勝ち抜くためには、霊的な武装をしなければならないのです。そして神の武具をしっかりと身に着けているならば、私たちが血肉の争いの中に巻き込まれてしまうことはないのです。しかし、ともすれば私たちは、そのことをきちんと理解せず、そんなもの別に要らない、大丈夫さ…と、たかをくくってしまいます。丸腰で戦いの場に出ていきます。そして自分の力で戦おうとします。しかし手痛い傷を負ってから後悔しても遅いのです。主は弟子たちにこう言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33b)。私たちは、どんなときにも、その勝利の主に拠り頼むべきなのです。神との交わりを通してしっかりと霊的な武装をし、主にあって戦いに勝利する者でありたいと願います。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 6章1-9節◇(1月14日)

「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」…エペソ6:7(新改訳2017)

今日の箇所においてパウロは、子どもたち、奴隷たちに対してそれぞれ、両親に、主人に仕えなさいと命じ、また、仕えられる立場の父たちや主人たちに対してもそれぞれ、おこらせてはいけない、おどすことはやめなさいと戒めていますが、それらの教えは、単なる道徳的なものではないのです。「主にあって」、「主によって」、「キリストに従うように」、「主に仕えるように」とパウロが言っていることに着目したいと思います。「キリストに従うように」(5節)…。それは、キリストを手本とし、キリストに倣って、ということです。また、「主に仕えるように」(7節)とは、仕える相手を主ご自身だと思って、という意味です。マタイの福音書25章に、「あなたがたはわたしに、食べさせ、飲ませ、見舞ってくれた」と告げる王のことばが飲み込めず、「いつそのようにしましたか」と尋ねる者たちに対し、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタ25:40)と答えた王の話が書かれていますが、奴隷だからと差別する主人のようではなく、すべての人に、主に仕えるように接するというあり方を、主は私たちに求めておられるのです。「主に従うように」(5:22)…。キリストに贖われた私たちは「キリストのしもべ」(6:6)であり、主に倣い、主と同じようにふるまうのは当然のことなのです。パウロは「いっさいのことを愛をもって行いなさい」(1コリ16:14)と言っていますが、主に従う聖徒たちの歩みは、愛に満ちたものであるべきなのです。神の愛、アガペーの愛…その本質は与えること、ささげることであり、それは報いを求めない一方的な愛です。罪に満ちた自分のために、主が自らのいのちをささげてくださった…その主の愛を受けるとき、私たちもまたその愛をもって、愛である方、キリストに倣い、感謝と喜びをもって、人々を愛する者とされるのです。置かれているところで、主にあって、人々に真実に仕えていきたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 5章21-33節◇(1月13日)

「…あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」…エペソ5:33

22-24節でパウロは、夫に従うように妻たちに命じていますが、もし夫たちがこのことばをふりかざして妻に従順を強いるのなら、それは大きな誤りです。なぜなら、21節には「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」とあり、22節では「主に従うように」とあるからです。そしてパウロは、夫たちに対して、より多くのことばを用い、妻を愛するようにと繰り返し命じているのです。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)。パウロがそのことを述べる中で、夫婦の関係を、キリストと教会、かしらとからだの関係になぞらえて示していることに心が留まります。「教会」と訳されている元のギリシャ語の意味は、「召し出された者たち」であり、キリストに贖われ、キリストのからだの大切な各器官として加えられている一人ひとりの聖徒たちこそが、ここでパウロが言う「教会」なのです。「教会」のためにキリストはご自身をささげられた…。それは、教会をきよめて聖なるものとし、しみやしわのない、聖く傷のない栄光の教会をご自分の前に立たせるため…。パウロはそう語っています(26-27節)。それはつまり、聖徒たちを主の似姿へと日々造り変え、教会を通してご自身の栄光をこの地に現わし、救いのご計画をなすことが主の強い願い、御旨だということなのです。その教会のかしらはキリストです。からだがかしらから切り離されたら、そこにいのちはありません。夫と妻もバラバラではなく、「ふたりは一体」であって(31節)、夫が妻を愛し、自分をささげ、守り、養うならば、また妻も夫を愛し、敬い、従い、協力して支えるならば、そこに神の栄光が現わされるのです。神の働きがなされていくのです。それは神の偉大な奥義なのです(32節)。その主の御旨にかなう者とされたいと心から願います。

主の喜びが豊かにありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 4章17-32節◇(1月11日)

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」…エペソ4:30

「真理はイエスにある」と告げるパウロは、神に背を向けて歩んでいる異邦人たちが不潔な行いをむさぼっているのを嘆き、キリストのことばと教えを聞き、キリスにあって教えられているエペソ教会の人々が、そのような彼らとはまったく異なる、聖徒としてふさわしい歩みをするようにと願い、具体的な勧めをここでしています。「古い人を脱ぎ捨てる」、「新しい人を着る」という表現が心に留まります。そしてそのことばは、救いにあずかった者のうちに、依然として「古い人」、すなわち神によって変えられていない部分が残っており、それが、一人ひとりが霊的に成長し、キリストの似姿へと変えられるのを邪魔している…ということを示唆しています。パウロは、その古い人を脱ぎ捨て、神にすべてを明け渡し、新しい人を着る、それがキリストの教え、神が願っておられることなのだと語っているのです(22-24節)。しかしそれは、自分たちの肉のがんばりによるのではありません。23節に「霊と心において新しくされ続け(2017訳、「心の霊において新しくされ」:3版)とあるとおり、あたかも野菜の皮をはがすように、1枚、また1枚と、私たちは日々、主の御手により古い人を脱がされ続け、新しい人を着る、すなわち御霊に満たされ、主のご支配の中に入れられ、人生のすべての領域において、キリストが主導権を取る者とされ続ける必要があるのです。私たちの信仰生活の土台、それは神との関係にあるのは言うまでもありませんが、パウロは、「聖霊を悲しませてはいけません」、「神が…赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(32節)と、私たちがまず、神の愛と赦しを受け取り、その応答として感謝と喜びをもって神を愛し、喜ばせ、また人々を愛し、赦し、祝福を与える、そのような者となるようにと教えているのです。私たちを日々新しくしてくださる主を待ち望みつつ(2コリ3:18)、希望をもって歩み続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 4章1-16節◇(1月10日)

「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」…エペソ4:16(新改訳2017)

今日の箇所においてパウロは、「からだは一つ、御霊は一つ」、「信仰は一つ、バプテスマは一つ」と(4,5節)、「一つ」ということばを繰り返して語っています。また、「一致」ということばを何度か使っていますが、それにも「一つであること」という意味があります(3版で13節に出てくる「一致」は2017訳では「一つ」)。そのように「一つ」であることを強調するパウロには、「召されたあなたがた」(1節)の共同体、すなわち、教会に加えられている一人ひとりが成熟した大人となり、からだ全体が建て上げられていくという明確なイメージが与えられていたのです(12-13節)。そしてパウロにとってその「一致」は、決して人間的な手段によってもたらされるものではなく、また「画一」や「均質」を意味しているものではないということを教えられるのです。彼は言っています。「御霊による一致(御霊の一致:3版)を熱心に保ちなさい」と。その一致はあくまで神が与えるものなのです。教会は御霊によって一つとされるのです。一致していくための人間の側の努力は必要ですが、私たちは何よりもまず、「御霊による一致」が与えられるようにと、主に祈り求めるべきなのです。また16節でパウロは、「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより(その力量にふさわしく働く力により:3版)」と言っています。キリストのからだの各器官は、それぞれの機能を有した唯一のものであり、同じものはないのです。しかし多様性のあるそれらは、互いに密接な関係を持ち、有機的に組み合わされ、つなぎ合わされて、からだ全体を建て上げるために用いられる、不可欠の要素なのです。「分に応じて働く」大切さと幸いを覚えつつ、神と人とに喜びをもって仕えたいと思います。

主がそれぞれの働きを祝福されますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 3章14-21節◇(1月9日)

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」…エペソ3:16

今日の箇所に書かれているのは、エペソ教会の聖徒たちのための、父なる神へのパウロの祈りです。では彼は、何を祈っているのでしょうか。1) 御霊により力を受けて内なる人が強められるように。13節でパウロは、自分が苦難にあっていることで、エペソの人々が落胆しないようにと願っていますが、彼らがどのような状況に置かれても、現実を見て心を揺さぶられても、御霊によって強くされ、キリストのしもべとしてしっかり立ち、パウロ自身が熱心に宣べ伝えているキリストの福音を、彼らもまた同じスピリットをもって伝える者となるように願い、とりなし祈っているのです。2) キリストを心のうちに住まわせてくださるように。パウロは、あなたがたのからだはうちに住まれる聖霊の宮だと、コリント教会の人々に書き送りましたが(1コリ6:19)、神は三位一体なるお方であり、父、子、御霊はともに働き、聖徒たちの心を王座として住まわれ、一人ひとりの歩みを統べ治め、導いてくださるのです。パウロの願い、それはそのように、神の主権が聖徒たちの人生のすべての領域に及ぶようにということだったのです。3) 人知をはるかに越えたキリストの愛を知るように。キリストの愛とは、見返りを求めない無償の愛、与えてささげるアガペーの愛であり、救われた聖徒たちではあっても、その愛の広さ、長さ、高さ、深さを完全に理解することは不可能です。しかしパウロは、人の考えを超越したそのキリストの愛を、エペソの人々が少しでもより深く悟ることができ、その愛の中に、喜びをもって生かされるようにと願い、祈っているのです。パウロは離れていても、自分が捕われの身であっても、そのように祈りました。私たちもまた、祭司として、人々のために熱心にとりなす者でありたいと思います。

主が祈りに答えて御手を動かしてくださいますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 3章1-13節◇(1月8日)

「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」…エペソ3:6

今日の箇所において、「奥義」ということばが繰り返し使われています(3,4,5,6,9節)。聖書が言う「奥義」とは、隠されている神の真理、ご計画、みこころのことです。それは人間の探求によってではなく、御霊の啓示によって、神ご自身から明らかにされるものなのです(5節)。パウロは自分に示されたその奥義がどのようなものか、6節に示しています。それはすでに2章の後半にあるとおり、キリストの十字架の贖いによって、すべての人と神との和解がもたらされ、ユダヤ人と異邦人との間の敵意が取り除かれ、隔ての壁が打ち壊され、二つのものが一つとされ、新しい一人の人に造り上げられるということです。パウロはそれを、「共同の相続者…ともに約束にあずかる…」という別の表現で言い換えているのです。それらのことばから教えられるのは、罪人であった私たちが、キリストにあって、神の国の祝福としての救い、すなわち、罪の赦しと永遠のいのちという霊的財産を受け継ぐ者とされているということであり、それは神からの驚くばかりの恵み、すなわち、私たちに対して一方的かつ無条件に与えられる贈り物であるということです。そしてその恵みに、ユダヤ人も異邦人も、キリストにあってあずかることができる…それが「福音」なのです。それは、奥義として世々隠されていましたが、御霊によって啓示を受けたパウロは、ユダヤ人たちからの迫害を受けながらも、その良き知らせを宣べ伝え続けました。また、みことばと御霊によって私たちにも明らかにされたその奥義は、「天にある支配と権威」(10節)、すなわち「空中の権威を持つ支配者」(2:2)である悪魔に対し、その支配下にある人々に対して、神の豊かな知恵として、教会を通して、召し集められた聖徒たちによって、世々宣言されるべきものなのです。パウロと同じ務めが私たちにも与えられていることを覚えたいと思います。

神の奥義がさらに明らかにされますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 2章11-22節◇(1月7日)

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定からなる戒めの律法を廃棄されました。」…エペソ2:14-15a(新改訳2017)

今日の箇所、2章の11節以下においてパウロは、「二つのもの」と「平和」ということばを繰り返して使っています。(新改訳3版での「両者」(16,18節)も新改訳2017では「二つのもの」)。パウロはユダヤ人であり、この手紙の読者であるエペソの教会の信徒たちの大多数は異邦人でしたが、「二つのもの」とは、ユダヤ人と異邦人を指しています。その両者は互いに敵意を抱き、間には隔ての壁が存在していましたが、それらをキリストが廃棄し、打ち壊されたのだとパウロは言っているのです。キリストの時代、神殿の一番外側には「異邦人の庭」が設けられ、ユダヤ人以外の者たちは、それ以上中に入ることが許されませんでした。それは神ご自身が与えた律法による教えではなく、あくまで人間が考え作りだした規定であって、それは廃棄されねばならなかったのです。「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」(13節、2017訳)。神には、異邦人をご自身の救いの対象外とする意図などありません。ユダヤ人を通し、救いをすべての国の人々にもたらすことがみこころなのです。そのために、キリストは汚れのない血を流し、全人類の贖いを成し遂げ、神と人との間の壁を打ち壊してくださったのです。まだ完全には実現していませんが、そのキリストにあって、ユダヤ人と異邦人は必ず一つとされるのです。またキリストは、私たちの歩みにおける、夫婦、親子、友人といった関係や、国家間の関係においても、争いや敵意があるそのところに介入し、真の平和をもたらしてくださるのです。ともすれば私たちは、人間的な努力でそれを実現させようとしますが、それをなされるのは「平和の君」であるキリストなのです。すべての者がキリストにあって、何よりも神との平和の中に入れられるよう、とりなしたいと思います。

主からの平安がありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 2章1-10節◇(1月6日)

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」…エペソ2:10

10節において、「良い行い」ということばが3回出て来ます。原文では、そのことば自体は節の中で一度だけ使われ、あとは代名詞や関係代名詞によって表されていますが、新改訳では意味を明確にすべく、それらもすべて「良い行い」とあえて訳しているのです。では、その「良い行い」とは具体的に何を意味しているのでしょうか。それは本来、手紙全体を通して考察すべきことですが、1章から今日の箇所までの文脈において教えられることは、「不従順の子らの中に働いている霊に従って」いた歩みから救い出された者として、かつてのように「肉と心の望むままを行なう」のではなく、神の御怒りを受けるべき罪人をも救う「すぐれて豊かな御恵み」をこの世に示し、人々に伝えるということです。またそれは、聖徒たちが御国の王なるキリストの兵士として、教会がキリストの生けるからだとして、この世を牛耳ろうとする悪しき者サタンに対して、キリストの権威をもって立ち向かい、奪われているさまざまな支配を取り戻し、神の国の領土を拡げるということです。パウロは2章6節において、聖徒たちはキリストとともに(死から)よみがえらされ、天の所に座らせられたと言っていますが、その天上では、いっさいのものを足の下に従わせているキリストが、神の右に着座されているのです。天の国籍をすでに与えられながら、今なお地上に置かれている聖徒たちを通して、またその者たちが召し集められている教会を通して、神は、この地にご自身の主権を現わし、神の国を打ち建てようとしておられます。「良い行い」とは、そのためのすべての働きであって、それを実際に担う者として、私たちは、神の作品として造られ、救われ、今日も生かされているのです。私たちの手のわざが常に「良い行い」となるよう、主に願い求めたいと思います。

主がそれぞれの働きを尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 1章1-14節◇(1月4日)

「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」…エペソ1:5(新改訳2017)

使徒パウロが書いたエペソ人への手紙…。彼は、神が私たち人類に対して、世の初めからどのように関わってこられたのかということについて、その手紙の初めから驚くべき事実を明らかにしています。「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(4節、2017訳)。世界の基が据えられる前、すなわち、最初の人であるアダムが地のちりから形造られ、いのちの息を吹き込まれて生きるものとなる前、地が茫漠として何もなく、闇に覆われていたときにすでに、父なる神は、御子であるキリストにあって聖徒たち一人ひとりを選び、贖おうと定めておられたということです。1-14節までにおいてパウロは、「あらかじめ」(5,9,11節)、また「定め・計画」(5,10,11節)と繰り返し述べて、私たちには到底はかりしれない、人類救済のための神の壮大なマスタープランが存在することを、明らかにしているのです。しかしそれは、私たちがそれに値する者であるからではありません。7節に、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」とあるとおり、アダム以来、ご自身の御旨に背き、自分の欲望に従って歩み、罪の奴隷となってもがき苦しむ人類に対し、神が、愛とあわれみをもって御子をこの世に遣わし、十字架につけ、その血による贖いによって、すべての人の罪を赦してくださったゆえなのです。それは、神の私たちに対する一方的な好意、すなわち、神の豊かな恵みによることなのです。またその救いの恵みは、罪の赦しに留まらず、聖徒たちが神の子とされ、天上のすべての霊的祝福にあずかるという(3節)、人の考えではあり得ない、破格の待遇として与えられているのです。そしてそれは、その偉大な神の恵みと栄光がほめたたえられるためなのです(6,12,14節)。神の深い恵みを覚えて、心からの感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 75篇◇(1月3日)

「まことに 神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる。」…詩篇75:7(新改訳2017)

2-5節は、詩人が預言者として語った神のことばと考えられます。神は、定めの時を決めて、自ら公正にさばくと言われるのです。「地の柱を立てる」とは、その別な表現です。地に悪と不正と暴虐が満ちて正義が揺らぎ、正しい者の心も揺らいでしまうようになっても、神はそのようにしてご自身の義を打ち立て、主に信頼し従う者が倒れることがないようにされるのです。また神は、「角を上げるな」、「横柄な態度で語るな」と、自らを誇る悪者どもに対して告げています。角は力の象徴です。彼らは、神に挑むかのように自分たちの持つ力を過信し、神なんか要らない、自分たちが支配するんだ、神に従うなんてまっぴらだ…と、傲り高ぶっている者たちなのです。6-8節では、そのような者たちへの神のさばきが語られています。7節にあるように、角を上げる者、自らの力を誇って高ぶる者たちを神は低くされ、逆に、神の前にへりくだり、神に拠り頼む者たちを神は高く上げられるのです。「杯」(8節)は神の怒りの象徴です。「混ぜ合わされた泡立つぶどう酒」とは、ぶどうの実からの純粋な液だけでなく、甘みを意図的に増した酒であり、悪酔いし、酔いつぶれるようなものです。地の悪者どもは、それを喜んで飲み干し、立てなくなってしまうのです。「私は悪者どもの角を ことごとく切り捨てます。正しい者の角は 高く上げられます」(10節)。詩人はそのように言っていますが、もちろん、詩人自身が切り捨てるわけではなく、義なる神がそのようにしてくださると、信仰をもって告白しているのです。自らの力で事をなそうとする…神に従うことに窮屈さを感じる…。私たちのうちにも、そのように「角を上げる」ことへの誘惑がありますが、神が高ぶる者を低くし、へりくだる者を高く上げる方であることを、心に留めて歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 74篇◇(1月2日)

「確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行われる方です。」…詩篇74:12

この詩篇が書かれた年代は不明ですが、「敵」が聖所を荒し、火で焼き払い、シオンの山が汚されているとの描写から、バビロンによるエルサレム神殿の破壊のときだと推察されます。詩人には、神がご自身の民に怒りを燃やし、見捨て、敵の振る舞いを容認し、それをやめさせることを拒んでいるように思えました。そのことに怒りさえ覚え、詩人は、なぜですか、いつまでですかと、神に問いただしているのです(1,10,11節)。しかし詩人は、そのように現状を目を向けることをしばしやめ、退き、静まって、神がかつてなされたみわざを思い巡らしています(12-17節)。それは、神が初めに天と地を創造されたときにまで及ぶものであり、その黙想の中で詩人は、創造者であり全能者なる神の、力と義と真実をあらためて教えられたのです。またその神が、「私の王」であることを示され、個人的な関係を取り戻す中で、「あなた…あなた…」と繰り返し親しく呼び掛けたのです。その静まりを経て詩人は、なぜ、いつまでと神に詰問することをやめました。そして、心に留めてください、忘れないでくださいと、神の好意とあわれみを求めてへりくだり、偉大な神は、虐げられている民に目を留め、敵の手から必ず救い出してくれるはずだと、神に全幅の信頼を寄せて祈り求める者とされたのです(18-23節)。私たちも、現状を見て心奪われるなら、詩人と同じように、なぜ、いつまでと、神に不満をぶつけることに終始してしまいます。しかしそこから退き、静まり、主の偉大な創造と救いのみわざに目を転じ、その神が私の神、王であることを教えられるなら、私たちもまた、主をあなたと親しく呼び、力と義と真実に満ちたそのお方に、信頼をもって祈り求める者とされるのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10、口語訳)。今年も、そのような歩みを重ねていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。