◇聖書箇所: 列王記第二 25章22-30節◇(8月31日)

「…バビロンの王エビル・メロダクは、彼が王となったその年のうちに、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」…2列王25:27-28

バビロンの王は、すでに主だった者たちをユダからバビロンへ捕らえ移していましたが、バビロンによって立てられた最後のユダ王ゼデキヤが反逆すると、エルサレムに攻め上り、主の宮と王宮とすべての家を焼き、神殿の柱や聖なる器具などを奪い去りました(25:1-21)。その後、バビロンの王は、ゲダルヤという者をユダの地の残りの民を治める総督として立てましたが、彼はユダの将校の一人によって打ち殺され、ユダの民は残りの将校とともに、バビロンを恐れてエジプトへと逃げました。ついに南ユダ王国も完全に滅んでしまったのです。ところがなぜか、列王記の記者は、バビロンに捕らえ移されたユダの王エホヤキンが、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から釈放され、さまざまな面で特別待遇されたことを記して(27-30節)この書を終えているのです。国の滅亡という悲惨な記事に続くそのことの意味は何でしょうか…。マタイ1章にあるメシアの系図にはエコニヤという人物が出てきますが(1:11)、そのエコニヤこそエホヤキンであり(脚注参照)、神は、ダビデの家系が絶えることなく、やがてメシアがそこから生まれるようにと、バビロンの王を用いてそのようにされたのです。ここに、人の思いをはるかに越えた、神の壮大な救済計画の一端を見ることができます。そしてそれは、人類に対する、神の大きな愛と深いあわれみに基づくことであったのです。その神は、今も、ご自身に背を向け、みこころに反する歩みを続けている人々を愛し、あわれみ、そのたましいが救われることを切に願い、働き続けておられます。すでにキリストの贖いによってその救いにあずかっている者として、そのことを感謝し、主を賛美するとともに、その人々に神の愛と救いを証しし、キリストの福音を伝えて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 24章◇(8月29日)

「エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。…」…2列王24:20

エホヤキムがユダの王であったとき、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上り、エホヤキムは3年間は彼に従いましたが、その後反逆に転じると、今度はユダの周辺に住む異邦人の略奪隊が、次々に攻め上ってきました。列王記の記者は、彼らは主が遣わされた者たちであり、それは預言のことばのとおりなのだと記しています(2節)。なぜ主はそのように、御自身の民を自ら滅ぼそうとされたのか…。記者はその理由を、マナセが犯したすべての罪のため、彼が流した罪のない者の血のためであり、主はその罪を赦されなかったのだと説明しています(3-4節)。その後、エホヤキムの子エホヤキンが王になると、またもやバビロンはエルサレムに攻め上り、ついに、高官、有力者、職人たちを捕囚とし、バビロンの地へと捕らえ移し、主の宮と王宮の財宝も奪い去りました。「ことごとく」、「すべて」、「みな」と繰り返されていることからわかるように(13-16節)、それは、容赦なく、徹底的になされたのであり、忌み嫌うべきことを行い続けたユダに対する、主の怒りによる審判でした。そしてその責任は悪王マナセだけでなく、主の目の前に悪を行ったすべての王とすべてのユダの民も負うべきであったのです。「それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く」(イザ13:13)。怒りの日、審判の日は必ずやって来ます。それは、預言のことばとして私たちに与えられており必ず成就するのです。そのとき、キリストに贖われている者たちは、バビロンのような知らない遠い国ではなく、神がおられる天の御国に移されるのです。それは嘆きと悲しみではなく、感謝と喜びのときであって、私たちはそのときを心待ちにしつつ、その終わりの日が来ることを人々に告げ知らせる者とされているのです。神のいつくしみときびしさを覚えつつ(ロマ11:22)、その主の働きを忠実に行っていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 23章25-37節◇(8月28日)

「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。」…2列王23:25

29節以下にヨシヤ王の最期が書かれています。アッシリヤの王のもとに行くためにユダの領土を通過しようとしたエジプトの王パロ・ネコを迎え撃った彼は、メギドであっけなく戦死してしまいました。その後、ヨシヤの子エホアハズが代わって王となりましたが、彼は先祖たちのように主の目に悪であることを行い、それは、彼の子エホヤキムが王となってからも同じであったのです。列王記の記者はヨシヤ王の治世を、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った」と総括し、そのような王は先にも後にもいなかったと称賛していますが、同じ表現がモーセの律法の中で使われているということに心が留まります。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)。発見された律法の書に、そのことばが書かれていたかは不明ですが、ヨシヤが行ったことは、まさに「主を愛する」行為であったのです。彼はその書物に目を通したとき、現状が主のみこころからいかにかけ離れたものかを知らされ、主を愛すること、主を喜ばせることを願い、そのために王としての自分ができることを考え、民とともに国全体として主に立ち返ることを求めて、一つ一つを実行していったのです。それにもかかわらず、残念ながら、その精神は後の世代には継承されませんでした。またマナセが引き起こした主の怒りが収められることはありませんでした。しかし、ヨシヤにとって、主を愛すること、主の教えに聞き従うことは、それらを目的としたわけではなく、たとえたった一人であっても、彼はそれをやり遂げようとしたのです。それは神との一対一の関係の中でのことなのです。そのような姿勢は私たちにも求められています。周りがどのような状況であっても、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、真実に主を愛する者でありたいと思います。

主の喜びが私たちの喜びとなりますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 23章1-24節◇(8月27日)

「それから、王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。」…2列王23:3

ヨシヤ王はユダのすべての人々とともに主の宮に上り、主の宮で発見された律法の書のことばを彼らに読み聞かせました。そこには民の長老たちや祭司と預言者といった宗教指導者たちも含まれていましたが、自分たちの先祖がそのことばに聞き従わず、偶像を作って拝み、主に忌み嫌われるべきことを行ってきたその霊的な堕落の深刻さをあらためて知り、愕然としたに違いありません。自分たちの歩みがいつのまにか主の道からそれてしまい、長い間にそれが当たり前になってしまう…。律法の書が見つからなければ、主の御旨と現状のギャップはそのままでしたが、ヨシヤはそれをなくすことに使命感をもって取り組み、最大限の努力を払いました。バアルやアシェラ像を取り除き、それらに香をたく高き所を打ち壊し、マナセが主の宮に作った祭壇も取り壊し、焼いてその灰をまき散らしたのです。それは徹底的になされました。列王記の記者は、発見されたその書物を「契約の書」と呼んでいます(2節)。それは主が民にご自身のみこころを伝え、それに聞き従うようにと命じた「律法の書」であると同時に、主が民を祝福すると約束して契約を結ばれた「契約の書」であったからです。その書のことばを読み終わったヨシヤは主の前に契約を結び、その教えを実行することを誓い、民もみなその契約に加わりました。キリストの血による新しい契約によって贖われ、聖霊の住まわれる主の宮とされた私たちも、みことばに照らして自らを吟味するとき、さまざまなものを取り除くようにと示されます。それを断行することは必ずしも容易ではありませんが、そのことを願い求めるなら、主は、御霊の助けと導きのうちに、一歩一歩、その「改革」を推し進め、日々の歩みを祝福してくださるのです。そのことを覚え、感謝をもって主に従い続けたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 22章◇(8月26日)

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」…2列王22:11

アモンの子であるヨシヤがユダの王となりました。マナセ、アモンが主の道に歩もうとせず、偶像を拝んでそれに仕えてきたあり方とは異なり、彼は主の目にかなうことを行ってダビデのすべての道に歩んだと、列王記の記者は記しています(2節)。それは、神殿の修繕に取りかからせるという具体的な行動に表われています。主の宮のあちらこちらが破損しているのにもかかわらず、そのままで放置されているのを見て、彼は心を痛めたのです。その修繕作業が進む中で、主の宮から律法の書が見つかりました。家来からそのことばが読み上げられるのを聞いたヨシヤは、自分の衣を引き裂きました。それは、先祖たちから続いている自分たちの歩みが、その書に書かれている主の教えとはあまりにもかけ離れたものであるということを、あらためて知らされたからです。すると彼は、「私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから」と言い、国全体のために主のみこころを尋ね求めるよう、家来たちに命じました(13節)。たまたま見つかった一つの律法の書に対し、そのような反応を示し、ただちに主のみこころを求めさせたヨシヤの姿勢に心が留まります。それは何よりも、彼が主を畏れ、主の御旨に聞き従うことを、絶えず追い求めていたからです。見つかったという知らせを聞いても、これまで見つかっていなかったのだから…と、その存在を無視することもできました。しかしヨシヤはそうしなかったのです。そのことばを真実に受けとめ、現状とのギャップに心を痛め、主の前で涙さえ流したのです(19節)。ともすれば私たちは、みことばを聞いても、それはあくまで理想であって現実は違う…と、割り引いてとらえがちです。そして信仰においても、建前と本音が生じてしまうのです。しかし、そのようであってはならないということを教えられます。私たちもヨシヤのように、神のことばを真摯に受けとめる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 21章◇(8月25日)

「こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。」…2列王21:5

ヒゼキヤの死後、彼の子マナセが王となりましたが、マナセは、異邦の民が行っていた、主が忌み嫌われるならわしをまね、父が取り除いた高き所を築き直し、バアルやアシェラ偶像を拝み、それらに仕えました。さらに、子どもに火の中を通らせ、まじないや口寄せをするなど、モーセを通して主が与えられた律法にことごとく反するようにして、主の目に悪であることを行ったのです。そのように主を畏れようとしないマナセは、何と主の宮の中にそれらの偶像や天の万象のための祭壇を築いたと、列王記の記者は記しています(4,5節)。主の宮とは、主がそこに住まわれ、特別なご臨在を現される聖なる所であって、あえてマナセが、神を冒涜する行為をそこで平気で行ったということに驚かされます。彼の父ヒゼキヤは、アッシリヤからの圧力を受けたとき、荒布を身にまとって主の宮に入り、心を注ぎだして祈りましたが(19:1)、マナセの態度は、それとは実に対照的であったのです。そのようにマナセは、ヒゼキヤの子であったにもかかわらず、神を畏れ、主のみこころを尋ね求め、へりくだって主に拠り頼むという、父が持っていた見倣うべき信仰の姿勢を受け継いでいませんでした。彼は12歳で王となりましたが、それまでの幼少期、王宮において王子として育てられていく中で、いったい何を見て、何を感じ取っていたのか…ということを思わされます。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ…」(伝12:1)。幼い子どもたちが、創造者であり主権者なる神を信じて生きることの大切さをあらためて教えられます。そしてそのためには、彼らに対して創造者のことをしっかり伝えて教える存在が必要なのです。また、親や大人たちが自らの信仰の歩みを通して、主に従う者に与えられる祝福を証しすることが有益なのです。そして何より、彼らが祝福されるようにと、背後でとりなして祈るなら、主はその祈りに答えてくださるのです。次世代に対してのそのような責任があることを覚えたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 20章◇(8月24日)

「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」…2列王20:17

ヒゼキヤ王は病気にかかり重篤となりました。預言者イザヤは彼に対して、あなたは死ぬ、治らないと告げましたが、それを聞いたヒゼキヤは、自分が真実と全き心をもって主に仕えてきたことを思い出してほしいと、涙ながらに訴えて主に祈りました。すると主は、ただちにその祈りを聞かれ、あなたをいやし、寿命を15年延ばそう、エルサレムの町もアッシリヤの手から救い出そうと、イザヤを通して語り、約束してくださったのです。その後ヒゼキヤは、見舞いに訪れたバビロンの王の使者から手紙と贈り物を受け取ると、そのことに気をよくし、宝物倉にある財宝などをすべて彼らに見せましたが、それを知ったイザヤはヒゼキヤに対し、それらの物が一つ残らずバビロンへ運び去られる日が来ている、と告げました。しかしそれを聞いてもヒゼキヤは、自分が生きている間は大丈夫だろうと、勝手に考えて安心したのです。ヒゼキヤは財宝を見せるべきではありませんでした。そのことが、バビロンがユダを侵略し、財宝を略奪することへの動機付けとなり得たからです。そしてそのことに思いが至らなかったのは、彼の病気がいやされ、死を免れ、寿命が15年延ばされたことがうれしくて、つい気が緩み、財宝を自慢したいという人間的な思いにかられたからに違いありません。また、それらが奪われる日が来ていると告げられたなら、ただちにそれに対処すべきでしたが、彼がそうしなかったのは、自分の代には起こらないだろう…と、油断し楽観する心があったからです。祝福の後に誘惑が来る…とよく言われますが、物事がうまく行っても、問題が解決されても、そこで気を緩めてはいけないのです。油断すべきではないのです。また、後の世代のことを考えない近視眼的、自己中心的な者となってはいけないのです。ヒゼキヤを反面教師とし、そのことをしっかりと覚えて歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 19章1-19節(8月22日)

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」…2列王19:14

家来たちからラブ・シャケのことばを聞いたヒゼキヤは、衣を裂き荒布を身にまとい、祈るために主の宮に入り、家来たちを預言者イザヤのところに遣わして、彼にも祈りを要請しました。するとイザヤは、家来たちに対して主のことばとして、わたしを冒涜したあのことばを恐れるな、わたしはあの若者のうちに霊を置く、彼はあるうわさを聞いて自分の国に引き揚げる、わたしはそこで彼を剣で倒す…と告げたのです。するとそのとおりに、ラブ・シャケは退いて行きました。ところが、アッシリアの王は、手紙を託した使者をヒゼキヤのところに再び遣わしました。その手紙には、おまえの信頼する神にごまかされるな、アッシリヤの王たちは国々を絶滅させてきた、その国々の神々は民を救い出せなかったのだ…と、主を侮辱することばが書き連ねてあったのです。するとヒゼキヤはまたもや主の宮に入り、その手紙を主の前に広げ、創造者であり主権者である主を礼拝し、救いを祈り求めたのです。そのときヒゼキヤは、家来たちと一緒になってアッシリアへの反撃の戦略を検討することもできました。あるいは民に向かって語り、何とか危機を乗り切ろうと、協力を求めることもできました。しかし彼はそうせず、主の宮に入り、すべてを主の前に出し、国と民を救ってくださるよう、主に熱心に祈り求めたのです。それは王というより、むしろ祭司としてのあり方ですが、主は彼のその祈りを確かに聞き、危機的状況の中に介入してくださったのです(19章後半)。問題のただ中で、解決策をあれこれと考え、あたふたと動き回るのではなく、ひたすら主の御前に出て、すべてのことを明らかにし、主が介入してくださるのを待ち望む…。そのような祭司としてのあり方は、私たちにも求められています。ヒゼキヤに倣い、主の前に静まって祈り求めることを、選び取っていきたいと思います。

絶えず主との交わりを持つことができますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 18章13-37節◇(8月21日)

「民は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に答えるな』というのが、王の命令だったからである。」…2列王18:36

ヒゼキヤ王の治世の第14年に、アッシリヤの王セナケリがユダの町々に攻め上ると、ヒゼキヤは引き揚げを求め、要求通りに金銀を渡しました。しかし、アッシリヤの王はさらに大軍を送り、家来の一人のラブ・シャケを通して、ユダの王と民にメッセージを伝えたのです。ラブ・シャケが告げたそのことばは、傲慢と侮蔑に満ちたものでした。彼に直接対応したのは、ヒゼキヤの側近であった3人の者たちでしたが、ラブ・シャケがユダのことばで語っていたため、彼らは、それを耳にする民が動揺することを恐れ、自分たちだけにわかるよう、アラム語で話してほしいと願いました。しかしラブ・シャケはそれを無視し、引き続きユダのことばで、ヒゼキヤにごまかされるな、降伏せよ、おまえたちの主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか…とまくしたて、民の心を揺さぶろうとしたのです。しかし、ラブ・シャケが告げたそのことばを聞いても、城壁の上にいた民は、だれひとり、一言も声を発しませんでした。それはそうするようにと王から事前に命じられていたからですが、自分たちのいのちにかかわる状況の中で、取り乱して助けを乞う者が出てもおかしくありませんでした。それなのにそうしなかったユダの人々…。それは、彼らが自分たちの神と王とに信頼していた、心を一つにしていたということを示唆しているのです。語り終えてもしーんと静まりかえったその状況に、ラブ・シャケは、ただならぬものを感じたに違いありません。主があなたがたを救い出すとでもいうのか…。ラブ・シャケがユダの民に告げたそのことばは、今も、私たちにしばしば投げつけられます。それはサタンが、私たちの心を揺さぶり、何とかして主との関係を引き裂こうとするからです。その声に惑わされないように、ますます主に信頼し、主の救いを待ち望む者でありたいと思います。

主が悪しき者から守ってくださいますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 18章1-12節◇(8月20日)

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」…2列王18:5

ユダの王として即位したアハズの子ヒゼキヤは、すべてのことにおいて主の目にかなうことを行いました。それは、それまでの歴代の王たちがやめられなかった偶像礼拝と訣別し、ただ主だけに信頼して仕えるということです。実際に彼は、高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇さえも砕いて、偶像であったものを徹底的に排除したのです。その青銅の蛇はネフシュタンと呼ばれるものです。かつてイスラエルの民がエジプトを脱出し、カナンの地に向かう途中、なぜこの荒野で死なせようとするのか、と言って神とモーセに逆らったため、主は燃える蛇を送られ、それにかまれて多くの人々が死にました。しかし、モーセが主に助けを求めると、主は、青銅で蛇を作って旗ざおの上につけるよう彼に命じ、燃える蛇でかまれた者がそれを仰ぎ見て生きるようにされたのです(民21:4-9)。ところがイスラエルの民は、そのことを忘れ、その青銅の蛇をも拝んで、自分たちを守り導いてくれる神だとし、犠牲を供えていたのです。その青銅の蛇は、主が送られた燃える蛇によるわざわいから人々を救うために、モーセの祈りに答えて主ご自身が備えてくださったものであって、それが神にはなり得るはずがないのです。目に見えるものに心奪われ、それに拠り頼んでしまうという、人の持つ弱さと罪深さをあらためて教えられます。「彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った」(6節)。そのようにひたすら主に拠り頼むヒゼキヤの姿勢に心が留まります。だからこそ主は彼とともにおられ、戦いに勝利を収めたのです。それとは対照的に、北イスラエルの民は主の御声に聞き従わず、サマリヤはアッシリヤに攻め取られ、民は異国の町へと捕らえ移されてしまったのです。そのことを覚え、私たちもヒゼキヤに倣って、ひたすら神に信頼し、その教えに聞き従う者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 19章41-48節◇(8月19日)

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、…」…ルカ19:41

主イエスの嘆きと悲しみが記されています。エルサレムに近づかれた主は、目の前に広がるそのうるわしい都が、異邦人の手によって蹂躙される日がやがて来ることを思い、涙を流してこう言われました。やがておまえの敵が四方から攻め寄せ、おまえとその中の子どもたちを地にたたきつける…。実際、エルサレムの町は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊され、ユダヤ人たちは家族や家を失い、そこから逃げ出すことになったのです。「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」(44節)。その主のことばは何を意味するのでしょうか…。その訪れとは、メシアなるイエスご自身の訪れであり、主がもたらされた神の国の福音、良き知らせの訪れであり、多くのユダヤ人たちがその訪れを歓迎せず、自分たちとは無関係のものとして拒絶し、無視し、受け入れようとしなかったということを意味しているのです。主イエスはこれから都に入り、実際にそのような扱いを受け、人々からののしられ、つばきされ、十字架にかけられようとしていましたが、主は、都を前にしてそのことを思い、深い悲しみを覚えて、涙されたのです。その悲しみとは、エルサレムの都、主の宮が壊され、失われてしまうということ以上に、人々が、神が備えられた救いを受け取ろうとせず、なおも罪とやみの中にとどまり続けようとすることへの、心の痛みであったのです。その主の御目は、今もすべての人に対して向けられています。なぜなら、その一人ひとりのために、主は尊い血を流し、いのちをささげ、死に勝利し、贖いのわざをなされたからです。そして人々がその良き知らせの訪れを知り、イエスを主と信じて救われ、聖霊が住まわれる主の宮として建て上げられることを、心から願っておられるからです。私たちは、すでに主に贖われた者として、主が御目を注いでおられるその方々に、メシアの訪れ、神の国の福音の訪れを伝えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 19章28-40節◇(8月18日)

「イエスは答えて言われた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』」…ルカ19:40

主イエスの「エレサレム入城」と呼ばれる記事です。エルサレムに近づかれた主は、ふたりの弟子を村に遣わし、ご自分が乗るためのろば、しかもだれも乗ったことのない、ろばの子を連れて来るように命じられました。それを聞いた彼らは戸惑ったに違いありません。なぜなら、王が乗るのにふさわしいのは馬であり、初めて人を乗せる子ろばがその役に立つのか、疑問であったからです。しかし彼らが実際に村に入ってみると、状況はすべて主が言われたとおりでした。確かにろばの子がつながれ、ほどこうとすると持ち主から理由を問われ、主がお入り用なのだと答えると、使うことを認めてくれたのです。なぜなら、それらは主ご自身が備えられたことであり、ゼカリヤの預言の成就であったからなのです(ゼカ9:9)。主はその子ろばに乗り、神殿へと進んで行かれました。すると人々は自分たちの上着を脱いでその通られる道に敷いたのです。ふたりの弟子も自分たちの上着を子ろばの上に敷きましたが、それらの行為は主への服従の姿勢を表しています。さらに進むと弟子たちは大声で神を賛美し始めました(38節)が、そのことばは、主の降誕における天の軍勢の賛美を思い起こさせます(ルカ2:14)。一方、それを苦々しく見ていたパリサイ人たちは、弟子たちを叱ってやめさせよとイエスに求めましたが、主は、この人たちが黙れば石が叫ぶと、彼らを一蹴しました。その石を含め、子ろば、上着を敷いたふたりの弟子や人々、さらには大声で神をほめたたえた弟子たちの群れと、そこに登場するものが指し示しているのは、イエスこそまことの王であり、メシア、すなわち全世界の救い主であるという霊的事実なのです。主に贖われ、生かされている私たちもまた、そのように、イエスは主、キリストだと人々に指し示して証しし、その主を常に心の王座に迎えて、賛美をささげる者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 19章11-27節◇(8月17日)

「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、10の町を支配する者になりなさい。』」…ルカ19:17

「ミナのたとえ」が書かれています。マタイの福音書には「タラントのたとえ」が書かれていますが(25:14-30)、両者の間には共通点と相違点があります。ミナのたとえでは、主人は王となって帰ってくる者であり、主はそのたとえを弟子にではなく群衆に向かって話されたのです。そのたとえにおいて、主人の指示は、1ミナを資本金として商売をせよということであり、その主人は遠い国で王位を授かってから戻って来ることになっていました。しかし主人の国の人々は彼を憎んでおり、使者を送り、王としての受け入れを拒否する意志を先方に伝えたのです。結局それは無効とされ、主人は王として戻り、1ミナを預けた10人のしもべに結果を報告させました。10ミナ、5ミナとそれぞれもうけを出し、それに見合う数の町の統治権が与えられましたが、あるしもべは、布にくるんでしまったままにしたのです。それを知った主人は、それならなぜ銀行に預けて利息を得なかったのかと怒り、1ミナを彼から取り上げ、10ミナ持っている者に与えたのです。主はこのたとえにより人々に何を教えようとされたのか…。11節には、イエスがエルサレムに近づき、人々が神の国がすぐに現われると思っていたから、とあります。それは民衆が、神の国を政治的な意味にとらえ、それが実現しないと知るとイエスを憎み、十字架につけろと叫んだことを示唆しています。たとえにおける王とは、神の国の王として再臨される主であり、預けられたミナとは、キリストが宣べ伝えた神の国の福音であり、事業を任されたしもべとは、キリストのしもべ、すべての聖徒たちなのです。また、王としての受け入れを拒否したのはユダヤ人だけでなく、今も福音を信じないすべての人々なのです。そしてその者たちは、そのままでは、王が戻って来られるときにさばかれてしまうのです(27節)。私たちが福音宣教の働きを委ねられていることを覚え、それを忠実に果たすしもべでありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 18章31-43節◇(8月15日)

「彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った。」…ルカ18:41

一人の盲人のいやしの記事が書かれています。その人はいつものように道端に座って物乞いをしていましたが、大勢の人々の足音が聞こえたので、いったい何事かと尋ねると、ナザレのイエスが通られるのだと言うのです。いやしと解放のみわざをなされていたイエスのうわさは、もちろん彼の耳にも届いていました。おそらく彼は、イエスがエリコの町にやって来ることを心待ちにしたことでしょう。そしてそれは、ついに実現したのです。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。そのように彼が大声で叫ぶと、人々をそれをやめさせようとしましたが、彼はますます声を張り上げ、再び叫びました。すると主イエスは立ち止まり、彼を呼び寄せ、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねたのです。その盲人が自分に何を求めているのか…。それは明白であり、主イエスがそれを知らないはずはありませんでした。しかし主は、そのとき、あえて彼にそう尋ねたのです。その人は、そんなこと決まっているじゃないか、と思ったでしょうか…。そうではなく、彼は、イエスこそ、必ずそのようにしてくださるという大いなる期待をもって、イエスをダビデの子、すなわちメシアだと信じて、「主よ。目が見えるようになることです」と答えたのです。それを聞いた主は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と彼に告げました。するとただちに彼の目は開かれ、神をあがめたのです。「わたしに何をしてほしいのか」…。主は私たちにも、あえてそう尋ねられます。そしてそれは、あなたはわたしを誰だとするのか、という問いなのです。また、その願いが答えられることによって、神の御名があがめられるようになるのか、という問いでもあるのです。私たちの祈りを通して神の栄光が現され、人々が主を賛美するようになる(43節)ことを願いつつ、積極的に主に願い求める者でありたいと思います。

主が祈りに答えてくださいますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 18章15-30節◇(8月14日)

「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」…ルカ18:25

18-25節には、ある金持ちの役人と主イエスとの対話が記されています。何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるのかと尋ねる彼に対し、主はモーセの律法を持ち出しましたが、それらは子どもの頃からすべて守っていると、その役人は答えました。すると主はさらに、まだ一つ欠けている、それはあなたの持ち物を全部売って、お金を貧しい人たちに分けてやることだ、その上でわたしに従って来なさい、と、主は彼に告げたのです。それを聞いた役人は非常に悲しんだ…彼が大変な金持ちだったからだと、ルカは記しています。彼はイエスからのチャレンジに対し、行動を起こすことができなかったのです。彼にとって、持っている財産への執着を捨てて、イエスに従うのを優先させることは困難だったのです。主はその役人に、財産を貧しい人々に分け与えるなら、天に宝を積むことになるのだ、と言われました(22節)。この地上にお金や財産を蓄えようとするなら、そのことに心が奪われてしまい、天にある神の国に入ること、そこにある祝福にあずかること、永遠のいのちを自分のものとすることが難しくなるのです。だからこそ、すべての人は、地上にではなく天に宝を積むべきなのです。ルカはその記事の前に、子どもたちを呼び寄せた主のことも記していますが(15-17節)、人々に連れられて来た幼子たちは、財産を築いて蓄えようなどと考えるはずがありません。また彼らを連れて来た人々も、幼子たちが主イエスに触れていただくことによって、イエスが説いていた神の国の祝福にあずかることができると、期待してやって来たのです。そして、そのような純粋でひたむきな心を、主は喜ばれたのです。しかしながら、主に質問した役人や、幼子たちを連れて来た人々を叱った弟子たちのうちにも、そのような心はなかったのです。「神の国はこのような者たちのものです」(16節)。私たちはどうでしょうか…。自分自身の心を、あらためて吟味したいと思います。

天を思う心が与えられますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 18章1-14節(8月13日)

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」…ルカ18:13

2つのたとえを通して主は弟子たちに、祈りについて教えられました。1つ目は、裁判官に訴えるやもめのたとえです。その裁判官は、神を畏れず人を人とも思わない者でしたが、あるやもめがひっきりなしに彼のところに来て、自分を訴える人を裁いてほしいと頼み続けたところ、裁判官はそれがあまりにも執拗なので根負けして、その依頼を受け入れたのです。2つ目は、パリサイ人と取税人の祈りのたとえです。両者が宮で祈っていたとき、パリサイ人は、自分が正しい者であることを神に主張し、取税人を引き合いに出して、彼のようでないことを感謝する、と言いました。一方、取税人はパリサイ人とは真逆に、罪人の私をあわれんでください、と祈ったのです。結局、神が義と認められたのは、パリサイ人ではなく、その取税人でした。主は、自分を高くする者は神に退けられ、低くする者は高くされる…だから祈りにおいてもそのような者であれ、と教えられたのです。私たちはどうでしょうか…。祈りが神に聞かれないと、これは神のみこころではない…と勝手に判断して祈りをやめてしまったたり、執拗に祈り続けるのは信仰的ではないと考えたりしがちですが、主は弟子たちに、そうであってはいけない、とことん祈れと教えられたのです。また、私たちの祈りは、ともすると、問題の解決を一方的に求める、「陳情」の祈りとなってしまいますが、祈りは双方向のものであり、祈りの中で神は、私たちが受け取るべきメッセージを確かに語られるのです。たとえにおいて、パリサイ人の自己義認の祈りと取税人の自己吟味の祈りは、対照的に語られていますが、私たちが主の御前に出て、みことばの光に照らされるなら、パリサイ人の祈りのことばが出てくるはずがないのです。祈りという主との対話、交わりへの招きを感謝しつつ、へりくだって主の御声を聞く者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 17章20-37節◇(8月12日)

「あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」…ルカ17:34

神の国はいつ来るのかとパリサイ人たちに尋ねられた主イエスは、神の国は人の目で認められるようにしては来ない、神の国はあなたがたのただ中にある、と言われました(20-21節)。そのように神の国は、誰の目にも見える形としてではなく、神の御力、ご支配として現されるものであって、主イエスの到来とともにすでに地上に来て、人々に救いといやしと解放をもたらしていたのです。主はさらに、弟子たちに対して、人の子の日について教えられました。人の子とは、メシア、つまり主ご自身であり、人の子の日とは、主が再び地上に来られる再臨の日、神のさばきがなされる終わりの日のことです。主は、その日に起こるのは、ノアの日や、ソドムとゴモラへのさばきの日に起こったことと同じだと言われました。そのことばが意味すること…それは、人の子の日は、突然やって来るということです。ノアの時代もロトの時代も、人々が飲み食いし、ふだんどおりの生活をしていたところに、その日は突然やって来たのです。また、意味することのもう一つは、そのとき起こった洪水や火と硫黄によって、ノアやロトの家族以外の、そこにいたすべての人が滅ぼされてしまった(27,29節)ということです。しかし、人の子の日においてはそうではありません。主が、「ひとりは取られ、他のひとりは残される」と言われたとおり、イエスをメシアと認め、神の国の福音を信じる者たちは、神のみもとに引き上げられて永遠のいのちにあずかり、一方そうでない者は、神のさばきによって滅ぼされ、永遠の死に至るのです。そのように私たちの前には2つの道があり、どちらかの結末を迎えるのであって、その中間はないのです。そして、すでに主に贖われている私たちは、その人の子の日が必ず来る、という警告を人々に伝えるために、召されているのです。その日はいつかはわからない…。主にあって、さらなる切迫感をもって、その働きを担う者とされたいと思います。

神の国がこの地にますます拡がりますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 17章1-19節◇(8月11日)

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」…ルカ17:10(新改訳2017)

主イエスは弟子たちに「しもべのたとえ」を話されました(7-10節)。文脈を見ると、私たちの信仰を増してほしいという、弟子たちの要求(5節)がきっかけになっていることがわかります。そう言われた主は彼らにまず、からし種ほどの小さな信仰さえあなたがたが持っていれば、桑の木も従うのであって、信仰を「もらわなくては」と考えるべきではない…と言われたのです(6節)。「しもべのたとえ」はその後に語られましたが、おそらく主は、弟子たちの心の中に、自分たちの信仰が「増し加えられれば」、これまでも行なってきた、病のいやしや悪霊の追い出しなどのみわざを、人々に対してもっと多くなすことができるのに…と、手柄や称賛を得たいという人間的な思いがあるのを、見抜いていたのでしょう。だからこそ主は、たとえを通して教え、彼らがご自分のしもべとして徹するよう求められたに違いありません。そのたとえでは、野での仕事を終えて帰ったしもべは、すぐに食卓に着くことができず、主人の食事の給仕をし終えてから自分の食事を取っていますが、それは、主人が意地悪なのではなく、人権の侵害でもなく、しもべの立場と役割を考えれば、ごく当たり前のことなのです。もしそれに対して文句を言ったり、そうすることを誇ったり、特別な報酬を求めたりするとしたら、それは筋違いであって、しもべとしてあるべき姿ではないのです。なすべき当たり前のことを当たり前のように行なう…。それは必ずしも容易ではありません。私たちの罪の性質が、いつも「自分」を主張しようとするからです。しかし私たちもまた、贖われたキリストのしもべとして、主の前にへりくだり、自分は取るに足りない者です…求められていることをしただけです…と告白し、すべての栄光を主に帰すべきなのです。ますますそのような者へと変えられていきたいと願います。

主の歩まれた道に従うことができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 16章14-31節◇(8月10日)

「『そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」…ルカ16:26

あなたがたは神と富の両方に仕えることはできない、という主イエスのことばを聞いて(13節)、金銭を好むパリサイ人たちはあざ笑っていましたが、主は彼らに、ある金持ちのたとえを話されました。その金持ちは贅沢三昧の生活をしていましたが、彼の家の門前にはできものだらけの貧しいラザロが寝ており、金持ちの食卓のおこぼれで生きているような状態でした。しばらくして二人とも死に、ラザロはアブラハムの懐に連れて行かれました。一方、金持ちはよみの炎の中で苦しみもだえ、ラザロをよこして舌を冷やさせてくれと、アブラハムに訴えたのです。しかしアブラハムは彼に対して、生きている間おまえは良いものを受け、ラザロは悪いものを受けたが、ここではその立場が逆転するのだ、こことよみの間には大きな淵があって、それを越えることはできないのだ、と告げたのです。どうして、金持ちはラザロがいる所に行くことができなかったのでしょうか…。裕福であること自体がそれを妨げたわけではありません。また、貧しいラザロに十分な施しをしなかったことが、単に問題視されたのでもありません。それは何よりも、この金持ちが富に仕え、神に仕えようとはしなかった、すなわち、その心がお金に支配されていたからであり、ラザロに対する愛やあわれみの心が欠如し、実際的な施しを行なわなかったことは、すべてそこに起因していたのです。そして主は、そのたとえを通して、そこで金持ちとして表されている、パリサイ人たちの偽善を、批判されたのです。私たちは今、何に仕え、何に従って歩んでいるのでしょうか…。神は、私たちがパリサイ人たちの過ちに陥らないよう、モーセと預言者との教えと(29,31節)、神の国の福音(16節)を与えてくださっているのです。それらの神のことばに、心を留めて歩む者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 15章25-32節◇(8月8日)

「『だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」…ルカ15:32

放蕩息子のたとえの後半です。その息子には兄がいました。彼が畑仕事から帰って家に近づくと、宴の音が聞こえてきました。何事かと事情をしもべに尋ねると、弟が戻ってきたことを祝う宴だというのです。兄は怒って家に入りませんでした。そして彼をなだめる父に向かい、なぜ放蕩した弟にそんなことをするのか、私には子やぎ一匹くれなかったくせにと、文句を言ったのです。兄の言い分、それは、自分はずっと父に仕え、戒めを破ったことも一度もない…。それなのに、もらった財産を食いつぶした弟がこんな扱いを受けるのは、おかしい、道理に合わない、不公平だ…ということでした。ところが父は彼に、おまえは私からの恵みをいつも受けて来たではないか…。しかし弟はそうではない…すべてを使い果たして死んだも同然であった。その弟が生きて帰って来たのだ、喜び祝うのは当然のことだ…と言ったのです。弟は罪を犯した。だから、飢え死にしそうになったのは自業自得なのだ。自分が悪いのだから、その報いは当然のことなのだ。明らかに弟へのこの扱いは理不尽だ!…。このたとえにおける兄のその思い…それは、罪人たちと食事をしている主イエスを苦々しく感じていた、パリサイ人や律法学者たちの思いを表しています(2節)。そして、同じように自分を自己義認化し、そうできていないと思われる人々をさばく心は、私たちのうちにも少なからずあるのです。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラ2:21)。「恵み」とは、それを受ける価値がない者に対し、一方的に神の好意として与えられる祝福です。それは、因果応報というこの世の価値観、「兄の思い」とは相容れないものであり、放蕩息子=私たちが、父=神から受けている破格の扱いにほかならないのです。その神の恵みを覚えて、心から感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 15章11-24節◇(8月7日)

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」…ルカ15:24

有名な「放蕩息子のたとえ」の前半です。父の大きな喜びがこのたとえでも強調されていますが、それは、自分の息子が「死んでいたのに生き返り」、「いなくなっていたのに見つかった」ことの喜びです。そして、父のうちにそれまで、息子が失われたことによって、どれほどの深い悲しみと痛みがあったのかを教えられるのです。父は、帰って来た息子に対して、分けてやった財産を使い果たしたことを反省せよとも、財産はもう一銭もやらないぞとも言いませんでした。父は、息子がどれだけ辛い思いをしたか、また家に入れてもらえるか大きな不安を感じながら戻って来たのか、何よりも自分の罪を、天に対して、すなわち神の前に悔い改めている、その心中を知っていたのです。だからこそ、まだ家までは遠かったのに駆け寄って息子を抱き、口づけしたのです。父は、息子が「雇い人の一人に…」と言おうとするのをさえぎるようにして、「服を着せなさい…肥えた子牛をほふり…食べて祝おう…」と、しもべたちに命じたのです。その息子は、食べるものがなくなり、飢え死にしそうになったとき、「我に返った」とありますが、それは、自らのそれまでのあり方が間違っていたことに気づかされ、それを認めたということです。実際、彼は、その後、父のところに帰る決心をし、父に再会したときに謝罪することばを、そのときすでに口にしていたのです。そしてそれは、天におられる父に確かに聞かれていたのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハ1:9)。このたとえにおける父は神であり、放蕩息子とは、私たちを含む、身勝手で罪深いすべての人です。神は、キリストにあって、ご自身の元に立ち返る者を赦し、抱きしめ、大喜びで祝宴を開いてくださるのです。神に愛されていることを覚え、喜びをもって、私たちも主を愛したいと思います。

救いの喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 15章1-10節◇(8月6日)

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」…ルカ15:7

取税人や罪人たちと主イエスが親しく交わっているのを見たパリサイ人や律法学者たちは、罪人を受け入れるのかと、主イエスを批判しました。すると主は、「いなくなった一匹の羊のたとえ」と「なくなった一枚の銀貨のたとえ」を彼らに話し、その批判に反論したのです。たとえの中に「悔い改める必要のない99人の正しい人」とありますが、あるいはそれは、自分たちは律法を守り通しており、神の前に義とされていると自負していた、パリサイ人や律法学者たちに対する皮肉かもしれません。その二つのたとえにおける強調点…それは、いなくなった一匹の羊や、なくなった一枚の銀貨が見つかったとき、それらの所有者たちのうちに湧き起こった大きな喜びです。見つかったという朗報は、わざわざ呼び集められた友人や近所の人たちにも知らされ、一緒に喜んでください…と、その喜びは多くの人々に分かち合われるのです。喜びが天にある…神の御使いたちに喜びが湧き起こる…。それは言うまでもなく、神ご自身の喜びです。一人の罪人が悔い改めるなら、神はそれを大いに喜ばれるのです。そして同時にそこには、多くの人々が悔い改めようとしないことに対する、神の深い悲しみと痛みがあることを教えられます。私たちもまた、そのような者のうちの一人でした。しかし、神の不思議な導きの中で、キリストと出会い、十字架によるキリストの贖いを信じ、自らの罪を悔い改めて主に立ち返り、神はその私たちたち一人ひとりを、大いなる喜びをもって御前に迎え入れてくださったのです。主は今も、失われた羊を捜し歩いておられます。私たちは、自分がすでに救いにあずかっていることをあらためて感謝しつつ、主のその悲しみと喜びを、自分のものとして受けとめる者でありたいと思います。

主の働きを担うことができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 14章25-35節◇(8月5日)

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」…ルカ13:33

自分の家族、自分のいのちさえも憎み、自分の十字架を負い、自分の財産を捨てなければ、わたしの弟子になることはできないと、主イエスは一緒にいた群衆に言われました。その厳しいことばを読むと、私たちも、どう受けとめるべきか…と、困惑するような思いになります。なぜ主はそのように言われたのでしょうか…。私たちの肉親や自らのいのちは神から与えられているものであって、むしろ感謝すべきものではないのでしょうか…。主イエスがそのように言われた意図、それは、主イエスに従うことを安易な気持ちで考えている者が群衆の中にいることを知った主が、ご自身の弟子となることの重大さをきちんと理解し、その覚悟をしっかりと持って、途中で投げ出さずに最後までしっかりとついて来る者となってほしいと人々に伝えることにあり、もちろん主は、人のいのちを軽んじているわけではないのです。そのとき主は、群衆にたとえを話されましたが、そこでは、完成のための費用をきちんと算出せずに見切り発車で塔を建て始め、途中で挫折した者や、多くの兵を擁する敵の来襲に対し、自軍の勝算を見積もる王のことが語られています。両者に共通するあるべき態度とは、「まず座って」よく考えるということです。つまり、何となく安易に始めてしまい、途中で投げ出すことがないよう、最初から後のことをよく考えて判断せよ、ということです。「まず座る」という動作は祈りを暗示しています。また、憎み、捨てよとの主のチャレンジはすべて、「自分の…」に対してのものです。明らかに主は、人が自らをご自身に明け渡すことを求めておられるのです。これは自分のもの…と何かを抱え込みつつ主について行く者は、弟子としてふさわしくないのです。いのちさえもささげられた主イエスに贖われた者として、主が備えられた道を最後まで全うすることができるよう、御霊の助けと導きを求めつつ歩み続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 14章15-24節◇(8月4日)

「『言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」…ルカ14:24

祝宴を催す際には、お返しの席が用意できない、貧しい人やからだの不自由な人たちを招きなさい、と言われた主イエスのことばを聞いて(13節)、主とともに食卓についていた客の一人は、神の国で食事をする人は何と幸いか…と言いました。すると主は、一つのたとえにより、神の国の食事について彼に説き明かしました(16-24節)。そのたとえにおける宴会には多くの人々が招待を受けていましたが、主催者のしもべが人々に準備できたことを知らせると、招待客たちはみな、自分の用事ができたので宴会には出られないと、なんと「ドタキャン」(土壇場…いざとなってからのキャンセル)をしたのです。主人はそれを聞いて怒りました。そしてしもべに、急いで町に行って、貧しい人やからだの不自由な人を宴に招くべく、ここに連れて来るようにと命じたのです。主人の怒り…それは、招待客がみな直前になって辞退するという、彼らの身勝手さや非礼さに対してでしたが、それ以上に、自分たちの用事を宴会の食事よりも大切なことと考え、それを優先させたという価値判断に対してであって、自分が催した宴会がそのように軽んじられたということに対して、主人は憤慨したのです。このたとえにおいて、多くの人を食事に招いた主人とは神であり、自分のことを優先させて出席を断った客とは、神の国を第一に求めようとしないすべての人のことです。一方、招きに喜んで応じた貧しい人たちとは、自らの貧しさ、欠けを自覚し、神の国の祝福にあずかることを切に求め、何を置いても、それを最優先にしている者たちのことです。そして主は、今も私たちに、そのような者となるようにと願っておられるのです。「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタ6:33)。私たちはやるべきことをいろいろと抱えていますが、神が命じておられるその優先順位を、しっかりと覚えたいと思います。

第一のものを第一とすることができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 14章1-14節◇(8月3日)

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」…ルカ14:11

「宴で上座を選ぶ招待客のたとえ」を主イエスは話されましたが、それは、主が招かれた食事の席において、招かれた他の人々がすすんで上座に着いているのを、実際に見られたからでした(7節)。そもそもなぜ招待客たちは上座に着こうとするのか…。それはそこにいる人々が自分に敬意を払うことによって、優越感を得ることができ、自尊心が高められるからです。その食事に招いたのはパリサイ派のある指導者でしたが、上座に着こうとしたのは、おそらく門下のパリサイ派の者や律法学者たちであったのでしょう。彼らは会堂や宴の上席が好きだと主イエスは言われました(ルカ20:46)。しかし主イエスが言われたように、より身分の高い人が後から来れば、上席に座っていた者たちは末席へと追いやられ、人々の前で恥をかくのであり、逆に末席に着いていれば、招待者から上席に進むようにと促され、面目を施す(誉れを得る:2017訳)ことになるのです。私たちは宴に招かれても、きっと上席に着こうとはしないでしょう。しかしレストランなどで丁重な扱いを受ければ優越感を味わうし、逆にぞんざいな対応をされるなら、客に対してその態度はなんだ…と、憤慨するのです。それはある意味自然な感情ですが、私たちの心がたびたびそのような思いにとらわれるなら、神がくださる平安や喜びを奪われてしまうことになるのです。「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴11:2)。罪人でえある自分がキリストに贖われ、赦され、今も主に生かされている…。私たちがそのことを日々覚えるなら、私たちの自我は砕かれていきます。神であられるのにご自分を低くして十字架にかかられた主イエスに倣い、神と人々の前に謙遜に歩む者へと変えられて行くのです。自らを主に明け渡して、御霊によるその取り扱いを受けていきたいと思います。

心が主によって守られますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 13章10-21節◇(8月1日)

「この人はアブラハムの娘です。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」…ルカ13:16(新改訳2017)

主イエスは安息日に会堂で教えておられましたが、そこに、病の霊につかれて腰が曲がり、全く伸ばせない女性がいるのを知った主は、彼女を自分の元に呼び寄せて、「あなたは病から解放されました」と宣言されました。そして彼女に手を置くと、曲がっていたその腰はたちどころに伸びてまっすぐになり、彼女は喜びにあふれて神をあがめたのです。ところがそこにいた会堂司は、そのいやしが安息日になされたことに憤り、働くことがゆるされているのは安息日以外の平日だと、群衆に訴えました。すると主は、この女性のいやしは、サタンの束縛からの解放であって、それを行なうのは、神が設けられた安息日が何よりもふさわしいのだ、と反論されたのです。「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」(申5:15)。安息日とは、労働をしない日ではありません。実際、人々は、安息日であっても、家畜を飼葉桶からほどき、水を飲ませに連れ出していたのです(15節)。それなのに、パリサイ人たちの形式主義により安息日の本来の意義が歪められ、会堂司も彼らの偽善に染まっていたのです。安息日とは、私たちが神から与えられている、いのちと喜びの回復の日です。それは、神の御力によって、人々があらゆる束縛から解き放たれ、主の勝利が現されるときです。それは、そのようにして私たちが、神の国の豊かな祝福にあずかり、神を心からあがめるときなのです。安息日のその意義を取り戻されたキリストは、今もその日を特別な日として祝福しておられます。主への大いなる期待をもって、主の御前に出て行きたいと思います。

ただ主を待ち望む者とされますように。