◇聖書箇所: 使徒の働き 4章23-37節(4月30日)

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」…使徒4:32

尋問が終わって釈放されたペテロとヨハネは、すぐに仲間のところに行き、議員たちから申し渡されたことを伝えました。それを聞いた弟子たちは主に祈りましたが、その祈りとは、自分たちを迫害の手から守ってください…ではなく、みことばを大胆に語らせてください、イエスの御名によってしるしと不思議を行わせてください…というものでした。するとその祈りはただちに聞かれ、一同、すなわちそこにいたすべての者が聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出したのです。32節以降には、彼らがすべてを共有していたことが書かれていますが、それは、貧しい者を助けよう…と、皆で決めたことではなく、12使徒が命じたことでもありませんでした。「心と思いを一つにして」ということばが示唆しているように、それは神が、ご自身のみこころとして、御霊を通して彼らに与えられた思いであったのです。その共有は、お金や物品だけでなく、一人ひとりの必要、労苦、重荷など、「すべて」に及んでいました。そしてそのことによって、弟子たちは、主イエスの復活を非常に力強く証しし、主からの大きな恵みを受けることができたのです。そのようにして彼らは、霊的な家族、信仰の共同体として、一つとなって歩んでいたのです。それは、最初のキリスト教会の姿です。以来、教会は、各地に続々と誕生し、今も、神の国が拡大し、主のしるしと不思議がなされるために、それぞれの地域に置かれているのです。そして私たちもその一つの教会に加えられ、神の家族の一員とされているのです。「心と思いを一つにして」…それは、神が、キリストにあって、御霊によってなされることであって、人間的な努力を越えてもたらされる、主のみわざにほかなりません。キリストに贖われた者たちの群れとして、互いに愛し合い、分かち合い、担い合いつつ、主の働きを推し進めていきたいと思います。

心と思いがますます一つにされますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 4章13-22節(4月29日)

「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」…使徒4:20

議会に呼ばれて尋問されたペテロとヨハネは、臆することなく、病人が癒されたのはイエス・キリストの名、権威によることであり、その御名のほかに救われるべき名はないことを告げました。二人は、そのことによって自分たちの身に何が起こるかは意に介さず、確信と使命感をもって、指導者や長老たちの前で大胆に語ったのです。一方、議員たちは、その二人の態度やことばに驚き、さらにその名が広まること、自分たちから民衆が離れていくことを恐れ、二人に対して、その名によって語ることを禁じ、申し渡すことを決めました。彼らは相変わらず自分たちの保身のことで頭がいっぱいで、「あの人たちによって著しいしるしが行われた」と言って、神のみわざを認めず、人間の働きにおとしめていたのです。新約聖書が書かれたギリシャ語では、「証人」ということばと「殉教」ということばは同じです。主イエスは弟子たちに対して、「あなたがたは…地の果てまで、わたしの証人となります」と言われましたが(使徒1:8)、それは、「わたしのために殉教します」という意味でもあるのです。そしてそれは、必ずしも迫害により殺されるということでなく、キリストが求めるみこころがなるために、自らを主にささげ切って生きるということなのです。主に贖われた私たちも、キリストの証人として、見聞きしたこと、自らの身に起こった事実を人々に語ることが求められています。それはまず、自分が教会に行っていることを、周りの人々に話すことから始まるかもしれません。今の日本において、証しすることで身に危険が及ぶことはまずありませんが、どのような時代、状況であっても、ペテロやヨハネのように、証しすることをやめるべきではないのです。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40)。キリストにある救いを受け、キリストの証人とされていることを覚え、御霊の助けと導きのうちに、人々に大胆に証しする者とされたいと思います。

良き証しの機会が備えられますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 4章1-12節(4月28日)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」…使徒4:12

ペテロとヨハネは、サドカイ人たちによって捕らえられ、留置されました。それは宗教指導者であった彼らは復活を信じておらず、よみがえられたイエスを宣べ伝え、永遠のいのちに至る救いを人々に教えている二人を、放置しておくわけにはいかなかったからです。翌日にはエルサレムでの議会が招集され、民の指導者、長老たちも集まり、捕らえられた二人はそこに連れて来られて尋問を受けました。彼らの関心は、何の権威によって、まただれの名によって、足の不自由な人を癒し、人々にイエスの教えを伝えているのかということでした。彼らにとって、二人が人々に語った中身よりも、多くの人がそのことばを信じて従っていること自体が、自分たちの権威の失墜という恐れとなっていたのです。弁明を求められたペテロは、聖霊に満たされ、2つのことを主張しました。その第1は、足の不自由な人の癒しは、神がよみがえらせたイエス・キリストの名によるということです。名とはすなわち、権威であり、力であり、そのみわざは、キリストがもたらし、キリストが王である、神の国の祝福としての癒し、解放、救いであったのです。その第2は、イエス・キリスト以外にはだれによっても救いはない、救いのために、キリストの御名だけが人に与えられているということです。救いとは罪からの解放だけではありません。試練や戦いにおける、日々の守り、支え、私たちを打ち負かそうとする力に対する勝利なのです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ロマ10:13,2017訳)。キリストの御名を呼び求め、罪赦され、聖徒とされた私たちは、なおも、その御名を日々呼び求め、キリにある喜び、希望、平安に満たされるのです。神の国の祝福にあずかり、救いのみわざを体験し続けるのです。御国の王であるキリストの御名を高く掲げ、賛美しつつ、恐れずに前進する者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 3章11-26節(4月27日)

「あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。」…使徒3:25

美しの門のところで施しを求めていた足の不自由な人が、歩いて神を賛美していることが知らされると、それを聞いた人々は驚き、彼を実際に見ようと、一斉に駆け寄って来ました。するとペテロは、その出来事が持つ意義を明らかにすべく、人々に向かって弁明し始めました。12節以下にそのことばが書かれていますが、ペテロが、人々の関心が向けられるようにと願い、指し示したのは、目の前のいやされた人ではなく、彼の手を取って立たせた自分やヨハネでもありませんでした。それは、偉大なみわざをなされたイエス・キリストであり、そのイエスを世の救い主として遣わされた神であったのです。ペテロは、人々がその聖なる正しい方イエスを拒んで「いのちの君を殺した」と非難した上で(15節)、それは無知のゆえであり、悔い改めて神に立ち返るなら、罪は赦され、やがて来る終わりの日が、さばきではなく全き回復のときとなるのだと告げました(20節)。さらに彼は、神がイスラエルの人々を、「契約の子孫」として祝福し、その祝福が彼らを通してすべての民族におよぶことを明らかにしました(25-26節)。そして、そのことはすでにアブラハムに対して語られており(創22:18)、そのために神がメシアを遣わすとの多くの預言がなされており、イエス・キリストこそがまさにそのメシアだったのです。そのキリストにある神の救いと祝福は、ユダヤ人を通して異邦人へと拡げられ、今、私たちは、人知を越えた神のご計画の中で、霊的な神の民、契約の子孫とされています。そしてそれは、私たちが神の豊かな祝福にあずかり、それを人々に分かち合い、押し流し、祝福の基となるためなのです。また、私たちが指し示すキリストを信じる人々が起こされ、神の民、契約の子孫がさらに増し加えられるためなのです。神のその大きな働きの中で生かされていることを、しっかり覚えたいと思います。

主の祝福がますます拡がっていきますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 3章1-10節◇(4月26日)

「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」…使徒3:6(新改訳2017)

よく知られた「足の不自由な人のいやし」の記事です。それは、主イエスが天に上げられ、聖霊が弟子たちに注がれた後、ペテロを通して主がなされたみわざでした。その男の人は、その日もいつものように、宮に出入りする人々から施しをもらうべく、美しの門に置いてもらっていましたが、ペテロとヨハネにもそれを求めました。そして彼は、お金ではなく、イエス・キリストの名によって与えられた、いやしと救いを受け取ったのです。彼が、そのような生活をいつからしていたかは不明です。最初はもちろん、足が元どおりになることを願っていたでしょう。しかしそうならない状況が続く中で、いつのまにかその望みは薄れ、彼のうちでは、施しによって生きる毎日が、当たり前になってしまっていたのです。ペテロは彼から施しを求められたとき、そのことを見抜きました。そして、金銀は持っていないが、主イエスがもたらされた神の国の祝福をこの人に与えようと考え、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と彼に命じたのです。そして、そのことばによって、キリストのことをすでにうわさで聞いていた彼のうちに、その名を信じる信仰が瞬時にもたらされ(16節)、いやしが起こり、躍り上がって立ち、歩くことができたのです。その男の人の元々の願いは足が治ることでした。しかしそれは、多くの施しを得るという願いに変わっていました。そして、真に彼が持つべき願いとは、からだの状態がどうであったも、神を賛美する者(8,9節)となることであったのです。すなわち、自分が神に愛され、生かされ、救い主であるキリストが、自分の人生のすべてを最善に導いてくださるという、信仰に生きる者となることであったのです。私たちも、たとえ問題を抱えたままであっても、何よりも、キリストにある希望を抱き、平安と喜びのうちに歩むことを、主に願い求めたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 2章22-36節◇(4月24日)

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」…使徒2:36

ペテロの弁明の続きです。主イエスは多くの力あるわざ、不思議としるしを行われましたが、それは、神がイエスによってなされたことであり、神はイエスが、地上に遣わされたご自分の御子であり、あなたがたの救い主であることを証しされたのだと、人々に告げました(22節)。またペテロは、あなたがたはそのイエスを、異邦人であるローマ兵の手によって十字架につけて殺したのだと非難し(23,36節)、しかし神は、そのイエスを死の苦しみから解放してよみがえらせた、ここにいる主の弟子たちはみな、そのことの証人だと告白したのです(24,32節)。そして彼は、よみがえられ、神の右に上げられたイエスが、聖霊を御父から受け、その御霊を弟子たちに注がれたのだ、それが目の前で起こっていることなのだと人々に伝えました(33節)。父、子、聖霊の三位一体の神がなされた偉大な救いのみわざが、明確に語られています。「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけた」…。神の御子を自分たちが殺した…。ペテロのその指摘は、人々の心を刺しました(37節)。なんていうことをしてしまったのか…と、彼らは、いてもたってもいられない思いになったのです。そして、悔い改め、バプテスマを受けよとのペテロの命令に従い、その日3千人もの人々が救われたのです(41節)。そのように、人々に、自らの罪を自覚させ、キリストによる救い、いやし、解放が自分のためのものだと悟らせ、罪の悔い改め、救い、バプテスマへと導かれるのは、聖霊の働きにほかなりません。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」とあるとおりです(1コリ12:3)。人々のうちに御霊がさらに強く働きかけてくださるように、救いに導かれるようにと、とりなす者でありたいと思います。

主のみわざが現わされますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 2章14-21節◇(4月23日)

「しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」…使徒2:21(新改訳2017)

聖霊に満たされ、他国のことばを語っている弟子たちを見て、彼らは酔っているのだと嘲る者たちに接し、ペテロは、他の弟子たちとともに立って弁明し始めました。彼はまず、弟子たちは酔っているわけではないと否定し、さらに、預言者ヨエルのことばを引用して、告げられたことが成就したのだと主張したのです。預言者ヨエルは、神がご自身の霊を人々に注がれ、その者たちが預言する、すなわち、神のみわざを語り、神のことばを告げ知らせるようになると告げていました。確かに、弟子たちはそのように、自分たちを罪の中から贖い出されたキリストをあがめ、その救いがすべての人に与えられていると、さまざまな言語で語っていたのです。しかし、そのヨエルの預言は、終わりの日に起こることを告げたものであり(17節)、その五旬節の日に起こったのは、その中の一部のことでした。太陽が闇に、月が血に変わることはなかったのです(20節)。そしてそれは、2千年経った今もなお、この世界は、その五旬節の日と終わりの日の間のステージに置かれており、終わりの日がいつやって来てもおかしくないということなのです。だからといって恐れる必要はありません。なぜなら神は、世界中のすべての人に対して、キリストによる救いを備えてくださっているからです。ヨエルが預言し、ペテロが人々に語ったように、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。それは、誰でもキリストの名を口に出せば救いにあずかるという、機械的な意味ではありません。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のであって(ロマ10:10)、それぞれが、自らの罪のためにキリストが身代りとなり、十字架にかかり、死からよみがえられた救い主であることを信じて受け入れるなら、その人は救いを受けるのです。私たちがすでにその恵みにあずかっていることを感謝しつつ、終わりの日が来る前に人々がそこに加えられるよう、私たちもまた、神のみわざを語り告げていきたいと思います。

とりなしの祈りに主が答えてくださいますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 2章1-13節◇(4月22日)

「ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」…使徒2:11

過越の祭りの翌日から7週、つまり5旬=50日が過ぎ、エルサレムには、五旬節を祝う人々が大勢集まっていました。五旬節とは、小麦の収穫を感謝し、新しい穀物を主に献げるときです(レビ23:16)。するとその日、突然、大きな響きが起こり、祈り待ち望んでいた弟子たちに聖霊が降られ、皆が御霊が語らせるままに、他国のことばで語り始めたのです。諸国から集まっていた人々は、彼らがそれぞれ自国のことばで語るのを聞き、驚きました。創世記11章にバベルの塔の記事が書かれています。人々は、頂きが天に届く塔を建てて名をあげようとしましたが、神はそのような不遜なあり方を止めさせるため、それまでは一つであった彼らのことばを混乱させ、互いに通じないようにし、彼らを地の全面に散らされたのです。五旬節の日に起こったことはその逆でした。天から地上の弟子たちの上に聖霊が降り、彼らはそこに集まっていた人々が理解できる、それぞれの国のことばで語ったのです。そしてそれは「神の大きなみわざ」、すなわち、神が、ご自身の御子である主イエスの十字架と復活を通してもたらされた、贖いのみわざであったのです。その出来事は、キリストによる人類の救いと神との関係の回復、霊的な収穫の始まりを表すものであったのです。「神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」…。福音の宣教とは、聖書に書かれていることを単に「説明する」ことではありません。自分の身にもたらされた「神の大きなみわざ」、すなわち、キリストにあってなされた救いを、また神の子として日々与えられている豊かな恵みを、感動をもって、自分のことばで、人々に「証しする」ことなのです。そしてそのことばは確かに、人々の心に届いていくのです。主がそこに働いてくださるのです。そのような機会を主に求め、御霊の助けと導きのうちに、感謝と確信をもって人々に語っていきたいと思います。

語るべきことばが与えられますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 1章12-26節◇(4月21日)

「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は11人の使徒たちに加えられた。」…使徒1:26

主イエスを裏切り、悲惨な最期を遂げたユダの代わりに、弟子の中から新たに1名を選び、使徒として加えることがペテロから提案されました。そのとき120人ほどの弟子たちが集まっていましたが、彼らはヨセフとマッテヤの2名をその候補者とし、どちらが適任かを示し選んでくださいと主に祈り、くじを引いてマッテヤとしたのです。「くじ」と聞くと「おみくじ」を連想し、異教的で、占いやギャンブルに使うものと考えがちですが、そのときの弟子たちにとってはもちろんそうではなく、十分検討しても決め切れなかったため、そのくじを通して主のみこころがなるように願い、単なる道具として用いたのです。また、旧約の時代においても、大祭司は、ウリムとトンミムという、石から作られたものを胸当てに入れており、それを用いて神のみこころを求めたのです(出28:30)。私たちの歩みにおいても、いくつかの選択肢の中から一つを選ぶ必要がしばしば生じます。そして、主のみこころにかなうものはどれか…と、迷い悩むこともあります。しかし感謝なことに、私たちには聖書が与えられています。みことばを通して、主のみこころを探り求めることができます。また私たちには、主に祈り求める特権が与えられています。どうすればよいのか…その答えを、直接、主に尋ねることができるのです。そして、そのときに大切なことは、主がすべてをご存じであり、私たちに最善をなしてくださるお方であると信じ、自らの思いを主に明け渡し、全面的に主に委ねることです。主にひたすら信頼することです。弟子たちも、「すべての人の心を知っておられる主よ」と祈ったとあります(24節)。そのように祈り深く、主に拠り頼み、最善がなされることを信じて取った決断を、主は必ず祝福してくださいます。それがたとえ、自分の思いとは違ったものとなっても、主はそれを益としてくださるのです(ロマ8:28)。その主の導きを常に求めたいと思います。

主が確かな歩みを備えてくださいますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 1章1-11節◇(4月20日)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」…使徒1:8

主イエスは復活された後、40日にわたって弟子たちに現われ、ご自分が確かに生きていることを、数多くの証拠をもって彼らに示されました。また、間もなく彼らが聖霊によるバプテスマを受けることになると予告され、エレサレムを離れずにそのことを待つように命じられ、彼らが見ている間に、雲に包まれ天に上げられたのです。その40日の間、主は弟子たちに何を伝えられたのか…。この書の著者であるルカは、神の国のことを語ったと記しています(2節)。主は、その神の国について、彼らと行動を共にする中で、たとえを用いつつしばしば語られていましたが、ご自身の復活後、昇天までの期間においては、もっぱらその神の国のことを語り、その重要性、必要性を強調されたことを、ルカは示唆しているのです。8節の文頭に「しかし」とありますが、なぜ「しかし」なのでしょうか…。それは、主イエスが語るそのことばを聞いて弟子たちが期待したのは、主が、ローマの圧政から自分たちを解放し、独立した国を再び興してくれるという、地上的な枠組みの中でのことであったからです(6節)。それに対して主は、そうではない、神の国とはすなわち、わたしが王として主権をもって統べ治める天的なものであって、その神の国をこの地に拡大し、打ち立てるために、聖霊が臨まれ、あなたがたは力を受け、地の果てにまでわたしの証人となる、福音を宣べ伝える者となるのだと、弟子たちに言われたのです。主イエスは今も、その約束のことば、派遣のことばを、キリストに贖われ、弟子とされている私たちに対して語っておられます。私たちもまた、神の国、すなわち主のご支配、みわざが豊かに現わされるために、主を証しするために、それぞれのところに遣わされているのです。まず私たち自身が、その神の国と神の義を、切に求める者でありたいと思います(マタ6:33)。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇98篇◇(4月19日)

「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。」…詩篇98:3

「主はイスラエルの家への 恵みと真実を覚えておられる」。詩人はそのように語っています。覚えているとは、決して忘れてはいない、絶えず心に留めているということです。主は、多くの年月を経てもなお、今も、ご自身の民に対して、そのように関わり続けておられるのです。主は、アブラハムとの間に契約を結ばれ、彼の子孫をおびただしく増やし、祝福すると約束されました。そして彼が100歳、妻のサラが90歳のときにイサクが生まれ、その子ヤコブが後にイスラエルと主によって改名させられ、彼の息子たちがイスラエル12部族となって、主が導き入れられたカナンの地において、国家を形成したのです。そのイスラエルの民は、しばしば主に背を向け、偶像に心を奪われ、南北の2つの王国は異邦人の手によって滅ぼされてしまいました。しかし神は彼らを見捨てることなく、民の中からイエスを救い主として立てられ、そのキリストの十字架と復活によって全人類を罪から贖い、さらにユダヤ人である弟子たちを用いて、キリストによる救いの良き知らせを、地の果てにまで伝えさせたのです。私たちは、その福音を信じて救われました。そして、キリストにあって、信仰によるアブラハムの子孫、霊的な意味における、イスラエルの家の者とされたのです。確かに主はアブラハムに対し、「あなたを多くの国民の父とする」と言われ(創17:5)。さらに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と告げられました(創12:3)。主がイスラエルを選び、世界の祝福の基として用いられる…。それは主のみこころです。主はイスラエルの家への恵みと真実を絶えず心に留めておられます。そして主は、異邦人である私たちをもその家に加え、イスラエル、日本、世界の救いと祝福のために、尊く用いてくださるのです。そのような壮大な神のご計画の中で、贖われ、生かされていることを、感謝したいと思います。

祝福の基としてますます用いられますように。

◇聖書箇所: 詩篇95篇◇(4月16日)

「今日 もし御声を聞くなら あなたがたの心を頑なにしてはならない。」…詩篇95:7-8(新改訳2017)
 
 「さあ 主に向かって 喜び歌おう」、「賛美をもって 主に喜び叫ぼう」…。詩人はそのように読者に呼び掛けています。主は、この世界のすべてを造られ、人をご自身の似姿に造られた創造主であられ、「神」と呼ばれる、人々が頼みとするものをも支配される、大いなる王であるのです。その偉大な主は、同時に、ご自身の愛する民を守り、養い、導く、良い牧者であられます。「私たちは その牧場の民 その御手の羊」であると、詩人は言っています(7節)。そして、主に造られたすべての者が、その主の御声に聞き従って歩むことが主のみこころなのだと、詩人は告げているのです。メリバ、マサとありますが(8節)、それは場所の名前であり、メリバには「争い」、マサには「試み」という意味があります。イスラエルの民が荒野を旅する中、飲み水がなくて困ったとき、渇きで死なせるのか…とモーセと争い、主は私たちの中におられるのか、おられないか…と、民が主を試みた出来事を、詩人は指しているのです。「あなたがたの心を頑なにしてはならない」。心を頑なにするとはつまり、困難な状況に置かれたとき、心を騒がせ、人間的な思いにとらわれ、創造主であり良き牧者である主を、認めようとしないことです。大いなる王である主に、拠り頼もうとしないことです。イスラエルの民は、飲み水がなくて困ったとき、モーセに食ってかかるのではなく、神はいないのだと意気消沈するのではなく、「水を与えてください」と、主に叫び求めるべきであったのです。実際、モーセが杖で岩を打つとそこから水が出て、民はそれを飲むことができました。創造主であり良き羊飼いであられる主は、民の必要を満たされたのです。その主は、私たちの必要をも満たしてくださいます。どんなときにも主に信頼し、祈り求め、主の守りと導きの中を歩む者でありたいと思います。
 
心がいつも平安でありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第二 3章◇(4月15日)

「兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。」…2テサ3:13(新改訳2017)

6-15節においてパウロは、テサロニケ教会の中に「怠惰な歩み」(締まりのない歩み方:3版)をしている者たちがいることを指摘しています。そして、その者たちがあくまでも改めようとしないなら、彼らとは関わりを持たないようにせよと命じています。彼らは、働かずに他人のおせっかいばかり焼いているような者であったのです。怠惰とは怠けること、楽をしようとすることですが、そのこと以上に、みことばをきちんと受けとめ、主の教えに忠実に従おうとはせず、自己本位に歩んでいるそのあり方を、パウロは批判しているのです。パウロたち自身、テサロニケにいたときは、誰にも負担をかけないよう、労し苦しみながら働き、得た収入で生活をしていました。それは、人々に対し、身をもって模範を示すためであり、聖徒たちが本来力を注ぐべきこと、すなわち、宣教、教育、交わりといった働きが妨げられることなく、推進されるようにと願っていたからです。ではなぜ、聖徒の中に怠惰な者が出てしまうのでしょうか…。それは、その者が、自分が救われていることで満足してしまっているからです。また、主が再び来られるということを、どうせまだ先の話しだ…と、切迫感をもって受けとめていないからです。花婿を出迎えるのに、ともしびの油を用意しておかなかった、愚かな娘たちのたとえが思い起こされます(マタ25:1-13)。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)。「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい」(コロ4:5)。パウロはそのようにも言っています。キリストに贖われ、主のしもべとされている私たちは、怠惰であってはならないのです。自分が救われたことで満足すべきではないのです。自己本位ではなく、キリスト本位に歩むべきなのです。終わりの日が近いことを覚え、主が求めておられる良い働きを、たゆまず、ますます励んで行うべきなのです。そのようにして、主に用いられ、喜ばれる者でありたいと思います。

主からの励ましがありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第二 2章◇(4月14日)

「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。」…2テサ2:13(新改訳2017)

「あなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません」…。パウロは1章3節と同じ表現を用いて、テサロニケの聖徒たちに語っています。それは、さまざまな苦難や、不法の者どもの欺きの中にあって、彼らが信仰に立って歩んでいることが、神の恵みとあわれみによることなのだと、パウロが認めていたからです。「神が…あなたがたを初穂として救いに選ばれた…」。「神は…あなたがたを召し…キリストの栄光にあずからせてくださ(った)」(14節)。そのように、確かに神は、テサロニケの聖徒たちを顧みてくださっていると告げた上で、なおパウロは、それで満足することなく、選ばれたことと召されたことを確かなものとし、教えられたことをしっかりと守り行うようにと励ましています(15節)。初穂…それは最初の実であり、それに続いて多くの収穫がもたらされることのしるしです。ある人は、家庭や職場の中の「初穂」のキリスト者を通して福音に触れ、救いへと導かれたことでしょう。またある人は、自分が今まさに初穂として、遣わされた所で孤軍奮闘する思いで、同僚や友人や家族が救われるようにと、主に祈り願いつつ歩んでおられることでしょう。神は確かに、そのようにして、すでに救われた私たち一人ひとりを用いて、さらに多くの実を結ばせてくださるのです。それは神ご自身のみわざであって、御霊が私たちを通して、人々のうちに働きかけてくださるのです。そして主はそのために、私たちの心を日々強め、あらゆる良いわざとことばとに進ませてくださるのです(17節)。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハ12:24)。キリストのいのちがさらに多くの実をもたらすために、主に用いられる者でありたいと願います。

主からの励ましがありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第二 1章(4月13日)

「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。」…2テサ1:4

パウロは、この手紙の宛先であるテサロニケ教会の信徒たちに対して、あなたがたのことを神に感謝しなければならない、と言っていますが、それは、彼らの信仰が大いに成長し、また、互いに対する愛が一人ひとりに増し加わっていることを、パウロが知っていたからです。また彼は、彼らのその信仰が忍耐を生み、困難に耐えて主への従順を保っていることを、諸教会の間で誇りに思っているとさえ言って、彼らを称賛しているのです。さらにパウロは、彼らが受けている苦難は神の国のためであって、彼らが神の国にふさわしい者と認める、神の正しいさばきがやがてなされることの証拠なのだと言っていますが、それはつまり、神の前に正しい者たちが今苦しんでいても、終わりの日には報いとして永遠の安息、いのちが与えられるのであり、逆に悪しき者たちには永遠の苦しみ、滅びがもたらされるということなのです。信仰、希望、忍耐…それらは密接に関係しています。信仰があるからこそ、私たちは苦難にあっても希望を持つことができ、希望があるからこそ、辛い状況を耐え忍ぶことができるのです。では信仰はどこから来るのか…。それは、私たちがキリストのいのちによって生かされる者となるために、主イエスが十字架にかかり、いのちをささげ、よみがえられたという贖いの事実にあるのです。信仰とは、疑いの思いを必死に振り払い、信じ込むように努力して獲得するものではありません。信仰は、私たちに対する神の一方的な愛に基づく、恵みであり賜物なのです。だからこそ私たちは、それを神から受け取るために、日々、十字架の主を見上げ、復活の主との生き生きとした交わりを持ち、主のみことばから教えられ、目の前の困難な現実にではなく、主イエスにしっかりと目を留め続けるべきなのです。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(1コリ13:13a)。苦難の中でも主にあって前進し続けたいと思います。

主からの恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 9章28-44節◇(4月12日)

「彼らの中のある者は、務めの器具をつかさどった。数を合わせてこれらを運び入れ、数を合わせてこれらを運び出した。」…1歴代9:28

9章には、バビロン捕囚からの帰還後、エルサレムに住みついた人々の系図が記されています。14-34節は神の宮で奉仕するレビ族の者たちについてであり、28節以降には、門衛以外の奉仕を割り当てられた人々のことが書かれています。彼らの中のある者は、礼拝に用いる器具を受け持ち、神殿で使用するために運び出し、元の所へ運び入れる際には、きちんと確認して数合わせをしたのです。別の者は、小麦粉、ぶどう酒、油などを受け持ち、それらが不足して困ることがないよう、常に在庫を確認して管理しました。また、祭司たちの中にはバルサム油の香料を調合し、求められる香りが安定して放たれるようにする者がおり、さらにケハテ族のうちには、神殿において主の前に供えるパンをもっぱら作る者もいました。彼らも、その材料の選定、調理、保存と、細心の注意を払いつつ、忠実にその任務にあたったのです。民の中には手先が器用な者もいれば、重い物を運ぶのが得意な者もいたことでしょう。そしてそれぞれが、自らの能力にふさわしい働きを割り当てられ、多種多様な奉仕を担ったのです。それらの奉仕はどれもが欠くことのできない重要なものであり、神殿の礼拝や民のさまざまな営みは、それらなくしては成り立たなかったのです。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので…」(ロマ12:4-6)。キリストに贖われた私たちにも、それぞれに賜物が与えられています。そしてキリストのからだを建て上げるために、さまざまな奉仕を担い、神と人々とに仕えています。それらが一つでも欠けるなら全体が機能しないということを覚え、主への畏れと感謝をもって、また互いに敬い合いつつ、忠実に奉仕する者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 8章◇(4月10日)

「ネルはキシュを生み、キシュはサウルを生み、サウルはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルを生んだ。」…1歴代8:33

8章にはベニヤミン族の系図が記されています。ベニヤミンはヤコブに生まれた最後の息子であり、愛妻ラケルが産んだ後に死ぬことになった2番目の子どもです。そのベニヤミンの氏族の割当地はエルサレム、ギブオンなどを含む、カナンの中心に位置する領域であり、彼の子孫はそこに住みついて繁栄していったのです。このベニヤミン族の中から、イスラエルの最初の王サウルが立てられました(33節)。彼はキシュの一人息子で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかったとあります(1サム9:2)。しかしそのサウルは、油注がれて王となった後に、主の御声に聞き従わず、神から退けられてしまったのです(1サム15:26)。主はサウルに代えて、ユダ族の中から、エッサイの子ダビデを王とされました。イスラエルの初代の王サウル…しかし歴代誌の著者はそのことに一言も触れていません。サウルがいかに神を失望させる者であったかが、そこに暗示されています。サウルの罪、それは、アマレクから得た家畜などの戦利品を、主の命令に逆らって聖絶しなかったことでした。サムエルは彼に告げました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか…」(1サム15:22)。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。ともすれば、「いけにえをささげる」こと、すなわち、日曜日ごとに礼拝にあずかり、献金をささげることだけで自己満足するような、表面的、形式的な「信仰生活」に陥ってしまうのです。しかし、主の御声に聞き従うこと、つまり、みことばが指し示すあり方、主のみこころに、自分の思い、ことば、振る舞い、すべてを従わせようとすることは、いけにえにまさり、主はそのことを喜ばれるのです。私たちの肉の力、がんばりによってそうあろうとするのではなく、日々主に祈り求め、御霊の助けを受け、そのような歩みを重ねる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 7章20-40節◇(4月9日)

「その後、エフライムは、妻のところに入った。彼女はみごもって男の子を産んだ。彼はその子をベリアと名づけた。その家がわざわいのさなかにあったからである。」…1歴代7:23

20-29節にはエフライム族の系図が、30-40節にはアシェル族の系図が書かれています。その中で、エフライムの3人の息子のうち、エゼル、エルアデの二人に関する記事が出てきます。彼らはガテに下って家畜を奪おうとして、そこの住民たちによって殺されてしまったのです(21節)。父であるエフライムは二人の死を悲しみ、彼の兄弟たちも来て慰めました。その後、彼の妻は男の子を産みましたが、彼はその子にベリア、「わざわいの中」という意味の名前をつけました。彼にとって新たな息子の誕生は、悲しみと痛みの中で起こったことであったのです。25節以降にはそのベリアの子孫が記されています。レファフ、レシェフ、テラフ、…ヌン、ヨシュア。そのヨシュアとは、モーセの従者として忠実に仕え、アマレクとの戦いに勝利し(出17:13)、カナンの地の偵察隊のメンバーに選ばれ(民13:8,16)、モーセの後継者としてイスラエルの民をカナンの地に導いた人物です。そのように、ベリア、「わざわいの中」から、やがてイスラエル民族の指導者として神に尊く用いられる者が生まれたのです。エゼルとエルアデの死という、わざわいと思われたことは、神の祝福へと変えられていったのです。「わざわいの中」という名をつけられたベリア…。彼は自分が神のわざわいの中を歩む運命にあると、卑屈になって歩んだのではありません。彼は、盗んではならないという十戒を破った兄たちの失敗を教訓とし、主を畏れ、徹底的に聞き従う者となったに違いありません。だからこそその子孫からタハンやアミフデのような族長が生まれ、ヨシュアが生まれたのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ8:28)。わざわいを祝福とされる、主の恵みとあわれみを覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 7章1-19節◇(4月8日)

「…これは彼ら一族の、すなわち、トラのかしらであって、彼らの家系の勇士であった。その数はダビデの時代には2万2千6百人であった。」…1歴代7:1

7章には、ヤコブの息子たちの子孫である諸部族の、大まかな系図が記されています。今日の箇所では、イッサカル族が1-5節に、ベニヤミン族が6-12節に、ナフタリ族が13節に、そしてマナセの半部族(ヨルダン川を渡った部族)の系図が14-19節に、それぞれ書かれています。1節の「イッサカル族の者」とは、イッサカルの4人の子どものことです。彼らは祖父であるヤコブや他の部族の者たちとともに、エジプトにいたヨセフの元に行ったのです。そしてその後、エジプトを脱出し、40年間荒野をさまよい、後の世代の者がカナンの地に入り、そこを居住地として子孫がさらに増し加えられていったのです。それらの諸部族の系図の中には、かしらであった…勇士であった…という記述が繰り返されています。その者たちは民の先頭に立ち、勇気をもって進み、恐れる人々を励まし、弱い者たちを支えたのです。試練や困難に直面するときにも、神への信仰を失わず、ひたすら主に拠り頼んでいたのです。目に見えるものを恐れず、勝利と祝福を確信して進んでいったのです。カナンの地を偵察した多くのメンバーが、先住民を恐れて否定的な報告をした中で、勇者であったヨシュアとカレブだけが、「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」と言ったことが思い起こされます(民14:9)。「わたしは、あなたがたに平安を残します。…あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハ14:27)。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:20)。かしらであり勇士である者…それは何より、主に全幅の信頼を置く者たちであり、そのブレないことばや振る舞い、主に対する真実な態度を通して、子どもたちや次の世代に信仰が継承され、主を中心とした共同体が形成されていくのです。キリストにあって神の民とされた私たちもまた、そのような者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 6章54-81節◇(4月7日)

「彼らには、エフライムの山地にあるのがれの町シェケムとその放牧地、…」…1歴代6:67

54節以降には、レビ部族である3つの氏族に対して、イスラエル12部族から与えられた居住地、すなわち町と放牧地が記されています。54-60節にケハテ族に属するアロンの子孫への13の町が、61節に残りのケハテ族への10の町が、62節にゲルショム族への13の町が、そして63節にメラリ族への12の町が与えられたことが書かれています。その中で、アロンの子孫に与えられたヘブロン(57節)、また残りのケハテ族に与えられたシェケム(67節)は、「のがれの町」でした。それは、過って人を殺してしまった者が復讐の手から逃れるために主が定めたもので、12部族の領土を割り当てる際に6つの「のがれの町」が設けられたのです(ヨシ20:7-8)。そして歴代誌には明示されていませんが、ゲルショム族に与えられたゴラン、ケデシュ、メラリ族に与えられたベツェル、ラモテも、「のがれの町」であったのです(ヨシ21章参照)。そのように、レビ部族の3つの氏族に対して与えられた町々には「のがれの町」が必ず含まれていました。そしてそれは、12部族の人々や在留異国人とも共有されたのです(ヨシ20:9)。愛とあわれみに満ちた主の配慮が心に留まります。私たちは過って人を殺すことはないかもしれません。しかし配慮の足りないことばや態度によって、知らないうちに人を傷つけることがあります。そして、責め立てる者サタンの罠により、自分の至らなさ、罪深さに落ち込み、自己嫌悪してしまうことさえあるのです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ロマ7:24-25a)。パウロはそう告白しました。今なお罪を犯す私たちにも、のがれの町が備えられています。私たちはキリストにあって、罪赦され、神と、また人々と和解することができるのです。自らの足りなさ、至らなさに失望することなく、ますます主を見上げ、主にある希望と喜びにあずかる者でありたいと思います。

心とからだが主に守られますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 6章31-53節◇(4月6日)

「彼らはソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。」…1歴代6:32

31-47節には、主の宮、すなわちダビデ王の治世においては幕屋において、またソロモン王の時代においては神殿において、神をほめたたえる歌をもって主に仕えた者たちの系図が書かれています。ダビデはその奉仕にあたる3人の者を、レビ族の中から立てて任命しました。最初に名が出てくるのが、ケハテ氏族のヘマンです。彼は、サウルやダビデに油を注いだ預言者サムエルの孫に当たります(33節)。そのヘマンの右に立って仕えたのはアサフです。彼はヘマンの「兄弟」とありますが、それは、同じレビ族に属するゲルショム氏族の者として同じ働きをしていたためです。そして、ヘマンの左に立って仕えたのはエタン。彼はメラリ氏族に属していました。詩篇には彼らの歌も収められています(73-83,88,89篇)。幕屋での公の礼拝において、それらがそのまま歌われたのではないかもしれませんが、彼らの歌が単なる形式的なものではなかったことがわかります。彼らは「歌い手」として、良い声や巧みな技能も求められたでしょう。しかし彼らは何よりも、主との親密な関係の中で、主をあがめ、呼び求め、自らを明け渡す、そのような信仰の告白、祈りのことば、献身の表明を、主への「歌」としたのです。そしてその彼らの歌に対して民も、心を合わせ、声を合わせ、賛美をともに主にささげたのです。「私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します」(詩75:1,アサフの歌)。「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます」(詩88:1,ヘマンの歌)。「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます」(詩89:1,エタンの歌)。私たちも、彼らのように主との親しい交わりを持ち、主を賛美するよう求められています。民と同じく彼らの歌に心と声を合わせ、主に向かって歌うべきなのです。「御名をたたえるくちびるの果実」(ヘブ13:15)を主に絶えずささげたいと思います。

真の礼拝者となることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 6章1-30節◇(4月5日)

「ヨハナンはアザルヤを生んだ。これは、ソロモンがエルサレムに建てた宮で、祭司の務めを果たしたアザルヤのことである。」…1歴代6:10

6章には、レビの子孫の系図が多くのスペースを割いて記されています。その中でまず取り上げられているのが、2-15節に記されている大祭司の系譜です。初代の大祭司は、ケハテの子アムラムの子であり、モーセの兄であるアロンが務めました。彼には4人の子がいましたが(3節)、そのうちナダブとアビフは主が命じなかった「異なった火」をささげたため、主の前から出た火によって焼かれてしまい(レビ10:1-2)、エルアザルが2代目の大祭司となったのです。歴代誌の著者は、以降、ピネハス、アビシュア、ブキ、ウジ…と歴代の大祭司の名を挙げています。エルアザルからヨハナンまでが幕屋時代の大祭司、アザルヤ以降が神殿時代および捕囚時代の大祭司です。そこでは「~は~を生み」という表現が使われていますが、一方、同じケハテ族でもイツハル(=アミナダブ,22節)の子孫の系図では、単に「~の子」という表現となっています。そしてそれは、大祭司たちがその重要な職務を、次世代へとしっかりと継承していることを暗示しているのです。「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」(ヘブ3:1)。イエスは、レビ族であるアロンの子孫ではなく、ダビデが生まれたユダ族の系図に連なっています(マタ1:1-16)。ではなぜキリストは大祭司と呼ばれるのか…。それは大祭司が主から油注がれ、神と民との間に立ち、民の罪の赦しをとりなす働きをしたように、キリストは、ご自身のいのちをもって、すべての人が罪赦されるための、永遠の贖いを成し遂げられたからなのです(ヘブ9:11-12)。そのキリストはよみがえられ、天の父の右の座に着き、今も私たちのためにとりなしてくださっているのです。油注がれた御国の王として、すべてを統べ治めておられるのです。その主に賛美と栄光をささげたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章57-66節◇(4月3日)

「この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。」…マタイ27:58

ヨセフという名のイエスの弟子が、十字架上のイエスのからだの下げ渡しを総督ピラトに願い出ました。彼はからだを受け取ると、真新しいきれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めました。また、主イエスが息を引き取るのを見届けたマグダラのマリヤと別のもう一人のマリヤは、ヨセフが主のからだを墓に納め、入口に大きな石を転がして墓を塞ぐ様子を、少し離れた所でじっと見守っていました。彼らが主の復活を信じ切っていたかはわかりません。しかし少なくとも彼らは、主イエスが処刑されて死んでしまったからといって、主から離れはしなかったのです。そして自分たちにできることを行ったのです。ところが、ずっと行動をともにしてきた主の弟子たちはといえば、イエスの仲間として捕らえられるのを恐れ、戸に鍵を掛け、家の中にずっと潜んでいたのです(ヨハ20:19)。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。主イエスに従う中で、想定外のことが起こったり、主の教えにはとても従えないという感情になったりしたとき、主から離れてしまうのでしょうか…、それともとことんついて行くのでしょうか…。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタ16:24)。試練や困難の中で、もし私たちが主から離れてしまうなら、それは負うべき自分の十字架を放り出すことになるのです。主イエスに従い続ける…。それは平穏無事な歩みではないでしょう。不安や恐れもきっとあるでしょう。しかしそれは、主にあって、驚きと感謝と希望に満ちた歩みであり、天の御国、永遠のいのちへと続く歩みなのです。信仰の創始者であり完成者である主イエスから目を離すことなく(ヘブ12:2)、主に従うことを選び取る者でありたいと思います。

恐れが取り除かれますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章45-56節◇(4月2日)

「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」…マタイ27:50-51(新改訳2017)

主イエスの十字架上でのことばは、4つの福音書の中に7つ書かれていますが、マタイとマルコは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばしか記していません(46節)。息を引き取られる直前の叫びも「大声で」としか書いていません。しかしルカは、主が「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と叫ばれたと記し(ルカ23:46,2017訳)、ヨハネは、「完了した」(ヨハ19:30)と言われたと記しています。それは、耐えがたい苦痛から出た絶叫ではなく、自分を見放した神を呪うことばでもありません。それは主イエスが、ご自分のいのちを代価として支払い、全人類を罪の奴隷から贖うという、父から受けた使命を最後まで全うし、それが完成したという勝利宣言なのです。その直後に起こったのは、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けるという出来事でした。その幕は、神殿の中の聖所と至聖所との仕切りであり、大祭司はそれをくぐって年に1回だけ至聖所に入り、神と会見することができたのです。大祭司の衣を何枚も織り込んで作られたその分厚い幕が、上から下まで真っ二つに裂けた…。そのことは、主イエスによる贖いの完成によって、神と人との間の隔てが永遠に取り去られたことを意味するのです。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(ヘブ10:19)。「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます」(エペ3:12,2017訳)。私たちは、キリストが流された血、尊いいのちによって贖われ、何の制限もなく、自由に、主のみ元に近づけるようにされたのです。主になんでも打ち明け、すべての重荷を委ね、助けを求めることができるのです。さらに主に大胆に近づいて、絶えず主との親密な交わりを持つ者でありたいと思います。

贖われた喜びが心にあふれますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 5章◇(4月1日)

「…ハガル人およびこれとともにいた者はみな彼らの手に渡された。それは、彼らがその戦いのときに、神に呼ばわったからである。彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。」…1歴代5:20

ヤコブの長子ルベンは父の寝床を汚したため、長子の権利はヨセフに与えられました。歴代誌の作者はそのことのゆえに、ルベンの子孫をここに記していません(1節)。空腹を満たすために、一杯の食物と引き替えに長子の権利を譲ってしまったエサウのことも思い起こされます。そのように肉の思いを優先させるなら、神からの霊的な祝福を失うということを、あらためて教えられます。18-22節には、ヨルダン川の東側に割当地を得た、ルベン、ガド、マナセの半部族からなる兵士たちのことが書かれています。彼らは武器を巧みに操る、戦いの訓練を受けた精鋭の勇者たちです。しかし注目すべきは、彼らが自らの能力を誇り、それに頼ろうとはしなかったということです。彼らは何よりも神の助けを求め、主に拠り頼んだのです。そして神は、その願いを聞き入れて、敵を彼らの手に渡し、勝利を与えてくださったのです。23-26節には、その兵士たちとは対照的に、異教の神々を慕ってそれに信頼を置き、神に不貞の罪を犯したマナセの半部族のことが記されています。彼らを含め、ヨルダン川東側にいた3部族は、アッシリアの攻撃を受け、捕らえ移されてしまったのです。「また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい」(ヘブ12:16,2017訳)ルベン、エサウ、マナセ部族…それらの者たちは一時の快楽を優先させ、あるいは目に見えるものに心奪われ、神の祝福を失ってしまいました。私たちはそのような俗悪な者、愚かな者になってはいけないのです。戦いにおいて自らの力に拠り頼まず、神を呼び求めて勝利を得た勇者たちのように、「強く、力ある主。戦いに力ある主」(詩24:8)を何よりも求め、すべてにおいて主に拠り頼むべきなのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

思いを主に明け渡すことができますように。