◇聖書箇所:ローマ人への手紙 5章1-11節◇(9月30日)

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」…ローマ5:5

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので」と書き始めたパウロは、そのことが何を聖徒たちにもたらすようになったのかを語っています。そしてそれは、端的に言えば、その後に述べられているように、私たちがキリストによって神との平和を持つようにされた、すなわち、神と和解することができたということなのです。その和解がなければ、私たちはなおも神の怒りの対象となっていました。アダム以来、神に背き、身勝手に歩み、神に従おうとしない罪深い者たちであったからです。しかし神の御子であるイエス・キリストは、そんな不敬虔な私たちのために身代りとなって十字架にかかり、神の怒りを一身に受け、過越の子羊となって血を流し、私たちが神の怒りとさばきから免れるようにしてくださったのです。そしてそれは、神に敵対していた私たちへの、一方的で犠牲を惜しまない愛の現われであったのです。神に愛されている…赦されている。もはや神の怒りの対象ではない…。神の子どもとされ、神に喜ばれている…。キリストを信じる信仰によって義と認められる、すべての聖徒たちにもたらされるその祝福は、人間が創造されたときの神と人との親密な関係の回復にほかなりません。そしてその霊的事実を自分自身のものとしてしっかり受け取るとき、私たちは人生の苦難さえも感謝をもって受けとめることができるのです。それが決して神のさばきや嫌がらせではなく、神が自分を無視しているからでもなく、私たちをご自身の子どもとしてふさわしくきよめ、整え、神の栄光にあずからせるための取扱いなのだということを、御霊によって教えられるのです。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」(3-4節)。神に愛されている者として、忍耐と希望をもって、試練をくぐり抜けていきたいと思います。

喜びと平安がありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 4章13-25節◇(9月29日)

「…すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」…ローマ4:24

相続人となる約束がアブラハムに与えられたことが、もし律法によるのであれば、信仰は空しく、約束は無効になるとパウロは言っています(13-14節)。それはまた、信仰により神の救いと祝福にあずかり、その祝福の基となるというアブラハムへの約束は、律法ではなく信仰によって義とされる異邦人にも及ぶということであって、それは、「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と、主がアブラハムに言われたとおりなのです。ではそのアブラハムの信仰とはどのようなものか…。パウロは読者に創世記の記事を思い起こさせています(18-21節)。息子イサクが与えられたのは、彼が百歳、妻のサラが90歳のときであり、常識から言えばそのような老年の夫婦に子どもが生まれるはずがないのです。しかし、神から満天の星を見せられ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われたその約束のことばを、彼は疑うことなく信じたのであり、その信仰は決して弱まることはなかったのです。だからこそ、その信仰のゆえに彼は、神から義と認められたのです。パウロは、そのようなことが聖書に書かれているのは、後の時代の、すべての人のためでもあったのだと言っています。肉体的な衰えを免れず、死に近づいていたアブラハムとサラからイサクを生まれさせた神は、十字架に死んだ主イエスを3日目によみがえらせ、復活のいのちを与えられました。また、神から命じられたアブラハムは、モリヤの山上でイサクをほふろうとしましたが、信仰に立ち、神の命令に従順に従う彼を良しとされた神は、それを直前にやめさせ、アブラハムはイサクを取り戻しました。そのこともキリストの復活の「型」なのです。そして、主イエスを死者の中からよみがえらせた神を信じるすべての人も、アブラハムと同じように義と認められるのです。望み得ない状況でも神の約束のことばを信じたアブラハムに倣い、私たちもますます、主の約束のことばを握り、信仰に堅く立って歩みたいと思います。

信仰が日々強められますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 4章1-12節◇(9月28日)

「もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。」…ローマ4:2

神が人を、行ないではなく信仰によって義と認めてくださるということ、また割礼の有無はその義認とは無関係であるということを、パウロは、ユダヤ人たちの父祖であるアブラハムを取り上げて語っています。創世記には、子がいなかった高齢のアブラムに対して主が、天を見上げて星を数えてみよ、あなたの子孫はこのようになる…と告げられ、彼はその主を信じたことによって義と認められたのだ、と書かれています(創15:1-6)。さらにパウロは、行ないとは関わりなく神が義と認められる者について、ダビデの詩篇のことばを引用しています(詩32:1-2)。そこには「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は…主が咎をお認めにならない人は…」と書かれていますが、それは一方的な神の恵みとあわれみによる赦しであって、そこに人の努力や功績による要素は、まったく含まれていないのです。そしてパウロは、決定的な事実として、アブラハムの信仰が神に義と認められたとき、彼がまだ割礼を受けていなかったことを挙げ(創17:11)、割礼が義認に必須のものではなく、むしろ信仰によって義と認められたことの「証印」として受けたものだと語り、アブラハムがユダヤ人だけでなく、異邦人を含むすべての人の信仰の父であると主張しているのです。神の救いにあずかるためには、異邦人も自分たちと同じように割礼を受けなければならないと、偏狭で高慢な一部のユダヤ人たちは主張しましたが(使15:1)、それは人の考えに基づく全くの誤りであって、神の義認、救いが信仰によることは、すでに旧約の時代において、アブラハムの歩みを通して示されていたのです。そして異邦人である私たちも、キリストへの信仰によって救われ、アブラハムの子孫、神の民とされているのです。自分の中に神に誇れるものなど何もないこと、主の恵みとあわれみがいかに深いかを覚えたいと思います。

喜びと平安がありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 3章21-31節◇(9月27日)

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」…ローマ3:23-24

人はだれも律法を行うことによっては、神の前に義とは認められない、すなわち、罪により汚れている人間は、義でありまた聖である神に受け入れられることはなく、神との本来の正しい関係に入ることができない、そして、神から与えられた律法をなんとか守り通そうとしても、それは決してうまくいくことはなく、そこに生じるのは罪の意識なのだとパウロは述べています(20節)。しかし、そのような絶望の中にあった人間に対して、時至って、愛とあわれみに満ちた神の側から、人が義と認められる道が備えられました。それが神の御子、イエス・キリストの十字架と復活による贖いであり、それは律法と預言者たちの書、つまり旧約聖書の中でメシアによる救いとして証しされてきたことだったのです(21節)。律法の行ないによってではなく、人類のために贖いを成し遂げられたキリストを信じる信仰によって、神から義と認められる…。罪の中から救い出され、神の子どもとされ、本来の正しく親しい神との関係に回復される…。そしてそれは、ユダヤ人という一つの民族だけへの扱いではなく、キリストによる救いを信じる、すべての国のすべての時代のすべての人々に開かれた神の恵みであって(22節)、それを受け取るために人間が神に差し出すべきものは何もないのです。キリストがご自身のいのちを神に差し出して、それを神が良しとされたからです。そのキリストの贖いを信じる信仰によって、私たちも義と認められました。神は私たちの罪を見逃されたわけではありません。私たちへの神からの義の要求が、罪のない唯一の方、キリストの血による宥めのささげ物によって満たされたからこそ、私たちの救いの道が開かれたのです(25節)。そして律法は無効にされたのではなく、キリストによって確立されたのです。驚くべき神の恵みを覚え、主にただただ感謝と賛美をささげたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 3章1-8節◇(9月25日)

「では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。」…ローマ3:5

律法に背き、神を侮り、割礼を無意味なものとしているユダヤ人のうちのある者たちを強く非難したパウロは、それならユダヤ人に何かすぐれた点があるのかと問いかけ、彼らは特別に神のことばを委ねられているのであって、そのことを彼らが自覚しているのなら、神の選民のしるしとしての割礼は価値があり有益だと語っています。さらにパウロは、神は真実なお方であるので、たとえユダヤ人のうちに不真実な者がいるとしても、そのことが神の真実を無にすることなど決してないのだと、詩篇51篇4節のことばを引用しつつ強調しています。5節以降においては別の観点からパウロは論じています。それは、人間が不義であるゆえに神の義が明らかにされるのであれば、人間の不義に対して神が怒りを下すのはおかしいではないか…という理屈であり、実際そのように主張する者がいたのです。しかし彼は「決してそんなことはありません」ときっぱりと否定し、絶対者である神と被造物である人間との主従関係を無視した、人間的な考えに基づく論理の愚かさを指摘しているのです。パウロが宣べ伝えた恵みの福音…。それは、人間が罪を犯すのはやむを得ない…ということではなく、律法は無意味なのだからそれに縛られる必要はない…ということでもありません。しかしパウロを中傷する者たちは、そのように神の絶対性、主権を認めずに、自分を何とか正当化しようとしていたのです。私たちはどうでしょう…。苦難の中に置かれると、ともすれば、なぜこんな目に遭わなければならないのかと嘆き、神を非難する思いになるのです。しかし私たちは、神の前に罪人であった自分が、ただキリストの贖いによって義とされ生かされていることを覚え、絶えず主の主権を認め、へりくだるべきなのです。真実な神の恵みとあわれみに感謝しつつ、歩んでいきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 2章17-29節◇(9月24日)

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」…ローマ2:29

2章の後半においてパウロは、自らを「ユダヤ人」と称し、神を誇り、律法の知識と真理のうちを歩んでいると自負し、他者を教えながら実は律法に違反し、姦淫や盗みなどの悪事を繰り返している者たちを、神を侮っていると言って強く非難しています。そのように言行不一致である彼らは偽善者であって、自分は選民だという意識を持ち、人々から特別視されることを好んでいたのです。彼らはユダヤ人として割礼を受けていました。それは人の目に見えるものであり、もし彼らが律法を守り行っているのなら、それは割礼にふさわしい、価値あることだと言えます。しかし彼らは律法に反して歩んでいたのであって、それは割礼を無意味なものとすることであり、それによって他者をつまずかせかねないという意味においては、そんな形だけの割礼は有害でさえあるのです。目に見える割礼を受けた者がユダヤ人、神の民なのではない、たとえ無割礼であっても、神を畏れ、キリストを信じ、律法、すなわち神の教えであるみことばを守り行うなら、その者こそ、信仰によるアブラハムの子孫、霊における神の民、心の割礼を受けている者である。そしてその者への称賛は、人からではなく神から与えられるのだと、パウロは言っているのです。私たちは、キリストを信じて洗礼を受け、「キリスト者」と呼ばれる者たちですが、人々が初めてキリストの弟子たちをそのように呼んだとき、弟子たちの言動を見て、「キリストに似た者たち」という意味を込めてそう名付けたのです(使11:26)。ひるがえって私たちは、キリストに似た者となっているでしょうか…。キリストに倣って歩んでいるでしょうか…。人々への証しとなる生活を営んでいるでしょうか…。御霊による心の割礼を受けた者として、残っている不要なものをさらに取り除かれ、ますますキリストに似た者とされたいと願います。

主の似姿へと日々造り変えられますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 2章1-16節◇(9月23日)

「善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」…ローマ2:10

パウロはまず、他人をさばく者のことを取り上げ、彼らには弁解の余地はない、神のさばきを免れないと断じています。なぜなら彼らは、不義と悪に満ちたことを行う者たちをさばきながら、自分たちも同じことを行っているからです。神はいつくしみ深い方であり、彼らが自らの罪を認めて悔い改めるなら、それを赦してくださるのに、彼らは頑なでそのような心を持っていないのです。さらにパウロは話題を拡げ、終わりの日の神のさばきについて語っています(6節以降)。神は、国と時代を越えて一人ひとりの歩みを知っておられ、そのあり方に従って正しい報いを与えられるお方であって、悪を行うすべての者の上には苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、栄光と誉れと平和が与えられるのです(9-10節)。では、何が悪で、何が善なのでしょうか…。それを決めるのは人間ではありません。なぜならそのようにするなら、善悪の基準は絶対とはならず、時代の価値観によって、人間の都合の良いように変わってしまうからです。前の章でパウロは、自然な関係を捨てて同姓同士で愛し合い、情欲を抱くことの誤りを指摘していますが(2:26-27)、現代においては「多様性」の名のもとに、同性婚が社会や人々に受け入れられつつあるのです。何が悪で、何が善なのか…。それはあくまで、神の基準によって決められなければなりません。そしてそのために神は、律法、すなわちご自身の御旨を表す教えと戒めを、みことばとして人間に与えられたのです。それは、時代が移り変わっても、決して変わることのない普遍的な真理であって、私たちはそれを、善悪を決める唯一の基準、生きるために必要な物差しとして、しっかりと持つ必要があるのです。そして、人の意見や自らの考えがはたして「善」であるのかを、みことばによって吟味することが大切なのです。人間中心主義の世にあって、ますます神の基準に従って歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 1章18-32節◇(9月22日)

「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。」…ローマ1:28

18節以降においてパウロは、不義によって神の真理を阻み、不敬虔と不義の中にある者たちのことを取り上げています。神が被造物を通して、すべての人に対してご自身の力とご性質を示されているにもかかわらず、彼らは自らの欲望のままに生き、罪深い行ないをやめようとしないのであって、そんな彼らに弁解の余地はないのです。彼らは創造主なる神の栄光を、自分たちの手による偶像を神として拝むことによって堕落させてしまったため、神は彼らを情欲に引き渡されました。その結果、彼らに本来与えられている健全な性的欲求は歪んだものとなり、彼らは異性にではなく同性に対して情欲を燃やし、恥ずべきことを行うようになってしまいました。さらに神は、彼らが神を知ることに価値を認めようとしないため、無価値な思いに引き渡されたので、彼らは不義と悪に満ちたことを、平気で行う者となってしまったのです。「神は彼らを…汚れに引き渡されました(24節)…情欲に引き渡されました(26節)…無価値な思いに引き渡されました(28節)…」。なぜ神はそのようにされたのか…神は恵みとあわれみに満ちた方ではないのか…。確かにそうです。しかし同時に神は、ご自身の義と聖を貫かれるお方であって、彼らの罪を見過ごしにはできないのです。福音は神の愛とともに神の義を啓示しています(10節)。そして、その神の義の要求を全うするために、罪のない唯一の人であるイエス・キリストはこの地上に来られ、罪と不義に満ちた私たちが神から赦され、義とされるために、十字架にかかってくださったのです。29~31節を読み、私はそこまでひどくはない…と思ったとしても、神の前に義と認められる者は一人もいないということを、どんなに努力しても義人にはなれないことを、すべての人はわきまえ知るべきなのです。ますます福音の恵みを覚え、キリストの贖いに感謝して歩みたいと思います。

救いの喜びが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 1章8-17節◇(9月21日)

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」…ローマ1:17

挨拶を終えたパウロは本題に入り、手紙の宛先であるローマの聖徒たちのところに行くのを切望していること、その道が開かれるように神に祈っていること、ローマに行く計画は何度も立ててきたにもかかわらず妨げられ、実現に至っていないということを書き記しています。彼はこのとき、おそらくコリントにいたとされています。そのようにパウロが願っていた理由、それは彼が聖徒たちに御霊の賜物を分け与え、彼らを強めたかったからであり、また、彼らとの交わりを持ち、信仰をもって歩んでいる互いのことを知り、ともに主からの励ましを受けたいということでした。もちろんパウロは、ローマの未信者に福音を伝えることをも強く願っていたに違いありません。そのために自分が召され、生かされているということを彼は常に自覚し、宣教の働きをなんとかさらに推し進めようと、さまざまな困難と戦いの中にあって奮闘してきたのです。ではその福音は、彼らが救われるために必要な使信として、未信者のために与えられているものなのでしょうか。パウロは聖徒たちにこう言っています。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」(15節)。さらにこう言っています。「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです」(17節)。福音は、未信者だけでなく聖徒たちもまた、聞き続けるべき、神からのメッセージなのです。もう知っている、卒業した…ではなく、福音を日々受け取り直し、新たな啓示の光に照らされ、主の愛に満たされ、罪を悔い改めて主に立ち返り、自分の召しを確かなものとすべきなのです。なぜなら私たちは、福音によって、信仰から信仰へと進むことができるからです。そして、そのように福音を受け取り続けるとは、キリストの十字架と復活を自分のものとして捉え続けることにほかなりません。さらに聖書全体から福音を受け取っていきたいと思います。

信仰の深みへと進むことができますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 1章1-7節◇(9月20日)

「その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました…」…ローマ1:6(新改訳2017)

この手紙を書いたパウロは、宛先であるローマの聖徒たちに対して、1~7節でまず挨拶のことばを送っています。彼は自分のことを「神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロ」と自己紹介した後、挨拶としては異例ですが、その「神の福音」についてさらに詳しく語るべく、2~6節のことばを挿入的に記しているのです。その部分でパウロが述べていること、それは第1に、その福音、良き知らせは、神が預言者を通して語られ、(旧約)聖書に多くの約束のことば、メシア預言として収められているということです。そしてそれらは、時至って成就したのです。人の約束はしばしば守られず反故にされますが、神のことばは真実であり、決して地に落ちることなく、確かにその通りになるのです。述べていることの2つ目、それは約束されたメシアとは、神が遣わされたご自分の御子であり、その御子はダビデの子孫であるヨセフを父、マリアを母として、肉体をもってこの地上を歩まれたのであり、そのお方が人類の贖いのためにいのちをささげられ、しかし死からよみがえられ、神としての力と栄光を現わされたということです。キリストはそのように、全き人かつ全き神であって、私たちの痛み、悲しみ、苦しみを理解し、それを受けとめ、担ってくださるお方なのです。述べていることの3つ目、それはパウロがそのキリストに召されたのは、すべての人々、特に異邦人に対して福音を伝え、信仰による救いをもたらすためであり、ローマの聖徒たちもまた、救われた状況はそれぞれ違っても、同じ召しを主から受けているのだということです。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました」。そのことばは、キリストに贖われ、聖徒として今を生きる、私たちに対するものでもあるのです。その召しをしっかりと受けとめ、主から委ねられた務めを忠実に果たす者でありたいと思います。主からの恵みと平安がありますように。

★今後は基本的に新改訳2017を使用いたします。みことばにはその旨を特に記載しませんがご了承ください。

◇聖書箇所:詩篇 102篇12-28節◇(9月18日)

「なぜなら 主はシオンを建て直し その栄光のうちに現われ 窮した者の祈りを顧み 彼らの祈りをないがしろにされないからです。」…詩篇102篇16-17節(新改訳2017)

「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます」(12節)。詩人のことばは、それまでの嘆きと非難から一変し、主を認め、その御名が代々に及ぶものであることを告白しています。そしてその主は、主権をもって地を治められ、窮した者の祈りを決してないがしろにされないと、確信しているのです。なぜそのような変化が突然起こったのか…。それは詩人の視線が、苦難の中にある自分自身から、また周りの現実から天に転じ、御座におられる主に向けられたからに違いありません。そして同時に、私、私と、自分だけに向いていた、閉ざされた詩人の心は開かれ、「彼らの」(17節)と、同じように苦しみの中にある者たちのことにも、思いを至らせるようになっていったのです。さらに詩人は、後の世代の者たちが、自分のように苦しむ者に目を留め、うめきを聞いてくださる主を知り、信じ、賛美するようにと、そのような願いさえ持って、とりなしているのです。そしてそれらはすべて、「しかし…」という詩人が発した短いことばから始まったのです。この苦しみの中で何を信じろと言うのか…。常識から考えてこの状況が好転するなんてあり得ない…。私たちの中でもそのような否定的な思いが湧き起こります。けれども、それに抗うようにして、地上の現実から目を天に転じて、「しかし、主よ…」と主の御名を呼ぶならば、主は私たちをあわれみ、私たちの霊の目を開き、救い、解放、回復の道へと進ませてくださるのです。主は、窮した者の祈りを顧み、その祈りをないがしろにされない…。そのことばは真実であり、その約束は、すべての聖徒たち、私たちのためのものです。決して感情に流されず、現実に目を奪われず、「しかし、主よ…」と御名を呼び求め、真実な主の取扱い、偉大なみわざを先取り感謝し、それを告白する者でありたいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所:詩篇 102篇1-11節◇(9月17日)

「私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。」…詩篇102篇2節

詩人は自分の祈りが主に聞いてもらえず、助けを求める叫びが届いていないと感じています。彼は、自分が苦しんでいるのに、主が御顔を隠している、聞こえているのに無視されているとさえ感じており、そのような態度を取る主を非難する思いの中にあったのです(1-2節)。詩人は自分の窮状を訴えます。私の骨は炉のように燃え…私の心は青菜のように打たれてしおれ…私は廃墟のふくろうのよう…。食欲も失われ、眠ることもできず、やせ衰え…と述べ立てる詩人は、すっかり気落ちし、憔悴していたのです(3-7節)。さらに詩人はその苦しみの原因について語っています。敵が絶えず自分をそしり、嘲る者が毒のあることばで責め立てる…。そしてそれは「あなた」、つまり主が激しい怒りのゆえに自分を投げ出したからだと思い込み、主に見捨てられてしまったと感じているのです(8-11節)。しかしダビデはこう言っています。「まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない」(詩37:28)。「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」(詩55:16-17)。主はご自身の聖徒たちを見捨てることはないのです。そして聖徒とは、主を愛し、主の教えに聞き従い、主の道を尋ね求める者であり、たとえ自らの弱さゆえに罪を犯したとしても、真実に悔い改めて主に立ち返るならば、主はその罪を赦し、そのようなへりくだった者を喜び、ご自身のいのちのうちに生かしてくださるのです。また、苦難の中で弱り切ってしまい、ことばをもって祈ることができなくても、嘆きとうめきしか出てこなくても、主はその声を確かに聞き、御手を伸ばして助けてくださるのです。苦しみの中にあってもなお、その主を呼び求め続ける者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 101篇◇(9月16日)

「恵みとさばきを 私は歌います。主よ あなたにほめ歌を歌います。私は 全き道に心を留めます。」 …詩篇101篇1-2節a(新改訳2017)

この詩の作者とされているダビデは、1~4節において、主の前に正しい歩み、すなわち主のみこころにかなう歩みをすることを決意し、そのように告白しています。1節には、恵みとさばきを私は歌うとありますが、それは、ダビデが主の恵みを感謝するだけでなく、主のさばきをも喜ばしいものとして受け取っているということです。主のさばき…それは聖なる方、義なる神が、悪しき者に対してなされるものであり、また神の民に対してなされる「懲らしめ」でもあります。ダビデの切なる願い、それは、主が願っておられる全き道(2,6節)を、右にも左にもそれずにまっすぐに歩み続けることでした。だからこそ、それを妨げようとする卑しいこと、曲がったわざ、曲がった心など、あらゆる悪を退けて遠ざけると心を定め、そのことを主に言い表しているのです。6~8節は、国を治める王としてのことばです。ダビデ自身と同じように、全き道を歩む者は王に仕え、王もそのような忠実な者、正しい者に目を留め、その者たちとともに、神の民のために備えられた国に住み、主の祝福と平安のうちに過ごすのです。しかし欺きを行ない、偽りを語る悪しき者たちはそうではありません。王によって国の中から断ち切られ、滅ぼされてしまうのです。王が民をどう見ているか、どうあってほしいと願い、どのようにされるのか…そのことがここで語られています。そしてそれは、神が、御国の王なるキリストが、ご自身の民である私たちをどう扱われるかを示唆しているのです。主は、私たちが全き道を歩むことを切に願っておられます。そしてその者たちに御目を注ぎ、ともに住み、祝福をもたらしてくださるのです。そのことを覚えつつ、私たちもまた、全き道に心を留めますと主に告白し、その道からそれずに歩み続けることができるよう、悪と誘惑から守られるよう、主の助けと導きを祈り求めたいと思います。

王なる主に忠実に仕えることができますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 36章◇(9月15日)

「ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」…2歴代36:16

ユダの民はヨシヤの子エホアハズを王としましたが、そのわずか3ヶ月後に、エジプトの王が彼を捕らえて連れて行き、代わりに彼の兄弟エホヤキムを王としました。しかしそのエホヤキムも今度はバビロンの王に連れて行かれ、彼の親戚ゼデキヤが代わって王となりました。それらの王たちはみな主の目の前に悪を行ないましたが、特にゼデキヤは、預言者エレミヤを通して語られた神のことばを無視して主に立ち返らず、民も異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて主の宮を汚し、みことばを侮ったため、ついに主の怒りが頂点に達し、主はバビロンによってエルサレムを陥落させ、南ユダの国を滅ぼしてしまわれたのです。そうなる前に主は、王と民に警告を与えるべく、使者を何人も遣わされていました。それは彼らと神殿のあるエルサレムをあわれんでおられたからです。しかし彼らは、そんな主の思いを踏みにじるように、その使者たちを侮り、笑いものにしたのです。そしてそれは、使者を遣わされた主ご自身を侮って嘲笑するという罪深いことであったのです。パウロはこう言っています。「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです」(ロマ11:22)。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。悪を行った王の後に、良い王が忌みきらうべきものを取り除くと、また別の悪い王が出てくる…。この書を通して、人の罪深さ、またあわれみ深い神は同時にきびしい神であり、決して侮られる方ではないことを教えられます。神を畏れつつ、その教えに聞き従う者でありたいと思います。

良い実を結ぶことができますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 35章(9月14日)

「…イスラエルのどの王も、ここでヨシヤが行い、祭司たちとレビ人、および、そこにいた全ユダとイスラエル、さらに、エルサレムの住民たちがささげたような過越のいけにえをささげたことはなかった。」…2歴代35:18

主の宮にあった偶像を打ち砕いて捨て去り、きよめと修復を命じたヨシヤ王は、見つかった律法の書を民に自ら読み聞かせた後、今度は、過越のいけにえを献げるべく、祭司たちをそのための任務につかせ、励まして力づけ、またレビ人たちには、契約の箱を主の宮に置くようにと命じました。おそらくマナセ王やアモン王の時代には、その聖なる箱はどこかに放置され、偶像の神々を礼拝するための祭壇などに置き換えられていたのです。ヨシヤはその過越のいけにえとして、3万頭もの子羊とやぎの子を自分の財産の中から提供し、それに続いて、高官たち、主の宮のつかさたち、レビ人の長たちもそれぞれ、過越のいけにえを提供すべく、進んで献げました。そしてすべて準備が整い、王と民は過越のいけにえを献げ、7日間、種を入れないパンの祭りを行ったのです。18節には、そのいけにえと祭りが、どの王の時代にもなかったほどのものであったあります。それは単に、いけにえの数の多さや祭りの盛大さを意味しているのではありません。なぜなら王と民は、主の前に契約を結び、心を尽くし、精神を尽くして主に従って歩むことを誓ったとあるからです(34:31)。その過越の祭りでは、自分たちの祖先が、奴隷とされていたエジプトから神によって脱出させられたこと、子羊の血による救いがもたらされたことを記念し、その神が自分たちの主であることを感謝して、心からの礼拝がささげられたのです。その出エジプトはキリストによる贖い、また過越の祭りは礼拝や聖餐式の予型です。聖徒とされた私たちもまた、主の宮、すなわち教会や自分自身の中に、契約の箱=主の臨在が現わされ、主権が置かれるようにし、感謝と喜びをもって主を礼拝すべきなのです。また、自らを生きたささげ物として主に献げるべきなのです(ロマ12:1)。そのように、主に喜ばれる者として歩みたいと思います。

救いの喜びがありますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 34章22-33節◇(9月13日)

「ヨシヤはイスラエル人の全地から、忌みきらうべきものを除き去り、イスラエルにいるすべての者を、その神、主に仕えさせた。彼の生きている間、彼らはその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。」…2歴代34:33

マナセ、アモン、ヨシヤとユダの王位は継承され、ヨシヤは主の目にかなうことを行ない、国中や主の宮にあった偶像を徹底的に破壊して取り除き、主の宮をきよめ、修復するための工事を行わせました。するとその中で律法の書が見つかり、ヨシヤ王の前で朗読されましたが、彼はそのことばを聞いて自分の衣を引き裂き、民に対する主の御旨を側近たちに尋ね求めさせたのです(1-21節)。すると彼らは、女預言者を通して語られた神のことばを王に報告しました。わたしはユダの上にわざわいをもたらす…それは彼らがわたしを捨ててほかの神々に仕え、わたしの怒りを引き起こしたからだ…しかし王は律法のことばに心を痛め、へりくだったので、そのわざわいを自分の目で見ることはない…と。その報告を聞いたヨシヤは、ユダのすべての人々を主の宮に集め、見つかった律法の主のことばを彼らの前で、王が自分で読み聞かせました。そして、主の前にあらためて契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして、主の律法を守り行なうことを誓ったのです。ヨシヤ王が行ったことは「宗教改革」とも呼ばれますが、それはすなわち、主が忌み嫌うもの、喜ばれないものを国の中や主の宮から取り除き、主の律法、主のみことばに聞き従い、その教えを守り行うことを民に訴えかけ、決断させ、実行させたということにほかなりません。そしてそれは、主に贖われて聖徒とされている私たちが、自分自身に対して行うべきことでもあるのです。しかしそれは、自分の力で努力して行う「自己改革」ではなく、私たちのうちに住まわれる御霊の働きによってなされることであって、私たちはまず自分自身を主に明け渡し、主のみこころが自分のうちになされるように祈るべきなのです。そのように主の前に日々へりくだり、主に従うことを決断し、実行する者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 33章◇(9月11日)

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」…2歴代33:12-13

ヒゼキヤの死後、代わってユダの王となった彼の子マナセは、父とは異なり、異邦の民の忌み嫌うべきならわしをまねて、多くの悪を行いました。父が取り壊した高き所を復活させ、偶像のための祭壇を築き、天の万象のための異なった祭壇を主の宮の中にも置き、さらに自分の子どもたちに火の中を通らせ、呪術、口寄せ…と、ありとあらゆる悪を行って主の怒りを引き起こしたのです。そこで主は、アッシリア王に仕える将軍たちをマナセのところに遣わし、彼を捕らえさせ、足かせにつないでバビロンに連れて行かせました。主は彼に懲らしめを与えたのです。するとマナセは、自暴自棄になることなく、主を呪うこともなく、その苦しみの中で自らの歩みを省み、主に立ち返り、救いを主に嘆願しました。そして主はそれを聞かれ、彼をエルサレムに戻されたのです。帰還したマナセは、主の宮から異国の神々と偶像を取り除き、また主の宮やエルサレムの町にあったすべての忌むべき祭壇を捨て去りました。そして主の祭壇を築き直していけにえをささげ、ユダの民に対しても、イスラエルのまことの神だけに仕えるようにと命じたのです。著者はマナセが神の前に大いにへりくだったと記しています。へりくだるとは、単に高ぶらず謙遜になることではありません。そこには、主の前に罪を認め、自らのうちにある主に喜ばれないものを取り除くという、決断と実行が求められるのです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩119:71)。苦しみを通して主の御旨を教えられ、主に立ち返る者とされ、主こそまことの神であることを悟る…。それもまた神の恵みとあわれみです。私たちもまた、その主にのみ仕えていきたいと思います。

ますます主の前にへりくだる者とされますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 32章20-33節◇(9月10日)

「しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」…2歴代32:26

セネケリブ王の家来たちが、おまえたちの神はおまえたちを救い出すことはできないと、ユダの民に大声で呼び掛け、恐れさせ、町を取ろうとしたとき、ヒゼキヤ王と預言者イザヤは、主が介入してくださるようにと祈り、天に向って叫び求めました。すると主は、御使いを遣わして、アッシリヤの兵士、隊長、首長を全滅させたので、セナケリブ王はアッシリヤに逃げ帰り、そこで、彼の子どもたちの手によって、剣で倒されてしまったのです。その出来事の後、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになりました。またその頃、彼が病気で危篤となり、祈って癒されたものの、主の恵みに応えずに高ぶったため、彼とユダの上に主の御怒りが下り、彼がその高ぶりを捨ててへりくだると、その御怒りは彼らの上に臨まなかったと、この書の著者は記しています。なぜヒゼキヤが高ぶったのかは不明です。あるいは、多くの人々から尊敬され、窮地に陥っても脱出する体験を繰り返していた彼は、いつの間にか、自分は何でもできる人間だと、思い込んでしまったのかもしれません。しかし、「高ぶりが来れば、恥もまた来る」(箴11:2)とあるとおり、高ぶったセナケリブは「恥じて国へ帰り」(21節)、ヒゼキヤも主の御怒りを受けることとなったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。物事が順調に進んでいると、自分もまんざらでもないと考えたり、主に祈ることをやめてしまったりしがちですが、私たちは、主の恵みとあわれみのうちに日々生かされていること、主の助けがなければ自分の力では何もできないことを、しっかりとわきまえ知る必要があるのです。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と、箴言のことば(箴3:34)を引用してヤコブも言っています(ヤコ4:6)。ますます主の前にへりくだり、主の恵みへの感謝を忘れずに歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 32章1-19節◇(9月9日)

「『彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。』民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。」…2歴代32:8

アッシリヤの王セナケリブがユダに攻め入り、エルサレムを目指しているのを知ったヒゼキヤは、アッシリヤとの戦いに備えるべく、町の外の泉をふさぎ、川をせき止め、城壁を修復し、その上にやぐらを立て、外側に新たに城壁を築き、さらに大量の投げ槍と盾を作りました。それを終えるとヒゼキヤは、隊長たちを召集し、強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない、私たちとともにおられる方は私たちの神、主であり、私たちの戦いを戦ってくださると言って、彼らを激励したのです。その後、セナケリブ王から遣わされた彼の家来たちは、エルサレムにやって来て、ユダの人々に対し王のことばを伝えました。おまえたちは何に拠り頼んでいるのか、ヒゼキヤは飢えと渇きでおまえたちを死なせようとしている、彼を信じるな、おまえたちの神はおまえたちを私の手から救い出すことはできない、と。彼らは人々を恐れさせ、おじけさせ、戦意を失わせようとしたのです。しばしば私たちも、試練や困難の中で、恐れ、気落ちしすることがあります。目に映る状況や人のことばによって、否定的な思いに引きずり込まれそうになります。しかしそれは、背後にいるサタンが、私たちを神から引き離そうとするわななのです。事実とは異なるそれらのものによって惑わされ、恐れおののいてはならないのです。「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペ6:17)。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、神に敵対する勢力との霊的な戦いです(同6:12)。その戦いにおいて私たちは、御霊が与える神のことばを剣とし、恐れずに雄々しく立ち向かうべきなのです。なぜならヒゼキヤの言うとおり、私たちとともにおられる主が、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださるからです。その主にあって勝利を得る者でありたいと思います。

主にひたすら拠り頼むことができますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 31章◇(9月8日)

「すると、ツァドクの家のかしら、祭司アザルヤが彼に答えて言った。「人々が奉納物を主の宮に携えて来始めてから、食べて、満ち足り、たくさん残りました。主が御民を祝福されたからです。その残りがこんなにたくさんあるのです。」」…2歴代31:10

過越の祭りを終えたヒゼキヤは、それまでなおざりにされていた祭司やレビ人の組分けを復活させ、神への礼拝が単発的に終わることなく継続して行われるよう、道を整えました。さらに彼は、エルサレムの住民に対し、祭司とレビ人たちが生活面を心配せず、主の務めを十分に果たすことができるよう、穀物の初物、またすべてのものの十分の一を、彼らのために献げるよう命じました。すると住民たちはみなそれに応答し、新しいぶどう酒など、野の収穫の多くの初物、さらに牛や羊の十分の一を携えて来て献げたので、それはいくつもの山となって積み上がるほどになったのです。それを見たヒゼキヤとつかさたちは主をほめたたえ、民を称賛して祝福しました。住民たちがそのように忠実に献げたのは、王からの命令に従ったからですが、彼らがまず主に対して応答し、主への奉納物を携えて来て主の宮に献げることを始めると、主が彼らを祝福され、食べて満ち足り、なおもたくさん残るようになったため、民は感謝と喜びに満ち、祭司たちのためにも、豊かに献げることができたのです。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」(2コリ9:8)。豊かに献げる者は豊かに与えられて満たされる…それが私たちに与えられている神からの約束です(同9:6)。ヒゼキヤ自身も率先して自分の分を献げました。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ」(マラ3:10)。主はそのように、信仰をもってご自身に献げる者たちに対し、天の窓を開いてあふれるばかりの祝福を注いでくださるお方なのです(同節後半)。私たちもまた、忠実に、惜しみなく豊かに献げる者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 30章◇(9月7日)

「彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています。」…2歴代30:19(新改訳2017)

ヒゼキヤ王は、第二の月に過越のいけにえをささげるようにと、南ユダのみならず、すでにアッシリアに滅ぼされていた北イスラエルの残りの民に対しても呼び掛けるべく、その手紙を携えた使者をイスラエル全土に遣わしました。彼らは残されたイスラエルの者たちに、あなたがたが主に立ち返るなら、アッシリアの王は捕虜となった者たちを帰還させてくださるだろうと告げたのです。それを聞いた多くの者たちは、使者たちを物笑いにして嘲り、相手にしませんでした、しかし、謙遜な一部の人々はその勧告を受け入れ、エルサレムに上り、ユダの人々とともに過越のいけにえを献げました。ところが、彼らの多くは身をきよめておらず、しかも規定に反したやり方で、そのいけにえの肉を食べてしまったのです。そこでヒゼキヤは主に、確かにそれは規定違反だが、彼らは心を定めて主を求めていると弁護してとりなしました。すると主はその祈りを聞き、彼らを癒されたのです。そのことを赦し、平安を与えられたのです。それは、ヒゼキヤの言い分のとおり、実際にそうであったからです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サム16:7)。主は、過越のいけにえをささげたイスラエルの人々の心を見られたのです。ご自身を求めるその心を知っておられたのです。形式的な律法主義に凝り固まっていたパリサイ人たちを、偽善者だと言って主イエスは非難されましたが、それは彼らが外側から見ただけで人を判断して裁く一方、その心は神を真実に求めていなかったからです。神は私たちの心をも見ておられます。もちろん、だからといって律法を軽んじてよいわけではありませんが、何よりも、私たちの心が主を求めているか、主に喜んで従うものとなっているか、パリサイ人たちのような心になっていないか、キリストと同じ心となっているか、それらのことを絶えず自己吟味したいと思います。

主に喜ばれる心を持つ者とされますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 29章20-36節◇(9月6日)

「ヒゼキヤ王とつかさたちが、ダビデおよび先見者アサフのことばをもって主をほめたたえるようにレビ人に命じると、彼らは喜びつつほめたたえた。そして、一同はひざまずき、伏し拝んだ。」…2歴代29:30

アハズの死後、彼の子ヒゼキヤが王となり、彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行いました。彼は王となるとただちに祭司とレビ人たちを集め、主の宮にあった汚れたものを取り除くよう命じ、王のことばに従った彼らは自らを聖別した上で、神殿の祭壇や備品などをきよめて聖別したのです(3-19節)。その報告を聞いたヒゼキヤは、町のつかさたちとともに主の宮に上り、祭司たちに命じて、罪のきよめのいけにえとして、雄牛、雄羊、子羊、雄やぎを献げ、それらの血を祭壇に振りかけさせました。さらに王は、楽器を使うレビ人とラッパを吹きならす祭司を配置し、それらの者たちによる奏楽と、歌うたいたちによる賛美の歌のうちに、全焼のいけにえを献げさせたのです。そのように、ヒゼキヤが王となって真っ先に行ったことは、周辺諸国との戦いに備えて軍備を増強することではなく、主の宮を聖別し、ユダの民が神を礼拝するのを回復させることでした。なぜなら主の宮には、父アハズが異邦人の祭壇を模倣して作らせた祭壇(2列16:10-16)が、忌まわしいものとして残されたままだったからです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(1コリ6:19)。私たちはキリストに贖われ、聖霊が住まわれる主の宮とされています。その宮もまた、聖別されなければならないのです。そこでは主への真実な礼拝がささげられるべきなのです。そしてそのために、もしもそこに主に喜ばれないものがあるなら、それをただちに取り除く必要があるのです。キリストが私たちのために、傷のないいけにえとしてご自身をささげ、血を流してくださったことを覚えて感謝しつつ、私たちも喜びの歌、賛美のいけにえを、たえず主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 28章◇(9月4日)

「『今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。』」…2歴代28:11

ヨタムの次の王アハズは、主の目にかなうことを行わず、偶像を作って拝み、異邦人が行っているように自分の子どもに火の中を通らせ、高き所でいけにえをささげるなど、主が忌み嫌われることを次々に行いました。すると、神は彼に怒りを燃やされ、アハズを打たれ、ユダの民をアラムの王の手に渡され、さらに同胞であるイスラエルもまた、ユダの勇士たち12万人を殺し、女性や子どもたち20万人を捕虜としてサマリヤに連れて行ったのです。ところがイスラエルの預言者オデデは、そのことを非難し、あなたがた自身にも主に対して罪があると責め、主の燃える怒りがイスラエルに下されると警告し、捕虜をただちに釈放してユダに帰すようにと命じたのです(11節)。すると人々はそのことばに聞き従い、指名された者たちが捕虜たちに衣服を着せ、履き物を与え、飲み食いさせ、油を塗り、そのうえ足の弱い者はみなろばに乗せた上で、エリコの町まで送り届けたのです。主イエスが話された「良きサマリヤ人」のたとえが思い起こされます。一人の人の行動が全体に大きな影響を及ぼす…そのことを今日の箇所から学ぶことができます。アハズ王の愚かで罪深い行動によって、ユダの多くの人々が殺され、捕虜となってサマリヤに連れて行かれました。一方、預言者オデデの勇気ある行動によって、イスラエルは主の燃える怒りから守られました。彼はたった一人で軍勢の前に出て人々に警告を与えましたが、うるさい引っ込んでいろと無視される恐れもあったのです。私たち一人ひとりの存在はたとえ小さくても、主は確かに天から御目をそれぞれに注いでおられます。そしてご自身のみこころをこの地に行うべく、一人ひとりの祈り、ことば、行ないを御霊によって導き、それらを通して働いてくださるのです。主は今私に何を願っておられるのか…そのことを絶えず尋ね求めながら、その導きに従順に従っていく者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 27章◇(9月3日)

「彼はすべて、主の目にかなうことを行った。父ウジヤが行ったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた。」…2歴代27:2

ウジヤの死後、彼の子ヨタムが25歳でユダの王となりました。彼はすべて主の目にかなうことを行ない、父ウジヤのように、主が定められた律法に反し、神殿に入って香をたくようなことはしませんでした。ヨタムの業績は3~5節に挙げられています。彼は、主の宮の上の門を建て、オフェルの城壁の上に多くのものを建て、ユダの山地に町々を建て、森の中に城塞とやぐらを築き、アモン人と戦って打ち勝ち、彼らが銀や小麦などを3年間にわたって納めるようにさせたのです。そのようにヨタムの外交政策は優れていました。彼は勢力を増し加え、主の前に自分の道を確かにしたとあります(6節)。しかし一方で、ユダの民はどうだったのでしょう。2節には「民はなお滅びに向かっていた」とあります。そこを新共同訳聖書では、「民は依然として堕落していた」と訳しています。詳しいことは不明ですが、偶像礼拝、高慢、不正、貪欲など、神が喜ばれない歩みをしていたことは間違いありません。だからこそ主は、それらのことのゆえに、民をさばこうとしておられたのです。ヨタムは王として、国を守ることについては非がありませんでした。しかし彼は、外にばかり目を向け、また、自分自身の道を確かにすることで満足してしまい、国民に対して主に喜ばれる歩みをするよう呼び掛け、政策を打ち出すなど、積極的に関わろうとはしなかったのです。「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」(ピリ2:4)。自分だけ良ければそれでいい、他の人がどうあろうと自分には関係ない…。そのような自己中心、無関心なあり方ではなく、人々が滅びではなく神の祝福と救いにあずかるべく、他者と積極的に関わるよう、主は聖徒たちに求めておられるのです。そのために祈り、主が備えておられる道を人々に伝えて行きたいと思います。

主の知恵と導きが与えられますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 26章◇(9月2日)

「彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。『ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。…』」…2歴代26:18

アマツヤの死後、彼の子ウジヤがユダの王となりました。彼は主の目にかなうことを行ないましたが、父アマツヤ同様、それは終始一貫してはいませんでした。神は、ウジヤがご自身を真実に求めていた間、彼を栄えさせたので、彼は近隣諸国の戦いに勝利し、約30万人の強力な部隊を持ち、大型兵器を要所に設置するなど、王としての実績を積み重ね、その名声は遠くにまで広まったのです。そんな中、ウジヤは罪を犯しました。神殿で主に香をたくことは、祭司の職務だと律法で定められているにもかかわらず、彼はあえてそれを行おうとしたのです。それを知った祭司アザルヤは、他の80人の祭司とともにウジヤの前に立ちはだかり、主に香をたくのは王のすることではないと言って非難し、聖所からの退去を求めました。ところがウジヤは、自尊心が傷つけられたのか、激しく怒り、香をたくことを強行しようとしました。すると突然、祭司たちの目の前で彼の額はツァラアト、つまり皮膚の疾患に冒され、香をたくどころではなくなってしまったのです。ウジヤはただちに聖所の外に連れ出され、専用の家に隔離され、王としての地位も失い、孤独のうちにそこで最期を迎えることとなったのです。なぜウジヤは神殿で香をたこうとしたのか…。王として、祭司の特権をも得たいと考えたのかもしれません。この書の著者は、彼が強くなったため、高慢になり、主に対して不信の罪を犯した(主の信頼を裏切った:2017訳)と指摘しています。それはつまり、みことば(律法)よりも自分の思いを優先させようとすることであり、神よりも自分を上に置こうとすることであり、まさに罪の本質なのです。ウジヤの失敗から学び、主が私たち一人ひとりに与えられたものをわきまえ、自分の役割を忠実に果たし、主の信頼、期待に答える者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:歴代誌第二 25章◇(9月1日)

「あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。今は、自分の家にとどまっていなさい。…」…2歴代25:19

ヨアシュが殺されると、彼の子アマツヤが代わってユダの王となりました。彼が、ユダとベニヤミンの20歳以上の兵士たちの数を調べさせると、30万人いることがわかりましたが、それでは不十分だとしたアマツヤは、北王国イスラエルからも、金を出して10万人の兵士を雇いました。しかし一人の神の人が、それは神の御旨ではなく、連れて行くべきではないと告げると、彼はその助言に素直に従い、その兵士たちをイスラエルに帰したのです。結局アマツヤとユダの軍は、自分たちだけでエドム軍を打ち破り勝利を得ましたが、愚かにもアマツヤは、彼らの偶像の神々を持ち帰り、それを伏し拝むようになりました。主は彼に怒りを燃やし、預言者を遣わしてそれをやめさせようとしましたが、アマツヤは聞く耳を持たず、そればかりか、エドムへの勝利に気をよくした彼は、イスラエルの王ヨアシュとの直接対決を挑んだのです。それを知ったヨアシュは、アマツヤに使者を送り、あなたはエドムに勝ったからといって高ぶり、身のほど知らずの戦いを仕掛けようとしているが、やめておけ、と忠告しました。しかしアマツヤはそれも聞き入れず、結局捕らえられ、エルサレムの城壁は打ち壊され、神殿や王宮の財宝は奪われ、後に彼は、ユダの人々が企てた謀反によって殺されるという、悲惨な最期を遂げたのです。アマツヤは即位後、父を討った家来たちを殺しましたが、律法に従い、彼らの子どもたちは殺しませんでした(4節)。また弱さを覚えてイスラエルの軍を雇ったときも、神の人のことばに従いました。しかし彼は、エドムへの勝利でおごり高ぶり、肉の思いで歩み、主に背いてしまったのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴18:12)。事がうまくいっても決して高ぶらず、栄光を主に帰し、ますますへりくだって、絶えずみことばに従って歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。