◇聖書箇所: レビ記 26章1-26節◇(2月29日)

「わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。」…レビ26:19

26章には、イスラエルの民に対する、神の祝福とのろいが書かれています。そしてそれは、民が神のおきてに従って歩むかどうかという、神が定めた基準によって、どちらがもたらされるかが決まったのです(3節)。4-13節は神の祝福です。地は産物を生じ、木々や穀物は実を結び、敵は倒れ、子孫が増し加えられるのです。そしてそれらは、神がアブラハムとの間に結ばれた、祝福の契約(創17:7)の成就にほかならないのです。その文脈の最後に、「…わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である」と、25章38節で語られたことが、そこでも繰り返されていることに心が留まります。14節以降は、一転して、神が与えるわざわいです。病に冒され、敵に打ち負かされ、不作に苦しみ、人口は減り、剣によって敵の手に落ち、飢饉で生活は崩壊するのです。その文脈中の19節には、「わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き」とあり、新改訳2017では、「自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き」と訳されています。民が神の教えに従わないのは、自分たちの力に頼み、神の力は要らないと、高慢になっているからなのです。そしてそれは思い上がりであり、神はそのような心を持った者を、御前から退けられるのです。その神は、今も私たちに対して、わたしの教えに聞き従うのか、わたしを神とするのか、わたしの祝福を受けるのか…。それともあくまで、自分の力を頼みとするのか、わざわいを受けるのか…と、問い掛けておられます。主よ、あなたの民として、み教えに聞き従う者とさせてください、あなたの豊かな祝福にあずかり、それをさらに周りに押し流す者として用いてください…と、主に答える者でありたいと思います。

祝福の道を選び取ることができますように。

◇聖書箇所: レビ記 25章29-55節◇(2月28日)

「わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」…レビ25:38

レビ記25章の後半には、住居の買い戻し、貧しい者への融資、奴隷などの身売りされた者の買い戻しについての規定が書かれています。38節のことばが、その貧しい者に対する教えの文脈の中にあり、「あなたがたの神となるために」と語られていることに心が留まります。主は、「あなたがたにカナンの地を与えるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した…」と言われたのではないのです。主が民を奴隷から解放し、荒野の歩みを導き、乳と蜜の流れる約束の地に導き入れるのは、単にそこに安住させ、豊かな暮らしを確保させるためではないのです。民が自由を謳歌して好きなように歩むためでもないのです。「あなたがたの神となるために」…。神であるわたしを神としなさい…あなたがたを顧み、守り、すべての必要を満たすことを信じなさい…。わたしの主権を認め、わたしのことばに従順に聞き従いなさい…。そうすればわたしは、そのあなたがたの歩みの上に、力と栄光を確かに現わそう…。神は、ご自身のことばに、そのようなメッセージを込められたに違いないのです。私たちも罪の奴隷として束縛されていました。しかし、キリストがご自身のいのちを代価として支払い、買い戻し、贖ってくださったのです。そのようにしてエジプトの地から連れ出されたのです。そして、キリストにあって、霊的な意味でのイスラエルの民として加えられ、神の国の祝福の一部をすでに受けているのです。しかし、だからといって、与えられた自由をはき違えてはならないのです。祝福だけを追い求めるべきではないのです。「あなたがたの神となるために」と、主は言われるからです。私たちは神のしもべ(55節)、キリストのしもべであって(1コリ4:1)、主に忠実に仕え、御旨を行い、主を喜ばせることを願う者たちであるからです(マタ25:21)。受難節にあって、そのような者となっているか、自己吟味したいと思います。

贖われたことへの感謝と喜びがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 25章1-28節◇(2月27日)

「土地は、買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だからである」…レビ25:23(新改訳2017)

レビ記25章には、安息の年、ヨベルの年、買い戻しについての規定が書かれています。主は民が約束の地に入るとき、そこが主のものであることを覚えさせるために、7年目を「地の全き休みのための安息」として、土地を完全に休ませるよう命じられました(4節)。それは、その安息によって土地が回復し、実を生じて民に食物をもたらすようになるからであり、また、落ち穂から自然に生えたものを奴隷などの貧しい者たちが食するためであって、主の配慮によって定められたことだったのです(6節)。23-28節は土地の買い戻しの教えです。ここでも、地の所有者は主ご自身であって、民は主のもとに在住している寄留者であることが告げられています。もし人が貧しくなってその所有地を売るなら、権利を有する近親者はその土地を買い戻すことができるのです。土地の真の所有者は、この地を造られ支配しておられる神であり、神が大地主、自分たちはあくまで小作人の立場であることを、イスラエルの民は覚えさせられたに違いありません。あのヨブは一瞬のうちに、自分の子どもたち、奴隷、家畜などを失いましたが、そのとき彼は地にひれ伏して神を礼拝し、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しました(ヨブ1:21)。それは、すべてのものが主から与えられていること、主権者なる主が真の所有者であることを認めていたからです。ひるがえって私たちはどうでしょうか。そのような意識で生きているでしょうか。わずかなものを失っただけでも、怒ったり、落ち込んだりする弱さ、罪深さが私たちにはあります。しかし主の前にへりくだり、すべては主のものであることを認め、主が愛と配慮と恵みに満ちたお方であることを覚えつつ、そのお方にただ拠り頼んで歩む、そのような者でありたいと願うのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 24章◇(2月26日)

「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」…レビ24:16

レビ記24章には、主の御名を汚す者に対する規定が書かれています(15,16節)。それは「冒涜罪」であり、そのような者は、必ず殺されなければなりませんでした。主は、会衆がその人に石を投げて殺すようにせよと、命じられたのです。イスラエルの民はその教えを、主への畏れをもって、厳格に守りました。何しろそれは、自らのいのちにかかわるものです。そして24章には、単にその教えの記述だけでなく、シェロミテというイスラエル人の母とエジプト人の父を持つある者が、主の御名を冒涜してのろったために、民から石を投げつけられて殺されたという実例がわざわざ書かれているのです(10-14,23節)。民はそのことばを聞くたびに、身の引き締まる思いにさせられたに違いありません。主の御名をきよく尊いものとする…。それは、神を神とし、主を畏れ、その主権を認め、絶えず主の前にへりくだって歩む、ということにほかなりません。しかしイスラエルの民において、いつのまにかその本質はあいまいになり、表面的、形式的な律法の理解となっていったのです。そして民は、「わたしと父とは一つだ」と主張する主イエスや、自分たちのあり方を批判するステパノを消し去るため、その冒涜罪を誤用したのです(ヨハ10:31、使7:58)。「主の御名を汚さないようにせよ」…。私たちももちろん、その教えを守るべきです。主の御名を絶えずあがめ、主の主権を認め、へりくだり、持てるものを明け渡し、すべての栄光を主に帰す…。それが、主の御名をきよく尊いものだとすることです。神を神として歩むということです。異教の中にあって、またさまざまなものが「偶像」となり得る誘惑の中にあって、主の御名を、主ご自身を、絶えず高く掲げる者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 23章23-44節◇(2月25日)

「これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」…レビ23:43

レビ記23章23節以降には、第7月の例祭として、ラッパの祭り(24節)、贖罪の日(27節)、仮庵の祭り(34節)について書かれていますが、その中で、全き休みの安息の日が設けられ、労働の仕事はいっさいしてはならないと命じられていることに、まず心が留まります。仕事とは、多くの場合、何かを作り出したり生み出したりする営みですが、主の例祭や安息日において、主はそれを「やめる」ようにと、求めておられるのです。そしてそこには、人が自分の力でがんばって生きようとすることを放棄し、創造者であり主権者なる主にすべてを明け渡し、ただ主に拠り頼んで生きる思いを新たにさせるという、主の意図があったに違いありません。3つの大きな例祭の一つである「仮庵の祭り」もまた、他の2つの祭り、「過越の祭り」、「七週の祭り」と同様、イスラエルの民がエジプトから連れ出されたことと密接につながっていることをあらためて教えられます(43節)。民は荒野を旅する中、天幕、つまり仮庵に住まい、約束の地を目指して進んでいきましたが、彼らは、仮庵の祭のたびに、自分たちがどこから出て来てどこに向かう者であるのかを、後の世代の者たちも含めて、深く覚えさせられたのです。主への感謝と信頼を新たにしたのです。私たちもまた、罪の中から救い出され、主が約束されている新天新地に向かって、地上の荒野の旅を続ける主の民です。どんなに立派な家に住み、さまざまなものを整えて快適な暮らしをしたとしても、それはあくまで「仮庵」であって、私たちはやがて裸で神のもとに帰るのです(ヨブ1:21)。地上の財産を天に持っていくことはできないのです。主イエスも、天に宝を積む者となるようにと言われました(マタ19:21)。イスラエルの民と同じように、自分がどこから来てどこに行こうとしているのか、そのことを常に覚え、また人々に伝えたいと思います。

主にある希望を持ち続けることができますように。

◇聖書箇所: レビ記 23章1-22節◇(2月24日)

「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。」…レビ23:2

レビ記23章は、主がモーセを通して、イスラエルの民全体に語られた、例祭に関する規定です。4節以降にそれは書かれていますが、その前の3節において、週の第7日目が全き休みの安息の日として定められています。その日には民は神の創造のみわざを覚えましたが、毎週巡ってくるその安息日こそ、年に1回のすべての例祭の基盤であり、他の祭りを先導するものとなっているのです。例祭の1番目は「過越」です。それはユダヤ暦で第1月の14日に、過越のいけにえをささげることによって行なわれます(5節)。また、その後すぐ15日から、「種を入れないパンの祭り」が7日間続くのです(6-8節)。それはどちらも、イスラエルの民の先祖たちが主によってエジプトから連れ出され、奴隷から解放されたことを記念し、感謝し、喜ぶためのものでした。10-22節には、「初穂の祭り」とそれに続く「七週の祭り」について記されています。このことが語られたときには民はまだ、主が約束されたカナンの地に入ってはいませんでしたが、主はそこに入ったときにどうするべきかを、あらかじめ告げらました。そしてその祭りを通しても民は、約束どおりに乳と蜜の流れる地に導かれたことを感謝し、恵みに満ちた真実な主をあがめたのです。「聖なる会合として召集する主の例祭」とあります。例祭は、単に、食べたり、飲んだり、踊ったりして楽しむ、人間が中心の、人間のための集いではないのです。民はそこで、主にいけにえを献げたのです。その中心には、主がおられたのです。またそれは参加自由ではなく、全員が召集されたのです。そのように例祭とは、すべての民が主を礼拝する者として招かれる時と場であって、民はその意識を強く持って参加し、それが巡って来る1年の日々を過ごしていたのです。私たちもまた、そのような「礼拝者」として歩む者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: レビ記 22章1-16節◇(2月22日)

「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。」…レビ22:2(新改訳2017)

「聖なるもの」についての規定が書かれています。「聖なるもの」とは、3節にあるように、イスラエルの民が主のために聖別したもの、すなわち、主の前にささげるべく持って来て差し出されたもののことです。それを慎重に扱うよう(「細心の注意を払いなさい」:新共同訳)、主は祭司たちに求められたのです。そのように祭司たちは、汚れたままで聖なるものに近づくことがないよう、自分の身を常に聖く保つようにし、民がささげたものを軽率に取り扱うことがないように心掛け、その聖なるものを食し、また祭司としてのすべての職務を果たすことが求められたのです。「一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない」とありますが、そのように祭司は、神によって選ばれ、任命され、責任と権利が与えられた存在なのであって、彼らは絶えず、そのような自覚をもって行動する必要があったのです。そうでないなら、死に至ることさえあったのです(9節)。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり…」(ヨハ15:16)。私たちもまた、主によって選ばれ、救われ、召し出された者たちです。主の働きを担う者として任命されているのです。実を結ぶことが求められているのです。「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え」。神はすべての人の罪の贖いのために、ご自身の御子を世に遣わし、「聖なるもの」、いけにえとしてささげてくださいました(1ヨハ4:10)。そのキリストによって贖われ、祭司とされた私たちもまた、主の御名が汚されることがないよう、自らを聖く保ち、この世と調子を合わせず(ロマ12:1-2)、その働きを果たすべきなのです。自らのその立場を、常に自覚して歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 21章◇(2月21日)

「ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する主だからである。」…レビ21:23

レビ記21-22章には、祭司たちに対する規定が書かれています。レビ族の中から立てられる彼らは、イスラエルの民の罪が赦されるようとりなすべく、神と民との間に立ち、幕屋や神殿においていけにえをささげ、祈り求める者たちです。そのような大切な務めを担っている祭司たちに対して主は、自分の身を汚してはならない、聖でなければならないと、繰り返し命じています(1-15節)。また主は、16節以下において、祭司であるアロンの子孫に対して、身に欠陥のある者は、祭壇に近寄ってはならない、すなわち、祭司としての務めにあたることができないと、繰り返し告げているのです。主の前にささげるいけにえの動物は、傷のないものでなければなりませんでしたが、それを実際にささげる祭司たちもまた、身体的に欠陥がないこと、聖所をきよく保つことが求められたのです。その身の欠陥は、身体検査をすれば外面的にわかるものです。しかし、祭司たちを含めてすべての人の内には、目に見えない欠陥、神の聖さとは相容れないもの、すなわち「罪」があることを教えられます。本来、私たちは、誰ひとりとして神に近づくことはできないのです。いけにえの血を携えて大祭司が神に近づいたように、大祭司なるキリストが、自らいけにえとなって十字架にかかり、罪のないご自身の血をその祭壇に流されたからこそ、主を信じる私たちは、キリストにあって、身に欠陥のない者とみなされ、神に大胆に近づくことができるのです。そしてさらに、その聖徒たち一人ひとりが祭司とされ、福音を宣べ伝える者とされているのです(1ペテ2:9)。それは驚くべきことです。自分がキリストにあって贖われ、主の前に出て礼拝する者、とりなす者、救いのみわざを人々に伝える者とされていることを覚えたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: レビ記 20章◇(2月20日)

「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」…レビ20:10

レビ記20章には、18章の内容と多くの部分で重複しますが、カナンの先住民たちが風習として行なっていた、主が忌みきらう行為があらためて列挙され、彼らと同じようにそれらを行なってならないと、イスラエルの民への命令が書かれています。そして18章と比較して気づくのは、単に「~してはならない」と禁ずるだけでなく、その律法を破った者は「必ず殺されなければならない」、「その血の責任は彼らにある」と、告げられているということです。そのように、死という厳しい処罰を主が求めておられることを知るとき、私たちは少なからず困惑し、それは自分たちとは違う国の遠い昔のことだ…と、距離を置いてとらえようとします。しかし、聖書に書かれているこの律法の精神、神のみこころは、神が創造されたすべての人が、自分のこととして覚えるべきものであるのです。そして神は、そのような罪人が生きるための、救いの道を備えてくださいました。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性が登場しますが、律法学者たちは、レビ記20章10節を持ち出し、彼女は石打ちによって殺されなければならないが、あなたは何と言うのか…と、主イエスに問いただしました。すると、主は、「…罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われ、それを聞いた彼らが立ち去ると、今度は彼女に向かって、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と宣言されたのです(ヨハ8:7,11)。「あなたがたはわたしの掟を守り、それを行なわなければならない。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」(8節、2017訳)。厳罰を求める主の前に畏れをもって歩みつつ、死からいのちへと移してくださったキリスの贖いに、心から感謝する者でありたいと思います。

主の救いがすべての人にありますように。

◇聖書箇所: レビ記 19章19-37節◇(2月19日)

「あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」…レビ19:30

レビ記19章の後半にも、民が生活する中で適用すべき、さまざまな具体的な規定が書かれていますが、26-31節では、他国の異教的な行為を避けるように求められています。そしてそれらは、現代の社会の中にも見られるものであって、私たちもまた、キリストにあって贖われた、信仰によるイスラエルの民として、それらを避けるようにと、主から求められているのです。「まじないをしてはならない。卜占をしてはならない」(26節)。まじないとは、何かを吉凶のしるしとしたり、縁起をかついだりすることであり、卜占もまた、運勢を自然現象や手相やくじで判断し、物事の良し悪しの基準とすることです。星占いなどは当たり前のようにメディアで取り上げられており、人々は無意識のうちにそれらに心がとらわれ、支配されてしまっているのです。「死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない」(28節)。異教では、悲しみのために自らのからだに傷をつけることが行なわれていました。また、入墨も異教の習慣であって、それをファッションのようにとらえてはならないのです。私たちは、神によって造られ与えられている肉体を、そして聖霊が住まわれる宮とされているからだを、大切に扱い、きよく保つべきなのです。自分のからだをもって、神の栄光を現わすべきなのです(1コリ6:20)。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出20:8)。十戒のその大切な教えが30節にも出て来ます。キリスト者にとっての聖なる日は、キリストがよみがえられた週の初めの日、すなわち日曜日です。この日をレジャーや買い物のために過ごすのではなく、主の聖所を畏れる、すなわち主を礼拝し、慕い求め、聖徒たちとの主にある交わりを持つために、聖別し、取り分けるべきなのです。そのように、絶えず主のみこころの内を歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 19章1-18節◇(2月18日)

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」…レビ19:18

レビ記19章には、主がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒(出エジ20章)が繰り返されていますが、18節では、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という、大切な第二の戒めとして、主イエスが引用し人々に語られた教え(マタ22:39)が書かれています。レビ記のことばとしてそれを読む中で、気づかされることが2つあります。その第一は、「わたしは主である」ということばが、その後に書かれているということです。そこにはさまざまなメッセージが含まれていますが、それはまず何よりも、主権者である神が、そのことをご自身の民に命じておられるということです。それが主の御旨であって、民はそれに対して、自分の思いや感情を越えて従うことが求められているのです。「私はあなたがたの神、主である」…「わたしは主である」…と、何度も繰り返されていることにあらためて心が留まります。その第二は、「あなた自身のように愛しなさい」と主が言われているということです。単に「あなたの隣人を愛しなさい」と主が言われなかったことを思わされます。私たちと神との関わりを「縦」の関係、人々との関わりのことを「横」の関係とよく言いますが、横の関係が、神が本来意図されているものとなるためには、まず私たちの縦の関係が、確かなものとされる必要があるのです。それがなければ、人間的な努力によっては、私たちは、真実に隣人を愛することができないのです。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタ3:17)。それは、パブテスマを受けられた主イエスに対する父なる神の声ですが、それはまた、キリストにあって贖われた私たちへの声でもあります。私は神に愛されている…赦されている…神の子どもとされている…。そのことを感謝と喜びをもって日々受け取る者こそ、自分の隣人を自分自身のように愛する者とされるのです。主の愛をしっかりと受け取って歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 18章◇(2月17日)

「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行うことがないためである。」…レビ18:26

レビ記18章には、忌みきらうべきこと、特に性的な不品行について多くのことが述べられていますが、それらは、エジプトやカナンの先住民たちにおいて普通に行なわれていた行為であり、主は、それらをまねるな、行なうなと、ご自身の民に対して厳しく命じておられるのです。6-23節においては、近親相姦、幼児犠牲、同性愛、獣姦など、読んでいて思わず眉をひそめたくなることが書かれていますが、そのような恥ずべき道ならぬことは、当時だけでなく、今もなお行なわれているのです。特に同性愛については、そのことを認め、受容すべきだとする社会的風潮が、急速に広まりつつあります。そしてそれは、差別と偏見をなくし、平等な社会を実現すべしとする、この世的なヒューマニズムに基づく考えであって、今日の箇所にはっきりと書かれているように、イスラエルの神は、そのことを含め、すべての性的不品行、異邦人の異教的な行為を、忌むべきこととして、明確に禁じておられるのです。そのような誤ったあり方に妥協したり迎合する余地は、まったくないのです。みことばに反することが堂々とまかり通る社会…それに異を唱える者を差別主義者と非難する人々…。その背後には、神の国の拡大を阻止し、人々を死に追いやろうとするサタンの働きがあります。そのような中、まず私たちがみことばにしっかりと立ち、何が主のみこころで正しいことであるのかを、きちんと知る必要があるのです。また、実際にそのような中にある人々をさばき、切り捨て、白眼視することなく、彼らの目が開かれ、そのようなあり方が間違っていることに気づくように、何よりも、キリストにあって救われ、いやしと解放を受けることができるように、本来の生き方を取り戻して、「生きる」(5節)者とされるよう、とりなし祈るべきなのです。祭司としてのその務めを、しっかりと果たしたいと思います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: レビ記 16章◇(2月15日)

「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。」…レビ16:21

レビ記16章は「贖罪の日」に関する教えです。ユダヤの暦で第7の月の10日には大祭司が会見の天幕に入り、さらに垂れ幕の向こう側にある「至聖所」に進み行き、自分自身と家族のため、そしてイスラエルの民の罪のため、定められた手順に従って贖いを行い、神からの赦しときよめを受けなければならなかったのです。それは、神と民との間の和解をとりなすことを意味していました。その贖罪の日の規定が神から示されたのは、アロンのふたりの息子ナダブとアビフが、主が命じていなかった異なった火をささげたために、主の前から出た火によって焼き尽くされてしまった出来事の後でした(1節)。「かってな時に…死ぬことのないために…」ということば(2節)に、主が聖であり義であると同時に、愛とあわれみに満ちたお方であることを、あらためて教えられます。至聖所に入る大祭司アロンは、罪のためのいけにえとして雄牛を、全焼のいけにえとして雄羊を携え、さらに会衆から、同じいけにえとしてそれぞれ、雄やぎ2頭、雄羊1頭を取る必要がありました(3,5節)。そしてそれらの罪のためのいけにえの血は、至聖所に置かれている契約の箱に載せた「贖いのふた」の上と前に振りかけられ(14-15節)、さらに祭壇の回りにある角に塗られました(18節)。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(ヘブ9:22)。またアロンは「アザゼルのやぎ」の頭に両手を置き、民の罪をすべて告白し、それを負わせ、民の罪を除き去る身代りとして、荒野に放ったのです。民の罪を贖うためのいけにえの血…罪を負わされ放たれるアザゼルのやぎ…。それらはキリストの贖罪のみわざを指し示しています。ご自分の血によって至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた大祭司なるキリスト(ヘブル9:11-12)をあがめ、感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: レビ記 15章◇(2月14日)

「あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。」…レビ15:31

レビ記にはさまざまな規定が事細かに書かれていますが、同じような内容が繰り返されている箇所に来ると、そこを読み飛ばしたくなる思いにしばしば駆られます。しかしそれは、その手順や動作などの表面的なことだけに目を向けたり、それをユダヤ人だけのものとしてとらえようとするからであって、なぜそれが求められるのか、規定の根底にあるその本質をきちんと理解し、そこから、自分たちへの神のみ思いを知ることが大切なのです。レビ記15章は、漏出の汚れに関する教えです。女性の生理のような誰にでも起こる正常なものも含め、本来はからだの中に留まっている血液などが、何らかの理由で体外に流れ出る場合が当てはまります。神はそのように漏出した者は夕方まで、すなわちその日いっぱい汚れるとし、さらにその者と接触した者にも、その汚れが移る、つまり「感染」するとしたのです(24節)。「イスラエル人をその汚れから離れさせなさい」と、主はモーセとアロンに命じられましたが、それは、教えをないがしろにする者たちによって、民の間にあった幕屋が汚されないように、またその者たちのいのちが取られないようにするためでした。幕屋とは主の住まいであって、荒野を旅する民の間に常にともにあったのです。そのように、自分たちのいのちに直結することとして、教えを聞かされていたイスラエルの民は、主を畏れ、それを遵守しました。そしてその教えは、キリストにある神の民であり、御霊のみ住まいとされた私たちにも、その本質において、当然適用されるべきものなのです。この世と調子を合わせず汚れから離れる(ロマ12:1)…。神に喜ばれない行ないやことばを「漏出」してしまったら、直ちに主に立ち返り、キリストの血潮という水を浴びて赦しを乞う(1ヨハ1:7)…。そのようにして、主の幕屋を汚すことがないようにしていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 14章33-57節◇(2月13日)

「人々は別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の土を取って、その家を塗り直す。」…レビ14:42

33節以降には、家がツァラアトにより汚れたときの対応について記されています。そこでのツァラアトは、もちろんハンセン病を意味するのではなく、壁に「かび」が発生した状況であったと思われますが(37節参照)、いずれにしてもヘブル人は、それが生じた際には「患部」(冒された場所:2017訳)、「悪性」などと表現し、家がツァラアトに冒されて汚れたと考えたのです(43-44節)。そのきよめには、人のツァラアトとは異なり、動物や穀物のいけにえによる神へのささげ物は不要でした。祭司によってそれがどのような状態かが調査され、疑わしいようであればその家は7日間閉ざされ、それでも変わらないようであれば、その「患部」のある石を取り出し、町の外の汚れた場所に投げ捨て、さらに家の内側の面を削り落として、その土(漆喰:2017訳)も同様に処理したのです(40-41節)。そして当然ながら、汚れたものが除去されたそれらの場所には、新しい石が組み入れられ、新しい土によって壁が塗られました。そしてその後、症状が再び現れないなら、祭司はその家をきよいと宣言したのです(48節)。「わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える」(エゼ11:19)。預言者エゼキエルを通して、神はご自身の民にそのように語られました。「肉の心」とは、石のような堅い頑迷な心でなく、肉のような柔らかい従順な心という意味です。私たちもキリストを信じて義とされ、そのように肉の心を与えられたのです。新しい霊、きよい御霊を与えられているのです。そしてさらに私たちは、その御霊なる主の働きによって、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ」続けているのです(2コリ3:18)。ツァラアトで汚れていた家が、キリストの血によってきよめられて、今や御霊の住まわれる宮とされていることを感謝したいと思います。

御名があがめられますように。

◇聖書箇所: レビ記 14章21-32節◇(2月12日)

「以上は、ツァラアトの患部のある者で、きよめに要するものを手に入れることのできない者のためのおしえである。」…レビ14:32

1-20節に書かれているツァラアトに冒された者のきめの規定によれば、傷のない雄の子羊2頭のうち1頭は罪過のためのいけにえとしてほふられ、その血が、きよめられるべき者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られ(14節)、また残りの1頭は、穀物のささげものととともに全焼のいけにえとしてささげられ、それを終えたときに「彼はきよい」と判定されました(20節)。21-32節は、貧しくてその雄の子羊を1頭しか手に入れることのできない人の場合の、ツァラアトのきよめの規定です。そのような者は、もう1頭の雄の子羊の代わりに、はるかに安い山鳩2羽か家鳩のひな2羽を取り、1羽を罪のためのいけにえ、他の1羽を全焼のいけにえとすることが認められ、さらに小麦粉の量も3分の1で済んだのです。それは神の愛とあわれみに基づく配慮にほかなりません。主が貧しい者についてどう扱われるのか…それは詩篇の中にも多く記されています。「貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない」(詩9:18)、「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる」(詩25:9)、「主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる」(詩149:4)。「貧しい者」とは、経済的な意味だけではありません。「心の貧しい者」、すなわち自分のうちにある罪深さ、いたらなさを神の前に素直に認める者をも意味します。主イエスも「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6:20)と言われました。私たちもまた、汚れた者、貧しい者、きよめられるべき者です。そして、主にささげることのできるものは何もなかったのです。しかしキリストが、私たちのために愛とあわれみをもって、ご自身をいけにえとしてささげられたので、わたしたちは「きよい」とされたのです。主にあって「富んでいる」者だということを覚えたいと思います。

神の国の豊かさを味わうことができますように。

◇聖書箇所: レビ記 14章1-20節◇(2月11日)

「祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。」…レビ14:17

ツァラアトに冒された者がきよめられるための手続きが記されています。きよい小鳥、傷のない子羊といった、いけにえの動物だけでなく、杉の木、緋色の撚り糸、ヒソプ、さらには小麦、油と、そこで用いられるものが挙げられていますが、神はそのように、具体的かつ詳細な教えを、モーセを通してご自身の民に示されたのです。ここを読んであらためて教えられるのは以下のことです。1)祭司が必要であった14-20節はすべて「祭司は」ということばで書き始められています。そのきよめの働きに主体的に関わるのは、きよえられるべき本人というよりも、むしろ祭司です。祭司がいなければ、ツァラアトの汚れのきよめは成立しなかったのです。2)動物のいけにえが必要であったいけにえ(生贄)とはすなわち、生きもののいのちが取られるということであり、主はさらに、そのほふられたいけにえの動物のの血を求められたのです。(6,14節)。3)油が塗られた油は、祭司、預言者、王がその職に就く際、神に祝福され、用いられるようにとの願いをもって、それらの者に注がれるために用いられました。その油が、いけにえの血が塗られたのと同じ部分に、上塗りされたのです。私たちのうちにある「ツァラアト」…すなわち罪がきよめられるためにも、祭司といけにえと血が必要です。そして、大祭司なるキリストが、ご自身をいけにえとしてささげられ、血を流され、それを成し遂げてくださったのです。さらに、贖われた私たちは、油を注がれ、主の証人、キリストの弟子とされて、主の働きのために用いられていくのです。そのようにして、神がキリストにあって私たちをきよめ、私たちを通してこの地に救いのみわざを現してくださることを、感謝したいと思います。

キリストの御名があがめられますように

◇聖書箇所: レビ記 13章29-59節◇(2月10日)

「彼はツァラアトの者であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する…」…レビ13:44

13-14章は、「ツァラアト」に関する規定です。ツァラアトは新改訳2版では「らい病」(現在のハンセン病)となっていますが、「らい」が差別と偏見を受けてきたこと、聖書では人の皮膚に加え、家の壁などにも現れるものとされ、ヘブル語「ツァラアト」が特定の病名に結びつけられないことから、3版からそのように変更されました。人や衣服がツァラアトに冒されているかどうかの判断はもっぱら祭司が行いましたが、その基準が祭司によってまちまちにならぬよう、患部における細い黄色の毛や白く光る斑点の有無など、神ご自身によって、事細かに決められていました。そして、祭司はさらに、患部が陽性と思われる場合には、それを隔離したり、焼く・洗う・ちぎり取るなどの処置を取るように求められたのです。一方、ツァラアトに冒された人は、衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、「汚れている、汚れている」と叫び、民の宿営の外に独りで住む必要がありました。当時はツァラアトの感染力が強いと考えられていたからです。「汚れている、汚れている…」。その叫びは、実は、ツァラアトで汚れた者だけのものではないことに気づかされます。それは、本来、「罪」に汚れたすべての人にとっての叫びでもあるのです。しかし、キリストが十字架にかかって血を流し、人々の罪をきよめてくださったゆえに、私たちは、「あなたはきよい」、「あなたの罪は赦された」という宣告を、大祭司であるキリストから受け取ることができるのです。「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」(ヘブ13:12)。宿営の外で「汚れている」と叫ばなければならなかった私たちのために、キリストは、苦難のしもべとして、門の外で苦しみを受けられたのです。その贖いを感謝し、主に賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 4章10-23節(2月8日)

「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」…ピリピ4:18

ピリピの教会は、パウロの働きのために献金や献品をし、マケドニヤを離れてさらに福音宣教を進めていこうとする彼を助けました。そしてそれは一度だけではありませんでした。当時、そのようにしてパウロを支援する教会は、ほかに一つもなかったと彼は言っています(15節)。他の教会はパウロの働きに関心がなかったのか、それともささげるだけの十分な力がなかったのか…。いずれにしてもその支援はパウロを大いに励まし、また実際的な支えとなって、彼の必要を満たしたのです(16節)パウロは、手紙の最後にそのことに触れていますが、彼は、ささげ物をまた送って欲しいと催促しているのではなく、ピリピの教会と信徒一人ひとりの上に、霊的祝福が与えられるよう神に願い求めているのです。それは、パウロのとりなしの祈りのことばなのです(17節)。また、18節においてパウロは、その贈り物が香ばしいかおりであり、神が喜んで受けてくださるささげ物なのだと言っています。ピリピ教会の信徒たちが、愛と信仰をもって、福音宣教の働きに奮闘しているパウロに送ったささげ物は、神に届いているのです。神に喜ばれているのです。だからこそ、霊的祝福が天におられる神からもたらされ、ピリピの人々の必要もまたすべて満たされると信じ、パウロはそれを神に祈り求めたのです(19節)。あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれた…と、パウロは言っています(14節)。それは、たとえ宣教の現場に実際にいっしょにいなくても、思いを一つにして、ささげ物をもって後方支援しているピリピの教会は、霊的な意味においては、ともに労苦し、ともに喜び、ともに主の働きを担っているということです。そしてそれは主に確かに覚えられ、喜ばれていたのです。それは今も変わりません。私たちもそのようでありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 4章1-9節◇(2月7日)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」…ピリピ4:7

「いつも主にあって喜びなさい」と、パウロは、ピリピ教会の信徒たちに命じています。割礼を受けなければ救われないと主張する偽教師たちによって教会が混乱し、一人ひとりもさまざまな試練や困難に直面する中、喜ぶということは難しいことであったに違いありません。確かに感情的にはそのような気持ちにはなれなかったでしょう。しかしパウロは、「いつも」、あらゆる場合に、どのような状況においても喜びなさい、そして、「主にあって」、すなわち、絶えず主の御手の中に生かされていること、また、死からよみがえられた勝利者、必要を満たしてくださる恵みの主なるキリストが、世の終わりまでもともにいてくださることを覚え、その主から平安と希望をいただいて、喜びなさいと言っているのです。また、6節においてもパウロは、「あらゆる場合に」感謝をもって神に祈り、願い事を神に知っていただくようにと命じ、そうすれば、人のすべての考えにまさる(理解を超えた:2017訳)神の平安が、心と思いを「キリスト・イエスにあって」守ってくれると言っているのです。さらに8節では、「すべての~こと」に心を留めなさいと命じていますが、それらの「いつも」、「あらゆる」、「すべての」というパウロのことばが意味するのは、「徹底的に」、「妥協せず」、「中途半端にならずに」ということです。そしてそれは、主がご自身の民に対して求めておられるあり方に、ほかならないのです。「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙3:15-16)。こんな時に喜べるわけがない…、こんな状況になっていまさら祈ってもしょうがない…。私たちはついそう考えます。しかし、いつも、あらゆる場合に、すべての状況において、主にあって喜び、祈るなら、私たちの心には、キリストにある希望が与えられるのです。御霊に助けられつつ、徹底的に主に信頼して歩み続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 3章12-21節◇(2月6日)

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」…ピリピ3:14

パウロはすでに、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(2:12)と言っていますが、今日の箇所でも彼は、「ただ捕らえようとして、追求している」と言い、自分の救いがいまだ完成してはいないこと、その完成に向かって努力すること、目標を目指して前進することの大切さを、ピリピ教会の人々に伝えようとしています。キリストの十字架の贖いによって罪の中から救い出された私たちは、神との交わりの中に入れられています。神の国の豊かさを味わっています。しかしパウロのことばから私たちは、そこに留まっていてはならない…目的地はそこではない…その先にさらに進みなさい…という、神ご自身からの促しを受け取るのです。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(12節)、「目標を目ざして一心に走っているのです」(13節)とのパウロのことばに、私たちも心を合わせたいと思います。ではその「目標」とはなんでしょうか…。目標とは「目当て」であり、目を留めるところです。それは、キリストご自身なのです。ヘブル書の著者もこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブ12:2)。そして前節では、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、パウロと同じことを言っているのです。「兄弟たち。私を見ならう者になってください」(17節)。パウロは自分が不完全な者、罪深い者であることを痛感していました。彼は自らを誇っているわけではないのです。ただひたすら、完全である方、目標である方、キリストに目を留め、ひたむきに進む自分と同じようになって、一緒に走ってほしい、そして競走を最後まで走り抜き、ともに神の栄冠を受けよう、と励ましているのです。多く証人たち(ヘブ12:1)の声援を耳にしつつ、さらに前に向かって進み続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 3章1-11節◇(2月5日)

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」…ピリピ3:7

パウロは、ピリピの聖徒たちに対し、悪い働き人に気をつけるようにと言っていますが、それは、キリストを信じるだけでは不十分、割礼を受けなければ救われないと主張していた、ユダヤ主義的キリスト者のことです。パウロはそんな彼らを、「肉体を傷つけるだけの者」(2節、2017訳脚注)と批判しています。彼らは、外面的なこと、儀式にとらわれた者たちであったのです。その割礼は、神がイスラエルの男子に対して、生後8日目に受けるよう求められたことであり(創17:12)、ユダヤ人であるパウロももちろん受けていました。しかし彼は、「…キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」と言っています。そのような内面の割礼こそ、神に喜ばれるのです。パウロはかつて、律法に精通したパリサイ派の者として、キリストの教えを信じる者たちを異端者として迫害し、それが神に喜ばれることだと信じていました。しかし、キリストと出会い、180度変えられた彼は、徳であったすべてのものを損だと思うようになった…キリストのゆえに失ったすべては、ちりあくただと考えている…それは、自分には、キリストへの信仰に基づく義が神から与えられるからなのだ…と言っているのです(7-9節)。あなたは何を誇り、何に頼って生きているのか…。神はそのように、すべての人に問い掛けておられます。自らの力にひたすら頼り、がんばって生きるのか…、いくつもの難局を乗り越えてきたという自信をしっかりと持つのか、それとも何でも打ち明けられる親友を頼りにするのか…。しかし、何よりも私たちが誇り、拠り頼むべきは、私たちを罪の中から救い出し、永遠に続くいのちの中に生かし、世の終わりまで私たちとともにいてくださるイエス・キリストなのです。キリストへの信頼と期待をますます大きくし、歩み続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 2章12-30節◇(2月4日)

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」…ピリピ2:12

「自分の救いの達成に努めなさい」とパウロは言っています。それはつまり、私たちの救いはまだ完成に至っていないということです。私たちはキリストを信じて罪を赦され、神の子どもとされました。しかしそれで終わりではないのです。それは救いのプロセスの始まりであって、私たちは、終わりの日における救いの完成に向けての途上にあるのです。13節以降のことばは、その12節からの文脈の中で理解されるべきです。「志」(13節)とは、その救いの達成を成し遂げようとする意志であり、「すべてのこと」(14節)とは、救いの達成のために有益なものとして、主が私たちに与えられる訓練であり、パウロはそれを、つぶやかず、疑わずに受けなさいと言っているのです。そしてそのように、救いの達成に向けて私たちが努めるなら、私たちは日々、御霊の働きにより造り変えられ、主のみこころにかなう者とされていきます。「非難されるところのない純真な者」、「傷のない神の子ども」、「世の光」とは、まさに、主が願っておられる、私たちのあるべき姿なのです。「救いの達成のために努めなさい」。その努力は、人間的ながんばりではありません。それはむしろ、主の前に全面降伏して、自らをすべて神に明け渡すということです。そしてパウロが「恐れおののいて」と言うように、私たちは主を畏れ、主の主権を認め、最終的に私たちの救いを完成に至らせてくださるのは主であることを、堅く信じるべきなのです。また、「いのちのことばをしっかり握って」とあるように(16節)、神のことばによって、日々照らされ、教えられ、導かれる必要があるのです。世はますます曲がった邪悪なものになっていきますが、忍耐をもって、主の訓練を受けていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 2章1-11節◇(2月3日)

「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」…ピリピ2:5(新改訳2017)

1-4節のパウロのことば…。それは、当時、ピリピの教会の中に、そこに書かれている、利己的な思いや、虚栄から行動するような者が少なからずいたこと、そして、それによって教会の中の一致が乱され、バラバラになりかけていたことを暗示しています。そのようであってはいけない…自己中心にならず、他者のことも顧みよ…と、ピリピの信徒たちに促すパウロはさらに、キリストのうちにあるへりくだった思いを抱くようにと命じ、キリストがいかに自らを低くし、父なる神に従順に従われたかを6節以降で述べています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして…」(2017訳)とありますが、それは、直訳的に言えば、「神として持っている権威の行使に固執せず、それを放棄して…」ということです。キリストはそのように、父なる神への全き服従と自らの明け渡しをもって、ご自分の前に置かれた道を進まれ、十字架にかかって死ぬという、父のみ旨に従われたのです。「十字架から降りて自分を救え…」。十字架にかけられたキリストが、もしその群衆の声に動かされ、神としての力をもってそのようにしたなら…、罪人である私たちは今なお、闇の中に閉じ込められ、神のさばきを、死をただ恐れる者とならねばならなかったのです。利己的になるな、キリストの思いを抱くようにせよ…。パウロのそのことばは、単なる道徳的な教えではありません。そうしなければ、聖徒たちが主のみ旨に従わなければ、神の救いのご計画は進んでいかない、御国は拡がっていかないということなのです。逆にそうするなら、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白し、父なる神に栄光が帰されるということなのです。そのような神の視点を持って歩む者とされたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 1章1-11節(2月1日)

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。…」…ピリピ1:9-10

パウロは、この手紙の初めにおいて、短い挨拶の後すぐに、「あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り…」(3-4節)と、離れてはいても、ピリピの教会の信徒たちが与えられていることを神に感謝し、彼らがますます霊的に成長し、神に用いられ、救われる人々が教会にさらに増し加えられていくことを確信しつつ、喜びをもってとりなし祈り続けていると、語っています。9節以降にその祈りの内容が具体的に書かれていますが、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によっていよいよ豊かになる」とはどういうことでしょうか…。パウロが言う「真の知識」とは、知的な意味での単なる情報ではありません。それは霊的な知識、すなわち、主がどのようなご性質を持ったお方で、どのような思いに満ちているのか…それを主との交わりの中で悟る、御霊によって教えられる、そのようなものであるのです。また「識別力」もまた、霊的な意味におけるものであり、主の目にうつる汚れときよさ、悪いものと良いものを、自分でも判別することができる洞察力なのです。そのようにして、真の知識と識別力が主から与えられることによって、自分がいかに罪深く汚れた者であるのか、そしてその罪をきよめて贖うために、主がどれほどの犠牲を払ってくださったのか、そのことを明確に示されて、私たちは、ますます神の愛の大きさ、深さ、広さを知り、そのことへの感謝にあふれ、神への礼拝と献身をもって愛を表し、また真実の愛をもって人々を愛する者へと変えられて行くのです。そのパウロの祈りは、神ご自身の私たちに対する強い願いです。主との親密な交わりを深め、私たちの愛がいよいよ豊かで真実なものにされるようにと願います。

主の愛が心に満ちあふれますように。