◇聖書箇所: 民数記 29章20-40節◇(2月27日)

「7日目には、雄牛7頭、雄羊2頭、1歳の傷のない雄の子羊14頭、これらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物とする。」…民数記29:32-33

仮庵の祭りにおけるささげ物の規定が引き続き書かれています。そこでの特徴的なことは、雄牛の数が、1日目の13頭から、2日目は12頭、3日目は11頭…と、7日間の祭りの中で日を追うごとに、1頭ずつ減っていくということです。雄牛以外のささげ物の数は変わりませんでした。12-34節にそのことの記述がありますが、「以下同様にして」、あるいは「毎日一頭ずつ減らして」と書いて省略することなく、まったく同じ文言の文章が長々と繰り返されているのです。冗長だと感じて、途中を読み飛ばす読者もおそらくいることでしょう。そのように書かれた理由は不明ですが、どの日のささげ者も等しく重要であることを示したり、最終日の7日目に7頭の雄牛という、完全数である7を明示して、そのことを読者に意識させようとしたのかもしれません。いずれにしても民や祭司たちは、それらの主の命令を忠実に、落ち度なく守り行ったのであり、彼らの歩みはそのように、主のことばに全面的に従い、導かれるものであったのです。ひるがえって私たちの歩みはどうでしょうか…。主のことばをないがしろにしてはいないかと思わされます。主のことばとはすなわち、主の御思いの表われ、主のみこころにほかなりません。そして、それを喜んで守り行う者は、主を愛する者であり、主もその者を喜ばれ、顧みてくださるのです。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(ヨハ14:23)。主イエスはそう言われました。キリストに贖われ、神の民とされた私たちもまた、みことばを通して主の御旨をますます熱心に尋ね求める者、主の道からそれずにまっすぐに歩む者とされたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 29章1-19節◇(2月26日)

「この第7月の10日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。」…民数記29:7

28章に引き続き、ささげ物の規定が書かれています。特に第7の月においては特別な日と期間があり、そこでのささげ物の内容は、例えば全焼のいけにえとしての若い雄牛の数が1頭分少ないなど(2,8節)、他の月とは異なっていたのです。イスラエルの民は、毎年、その第7の月が巡って来るたびに、特別な意識をもって、求められたささげ物をたずさえ、主を礼拝したに違いありません。そのようにイスラエルの民にとって、第7の月は特別な月でした。それは、ユダヤの暦ではその月から新年が始まるからであり、その月の1日にはラッパ(角笛:2017訳)が吹き鳴らされ、すべての労働をやめて聖なる会合を開かれたからであり、また10日は「贖いの日」として、祭司によって民の罪の贖いがなされ、さらに15日からの7日間は「仮庵の祭り」として、民は自分たちの荒野での苦難の歩みを思い返し、主の恵みとあわれみを覚え、感謝をささげて祝ったからです(レビ23:24-36参照)。その第7の月は、7日目を安息日とするよう定められていたように、安息を得るべき月とされていました。特にその月の10日の「贖いの日」においては、規定のささげ物とともに、一切の仕事をやめて聖なる会合を開き、「身を(自らを:2017訳)戒める」ことが求められたのです(7節)。レビ記には「その日に身(自ら:2017訳)を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる」とあります(レビ23:29)。そのように贖いの日とは、祭司がささげ物により民の罪の赦しを願い求め、民自身も自らのあり方を振り返り、神の教えに照らして吟味し、主に立ち返り、安息を取り戻す時であったのです。キリストご自身が全きいけにえとなられたゆえに、私たちは贖われ、罪赦されました。キリスト者にとっては、毎日が「贖いの日」であり、「安息日」であり、みことばに照らして自らを省み、戒め、主に立ち返る時であるべきなのです。そのことを覚えたいと思います。

主からの平安がありますように。

◇聖書箇所: 民数記 28章16-31節◇(2月25日)

「このように7日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。」…民数記28:24

ささげ物の規定の続きです。16-25節には、第1の月の14日に行われる過越の祭りと、それに続く7日間の種なしパンの祭りでのささげ物が定められています。後者の期間には、ふだんの日のささげ物に加えて、月の最初の日と同内容のささげ物を毎日ささげるよう求められました。26-31節は、収穫祭とも呼ばれる七週の祭りでのささげ物の規定です。この祭りにおいても、月の最初の日と同じく、若い雄牛2頭、雄羊1頭、傷のない一歳の雄の子羊7頭が全焼のいけにえとしてささげられ、さらにそれに、定められた穀物のささげ物、注ぎのささげ物が添えられたのです。このようなささげ物が、祭りという特別な時に、主にささげられました。そしてそこには、主がイスラエルの民をエジプトから連れ出し、荒野の歩みを守り、約束の地に導き入れてくださったことを記念するという目的があり、また、主がその地を祝福し、穀物や果物の収穫をもたらしてくださっていることに感謝するという意義があったのです。そしてそれは、年ごとに必ず行われ、世代を越えて引き継がれていったのです。申命記では、イスラエルの民が安息日を守る際、過越の祭りと同じように、奴隷であったエジプトから連れ出されたことを覚えるようにと命じられています(申5:15)。それが、その礼拝や祭りという行為の目的であり意義であるからです。そしてそれらは繰り返しなされ、そのたびに民は、定められたささげ物とともに、主の恵みとあわれみへの感謝をささげ、主の大いなるみわざをほめたたえたのです。それは神の民とされた私たちにとっても同じです。日ごとに、週ごとに、特別な祝節ごとに、主の贖いのみわざを覚え、恵みと祝福を覚え、主に感謝をささげ、栄光を帰すのです。形式化せず、惰性にならず、常に新たな思いでそれをなす者でありたいと思います。

感謝と喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: 民数記 28章1-15節◇(2月24日)

「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしのための食物、わたしへのささげ物を、わたしへの食物のささげ物、芳ばしい香りとして、定められた時に確実にわたしに献げなければならない。」…民数記28:2(新改訳2017)

28-29章にはささげ物の規定が書かれています。主は、新しい世代のイスラエルの民が約束の地に入った後に、神の民としてどのような礼拝生活を送るべきかについて、前もって細かく指示しているのです。今日の箇所においては、毎日のささげ物(3-8節)、安息日のささげ物(9-10節)、月の最初の日のささげ物(11-15節)に分けて規定されています。それらのささげ物は、食物のささげ物に注ぎのささげ物が添えられ、その食物のささげ物は、常供の全焼のささげ物と穀物のささげ物からなっていました。そして全焼のいけにえとして、傷のない一歳の雄の子羊が毎日、朝と夕に1頭ずつささげられ、安息日には2頭が、月の最初の日にはそれが7頭とさらに加えて、若い雄牛2頭、雄羊1頭、雄やぎ1頭がささげられたのです。それらの定められたささげ物について主は、「わたしのための食物」、「わたしへのささげ物」、「わたしに献げ…」と言われました。それらのささげ物は、主が求められ、主が喜んで受け取られるものであり、同時にそれらは主が民に恵みとして与えられているものであって、イスラエルの民はそれを献げるたびに、主に感謝をし、また自分たちの罪の贖い、主へのなだめが、それらのささげ物によりなされるということを覚えたのです。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(ヘブ10:14)。私たちは今、今日の箇所のささげ物により礼拝することはありません。キリストが全きいけにえとしてご自身をささげ、私たちの贖いとなだめををなされたからです。そのことを覚え、主への感謝と喜びをもって、賛美のいけにえ、献金をささげ、自分自身をささげる思いで、主を礼拝する者でありたいと思います。

ただ主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: 民数記 27章◇(2月23日)

「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。』」…民数記27:18

主はモーセに対し、山に上って約束の地を見よ。しかし、あなたはそこには入れない、それは、アロンとともにツィンの荒野で岩から水を出したとき、わたしに逆らい、岩に命じるのではなく杖で岩を叩いたからだと(20:12)、その不従順をあらためて指摘し、地上の生涯の終わりが近づいていることを彼に告げました(12-14節)。しかしそのことばを聞いたモーセは、これまでの功績を認めてくれないのか…と主に文句を言ったり、じゃあ残りの者たちで何とかすればいい…と捨て鉢になったりはしませんでした。彼は、イスラエルの民が羊飼いのいない群れのように迷ってしまうことなく、先住民との戦いで打ち負かされることなく、確実に約束の地に入ることができるようにと願い、自分の後継者を立ててほしいと主に願い求めたのです(16-17節)。そして、ヌンの子ヨシュアをその者とせよとの主のことばを受け取ると、自分の手を彼の上に置いて、後継者として任命したのです。そのときモーセは、ヨシュアが神から御霊の油注ぎを受け、守られ、祝福され、神の栄光を現わす者として用いられるようにととりなして、按手の祈りを主にささげたことでしょう。そしてそのヨシュアのうちには、すでに神の霊が宿っていたのです(18節)。そのように、モーセの後継者としてふさわしい最適な人材を、主ご自身がすでに備え、約束の地の偵察隊メンバーとするなど、それまでの歩みの中で必要な訓練を与えておられたのです。私たちもまた、主に選ばれ、贖われ、主の働きを後継するために任命された者たちです(ヨハ15:16)。そして御霊の油注ぎを受け、神が備えておられる約束の地、すなわち天の御国に人々が入ることができるよう、神の民として加えられるべき残りの者たちにそこを指し示し、励まし、先だって進んでいく者として、主は私たちにご自身の権威を与えて(20節)、尊く用いてくださるのです。そのことをしっかりと心に留めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 民数記 26章36-65節◇(2月22日)

「その相続地はくじによって、大部族と小部族の間で割り当てられなければならない。」…民数記26:56

カナンの地に入ることが間近となり、主はモーセとエルアザルに2回目の人口調査を行うように命じられました。1回目の調査はエジプトを出て2年目の第2の月に実施されましたが、20歳以上の戦いに出ることのできる者という、前回と同じ対象者の数が調べられたのです。各部族からの報告に基づき登録された者の総数は601,730人でした。1回目のときは603,550人でしたから(1:46)、わずかに減少したことになります。その原因には荒野の困難な生活もありましたが、神罰で死んだ者もあり(25:9)、何よりも1回目の登録者は、カレブとヨシュアを除いて、彼らの不信仰のゆえに生き延びてはいなかったからです。主はさらに、各部族の割当地を定めるよう命じられました。そしてその広さは、登録された各部族の人数に応じたものとするよう考慮されました(54節)。さらに、検討されたその割当地は、最終的にはくじによって決められたのです。それは、モーセとエリアザルが決めるなら、民が割当てに不満を抱き、混乱と争いが生じることが想定されたからです。そのことを回避すべく、主はそのようにするよう定められたのです。くじは占いとは違います。くじで決めるそのプロセスの中にも、もちろん主は主権をもって介入されるのです。そしてその結果には、主の御旨が反映されていたのです。私たちも、日々の歩みにおいて、最善を求めてさまざまなことを考慮しながら検討することがありますが、そのとき、くじを引くことがなくても、主のみこころがなるようにと願い祈りつつ、最終的にはその事を主の御手に委ねるべきなのです。主が事を決めてくださる…主が最善の道を備え導いてくださる…。そのように信仰をもって、主に委ねて歩む者は幸いです。主がその歩みを確かなものとして祝福してくださるからです。主のみこころがなることを願い、御霊の助けと導きを求める者でありたいと思います。

主に信頼して歩むことができますように。

◇聖書箇所: 民数記 25章◇(2月20日)

「これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表し、イスラエル人の贖いをしたからである。」…民数記25:13

いよいよ約束の地に近づき、エリコのヨルダン川対岸にあるシティムの町にとどまっていたイスラエルの民は、あろうことか、現地のモアブの娘たちと淫らなことをし始めました。そればかりか、彼女たちが信じる偶像神、バアル・ペオルをともに拝み、慕うようにさえなったのです。主はそのことに怒りを燃やされ、神罰をもたらされたので、イスラエルの多くの者が死にました。そのことでイスラエルの民が会見の天幕の入口で泣き悲しんでいると、ちょうどそこに、ジムリという者がミデヤン人の女性を連れてテントの奥の部屋に入って行きました。すると、それを見た祭司ピネハスは後を追い、二人を槍で刺し殺したのです。それまで続いていた神罰は、そのときやみました。その後、主はモーセに、ピネハスが神のねたみを自分のものとしたので、それがイスラエルの民の贖いとなり、わたしは彼らを滅ぼさなかったのだと告げられました。そのようにピネハスは、神の思いを自分の思いとして、ねたみ、憤り、行動したのです。主イエスが、神殿で商売している者たちを見て憤り、台を倒して商品をぶちまけた出来事が思い起こされます(ヨハ2:14-16)。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。不品行や偶像礼拝を避けるべきことは言うまでもありませんが、そのようなことを含めて、神のみこころとは異なることがなされているのを見聞きしたとき、そのことに無関心な態度を取るべきではないのです。そのことをねたみ、悲しみ、憤っておられる神の思いを、ピネハスのように自らのものとし、そのことが除かれるように、人々が悔い改めて主に立ち返るようにと、祭司としてとりなすべきなのです。そしてそれは、主に倣うということなのです。神の恵みとあわれみを求めて、そのように行動する者、破れ口に立つ者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 民数記 24章◇(2月19日)

「神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。」…民数記24:24(新改訳2017)

バラクに対するバラムのことばの続きです。バラムは神から与えられたことばをまた語りましたが、この24章においては「目の開かれた者の告げたことば」という表現が繰り返されています。新改訳3版では4節、16節に「目のおおいを除かれた者」とありますが、2017訳ではその箇所と3節、15節も合わせて4回、「目の開かれた者」と訳されているのです。そして、バラムがことばを発する前に、神の霊が彼の上に臨んだと記されているのです。神の御告げを聞き、神の幻を見、主の前にひれ伏し、霊の目が開かれた者として語り告げる…。バラムは神の霊に満たされていたからこそ、そのようにしてまっすぐ、恐れずに、主から与えられたことばを取り継ぐ者として用いられたのです。そして彼は3度までもバラクの期待を裏切ってイスラエルを呪わずに祝福しましたが、バラクに殺されることなく帰途につくことができたのです。主イエスの弟子たちを迫害していたサウロは、ダマスコへの途上で主に打たれて3日間目が見えなくなり、その後、目からうろこのような物が落ちて目が見えるようになると、それまでとは打って変わって、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました。それは、彼の霊の目もまた開かれ、主の霊に満たされたということであり(使9:17-20)、主はそのようにして彼を取扱い、用いられたのです。その主は今、私たち聖徒たちをもご自身の霊で満たし、霊の目と耳が開き、目の開かれた者、覆いが除かれた者として整えようとしておられます。そしてそれは、私たちがバラムやパウロのように、多くの忠実な聖徒たちのように、神のことばを聞き、全能者の幻を見、ひれ伏して主に従い、神から受けた使信を、イエスは救い主であるということを人々に語り告げ、また、イスラエルを祝福するためであるのです。神がそのように、一人ひとりを整え、尊く用いてくださるということを、覚えつつ、さらに御霊の満たしを求めていきたいと思います。

覆いがますます除かれますように。

◇聖書箇所: 民数記 23章◇(2月18日)

「見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。」…民数記23:20

バラクはバラムを、イスラエルの民の一部が見える場所に連れて行き、そこでイスラエルを呪うよう要請しました。しかし、神から告げるべきことばを与えられたバラクは、彼のことわざ(詩のことば:2017訳)として、神が呪わない者をどうして呪えようかと言って拒絶し、この民はおのれを諸国の民の一つと認めない、つまり諸国の民とは異なる特別な神の民なのだと、バラクやモアブのつかさたちの前で、イスラエルの祝福を宣言しました。そのことばに憤慨したバラクは、別の場所に移って同じことを求めましたが、主がバラムに与え、彼が語り告げたことばはまたもや、神はイスラエルを祝福される…彼らの神、主は彼らとともにおられる…という、祝福のことばのみであったのです。バラムが使者の依頼に応じてバラクの元に行こうとしたときには、富や名誉を欲する思いが彼のうちにありましたが、ろばとの口論、主の使いとの出会いを通して砕かれ、彼は、主の御手の中で用いられる者とされていたのです。イスラエルを呪うことを拒絶するなら、バラクの怒りを買って殺されると、当然予期していたでしょう。しかしバラムは、だからといって、主から与えられたことばを割り引くことはせず、忠実に伝えたのです(12節)。そして「私が心の直ぐな人たちの死を遂げますように…」(10節、2017訳)と告白したのです。「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない」(申4:2)。私たちはそのことを、自分が主のみことばを受け取ることにおいて、また、それを人々に語り伝える働きにおいて、常に覚えなければならないのです。多くの聖徒たちが、そのように従い、迫害の苦しみを受けましたが、彼らは死に至るまで主に忠実な者として歩み通したのです(黙2:10)。私たちもそのような者でありたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 民数記 22章21-41節◇(2月17日)

「主の使いは彼に言った。『なぜ、あなたは、あなたのろばを3度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。』」…民数記22:32

今日の箇所には、ろばがバラムに対して人間のことばでしゃべるという場面が出て来ます。そのやり取りは興味深いのですが、バラクの使者たちと一緒に行くようにとの神の命令(20節)に従ってバラムは出かけたのに、なぜ神は彼に怒りを燃やされたのか…その問いへの明確な答えについては、この箇所からは簡単には読み取れません。言うことをきかないろばに業を煮やしたバラムが杖で3度ろばを打った後、バラムの目の覆いは除かれ、道に立ちはだかっていた主の使いは、「あなたの道はわたしとは反対に向いていた」と告げました。2017訳では、「あなたがわたしの道を踏み外していた」と訳されています。それはバラムのあり方が間違っていたということです。では何がいけなかったのか…。新約聖書にはこう書かれています。「バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました…」(2ペテ2:15-16、2017訳)。そのときバラムは、18節のことばとは裏腹に、自分に与えられようとしている手厚いもてなし(17節)、すなわち富や名誉という、地上的なものの誘惑を断ち切ることができませんでした。だからこそ、使者たちを即座に追い返そうとせずに家に泊まらせ、翌朝になって彼らと一緒にバラクの元に行くことを決めたのです。もちろん主は、そのようなバラムの心をご存じでした。そして「この者たちがあなたを招きに来たのなら…」と人の招きに応じるのか、それともあくまでわたしに従うのかと、進もうとしている道が誤っていることに気づかせようとしつつ、出発することを許容されたのです。主はそのように、私たちから誘惑を取り去らず、それを試みとして訓練されることがありますが、主の道を踏み外しそうになっても、自らの過ちにすぐに気づき、悔い改めて主に立ち返る者は幸いなのです。そのような霊的敏感さ、謙遜さを持つ者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 22章1-20節◇(2月16日)

「しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えた。『たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません』」…民数記22:18(新改訳2017)

モアブの王バラクは、周りの国々を次々に占領しているイスラエルの民に恐怖を抱き、自国が襲われる前に対策を打とうと考え、ユーフラテス川のほとりのペトルに住むバラムという人のところに使者を遣わして、イスラエルの民をのろわせようとしました。2017訳の7節には、その使者となったモアブとミデヤンの長老たちが「占い料を手にしてバラムのところに行き」とあることから、バラムは異邦人の占い師であったことがわかります。その彼がなぜイスラエルの神を知っていて、しかも神が忌み嫌われる占いをする者として歩んでいたのか…。そのことは明らかではありません。しかし、確かに彼は、「私の神、主…」(「主」は太文字…原文は「ヤーウェ」)と、イスラエルの神の御名を口にして語っていたのです。18節のそのバラムのことばが心に留まります。主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできない…。それは、裏返して言えば、事の大小にかかわらず、すべてのことにおいて、主の命を守っている、主のみこころに従っているということであり、それはとりもなおさず、神がご自身の民に求めていることなのです。神は、異邦人の占い師でありながらそのように歩んでいたバラムを用いて、イスラエルを守り、祝福しようとされたのです。神はバラムに、イスラエルの民をのろうな、その民は祝福されているからだ、と言われました(12節)。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と、主がアブラハムに告げられたことばが思い起こされます(創12:3)。そして、キリストに贖われ、異邦人でありながら神の民とされた私たちもまた、イスラエルを祝福するために召され、用いられる者であるということをあらためて教えられるのです。人々のために、イスラエルと世界の国々のために、ますます熱心に、神の祝福をとりなしていきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 21章21-35節◇(2月15日)

「しかし、主はモーセに言われた。『彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行ったように、彼に対しても行え。』」…民数記21:34

イスラエルの民は、エモリ人の領土を通過する許可を彼らの王シホンから得ようとしましたが、彼がそれを認めずに戦いを挑んできたため、イスラエルは彼らとヤハツで戦いました。その結果、イスラエルは圧倒的な勝利を収め、南のアルノン川から北のヤボク川に至る領土を占領し、その首都ヘシュボンの町を始め、周辺の村々に住みつくようになったのです。その後さらに、イスラエルの民が北のバシャンの地へと向かうと、今度はバシャンの王オグが民とともにイスラエルを迎え撃つために出て来ました。しかし、エデレイでの彼らとの戦いもまた、イスラエルの大勝利となり、王とすべての民は聖絶され、その地は占領されたのです。バシャンの王オグと敵対することになったとき、主はモーセに対し、彼を恐れてはならない、彼とその民とその地をあなたの手に与えたと、もう完了したこととして語られました。もちろんイスラエルの民は、戦うという行為を実行する必要がありましたが、主がご自身の民を、敵とのその戦いにおいて、勝利させてくださったのです。そしてその勝敗は戦う前からすでに決まっていたのです。「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(1サム17:47b)。ダビデはペリシテの巨人ゴリアテに向かってそのように宣言し、彼を一撃で倒しました。神の民とされた私たちもまた、悪しき者との戦いにおいて、主にあって勝利し、敵地を占領し、神の国の領土として拡げることができるのです。そして主はそのことを私たちに対して求めておられるのです。恐れてはならない…わたしはその地をあなたの手に与えた…と、主は今も私たちに語っておられます。恐れ退く者ではなく、主にあって勇敢に戦い、勝利を収める者でありたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。 

◇聖書箇所: 民数記 20章◇(2月13日)

「しかし、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。』」…民数記20:12

「メリバの水」の事件が書かれています(1-13節)。ツィンの荒野を旅した民は、飲み水がなかったため、モーセとアロンに文句を言いました。すると二人は主に解決を祈り求め、主はそれに答えて、「杖を取れ。…岩に命じれば、岩は水を出す」と約束されたのです(8節)。そこで二人は早速、民を岩の前に集め、モーセは彼の杖で岩を2度打ちました。すると主が言われたとおり、岩から水がほとばしり出て、民も家畜もそれを飲むことができました。しかし喜びも束の間、主は二人に対して、あなたがたはわたしを信じなかったので、この会衆を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。何がいけなかったのか…。主は二人に、「わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」と非難されました。主は「岩に命じれば」と言われたのであって、「岩を杖で打てば」とは言われなかったのです。さらに、岩から水を出されるのは主であるのに、二人は「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言って(10節)、主の御名を一言も出さなかったのです。そこから、モーセとアロンが、文句ばかりを言う民に対して感情的になっていたことや、ことばで岩に命じるだけでは不十分と感じ、持っていた杖で打つという「自分の力」に頼ろうとしたことがわかります。しかしそれは、民を裁く高慢な思いであり、何よりも主に全面的に信頼しようとしない不信仰であったのです。主に助けを祈り求めながら、主の約束のみことばを聞いていながら、自分の持てるものを握ったままで手放そうとしないなら、それは神に喜ばれる態度ではありません。モーセとアロンを反面教師とし、すべてを主に明け渡し、主を全面的に信頼して歩む者でありたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: 民数記 19章◇(2月12日)

「身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。」…民数記19:9

汚れをきよめる水に関する規定が書かれています。傷がなく、くびきをまだ負ったことのない、完全な赤い雌牛が祭司に渡され、それは宿営の外で屠られ、祭司はその血を指で取り、会見の天幕の正面に向かって7度振りまきます。その後、その雌牛はすべての部分が焼かれ、祭司はそこに杉の木とヒソプと緋色の糸を投げ入れ、焼いた後の灰は集められ、器に入れて保存されるのです。その灰に新鮮な湧き水を加えて作られた「汚れをきよめる(除く:2017訳)水」は、例えば、死者の遺体に触れて汚れた者の身をきよめるために用いられました。その者が3日目と7日目にその水を振りかけられれば、汚れが除かれてきよくなったのです。しかしそうせずに、もし主の幕屋を汚すようなことになったら、その者はイスラエルから断ち切られなければならなかったのです(13節)。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブ10:22)。民数記19章の完全な赤い雌牛はイエス・キリストの予型です。キリストは罪のない全き神、かつ全き人としてこの地上に遣わされ、罪に汚れたすべての人の身代りとなって十字架にかかり、血を流され、その汚れをきよめてくださったのです。私たちは雌牛を屠ることはしません。焼いたその灰から「汚れをきよめる水」を作り、何かで汚れるたびにその水を注ぎかけられる必要はないのです。傷のない完全なキリストがご自身をささげられ、1度限りのその贖いによって、全人類の救いを成し遂げられ、そのことを信じる信仰によって、私たちの邪悪な良心はきよめられているからです。主の血潮の注ぎを受けた者として、そのことをあらためて覚え、大胆に主の元に近づき、主と絶えず親しく交わる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 民数記 18章21-32節◇(2月11日)

「あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちから主へのすべての奉納物を供えなさい。」…民数記18:29

レビ族に関する規定を、主はモーセに対しても語られましたが(25-32節)、その中で、彼らが主からの相続、ゆずりとしてイスラエルの民から受けたもの、すなわち民が献げた十分の一の、そのまた十分の一を、主への奉納物として献げるようにと命じられました。しかもそれは、受け取ったものの「最上の部分で聖別される分」から献げるよう求められたのです。「最上の部分を献げよ」…主はそう命じられました。十分の一の十分の一という、規定の量が満たされていればそれで良いというわけではなく、最上というその「質」が同時に問われたのです。アベルとカインのささげ物が思い起こされます。アベルは彼の羊の初子の中から最上のものを主に献げ、主はそれに目を留められましたが、地の作物から献げたカインのささげ物には目を留められませんでした(創4:3-5)。主は、そのささげ物が動物か穀物かではなく、最上かそうでないかを見られたのです。「最上のものを献げよ」。主が求めるその霊的な原則は、神の民とされた私たちにとってももちろん同じです。私たちは自らを、神に受け入れられる、聖い生きたきよい供え物として主に献げるよう求められていますが(ロマ12:1)、それは「最上のもの」であるべきなのです。すなわち、私たちは、自分が神に喜ばれる最上のものとなるよう、日々の生活において努めなければならないのです。しかしそれは、自分の力でがんばる歩みではありません。それは、自らの弱さ、罪深さを認めつつ、絶えず神のみことばに聞き従い、主の御旨に合わせて歩み続けるように努めるということであり、そこには御霊の助けと導きが必要なのです。そして何よりも主イエスが、ご自身を「最上のいけにえ」として献げられたので、主は私たちを、供え物として喜んで受け入れてくださるのです。そのことを感謝しつつ、自らを「最上のもの」とするよう、日々努めたいと思います。

喜びをもって主に献げることができますように。

◇聖書箇所: 民数記 18章1-20節◇(2月10日)

「今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを主にささげられたあなたがたへの贈り物とする。」…民数記18:6

主がアロンに対して告げられたことが書かれています。1-7節はレビ族の聖所での奉仕と、アロンの家系の祭司の奉仕についての規定であり、8-20節は祭司たちの分け前に関する規定です。レビ族の者たちは、同族であるアロンとその子らがもっぱら従事する祭司職を補助し、会見の天幕全体の仕事を担うという任務が与えられていました。もし、その範囲を越えて聖所と器具と祭壇に近づくなら、その奉仕者も祭司もいのちが取られたのです。6-7節には、そのレビ人の奉仕者たちが、祭司であるアロンたちに対して主が与えられた「贈り物」であること、また祭司の奉仕もまた、主が「賜物」として与えられたものであることが記されています。彼らはそのような自覚を明確に持ちつつ、主を畏れ、へりくだり、求められている役割を忠実に果たしたのであり、自らの分を越えたものを求めようとするなら、地に呑み込まれたコラのように、主から退けられてしまうのです(16:32)。キリストに贖われた聖徒たちにも、御霊の賜物が与えられています(1コリ12章)。その賜物は、それを用いて互いの徳を高め、キリストのからだを建て上げ、主の御名があがめられるために与えられているのです。そして一人ひとりがそのことをしっかりと自覚し、感謝と畏れと謙遜をもって、与えられている賜物を十分に活かして、神と人々とに忠実に仕えることが求められているのです。言うまでもなく、私たちの奉仕はこの世の仕事とは違います。ボランティア活動とも異なります。奉仕とは、主が一人ひとりを選び、それぞれの役割に任じ、それを果たすための賜物を与え、用いてくださるものであって、そこに見返りや自己実現を求めるべきではないのです。また他の人と自分を比べて、優越感を持ったり裁いたりしてはならないのです。自分が奉仕者としてふさわしい者であるか、そのあり方を吟味したいと思います。

心の思いがきよめられますように。

◇聖書箇所: 民数記 17章◇(2月9日)

「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」…民数記17:5

主はモーセに、イスラエルの全部族からそれぞれの族長の名を書き記した杖を1本ずつ取り、会見の天幕の中にあるあかしの箱の前に置くようにと命じられました。そこには、芽が出る杖がしるしとなり、その部族のかしらが指導者であることを民が認め、モーセとアロンへの不平をなくそうとする、明確な主の意図があったのです。翌日になってモーセが天幕の中に入ると、なんと、一晩のうちに、アロンの杖だけが芽を出し、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいました。そのようにして、レビ族であるモーセとアロンが民の指導者として選ばれ立てられていることを、主ご自身が民に示されたのです。そのアロンの杖は、逆らう者がそれを見て自らを戒めるためのしるしとすべく、あかしの箱の前に戻されました。ところが民は、今度は、自分たちは全員滅びてしまうと嘆き、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは…と、またもやモーセに文句をぶつけました。民が不平を言うことをやめ、死ぬことがないようにするためになされた主の配慮を、彼らは理解していなかったのです。「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」(ヨハ13:37)。いつの時代でも、たとえしるしを見ても、人は心がかたくななで主を信じようとしないのです。それは肉の目で物事を見て判断しているからです。しかし霊の目が開かれるとき、目に映るものの先にある光の世界を、確かに存在するものとして、とらえることができるようになるのです。神のことばを受け入れ、主を信じて従う者とされるのです。かたくなな心は柔らかくされ、主にある平安と希望と喜びをもって生きる者と変えられるのです。不平やつぶやきではなく、主への感謝と賛美を口にする者、目に映る事柄に恐れを抱いたり失望するのではなく、主がなさることを幻として見、先取りする者でありたいと思います。

信仰に堅く立つことができますように。

◇聖書箇所: 民数記 16章23-50節◇(2月8日)

「しかし、もし主がこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」…民数記16:30

16章には、レビ族の一人であるコラが、ルベン族のダタンたちと共謀し、彼らに同調した250人の者たちとともに、モーセとアロンに逆らったことが書かれています。彼らは、二人が指導者として会衆の上に立っていることを不満に思っていましたが、首謀者であるコラの真意は、自分が幕屋の奉仕者であることに不満を持ち、祭司の職を得ようとすることでした(10節)。しかし、祭司がアロンの家系から立つことは主が定められたのであり、その秩序を破ろうとするのは、主に逆らうことだったのです。結局、コラとその仲間たちは、地面が割れて開いた口に家族や持ち物とともに呑み込まれてしまい、また、彼らと行動をともにした250人の者たちも、火によって焼き尽くされてしまいました。それは、主が彼らに対して怒ってなされたさばきであり、主が立てられたモーセとアロンに反抗した彼らの言動は、主を侮るものだったのです。「あなたがたは分を越えている」とコラたちは言い、モーセは「あなたがたが分を越えているのだ」と反論しました(3,7節)。分を越えるとは、神が定めた秩序を破り、本来そうでない者が上に立とう、前に出ようとすることです。41節以降には、コラの事件の翌日、全会衆がまたもやモーセとアロンに逆らい、1万人以上の者が神罰で死んだことが記されていますが、コラたちの悲惨な最期を目撃したにもかかわらず、そこから学ぼうとしない民の霊的鈍感さ、罪深さを見ます。そしてそれは決して人ごとではないのです。私たちは、それらの記事を通し、主を侮らないようにする、分を越えないようにするということを、自分への戒めとしてしっかり受けとめるべきなのです。置かれている立場をわきまえ、主の前にへりくだって歩んでいるか、主の教えに聞き従っているか、あらためて自己吟味したいと思います。

主を畏れて歩む者とされますように。

◇聖書箇所: 民数記 15章22-41節(2月6日)

「祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。」…民数記15:28

22-31節には、民が罪を犯したときの規定が書かれています。会衆全体が気づかずにあやまって罪に陥った場合には、全焼のささげ物、食物のささげ物、罪のきよめのささげ物が必要であり、個人が過失の罪を犯した場合には罪のきよめのささげ物が必要とされました。しかし、主の教えを知っていながら故意に罪を犯した場合には、その者は主を冒涜したとして、民の間から断ちきられ、自らの咎を負わなければならなかったのです。主はあわれみ深い方であることを改めて教えられます。気づかずに陥った過失の罪であれば、規定のいけにえ、ささげ物を献げることにより、民のその罪は赦されたのです。しかもそれは、国に寄留している在留異国人に対してもまったく同様であったのです。そしてそのささげ物に加えてさらに、祭司の贖い(宥め:2017訳)が必要であったことにも心が留まります。そのとりなしがなされることによって、罪の赦しは全きものとされたのです。その規定は後に、イエス・キリストの十字架による贖い、すなわちキリストがご自身をいけにえとしてささげられ、さらに十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ととりなしの祈りを神にささげ(ルカ23:34)、宥めをなされたことによって、異邦人を含むすべての民の罪の赦しをもたらすものとなりました。一度限りのその完全なささげ物によって、もはや、私たちが動物のいけにえを神の前に差し出す必要はなくなったのです。イスラエルの民は、衣服の裾の四隅の房につける青いひもを見て、主のすべての命令を思い起こしました(38-40節)。御霊も私たちに主の教えを思い起こさせてくださいます。そしてその御霊に逆らう冒涜は赦されないのです(マタ12:31)。主の贖いを感謝しつつ、絶えず主に立ち返り、神を畏れかしこむ者として歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記 15章1-21節◇(2月5日)

「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り…」…民数記15:2

民数記14章には、カレブとヨシュアを除く20歳以上の登録された者たちは荒野で死ぬ、という主のことばと(14:29,30)、それを聞いて悲しんだ民が、勝手にカナンの地に上って行き、アマレク人とカナン人に打ち負かされたという記事(14:39-45)が書かれていますが、15章におけるモーセに対する主のことばは、その後に語られたものです。つまり、実際にカナンの地に入るのは、そのときからさらに40年後のことであり、その規定は、カナンの地に入る次世代の者たちに向けてのものだったのです。そのことを思うとき、神が導かれる過程は、人間のそれとは本質的に異なっているということを、改めて教えられます。特に現代社会においては、現実的な計画を立案し、それに従って一つ一つを積み重ねて推し進め、状況の変化に応じて途中で計画を修正し、リスクをなくすための努力をするというアプローチが求められます。しかし、神の導きはそうではありません。まず、主が願っておられるあり方がビジョンとして提示され、民はそれをしっかりと受けとめ、たとえその実現の過程が明らかでないとしても、主に信頼して出て行くのです。その歩みの中で語られる主のことばに聞き従い続けるのです。そのことがすでに実現したとして先取りするのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ11:1)。ノアは主から、箱舟を造れ、大洪水を起こそうとしているからだと言われ、その兆候がまったくなくても、神に従いました(創6章)。アブラハムも主から、わたしが示す地へ行けと命じられ、どこへ行くのかわからずに出発したのです(創12章、ヘブ11:8)。彼らはそれが現実的か、リスクはないのかなどとは考えませんでした。自分たちの考え、判断ではなく、神のことばに信頼して従ったのです。そしてそれが神の民に求められているあり方、信仰の歩みなのです。私たちもそのような歩みをする者でありたいと願います。

主からの幻を受け取ることができますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第一 5章12-28節◇(2月4日)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」…1テサロニケ5:16-18

パウロは、これまで述べてきたことを最後にまとめるようにして、この手紙を締めくくっています。12-15節では、テサロニケ教会の信徒たちを教える霊的指導者を尊ぶこと、信徒たちの間でも励まし合い、助け合い、寛容であること、争わずに平和を保ち、善を行うように努めることの大切さが語られています。その中で、「すべての人に対して」とパウロが繰り返している(14,15節)ことに心が留まります。主が命じられ、神の家族の間でなされることは、教会の中だけにとどまらず、周囲のすべての人々に対してもなされるべきであって、教会は決して内向きになってはならないのです。16-18節はよく知られた聖句です。しかし、喜び、祈り、感謝せよということだけを抜き出し、その後の部分を省いてしまうなら、それは、単なる律法的な戒めとなってしまいます。そして、努力してもそうできない自分に落ち込むのです。しかしパウロは、それは「キリストにあって」神が望んでおられることだと言っているのです。私たちはキリストに贖われ、天の御国での大きな報いを受けることが約束されています(マタ5:12)。そしてその御国はすでにキリストがもたらされました。だから私たちは、キリストにあって喜ぶことができるのです。また私たちがキリストの名によって父に求めるなら、父はそれを与えてくださいます(ヨハ16:23)。だから私たちは、キリストにあって絶えず神に祈り求めるのです。さらにキリストは、インマヌエルなる主として、世の終わりまでいつも私たちとともにいてくださいます(マタ28:10)。だから私たちは、たとえ苦難の中にあっても感謝し、希望をもって歩み続けることができるのです。そして、そのようにキリストにあって生きることは神の願いであって、その道に従う者たちを神は喜んでくださるのです。御霊の助けを受けつつ、そのように歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第一 5章1-11節◇(2月3日)

「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」…1テサロニケ5:8

「主の日」とは主イエスの再臨のとき(4:16)であり、それは夜中の盗人のようにやって来ます(2節)。けれどもあなたがたは光の子どもなので、そのときが来ても滅びてしまうことはないのだと、パウロはテサロニケの信徒たちに言っています。すべての聖徒たちは、闇の中から、主の驚くべき光の中に招き入れられたのであって(1ペテ2:9)、もはや暗闇の中にはいないのです(4節)。パウロはまた、しかしだからと言って、慢心し、惰眠をむさぼり、漠然と生きるようであってはいけない、光の子どもとしてふさわしく、目を覚まし、慎み深くしていようと注意を促しているのです(6節)。では、慎み深くする(身を慎む:2017)とはどういうことでしょうか。それは単におとなしくしているという意味ではありません。パウロは8節でもそのことばを繰り返していますが、信仰と愛の「胸当て」、救いの望みの「かぶと」とあります。それらの防具を着けて慎み深くするということはつまり、闇の支配者である悪しき者、サタンとの戦いに備えるという意味なのです。サタンは光を憎んでいます。そして光の子どもたちが元いた場所、暗闇の中へなんとか引き戻そうとして、今もあらゆる手段をもって誘惑し、攻撃しているのです。ですから聖徒たちは、光の子どもとされたからといって、隙を見せてはならないのです。決して油断してはならないのです。光の中に踏みとどまる必要があるのです。さらに光の子どもたちには、世の光として、主の光を鏡のように反射させ、闇に満ちている世界を照り輝かせるという、積極的な役割が求められています(マタ5:16)。そしてその光は、升の下にではなく燭台の上に置くのです。多くの人がその光に照らされるようになるためです。光の子どもとされていることをしっかりと覚え、それにふさわしく歩む者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第一 4章◇(2月2日)

「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」…1テサロニケ4:14

4章以降でパウロは、聖徒としてどのように歩むべきかについて、テサロニケの信徒たちに勧告しています。最初に命じているのは、淫らな行いを避けて聖なる者となることです。具体的には、自分のからだを聖なる尊いものとして保つこと(4節)、情欲におぼれないこと(5節)、兄弟を欺いたりしないこと(6節)です。それらは主のみこころであり、それに従わないなら、聖霊を与えられる神ご自身を拒むことになるのです。そこには、聖い御霊がその人から離れてしまうということが暗示されています。さらにパウロは、兄弟を愛し、自立して生活するようにと促しています。テサロニケの信徒たちは信仰と愛に満ちていましたが、パウロはそのことを認めつつ、ますます豊かに、その愛を行動として現わすよう命じています(10節)。また当時、他者に依存してばかりいる者がいましたが、主に拠り頼みつつ自分の手で働くならば、それが周りの人々への良き証しとなり、主に祝福され、乏しいことがなくなるのだと言っているのです(12節)。13節以降では、主の再臨を待ち望むようにと命じられていますが、特に「眠った:眠っている(2017訳)」人たち、つまり、すでに地上の歩みを終えた聖徒たちのことが語られています。主イエスが再び来られるとき、まず彼らがよみがえり、それから、そのときまで生き残っている聖徒たちが彼らと一緒に空中に引き上げられ、そこで主と会い、永遠に主とともに生きるようにされるのです。ここで終末のことが、今における実際的な勧告とともに語られている理由…それは、地上の道は天へとつながっているからです。今の生活は、聖徒たちが迎え入れられる、御国での歩みの先取りとなるべきだからです。今が良ければそれでいいという刹那的な生き方をする人々の中で、聖徒たちが永遠への約束をしっかり握って歩むためなのです。私たちもそのようでありたいと思います。

永遠を思う心が与えられますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第一 3章◇(2月1日)

「このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。」…1テサロニケ3:7

3週間という短い滞在でテサロニケを離れなければならなかったパウロは、誕生したばかりの聖徒たちのことが心配になり、テモテを遣わして様子を調べさせました。そして戻ってきたテモテの報告は、パウロたちを大いに喜ばせたのです。なぜなら彼らは、信仰と愛において聖徒にふさわしく歩み、パウロたちを慕って、再会を待ち望んでいることがわかったからです。宣教の働きにおけるさまざまな戦いの中で、苦悩していたパウロたちにとって、そのようにテサロニケ教会の信徒たちが、同じように迫害の中にあっても、しっかりと主につながっている様子を知ることができたのは、何にもまさる慰め、励ましとなり、それは神への感謝と、心に大きな喜びをもたらしたのです。パウロは「あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです」とさえ言っています(8節、2017訳)。私たちが苦難の中にあるとき、人のことばによって慰めや励ましを受けます。しかし、今日の箇所から教えられることは、人が神のみことばに忠実に従って歩み、信仰に堅く立って歩むなら、主はその信仰の炎を飛び火させ、他の信仰者たちの内にそれを燃え立たせてくださる、ということです。人のことば以上に、何よりも主ご自身からの慰めと励ましは、人を奮い立たせるのです。そしてそれは、信仰者一人ひとりの主にある生きざまが、周囲への「生きた証し」として用いられるということにほかなりません。またそれは、一人ひとりがしっかりとキリストにつながるとき、キリストのからだ全体が成長し、ますますその栄光が現わされるということでもあります。そこには、「共同体」としての聖徒たちの群れ、教会のあり方が示唆されています。どのような患難の中にあっても、主にしっかりととどまり続け、信仰と愛に満ちて歩む者でありたいと思います。

主にあって日々成長することができますように。