◇聖書箇所: 列王記 第二 6章1-23節◇(6月30日)

「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」…2列王6:17

イスラエルと戦っていたアラムの王は、自分たちの戦術がすべて相手に読まれているのを知り、初めはスパイの存在を疑いましたが、それが預言者エリシャの予知能力によるものだと家来から聞くと、ドタンにいる彼を殺害すべく軍隊を送り、夜のうちにその町を包囲しました。朝になりその軍隊を見た召使いから、起こっていることを知らされたエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と彼に告げ、彼の目が開かれるようにと主に祈りました。すると、ただちにその願いは聞かれ、その召使いが目を上げると、自分たちの味方である火の馬と戦車が山に満ちているのが見えたのです。その後、アラムの民を盲目にしてくださいとのエリシャの祈りにも主は答え、結局アラム軍は、何の戦果も挙げずに戻っていったのです。私たちが自分の目でみて認識する「現実」は、必ずしも「事実」ではありません。昨今、加工された「フェイク」画像が悪用され、騙されるケースが増えてきています。そもそも私たちに備わっている目は、錯視と呼ばれる目の錯覚を、いともたやすく起こしてしまうものなのです。その意味では私たちの目もまた、本来見えるべきものを正しく見ることができない、閉ざされた、盲目の状態なのであって、エリシャがしたように、「私の目を開いて見えるようにしてください」と、私たちも主に祈り求めるべきなのです。また目がさえぎられていた弟子の目が、主イエスが説き明かされた聖書のことばと、主との親密な交わりの中で開かれたように(ルカ24:13-31)、真理の光で照らし悟りを与える神のことばと、主との個人的な交わりの時間を、私たちは日々慕い求めるべきなのです。目に映るものによってむやみに恐れたり失望することがない者とされたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 5章◇(6月29日)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」…2列王5:14

ツァラアトに冒されていたアラムの将軍ナアマンは、いやしを求めてエリシャの家を訪ねました。ところが、エリシャは姿を現さず、代わりに使いにことづけ、ヨルダン川で7度身を洗えば治るとナアマンに伝えたのです。将軍ナアマンは激怒し、その場をすぐに立ち去りました。ナアマンは、エリシャが直接、自分のために手を伸ばして祈ってくれると期待していました。しかし実際に受けたのは、ヨルダン川に入って7度身を洗えという、まったく想定していなかった指示だったのです。将軍である自分に対する扱いがそれか!…と、彼の持っていたプライドも、その憤りの理由の一つとなったことでしょう。ナアマンは帰途につきましたが、思いとどまるように彼のしもべが助言すると、彼は素直にそれを受け入れ、指示されたことを忠実に行ないました。するとツァラアトは完全にいやされ、幼子のからだのようになったのです。もしも彼が憤ったまま帰ってしまったら、しもべの助言に耳を貸さなかったら、身を何度も川に浸す途中でばかばかしいと言ってやめてしまったら、神のみわざは起こらなかったのです。エリシャを通してナアマンに与えられたのはイスラエルの神からのチャレンジでした。そして、異邦人であった彼は、見事にそれにパスしたのです。主は私たちにも、信仰のチャレンジをしばしば与えられます。期待していたのとは違う、想定外の事が起こります。しかし私たちは、いかなる状況であってもただ主に信頼し、先入観やプライドを捨てて主の前にへりくだり、神のことばを素直に受け入れ、忍耐をもってみことばの教えに従い通すべきなのです。そうするなら私たちは、主の奇しいみわざを見ることができるのです。身に起こる一つ一つの事に心騒がせず、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと願います。

主のいやしと解放がありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 4章1-17節◇(6月27日)

「そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。」…2列王4:5

預言者の仲間の妻の一人が、エリシャに叫んで訴えました。自分の夫は亡くなったが、債権者がやって来て、自分の二人の子どもを彼の奴隷にしようとしている…と。それを聞いたエリシャが、やもめとなった彼女と子どもたちを助けたいと願い、「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか…」と尋ねると、彼女は、家には何もない、ただ油の壺が一つあるだけだと答えたのです。するとエリヤは彼女に対し、近所の皆から空の器を借りて来て、家に残っている油をそのすべての器に注ぎ入れるようにと、彼女に指示しました。注目すべきは、そう命じられたやもめの女性の態度です。彼女は、そんなことをして何になるのか…わずかな油が増えるとでも言うのか…でもいったいどうやって…とエリシャに疑問をぶつけることなく、ただちに彼の元を去って自宅に戻り、子どもたちにも手伝ってもらい、エリシャの指示のとおり、空の器を集めたのです。近所の人からは何に使うのかと訝しがられたことでしょう。断られることもあったかもしれません。しかし彼女は、神の人エリシャから言われことに忠実に従って行動したのです。集まった器に油を注ぎ始めると、次々に器は油で満たされました。それは神がなされた奇蹟だったのです。彼女は、自分の夫のことをエリシャに、「あなたのしもべは、主を畏れておりました」と言いましたが、彼女もまた、主の預言者の妻として、主を畏れていたのです。そして自らを「はしため」と呼び、神の人エリシャを通して語られる神のことばに対して、純粋な信仰をもって従順に聞き従ったのです。「ただ、油のつぼ一つしかありません」…。何を持っているかが問題なのではありません。何に信頼するかが問われているのです。神のことばに従順に従うなら、主は私たちの必要を満たし、祝福してくださるのです。どんなときにも主を畏れ、待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 3章◇(6月26日)

「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」…2列王3:18

アハズヤが死んだ後、彼の兄弟のヨラムがイスラエルの王となりました。彼はモアブの王が自分に背いたのを知ると、ユダの王ヨシャパテに対して一緒に戦うよう要請し、さらにエドムの王も加わり、3人の王はそれぞれの陣営を率いて、モアブと戦うために進んで行ったのです。ところが途中、回り道をしたために飲み水がなくなると、ヨラムは、イスラエルの神に助けを求めようとはせず、主は初めから我々をモアブの手に渡すつもりだったのだと言って主を非難しました。しかしヨシャパテは、主の預言者はいないかと尋ね、エリヤがいると聞くと3人で彼のところに行き、水を飲むことができるということと、モアブが敗北するという預言のことばを聞いたのです。その後、エリシャが語ったそのことばは成就しました。そのようにヨラムは、困難な状況にあっても主に拠り頼もうとしなかったばかりか、これは主が仕組んだことだと勝手に決めつけ、主を責めるようなことばを繰り返し(10,13節)、モアブと戦う前から戦意を失ってしまっていたのです。一方ヨシャパテは、主のことばを聞くために主の預言者を捜し求め、語られたことばをしっかりと握り、主に信頼して前進し、勝利にあずかる者となったのです。ここに2人の王の対照的な態度が描かれています。エリシャが、「もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう」(14節)とヨラムに告げたことばが印象的です。実際、ヨシャパテがいなかったら、事は大きく異なっていたに違いないのです。では私たちはどうでしょうか…。ともすればヨラムのように現実に心を奪われ、否定的、不信仰な思いに捕われてしまいます。しかし私たちは、ヨシャパテのように、主のことばを尋ね求め、それをしっかりと握って前進し、主がもたらされる勝利にあずかる者となるべきなのです。私たちには大きな困難と見えることも、「主の目には小さなこと」であることを覚えたいと思います。

主が戦いに勝利させてくださいますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 2章◇(6月25日)

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。』すると、エリシャは、『では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように』と言った。」…2列王2:9

預言者エリヤは、ベテルに主から遣わされたとき、ギルガルに連れて来た弟子のエリシャに対し、その場所にとどまるようにと命じました。しかしエリシャは、「私は決してあなたから離れません」と言い、エリヤについて行ったのです。二人のやり取りは、エリコ、ヨルダンと行く場所が変わっても、同様に三度繰り返されました。エリシャは、預言者の仲間から、今日あなたの主人は主に取られると言われ、知っていると答えましたが、彼は、とどまっていなさいというエリヤのことばを額面通りに受け取っていませんでした。それは、自分がエリヤに本気でついて行くかどうかを試すための「テスト」だと理解していたのです。実際エリヤは、ついてくるエリシャを拒まず、三度目のやり取りの後に、「あなたのために何をしようか…求めなさい」と言い、エリシャは、エリヤの霊の二つの分け前(二倍の分:2017訳)を求めたのです。そのエリシャに、人の姿で現れた神と格闘したヤコブの姿が重なります。ヤコブは、ももの関節を外され、「わたしを去らせよ」と言われてもひるまず、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言い、その場所で神の祝福を受けたのです(創32:24-29)。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ7:7)。主イエスもそう言われました。主は、私たちが主に積極的に求めることを願っておられるのです。なぜならそのようにして与えられる良きもの、神からの祝福は、私たちが独り占めするためのものではなく、私たちが祝福の基とされ、周りの人々がその祝福にあずかるために備えられているものだからです。主のみこころを祈り尋ねつつ、天からの祝福を大胆に求める者でありたいと思います。

主が祈りに答えてくださいますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 1章◇(6月24日)

「…この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。『神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。』」…2列王1:13

王宮の屋上から落ちて重体になったイスラエルの王アハズヤは、自分の病状が良くなるかどうか、異教の神に伺いを立てさせるべく使者たちを遣わしました。一方、主の使いはエリヤに対し、そのようなことをするのはイスラエルの神を認めようとしないからであり、王は回復せずに必ず死ぬと告げたのです。エリヤは王の使者たちに会いに行くために出て行き、そのように伝えました。するとアハズヤは、五十人隊の長とその部下を山にいたエリヤのところに遣わし、下りて自分のところに来るようにと命じさせたのです。殺害するつもりだったのかもしれません。しかし、1回目、2回目と、遣わされた彼らは、天からの火によって焼き尽くされてしまったのです。注目すべきは三人目の五十人隊長の言動です。彼は前の二人とは異なり、神の人であるエリヤの前にひざまずき、自分と部下のいのちを助けてほしいと懇願しました。それは単に、死にたくないためになされた命乞いではありません。脚注によれば、「お助けください」ということばの直訳は、「あなたの目に尊いものとしてください」という意味です。それは彼が、異教の神ではなく、イスラエルの神を畏れていたこと、また、アハズヤの権威を恐れることよりも、まことの神の御旨がなることを願っていたことを暗示しています。主は彼のその心を知っておられました。だからこそ、主の使いはエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない」と告げ、結局王は、主のことばのとおりに死んだのです。私たちもまた、この世にあって、さまざまな権威の下にありますが、人を恐れるのではなく、何よりも主権者なる神を畏れ、その主の目に尊いものとされることを願うべきなのです。どのような状況に置かれても、主の前にへりくだり、真実に仕える者でありたいと思います。

主の守りと確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 9章37-50節◇(6月23日)

「…あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」…ルカ9:48

弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がりました。誰がそれを言い出したのか、また、どのような基準でそれを判断し、決めようとしていたのかは不明です。どれだけ多くの悪霊を追い出すことができたか…(40節参照)、どれだけ頻繁に主とともに行動していたか…(28節参照)、どれだけ正しく主の質問に答えることができたか…(20節参照)など、彼らはさまざまなことを挙げながら、熱心に議論していたに違いありません。主イエスと一緒に生活していた弟子たちであっても、人よりも自分が認められたい、抜きん出たいという、自尊心、競争心、自己中心の思いにとらわれていたことをここに見ます。もうすぐ人々の手に渡されるようになる…と、主がご自身の苦難を予告されたにもかかわらず(44節)、弟子たちはそのような議論で白熱していたのです。もちろん主イエスはそんな彼らの心を見抜いておられましたが、非難したり叱責したりせず、ひとりの子どもを脇に立たせました。そして、このような子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた父を受け入れる者だ…。何もできないようなこの子どもこそ、わたしを純粋に慕い求める、わたしに喜ばれる者であって、そのように自らを低くし、へりくだる者こそが一番「偉い」のだと、弟子たちに向かって言われたのです。私たちは、自分が一番偉くなりたいとは思っていないでしょう。しかし、あの人のようには自分はできない…と落ち込んだり、あの人は何もやっていない…と裁く思いになったりするのだとしたら、それはやはり、自分と他者とを比較しているのです。主は、「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われたのであって(23節)、その負うべき十字架、主に従う道は、それぞれに備えられた「自分」のものなのです。主は「あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハ21:22)。神からの栄冠を得るべく、正しい目標を目指して、一心に走り続けたいと思います(ピリ3:14)。

主の似姿へとさらに変えられますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 9章18-36節◇(6月22日)

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」…ルカ9:23

主イエスが弟子たちに、群衆は自分のことを何と言っているかと尋ねると、彼らは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者の生き返りなどと答えましたが、主は、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言うのか」とさらに問われ、ペテロは「神のキリストです」と答えました。マタイはその告白のことばを、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と記しています(マタ16:16)。今日の箇所をあらためて読むと、その記事のすぐあとで主がご自身の死と復活を予告され、さらに「…自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」という、弟子たちへの招きのことばが書かれているということに気づきます。それらは一つの文脈の中にあり、同じ時、同じ所で語られた主のことばなのです。イエスが神の御子、神から遣わされたメシアであるとペテロが信じて認めたこと…、主がご自身のいのちをもって人類を罪の中から贖われること…、そしてそのイエスによって選ばれ、救われ、主の弟子とされたすべての聖徒たちが、自分の十字架を負って主に従うようになること…。それらはすべてつながっており、神のご計画、みこころとして、主によってここで示されているのです。「自分を捨て、日々自分の十字架を負い…」。ルカだけが「日々」ということばを加えています。主に贖われた者として、自分の十字架を負って歩む…。それは必ずしも何かの大きな働きを意味しません。日々の歩みの中にそれぞれが負うべき十字架がある…。それは、主に倣い、みことばに聞き従い、主の御旨にかなう一つ一つの小さなことを重ねる中で担うものであり、またそれは、がんばりによってではなく、御霊の助けと導きによって、平安と感謝のうちになすことなのです。主が背負われた十字架の重みに思いを馳せつつ、自分が負うべき十字架を今日も担って歩みたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 8章40-56節◇(6月20日)

「『あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。』これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』」…ルカ8:49b-50

ゲラサの地から戻った主イエスの元に、会堂管理者であるヤイロがやって来て、死にかけている娘を助けるためにすぐ自宅に来てほしいと懇願しました。ただちに主は彼とともにその家に向かいましたが、途中、長血という婦人病を12年もの間わずらっている女性が群衆に紛れて主イエスに近づき、主の衣のふさに触ると、その病がたちどころにいやされるという奇蹟が起こったのです。ご自分のうちから力が出て行くのを感じた主イエスが、自分に触ったのは誰かと尋ねると、そのことを咎められるのではないかと、震えながら進み出て事の次第を話したその女性に対して主は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。とそこに、ヤイロの娘が亡くなったと知らせる使者が着きました。それを聞いたヤイロはショックだったに違いありません。また、一刻を争う状況の中、割り込むように起こった長血の女性と主イエスのやり取りを、それがなければ間に合ったかもしれないのに…と、恨みがましく思ったかもしれません。しかし主は、そんなヤイロに向かって、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」と言われたのです。マルコの福音書の脚注には、「ただ信じていなさい」ということばの別訳として、「ただ信じ続けなさい」とあります(マル5:36)。ヤイロの家に着き、主イエスが娘は死んだのではなく眠っているのだと言うと、人々はイエスをあざ笑いました。しかし主が娘の手を取り「起きなさい」と叫ぶと、彼女はただちに起き上がったのです。「恐れないでただ信じ続けなさい」。主は私たちにもそう語っておられます。願いどおりにすんなりと事が運ばなくても、余計な事に煩わされているように感じても、すべてを知っておられ、不思議としるしを今もなしてくださる主に、信頼し続けて歩みたいと思います。

思い煩いを主に委ねることができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 8章26-39節(6月19日)

「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。」…ルカ8:37

主イエスと弟子たちがゲラサの地に着くと、悪霊につかれた一人の男性が一行を迎えました。主イエスが悪霊に対してその人から出て行くように命じると、レギオンという名の大勢の悪霊どもは、主イエスの権威におののき、底知れぬ所に行かずに豚の中に入るようにしてほしいと懇願し、主がそれを認めるとただちにそうしたのです。近くにいた豚の群れは湖になだれ込んで溺れ死にました。この出来事に遭遇した者たちの知らせにより、町の人々も駆けつけて来ましたが、長年悪霊につかれていた人がすっかり正気に戻り、服をきちんと着て座っているのを見ると驚き、恐ろしくなりました。そしてそのことを伝え聞いたゲラサ周辺の人々もみな脅えてしまい、自分たちのところからすぐ出て行くようイエスに願ったのです。その出来事が超自然的で衝撃的なものであったとは言え、ゲラサの人々が、神をあがめるのではなく、悪霊からの解放をともに喜ぶのでもなく、「触らぬ神にたたりなし」という態度で、イエスとの関わりを持つことを強く拒絶したということは驚きです。そしてそれは、悪霊につかれていた男性は厄介者であり、一方、自分たちは何にも束縛されていない、いやしや解放や救いは必要ない、と考えていたということを示唆しているのです。そのような態度は現代の人々にもみられます。「宗教」は必要ない…関わりを持つと自由が奪われる…と考えて拒絶するのです。しかし私たちは確かに罪に縛られており、主イエスは、その罪からの救い、全人格的ないやしと解放を私たちにもたらすために来られたメシアであり、その祝福を受け取るようにと今も願っておられるのです。そして救いを受けた私たちを、「神がどんなに大きなことをしてくださったか」(39節)を語り伝える証人として、尊く用いてくださるのです。感謝と喜びをもって、その「大きなこと」を人々に証ししていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 8章16-25節(6月18日)

「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。」…ルカ8:15

今日の箇所にはいくつかの事柄が書かれていますが、16-18節は、明らかに昨日の「種蒔きのたとえ」の記事の流れ、同じ文脈でのことばです。では、主はそこで、いったい何を語っておられるのでしょうか…。「種蒔きのたとえ」で強調されているのは、種、すなわち神のことばが良い地に落ちるなら、その種は芽を出し、成長し、実を結ぶようになる、ということです。16節に「あかり」とありますが、それはやみを照らすものであり、部屋に入ってくる人々によく見えるようにすべきものであり、そのあかりとは、神のみことばの真理の光、神の国の奥義(10節)であると理解することができます。マタイの福音書5章15-16節には、次のような主のことばがあります。「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。みことばを聞いて、その真理の光を受け取り、神の国の奥義を悟った者は、それを自分のうちにとどめたまま、宝の持ち腐れとすることなく、そのあかりを人々が見ることができるように、燭台の上に置くべきなのです。そうするならば、光に照らされた多くの者たちが、自分もそのあかりが欲しいと、主に求めるようになるのです。またそれは、見方を変えれば、良い地に落ちて結ばれた実は、農夫が独り占めするためのもの、隠してしまっておくべきものではなく、人々に分かち合われ、すべての民が神の国の祝福にあずかるようになるためのものだ、ということなのです。主に救われ選ばれた者として、与えられているあかりの光を輝かせていきたいと思います。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 8章1-15節◇(6月17日)

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」…ルカ8:15

「種蒔きのたとえ」と呼ばれるよく知られた記事です。このたとえによって、主イエスは人々に、神のことばを良い心で聞いて受け入れ、豊かな実を結ぶ者となるようにと教えられ、その後、そのたとえの意味を尋ねた弟子たちに対して、丁寧な説き明かしをされたのです。この記事はマタイとマルコの福音書にも書かれていますが、それらと比較すると、ルカにしか使われていないことばがあり、特に15節を見ると、主が良い地に落ちた種について説き明かされた際、「しっかりと守り」、「よく耐えて」と語っておられたことがわかります。「それをしっかりと守り」…。「良い地」はずっと自然に「良い地」のままであるわけではありません。雨不足なら水をやる必要があり、追肥をして養分を補うことも求められ、雑草をこまめに取り除き、鳥や動物に食べられてしまわないよう対策をしなければならないのです。「よく耐えて」…。また「良い地」であっても、種は発芽して一気に成長し、すぐに実を結ぶわけではありません。実を結ぶまでの期間、「良い地」として保つために、農夫は、毎日さまざまな労働をして汗をかくのです。しかし彼は、やがて豊かな収穫を得るという確信を持ち、その日を心待ちにしつつ、忍耐をもって、求められる日々の作業を忠実に行い続けるのです。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブ10:35-36)。実は一朝一夕には得られません。自らを「良い地」とすべくしっかりと管理し、実を結ばせてくださる主に期待しつつ、確信と忍耐をもって、労し続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 7章36-50節(6月16日)

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」…ルカ7:47(新改訳2017)

主イエスの足を自分の涙で濡らし、髪で拭い、足に口づけし、香油を塗った一人の女性…。彼女の背景は不明ですが、3版の脚注には「不道徳な女」とあります。律法を守り通すことに熱意を注いでいるパリサイ人の家に来れば、不道徳な彼女が非難されることは目に見えており、それに同調する人々から追い出されかねない中、なぜ彼女はあえてその家にやって来たのか…。それは、その家におられた主イエスに会うためにほかなりません。彼女は、主イエスが多くの人々に対してなされていた病いの癒し、悪霊の解放のみわざを見聞きしていました。そして、主イエスが預言のメシア、救い主であり、罪からの解放、赦しを与えることができるお方であることを、御霊の啓示によって教えられ、確信していたのです。彼女はすでにその赦しを、自分のものとして受け取っていたのです。彼女が流した涙…それは、悲しみの涙ではなく、罪が赦されていることへの喜びの涙であったのです。彼女は、赦される「ために」主イエスに愛の行為を表したのではなく、赦されている「から」愛したのです。主は彼女に、「あなたの罪は赦されています」と告げられましたが、それは、彼女が受け取っていた霊的祝福の保証、確定を宣言することばです。私たちはこの記事から、人は多く赦されれば多く愛するようになる、赦されていることを感謝する者となるという真理を学ぶことができるのです。そのことを思うとき、日々、主の前に進み出て、主の愛と赦しを、自分のものとして受け取り直すことの大切さを、あらためて教えられます。「あなたの罪は赦されています」という主のことばは、すべての人が聞くべき宣言なのです。まず神が私たちを愛して赦してくださった…。そのことをしっかりと覚えて歩みたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 7章18-35節(6月15日)

「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」…ルカ7:28

バプテスマのヨハネは、2人の弟子を主イエスの元に遣わし、あなたは来たるべきメシアなのですか…と尋ねさせました。すると、多くの人々の病気をいやし、悪霊からの解放のみわざをなされていた主は、あなたがたがいま見聞きしたことをヨハネに報告しなさい…と答えられました。主は、自分はまさしくメシアであり、そうでなければこのようなわざを行なうことができないのだ…と、ヨハネに伝えようとされたのです。ヨハネの使者たちが帰ると、主は群衆に対し、ヨハネについて語られました。「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう」というマラキの預言はヨハネの出現によって成就したこと、また、ヨハネが世に生まれたどの人よりもすぐれており、さらに神の国の一番小さい者でも、彼よりすぐれている…という、驚くべきことを告げられたのです。ではいったい、ヨハネや神の国の者は何がすぐれているというのでしょうか…。2017訳など他の聖書では、そこでの「すぐれた」ということばを「偉大な」と訳しています。ヨハネは荒野において、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫んで人々に教えを宣べ、主イエスもまた同じメッセージをもって宣教を開始されましたが、神の国の到来を告げ、主イエスの道備えの働きを全うしたヨハネは、主の目に確かに「偉大な」者であったのです。また、主イエスが語られた神の国の福音を信じて、神から義と認められ、実際に御国の民とされる者は、主にあって、確かに「偉大な」者と言えるのです。私たちもまた、主イエスに贖われた聖徒であり、神の民、御国の民とされています(1ペテ2:9-10)。一人ひとりは、神の前に、キリストにあって、「偉大な者」なのです。絶えず感謝と喜びと誇りをもって歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 7章1-10節(6月13日)

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」…ルカ7:7b

病気で死にかけていたしもべを持つ、ローマ人のある百人隊長は、主イエスの元にユダヤ人の長老たちを送り、そのしもべのいのちを助けに来てくれるよう願いました。主は彼の家に早速向かいましたがその途中で、使いである彼の友人から、わざわざ家まで来るには及ばない…私にはあなたを家に迎える資格がない…ただおことばをいただきたい、そうすればしもべはいやされるから…という、百人隊長から託されたメッセージを聞いたのです。そのようなことばに主イエスは驚き、そばにいた群衆に向かって、これほどの信仰は、イスラエルのうちにも見たことがない…と言って賞賛しました。そして使いの者たちが家に戻ると、死にかけていたしもべの病状は、すっかり良くなっていたのです。この百人隊長がいつどこで主イエスへの信仰を持ったのかは不明です。しかし彼は、主イエスがメシアとして、この世界のすべてを従わせる絶対的権威を持っておられるということを、確かに認めていたのです。ローマ兵であった彼は、権威がいかに人や事を支配する力を有しているかを、身をもって理解していたのです(8節)。さらに彼は、その権威が主イエスのことばによって発動されることを知っていました。だからこそ、あえて家に来なくても、しもべに手を置かなくても、主がおられるその所でただちにみわざが起こると信じ、そう願ったのです。ひるがえって私たちはそのような信仰を持っているでしょうか…。「光、あれ。」と命じて光を創造された主は、今も神の国の王としての絶対的主権を持ち、この世界のすべてを統べ治めておられるのです。その主の御名を私たちが心からあがめ、みことばの約束に拠り頼み、それを信仰をもって告白するとき、今も主の権威が発動され、力が解き放たれ、救いといやしと解放のみわざが起こされていくのです。神の栄光がこの地に現されていくのです。その主の権威がさらに多くの領域に及ぶことを、待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 6章39-49節(6月12日)

「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」…ルカ6:32b

主イエスはたとえをもっていくつかのことを話されましたが、39~45節に出てくる、盲人の手引きをしようとする盲人、自分の目の中に梁がありながら兄弟の目のちりを取ろうとする者、悪い実を結ぶ悪い木、悪い倉から悪い物を出す悪い人は、すべて同じ者を意味しています。42節には、「偽善者たち」とありますが、主がそのように言われるほとんどの場合、それはパリサイ人たちを指していました(マタ22:18)。彼らは、自分たちは律法を守り通していると自己義認、自己満足に陥っていましたが、主イエスがいったい何を話すのが気になり、民衆の中に混じって、主イエスのことばを聞いていたのです。「兄弟。あなたの目のちりを取らせてください」(42節)。そのことばは、パリサイ人たちが、人々の生き方が律法にかなったものでないことを指摘し、それを正すことに熱心であったことを意味しています。彼らは自分たちのことを、まるで「医者」であるかのように考え、人々が抱える「病い」を治そうとしていたのです。しかし主は、そんな彼らを「偽善者」と呼び、まず自分の目から梁を取りのけなさいと、命じられたのです。「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい」。その主のことばは、パリサイ人たちだけに向けられたものではありません。37節には、「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません…」とありますが、私たちは、他者のあり方をさばくのではなく、自らのうちにある主に喜ばれないものを取り除き、主に贖われた聖徒としてふさわしく、聖別され、整えられるべきなのです。日々、神の前に出て、みことばに照らして自分自身のあり方を吟味し、主の道から外れていることを示されたならただちに悔い改め、主に立ち返ることが求められているのです。パリサイ人のような霊的な高慢に陥らないように注意して歩みたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 6章27-38節(6月11日)

「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。」…ルカ6:32

主イエスは弟子たちに対して、「あなたの敵を愛しなさい」と言われました。そしてさらに、あなたをのろう者を祝福せよ、求める者には与えよ、さばくな、赦せ…と、その具体的なあり方について示されたのです。そのことばを聞いた弟子たちは、大きな衝撃を受けたに違いありません。なぜなら、敵に対して憎しみを抱き、侮辱されたら仕返しをし、奪い取られたら取り返すのは世の常識、当たり前のことであって、それを否定し、正反対の生き方をするのは、困難なように思えたからです。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう」。2017訳では、「あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか」となっています。神は、ご自身のみこころに従う者に対して、特別な恵みを与えようと願っておられるのです。主イエスの教えは、この世の価値観とはまったく異なる、神の国のものであって、主のしもべが従うべき道なのです。その道を歩む者たちが神から受け取る報いはすばらしく、いと高き方の子どもとされるのだと、主は言われたのです(35節)。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」(36節)。私たちは神の御旨に従わず、敵対していた存在であって、神に喜ばれるものなど、何一つ持ち合わせない者たちでした。しかし神は、そのような私たちを愛し、あわれみ、かけがえのないひとり子を遣わし、その御子は、私たちの身代りとなって十字架にかかり、自分を侮辱する者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです(ルカ23:34)。その主によって罪赦され、贖われた者として、主から選ばれ任命された弟子として、主が弟子たちに語られたその教えに、私たちも聞き従うべきなのです。自分の思いをみことばに合わせていくべきなのです。世の常識、人の目ではなく、神の国の価値観、主の御目を、絶えず意識して歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 6章20-26節(6月10日)

「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」…ルカ6:21

幸いな者と哀れな者について、主イエスが弟子たちに向かって話された記事です。同じ場面だと思われる記事が、マタイの福音書では「山上の垂訓」と呼ばれていますが、ルカは、彼らが山に登って行ったとは記していません。そして、病気を患ったり悪霊に憑かれたりしていた大ぜいの人々が、主イエスによって癒され解放された、と記したすぐ後に続けて、「目を上げて弟子たちを見つめながら」話し出されたと、ルカは同じ文脈の中でその記事を書き、場面の描写をしているのです(19-20節)。その話しの内容も、マタイとはいくつかの部分で異なっています。まずルカは、主イエスが、貧しい者、飢えている者、泣いている者、迫害されている者は幸いだと語り、その後、富む者、食べ飽きている者、笑う者、皆からほめられる者は哀れだと語ったと記しています。主は明らかに幸いな者と哀れな者を対比させ、その違いを強調しておられるのです。さらに、マタイの福音書では使われていない、「いま」と「やがて」ということばが心に留まります。たとえ「いま」貧しくても、飢えていても、悲しんでいても、迫害されていても、それは「やがて」そうでなくなる…。神の国は、わたしがすでに地上にもたらしたのであり、「やがて」その完成のとき、幸いな者の祝福は完全なものとなる…。しかしまたそれは、すでに前味としてあながたがに与えられており、「いま」私から受け取って味わうことができるのだ…と、主イエスはこのとき、弟子たちに対してそのように言われたのです。「やがて」は、終わりの日であるとともに、主を信じ、神の国の祝福にあずかることを願い求める者にとっては「いま」である…。主イエスが言われたその2重の意味を覚え、マラナタ、主よ来てください、と主の再臨を待ち望むと同時に、主のもとに来た人々のように、「いま」、神の国の豊かな祝福にあずかる者でありたいと思います。

主にある幸いを覚えることができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 6章12-19節◇(6月9日)

「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」…ルカ6:13

主イエスは静まって父なる神と交わるために山に入って行き、そこで夜を徹して祈られました。それは、弟子たちの中から12人を選び、使徒という名をつけて、ご自身の「側近」として任命するためでした。その彼らは、常に主のそばにいて、主イエスの教えを聞き、主がなさるみわざをすぐ近くで目撃していたのです。12使徒の名は14-16節に書かれています。マタイやマルコの福音書でも同様ですが、そこでは、シモン・ペテロの名が最初に書かれ、最後には、主を裏切ったイスカリオテのユダの名が記されています。それを見ると、なぜそのユダが使徒に選ばれたのか…、彼を排するよう祈りの中で示されなかったのか…、という思いが湧いてきます。しかし主は、確かにユダを選ばれたのです。リストの筆頭のペテロも、主を3度も否んで裏切りました。弟子の選抜組である12使徒たちでさえ、完全な者ではなかったのです。そもそも完全な者とはなり得なかったのです。主の働きに間に合う者どころか、期待はずれのことばかりして、逆に足を引っ張るような者たちであったのです。しかし、ユダを除くその11使徒たち全員の名が、五旬節の日に屋上の間で聖霊の降臨を待ち望む弟子たちの中心として、ルカによって再び記されていることに心が留まります(使徒1:13)。使徒たちは紆余曲折、さまざまなところを通らされ、多くの失敗を重ね、砕かれ、守られ、支えられ、そしてその後、約束の御霊を受けて、力強く主を証しする者として変えられ、用いられていったのです。そして私たちも同じように、弱く、罪深く、欠けだらけの者であったにもかかわらず、主によって選ばれ、任命され、主の働きを担う弟子とされたのです。それは、私たちが世に出て行って実を豊かに結ぶためであり(ヨハ15:16)、聖霊の力を受け、キリストにある救い、御国の福音を証しする者となるためなのです(使徒1:8)。感謝と喜びをもって、主に忠実に仕えていきたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 6章1-11節◇(6月8日)

「そして、彼らに言われた。『人の子は、安息日の主です。』」…ルカ6:5

安息日をめぐる2つの出来事がしるされています。安息日に麦の穂を摘み、手でもみ出して食べた主イエスの弟子たちを見て、パリサイ人たちは非難しました。なぜならそれは、彼らの解釈によれば「労働」にあたるもので、安息日規定に反する「違反行為」であったからです。それに対して主は、ダビデが供えのパンを祭司から得て、供の者に与えたという聖書の記事を引用し(1サム21:6)、弟子たちの行為は本質的に同じだと反論したのです。また別の安息日には、主は、右手が萎えた人をいやすために会堂の真ん中に立たせましたが、それも労働だとして非難しようとしていたパリサイ人たちに、安息日にしてよいのは何なのか…と尋ねられました。それは、安息日の意義を理解していない彼らに、自分たちの誤りを気づかせるための問いかけでした。しかし、心のかたくなな彼らにそのことばは届かず、主のいやしのみわざに接した彼らは、イエスへの殺意を募らせていったのです。「人の子は安息日の主です」。神は、天と地のあらゆるものを創造され、7日目にはそのすべての創造のわざを休まれ、その日を聖なる日とされました。それは、6日目までに、草花、動物、鳥、魚、そして神の似姿としての人を創造し、それらにいのちを与えて「生きるもの」としたことを良しとし、わざの完成を告げ、その日を特別に祝福するという意図があったのです(創1:31-2:3)。そして人の子である主イエスは、御父とともにそのわざに確かに参与されていたのです(ヨハ1:1-3)。そのように安息日は、この世界のすべてを創造され、いのちをもたらされた主を、私たち人間が覚えてあがめるときであり、一人ひとりのうちに、そのいのちが回復されるための主のみわざがなされるときなのです。主イエスによる手の不自由な人のいやしは、まさにその現れであったのです。私たちもこの安息日の意義をきちんと理解し、主がもたらされる豊かないのちにあずかり、すべての栄光を主に帰す者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記第一 22章1-28節◇(6月6日)

「すると、ミカヤは答えた。『主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。』」…1列王22:14

アハブはアラムのラモテ・ギルアデの町を奪還しようと考え、ユダの王ヨシャパテに共闘を申し出ました。するとヨシャパテは、イスラエルの預言者にそれが主の御旨かどうかを尋ねてほしいと答え、召集された預言者たちは口を揃えて戦いの勝利を告げましたが、ヨシャパテは、それとは違うことを語る預言者をなおも求めたのです。連れて来られたミカヤは、全イスラエルが山々に散らされているのを見たと告げ、戦いの敗北を預言しました。そればかりか彼は、主ご自身が、アハブをその戦いで戦死させるべく、預言者たちの口に偽りを言う霊を授けられたのだと、事の真相を明らかにしたのです(23節)。それを聞いたアハブは、怒って彼を獄に入れさせました。ミカヤは、王に良いことを述べよと指示されましたが、それを拒否し、主からのことばをそのまま告げると答えました。そして彼のことばは、主に背いていたアハブにとって、いつも悪いことであったのです。自らの危険を顧みず、あくまでも主に忠実に従ったミカヤの態度から、主のしもべとしてのあり方を学ぶことができます。私たちもときに主からのことばをあずかり、それを人に伝えるよう促されることがあります。もちろんそのことば遣いやタイミングには十分配慮をすべきですが、その内容が聞く側にとって「良いこと」でないとしても、私たちは、主からあずかったそのことばを、「預言者」としてそのまま伝えるべきなのです。ともすれば私たちは、相手を気遣い、伝えることをためらってしまいますが、それは主から託されているのであって、主の前に果たさなければならないことなのです。パウロもこう言いました。「鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(エペ6:20b)。どんなときにも主を畏れ、主のしもべとして忠実に仕え、語るべきことを相手にきちんと伝える者でありたいと思います。

主の導きと備えがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第一 21章17-29節◇(6月5日)

「アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。」…1列王21:27

主から遣わされたエリヤは、ナボテの畑にいたアハブの元に行き、主のことばを告げました。「わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、…あなたの家をヤロブアムの家のようにし、…犬が…イゼベルを食らう」。そしてそのさばきの宣告は、彼と彼の妻が、ナボテの殺害と所有地の強奪だけでなく、イスラエル全体に偶像礼拝の罪を蔓延させ、主の怒りを引き起こしたことに対するものだったのです(25-26節)。そのことばを聞いたアハブは、すぐに自分の外套を裂き、身に荒布をまとって断食し、打ちしおれて歩きました。すると主は、彼の生存中はわざわいをもたらさず、彼の子孫の時代にそれをなすと、エリヤに告げたのです。主がそうされた理由、それは、たとえ一時的であるにせよ、死への恐怖が動機であったにせよ、アハブが主の前に確かにへりくだったからです。彼は単なるポーズとして荒布をまとって断食したのではなく、そこに悔い改めの心が伴っており、それを主が見られたからです。私たちは、アハブに容赦する必要なんかないと考えます。しかし、神はそうではないのです。重犯罪を重ね、極刑に処せられて当然の者であっても、神の前に真実に悔い改めるならば、確かに主は、その者に御目を留め、取り扱ってくださるのです。主がいかに恵みとあわれみに満ちたお方であるかを、あらためて教えられます。その主は、アハブのような悪を行なわなくても、神に背いて歩んでいた私たちをもあわれみ、御子の十字架と復活による罪の赦し、贖いを備えてくださいました。今なお、主のみこころに従い切れない私たちですが、みことばを通してそのことを語られるときに、すぐに主の御前に悔い改め、主に立ち返り、恵み深く、あわれみ深い主に、賛美と感謝をささげる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記第一 21章1-16節◇(6月4日)

「ナボテはアハブに言った。『主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。』」…1列王21:3

アハブは、宮殿のそばにあったイズレエル人ナボテのぶどう畑を自分の野菜畑にしたいと考え、譲ってほしいと彼に持ちかけましたが、けんもほろろに断られました。すると、欲したものが手に入らなかったアハブは不機嫌になり、王である自分がそのように扱われたことを憤り、ふて寝をして、食事を取ろうともしませんでした。それを知った妻イゼベルは策をめぐらし、ナボテが神と王を呪ったと、二人のよこしまな者に偽りの証言をさせ、町の人々に彼を石打ちにして殺させたのです。アハブはそれを聞いて、自分の望みが叶ったことを単純に喜び、さっそくその畑を取り上げるべく下って行きました。この記事を読んで気付かされることは、自分の思い通りにならないと気が済まないアハブの幼児性と、平気で人のいのちを奪うイゼベルの残忍性と、たとえ王からの要請であっても主の教えに従ったナボテの信仰深さ、潔さです。土地は神の所有物であり、先祖のゆずりの地を他人に売り渡すことは、律法によって主から明確に禁じられていたのです(レビ25:23、民数36:7)。それを知っていたナボテにとって、主の教えに反するアハブの申し出を受け入れるのは、主ご自身に背くことであったのです。もし自分がナボテの立場だったら、彼のように毅然とした態度で、王の要請を拒否しただろうか…と思わされます。実際ナボテがそうであったように、権力者である王に逆らえば、身の危険を招くことになるからです。議会に引き出され、大祭司から、イエスの名によって人々に教えてはならないとあらためて禁じられた使徒たちは、「人に従うより、神に従うべきです」と答えました(使徒5:29)。主に贖われた私たちもまた、何よりも神の前に正しく真実に歩む者、どんなときでも神に従い、主のみことばに立って歩む者とされたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第一 20章22-43節◇(6月3日)

「主はこう仰せられる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」…1列王20:42b

イスラエルとの戦いに敗北を喫したアラムの王ベン・ハダデは、平地での戦いなら勝ち目があるとの家来たちの進言により、翌年、再び戦いを交えましたが、前回同様、大打撃を被りました。その後、アハブ王にあわれみを乞うべく、腰に荒布をまとい、首に縄をかけた姿でアハブのところに行ったベン・ハダデの家来たちが、ベン・ハダデが助けてほしいと懇願していると伝えると、アハブは、彼を連れて来させ、和平の契約を結び、何も危害を加えることなく、そのまま帰らせたのです。しかしそれは、主の御旨ではありませんでした。主がひとりの預言者をアハブの元に遣わし、見張っておくべき者を逃したらいのちを取られると言われていたのに、そうしてしまったと彼に言わせると、それが自分のことを意味していると思わなかったアハブ王は、あなたはそのとおりにさばかれると、その預言者に告げたのです。なぜアハブはベン・ハダデを聖絶しなかったのか…。それはアラムとの2回の戦いでの勝利により、おごり、高ぶる思いがあったからです。また契約を結ぶことでうまくいくという、人間的な方法に安易に頼る心があったからです。エリヤはバアルの預言者たちを一人残らず聖絶しましたが、アハブも、宿敵ベン・ハダデを帰すべきではなかったのです。それが神のみこころだったのです。主は、聖徒である私たちにも、みことばを通して、取り除くべきものを残したままにしていないか…と、問い掛けておられます。また、置かれた状況の中で、安易に人間的な方法によって解決しようとしていないか…、わたしのみこころを尋ね求め、わたしに拠り頼む者、聞き従う者となっているか…と、語っておられるのです。うまく行ったからそれでいい…ではなく、静まって絶えず主の導きを求め、それに従う者でありたいと思います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: 列王記第一 20章1-21節◇(6月2日)

「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」…1列王20:13b

アハブ王とアラムの王ベン・ハダデと戦いの前半です。ベン・ハダデはアハブの元に使者を遣わし、金銀や身内の者を渡すよう求めましたが、アハブがそれを拒否したため、アラムの軍勢が配置されて臨戦態勢となりました。一方、アハブのところにひとりの預言者が来て、アラムの大軍は戦いに敗北する、それは諸国の首長に属する若者たちによって主導される、その戦いを仕掛けるのはアハブだと、そのような主のことばを王に告げたのです。それを聞いたアハブは若者たちが232人いることを調べ、彼らを先頭とし、7千人のイスラエルの民もそれに続いて出陣させました。すると彼らはアラムに打ち勝ち、大損害を与えました。主のことばは確かに実現したのです。「ひとりの預言者」の名は不明です。しかし、彼を通して語られた主のことばに従ってアハブが行動を起こしたからこそ、イスラエルは勝利し、主が意図されたとおり、アハブは主こそ神であることを知ることとなったのです。妻イゼベルの影響もあって、主に対するアハブの姿勢はなお揺れ動きますが、バアルの預言者がエリヤとの対決に敗北し聖絶されたこと、エリヤが言うとおり大雨が降ったこと、そしてアラムとの戦いでの勝利と、一つ一つの出来事を通して、主はアハブやイスラエルの民に確かに働きかけておられたのです。エジプトのパロ王のかたくなな心が少しずつ軟化したことが思い起こされます。主は私たち一人ひとりに対しても、ご自身の働きを託しておられます。主のしもべとされていることを覚え、その小さなことを忠実に果たすなら、主は私たちを通して、人々の心に働きかけられるのです。みわざを現されるのです。そのために用いられる者とされたいと願います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 列王記第一 19章◇(6月1日)

「彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。」…1列王19:9

バアルの預言者たちが皆殺しにされたことを知ったアハブ王の妻イゼベルは憤り、エリヤの元に使者を遣わして殺害を予告しました。するとエリヤは恐れてユダの荒野に逃れ、すっかり意気消沈し、自分のいのちを取ってほしいと主に願ったのです。その後、御使いから与えられたパン菓子と水によって元気を取り戻したエリヤが、さらに進んでホレブ(シナイ山)に着き、洞穴で一夜を過ごすと、「エリヤよ。ここで何をしているのか」という主の呼び掛けがありました。それを聞いたエリヤは、恐れて逃げた自分に対する主の叱責だと思ったに違いありません。だからこそ、言い訳するように、彼はことばを主の前に並び立てたのです(10節)。すると主は、山の上にエリヤを立たせ、暴風と地震と火の中に彼を置いた後、再び同じやり取りをしました。そして、ハザエル、エフー、エリシャの3人に油を注ぎ、それぞれ、アラムの王、イスラエルの王、預言者とせよと命じ、さらに、バアルを拝まない7千人の者を残しておくと、約束されたのです。ここで何をしているのか…。その主のことばは叱責ではなく、恐れなくてもよい、わたしはあなたのために助け手を立てて援軍としようという、励ましのことばでした。またエリヤの前で次々に起こった自然現象は、主が世界の創造主であり、すべてを統べ治める主権者であることを示すためであったのです。主は、エリヤの弁解を聞くまでもなく、すべてをご存じであられ、彼の弱さを受けとめ、必要な助けを与えようとされたのです。その主は私たちの弱さも知っておられ、孤軍奮闘することがないよう、助け手を備えてくださいます。恐れなくてもよい…という主の励ましのことばを日々いただきつつ、前に進んで行きたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。