◇聖書箇所: 詩篇 87篇◇(11月30日)

「踊りながら歌う者は、『私の泉はことごとく、あなたにある』と言おう。」 …詩篇87:7

聖なる山、シオン、神の都…それらはすべて、エルサレムを意味しています。そのエルサレムは、神の救いの働きにおいて中心的な役割を果たす、神が選ばれた特別な都なのです。「ここで(この都で:2017訳)生まれた」という表現が3度繰り返されています(4,5,6節)。それは、神の民はみな、神の都エルサレムで生まれた住民として登録され(6節)、「いのちの書」に名が書き記されるということです(イザ4:3)。そしてその者たちだけが、終わりの日に、「新しいエルサレム」に入ることができるのです(黙21:27)。その神の民とは、ユダヤ人の血筋の者たちだけではありません。4節には、ラハブ(=エジプト、イザ30:7参照)、バビロン、ペリシテとツロ、クシュ(エチオピア)といった他国の民も、エルサレムで生まれた者、すなわち神の民とされると書かれています。しかもそれらは、イスラエルに敵対していた国々なのです。ここに、異邦人もまた、メシアへの信仰によって救われ、霊的なアブラハムの子孫とされ、神の家族に加えられ、ユダヤの民とともに神の祝福を受けるということが暗示されています。イザヤも「すべての国々がそこ(シオンの山)に流れて来る」と預言しています(イザ2:2)。その異邦人の救いは、キリストの贖いによってもたらされました(使徒15:9)。神の民とされた者たちはみな、踊り歌いながら、「私の泉(源:新共同訳)はことごとく、あなたにある」と、キリストに賛美をささげて告白するのです。その泉とは喜びの泉であり、希望の泉であり、いのちの泉です。主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われたのです(ヨハ7:37-38)。神の民とされたことを感謝し、喜びつつ、さらに多くの人々がそこに加えられるよう、とりなしていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 86篇◇(11月28日)

「主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。」 …詩篇86:3

この詩篇は、聖書の他の書に書かれていることばが多く引用されている「祈り」となっています。ある人はこの詩篇を、「寄せ木細工的詩篇」と評していますが、たとえ見かけがそのようなものであっても、詩人は確かに、心を注ぎだして主を求め、祈っているのです。全体を俯瞰して気づくのは、詩人のことばが3つに分けられるということです。1つ目は「~してください」という「懇願」です。2つ目は「あなたは~です/おられます」という「賛美」です。そして3つ目は「私は~します」という詩人の「決断」、主への「告白」です。「私はあなたに信頼します」(2節、2017訳)、「私は苦難の日にあなたを呼び求めます」(7節)。「私はあなたの真理のうちを歩みます」(11節)。「私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでもあなたの御名をあがめます」(12節、2017訳)。そのように詩人は決断し、実際に口に出し、主はそのことばを聞かれたのです。私たちの祈りが「~してください」ばかりになっていないか、「私は~します」という決断が伴っているか、そしてそれを実際に口に出し、主に対して告白しているか…。この詩篇を通してそのことを教えられます。私たちの信仰の決断…それはきっと揺らぐでしょう。一時的にそこからはずれてしまうこともあるでしょう。しかし、主の前に告白したそのところに戻ること、そこに留まり続けようとすることが大切なのです。詩人は、そのことを自覚していたに違いありません。だからこそ、自らの弱さと、主のあわれみの深さを覚え、私をあわれんでください、私のたましいを守ってください、あなたのしもべを救ってくださいと、主を呼び求めたのです。懇願だけの祈りではなく、主への賛美、信仰の告白を伴う祈りを、主にささげたいと思います。

祈りに主が答えてくださいますように。 

◇聖書箇所: 詩篇 85篇◇(11月27日)

「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。」…詩篇85:10-11

「ヤコブの繁栄を元どおりにされました」(1節)。新改訳2017では、「ヤコブを元どおりにされます」と、1-3節をすべて、これから起こることとして訳しています。この部分が、バビロン捕囚からの帰還という過去の出来事を意味するのか、あるいは預言的なことばとしての詩人の信仰告白であるのかは、明らかにはなっていません。いずれにしても詩人は、4-7節のことばのとおり、彼の時代に民が直面していた試練が、神の御怒りによるものだと理解し、嘆き、その御怒りを静めてほしい、恵みによって救いを与えてほしいと、懇願しているのです。8-13節では詩人は、再び預言者のように、神が民をどう扱われるのかを宣言しています。恵み、まこと、義、平和…と、擬人法によってそれを表現しています。「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています」(10節)。「互いに」とあることから、恵み、義は神を示し、平和とまことは主の民を暗示していると解釈できます。「神の仰せを聞きたい」と願う聖徒たちに主は平和を告げ(8節)、そのように真理を追い求め、真実に歩むことを願う者たちを、主は確かに顧みてくださるのです。親密な関係としてくださるのです。「まことは地から生えいで、義は天から見おろしています」(11節)。歴代誌第二16章9節にも、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」とあります。詩人は、怒りを静めるよう神に願う中で、何よりも自分たちが神の教えに聞き従い、主のみこころにかなう者となることの大切さをあらためて悟ったのです。そのように主を畏れる者に、主は救いを与えてくださるのです(9節)。その歩みを良いもので満たしてくださるのです(12節)。聖徒とされた私たちも、ますます主を慕い求め、主に聞き従って歩みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 51章20-44節◇(11月26日)

「それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する。わたしはその海を干上がらせ、その泉をからす。』」…エレミヤ51:36

20-23節には、「あなたを使って…砕き」ということばが繰り返されています。主はそのように、バビロンを国々を砕くための道具として用いられますが、主は、彼らがシオンにおいて行った悪のゆえに、ご自身の民の目の前で、彼らに報復されるのです。28節の「メディヤ」は、後にペルシャに併合された強大な国であり、主はバビロンを滅ぼすために、今度はそのメディヤや、27節にある諸国を道具として使われるのでです。バビロンの地を、住む者が誰もいない、荒れ果てた地とされるのです。また、バビロンの戦士たちは、そのような状況に追い込まれ、戦う気力をすっかり失い、ただ砦の中に座り込み、おろおろとおじ惑うのです。主はご自身の民に対して、わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復すると言われました。そのように主は、御名を呼び求めて訴える者たちの声に確かに耳を傾け、力強い御腕を動かし、彼らを敵の手から守ってくださるお方です。詩人が、「私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行われることを」(詩140:12)と告白しているとおりなのです。また主は、敵による根拠のない偽りの訴えを退け、聖徒たちを弁護してくださるお方でもあります。パウロは、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」(ロマ8:33)と語っています。その主は、私たちの訴えに耳を傾け、それを取り上げ、私たちを虐げる者を速やかに罰してくださいます。また、神に選ばれ救われた私たちを、責め立てる者がいても、私たちが、神に愛され、キリストにあって罪赦され、義なる者であると、弁護してくださるのです。窮地に陥るとき、人間的に対処するのではなく、私たちの訴えを聞いて正しく弁護してくださる主を、呼び求めたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 51章1-19節(11月25日)

「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」…エレミヤ51:5(新改訳2017)

主は、ご自身の教えに従わず、みこころに逆らい、離れてしまったイスラエルとユダの民を見捨てることなく、バビロンの手から救い出し、回復を与えると約束されました。それは彼らが、そのような取扱いを受けるのにふさわしい者たちであったからではなく、ひとえに、主の深いあわれみによることであったのです。10節は、そのようにしてバビロンから解放される、主の者たちのことばです。彼らは、「主は、私たちの正義の主張を(「私たちの義を」:2017訳)明らかにされた…」と告白するのです。しかしそれは、彼らが正しい者であることが認められたということではなく、あくまでも主の恵みにより、アブラハムの子孫であるイスラエル民族が、ご自身がアブラハムと結ばれた契約のゆえに、そのように取り扱われるということであって(19節)、ここにも、主の側からの一方的な罪の赦しに基づく、救いと回復が示されているのです。ご自身の民に対する、主の一方的な恵みとあわれみ…義と認めてくださること…。それは決して、自動的、機械的にもたらされるものではありません。アブラハムは、満天の星を見上げるように主から命じられ、あなたの子孫はこのようになると告げられ、子がいなかった高齢の彼はその主を信じたのです。そして主は、その信仰のゆえに、アブラハムを義と認められたのです(創15:5-6)。そのように、神によって義とされるということは、契約と信仰に結びついたことであり、私たちも、キリストの十字架と復活を信じたゆえに、主の血潮による新しい契約に基づき、罪赦されて、義と認められたのです(ロマ3:24)。それはただ、神の恵みとあわれみによることなのです。その主は、神の民とされた私たちとともにおられます。私たちは見捨てられることなどないのです。そのことを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 50章21-46節(11月24日)

「剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らはおののく。」…エレミヤ50:36

50章の後半です。引き続き、バビロンに対して主がなされるさばき、起こされるわざわいが語られています。「万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか…」(23節)とありますが、諸国を圧倒的な勢力をもって征服した大国が、無残にも滅亡していくのに接し、人々はそのように思ったことでしょう。しかし、主が退けられるなら、たとえどんなに強大な国であっても、その存在は、この地上から容易に消し去られてしまうのです。彼らは、イスラエルの聖なる方、主に向かって高ぶっていました(29節)。自らの知恵や力を誇り(35節)、偶像の神に心を寄せていた(38節)のです。しかしそのような彼らの町は火で焼き尽くされ(32節)、代々にわたって住む人が起こらない、悲惨な状況となるのです(39-40節)。35-37節には、「剣が…剣が…」と繰り返されています。それは、主がバビロンを滅ぼすために送られる、諸国の軍勢の兵士たちが持つ、文字通りの「剣」、戦いの武具を意味しています。一方、聖書の中では、この「剣」ということばが、さまざまな霊的な意味としても用いられているのです。その代表的なものが「神のことば」です。ヘブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く…」とあり、パウロも、「…御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」と言っています(エペ6:17)。その「剣」、神のことばによって、聖徒である私たちもまた、自らのうちにある高慢を示され、取り除くように主から迫られることがあります。また、神以外の「偶像」に拠り頼むそのあり方を、しばしば戒められるのです。それは、私たちを滅ぼし、消し去るためではありませんが、そのことを真摯に受けとめ、ただちに悔い改め、主に立ち返る者となるよう、主は願っておられるのです。バビロンを反面教師として、ますます主の前にへりくだり、主だけに拠り頼む者でありたいと思います。

主の導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 50章1-20節◇(11月23日)

「その日、その時、-主の御告げ-イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」…エレミヤ50:20

諸国の民への預言の最後に、バビロンについてのことばが語られています。彼らはユダに対して決定的な打撃を与えましたが、主は、「70年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、…またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする」と、すでに告げられていたのです(25:12)。主は、ユダの民を懲らしめ、ご自分に立ち返らせるための道具としてバビロンを用いられましたが、バビロン自身の罪、すなわち、高慢や偶像礼拝などのゆえに、彼らもまた罰せられ、滅ぼされるのです(18節)。そして、神の民は、囚われから解放されることとなるのです(19節)。神の民の悔い改めは、4-5節に書かれています。彼らは主を尋ね求め、自国への道に顔を向け、主が自分たちの祖先と結ばれた契約を思い起こし、主に連なること、すなわち、主に立ち返り、主に聞き従う者となることを、あらためて決心して告白したのです(5節)。そしてそれは、神の耳に届いたのです。20節には、彼らの罪と咎を主が赦されるので、もはや見つけることができないとあります。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザ1:18)。私たちのうちにある罪が、消えてなくなるのではなく、主の目にそれが見えなくなり、義なる者と認められる、正しい者とされる…。それは、神の恵みとあわれみによる救いにほかなりません。のちにその救いは、異邦人をも含むすべての人にもたらされ、キリストの十字架と復活による贖いのみわざを信じた私たちもその救いにあずかり、義なる者と認められたのです。うちにある罪と咎は、キリストにあって主の目に見えなくされたのです。そのことを覚え、感謝しつつ、なおも主を尋ね求め続け、主のみこころのうちを歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 49章1-22節◇(11月21日)

「そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする。-主の御告げ-」…エレミヤ49:6

主が告げられた、アモン人へのことば(1-6節)と、エドム人へのことば(7-22節)が記されています。アモン人の領土はイスラエルの東側、死海の北東に位置し、ガド族の割り当て地に接していたため、しばしば両者の間で争いが起こりました。そのアラムの国の首都ラバ(現在のアンマン)は栄え、アラム人たちは、水が豊富な自分たちの地を誇り、財宝に拠り頼み、またミルコムという偶像の神を拝み、イスラエルの神を認めず、神の民を侮っていました。しかし、主が荒らす者を送られるので、その戦いに破れ、町々は荒れ果てた廃墟となってしまうのです。一方、エドム人はエサウの子孫であり、いわばイスラエルの民とは兄弟の関係にありましたが、彼らとの間にもしばしば争いが起こりました。彼らは自分たちの知恵を誇り(7節)、諸国を脅かそうとし、高慢な心を持つ者たちでした(16節)。しかし、その彼らの国もまた、主によってもたらされるわざわいによって、踏みにじられ、丸裸にされるのです。廃墟となったそこを通り過ぎる者はみな、色を失う(呆気にとられる:2017訳)のです(17節)。6節に、「そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする」とあります。48章47節にも、「しかし終わりの日に、わたしはモアブの繁栄を元どおりにする」と書かれています。主は、それらの諸国を憎み、根絶やしにし、その存在を完全に消し去るわけではないのです。彼らがイスラエルの神を認め、偶像礼拝を悔い改め、唯一まことの神であるご自身に立ち返るよう願っておられるのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀3:22)。罪の中にあった私たちもまた、主の恵みとあわれみにより、キリストにあって贖われた者です。そのことに感謝するとともに、主がなおも、残りの人々を救い出そうとしておられることを覚え、とりなして祈り、愛と恵みとあわれみに満ちた主を伝えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 48章26-47節◇(11月20日)

「われわれはモアブの高ぶりを、-彼は実に高ぶる者-その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。」…エレミヤ48:29(新改訳2017)

モアブについて語られた主のことばの後半です。26節に「主に対して高ぶった」とあり、29節ではさらに厳しくそのことが非難されています。それは具体的にどのようなことであったのか…。27節には「イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか…」(2017訳)とありますが、モアブの民はイスラエルを見下し、嘲笑し、自分たちのほうが優れている、力があると高ぶって誇り、イスラエルの神を認めず、自分たちの守護神ケモシュを拝んで頼みとする、実に不遜な者たちであったのです。しかし、そのようなモアブに対して主は憤り、バビロンの軍勢を送って襲わせるので、モアブの果樹園からは喜びと楽しみが取り去られ、その地は荒れ果て、激しく打ちのめされて民が泣き叫ぶこととなり、今度は彼らが、周りの国々の民から笑いものとされるのです(39節)。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴16:18)。「あなたがたの高慢は、よくないことです」(1コリ5:6a)。「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです」(ヤコ4:16)。そのように聖書は、高ぶること、すなわち自分を誇り、自分を正しいとし、自分の力に拠り頼むこと、他者を見下し、否定すること、何よりも主を認めず、畏れようとしないあり方は罪であると指摘し、そうならないようにと、繰り返し戒めています。そのような者は、主によって打たれ、恥を見ることとなるのです。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。どんなときにも決して高ぶることなく、自らを低くし、主を畏れ、他者を認める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 48章1-25節◇(11月19日)

「おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」…エレミヤ48:7

モアブに対しての主のことばです。モアブは死海の東側に位置する国家で、イスラエルとの密接な関係がありました。1-5節には、ネボ、キルヤタイム、ホロナイムと、そこにある町々の名が挙げられ、それらが荒らされ、辱められ、打ちのめされ、破滅の叫びを上げたと、すでに起こった出来事として語られています。7節には「自分の作った物」とありますが、脚注にあるように、別の訳では「とりで」とされています。それはつまり、敵の攻撃から自分たちの身を守るために立てこもる、城のような建造物です。また、同じ7節にある「ケモシュ」とは、モアブの守護神の名前です。モアブ人たちは、それらを自分たちの手で作り、建て上げ、さらには財宝を抱え、これさえあれば敵に襲われても大丈夫…と、人間的、地上的なものに信頼したのです。しかし、主が預言されたように、それらは結局、頼りにはならないのです。自分たちを守ってはくれないのです。守護神であるはずのケモシュは、滑稽なことに、民とともに「捕囚」となって、敵地に連行されるのです。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら」(詩18:2)。「私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです」(詩71:3)。自分たちの手で作り上げるとりでや偶像や、蓄えた富は、自分たちのことを守ってはくれないのです。それらに信頼しても空しいのです。しかし、主こそ私たちのとりでであって、さまざまな戦いの中に置かれても、強固なとりでなる主に身を避ける者は、決して打ち負かされることがないのです。救いにあずかることができるのです。そのことを覚え、ますます主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の守りがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 47章◇(11月18日)

「どうして、おまえは休めよう。主が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸-そこに剣を向けられたのだ。」…エレミヤ47:6

ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことばです。彼らが住んでいた町は、ガザ、アシュケロンなどの地中海沿岸の地域であり、隣接するエジプトとは良好な関係にありました。<北から上ってくるあふれる水の流れ>(2節)とは、ユーフラテス川の流域から押し寄せて来る、バビロンの軍勢の比喩だと考えられます。その大軍が来襲するとき、人々は馬のひづめや戦車のとどろきを耳にして恐れをなし、戦うべき男性たちも戦意を喪失し、敵のなすがままにされ、すべてのペリシテ人が破滅させられてしまうのです。同盟国のフェニキヤを助ける者は、もはやいなくなってしまうのです(3-4節)。ペリシテ人たちは、一向に途絶えない敵の剣に思わず、早く収まってくれと悲鳴を上げますが(6節)、それは休まることがありません。なぜならその剣は、主が向けられたものであって(7節)、主がペリシテ人をさばかれるからです。そしてそれは、とりもなおさず、イスラエルに対する主の助けと守りなのです。ペリシテとイスラエルの間には争いが絶えませんでしたが、そのようにして主は、恵みとあわれみのうちに、ご自身の民を、周囲の敵の脅威から守ってくださるのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ41:10)。主は、私たちとともにいてくださいます。私たちをその強き御手をもって助け、守り、支えてくださるのです。さまざまないざこざの中に巻き込まれても、そこから救い出してくださるのです。だからこそ、私たちは恐れることなく、たじろぐことなく、その主に拠り頼み、歩み続けることができるのです。どのような状況に置かれても、恐れ退く者ではなく、主にあって、前に進む者、勝利を得る者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 46章◇(11月17日)

「わたしは彼らを、そのいのちをねらっている者たちの手、すなわちバビロンの王ネブカデレザルの手とその家来たちの手に渡す。その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる。-主の御告げ-」…エレミヤ46:26

1節にあるとおり、主がエレミヤに告げられた、諸国についての預言が、46-51章に記されています。今日の46章はエジプトへのことばです。43章にあるように、ユダの残りの民はバビロンの脅威を恐れ、ユダの地に留まれとの主のことばに聞き従わず、エジプトへ身を避けましたが、そのエジプトは安全な地ではなく、主が遣わされたバビロンの手によって、打ち破られてしまうのです。それは、エジプトもまた偽りの神々と偶像に拠り頼み、イスラエルの神を畏れなかったことに対する、主のさばきでしたが(25節)、その宣告の最後に、「その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる」(26節)と、回復の約束が語られていることに心が留まります。27-28節はイスラエルの回復の約束です。30章10-11節のことばがここでも語られています。主はヤコブの子孫を捕囚の地から連れ戻し、ご自身が与えられたカナンの地へと帰還させ、諸国の脅かしから守り、平穏に生きるよようにされるのです。そしてそのことが、エジプトの回復の約束と同じ文脈中に書かれているのは、エジプトの回復には、神の民であるイスラエルの回復が必要不可欠であるからなのです。それは神のご計画であって、諸国の歩みはイスラエルの歩みと密接に関係しているのです。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(1ペテ3:9b)。主はそのように、ご自身の民を懲らしめ、立ち返らせ、回復させ、さらに、諸国の回復と救いと祝福のために用いられるのです。その主は、キリストに贖われ、神の民として加えられた私たちもまた、そのように、主の豊かな祝福を受け継ぐ者として用いてくださるのです。主から委ねられているそれぞれの働きを、主への感謝と期待をもって行う者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 45章◇(11月16日)

「『あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。-主の御告げ-しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。』」…エレミヤ45:5
ネリヤの子バルクは、主から聞いたことばをエレミヤが語るとおりに巻物に書き記した人物です。ある時彼は、「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない」(2節)とつぶやきましたが、おそらくそれは、彼がエレミヤからの指示に従い、そのように自分が巻物に書き記した主のことばを民や首長たちの前で読んでも、それが結局、王の手によって切り裂かれ、火で焼かれてしまい、さらにはそのことによって生じた迫害により、エレミヤとともに身を隠さなければならなくなったこと(36章)を嘆いたことばであったのです。すると主は、バルクに対し、わたしは自分が建てたものを自ら壊し、また自分が植えたものを自ら引き抜くと、エレミヤを通して告げられました(4節)。それは、ユダの国と民に対するさばきのことでしたが、主は彼に、「あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える」、すなわち、バルクのいのちを守ると言われたのです(5節)。「自分のために大きなことを求めるのか」と、主はバルクに言われました。バルクは自分の働きが主に報われるという大きな期待を抱き、巻物を読んだのでしょう。だからこそ失望と悲しみも大きかったのです。しかし、たとえそう思えない結果であっても、それは確かに主に覚えられており、主はその働きを用いてくださるのです。主の働きは、主のために、主のみこころのうちになされ、すべての栄光を主ご自身が受けられるのであって、それを、「自分のために」行うべきではないのです。また、大きな成果を性急に求めるべきでもないのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタ25:21)。そのような忠実なしもべとして、神と人々に仕える者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 43章◇(11月14日)

「すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。」…エレミヤ43:2

エレミヤが主から告げられたことばを語り終えても、頑なで高慢な将校たちはみな、そのことばを信用せず、それは偽りだ、そのように言わせるために主はあなたを遣わしてはいない…と、主の御名を使って決めつけました。そうして彼らは、エレミヤを含めたユダの残りのすべての者を連れて、エジプトへと出発したのです。すると主は、その途中でエレミヤに、わたしはバビロンの王によってエジプトをも討ち、その民を捕囚にし、あるいは剣に渡し、そこの神々の宮を破壊して火で焼く…一緒にいる者たちにそう告げよと、命じられたのです。なぜ、将校やユダの残りの者たちは、ユダの国にとどまるようにとの主の御声に聞き従わず、エジプトの国へ移ろうとしたのでしょうか…。それは、彼らの目には、そこが好ましい地に見えたからです。そこで十分な衣食住を得て、安心して安全に暮らせると考えたからです。ユダの地に残れば、またバビロンの軍勢が襲って来て、彼らに殺されることになる…と、恐れていたからです。しかしそれは、あくまで彼らの思い込みでした。事実はそうではなかったのです。ユダの地では、恵みとして、ぶどう酒や果物を多く収穫することもできていました。彼らは、自分たちの考えに基づいて行動するのではなく、主に信頼し、主が立てられた預言者エレミヤを尊重し、自分たちに語られたことばをしっかり心に留め、それに従順に従うべきであったのです。私たちもしばしば、自らの感情や思いを優先させようとしてしまいますが、神のことばは常に真実であって、どんなときにもそこに立って考え、判断し、行動に移すべきなのです。目に見えるところによらず、自分の考えに頼らず、絶えず主に尋ね求め、主の御声を聴いて歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 42章◇(11月13日)

「だから今、確かに知れ。あなたがたは、行って寄留したいと思っているその所で、剣とききんと疫病で死ぬことを。」…エレミヤ42:22

カレアハの子ヨハナンら、将校たちを初め、ユダに残された者たちはみな、預言者エレミヤの元にやって来て、自分たちが歩むべき道となすべきこととを主が告げてくださるよう、祈ってほしいと願い出ました。エレミヤはそのことを了承し、彼らも、それがどのような内容であっても、語られた主の御声に必ず聞き従うと約束し、主のことばを待ち望んだのです。それから10日後に、主のことばがエレミヤにあり、彼はそれを、ユダの残りの者たちに告げました。主は、彼らがユダの地に留まることを求められ、そうすれば、主がバビロン王の手から彼らを救い出す、しかしそうせずにエジプトに行くなら、そこで剣と飢饉と疫病によって死ぬことになる、と仰せられたのです。21節のエレミヤのことばは、祈りを要請した彼らが主のことばを聞いた後、どう行動するかを予見したものであり、過去形で書かれています。結局彼らは、主から警告を受けたにもかかわらず、エジプトに行こうとしていたのです。そのように彼らは、口先では主の御声に聞き従うと言いながら、心の中では、あくまでも自分たちの考えに基づき、思いどおりに事を運ぼうとする、心の頑なな者たちであったのです。「きょう、もし御声を聞くなら…あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(詩95:7-8)。主の御声を聞き、主のことばを受け取っても、それに従おうとしないなら、そのことを守り行わないなら、幸いを得ることはできない、それどころか、いのちが失われてしまうのだ…。それは、すべての時代のすべての民が、畏れをもって受け取るべき真理であり、神からの警告のメッセージです。そのことをあらためて覚えつつ、受け取った主のことばに従順に聞き従う者、頑なな心ではなく柔らかい心を持つ者とされたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 41章◇(11月12日)

「イシュマエルが打ち殺した、ゲダルヤの指揮下の人たちのすべての死体を投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バシャを恐れて作ったものであった。ネタヌヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。」…エレミヤ41:9

ネタヌヤの子イシュマエルとその部下たちは、ミツパでゲダルヤと食事をともにしていたとき、突然立ち上がって彼を剣で殺害し、彼と一緒にいたユダの人々とそこに居合わせたカルデヤ人の兵士たちも打ち殺しました。さらにその翌日、彼らは、北イスラエルの町から主の宮を訪れた巡礼者のうちの70人をも打ち殺し、穴の中に投げ入れ、ミツパにいた民の残りの者たちを捕らえて、アモン人のところに連れていくべく出発したのです。しかし、カレアハの子ヨハナンと彼とともにいたすべての将校は、その事を知ると部下をみな連れてイシュマエルを追いました。すると、彼はなんとかその追っ手から逃れ、アモン人のところに落ち延びたのです。連れて行かれた民はヨハナンたちを歓迎し、彼らに合流しました。ゲダルヤのみならず巡礼者たちをも虐殺したイシュマエルの意図は不明ですが、おそらく彼は、ユダの国がバビロンに支配されていることに不満を持ち、バビロンから任命された総督として、バビロンに協力するよう人々に求めていたゲダルヤや、そのような不本意な状況下であるにもかかわらず、主を礼拝することを求めた巡礼者たちのことを許せなかったのであり、国粋主義者的な思想の持ち主だったと思われます。しかし、そのような性急かつ短絡的なあり方は、主のみこころではありません。ゲダルヤはヨハナンの警告を無視したため殺害されましたが、ヨハナンはイシュマエルの企みを事前に見抜き(40:14)、ゲダルヤ殺害後は彼をユダの地から追いやったのです。主のご計画は、バビロンを用いてイスラエルをご自身に立ち返らせ、回復することだったのです。私たちも、人間的な思いで短絡的に考え、事を性急に運ぶことがないよう、主に祈って事をなす、慎重さと謙遜さを忘れないようにしたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 40章◇(11月11日)

「しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」…エレミヤ40:16

バビロンの王からエレミヤのことを託された侍従長は、エレミヤに対し、釈放された後の行き先について、どこへ行ってもよいと彼の自由意志を尊重しましたが、答えがなかったため、ユダの地の総督であるアヒカムの子ゲダルヤのもとに行かせました。エレミヤはユダに残った民の間に住んで、主のことばを語る者となったのです。そのゲダルヤは、バビロンの王によって任命された人物でした。総督としてユダの地を統治する権威を与えられた彼は、ユダの残りの人々に、バビロンに従順に仕え、ぶどう酒や果物などを蓄え、平和に生活すれば幸せになると説き、その勧めに促されたユダヤの人々は、散らされていた所から、続々とユダの地に戻って来たのです。一方、野に逃げていたユダヤ軍の将校たちも、ゲダルヤのもとに来ていましたが、彼らはゲダルヤに、アモン人の王がネタヌヤの子イシュマエルを送ってあなたを暗殺しようとしていると知らせ、彼らの中の一人、カレアハの子ヨハナンは、自分がそのイシュマエルを打ち殺そうと、ゲダルヤに申し出たのです。しかし彼は、彼らのことばを信用しませんでした。聞く耳を持ちませんでした。それが後に彼の命取りとなってしまうのです(41章)。ゲダルヤは、ユダヤ総督という自分の立場に誇りと自信を持っていましたが、いつの間にかその健全さが失われ、おごりや高ぶりを持ち、自分の考えややり方は正しい…と、独りよがりになってしまっていました。誇りと自信を持つことは大切ですが、私たちは、全能者である主の前にへりくだり、正しい洞察と的確な判断をすることができるよう、主に祈り求めるべきなのです。そうしなければ、私たちの思考や言動は、すぐに主のみこころから外れたものとなってしまうからです。他者の声にきちんと耳を傾け、何よりも主の御声をしっかり聴く者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 39章◇(11月10日)

「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。-主の御告げ-」…エレミヤ39:18

エレサレムの町は、ついにバビロンの軍勢によって陥落しました。ゼデキヤ王と戦士たちは逃亡しましたが、追われて捕まり、ゼデキヤの子たちやユダのおもだった者たちは王の目の前で虐殺され、ゼデキヤ自身は目をつぶされ足かせに繋がれて、バビロンへ連行されたのです。一方、エレミヤは主の御手の中で守られ、難を免れました。バビロンの王は侍従長に対して、エレミヤに目をかけ、何も悪いことをせず、大切に扱うようにと命じたのです。エレミヤは、閉じ込められていた王宮の監視の庭から連れ出され、貧しさのゆえに町に残ることを許された者たちとともに、エルサレムに留まりました。エレミヤが監視の庭にまだいたとき、投げ込まれた穴からエレミヤを救助するよう王に進言した、クシュ人エベデ・メレクに対する主のことばがエレミヤにありました。それは、彼をわたしは必ず助け出す…敵の剣に倒れることはない…それは彼がわたしに信頼したからだ…という、救いと守りを約束するメッセージであったのです。「主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である」(詩115:11)。エベデ・メレクはクシュ(エチオピア)人の宦官、すなわち、異邦人でありながら王に仕えるしもべであって、ユダヤ人、アブラハムの血筋の者ではありません。しかし、主ご自身が言われたとおり、彼は、イスラエルの神を畏れ、主に信頼し、主の御旨に従順に従う者であったのです。彼は、主へのその信頼のゆえに、主の救い、祝福にあずかる者とされたのです。それは、信仰によって主に義と認められる異邦人の予型です。主はいつの時代にあっても、そのように、主を信じるすべての者に御目を留めてくださるのです。どのような状況に置かれても主に信頼し、主の守りと祝福のうちに歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 38章◇(11月9日)

「エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた。」…エレミヤ38:28

ゼデキヤ王は預言者エレミヤに対して一目置いていました。彼は、エレミヤが首長たちによって投獄されたときには、そこから出して王宮の監視の庭に移させ、毎日パンを与えさせました(37:21)。また、エレミヤが穴に投げ込まれて泥の中に沈んだときには、その穴から引き上げさせ、いのちを守ることを約束した上で、エレミヤに預言のことばを告げさせたのです(16節)。するとエレミヤは、主から語られていたことを正直に王に話しました。もしあなたが、バビロンの王の首長たちに降伏するなら、あたと家族のいのちは助かり、エルサレムの町も火で焼かれることはない、しかし、降伏しないのなら、そうはならない…と。そして、それを聞いた王は、そのことを誰にも話すなと口止めし、引き続き監視の庭にとどまらせたのです。主はこのとき、ゼデキヤのうちに働き、彼を通してエレミヤを助け、守り、養われました。また、エレミヤが穴に投げ込まれた際には、起きていることを王に伝え、エレミヤを助け出すよう進言した、エベデ・メレクというクシュ人の宦官の特別な働きがあったのです(11-13節)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちもまた、絶えず主の御手の中にあります。主は助け手を使わし、さまざまな状況において、私たちを支え、養い、導いてくださるのです。また、御使いを遣わし、私たちを危険や罠から守っていてくださるのです。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」(詩91:11)。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ41:10)。いつもともにいてくださる主の御手を覚えつつ、どんなときにも主に信頼し、恐れずに歩み続けたいと思います。

心に平安がありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 36章21-32節◇(11月7日)

「王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。」…エレミヤ36:24

首長たちの報告を聞いたエホヤキム王は、その巻物を家来のエフディに取りに行かせ、暖炉の前でそれを読ませました。しかし、王と彼の家来たちは、さばきとわざわいのことばを聞いても平然としたままで、なんと王は、それが数段読まれるごとに小刀でその巻物を裂き、脇にいた首長たちが止めるのも無視し、暖炉の火に投げ入れて、それをすべて焼き尽くしてしまったのです。主はエレミヤに、燃やされた巻物にあったことばを、もう一度、新たに巻物に書き記すように命じられました。またエホヤキムについては、彼は王座から退けられて屍となって放置され、彼の子孫や家来たちも罰せられ、さらにユダの民にもわざわいが及ぶと告げられたのです。本来エホヤキムは、ユダの王として、主を畏れ、主の御旨を知り、それに従って正しく国を治め、また、みことばに聞き従うようにと、人々にも命じるべきでした。しかし、神のみことばを侮り、それが書かれた巻物を切り裂いて燃やすという不敬虔な態度のゆえに、神にさばかれ、その最期は悲惨なものとなったのです。また、ユダの民にもわざわいがもたらされることとなったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。エホヤキムのように聖書を切り裂くようなことはしないとしても、神のことばを心に留めず、軽んじ、その教えに聞き従おうとしないのなら、それは神が喜ばれることではないのです。神が与えようとしておられる祝福にはあずかれず、その歩みは幸いなものとはならないのです。箴言の作者も、「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける」と言っています(箴13:13)。みことばは神ご自身であって(ヨハ1:1)、キリストに贖われ、神の民とされた私たちは、主をを畏れ敬い、みことばを心に留め、その教えを守り行う者となるべきなのです。みことばを通して主の御旨を知り、たえず主に立ち返る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 36章1-20節◇(11月6日)

「彼らがそのすべてのことばを聞いたとき、みな互いに恐れ、バルクに言った。『私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない。』」…エレミヤ36:16

主はエレミヤに、語られたことばをすべて巻物に書き記すよう命じられました。するとエレミヤは、ネリヤの子バルクに、自分に語られた主のことばを口述筆記させたのです。その後、エレミヤはさらに彼に、完成した巻物を持って主の宮に行き、そこで、書かれたことばをユダの民に読み聞かせるようにと命じました。バルクはその命令を忠実に実行しました。すると、ゲマルヤの子ミカヤはそのことばを王宮にいた首長たちに報告し、それを聞いた彼らは事の重大さを考え、バルクを呼んで彼から直接そのことばを聞きました。そして、主の使信にあらためて恐れおののいた彼らは、そのことばを王に告げなければならないと判断し、バルクに対しては、エレミヤとともに身を隠すように促したのです。その巻物には、民が悪の道から立ち返るよう、主がもたらそうとされている、さばきとわざわいのことばが書かれてありました。バルクがそれを主の宮で語れば、民から危害を加えられる恐れがありました。しかし彼は自分に与えられた使命を全うしたのです。そしてその主のことばを真剣に受けとめたミカヤ、さらには首長たちも、その主のことばを伝えるために行動を起こしたのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マル16:15)。主に贖われた私たちもまた、みことばを人々に伝えるよう命じられています。それは、やがて起こる主のさばきとわざわいから救い出されるための、キリストがもたらされた神の国の福音、喜びの使信です。私たちは、出て行ってそれを人々に伝えるという尊い使命を受けていること、その使信は、「これらのことばをみな、必ず王に(人々に)告げなければならない」重要なものであること、何よりもその福音は、真のいのちをもたらすものであることを覚え、置かれたところでなすべき行動を起こしていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 35章◇(11月5日)

「レカブの子ヨナダブの子たちは、先祖が命じた命令を守ってきたのに、この民はわたしに聞かなかった。」…エレミヤ35:16

主からエレミヤに、レカブ人を連れてきて主の宮の一室で酒を飲ませよとの命令がありました。しかしエレミヤがそうしようとすると彼らは、自分たちは先祖ヨナダブから、飲酒を禁じられ、また家やぶどう畑も所有せずに一生天幕に住むよう命じられているのだと答えました。すると主はエレミヤに、今度はユダの民に対することばとして、レカブ人のことを引き合いに出し、彼らは先祖たちの命令に聞き従ったのに、あなたがたは主に聞かなかった、だから主はあなたがたにわざわいを下すと告げよと、命じられたのです。ヨナダブという一人の人の命令に聞き従ったレカブ人たち…一方、神の命令に耳を傾けず、呼び掛けにも答えなかったユダの民…。ここではその両者が対比させて描かれていますが、なぜそのような違いが生じたのでしょうか…レカブ人はなぜ命令に従順だったのでしょうか…。レカブ人は、先祖ヨナダブの命令は、自分たちにとって良いこと、必要なこと、益になることだと受けとめていたに違いありません。だからこそ、世代を越えてそれを守り続けていたのです。それに対してユダの民は、主の命令、すなわち、悪の道から立ち返り、他の神々を慕わず、主だけに仕えることが、良いこと、益になることだとは考えなかったのです。それが主の御旨であって、主が喜ばれること、主の祝福にあずかる道だと信仰をもって受けとめず、自分たちの肉の思いを優先させたのです。「神を恐(畏)れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝12:13)。主の命令は私たちを束縛するためにあるのではありません。むしろその真理によって私たちは自由にされるのです(ヨハ8:32)。主の祝福にあずかり、真のいのちを得るのです。そのことを覚え、ますますみことばに聞き従う者とされたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 34章◇(11月4日)

「それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』」…エレミヤ34:16

ゼデキヤ王は民と契約を結び、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、再び奴隷にしないことを同意させ、奴隷たちを解放させました。しかし民は、いったんはそれに従ったものの、その後、心を翻して奴隷たちを連れ戻し、再び彼らを奴隷として働かせたのです(9-11節)。そもそも主は、エジプトを脱出した民に、同胞であるヘブル人の奴隷を7年目には自由の身にしてやらなければならないという律法を、モーセを通して与えておられました(出21:2,申15:12)。主は民に、彼ら自身がエジプトにおいて奴隷として虐げられていたのであり、そこからご自身によって贖い出されたことを覚えるべきだとしてそのように命じられたのですが、彼らの先祖たちは、その律法をずっと守って来なかったのです。そのように、奴隷、つまり人に対する不誠実は、主の律法に対する違反行為、主への不従順であって、言うまでもなくそれは、主に喜ばれることではないのです。主は、剣と疫病と飢饉によって民を懲らしめ、バビロンの手によって町々を荒れ果てた地とすると言われました(22節)。主イエスはこう言われました。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタ7:12)。しかし人はなかなかそうしません。それは、私たち人間が、自分の利益を追い求める自己中心な存在だからであり、また何よりも、自分が神から受けている恵みとあわれみを覚えようとしない、罪深い者だからです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタ22:39,レビ19:18)。多くの人が自分を好きになれないで苦しんでいるのを思うとき、その教えは、「自分が神に愛されていることを覚え、そのように隣人を愛せよ」ということなのだと教えられます。神に愛され、贖われ、恵みの中に生かされていることを、絶えず忘れない者でありたいと思います。

感謝と喜びが心にいつもありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 33章◇(11月3日)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」…エレミヤ33:3

33章においても主は、イスラエルのユダの回復を約束のことばとしてエレミヤに告げておられます。それは、受けた傷のいやしであり、倒れて壊れたものの建て直しであり、すべての罪の咎の赦しであって、そこには、血肉における主の民だけでなく、すべての国の民に対する終末的な救いと回復が暗示されているのです。「見よ。その日が来る…」(14節)。終わりの日に、主のその約束のことばは完全に成就するのです。そしてそれは、主が立てられる、油注がれたメシアによってなされるのです。「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行う」(15節)。それは明らかに、ダビデの子孫として、人の姿を取ってこの世に生まれた神の御子、イエス・キリストの預言です。同じように、ダビデに起こされる「正しい若枝」のことに言及している23章5節では、「彼は王となって治め、栄え」とあります。御国の王であるキリストは、ユダヤの民衆から退けられ、十字架にかけられましたが、その尊いいのちを代価として支払い、すべての国民を罪の奴隷から贖い、主の救いと回復といやしを、この世にもたらしてくださったのです。異邦人である私たちも、その恵みにあずかる者とされたのです。「わたしを呼べ」と、主はエレミヤに命じられました。それはエレミヤだけでなく、すべての人に対する促しです。誰でも主を呼び求めるなら、主は、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を告げ知らせ、そのみわざを、実際にこの地の上に、私たちの歩みの中に現わしてくださるのです。それは、神の深いいつくしみによってなされる罪の赦しであり、回復であり、いやしです。そしてそのような素晴らしい祝福にあずかる主の民は、楽しみと喜びの声、感謝の歌をもって、主を心からほめたたえるのです。御国の王なるキリストの再臨を待ち望みつつ、いただいている御国の祝福を、周りに押し流す者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 32章26-44節◇(11月2日)

「まことに、主はこう仰せられる。「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。」…エレミヤ32:42

主はエレミヤに、わたしにとって不可能なことは一つもない、と言われましたが(27節)、それはエレミヤが、大いなる力と伸ばされた御腕をもって天と地を造られた主、また、しるしと不思議をもって民をエジプトから連れ出された主を覚え、あなたにできないことは何一つない、と告白した(17-22節)ことへの応答でした。その主は「それゆえ」と言われ(28節)、民にわざわいをもたらすとまず告げられました。エルサレムの町はバビロンの手に渡され、彼らによって焼かれるのです。そしてそれは、民が主の目の前に悪を行い続け、主の怒りを引き起こしたからにほかならないのです(30-32節)。しかし主は、再び「それゆえ」と言われ、全能者なるご自身が、そのような背信の民を散らされた国々から連れ戻し、カナンの地に帰らせ、そこで安らかに住まわせると、回復を約束されました。39-42節において「幸福」と4回繰り返され、41節では、彼らを幸福にし、わたしの喜びとし、心を尽くし思いを尽くして彼らをこの国に植えると、驚くべきことが語られているのです。主のみこころは、ご自身の民が幸せになり、繁栄し、ご自身の栄光を現わし、御国の祝福をこの地に押し流す基となることです。そしてそのために、民を御手のうちに治めて、懲らしめ、回復させ、用いられるのです。その主は、「彼らに一つの心と一つの道を与え」ると言われました(39節)。それはあくまで一つの心と一つの道であって、いくつもあるわけではないのです。そしてそれは、主の教え、みことばとして与えられ(詩1:1-3)、道であり真理でありいのちである、イエス・キリストとして(ヨハ14:6)、御霊に支配された心として(ロマ2:29)与えられているのです。キリストある主の民として、その一つの心、その一つの道を、追い求め続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。