◇聖書箇所:ローマ人への手紙 16章17-27節◇(11月30日)

「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」…ローマ16:19

挨拶のことばを淡々と述べてきたパウロは、その途中でやや唐突に、キリストの福音とは異なった教えをローマの教会、聖徒たちの間に持ち込み、人々に分裂とつまづきをもたらす偽教師たちを警戒し、そのような者たちと関わりを持たないようにせよと命じています(17節)。「そのような者たちは…自分の欲望に仕えているのです」(18節)。偽教師たちは、キリストのことを語ってはいても、キリストに仕えるのではなく、人々を支配するという自らの欲望に「仕えて」いるのです。しかし彼らは、そんなことは感じさせない美辞麗句をもって、人々を惑わし、神の真理から引き離そうとしており、その背後には、神に敵対するサタンが働いているのです。ローマの聖徒たちの多くは、素直で純粋な心を持ち、何事においても従順な態度を取っていました。それは良いことである反面、騙されやすいという弱点でもあります。パウロはそのことを思い、彼らのあり方を喜びつつも、「善にはさとく、悪にはうとくある」ようにと訴えています。「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と言われた主のことばが思い起こされます(マタ10:16)。キリストに贖われた聖徒たちは、神の子ども、天に国籍を持つ者とされていますが、今なお、悪と不義に満ちたこの世に置かれているのであって、羊を狙う狼が周りにいることを覚え、注意を怠らないようにすべきなのです。そして何よりも、すべての権力を支配し、王として統べ治めておられるキリストに絶えず信頼し、また、みことばを通して奥義を私たちに啓示し(26節)、信仰を強め、正しい道を歩ませてくださる、御霊の知恵と助けと導きを求めるべきなのです。「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます」(20節)。そのことばを私たちもしっかりと受けとめ、聖徒としてふさわしい歩みを続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 16章1-16節◇(11月29日)

「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。」…ローマ16:2

ローマの聖徒たちに宛てたこの手紙を終えるにあたり、パウロは、自分の同労者たちへの愛と感謝の思いを込て、「~によろしく」と繰り返し語っています。ただしその一人ひとりは、聖書の他の箇所での言及がない場合がほとんどで、それ以上の詳細は不明ですが、その中でプリスカとアキラの名前が出ています。二人は夫婦であり、パウロと同じ天幕作りを職業としていたので、パウロは、コリント訪問の際には、二人の家に住み、そこで一緒に仕事をしました。二人は、パウロがシリアに船で向ったときにはそれに同行しましたし、また、アポロという聖書に通じたユダヤ人がヨハネのバプテスマしか知らなかったため、彼に対して神の道を正確に教えることもしたのです(使18章)。さらに4節によれば、二人は、パウロのいのちを救うために、自分たちのいのちを危険にさらすようなこともしたのであり、もし彼らの存在がなかったら、パウロは道半ばでいのちを絶たれ、異邦人への宣教が途絶えてしまったかもしれないのです。パウロはそのことを思い、「彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています」と述べています。もちろん他の同労者たちもまた、さまざまな形でパウロを助け、支えてきたのです。そしてなお、それぞれのところで、主にあって労苦し、奮闘している者たちなのです。パウロが手紙の終わりにその彼らの名前を挙げたのは、単に彼らへの挨拶をローマの聖徒たちに求めたのではなく、その一人ひとりのことを覚え、主にとりなして祈ってほしい、また、必要であれば実際的な支援をしてほしい、という願いがあったからに違いありません(2節)。たとえ離れた場所にいても、詳しい事情がわからなくても、一人ひとりを覚え、名前を挙げてとりなすなら、その祈りは確かに主に届くのです。そのような霊的な繋がり、結びつきの中に、私たちが置かれていることを感謝したいと思います。

祈りに主が答えてくださいますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 15章14-21節◇(11月27日)

「このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。」…ローマ15:20

ユダヤ人と異邦人との関係、また両者の一致についても語って来たパウロは、さらに、自分が神から与えられた召し、すなわち、異邦人への使徒としての使命を述べていますが、その中の、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています」ということばが心に留まります。祭司とは神と人との仲介をする者であり、祭司の務めとは、神と人とが和解し、交わりが回復するようにと、いけにえをささげ、祈りをもってとりなすことです。しかしそれは、大祭司なるイエス・キリストが、ご自身を傷のない完全ないけにえとしてささげられた、その贖いによってすでに成し遂げられたのであり、パウロはそのことを感謝をもって受けとめつつ(18-19節)、それとは異なる意味での「祭司の務め」について語っているのです。「それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです」(16節)。そのように言うパウロは、自分が異邦人にキリストの福音を宣べ伝えることにより、彼らが救われ、御霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれるささげ物となることにより、祭司の務めを果たすことになると考えていたのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(12:1)と命じる彼のことばが思い起こされます。20-21節では、キリストの福音を宣べ伝える際、まだ語られていない未伝の地に出て行くというパウロの思いが語られていますが、それは彼が述べているとおり、宣べ伝える人がいなければ聞くことができず、聞くことができなければ信じることができないからです(10:14-15)。福音を聞いて真理を悟り、信じるようになるのは、聖霊の働きによるのであって、私たちもまた、主の手足となり口となって、その働きをなす者とされているのです。未伝の地はすぐそばにあることを覚え、そこに出て行く者でありたいと思います。

ますます神に喜ばれる者とされますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 15章1-13節◇(11月26日)

「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」…ローマ15:7

これまでパウロは、他者に対する愛の配慮の大切さを訴えてきましたが、さらに積極的に、隣人を喜ばせるという行動原理を示し、そこから、キリストにあって一致することの重要性を示そうとしています。そしてそれは、キリストのからだ、信仰共同体である教会の「一人ひとり」(2節)が、自覚と責任をもって実践していくべきことであり、教会のかしらなるキリストの本質とみわざに根差しているのです。3節においてパウロは、人々からの嘲りを受けつつ、人類を罪から救い出すためにいのちを差し出されたキリストを、模範として指し示しています。そのキリストが示された愛…自分をささげ、人々のために生きる…それは何よりも父なる神への愛と従順に基づいているのであり、「隣人を喜ばせるべきです」(2節)と訴えるパウロも、もちろんそのことを前提としています。しかしもしも、あなたの神である主を愛せよという第一の戒めより、あなたの隣人を愛せよという第二の戒めが優先されるなら、それは本末転倒であり、神のみこころとは異なる、人間中心的な教えとなってしまうのです。キリスト者の一致を語ってきたパウロは、7節以降において今度は、ユダヤ人と異邦人の一致について、旧約聖書のことばを引用しつつ主張しています。同じ民族の者同士だけでなく、異邦人がユダヤ人を、ユダヤ人が異邦人を、「互いに受け入れ合う」(7節)ことが神のみこころであり、神の栄光、神の国の祝福がこの地に現わされるために大切なことなのです。そしてそれは、異邦人に対しても深いあわれみを示されたキリストを、聖徒たちが模範とするということでもあるのです。異邦人もユダヤ人も、すべての国民がキリストにあって一つとされる…キリストにある望みをもって神の栄光のために生きる者とされる…それが、神が願っておられることなのです。そしてそれは、聖徒たち一人ひとりの、日常における小さな愛のわざから拡がっていくのです。そのために、ますます主に倣って歩む者とされたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 14章13-23節◇(11月25日)

「ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」…ローマ14:19

パウロは、これまで述べてきたことをさらに展開して、「兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい」と命じています(1節)。肉などの食べ物や特定の日のことで他者と対立し、相手をさばいたり見下したりする態度を取るのなら、それは相手につまずきを与えることになるのだと言うのです。また、そのように良いこととして決めるのは、神へのそれぞれの信仰に基づくことであり、それを自分の信仰として行えば良いのであって、他者に強要すべきではないとパウロは主張します(22節)。「口に入る物は人を汚しません」(マタ15:11a)と主イエスが言われたとおり、食べ物自体で汚れているものはないものの(14節)、「汚れている」と誰かが思うなら、その人にとってそれは「汚れたもの」なのであり、愛の配慮なくそれを無視するような言動を取るなら、その人の心を痛めることになる、それは避けるべきだとパウロは訴えているのです(15節)。さらに彼は、そもそもキリストがもたらされた神の国の本質は、飲み食いのことでなく、聖霊によって与えられる神の義であり、平和であり、喜びなのであって(17節)、それは肉的なことではなく、霊的なことなのだから、キリストに贖われ、神の国に属する者となった私たちは、その神の国の祝福を、お互いの霊的成長に役立つことを何より追い求めようではないかと、読者に促しています。「お互いの霊的成長に役立つこと」と訳されている部分の直訳は「お互いを建て上げること」です(脚注参照)。そのように互いに尊重し合い、徳を高め合い、建て上げ合うことによって、個々が成長するだけでなく、引いては、キリストのからだ全体が成熟したものとなり、教会を通してますます神のみわざが現わされ、神の国がこの地に拡がっていくのです。そしてそれは、「主のために生きる」ということにほかならないのです(8節)。主が願われるそのあり方を、さらに追い求めたいと思います。

聖霊による喜びがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 11章11-24節◇(11月19日)

「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」…ローマ11:18

神はご自分の民を退けたのか…決してそんなことはないと語ったパウロは(1節)、同じ語り口をもって、イスラエルの民がつまずいたのは倒れるためなのか…決してそんなことはない、彼らの背きによって救いが異邦人に及び、彼らにねたみが起こされるのだ、と論じています(11節)。さらにパウロは、イスラエルの民の神への背きが、世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、すなわち、それによって異邦人にも神の救いが及び、霊的祝福がもたらされるのであれば、彼ら自身がみな救われる時には、その祝福はどんなに大きなものとなるか…と語っています(12節)。「彼らがみな救われる」とは、直訳すれば「彼らの完成」(脚注)であり、現在はまだ途中の段階にあること、しかしたとえ時間がかかっても、廻り道をしても、必ず完成に至ること、そしてそれが神のご計画であることが、そこに示唆されているのです。17-24節においては、野生種と栽培種のオリーブと、その枝のことがたとえとして語られ、ユダヤ人が確かに神に選ばれた民であることが強調され、一方、異邦人の聖徒たちに対して、高慢にならないようにとの戒めがなされています。「折られた枝」とは不信仰なユダヤ人を表し、「野生のオリーブ」とは異邦人、「栽培されたオリーブ」とはユダヤ人、「接ぎ木される」とは、神につながれ、霊的いのちがもたらされることを意味しています。そのように、野生のオリーブは、栽培されたオリーブに接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分、すなわち霊的祝福を今なお受けているのであって、ユダヤ人の立場は異邦人に取って代わり、教会がその役目を担うように置き換えられたとするのは誤りなのです。また、異邦人である私たちが、そのように扱われた恩恵を忘れて思い上がり、ユダヤ人を軽蔑して排斥するようであってはならないのです。みことばに立ち、自らの立場と役割をわきまえ知る者でありたいと思います。

へりくだって歩むことができますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 11章1-10節◇(11月18日)

「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。」…ローマ11:5

「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して」と、イザヤ書65章2節を引用した(10:21)パウロは、神はご自分の民であるイスラエルを、決して見捨てられたわけではないということを、さらに明らかにしていきます。1節では「決してそんなことはありません」と、強い口調をもってそのことを否定しているのです。かつてイスラエルの民が、預言者たちのいのちを奪った際、エリヤがそのことを神に訴えると、神は「わたしは、わたし自身のために、男子7千人を残している」(4節)と彼に告げられました。それはつまり、多くの頑ななイスラエルの民の中にあって、神のみこころにかなう者たちが残され、取り分けられ、選ばれているということです。そのことを示したパウロはさらに、それと同じように、今の時代においても、神の恵みによって選ばれ、残された者たちがいると主張しています。そしてそれはあくまで神の一方的な好意によること、つまり恵みであって、人間の側の努力や功績によるものではないのです。ご自身の民として、神に選ばれたイスラエルの民が、神に背き、鈍い心と見ない目と聞かない耳を持つようにされても、その中に「残りの者」、「選びの器」は取っておかれたのであり、それは神のご計画であったのです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」(ヨハ15:16a)。主イエスは、ご自分の弟子たちを選ばれる際、わたしについて来なさいと、一人ひとりに声を掛けて召し出されましたが、私たちもその主の声を聞いて応答したのです。そのキリストの贖いによって、罪赦され、主の弟子として選ばれた私たちは、主から受けた任務を果たすことが求められています。今もなお「残りの者」とされている家族や友人のため、イスラエルの民の救いのために、福音を伝え、とりなす者とされているのです。神に救われ、生かされ、そのようにして用いられていることを感謝しつつ、その働きを全うしたいと思います。

主の恵みを絶えず覚えることができますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 10章14-21節◇(11月17日)

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」…ローマ10:17

13節で「主の御名を呼び求める者はみな救われる」と、ヨエル書2章32節のことばを引用して語ったパウロはさらに、人が主の御名を呼び求めるために必要なことは何かを示すべく、三段論法的アプローチによって論じています。呼び求めるためには信じることが必要、信じるためには神のことばを聞くことが必要、神のことばを聞くためには宣べ伝えることが必要、宣べ伝えるためには遣わされることが必要…と、宣教の働きなくして、救いを求める人が主の御名を呼び求めることはないのだと、パウロは、イザヤ書52章7節のことばを引用しつつ、その働きの重要性を強調しています(14-15節)。ではユダヤ人たちは、救いの良い知らせを聞かなかったのか、だから主の御名を呼び求めようとしなかったのか、そんなことはない、確かに彼らは聞いたのだ、それにもかかわらず、彼らはキリストの福音を信じようとしなかったのだと、詩篇19篇4節のことばを引用しつつ、パウロは、イスラエルの民のかたくなさを訴えています(18節)。さらにパウロは19節で、神からの救いと祝福については、どの民族よりもイスラエルの民が知っていた、しかし、福音を聞いても彼らは信じようとせず、それらについて無知であったはずの異邦人たちのほうが、信じて救いを受け取ることができたのだ…と、申命記32章21節のことばを引用しつつ、それは神が、イスラエルの民にねたみを起こさせるためなのだと論じています。宣教の働きなくして、救いを求める人が主の御名を呼び求めることはない…。パウロの主張があらためて心に留まります。宣教とは、キリストの福音、救いの訪れのよい知らせを人々が聞くことができるようにすることであって、主は、そのための実際的な働きを、すでに救われている私たちに託しておられるのです。そして福音を聞いた一人ひとりの救いは、主ご自身のみわざなのです。自分の役割をしっかり果たす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 10章1-13節◇(11月16日)

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」…ローマ10:9

「私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです」(1節)。「彼ら」とは、同胞であるイスラエルの民のことです。彼らは神に対して熱心でしたが、神が遣わされたイエスを救い主として信じようとせず、モーセの律法を自らの努力で守り通そうとしたのです。そのように彼らは、民族的な誇りと宗教的な熱心さにとらわれ、自己義認の過ちに陥ってしまったのです(2-3節)。「律法が目指すものはキリストです」(4節)。その別訳として、「キリストは律法の目標/成就です」とあります(脚注)。モーセの律法の意義は、人間がいかに罪深い者であるかを示し、来たるべきメシアを待望する信仰を与えることであって(ガラ3:19)、キリストが来られて律法を成就されるなら、律法はその役割を終えるのです。主イエス自身、「(律法を)廃棄するためではなく成就するために来たのです」と言われました(マタ5:17)。パウロはさらに、律法による義ではなく、信仰による義について述べています。「だれが天に上るのか」ということば(6節)は、イスラエルの民だけでなくすべての人が、自らの知恵と力によって神に義と認められようとする愚かさ、罪深さを持っていることを示唆しています。9-10節においてパウロは、イエスは自分の主だと心に信じるだけでなく、それを告白することの大切さを強調しています。なぜならそれは、同じ信仰による行為であり、内的なものが外的なものとなり、神だけでなく他者に対しても、その信仰が明らかになるからです。「イエスさまは私の主です」。「キリストは罪人である私のために死んでよみがえられました」。その告白は、一度だけでなく絶えずなされるものであり、私たちの歩みのすべての領域において、キリストが主権者であることを認め、統べ治められることを願うことばなのです。心に信じるだけでなく、そのように積極的に告白し、またそのことを他者に証しする者でありたいと思います。

救いの喜びがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 9章19-33節◇(11月15日)

「このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」…ローマ9:24

パウロは、同胞であるイスラエルの民の選びと救いについて、9~11章で論じています。9章において彼が訴えているのは、神が絶対的主権によって、みこころのままに、民を選ばれ、人をあわれみ、人の心をかたくなにされるということです。イスラエルの民を奴隷として虐げ、エジプトから出て行くのを拒んだファラオ(パロ)も、そのように、神によって立てられ取り扱われたのです(17節)。パウロはまた、神と人(民族)の関係を、陶器師と器にたとえています。陶器師である神は、同じ粘土から、あるものを尊いことに用いる特別な器として造られ、別のものをそうでない普通の器として造る自由意志、権利を持っておられるのであって(21節)、造られた器が、そのことについて文句を言うことなどできないのです。「滅ぼされるはずの怒りの器」(22節)とありますが、それは、神が造られ、ご自身の息を吹き込まれて生きるものとされた、すべての人、民族のことです。なぜなら、その器は、造られた神の命令に背いて罪を犯し、みこころに反する思いと行ないに満ちていたゆえに、神が怒りをもって壊して捨てるのが当然のものだったからです。しかし神は、その怒りの器を寛容をもって耐え忍ばれ、「あわれみの器」として生かしてくださいました。さらに、「特別な器」として造ったはずのイスラエルの民が「つまずきの石」、すなわちキリストにつまずいたために、元々普通の器として造られた異邦人を、キリストにあって、ご自身の民として加えてくださったのです。それもまた神の主権によることであり、ご自身の栄光が現され、御名がほめたたえられるためなのです。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出てものではないことが明らかにされるためです」(2コリ4:7)。人の考えを越えた神のご計画の中で、主のあわれみによって救われたことを、あらためて感謝したいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 31章16-40節◇(11月13日)

「だれか、私の言うことを 聞いてくれる者はいないものか。-ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるように-…」…ヨブ31:35

ヨブは続けます。やめもや貧しい者を助けず、みなしごにパンを食べさせないような邪険な扱いをしたことがあったなら、腕が付け根から折れてもいい、神からのわざわいに対して何もできない…と彼は言います(16-23節)。ヨブはまた、神よりも自分の富や財産に拠り頼んだことがあるなら、太陽や月を拝むことをしたのなら、神を否むというその不義のゆえに、罰せられて当然だとも言っています(24-28節)。彼はそのように、偶像礼拝の罪に対しても、自分はまったく潔白だと主張しているのです。さらにヨブは、自分のことを憎む敵が衰え、わざわいに遭ったことを知って、ただ喜び、心躍らせるような自己中心な者ではなかったし、自分の背きを覆い隠し、咎を内に秘めることもなかったと弁明しています。そして、その正しい歩みの数々を神に認めてもらいたい、不当なさばきを中止してほしいと願っているのです(29-40節)。そのようにヨブは、自分が神の前に責められるべきところは何一つないと、自信満々でした。主からの語りかけを聞くまで、ヨブがことばを発することはありませんが、彼は、最後まで自分の正しさを主張していたのです。「私はそれを肩に担ぎ、冠のように、それをこの身に結び付け、私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにしてこの方に近づきたい。」(36-37節)。君主とはすなわち王のことであり、冠とはその王がかぶる冠のことです。ヨブが自らのことをそのように思っていたことが、最後に明らかになったのです。しかしそれは、神に喜ばれない高慢の罪であって、彼はそれに気づいていないのです。「王権は主のもの。主は国々を統べ治めておられます」(詩22:28)。王権は主のものであり、人は自らのすべての領域を神に明け渡し、王なる主に治めていただくべきなのです。絶えず心の王座に主を迎えているか…と、自らのあり方を吟味したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 31章1-15節◇(11月12日)

「もし、私が偽りとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、神は私を正しい秤で量られればよい。そうすれば神に私の誠実さが分かるだろう。」…ヨブ31:5-6

ヨブのことばは続きます。「神は私の道をご覧にならないだろうか。私の歩みをすべて数えておられないだろうか」(4節)と言うヨブは、神はこれまでの歩みの中でのさまざまな良い行いを見逃しているのではないか、そうでなければ、今このような悲惨な状態の中に自分がいるのはあり得ないことだ…と、考えていたのです。5節以降においては、「もし~なら~されてもよい」という構文が繰り返されています。ヨブは、神にさばかれて当然と思われる者たちが行っている不品行、不正、不義などが、もし自分のうちにも見られるのだったら、神からの罰を受けることになってももちろん同意する…。けれども自分は、それらに当てはまる罪を何一つ犯していない正しく誠実な者なのだ…と、あらためて自分の潔白さを強調し、そのことが明らかになるのだから、ぜひきちんと調べてほしいという思いを持っていたのです。確かにヨブは、そこに挙げられている、偽り、姦淫、弱者への虐げなどの罪を犯したことはなかったでしょう。しかしそれらに対する「潔白」とは、しばしば人間的な基準から来る、道徳的、倫理的なものであって、それは神の国の価値観に基づく、神の求める基準、霊的なものと、必ずしも同じではないのです。そもそもヨブが、彼の心の中にある罪までを含め、一度も罪を犯したことがないと主張し、神にそのことを認めさせようとしていること自体、神の前に傲慢な態度であり、罪なのです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタ5:3)。「心の貧しい者」という部分の直訳は「霊において貧しい者」(脚注)です。自分が神の求める基準からいかに外れた罪深い者であるかを認め、罪人である私を赦してください、あわれんでくださいと、悔い改め、へりくだる者こそ、天の御国に招き入れられるのです。私たちもそのような者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 30章16-31節◇(11月11日)

「それでも、瓦礫の中で 人は手を伸ばさないだろうか。災難にあって 助けを求めて叫ぶときに。」…ヨブ30:24

神に対する非難の思いをますます募らせるヨブ…。彼は、自分がわざわに遭い、惨めな状態の中で痛み苦しんでいるのは、神が大きな力を自分の上に働かせ、泥の中に自分を投げ込んだからだと断じています。20~23節は、神に向って直接訴えるヨブのことばです。あなたはお答えになりません…私に目を留めてくださいません…あなたは私にとって残酷な方に変わり…私を攻め立てられます…翻弄されます…と語るヨブは、神が自分のいのちを取るのを知っている、とさえ言うのです。ヨブは、しかしまた、「私は日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、集いの中に立って助けを叫び求める。」と言っています(28節)。神に非難のことばを直接ぶつけた彼はなお、その神に望みを置いていたのです。神のあわれみを乞い願い、神に助けを叫び求めることをやめようとはしなかったのです。「私の皮膚は黒ずんで剥げ落ち、骨は熱で焼けている」(30節)と、自分の悲惨な状況に落ち込み、口をつぐんでしまおう、灰をかぶっておとなしくしていよう…とは考えなかったのです。ダビデがサウルの手から救い出された日に、彼はこう告白しました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聴かれ、私の叫びは御耳に届いた」(2サム22:7)。私たちも、苦難の中で助けを求めて叫んでも、神が答えられないように思える経験をすることがしばしばあります。しかし、そのような時にも、叫ぶのをやめて口をつぐんでしまうのではなく、なおも主に拠り頼み、主を呼び求め続けることが求められているのです。なぜなら、主は決して、ご自身の民を見捨てず、見放さないお方だからであり、その苦難を通して一人ひとりに奇しい取扱いをなされ、ご自身の御旨がこの地になされるようにされるお方だからなのです。その主のご計画全体を、私たちは測り知ることはできませんが、主に信頼し、その御名を呼び求め続ける者でありたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 30章1-15節◇(11月10日)

「それなのに、今や私は彼らの嘲りの的となり、その笑いぐさとなっている。」…ヨブ30:9

「しかし今は、私より年下の者たちが私をあざ笑う」(1節)。そのように言うヨブは、昔の幸いな日々を回想した前章とは対照的に、わざわいを受けて惨めな状態にある今の自分を思い、その落差が大きいことを嘆いています。かつては人々からの称賛と尊敬を受けた自分が、今や、年下の者たち、しかもかつて羊の群れの番犬と一緒にいるようにさせた者たちの子たちから、侮辱的に扱われるということに、ヨブは耐えられない思いでいたのです。その彼らはおそらく、さまざまな悪と不正のゆえに、世間から追い出され、「国からむちでたたき出された者たち」(8節)であって、そのような目に遭った彼らはもはや、乾いた土にかじりつくほどに困窮していました。しかしそんな彼らにさえ嘲笑され、唾を吐きかけられる仕打ちを受けるということにヨブは我慢がならず、そしてそれを神が容認し、間接的に自分を苦しめていると断定していた(11節)彼は、かつて人々のために尽くし、社会に貢献していた自分が、なぜそうされなければならないのか…と、不条理に苦しみ、憤りを覚えていたのです。「主の前に静まり耐え忍んで主を待て。その道が栄えている者や悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。…もうしばらくで悪しき者はいなくなる。その居所を調べてもそこにはいない。しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする」(詩37:7-8,10-11)。過去の幸いな日々を思い、そこから現在の惨めな状況に目を転じて、嘆きと憤りを覚えたヨブ…。しかし彼は、そこに留まることなく、さらに未来に目を向けるべきなのです。主権者である神がこの世界のすべてを支配され、その神の介入が必ずあることを覚え、憤りを捨て、忍耐をもって、その時を待ち望むべきなのです。真実な神は決して私たちを見捨てることはない…。そのことを覚え、私たちもそのようでありたいと思います。

主を待ち望むことができますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 29章◇(11月9日)

「ああ、できることなら、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。」…ヨブ29:2

この29章において、ヨブは昔の日々を回顧しています。そこに神の守りと祝福があったこと(6節)、神との近しい関係が築かれていたこと(3節)を想い、また、自分がみなしごややもめを助け、盲人や足の不自由な者を支え、困っている人々の訴えを聞いて弁護するという良い行いのゆえに(12,15,16節)、人々が自分のことを称賛し、感謝の念を抱いていたことを思い出して語っているのです。それらのことは、ヨブにとって良き想い出であり、自分が正しく歩んでいたという実績であり、関わった人々はみなその証人であったのです。「私は義をまとい、義は私をおおった。私の公正さは上着であり、かぶり物であった」(14節)と言ってヨブは自負しています。彼は、自分が息絶えても、その義と名声と栄光は不滅だと考え、自己弁護していたのです。そのように昔のことに思いをひたすら向けるヨブ…。彼は、「私は…首長のような座に着いた…王のように住み…」とも言っていますが(25節)、この章全体から感じるのは、ヨブの自己愛、自己憐憫、現実逃避的な思いです。友人たちからの語りかけが止まった今、彼は、神に喜ばれないそれらのものが自らのうちにあるということを認めるよう、主に導かれていたのです。「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者」(イザ45:7)。人の歩みには山もあり谷もあり、幸せを感じる時も不幸に思える時もあります。しかしそれらはすべて、主権者なる神の御手の中にあることなのです。主は変わらない愛をもって私たちを愛し、その中でさまざまなことを教え、自らのうちにある主に喜ばれないものに気づかせ、私たちをさらにきよめ、整えてくださるのです。いたずらに過去のことに思いを留めることなく、日々新しいことをなされる主に目を向けたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 28章◇(11月8日)

「こうして、神は人間に仰せられた。『見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである』と。」…ヨブ28:28

28章は、他の章と比較して、記述の内容や調子が異質なゆえに、後から挿入されたものであるともされています。そうではなく、最初からのものであったとしても、確かにそこでのヨブの弁論には、それまでのような激しさは見られず、ヨブ自身ではなくヨブ記の著者が、「箴言」のように、「知恵」についての見解をまとめて述べたものだとも考えられます(「知恵の賛歌」とも呼ばれます)。1~11節では、金、銀などの貴金属、サファイヤ、水晶などの宝石を探し出し、掘り進み、坑道を切り拓き、それらをなんとか掘り当てて手に入れようとする者の努力が描写されています。さらに12~19節では、、それらの高価なものが「知恵」であって、人間の力によって容易に得られるものではなく、その意味で、真の知恵の価値は、貴金属や宝石に優るものである、と述べられています。「では、知恵はどこから来るのか。悟りがある場所はどこか」(20節)。人が知恵を得たいと願っても、それが地中から掘り当てるようなものではないとしたら、いったいどこを探せばよいのか…。それは当然の疑問です。そしてその答えとして著者は、23~28節において、神だけが知恵を知っておられ、それを人に示すことができるのだ、と述べているのです。28節はその結論です。主を畏れることが知恵である…。その思想は、箴言1:7、同9:10、詩篇111:10などにも見ることができます。真の知恵とは、単に物事の理解力や、問題解決の能力を意味するのではなく、神からの啓示によって真理を悟り、主の従って歩むことであって、そのような者には、平安と喜びと確信が与えられるのです。感謝なことに私たちには、神のことばが与えられ、知恵と啓示をもたらす御霊がうちに住んでくださっています。やみに覆われ、混迷を深めていくこの世界にあって、ますます、主からもたらされる知恵をもって、歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 26章◇(11月6日)

「見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちは神についてささやきしか聞いていない。御力を示す雷を、だれが理解できるだろうか。」…ヨブ26:14

語り終えたビルダデに対して、ヨブは「あなたは」と語っています。しかし、その主張は友人全員にあてはまるものでした。彼らは、「知者」である自分たちが、無知な者を教え、助言を与えてきたと自負し、誇っていました。しかし、いったいそれはどこから出ているのか…。それは自分たちが得た知識や知恵ではなく、神が啓示された真理の光に照らされて知り得たものではないか…。あなたがたは自らを誇り得ないし、私に何の慰めも与えることはできなかったではないか…と、ヨブは皮肉の思いをもって、友人たちに指摘しているのです(2-4節)。さらにヨブは、5-14節でビルダデのことばを補うようにして語り、一つの結論として、神について人間が知り得ることは実にわずかなのであって、神にとって人間は正しくあり得ない、救いようのないうじ虫でしかないとビルダデが一方的に断じるのは、浅はかで、愚かで、神を侮辱するものでさえあると、ヨブは言っているのです。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを…」(エレ9:24)。「私はまだ知恵も学べず、聖なる方の知識も持っていない」(箴30:3)。自分は知っている、分かっている…とするのではなく、自分には知恵も知識もありません、主よ、あなたのことを教えてください、真理を悟らせてください、あなたの道に歩ませてください…とへりくだる者を、主は求めておられるのです。自分の持てるものではなく、主の御名を誇る者を、主は喜ばれるのです(詩20:7,新改訳3版)。そのように自らを低くし、主の御名を誇り、高く掲げるということは、主をあがめ、ほめたたえ、礼拝することにほかなりません。そしてその中で、私たちは、神の偉大さを知り、自らの罪深さを知り、それにもかかわらず、神に愛されていることを教えられて、喜びに満たされるのです。そのようにして、絶えずへりくだり、主を知ることを切に追い求める者でありたいと思います。

心に喜びがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 25章◇(11月5日)

「まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。」…ヨブ25:6

ビルダデの3度目のことばです。このことばをもって、エリファズ、ツォファル、ビルダデの3人の友人のことばは終わります。ビルダデは、あらためて、神は主権者であられる…すなわち、ご自身が造られたこの世界の一切をみこころのうちに統べ治めておられると告白し、その神が、高い所、天において平和をつくられ、それをこの地にもたらされる方であると語っています(2節)。「その軍勢には限りがあるだろうか」(3節)。その軍勢とは、主権者なる神を畏れず、自分たちがやりたいように歩み、神の教えに逆らう、そのような悪しき者たちの背後にあるサタンとの霊的な戦いにあたる、天の軍勢のことです。神はまた、この世を覆うやみ、一人ひとりのうちにあるやみを照らすまことの光であって、やみはその光に打ち勝つことができないのです(ヨハ1:5)。「人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか」(4節)。その主張は正しく、「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)と、詩篇(14:3)のことばを引用して語っているとおりです。しかし神は、ご自身の似姿に造られた、特別な存在である人間を、「うじ虫」と同じだとは決して思っておられないのです。神はアダムの罪によって義人ではなくなった人類を顧み、ご自身の御子を唯一の義なる人としてこの世に遣わし、その御子の贖いのみわざによって、人類を救おうと計画されたのです。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀3:22,新改訳3版)。ビルダデのことばは唐突に終わっています。そこには希望はありません。もし私たちが、彼の言うように、単なる虫けらに過ぎないとしたら、私たちの人生はなんと哀れで空しいことでしょうか。そうではないのです。神は愛と恵みとあわれみに満ちたお方なのです。私たちを、ご自身の御手の中で、喜び楽しませてくださるのです。そのことをあらためて覚え、主への感謝と賛美のうちに歩む者でありたいと思います。

平安と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 24章◇(11月4日)

「今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えるのか。だれが私のことばをたわごとと見なせるのか。」…ヨブ24:25

因果応報の考えに基づき、受けているわざわいの原因が罪にあると決めつける友人たちに対してヨブは、現実は必ずしもそのように単純ではないということを主張すべく、まず2~12節において、悪しき者たちの横暴と、その被害者である弱者たちの悲惨さについて述べています。みなしごややもめの所有するろばや牛は、悪者どもに奪われてしまいます(2-3節)。貧しい者たちのつつましい生活は、道から押しのけられ、かき乱されます(4節)。その結果、彼らは、生きて行くための食べ物を、荒れた地に出て行って探したり、悪者のぶどう畑の残り物を集めることさえしなければならなくなるのです(5-6節)。衣食住に困って助けを求めても誰もそれに答えず、神も彼らを心に留めず、見放したかのように思えるのです(7-12節)。さらに13-17節では、殺人、姦淫、窃盗の罪を犯す「光に背く者」たちのことが語られています。彼らにとっての居場所は「暗黒」なのです。しかし、そんな悪者どもがいつまでものさばって放置されるわけではありません。神が、ご自身の定めた時に介入され、日照りと暑さで溶けて消える雪解け水のように、罪を犯した者からいのちを奪い取り、よみへと移されるからです(19節)。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。悪者どもが繁栄しているように見えても、彼らはやがて必ず滅びるのです。今そうでないとしても、それがずっと続くわけではないのです。今日の状況が明日にはまったく変わることさえあるのです。神が介入し、御手を動かされるなら、そのようになるのです。そのことを信じて、今のときを耐え忍びつつ、主にある希望を持ち続けること、主を待ち望み続けること、それが信仰者に対して求められているあり方なのです。無から有を生み出される創造主に期待し、拠り頼んで歩む者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 23章◇(11月3日)

「神は、私について定めたことを成し遂げられる。神にはそのような多くの定めがあるからだ。」…ヨブ23:14

「どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたい…」(3節)と語るヨブ…。彼は、神に直接会って、自分の身の潔白さを訴えたい、そしてそれに対して神がどう答えられるかを知りたいと願っているのです。そうすれば、正しく誠実に歩んでいる自分がわざわいに遭っていることが何かの間違いであるとわかり、神に顧みられるはずだと、ヨブは期待していたのかもしれません(4-7節)。しかしその思いに反して、彼は神に会うことができないのです。「前へ進んでも」、「うしろに行っても」、「左に向って行っても」、「右に向きを変えても」ということばは、神に呼び掛けても一向に応答がなく、御声を聴くことができない…。神はいったいどこにいるのか…というヨブの思いを比喩として表しているのです(8-9節)。「しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る」(10節)。そのように語るヨブは、受けている試練を通してもなお、精錬される金のように、自分が神の前に喜んで受け入れられる者とされるという自負を持ち続けていました。一方で彼は、主のみこころは定まっており、だれもそれに逆らうことができないということを認めているのです(13-14節)。人が知り得ない神のご計画の中で、自分が取り扱われていることをヨブが少しずつ認めつつあるように見えます。「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください」(詩138:8)。主ご自身が、私たちの歩みにおける一切のことを成し遂げられるのです。そしてそこには、含まれている不純物を取り除き、より純粋なものとする、金の精錬のような取扱いも織り込まれているのです。「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と誉れをもたらします」(1ペテ1:7)。「あなたの御手のわざをやめないでください」と、私たちも主に願い求めたいと思います。

信仰がますます強められますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 22章◇(11月2日)

「神は天の高きにおられるではないか。星々の頂を見よ。それらはなんと高いことか。」…ヨブ22:12

エリファズのヨブへの3度目のことばです。彼は、ヨブの悪と不義がわざわいの原因であると疑わず、そのように指摘しています(4-5節)。そしてその具体例として、ヨブが他者を虐げて食いものにしていると、自分の想像上のことを、さも事実であるかのように語っているのです。またエリファズは、ヨブが「神に何がわかるだろうか…神は見ることができない…」と言って神を嘲っているが、天の高きにおられる神は、すべてを知っておられる方であり、悪しき者を必ず滅ぼし、その持ち物を焼き尽くされるのだ、と主張しています(12-20節)。その上でエリファズはヨブに、自らの悪と不正を認めて神に立ち返れ、そうすれば神は顧みてくださる、神に訴えれば願いを聞き入れてくださると説き、神への悔い改めを一方的に迫っているのです(21-30節)。主はサタンに対して、「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」と言ってヨブを評し、そのあり方を称賛されました(2:3)。そのことはヨブも、エリファズも、他の友人たちも知りません。それなのにエリファズが、すべてを知っているかのように、上からの目線をもってヨブに説教しているのは、愚かで、滑稽ですらあります。「そして 彼らは言う。『どうして神が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。』 見よ これが悪しき者。…」(詩73:11-12a)。神に何が分かるのか…神が知っているわけがない…。そのように考えるのは悪しき者であり、また、自分には分かっている、ちゃんと知っていると高ぶることも、神は喜ばれないのだということをあらためて教えられます。いと高き神だけがすべてをご存じであるのです。そのことをしっかりと覚え、ますます主を畏れて歩むとともに、すべてを知ってくださっている主にあって、平安と慰めを得たいと思います。

重荷を主に委ねることができますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 21章27-34節◇(11月1日)

「それなのに、どうしてあなたがたは 空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない。」…ヨブ21:34

ツォファルの主張を聞いたヨブは、友人たちに反論しています。「なぜ悪しき者が生きながらえて 年を取っても、なお力を増し加えるのか」(7節)と。もちろんヨブは、神が悪者をまったく放置しているとは考えていませんが、正しく歩む自分が顧みられず、神からの不当なさばき、わざわいを受けていると捉えるヨブは、その不公平、不条理に対して、悩み、苦しんでいるのです。ヨブはまた、神の代理人のようにして自分を責め立て、不当に扱おうとする友人たちに告げています。「確かに私は、あなたがたの計画を知っている。私を不当に扱おうとする企みを」(27節)と。彼らの主張は、「悪人は滅びる。ヨブはわざわいによって滅びかけている。だからヨブは悪人に違いない」という論理であって、それが正しいと信じて疑わず、一方的に主張している彼らのうちに、悪意と傲慢さをヨブは見ているのです。そのように友人たちは、因果応報という不動の法則のような考えにすべてを当てはめ、ヨブをそこに押し込めようとしていました。しかしそのような態度は、ヨブにとって不信実以外の何ものでもなく、そこから生まれてくることばは、慰めからはほど遠いものだったのです。「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と尋ねた弟子たちに対して、主イエスは、そのどちらでもない、「神のわざが現れるため」だと言われました(ヨハ9:2-3)。私たちにとって、なぜ…と思われる苦難は、神のご計画のうちにあり、そこに神のわざが現わされるために与えられているのです。そして私たちには、そのご計画の全体像や、そのみわざがいつどのようにして現わされるかは知り得ないのです。私たちにできること、なすべきこととは、神のみことばに立ち、私たちを愛し、最善を備えて導いてくださる主に信頼し、従っていくことなのです。そのような歩みを、一歩一歩進めて行きたいと思います。

主の支えと導きがありますように。