◇聖書箇所: 詩篇 84篇◇(10月31日)

「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」…詩篇84:2

神に向かっての詩人の賛美と祈りと告白が書かれています。そしてその中で「なんと幸いなことでしょう」ということばが3度繰り返されています。「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています」(4節)。「あなたの家に住む」…それは必ずしも、主の宮に身を置くという、目に見える行動を指すわけではありません。それは、静まって主を慕い求め、主との親密な交わりを持ち、主の御顔を仰ぎ見るようにして時を過ごし、主の御思いを尋ね求める…そのようなあり方を意味しているのです。「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は」(5節)。「シオンへの大路のある」…その前に「その力があなたにあり」とありますが、それは、自らの力や知恵を頼みとすることなく、全能者なる主に拠り頼み、主に身を避け、弱さのうちに完全に働く主の御力を待ち望む…そのような謙遜なあり方を意味しているのです。「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は」(12節)。詩人はそう結んでいます。ともすれば私たちは、ばたばたと日々を過ごすうちに、身も心も主から離れていってしまいますが、静まって主を慕い求め、主と親しく交わるなら、主は心に平安を、たましいに喜びをもたらしてくださるのです。また、主を隠れ場として身を避けるならば、試練や苦難の中に置かれても、私たちは、倒れてしまうことなく、そこに希望の泉を見いだすのです。主の慰めと励ましを受けて、歩み続けることができるのです。「主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」(11節)。主に信頼する者こそ「正しく(誠実に:2017訳)」歩む者です。どんなときにもただ主に信頼を置く者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 83篇◇(10月30日)

「こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。」…詩篇83:18

詩人は神に訴えています。黙っていないで…じっとしいないでください…と。それは、神に敵対し、神を憎む者どもが、神の民に対して悪を企んでいるからです。彼らは、イスラエルの名で呼ばれる民を滅ぼし、国を消し去ろうとする悪意を持っていたのです(4節)。5-12節にはさまざまな名前が書かれていますが、詩人が言う敵とは、そのような実際の者たちであると同時に、この世界を牛耳ろうとしている、神に敵対する勢力のことです。彼らの目的は神の牧場を奪って自分たちのものとし、そこにいる羊たちである、神の民を支配しようとすることなのです(12節)。それに対して詩人は、悪者に対する仕打ちを求めています。枯れあざみやわらのようにし、火のようにして彼らを恐れおののかせ、辱めを受けて滅びるようにしてくださいと、神の介入を待ち望んでいるのです。しかし、詩人の真の願いは、単に悪者が敗北し、神の民が守られることだけではありません。18節にあるとおり、万物を創造され、すべてのものの主である神だけが、いと高き方、大能の力をもっていっさいを統べ治められるお方であると、敵が思い知るようになることであり、地に住むすべての国民が、その主を畏れ、御名をあがめ、主に聞き従うようになることなのです。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)。主は、たとえ私たちの目には、沈黙し続け、じっとしているように見えても、確かにその力強い御腕を伸ばして、私たちを守り、支えておられるのです。民を見捨てることなどなく、悪をいつまでものさばらせるようにはされないのです。その主を信仰と忍耐をもって待ち望み続けるとともに、イエス・キリストだけが、いと高き方、すべての者の主であり、救いをもたらすお方であることを、人々に宣べ伝えていきたいと思います。

主の勝利にあずかる者とされますように。

◇聖書箇所: 詩篇 82篇◇(10月29日)

「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。」…詩篇82:8

1節に「神の会衆」(「神の会議」:2017訳)とありますが、偽りの神々が居並ぶ中で、イスラエルの神、唯一まことの神は、正しいさばきを下されるのです。その偽りの神々は、義をもって治めることをせず、不正をもってさばき、悪しき者たちの味方をし、弱い者や貧しい者たちが虐げられて苦しんでいるのを、見過ごしにしているのです。助け出そうとはしないのです。それは、その神々が人の手による偶像であって、何もできない役立たずのものであるということかもしれません(2-4節)。その神々は、まことの神が彼らをさばこうとしていることを知らず、悪とやみに満ちたこの地を我が物顔に歩き回ります(5節)。しかしまことの神は、皮肉に満ちた表現で彼らに告げるのです。おまえたちは神々のはずだ…しかしおまえたちは王の一人のように倒れ、人のようにいのちが取られて息絶えるのだ…と(6節)。そのことを幻として見せられた詩人は、あらためて神に祈り求めました。神よ、立ち上がって地をさばいてください…と。詩人は、神が天と地のすべてを造られた創造主であり、いっさいのことを統べ治めておられる主権者であることを認め、すべての国々とそこに住む民も、ご自身のものとしておられることを告白しているのです。今の世界を見るとき、ともすれば、偽りの神々が、そしてその背後にあるサタンが、この世を牛耳って、弱い者や貧しい者たちが苦しんでいるように思えます。しかし神は、決して彼らを見捨てたり、正しい者たちの訴えを無視したりはされないのです。ご自身が定められた時に、義の御腕を伸ばして、正しいさばきをなされるのです。「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます」。私たちもそのように主に祈り、告白し、忍耐をもって、主のご介入を待ち望みたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 31章23-40節(10月28日)

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。-主の御告げ-わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」…エレミヤ31:33

31章の後半においても、イスラエルとユダの家の回復と祝福が語られていますが、特に31-34節では、「新しい契約」の預言がなされています。主はご自身の民を、奴隷として虐げられていたエジプトの国から連れ出され、その際、モーセを通して契約を結ばれましたが(出24章)、新しい契約はそのようではないとあります(32節)。しかし、その新しい契約も古い契約と同じように、主ご自身が民との間に一方的に結ばれる契約であって、そこには民が守り行うべき律法の授与が伴うのです。イスラエルの民の歴史、それは、主から与えられたその律法、教えに聞き従おうとせず、契約に違反し、神の怒りを引き起こすということの繰り返しであり、そのことのゆえに主は、イスラエルとユダの国を滅ぼされたのです。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、彼らの時代の後に、その新しい契約を結ばれ、律法を文字として書物に書き記した古い契約とは異なり、その律法を民の心に直接書き記し、単なる知識ではなく、人格的な神との深い関係の中で、神の救いの奥義と、偉大な御力を知るようにされたのです。ヘブル人への手紙8章8-12節には、新しい契約についてのこのエレミヤの預言が、そのまま引用されています。その新しい契約は、罪のない尊い血を流され、いけにえとしてご自身を神の前にささげられたキリストによって、すべての民との間に神が結ばれたものとしてもたらされました。そのようにしてキリストは、古い契約よりすぐれた、新しい契約の仲介者となられたのです(ヘブ8:6)。そして私たちも、その契約によって神の民とされ、律法を心に書き記されたのです。日々の歩みにおいて、御霊の啓示によってその奥義を知らされ、主の御力とみわざをさらに体験する者とされたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 31章1-22節◇(10月27日)

「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」…エレミヤ31:3

30章に続き、イスラエルとユダの回復がそれぞれ語られていますが、彼らは「イスラエルのすべての部族の神」(1節)によって、回復の中で一つとされるのです。2節には、捕囚の地からの帰還が示唆されています。その地での歩みは、彼らの先祖のエジプトでの奴隷生活のように、嘆きと悲しみに満ちたものでした。しかし、その「荒野」でも彼らに恵みを与えたれた主は、そこから出て、カナンの地に帰還し、安息を得よと言われるのです。3節のことばが心に留まります。主の、ご自身の民への愛は、永遠の愛であり、人の愛のように一時的、条件つき、見返りを求めるようなものではありません。主は、その愛のゆえに、民に誠実を尽くし続け、今も、御手の中で彼らを守り、支え、養い、導き続けておられるのです。4-6節には、主によってもたらされる回復の喜びが、生き生きと描写されています。また、その回復が確かなものであると強調すべく、「再び」と繰り返されています。「あなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り」と、ここでは北イスラエルの民に語られていますが、その彼らは、「さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう」と言うのです。すなわち、分裂した民は、互いの敵意が取り除かれて再び一致し、エルサレムの神殿において、主を一緒に礼拝するようになるのです。そのように、主がもたらされる回復、建て直しとは、一時的、部分的ではなく、土台からなされる根本的なものなのです。主は、キリストによって贖われた私たちをも、ご自身の民として加えてくださいました。そしてその一人ひとりを永遠の愛をもって愛し、誠実を尽くし続けておられるのです。御手の中で守り、支え、導いてくださっているのです。からだの病や心の傷をいやし、全き回復をもたらしてくださるのです。さまざまな「荒野」にあっても、その主の元で、安息を得る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 30章◇(10月26日)

「見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」…エレミヤ30:3

主はご自身の民に対して、エレミヤを通し、イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、回復を約束されました。その日になると、彼らのくびきは砕かれ、縄目は解かれ、もはや他国の民によって彼らが奴隷とされることはなくなり、主が立てられる王ダビデに仕えるようになるのです。10節には、主が民とその子孫を捕囚の地から救うとありますが、ここで語られている約束は、ダビデの子孫から生まれるメシア、イエス・キリストによって、すべての国民が罪の奴隷から贖われ、解放されるという、主が人類にもたらされる救いをも含めた預言であると、とらえることができます。「…わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」(11節)。イスラエルとユダが、それぞれアッシリヤとバビロンによって滅ぼされるのは、2つの帝国が主の目にふさわしいものであったからではなく、ご自身の民の罪と咎のゆえに、主が彼らを懲らしめ、罰するために、道具として用いられたに過ぎないのです。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブ12:5-6)。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」(黙3:19)。主の懲らしめは、民をいじめるためではなく、滅ぼすためでもなく、愛する子を、ご自身のみこころにかなう者と成長させるための、特別な取扱いです。主の民とされた私たちも、その取扱いを受けますが、主に愛されていることを覚え、感謝をもって受けとめ、主に立ち返る者でありたいと思います。

平安と喜びがいつもありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 29章1-14節◇(10月24日)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」…エレミヤ29:11

エレミヤは、ゼデキヤ王が遣わしたバビロンへの使者に手紙を託しましたが、そこには、異国の地において捕囚となっているご自身の民への、主のことばが書かれていました。捕囚の地にあっても落ち着いて生活し、育てた農作物を食し、結婚して子を生み、自分たちのことだけでなく、置かれたその町全体の繁栄と祝福をとりなす者となるようにと、主は民に命じられたのです(5-7節)。10-14節には、以前にも語られたように(25:11-12)、主がユダの民を立ち返らせるために道具として用いたバビロンから民を解放し、元いた地に帰らせるとの主の約束が書かれていますが、その中の11節はよく知られたみことばであり、しばしば将来への希望を語るメッセージにおいて引用されます。そして、文脈の中であらためてそのことばを受け取るときに教えられるのは、主は、平安を与える計画があるのだから、将来に対して希望を持つようにと、単に励ましを与えているのではないということです。12-13節にあるとおり、主は民に対して、ご自身を呼び求めて祈り、心を尽くしてご自身を捜し求めるようにと、強く促しておられるのです。そしてそうすれば、わたしはあなたがたに耳を傾け、あなたがたはわたしを見つけると約束しておられるのです。民が、平安をもたらす主のご計画の中で、将来と希望を受け取るためには、主のみそばへと近づく必要があるのです。主に立ち返ることが求められるのです。そのように、元の所へ帰るという物理的な帰還のためには、まず霊的な帰還を果たさなければならないのです。主との正しい関係の修復がなされる者たちこそが、主が与えてくださる将来と希望を受け取り、豊かな繁栄と祝福にあずかることができるのです(14節)。私たちも、その主との関係を、ますます強固なものとしたいと思います。

主の約束に希望を置く者とされますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 28章◇(10月23日)

「そしてハナヌヤは、すべての民の前でこう言った。『主はこう仰せられる。「このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。」』そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」…エレミヤ28:11

偽りの預言者ハナヌヤと真の預言者エレミヤの対決が描かれています。ハナヌヤは祭司たちや民の前で、主は、バビロンによって奪われ持ち去られた主の宮の器と、ユダの王エコヌヤと、すべての捕囚の民も、2年のうちにこの所に帰らせると言っておられると告げました(3-4節)。しかしそれは真実ではありませんでした。それに対しエレミヤは、そのとおりになればよいが、自分や以前の預言者たちはわざわいが起こることを語ってきたのであって、平安と回復を預言してもそれが実際に起こるまでは、その者は主が遣わされた真の預言者とは認められないのだ…と反論しました(8-9節)。するとハナヌヤは、エレミヤが首にはめていた、バビロンによるしいたげを象徴するくびきを奪い取り、それを砕き、このように、自分が語った預言のことばは確かに成就するのだと、民に訴えたのです(10-11節)。「そこで、預言者エレミヤは立ち去った」。なぜ「そこで」なのか…と疑問を感じます。立ち去れば民はみな、エレミヤが逃げ去ったと感じ、ハナヌヤこそ真の預言者だと認め、彼のことばを信じようとするでしょう。しかしエレミヤは、ハナヌヤとそれ以上議論しなかったのです。民に向かって、彼のことばを信じてはいけないと、訴えることもしなかったのです。それは、エレミヤが主権者なる神にすべてを委ねたからです。ハナヌヤは間もなく主によっていのちを取られました。私たちも、誤解を受けたり、争いに巻き込まれたりしたときに、身を引き、主に委ねることが大切です。すべてを知っておられ、義をもって治められる主ご自身がそこに介入し、弁護し、真実を明らかにし、解決を与えてくださるからです。その主に絶えず拠り頼み、歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 27章◇(10月22日)

「もし彼らが預言者であり、もし彼らに主のことばがあるのなら、彼らは、主の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主にとりなしの祈りをするはずだ。」…エレミヤ27:18

王や民に偽りを語る偽預言者たち…。そのような者は、ユダだけでなく、伝言を送って主君に言えと、主がエレミヤに命じられた周辺諸国においても存在していました。彼らはみな、耳障りのよいことばだけを語り、バビロンの脅威についても侮り、ユダの偽預言者たちは、「バビロンの王に仕えることはない」、「主の宮の器は…バビロンから持ち帰られる」と言っていたのです(14,16節)。もし彼らが真の預言者であり、すべての国をバビロンの王の手に渡す、と言われた主のことばをきちんと受け取っているならば、真っ先にとりなしの祈りをするはずだと、主はエレミヤを通し、ユダの祭司たちと民に語られました。そしてそれは、そのとき祭司たちもまた、偽預言者たちのことばを信じており、とりなしの祈りという、本来祭司がもっぱら行うべきことを怠っていたということであり、彼らが、主の前に出て主の御声を聴こうとしていなかったということを、示唆しているのです。私たちはキリストに贖われ、神の民とされた者であり、祭司としての働きを担うことが求められています(1ペテ2:9)。また、主イエスは、全世界に出て行き、すべての造られた者に、預けられた神のことば、救いの良き知らせを宣べ伝える伝道者、「預言者」となるようにと、弟子たちに命じられました(マル16:15)。そのことを推し進めるためには、私たちは、まず自分自身が主の御声をはっきりと聴き、具体的にどのようにすればよいのか指示を仰ぐとともに、何よりも、ご自身の大いなるみわざを、この地の上に、人々のうちに現わしてくださる万軍の主に向かって、とりなしの祈りをささげるべきなのです。そして主は、確かに、その祈りに答えてくださるのです。そのとりなしの働きに、ますます熱心な者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 26章◇(10月21日)

「すると、首長たちとすべての民は、祭司や預言者たちに言った。『この人は死刑に当たらない。私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。』」…エレミヤ26:16

エホヤキム王の治世の時代に、主はエレミヤに対し、主の宮の庭に立ち、礼拝のために訪れるユダのすべての民に向かって、わたしが与えることばを一言も省くことなく語れ、と命じられました。そのことばとは、あなたがたはわたしや預言者たちのことばにも聞き従わなかった、だからわたしはこの宮をシロのようにする…というものでした。そのシロとは、サムエルの時代に、幕屋に置かれていた主の契約の箱がペリシテ人により奪われ、破壊された町のことを指しています(1サム4章)。エレミヤが語るそのことばを聞いて、祭司と預言者たちは彼を捕らえ、なぜそんなことを語ったのかと非難し、この者は死刑に当たると首長と民に告げました。するとエレミヤは、彼らに対して悔い改めを促し、そうすれば主はわざわいを思い直されると語り、もし私を殺すなら、咎なき者の血の責任をあなたがたが負うのだ…と迫ったのです。それを聞いた首長たちと民はエレミヤの無罪を認めました。さらに長老たちも、ヒゼキヤ王も主を畏れて主に願ったので、主はわざわいを思い直された…と、過去に起こったことを告げ、エレミヤを弁護したのです。耳に痛いことを告げる預言者を、自分たちの立場を危うくする目の上のたんこぶとして、抹殺しようとする祭司や偽りの預言者たち…。主イエスの時代にも、祭司や律法学者たちは、同じ動機で、この者は死刑に当たると言って民を扇動し、総督ピラトに掛け合い、イエスを十字架につけることを認めさせました。いつの時代でも、人は、神のことばをそのまま受け取らず、割り引いたり、曲げたり、付け足そうとするのです。しかし主がエレミヤに命じたとおり、主のことばは一言も省かずに語られ、聴かれ、受け取られるべきなのです。私たちも、聖書に書かれている神のことばに接するとき、そのような態度でありたいと思います。

主の御声を聴くことができますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 25章15-38節◇(10月20日)

「もし、彼らが、あなたの手からその杯を取って飲もうとしなければ、彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。あなたがたは必ず飲まなければならない。』」…エレミヤ25:28

主はエレミヤに、憤りのぶどう酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にこれを飲ませよ、と命じられました。エレミヤはその命令に従い、エルサレムとユダの町々の王と高官から始め、エジプトの王パロとその家来…と次々に飲ませていき、最後に飲むのはバビロンの王ということになっていました(26節)。その憤りのぶどう酒の杯は、主が彼らの間に送られる剣であり(16,27,29,31,38節)、免れることのできない罰としてもたらされるさばきの象徴です。そして、それによっていのちを取られる者は全地におよび、そのなきがらが地に放置されて朽ちゆく、悲惨な状況となるのです。ではなぜ、そのようなわざわいが起こるのでしょうか…。エレミヤが飲ませよと命じられたのは、「憤り」のぶどう酒の杯です。主が怒りを燃やされたのは(37,38節)、それらの民がイスラエルの神、万軍の主を信じようとせず、そのことばに聞き従わず、ただ自分たちの思いに従って歩んでいたゆえなのです。主イエスは、ゲッセマネにおいて、父なる神に向かってこう祈られました。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」(マタ26:42)。その杯は、神の憤りのぶどう酒の杯であり、神に背を向け、身勝手な歩みをしていた私たちもまた、それを飲まなければなりませんでした。しかしキリストが、すべての人の代りに、その憤りのぶどう酒の杯を飲んでくださり、十字架にかかり、のろわれた者となって、神の怒りを一身に受けてくださったのです。主のその贖いのみわざを覚えるとき、私たちの心は感謝と喜びに満たされます。そして主は、その救いによる罪の赦しを、永遠のいのちの約束を、人々に伝える者として、贖われた私たちを尊く用いてくださるのです。その主の導きに従って行く者でありたいと願います。

主がともにおられます。平安と祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 25章1-14節◇(10月19日)

「70年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、-主の御告げ-またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」…エレミヤ25:12

ユダの民は、長年にわたって、エレミヤや他の預言者たちが語る主のことばに、聞き従おうとはしませんでした。彼らは偽りの神々に従い、仕え、拝み、主の怒りを引き起こしたのです。それゆえ主は、北からバビロンの王と軍勢を呼び寄せ、彼らにユダを責めさせ、聖絶してあざけりとし、廃墟すると告げられました(3-11節)。主はバビロンの王ネブカデレザルを「わたしのしもべ」とさえ呼んでいます(9節)。しかし、そのバビロンは、あくまで主がユダを懲らしめ、ご自身に立ち返らせようとするための「道具」であって、バビロンがユダに代わって主の民とされるわけではもちろんありません。ユダがそのような荒療治を受けるのは70年の間でり、その後バビロンの王とその民はその咎のゆえに罰せられ、その地は永遠に荒れ果てたものとなり、彼らは多くの国々の奴隷とされてしまうのです。主は、すべてのものの上に立つ主権者であられます。アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ローマ…そのようなどんな強大な王や国家であっても、それらはあくまで主の被造物であり、その存在を認められ、主のご計画の実現のために、御手の中で道具として用いられるのです。その主は、聖徒たち一人ひとりに対しても、明確な意図をもって、みこころのうちに、さまざまな「道具」を駆使されます。それによって私たちは、自らの罪を示され、主に立ち返らされ、また、主が導かれようとしているのはこっちだ…と、その道を見いだし、さらには、それによって霊の目が開かれ、真理を見いだすようになるのです。何がその主の道具とされているのか…私たちはそれを知ることはできませんが、主は確かに、一人ひとりのことを顧みておられるのです。そのことを覚え、主権者なる主に全幅の信頼を寄せ、歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 23章25-40節◇(10月17日)

「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。-主の御告げ-」…エレミヤ23:28

「私は夢を見た。夢を見た」…と、偽りを語る預言者たちは、自分たちが見た単なる夢を、あたかも主からの幻を見たかのように、主の名によって、主からのことばとして語り、民を欺き、惑わしていました。しかし預言者とは、主のことばを聴き、それを預かり、そのことばを忠実に、曲げずにまっすぐに語り告げる者であって、そうではなく、そのように見せかけて自分たちのことばを語る偽預言者たちは、民にとって何の役にも立たないどころが有害な者であり、主のことばを盗んでいるゆえに主が彼らの敵となられるのです(30-32節)。33節以降には、「宣告」ということばが繰り返されています。偽預言者たちは、これが「主の宣告」だと言って偽りのことばを民に告げ、人々に恐れを抱かせ、重荷を負わせていたのです(36節)。あるいは彼らは、そのように民を脅すようにして何かを要求し、自分たちの利得としていたのかもしれません。そのような彼らに対して主は、あなたがたや先祖たちに与えたこの町をわたしの前から捨て、永遠のそしりと侮辱を与えると、正真正銘の「主の宣告」を下されました。「主の宣告」…それは、必ずしも「のろい」を意味していません。主の宣告とは、主が人に対して宣べ告げられる真実なことばであって、それには恵みとあわれみのことば、救いの良き知らせが含まれており、それは私たちに与えられている聖書の中に、神の約束として示されているのです。そして、人がそれをすべて神のことばとして受け取り、信じて従うなら、主はその者をご自身の民、信仰によるアブラハムの子孫として加え、契約の祝福に預からせてくださるのです。偽預言者はいつの時代にも存在します。その声に惑わされないよう、私たちは、しっかりと主の御声を聴き分け、また「預言者」として、救いのことばを告げ知らせる者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 23章1-24節◇(10月16日)

「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。-主の御告げ-天にも地にも、わたしは満ちているではないか。-主の御告げ-」…エレミヤ23:24

「わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち…」(1節)。「牧場の群れ」とは、神が所有されるご自身の民、「滅ぼし散らす牧者たち」とは、22章で語られている、不正と暴虐に満ちたユダの王たちのことです。主は、それらの悪い牧者たちを罰し、民を追い散らされた国々からご自身が与えた地に帰らせ、良いまことの牧者を立てて、彼らを牧させると言われました(2-4節)。その牧者とは、ダビデの子孫から出る正しい若枝であり、王として国を治め、公義と正義を行い、虐げられている民を救い出すメシアであり、主は、エレミヤを通して、イエス・キリストの来臨を予告されたのです(5-6節)。9節以降では、偽りの預言者について語られています。彼らは、主を侮る者たちに、あなたがたには平安がある、わざわいが来ない…とでまかせを語り、バアルによって預言して民を惑わせ、姦通の行為をするなど、彼らのうちには淫らでおぞましいものがあったのです(13-14節)。「わたしは近くにいれば、神なのか」(23節)。すぐ近くにあって、見ることができ、触れるようなものは神ではありません。見ることができず、遠くにいるように思えても、いと高きところにおられ、地をあまねく見渡し、隠されているものをすべて見通しておられる全能なるお方こそ、まことの神なのです。「天にも地にも、わたしは満ちているではないか」。この世界を創造された主は、今もすべての領域をその御手のうちに治め、主権をもって支配しておられます。その主は私たちを愛し、一人ひとりの人生に介入し、どんなときにもともにおられ、その歩みを導いて確かなものとしてくださるのです。まことの牧者なるその主に信頼し、聞き従う者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 22章13-30節◇(10月15日)

「…あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福だった。」…エレミヤ22:15

13-19節は、ユダの王エホヤキムについてのことばです。ヨシアの子エルヤキムは、エジプト王パロ・ネコによって王とされ、エホヤキムと改名させられ、ユダはエジプトの属国としてパロの支配下に置かれました。するとエホヤキムはパロへの金銀の科料を贈るために、国民に重税を課し、金銀を人々から取り立てました(2列23:34-35)。ところが、そのような国家の危機において、エホヤキムは、広くて豪華な王宮を建て、自己の欲求を満たそうとし、そのために労働者を無報酬で働かせたのです(13-14節)。エレミヤは、そんな彼とは対照的に、ヨシヤ王は公義と正義を行い、虐げられた者、貧しい者の訴えをさばき、幸いな者とされていた、それが「主を知ること」、すなわち、主がどのようなお方なのか、何が主のみこころなのか、幸いな歩みとはどのようなあり方なのかを、体験を通して学ぶことなのだと語ったのです。一方、富と名誉だけを求め、目的達成のために圧政によって支配し、国民が苦しんでも意に介さないエホヤキムは、死んでも誰からも悲しまれず、悼まれず、そのからだはエルサレムの門の外へ投げ捨てられ、無造作に埋められという、悲惨な最期を迎えるのです(18-19節)。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(1ヨハ2:16)。私たちはエホヤキムのような、貪りに満ちた生き方をしようとは思わないでしょう。しかし何かのものにこだわり、それを手に入れることで満足し、人に自慢したくなるような思いになるとすれば、それは彼のあり方と本質的には変わらないのです。公義と正義を行い、弱く貧しい者たちに寄り添ったヨシヤ王のあり方を心に留め、日常の歩みにおいて、「主を知ることを切に追い求め」(ホセ6:3)る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 22章1-12節◇(10月14日)

「主はこう仰せられる。公義と正義を行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。」…エレミヤ22:3

22章には、ユダの王であったエホアハズ(シャルム)、エホヤキム、エホヤキンについて、主がエレミヤを通して語られたことばが書かれています。しかしそれは、王だけではなく、家来や民も守り行うべき教えであって、そうしなければ、王宮や町々は廃墟となるのです(2-9節)。まず主が語られたこと、それは、公義と正義を行うこと、かすめ取られている者を虐げる者の手から救いだすこと、在留異国人、みなしご、やもめといった弱い者たちを苦しめないこと、罪のない者の血を流さないということです。そのような弱者を悩ませてはならないという戒めは、モーセの時代にすでに与えられていましたが、彼らへのいじめ、嫌がらせ、搾取のような不当な扱いはいつの時代にもあり、神はそのことで心を痛めておられたのです。「もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す…」(出22:23-24)。主は弱い者たちを心に留め、彼らに目を注ぎ、その叫びを聞いておられます。そして、彼らを悩ます者のいのちを、わたしは剣をもって取り去るとさえ、主は言われたのです。「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」。主イエスも律法を引用して(レビ19:18)そう言われ、「良きサマリヤ人のたとえ」を話されました(ルカ10:30-35)。自分のことだけで精一杯…つい私たちはそのような思いになってしまいますが、主は、弱い者たちを悩ませず、隣人に無関心にならず、むしろ積極的にかかわり、愛とあわれみを表すよう、私たちに求めておられるのです。主が出会わせてくださる一人ひとりを大切にし、行いと真実をもって愛する者でありたいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 21章◇(10月13日)

「わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。」…エレミヤ21:5-6

エレサレムは、バビロンの王ネブカデレザルの軍隊に包囲されました。すると、ユダの最後の王ゼデキヤはエレミヤのもとに使者を遣わし、主がかつてヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤの攻撃から奇蹟的に救い出してくださったように、今またバビロンへの勝利をもたらしてくださるだろうとの期待をもって、自分たちがどうなるのかを主に尋ねてほしいと、エレミヤに頼んだのです(2節)。ところが主のことばは、ゼデキヤのその期待を打ち砕く厳しいものでした。あなたがたは今、バビロンの軍隊と戦っているが、わたし自身が激しい怒りをもってあなたがたと戦い、壊滅的な被害をもたらし、生き残った者たちも敵の手に渡すと、主は告げられたのです(4-7節)。ゼデキヤ王のことば、また、「だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいに入れよう」との民のことば(13節)…。そこに見られるのは、現状を正しく認識することのできない愚かさ、霊的盲目であり、自分たちはきっと助かるだろうと考える楽観主義であり、自分たちのあり方を悔い改めようとしない罪深さ、傲慢さです。この期に及んでそのようなことばを発する王や民には滑稽ささえ感じますが、主は、かつてエジプトから民を脱出させたご自身の伸ばした手と強い腕によって、おおいなる激怒をもって(2017訳)、バビロンというさばきの道具を用いて、そのような彼らを罰せられるのです。ゼデキヤ王やユダの民の愚かさ、楽観主義、傲慢さ…。それは決して人ごとではありません。現状を正しく認識し、自らを吟味し、主に喜ばれないことを悔い改める…。私たちはそのように、主を畏れ、へりくだる者となるべきなのです。楽観的にならず、悲観的にもならず、主のみことばを尋ね求め、真理の光に照らされ、ひたすら主のみこころのうちを歩む者でありたいと思います。

主の平安と祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 20章◇(10月12日)

「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」…エレミヤ20:18

エレミヤは、パシュフルという祭司によって捕らえられ、足かせにつながれましたが、翌日解かれたときエレミヤは彼に、あなたとあなたの家族も含め、ユダの民はみなバビロンの王の手に渡され、バビロンへ引いて行かれ、剣で打ち殺されるとの主のことばを告げました。7-18節はエレミヤのことばです。私はあなたに惑わされた(7節)、主のことばが人々の笑いぐさとなる(8節)…と言って主を非難する一方、主が私とともにあるので、迫害者たちは勝つことはできず恥をかく(11節)、主が貧しい者のいのちを悪者から救い出された(13節)…と言って、主をあがめているのです。そして14節以降ではまた、私の生まれた日はのろわれよ(14節)、私の一生は恥のうちに終わるのか(18節)…と、彼はさらに激しいことばをもって、生を受けた自らの存在さえも否定しているのです。ではなぜ、そのように、エレミヤのことばに嘆きと賛美が同居しているのでしょうか…。それは彼が、主のことばを民に取り継ぐ預言者であると同時に、祭司であることを忘れず、ユダの民と同じところに立ち、恐れと痛みと悲しみを共に負い、民の声を代弁して思いを主にぶつけつつ、とりなし続けていたからに違いありません。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)。キリストの十字架上でのその叫びは、私たちの心の叫びです。そのようにキリストは、預言者として神の使信を告げ知らせるだけでなく、私たちのすべての痛みと苦しみを実際にその身に負われ、「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と神にとりなし、贖いを成し遂げてくださったお方なのです。油注がれたキリストは、王として、預言者として、祭司として、確かに今も生きておられます。そして、私たちの痛みと苦しみを負い、とりなし続けておられるのです。私たちもまた、その主に感謝と賛美をささげつつ、従い続けていく者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 18章◇(10月10日)

「『イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。-主の御告げ-見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。』」…エレミヤ18:6

主から指示を受けたエレミヤが陶器師の家に行くと、ちょうど陶器師がろくろで仕事をし、粘土で制作中の器を自分で壊し、より気に入ったものに造り替えているところでした。すると主はエレミヤに、粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家もわたしの手の中にあると言われたのです。それは、主が陶器師としてご自身の民を器として造られても、エレミヤが見たように、気に入らないものであるなら、自ら壊し、造り替えるようにするということです。そのことを具体的に示すために主は、建て直そうとした国がわたしに背くなら、与えると言った幸せを思い直すと告げ、また逆に、わざわいを予告した民が悔い改めるなら、わたしは、わざわいを下すことを思い直す、つまり、壊そうとした器をそのまま残すようにすると、エレミヤに告げたのです。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(エペ2:10)。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(2コリ4:7)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちも、陶器師である主の御手の中で形造られた土の器であるのです。そして主は、ご自身の気に入ったものとするために、何度でも壊し、その作品を造り変えるのです。その土の器は神によって息を吹き込まれ、いのちあるものであるゆえに、そのように主の御手によって取り扱われ、形を変えられるときに痛みが生じます。しかしそれは、主の御目にかなう作品とされるため、主に喜ばれ、主に用いられる器とされる過程に伴う痛みなのです。そのように、私たちが陶器師である主の御手の中にあることを覚え、すべてを主に明け渡したいと思います。

主のみこころだけがなりますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 17章◇(10月9日)

「また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。」…エレミヤ17:22(新改訳2017)

主はエレミヤに、人間に信頼する者が受けるのろいと、主に信頼する者に与えられる祝福を、対比して語られました(5-8節)。前者は、焼けついた荒野、住む者のない塩地に追いやられ、後者は、水のほとりの木のように、葉が茂り、日照りでも実を結ぶ者とされるのです。また主はエレミヤに、民に語るべきことばとして、安息日に荷物を運ぶな、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな、荷物を家から出すな…と言われました。「安息日を覚えて聖なるものとせよ」という規定は、モーセが主から受けた十戒の中にありますが(出20:8)、民はその教えに聞き従っていなかったのです。主は、もし安息日を聖なるものとするなら、エレサレムの町はとこしえに人の住む所となり、そうしないなら、エレサレムの門につけられた火は宮殿をなめ尽くし、消えることはないと、そこでも、祝福とわざわいを語られました(21-27節)。「安息日を覚えて聖なるものとせよ」…。それは単に、労働をせずに動かないでいるということではありません。イスラエルには、ボタンを押すという「労働」をしないための、各階に止る「安息日用エレベータ」がありますが、主はそのような形式的なことを求めているわけではないのです。安息日を聖なるものとする…。それは、主が創造のわざを完成されたことを覚え、人間のわざを行うことを止め、すべてを統べ治めておられる主にだけ拠り頼み、その教えに聞き従う決意を新たにするということです。また、安息日とは、人間に信頼していた歩みを悔い改め、心の中の祭壇を築き直すときであり、主に信頼する者に与えられる祝福を、先取り感謝して受け取るときなのです。キリスト者にとっての安息日は日曜日ですが、私たちは日々そのようにして歩むのです。主が求めておられる真の礼拝者(ヨハ4:23)とされたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 16章◇(10月8日)

「ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」…エレミヤ16:15

主からエレミヤに、この所で妻をめとるな、息子や娘も持つなとのことばがありました。それは、主が下されるわざわいによって、彼らが病死し、あるいは剣と飢饉で滅ぼされ、葬られることなく鳥や獣のえじきとされるという、悲惨な状況となるからです(2-4節)。また主は、そのことばを民に告げるとき、なぜそのようなわざわいが起こるのか、自分たちの罪は何かと尋ねられるなら、あなたがたの先祖が主を捨て、ほかの神々を拝み、それに仕えたからであり、さらにあなたがたも悪事を働き、主に聞き従わないからだ、主はあなたがたをこの国から投げ出すと言われたと告げよと、エレミヤに命じられました(10-13節)。しかしその主は、「わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる」とも言われたのです。エレミヤは驚きをもってそのことばを受けとめたことでしょう。主は、民を完全に断ち滅ぼそうとはされませんでした。わざわいは彼らへの懲らしめのためであったのです。それは、主が真実なお方であり、人の考えをはるかに越えた深い愛とあわれみを持ち、アブラハムとの間に結ばれたご自身の契約を、忠実に実行されるからなのです。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブ12:11)。新改訳2017では「すべての訓練は」、「鍛えられた人々に」と訳されています。アスリートたちは厳しいトレーニングを重ね、勝利を目指しますが、私たちは主からの訓練をしっかりと受け、神の聖さにあずかる者とされ、御国の拡大のために用いられ、すべての民が主の御名をあがめるようになることを願うのです。神からの栄冠を得るという目標を目指しているのです。忍耐と希望をもって前進し続けたいと思います。

主の支えと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 15章◇(10月7日)

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」…エレミヤ15:16

主はエレミヤに、この民を顧みない、彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよと告げ(1節)、さらに、エルサレムよ、おまえはわたしに背を向けた、わたしはおまえを滅ぼすと、都の滅亡を告げられました(6節)。それは民が主のことばに聞き従おうとせず、主が忌み嫌われる行いを悔い改めようとしなかったからです(7節)。一方、10節にはエレミヤの嘆きのことばがありますが、それは、預言者として神のさばきを告げ知らせ、神に立ち返るようにと人々に語ったのに対し、余計なお世話だとみなが自分を疎んじ、排除しようとして罵り、存在を呪うような態度を示すようになっていたからです。そのような試練の中、エレミヤにとっての心の支えは、主はすべてを知っておられるという確信でした(15節)。そして彼は、その主のみことばを受け取って食べ、咀嚼して深く味わうとき、みことばは自分にとって楽しみとなり、心の喜びとなったと告白したのです(16節)。神は自分をどう見ておられるのか…どのように歩むよう求めておられるのか…。みことばによってそれを自分のものとしてしっかりと受けとめたとき、それは戦いの中にあったエレミヤに慰めと励ましを与え、希望をもって生きる力、いのちをもたらす糧となったのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している…」(イザ43:4)。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」(イザ30:21)。主のみ思い、主のみこころを知り、それに聞き従って歩む者こそ、どんな状況でも揺るがされることなく、心に平安と喜びと希望が満ちるのです。私たちもまた、みことばを日々食し、それを自分のものとしてしっかり受けとめたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 14章◇(10月6日)

「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」…エレミヤ14:21

主はエレミヤに、ユダに起ころうとしている干ばつについて語られました。それは、水汲みの者が水溜めに水を見つけることができず、雌鹿も若草がないために産んだ子を捨てるような、深刻なものであったのです(3-6節)。主はまた、民のために幸いを祈るな、彼らが断食してもわたしは叫びを聞かない、いけにえやささげ物を受け入れない、剣とききんと疫病で彼らを断ち滅ぼすと言われ、そのようなことは起こらないと言っている偽りの預言者たち、そのことばを鵜呑みにしている民にも、それらのわざわいを下すと、エレミヤに告げたのです(11-16節)。しかしエレミヤは引き下がりませんでした。なお食い下がるようにして、単に民の幸福を求めるのではなく、民が真に罪を悔い改めるように、神の御名と栄光が辱められることなく、神が民と結ばれた契約が履行されるようにと願い求め、乾ききった地に大雨を降らせることができるのは、あなただけです、あなたがそれをなさるのですと、主権者なる神をほめたたえたのです(19-22節)。現代にも、偽りの「預言者」は存在しています。この世界のさまざまな問題も、人間の英知と努力によって必ず解決できる、未来は希望に満ちている…と訴える者たちです。しかし聖書は、やがて終わりの日が来て、すべての者が神のさばきを受けなければならないこと、そのために神が、御子イエスを救い主として世に遣わし、イエスが十字架にかかりよみがえられたこと、そして、そのことを信じて救いを受け、永遠のいのちを得るようにと、すべての人を招いているのです。私たちも、祭司また預言者として、その良き知らせを世に告げ知らせ、人々が救われるようにと、干からびたこの地に恵みの雨を注いでくださいと、主の前にとりなすべきなのです。あきらめることなく、主を待ち望み続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 13章◇(10月5日)

「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。-主の御告げ-それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。」…エレミヤ13:11

主はエレミヤに対し、亜麻布の帯をめぐるいくつかの命令を与えられました。それは、その帯を買い、腰に締め、ユーフラテス川の岩の割れ目に隠し、また行ってそれを取り出せという奇妙なものでした。ユダの地からユーフラテス川までは長い道のりですが、エレミヤは言われたとおりに2往復しました。しかし彼が行って隠した帯を取り出してみると、すでにそれは腐っていたのです(7節)。すると主はエレミヤに、そのように、わたしの民の大きな誇りを腐らせる(ぼろぼろにする:2017訳)…彼らを帯として自分に結びつけたが、私に聞き従わず、偽りの神々を拝む者となったので、わたしは彼らをその帯のように何の役にも立たなくする…と言われたのです(9-11節)。そのとき主は、帯を自分に結びつけたのは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだった…とも言われましたが、それは驚くべきことばです。なぜなら、栄誉とは本来神が受けるべきものであって、民が栄誉とされるということは、民への主の好意が半端でなく、民が主にとっての大きな誇り、喜びとなるということを意味するからです。しかし民は結局、その主を裏切って、憤りを引き起こしてしまったのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ3:23-24)。私たちもまた、神からの栄誉を受けることなどできない罪人でしたが、キリストに贖われ、義と認められ、神の大きな好意にあずかる者とされました。それは、腐って役に立たない帯が、主の腰に結びつけられたという、エレミヤのときとは逆の、神の恵みによる救いのみわざなのです。その主にしっかりと結ばれ、とどまり続ける(ヨハ15:4-6)者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 11章◇(10月3日)

「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、おのおの悪いかたくなな心のままに歩んだ。それで、わたしはこの契約のことばをみな、彼らに実現させた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」…エレミヤ11:8

主は、この契約のことばを聞け、これをユダの人々に語れとエレミヤに命じられましたが(2節)、その契約とは、モーセの時代に、主がご自身の民をエジプトの地から連れ出されたときに結ばれたものであり、4-5節にあるとおり、主の声に聞き従い、命じられたことを行うならば、人々は神の民とされ、祝福にあずかるというものでした。一方でその契約には、人々が主に聞き従わず、命令を守り行わないならば、神からのろいを受け、さまざまなわざわいが下されるという、警告も含まれていました。そこには偶像を拝むことの禁止規定ももちろんありました。(レビ26章)。つまり主が民と結ばれたその契約とは、単なる祝福の約束ではなく、神のさばきという負の面を伴った、表裏一体のものであるのです。主は、はっきりと民に示したその契約を、今日まで「わたしの声を聞け」と言ってしきりに戒めてきた…と言われましたが(7節)、民は、モーセの時代からエレミヤの時代まで、実に700年近くにわたって繰り返し警告を受け続けて来たのです。しかし頑なな心を持ち、どうせ本当にそうはならない…と楽観的な思いを持っていた民は、契約違反の行為を行い続け、神を悲しませ続け、ついに神を怒らせ、さばきとわざわいを受けることになるのです。そのような民のことを主はなおも、「わたしの愛する者…」と呼ばれました。その主の愛は人知をはるかに越えた深いものであって、それは、神の御子の十字架の贖いを通し、すべての人に注がれました。そしてその救いは、キリストの血による新しい契約であり、異邦人である私たちは、血筋によらず、キリストへの信仰によって神の民とされたのです。祝福とのろいの契約…その霊的な原則は今でも変わりません。主の民としての自覚を持ち、主に聞き従う者でありたいと思います。

主の期待に応える者とされますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 10章◇(10月2日)

「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」…エレミヤ10:23

主は、エレミヤを通してご自身の民に、異邦人をまねて偶像の神に頼るな、心寄せるな、それはかかしのようであって、ものも言えず、歩けず、いちいち運んでやらなければならないものなのだ、と言われました(2-5節)。するとエレミヤは主に応答し、あなたは大いなる方、あなたと並ぶものはない…偶像は職人の手によるもの…ししかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王…主は御力をもって地を造り、英知をもって天を張られた…その御名は万軍の主である…と、この世界の創造者なる主を覚え、その御名をほめたたえたのです(6-16節)。さらにエレミヤは次のように主に語りました(23節)。いったい誰が人の歩みを確かなものにするのか…。人の歩みを確かにするのは、その人自身ではなく、人の手で造られた偶像でもなく、異邦人が拠り頼む偽りの神々でもない。それは、唯一まことの生ける神、天と地を造られ、今も主権をもってすべてを統べ治めておられる主よ、あなた以外にはありません…。彼はそう告白したのです。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴16:9)。「確かなものにする」とは、「揺るがないものにする」ということと同時に、「意味あるものとする」ということです。人は、人生の歩み、日々の営みに意味を見いだせなければ、心に空しさを覚えます。囚人に穴を掘らせ、埋めて元に戻させ、それを延々と繰り返させる拷問を与えると、誰もが精神を病むそうですが、人の歩みを確かにし、意味あるものにする主にあってこそ、私たちの心に、感謝と喜びと希望がもたらされるのです。また、受けた痛みや悲しみも、その主にあって益とされ、私たちを成熟した者へと成長させるために、意味あるものとして用いられるのです。そのことを覚え、どんなときにも主に拠り頼み、人生の歩みを確かなものにされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 9章◇(10月1日)

「主はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。』」…エレミヤ9:23

13-16節には、ユダの民がどのようにして主を憤らせることになったのか、あらためてエレミヤに語られた主のことばが書かれています。それは、彼らが主の律法を捨て、主の御声に聞き従わず、偶像であるバアルの神々に従って歩んだからであり、そのゆえに主は彼らを、先祖も知らなかった国々に散らし、断ち滅ぼすと言われたのです。主はさらにエレミヤに語られましたが、23,24節のことばが心に留まります。自分の知恵を、強さを、富を誇るな、悟りを得てわたしを知っていることをただ誇れ、と主は言われたのです。それはもちろん、単に知識として神を知っているということではなく、その主がどれほど偉大なお方であり、愛と恵みとあわれみに満ちたお方であり、ご自身に拠り頼む者を御手の中で守り導いてくださるということを、霊によって悟っているということです。その主を誇り、主に信頼する者こそ、たとえどんな状況に置かれたとしても、揺るがされることがない、確かな歩みをすることができるのです。さらに主は、わたしは地に恵みと公義と正義を行う者であり、これらのことを喜ぶと言われました。真実を退け、偽りと欺きを重ねていた民は、主を知ろうともしない愚かな者たちであり(3,6節)、そのような彼らは、自らの知恵や力や富を誇り、それらに信頼し、敵に敗北することなどあり得ないと高ぶり、何よりもそのような傲慢なあり方、心が主の怒りを引き起こし、主が遣わすバビロンによって滅ぼされてしまうのです。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう(詩20:7、「誇ろう」は2017訳では「呼び求める」、別訳では「に拠り頼む」(脚注参照))。私たちも、自らの知恵や力や富、また人間的なものを誇ってそれらに頼るのではなく、どんな時にも、ひたすら主を誇り、主に拠り頼む者でありたいと思います。

折りにかなう主の助けがありますように。