◇聖書箇所: 詩篇 94篇◇(3月31日)

「しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。」…詩篇94:22

詩人は冒頭からいきなり、「復讐の神…復讐の神よ…」と主に呼び掛け、悪者への報復を願い求めています。彼らは民を苦しめ、弱者のいのちを奪い、どうせ神は気づきはしないと、思い上がっていたのです。そんな彼らに対して詩人は、まぬけで愚かな者どもよ、人を造られた神が見聞きしないはずがないと反論し、主の教えに従う者はわざわいの日に平安を得るが、悪者はさばきを受け、墓の穴に放り込まれることになるのだ、と告げたのです。主はそのように義なるお方であって、ご自分の民を決して見放すことはないと告白した詩人はさらに、その主は私の救い主であって、私のために悪者に向かって立ち上がられる、助けてくださると確信し、「主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました」と、すでに起こり今も続いていることとして(原語は完了と継続を意味する形の動詞)告白したのです。そのように、詩人にとっての神は、初めは「自分たち」の神であり、「~してください」と訴えるべき相手でしたが、主との深い交わりの中で詩人の思いは変えられ、わが神、わが避け所の岩…という個人的な関係となり、心には確信と希望が与えられるようになったのです。「私の主。私の神」(ヨハ20:28)。最初は主の復活が信じられなかったトマスは、復活後も残っていた主のからだの傷跡に触れるという深い交わりの機会が与えられたとき、そのように告白しました。もちろん主は、すべての人にとっての神ですが、私たちが主との深い交わりの中に身を置くとき、その神がどんなに自分のことを愛してくださっているのか、その神がどれほど大きなみわざをこの自分になしてくださったのかを教えられ、私たちの心は感謝と喜びに満たされるのです。「私の神…わが助け…わが力」と主を告白し、賛美する者となるのです。そのような、主との個人的、直接的、強固な関係を、常に持つ者でありたいと思います。

主がともにおられます。主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 93篇◇(3月30日)

「主こそ王です。威光をまとっておられます。主はまとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ揺るぎません。」…詩篇93:1(新改訳2017)

詩人はこの93篇において、主を全世界の王として認め、特にその王の持つ力のゆえにほめたたえています。「主はまとっておられます。力を帯とされます」。「主は力に満ちておられます。いと高き所で」…と。その王なる主は、主権者であられ、天と地の創造のわざにおいて力強く働き、今も、この世界のすべてをその御手によって統べ治めておられます。しかしその王は、権威をふりかざし、民を無理やりに従わせるような方ではありません。主はへりくだって人々に仕え、人々を罪の奴隷から解放するために、ご自身のいのちをささげて贖ってくださったお方なのです。パウロは、「私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)と告白しました。彼はさまざまな局面の中で、自分の弱さ、力のなさを痛感していましたが、それを嘆き、失望することはありませでした。なぜなら彼は、力の源は神にあり、困難な中にあっても、前に進むために必要な力を主が必ず与えてくださると、知っていたからです。その主は、今もいと高き所におられ、聖徒たちのためにとりなし、折りにかなう助けを与えてくださいます。だから私たちは、どのような状況にあっても、決して失望したり恐れたりする必要はないのです。力の源なる主に拠り頼み、助けを呼び求めるとき、主は私たちを強め、支え、歩みを確かなものとして導いてくださるのです。詩人は「まことに世界は堅く据えられ揺るぎません」と告白しましたが、主に信頼する私たちの心もまた、揺るがされることはないのです。「激しい響きを 川はとどろかせています」(3節、2017訳)。私たちは、目に映る事柄や人のことばによって立ちすくんでしまうことがありますが、すべてを支配し、力に満ちておられる、王なる主のことばを聴き、心に留める者でありたいと思います。

主の平安がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 4章24-43節◇(3月29日)

「…彼らはこの人々に代わってそこに住みついた。そこには、彼らの群れのために牧場があったからである。」…1歴代4:41

24-43節には、ヤコブの息子シメオンの子孫が記されています。34-38節に挙げられている人々は、そのシメオン部族に属する諸氏族の長ですが、彼らは群れのための豊かな良い牧場を見つけ、静かで安らかな広々とした領地を確保することができたのです。しかしそれは、何もせずに難なく手に入れたわけではありませんでした。彼らは最善と思われるところを捜し求め(39節)、そこにいた先住民たちと戦って彼らを聖絶し(41節)、その良い土地を自分たちのものとしたのです。歴代誌の作者は「彼らの群れのために牧場があった」と記していますが、そのことばには、主が彼らのためにそこを備え、与えられたということが示唆されています。4章10節には、ユダの子孫の一人であるヤベツが「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と主に願い求め、それがかなえられたことが記されています。地境を広げることは神のみこころです。地が与えられることは神の祝福です。しかし、もちろんその動機は、そこを独り占めするためではなく、群れのため、神の民のために、ということでなければなりません。シメオン族の長たちは、そのことを願い、出て行って捜し求め、先住民と戦って、主が備えられた良い地を得たのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マル16:15)。主は弟子たちにそう命じられました。主は、私たちに対しても、出て行って取るべき領地を得ること、神の国の地境を拡げることを願っておられます。サタンが支配している領域を奪い取ることを求めておられます。神の国に入れられるべき多くの人々に対して、福音を伝えるようにと命じておられるのです。信仰をもって、神のことばに従って出て行くとき、主は必ず必要を、良いものを備えてくださいます。「アドナイ・イルエ」…主は備えたもうお方なのです。その主に信頼し、聞き従って、歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 3章◇(3月27日)

「エルサレムで彼に生まれた者は次のとおりである。シムア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアミエルの娘バテ・シュアによる子である。」…1歴代3:5

3章には、2章15節を受けてダビデの系図が記されています。1-9節がダビデの息子たち、10-16節がバビロン捕囚までの歴代の王たち、17節以降が捕囚後の子孫たちです。1-4節にはヘブロンで生まれた6人の子どもたちの名が挙げられていますが、彼らは、それぞれ異なる6人のダビデの妻から生まれた者たちです。モーセの律法によれば、王が多くの妻を持つことは禁じられていましたが(申17:17)、ダビデはその戒めに従ってはいなかったのです。5節にはエルサレムで生まれた4人の子どもたちの名があり、その中にはダビデの王位を継いだソロモンがいますが、彼の母親はバテ・シェバ(バテ・シュア)です。そのバテ・シェバはダビデの部下であったウリヤの妻でしたが、ダビデは彼女の美しさに心を奪われ、姦淫の罪を犯し、さらにウリヤをわざと激戦の最前線に出させて戦死させるという罪を重ねたのです(2サム11章)。そんなダビデが王として主によって用いられ、ひいてはキリストの系図に加えられることとなったのは、彼が有能だったからではありません。預言者ナタンによって糾弾されたダビデが、自らの罪を認め、主に真実に悔い改め、立ち返ったからです。詩篇51篇には彼のことばが書かれています。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩51:4,10)。「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」(ロマ7:20)。私たちは、主の道を歩むよう努めていますが、罪赦された罪人であり、道を踏み外してしまうこともあるのです。しかし主に悔い改めて立ち返るならは、主は赦してくださるのです(1ヨハ1:9)。「砕かれた霊、悔いた心」(詩51:17)を持ち、主の前に絶えずへりくだる者でありたいと願います。

主の恵みとあわれみを覚えることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 2章42-55節(3月26日)

「カレブの子孫は次のとおりである。エフラテによる長子フルの子はキルヤテ・エアリムの父ショバル、」…1歴代2:50

50節以降にはカレブの子孫が書かれています。そのカレブがヘツロンの子なのか(18節)、それともヘツロンの長子エラフメエルの兄弟なのか(42節)が不明ですが、いずれにしてもその子孫が群れを形成して諸氏族となったことがわかります。「キルヤテ・エアリムの父ショバル、ベツレヘムの父サルマ…」。その記述の中には町の名前があり、その「父」と表現されている人物が出てきますが、それは、その町の創立にたずさわった者という意味だと考えられます。その「父」の子孫が増え、家族が増え、家の数が多くなり、村となり、町となっていく…。そこにはやがて血筋が繋がっていない人々も加えられていくわけですが、初めはそこの住民たちはみな、「父」に繋がる一族であり、「父」の教えに従って一致団結し、互いの間の絆を強く持って歩んでいたに違いありません。55節には「レカブ家」とありますが、彼らは父祖レカブの子ヨナダブの命令に従い、ぶどう酒を飲まず、家や畑を持たずに天幕に住む生活を忠実に守り続けていたのです。そのように「父」の教えを守り行い、「家族」として一つとなっているこの氏族を、主はエレミヤを通して称賛し、祝福されたのです(エレ35:18-19)。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(エペ2:19)。キリストに贖われた私たちは、神の家族、霊的な意味での一つの大きな家族の一員として加えられました。その家族を教え、導き、養われるのは父なる神であり、父に従うことの模範を示し、私たちが倣うのは、長子であるキリストなのです(ロマ8:29)。そしてその家族は、やがて天の御国に迎え入れられるという約束をいただいているのです(ピリ3:20)。そのことを覚えつつ、感謝と希望をもって歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 2章21-41節◇(3月25日)

「シェシャンには息子がなく、娘だけであった。シェシャンにはエジプト人のしもべがいた。その名はヤルハ。シェシャンは彼の娘をそのしもべヤルハに妻として与えたので、彼女は彼にアタイを産んだ。」…1歴代2:34-35

タマルがユダの子として生んだペレツの長子ヘツロンは、ギルアデの父、つまりマナセの子であるマキル(民27:1)の娘を妻とし、彼女はセグブを生み、その子ヤイルはギルアデの地に多くの町を所有する有力者となりました。一方、マキルの子たちはヤイルの持っていた町の中からハボテ・ヤイルを奪い取り、さらにケナテとそれに属する村落を攻め取ったのです。「ところが」(23節)ということばは、彼らとヤイルとの間にいざこざがあったことを暗示させますがそれ以上は不明です。いずれにしても町、すなわち土地を所有することは財産を持つことであり、それは主からの祝福であったのです。30節と32節には「子がないままで死んだ」とあります。その後には、エジプト人のしもべに自分の娘を与えたシェシャンのことも書かれています。彼は、家系を途絶えさせないために、たとえ混血であっても子孫が与えられることを願いましたが、子どももまた、主からの賜物、祝福であったのです。主はアブラハムとの間に契約を結ばれましたが、それは、土地と子孫を与えるという祝福の約束です(創13:15-17)。主は、アダムとエバや、ノアと息子たちにも祝福を約束し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と命じられたのです(創1:28、9:1)。主は、アブラハムの子孫とされた私たちに対しても、土地と子孫の祝福にあずからせようとしておられます。それは霊的な意味でとらえれば、私たちがこの世において、サタンが支配しているところを奪い取り、神の国の領域を拡げるということです。また、救われるべき「残された者たち」にキリストの福音を宣べ伝え、次の世代の者たちへ信仰が継承されるよう努めることなのです。主がそのように願っておられることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 2章1-20節◇(3月24日)

「ユダの子は、エル、オナン、シェラ。この3人は、カナンの女シュアの娘から彼に生まれた。しかし、ユダの長子エルは主の目の前に悪を行ったため、主が彼を殺された。」…1歴代2:3

2章1~15節には、イスラエル(ヤコブ)からダビデまでの系図が記されています。それは「直系・本流」の家系ですが、そこに加えられている人物は、必ずしも神の道をまっすぐに歩んだ義なる者たちだけではなく、また血筋的にも純血の者たちだけではありません。そこには、人間的に考えれば「ふさわしくない」と思われるような者たちや、異邦人たちも含まれているのです。ヤコブの息子の一人であるユダは、カナン人の女性を妻として3人の息子を得ましたが、その長子エルは主を怒らせて殺されてしまいました。そこで、その妻タマルは次男や3男の嫁になろうとしましたが叶わなかったため、策略をめぐらし、遊女を装ってしゅうとであるユダと関係を持ち、彼との間に2人の息子を得たのです(創38章)。その息子のペレツの家系からサルマ(サルモン)が出ましたが、エリコを偵察する斥候の二人の者を追っ手から守るため、自分の家にかくまった遊女ラハブ(ヨシ2章)は彼の妻となり、その2人の間に生まれたのがボアズです。ボアズは異邦人(モアブ人)ルツをめとり、オベデが生まれ、さらにオベデの子エッサイから7人の男子が生まれ、その7男が主に油注がれて王となったダビデなのです。神は決して、人が見るようには見られないということ、また、「純血主義」を貫こうとされるお方ではない、ということをあらためて教えられます。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れた…」(ヘブ11:31)、「遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出した…」(ヤコ2:25)。ラハブの信仰と行いはそのように称賛されています。神は確かに、遊女であった彼女の心を喜ばれたのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サム16:7)。私たちもまた、主に喜ばれる心を持つ者とされたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 1章29-54節◇(3月23日)

「これは彼らの歴史である。イシュマエルの長子はネバヨテ。ケダル、アデベエル、ミブサム…」…1歴代1:29

1章には、神がご自身の民として選ばれ、やがてその中からメシアが生まれる「直系・本流」の家系とともに、そうではない「傍系・支流」の家系が記されています。歴代誌の著者は、「これは彼らの歴史である」と述べ、意図的にそのようにして載せているのです。29-31節にはイシュマエルの家系が書かれていますが、彼はアブラハムの妻サラの女奴隷ハガルによって生まれた子です。また32-33節にはアブラハムのそばめケトラの子孫が載っています。さらに35-37節には、アブラハムの子イサクの子のうち、父の祝福を逃したエサウの子孫が、38節以降には、エサウの子孫がエドムの地に住みつく際に追い払われた、先住民のホリ人セイルの子孫が記されています。そして43節以降では、エドムの地を治めた歴代の王たちの名前が挙げられているのです。そのような「傍系・支流」の者たちのことを、わざわざ名前を挙げて載せる必要があったのか…と、私たちは考えるかもしれません。しかしそれは、神がその一人ひとりを心に留めておられたこと、その存在は決して無意味ではなかったことを意味するのであり、同時に神が選ばれ、祝福され、用いられた「直系・本流」を際立たせ、強調するという著者の狙いがあったのです。では、なぜ、どのようにしてその直系が決まったのか…。それは、あくまで神の主権により、摂理のうちになされたことであって、私たちには知り得ないことです。しかし、確かに神は、ご自身の偉大なご計画の中でそのような選びをなされたのであって、感謝なことに、その選びの中に、キリストにあって、異邦人の私たちもまた入れられたのです。神の民として加えられたのです。「ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。…」(2ペテ1:10)。主に召され、選ばれたという自覚をしっかりと持ち、感謝と畏れをもって、主に委ねられた務めにいっそう励む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 1章1-28節◇(3月22日)

「セム、アルパクシャデ、シェラフ、エベル、ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラム、すなわちアブラハム。」…1歴代1:24-27

歴代誌は、紀元前4百年頃に祭司エズラによって書かれたとされています。その時代には、バビロンに捕らえ移された人々がすでに祖国に帰還し、そこではペルシャ帝国による支配がなされていましたが、エズラはこの書を通して、イスラエルの歴史を振り返り、神のご自身の民に対する偉大な計画と使命を読者に伝え、彼らを奮い立たせようとしたのです。歴代誌第一の1~9章には系図が記されています。無味乾燥な名前の羅列に飽き飽きし、読み飛ばしたくなってしまう部分ですが、もちろんそこには著者の意図が含まれているのです。1章の1-4節には、最初の人アダムの子孫としてセツからノアの3人の息子までの系図が載せられており、5節以降にはその3人の息子たちの子孫の系図がさらに続いていますが、実はその4節と5節の間に、そこには書かれていない大きな出来事があったのだということを、あらためて思わされるのです。「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである」(創6:12)。アダムの罪はその子孫にも受け継がれ、地上には人の悪が増大していました。そしてノアの家族以外の者たちは、神が起こされた洪水によって滅ぼされてしまいました。つまり5節以降の人々は、そのさばきを免れて生き延びた者、救われた者たちの家系であり、その中からアブラハムが生まれ、ダビデが生まれ、やがてイエス・キリストが生まれたのです(マタ1:1-16)。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創12:3)。主はアブラハムにそう告げられました。神のご計画の中で救われ、選ばれ、世界の祝福の基として用いられる者たち…。それが、神の民イスラエルであり、キリストの贖い、信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちなのです。そのことを覚えつつ、これからこの歴代誌を通し、主の御旨を学んでいきたいと思います。

主の語りかけを聴くことができますように。

◇聖書箇所: アモス書 8章◇(3月20日)

「…その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」…アモス8:11

イスラエルに対する主のさばきの宣告が続いています。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。…多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる…」(2-3節)。そのような悲惨な状況になるのだと、主はアモスに言われました。当時、弱者を虐げ、不正によって利益を得ている者たちがいましたが、そのように、公義と正義からかけ離れたあり方が蔓延していることに対し(4-6節)、主は憤りをもって、民に苦しみと悲しみを味わわせるのです(9-10節)。さらにアモスは民に、「主のことばを聞くことのききん」が起こると預言しました。それは、主のことばを捜し求めてさまよい歩いても見いだすことができず、飢え乾きのために衰え果ててしまうという事態であり、神の民であるイスラエルにとって、決定的なさばきなのです。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタ4:4)。荒野での断食の後、パンになれと石に命じよと、悪魔の誘惑を受けた主イエスは、申命記8章3節のことばを引用してそう言われました。神のことばを聞くことができないなら、人は生きることができないのです。いのちが失われてしまうのです。そのいのちとは、単に肉体が活動するということではなく、神が人に与えられているたましい、霊が満たされ、養われ、生かされるということであり、そのいのちを保つために、すべての人は、霊の糧である主のことばを必要とするのです。それがなければ、どんなにおいしい肉の食物を豊かに味わったとしても、私たちの内側の飢え乾きは満たされず、貧しさと空しさを覚えることとなるのです。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハ6:27)。日々、みことばを深く味わい、みことばによって養われ、導かれる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: アモス書 7章◇(3月19日)

「ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。」…アモス7:15

7~9章では、アモスが主から示された幻を通して、イスラエルへのさばきが明らかにされています。主は、イスラエルの地をいなごによって食い尽くさせ、あるいは火によって焼き尽くそうとされましたが、アモスがとりなしたことにより、その災いを思い直されました(1-6節)。さらに主は、重りなわ(重りを糸でつるして建物が垂直になっているかを調べる道具。2017訳では「下げ振り」)を手に持ち、それをイスラエルの真ん中に垂れ下げる、もう二度と彼らを見過ごさない、聖所は廃墟となる…と告げられました(7-9節)。それは、重りなわによる精査の結果、民の偶像礼拝や見せかけの礼拝が明らかになり、それらは主の前に曲がったものであるため、取り壊す必要があると判断されたからです。預言をするなと祭司アマツヤから命じられたアモスのことばが心に留まります(14-16節)。そこには、自分は主からの召しによって預言する者として立ち、主のことばを預かり、民に取り次いでいるのであって、誰から何を言われようともそれをやめるわけにはいかない!という、アモスの不退転の決意が表されているのです。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(ルカ4:43)。主イエスは、父なる神からの召命に生き、人々に福音を宣べ伝え、不退転の決意をもって十字架に向かわれました。パウロもまた、「そのことは、私がどうしても、しなければならないこと」と言い(1コリ9:16)、困難と迫害にあっても、キリストの福音を語り続けました。そしてそれは、キリストに贖われ、召しを受けた、キリストの弟子である私たちもまた、遣わされているところでなすべき尊い主の働きなのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マル16:15)。困難の中にあってもひるむことなく、その働きをなし続けていきたいと思います。

ますます主に用いられる者とされますように。

◇聖書箇所: アモス書 6章◇(3月18日)

「それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。」…アモス6:7

6章には安逸をむさぼっている者たち、豊かな暮らしに自己満足している者たちに対する非難のことばが書かれています。「サマリヤの山に信頼している」(1節)とありますが、彼らは、敵からの攻撃を受けても自然の要害であるサマリヤの山々が守ってくれる…と慢心し、日々の生活を楽しむことに明け暮れていたのです。4-6節にはそんな彼らの生活ぶりが描かれています。象牙の寝台に横たわり、良質な肉を選んで食べ、最上の香油を身に塗り、酒を飲んで宴会に興じる…。しかし、そのようにすっかり「身を伸ばしている」(大の字になった:2017訳)彼らは、やがて民の中でも最初の捕らわれ人となって引いていかれることになるのです。「今、わたしは一つの民を起こしてあなたがたを攻める」(14節)と、主はイスラエルの民全体に対して語っていますが、その「一つの民」、すなわちアッシリアを用いて、主は真っ先に、忌み嫌う快楽主義者たちを取り除かれるのです。主はご自身の民に対して、禁欲的に生きるようにと命じているわけではありません。問題なのは、主の日はどうせすぐには来ないと楽観的に考え、主の警告のことばにまともに耳を傾けようとはせず、今のときを楽しもうと快楽を追い求め、贅沢な暮らしにどっぷりと浸かり、安逸をむさぼっているあり方なのです。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(1ペテ4:7)。ペテロは聖徒たちに対し、身を慎むよう繰り返し命じています(1ペテ1:13,5:8)。私たちが放縦の生活をすることはないかもしれません。しかし終わりが近いという緊張感を持たずに漫然と日々を過ごしているとしたら、それは主が喜ばれるあり方ではないのです。ともしびのための油を用意せず眠ってしまった娘のたとえが思い起こされます(マタ25:1-13)。いよいよ心を引き締め、しっかりと目を覚まし、祈りを絶やさずに日々を過ごしたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: アモス書 5章16-27節◇(3月17日)

「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」…アモス5:24

「主の日」…それは、神がさばきをなされ、悪が一掃される時であり、自分たちが神に選ばれた者だと自負していたイスラエルの民は、諸国から苦しみを受けることがなくなるその日が来るのを待ち望んでいました。しかし主は、あなたがたにとってその日がいったい何になるのか…その日はやみであって光ではない…と告げ、彼らの抱いていたその甘い期待を打ち砕かれたのです(18-20節)。また主は、あなたがたの祭りを憎み退ける、いけにえにも目を留めない、琴の音も聞きたくないと言われ、民に対する嫌悪感をあらわにされました(21-23節)。それは26節にもあるように、民が自分たちの気に入るように、自分たちのために、自分たちの手で偶像を作り、それを頼みとしていたからです。またたとえ偶像をおがまなくても、その礼拝は形式的なものに過ぎず、何よりも民の思いと行いは、主の御旨にかなっていなかったからです。26節において、新改訳3版での「あなたがたの」は、2017版では「自分たちの」と訳されています。21-23節ではどちらの訳でも「あなたがたの」ということばが繰り返されていますが、主は、それらはすべて、民が自己満足している「自分たちの」ものなのであって、わたしが求めているもの、喜ぶものではないと指摘しているのです。「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする」(イザ51:4)。聖書中には「わたしの民」と言われる主のことばが数多く出て来ます。イスラエルは主の所有の民であって、主は、彼らが「わたしの公義」を絶えず水のように流れさせる、すなわちご自身の教えに常に聞き従うようにと、求めておられるのです。キリストに贖われた私たちもまた主の所有の民であって(1ペテ2:9)、もはや自分は自分のものではないという自覚を、決して忘れてはならないのです。「主よ、私はあなたのものです」という告白をもって、主に従順に仕える者でありたいと思います。

持てるものを主に明け渡すことができますように。

◇聖書箇所: アモス書 5章1-15節◇(3月16日)

「まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。』」…アモス5:4

「哀歌」(1節)とは死を哀悼する歌のことです。イスラエルがまだ若いおとめにたとえられていますが(2節)、彼女は倒れても誰にも起こしてもらえず、捨て置かれてただ死を待つというのです。背信のイスラエルへの厳しいさばきが、そのような預言として告げられています。そしてそのイスラエルの家に向かって主はこう言われたのです。「わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。…」と。ベテルやギルガルには、偶像にいけにえをささげるための祭壇がありましたが(1列12:32、ホセ12:11)、主はご自身の民に対して、あなたがたは何を求め、何を頼みとして生きるのか…求めるべきは、まことの神であるわたしではないのか…無に帰する(5節)空しいものに心を向けるな…と言われたのです。そして、その主のことばを受けたアモスもまた、「主を求めて生きよ」(6節)、「善を求めよ。悪を求めるな」(14節)と語っているのです。主を求めて生きる…。それは、単に主の臨在を求め、主のみわざを求め、主からの祝福を求めて生きるということではありません。主を求めて生きるとは、主が何を願っておられるのか、すなわち主のみこころを尋ね求め、主が求めておられる道を私たちが歩む、主の教えに忠実に聞き従う者となる、ということにほかなりません。善を求めるとは、まさにそのようなあり方のことなのです。「…そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう」。善を求めよ…ということばに続けて、アモスはそう語りました。人の手によるもの、地上的なものを頼みとしても、その歩みは不確かで空しいのです。しかし、主を求め、善を求め、主に拠り頼む者、主の道をまっすぐに歩む者は、ともにおられる主の御手に支えられ、守られ、永遠に続くいのちを生きる者とされるのです。「わたしを求めて生きよ」。その主のことばを、しっかりと受けとめたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: アモス書 4章◇(3月15日)

「わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。-主の御告げ-」…アモス4:6

4章は「聞け。このことばを。サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども」という書き出しで始まっています。弱い者を虐げ、貧しい者を迫害し、自分たちの欲望を満たすことを追い求めるサマリヤの女の者たちが、神のさばきを逃れることはないのです(2節)。また、見せかけの儀式を日ごとに行い、神にささげていると自己満足し、神の祝福を信じて疑わない者たちにも、それがわたしの御旨だと思うならぜひそうしたらよいと、主は皮肉交じりに告げておられるのです(4-5節)。6-11節には「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」ということばが繰り返されています。そしてそれぞれそのことばの前には、そのような罪深いイスラエルへの懲らしめとしての災いが書かれています。飢饉、干ばつ、疫病…。イスラエルの民を出て行かせようとしない頑ななエジプトの王パロに主が怒られ、さまざまな災いを起こされたことが思い起こされます。「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」。繰り返し語られたその主のことばから教えられること、それは、主は、ご自身の民が悔い改め、御前に立ち返るのを、心から願っておられるということです。イスラエルよ、なぜあなたがたは、自分たちの好き勝手に歩み続け、私のもとに帰ろうとしないのか…と、主は嘆き、悲しんでおられたのです。しかし「それでも」、頑ななイスラエルは、忍耐をもって帰って来るのを待ち続けておられる主に背き続けたのです。「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(12節)。それは、終末におけるさばきへの警告であると同時に、絶えず主の元に帰り、御声を聴き、天の御国へと続く主の道からはずれないよう、日々その歩みを軌道修正せよ、という教えでもあるのです。みことばを自分に対するものとして、しっかり受けとめたいと思います。

主のみこころにかなう者とされますように。

◇聖書箇所: アモス書 2章◇(3月13日)

「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。」…アモス2:7

異邦の民へのさばきを告げられた主は、ご自身の民、ユダとイスラエルに対しても、「犯した3つのそむきの罪、4つのそむきの罪のため」と、同じことばをもって非難し、彼らがさばきに遭うことを宣告しています。ユダについてはその理由を、「主のおしえを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わしたから」(4節)と語られています。「まやかしもの」とは、人の手による偶像のことです。彼らがそれらに心を寄せ、拠り頼んでいたゆえに、主は憤られ、エルサレムの宮殿を焼き尽くすと告げられたのです(5節)。イスラエルに対して主は、他の国々よりも多くのことばをもって非難し、さばきを告げています。彼らは正しい者、貧しい者、弱い者を虐げ、利用して私腹を肥やし、みだらなことを平気で行い、罰金と称して取り立てたぶどう酒を、神の宮で堂々と飲んでいたのです(8節)。それは主を畏れず、弱い者たちを顧みず、自らの欲望のままに生きるあり方です。主はそのような彼らを戒め、正しい道に連れ戻そうと願い、ご自身のみこころを告げ知らせる者たちを立てられました。しかし彼らはその預言者たちに対し、「預言するな」と命じて口を封じ、耳障りな主のことばを聞こうとはしなかったのです(12節)。キリストに贖われた私たちは、そんなユダとイスラエルを反面教師として歩むべきです。主イエスは律法を2つに集約してこう言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マル12:30-31)。偶像とは、私たちが神に背を向け、心を寄せ、頼みにしようとするすべてのものです。また、弱い者を虐げなくても、自分のことだけを考え、他者に無関心なら、それは隣人を愛することにはならないのです。主が私たちに願っておられるあり方を絶えず覚え、その道を歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: アモス書 1章◇(3月12日)

「主はこう仰せられる。『アモン人の犯した3つのそむきの罪、4つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが、自分たちの領土を広げるために、ギルアデの妊婦たちを切り裂いたからだ。』」…アモス1:13

牧者であったアモスは、イザヤやホセアと同じ時代に生き、主によって預言者として用いられました。アモス書1-2章には、主のことばとして、「~の3つのそむきの罪、4つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない(彼らを顧みない:2017訳)」という定型句が繰り返され、ユダ、イスラエルを含む国々の民が、主からのさばきを受けることが宣告されています。1章では5つの外国の民の扱いが語られています。3-5節ではダマスコ、つまりアラム人に対し、宮殿が焼き尽くされ、王座についている者が断ち滅ぼされ、民は捕らえ移されると告げられ、6-8節ではガザ、つまりペリシテ人に対して、さらにツロのフェニキヤ人(9-10節)、エドム人(11-12節)、アモン人に対して(13-15節)も、同じように主のさばきがなされることが告げられているのです。そのさばきの理由である「3つのそむきの罪、4つのそむきの罪」が具体的に何を指すのかは明示されていませんが、主はエドム人に対して、「剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない(あわれみを断ち:2017訳)、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていた」(11節)と非難しており、それは、彼らを含めた諸国の民が、肉の思いに支配されて行動していたことを示唆しているのです。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ロマ8:13)。パウロは肉と御霊の対立を繰り返し語っていますが、肉に従うとは、肉に支配されて、欲望や感情がむきだしの状態を意味しており、それは神に喜ばれるあり方ではないのです。キリストに贖われたことを感謝しつつ、絶えず御霊に満たされ、支配され、導かれて歩む者とされたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 36章◇(3月11日)

「そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。『ヨセフ部族の訴えはもっともである。…』」…民数記36:5

マナセ族に属する一族のかしらたちは、モーセに対し、嫁いだ娘の相続地は夫のものとなると定められているが、夫が他部族の場合、結果としてその娘の部族の相続地が減ることになってしまうのはおかしい、と訴えました。するとモーセは、それはもっともだと認め、結婚に伴って部族間で相続地が移らないようにするため、女性は父の部族に属する者、すなわち自分と同族の男性と結婚するよう命じたのです。モーセに訴えた一族のかしらたちは、以前、男の兄弟がいない場合には、父親が亡くなってもその娘に土地の相続権が与えられないのはなぜか、与えられるようにしてほしいと直談判した(民27:4)、ツェロフハデの娘たちの親類でした。そのときも彼女たちの訴えは認められ、その場合には相続地を娘に渡すよう、改定されたのです。そのように、マナセ族の女性たち、また一族のかしらたちは、臆することなく、現行の規定での不都合を訴え、その改善を求めました。それは当時においては、決して当たり前のことではなかったはずです。しかし彼らは、課題を認識し、どうあるべきかを真剣に考え、主の判断を仰ぐべく、願いを率直にモーセに伝えたのです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(1ヨハ5:14)。私たちは宿命論を信じる者ではありません。また主は、有無を言わせずに私たちに服従を求める方ではないのです。もちろん祈りとは、自分の欲求を実現させるための道具ではありませんが、その願いが神のみこころにかなうものならば、主はそれを良しとされ、私たちの祈りに答えてくださるのです。主は弟子たちに、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを、たとえをもって教えられました(ルカ18:1-7)。私たちもそのような者でありたいと思います。

信仰を持ち続ける者とされますように。

◇聖書箇所: 民数記 35章16-34節◇(3月10日)

「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。」…民数記35:33

過失によって人を殺してしまった者は、復讐されないように、のがれの町に住むことができました(35:11)。しかし、憎しみ、敵意をもって故意に殺人を犯した者については、殺人者と認定され、自らのいのちをもってその罪を償わねばなりませんでした。復讐を願う者は、自分の手でその者を殺すことさえ認められたのです(19節)。そのような規定は、私たちにとっては厳しすぎるように思えます。たとえ殺人者であっても、裁判をきちんと受ける権利があるはずだと考えます。主のあわれみは全くないのかと疑問を感じます。しかし主は、十戒において、「殺してはならない」と明確に命じておられるのであり(出20:13)、殺人において流された血は地を汚し、その地は殺人者の血によって贖うほかないと言われるのです。申命記には、偶像礼拝をした者は石で打ち殺されなければならないとの規定が書かれています(申17:3-5)。主は聖なるお方であって、汚れを忌み嫌われ、それが排除されるよう、きよめられようにと求められるのです。主の基準は人が考える基準とは異なり、それは民主的な思想に慣れた私たちには、時に厳しすぎると思えるのです。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブ9:22)。私たちのうちには罪があり、汚れた者であり、その罪は取り除かれなければなりません。しかし、私たちがどんなに良い行いに励んでも、その罪はなくならないのです。それは神が遣わされた御子、イエス・キリストの血によってのみ可能なのであり、そのために主は、十字架にかかり、ご自身をいけにえとして神にささげ、血を注ぎだし、すべての人の罪をきよめてくださったのです。その主の贖いのみわざを覚え、感謝をささげたいと思います。

救いの喜びがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 35章1-15節(3月9日)

「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。」…民数記35:11

主はモーセを通して、イスラエルの各部族に対し、レビ人たちが住むための居住の町と、彼らが家畜を飼うための放牧地をその町々の周りに確保し、レビ人たちに提供するようにと命じられました。そして、その町の数は全部で48とし、そこにはすべての部族が共通利用する「のがれの町」を6つ含むようにせよと指示されたのです。そののがれの町とは、過失により人を死に至らせてしまった者が、その人の近親者などの復讐の手から守られるように、正しく裁判を受け、律法に基づいてさばきを受けられるようにするために、主が命じて定められたものです(出21:13)。そしてそれは、カナンの地に3つ、またヨルダン川東側にも、そこを相続地とする3部族のために3つ配置されました。主は、民がカナンの地に入る前からそのことを配慮しておられたのです。そこに、主の深いあわれみを見ることができます。「主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い」(詩116:5)。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀3:22)。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」(テト3:5)。聖書には、神がいかに恵みとあわれみに富んだお方であるかが、至るところに書かれています。そうでなければ私たちは、罪のゆえにとっくに滅びうせていたのです。しかし、主が罪に苦しむ人類を愛し、あわれみ、御子を遣わし、そのキリストが十字架にかかり、墓からよみがえってくださったからこそ、私たちは贖われ、いのちを取られずに済んだのです。永遠のいのちを得たのです。「主のあわれみは尽きないからだ」…。その主の恵みとあわれみを覚え、感謝と賛美をささげたいと思います。

主の御手の守りがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 34章◇(3月8日)

「イスラエル人にカナンの地で相続地を持たせるよう主が命じたのはこの人々である。」…民数記34:29

主はモーセに、イスラエルの民がこれからヨルダン川を渡って行き、自分たちの相続地として占領すべき領土の範囲を具体的に示されました。それは、南側が塩の海(死海)からエジプト川に至り、西側は大海(地中海)の沿岸、北側は大海からハツァル・エナンに至り、東側はそこからヨルダン川に沿って塩の海に至る区域であり、そこには平坦地も山も、肥沃な地も痩せた地もあったのです。主は、その相続地の割当ての責任者として、祭司エルアザルとヨシュアを立てられ、さらに各部族からの代表として、族長をひとりずつ指名されました(19-28節)。そこには、カナンの地の偵察隊のメンバーであった(13:6)カレブも含まれていました。しかしそれ以外の者たちは、主が民に告げられたとおり(14:30)、彼らの不信仰のゆえに、約束されたカナンの地には入れなかったのです。ところで、その偵察隊のメンバーであった族長たちは、モーセあるいは各部族の者たちが選んで決めたことが示唆されています(13:2-3)。しかし、カナンにおける相続地の割当てにおいては、主ご自身が一人ひとりを指名して任命されたのです。それは、その割当をくじによって行って公正を期したのに加え、割当てに関して部族間でいざこざが起こったとしても、主が直接決めた人事による解決が望ましいとされたからかもしれません。いずれにしても主は、相続地の割当てという重大な事柄において、主権をもって介入し、それが混乱や争いなくスムーズに進むようにされたのです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩37:5)。主は、私たちの歩みにおいても、主権をもってすべてを支配し、さまざまなことの中に介入し、ご自身のみこころのうちに事をなしてくださいます。それは最善であって、このお方に信頼するなら、その歩みは確かにされるのです。主にすべてを委ね、ひたすら拠り頼む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 民数記 33章1-40節◇(3月6日)

「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」…民数記33:2
33章には、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒野を旅してカナンの地に入る直前までの、40年間の旅程が記されています。そこには地名が羅列されており、読んだだけではその経路がよくわかりませんが、その位置を確認すると(添付地図参照)、彼らが最短ルートの地中海沿いの道を通らず、大きく迂回しシナイ半島の先端近くまで進み、荒野ばかりを通過したこと、それが試練と苦難に満ちた旅であったことがあらためてわかります。モーセは主から命じられ、その旅程における宿営地、つまり出発地点を毎回記録していました。民はともかく、少なくとも彼は、そのおおよその経路を把握し、自分たちが遠回りしているということがわかっていたのです。しかしそれは主の導きであることを確信し、アロンとともに不平をもらす民をなだめ、励まし、進んだのです。実際その旅程は、主が決められたものでした。主は昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、いつ宿営し、いつ出発し、どこに向かって進むか、民の前を進んで教え、示し、導かれたのです。そして、主の臨在を表すその柱は、民から離れることはなかったのです(出13:21-22)。その主は、今も私たち一人ひとりとともにおられ、この地上の荒野の歩みを導いてくださっています。それは最短コースではなく、大きく迂回することもあります。荒野の連続で、苦しむこともあります。それを人間的に捉えるなら、なぜこんなところを通らねばならないのか…と、不満をぶちまけたくなります。しかしそれは、人の思いを越えた主のご計画の中で、主が私たちの前を進み、守り、照らし、導いておられる旅路なのです。たとえその中で困難にぶつかっても、さまざまな必要が出ても、そのたびに主は不思議な方法をもってそれを解決し、満たし、前に進ませてくださるのです。その主に信頼し、約束の地、天の故郷にあこがれつつ、主に従い続けていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 32章20-42節◇(3月5日)

「その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。」…民数記32:22

ヨルダン川東側の領土を割当地として希望したルベン族とガド族は、戦士たちが他部族とともにヨルダン川を渡って行くことをあらためて約束し、もしそうしないならカナンの地に割当地を持つということを了承しました。モーセはそれを確認した上で彼らの申し出を承認し、マナセの半部族とともにギルアデの地を与えたのです。その際にモーセは、「もしそのように行わないなら、そのとき、あなたがたは主の前に罪ある者となり…」と告げました(23節、2017訳)。約束を破るのは他部族に対する裏切り行為であり、何よりも主の前に罪を犯すことであって、そのことに対する主の報いが必ずあるのだと、モーセは彼らに指摘して釘を刺したのです。20-24節と29-30節はモーセが語ったことばですが、そこに「主の前に(で)」という表現が繰り返し使われていることに心が留まります。「主の前に(で)」とはすなわち、「主が見ておられるところで」という意味であり、常に見ておられる主の前に真実に歩むように、御旨にかなう者となるようにと、モーセはルベン族とガド族の者たちに強調したのです。そしてそれを聞いた彼らも、主の前に渡って行き、主の前に戦うと言ったのです(27,32節)。たとえ人が誰もみていなくても、主は天から、神の民である私たち一人ひとりに目を留めておられます。そしてその主の前に真実に歩むこと、みことばに聞き従う者となることが私たちに求められているのです。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(2歴16:9a)。主は絶えず私たちの歩みのすべてを見ておられます。私たちの心の思いを知っておられるのです。どんなときにも主を畏れ、主のまなざしを意識し、主の前に真実に歩む者でありたいと思います。

主の支えと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 32章1-19節◇(3月4日)

「しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。」…民数記32:17

ガド族とルベン族は、モーセ、エルアザル、族長たちに一つの申し出をしました。それは、自分たちは他の部族のように、ヨルダン川を渡ってカナンの地を割当地とするのではなく、川の東側であるギルアデの地に留まり、そこに住みつくようにしたい、というものでした。それを聞いたモーセは、カナンの地を探った偵察隊のことを思い出し(13-14章)、あの時のようにまた否定的なことを言って民の意気をくじき、主の怒りを引き起こすつもりかと怒り、彼らを叱責しました。すると彼らは、女性や子どもたち、家畜は残すが、自分たちは武装して軍団の先頭に立ってカナンの地に入って戦い、その後に戻ること、またそこを攻め取っても割当は求めないということを、自分たちの意志としてモーセに告げたのです。彼らが最初からそのような考えであったのか、それともモーセから叱責されたのでそう言ったのか、それは明らかではありません。しかしいずれにしても、彼らは覚悟をもって、その決意を他の部族の長たちもいる前で宣言したのであり、その約束は何よりも主の前で、きちんと果たされなければならなかったのです。彼らの行動を、身勝手で一致を乱すものだと評価することもできるでしょう。主はここでは沈黙を守っておられるので、このことが主のみこころかは判断できません。教えられることは、霊的なイスラエルとされた私たちもまた、覚悟をもって、約束の地に入るべく、恐れずに進み続けることが求められているということです。この地上に未練を持つのではなく、天にある霊的な祝福を求める者となり、永遠の安息に入るべく力を尽くして努めるよう、主は願っておられるのです(ヘブ4:11)。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さずに(ヘブ12:2)、この世の旅路(ヘブ11:13)を歩み続ける者でありたいと思います。

主がともにおられます。平安がありますように。

◇聖書箇所: 民数記 31章42-54節◇(3月3日)

「それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。」…民数記31:50

ミデヤン人との戦いにおいて軍団の指揮官となった、千人の長、百人の長たちはモーセのところに来て、戦いの後に人員点呼をした結果として、自軍の兵力は戦いによっても一人も失われなかったことを彼に報告しました。そして、戦利品として手に入れた金の飾り物を、主へのささげ物として差し出したのです。それは全部で16,750シェケル、191kgもの量でした。そのささげ物は、主が命じられたものではありません。彼らはあくまで自発的にそれを献げたのです。そこには、主の守りと導きによって、戦死者を一人も出さずに敵との戦いに勝利できたことへの感謝とともに、主の御旨に反してミデヤン人の男子のみを討ち、残りの者たちを捕虜として家畜とともに持ち帰ったことについて、悔い改める思いがあったに違いありません。彼らの「私たち自身の贖い」(私たち自身のための宥め:2017訳)ということばに、それは示唆されているのです。彼らのように主の御旨に従い切れない弱さは、私たちのうちにもあります。そしてキリストがその私たちのために贖い、宥めとなってくださったので、私たちもまた、感謝と、悔いた心(詩51:17)をもって、主の前にささげ物をささげるのです。献金、賛美、祈り、自分自身をささげる思いを、強いられてではなく、形式的にでもなく、自ら進んで、喜びをもって献げるのです。「私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します」(詩54:6)。詩人もそのように告白しています。主の恵みとみわざを覚えて感謝をささげ、御旨から外れていたことを認めて主に立ち返り、主に従うことを祈りのうちに告白して再献身する…。そのような砕かれた悔いた心を、主にいけにえとしてささげる者でありたいと思います。

感謝と喜びが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所: 民数記 31章25-41節◇(3月2日)

「彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。」…民数記31:29

主はモーセに、ミデヤン人との戦いで軍勢が勝ち取った分捕り物の内訳とその数を調べ、それを戦いに出た者たちとイスラエルの全会衆とで、半分ずつ分けるようにと命じられました。また、戦士たちが受ける分からは、人、牛、ろば、羊のそれぞれの1/500を主への奉納物とするよう求められ、一方、会衆が受ける分からは、それぞれ1/50をレビ人に与えるようにと求められたのです。するとモーセは、祭司エルアザルと氏族のかしらたちとともに主が命じられたとおりに行い、主への奉納物をエリアザルに渡しました。その数は分捕った物のそれぞれ1/1000であり、羊675頭、、牛72頭、ろば61頭、そして処女の女性32人が、主への貢ぎとして徴収されました。また会衆からはレビ人に対して、分捕った物のそれぞれ1/100の数が、モーセを通して与えられたのです。そのような規定がなされた理由は特に書かれていませんが、おそらくそのように主から命じられなければ、モーセや民は分捕り物を数えることはせず、その正確な数はわからなかったでしょう。数えるという作業を通して、それは主の「恵み」として数値化され、具体的に表され、民は、それがいかに大きなものであるかということを、あらためて認識することとなったのです。またそれらの分捕り物は、決して少なくありませんでしたが、モーセや民は、主がミデヤン人との戦いに主が勝利させ、分捕り物もすべて主から与えられたということを、その作業を通してあらためて覚え、主をほめたたえ、すべての栄光を主に帰したに違いありません。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。主の恵みを「数える」こと、主に感謝と賛美をささげ、栄光を主に帰すこと…。それは私たちにも求められています。絶えずそのことを行動で現わす者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 民数記 31章1-24節◇(3月1日)

「モーセは軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒った。」…民数記31:14

主はモーセに対し、イスラエルの民の中から部族ごとに千人を選び出し、ミデヤン人に復讐を果たすべく戦いに送るようにと命じられました。その復讐とは、巧妙に仕組んだ企みとして、25章に書かれている「バアル・ペオルの事件」と「コズビの事件」を引き起こし、イスラエルの民を堕落させようとしたミデヤン人に対するものであり、主はすでに「ミデヤン人を襲い、彼らを打て」と、モーセに命じておられたのです(25:17)。早速12,000人の軍勢が編成され、彼らは祭司ピネハスとともに戦いに出て行き、ミデヤン人と戦ってその男子、5人の王たち、そしてベオルの子バラムを殺しました。しかし彼らは女性と子どもは捕虜とし、奪った家畜や分捕り物とともに、モーセと民のところに帰還したのです。彼らを迎えたモーセは、軍勢の指揮官たちに対して激怒(2017訳)しました。彼らがバアル・ペオルの事件に関与したミデヤン人の女性たちを殺さず、生かしておいたからです。その理由は不明ですが、残酷だと考えたからかもしれません。いずれにしてもそれは、主のみこころにかなったことではありませんでした。ミデヤン人が引き起こした2つの事件により、神罰で24,000人ものイスラエル人が打たれたのであり、その復讐のためにミデヤン人を打つという、戦いの目的を正しく理解していなかった彼らは、求められた任務を全うできなかったのです。神の意図、御旨を正しく理解しないなら、自分たちの人間的な思いで行動するなら、その歩みは神の道に沿ったものとはならず、主に喜ばれることはない…。そのことをあらためて教えられます。神の願い、みこころはみことばに示されています。そしてそれを表面的にただ読むのではなく、主にその意味を尋ね求め、知恵と啓示の御霊の助けを受けつつ、主ご自身から教えられていくことが大切なのです。主の御思いをしっかりと受け取る者でありたいと思います。

真理を悟ることができますように。