◇聖書箇所:詩篇 150篇◇(12月31日)

「息のあるものはみな 主をほめたたえよ。 ハレルヤ。」…詩篇150:6

5番目のハレルヤ詩篇であり、詩篇全体の最後でもある150篇は、6節からなる短いもので、「神/主をほめたたえよ」ということばが全節に書かれ、繰り返されています。詩人はまず1節で、どこで神をほめたたえるべきかを告げています。「神の聖所で」とは、神が臨在される所で、主の御前に出て…という意味ですが、それは必ずしも、神殿や教会といった建物のことではありません。なぜなら神は、偏在の神、インマヌエルの主であって、神がおられるところ、神をほめたたえるべき場所には制限などないのです。「御力の大空」とは、神の統治が及んでいる、私たちの歩みにおけるすべての領域のことなのです。続く2節では、神をほめたたえるべき理由が述べられています。「その大能のみわざのゆえに」、「その比類なき偉大さにふさわしく」…と。神は全知全能であられ、不可能なことが一つもないお方です。その偉大な神は、天と地のすべてを創造され、生きものを造られ、人をご自身の似姿として造られ、一人ひとりを個性豊かな存在として愛し、生かしていてくださるのです。そしてそのすべての人が神を認め、感謝と賛美をささげ、みこころのうちを歩み、主の栄光を現わす者となることを、神は願っておられるのです。3~5節には、どのようにして神をほめたたえるべきかが書かれています。「角笛を吹き鳴らして」、「琴と竪琴に合わせて」、タンバリン、笛、シンバル…と、あらゆる楽器を用いて、また踊りをもって、あるときは静かに心の中で、神をほめたたえるのです。そしてそれは、あらゆる方法、私たちの全存在をもって、日々の歩み、人生を通して、いつでも、どこでも、置かれている状況がどうであっても、神をほめたたえるということなのです。「息のあるものはみな 主をほめたたえよ。ハレルヤ」。それは詩篇全体の結論でもあります。主に贖われ生かされている者として、ますますそうありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:詩篇 149篇(12月30日)

「主はご自分の民を愛し 貧しい者たちを救いをもって装われる。」…詩篇148:4

4番目のハレルヤ詩篇です。前半と後半に分かれています。4節までの前半では、新しい歌を主に歌えという呼び掛けで始まり、自らの造り主にあって喜べ、自らの王にあって楽しめと続き、さらに、踊りをもって主の御名をほめたたえよ、タンバリンと竪琴に合わせて主にほめ歌を歌えと、主の民に対して命じています。そしてそれは、4節にあるとおり、主がご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を装ってくださるからです。「貧しい」とは、物質的な貧しさというよりもむしろ、心の貧しさであり、さまざまな試練と困難の中で、失望し、落胆し、意気消沈していた神の民が、主による解放と救いのみわざを体験し、一転して感謝と喜びに満たされるさまを、詩人は「装われる」と言っているのです。5節からの後半は、前半とは調子がだいぶ異なります。「彼らの手には 両刃の剣があるように」(6節)とありますが、それは神の民が実際に武器を持って戦うのではなく、前半の4節にあるように、主ご自身が救い主として、預言者を通して語られたご自身のことばを成就され、敵からの解放と勝利をもたらしてくださるお方であって、その真実な神を賛美し、神のことばを宣言する中で、神ご自身がさばきをなされる(9節)、ということなのです。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハ16:33b)。私たちもまた、さまざまな問題や困難に直面します。しかしそこでまず私たちがなすべきことは、武器を取り、戦いの最前線にすぐ飛び出して行くことではないのです。主権者なる神に賛美をささげ、その御名をほめたたえ、神のことばを握って確信すること、宣言することなのです。「わたしはすでに世に勝ちました」と言われた主にあって、私たちがその勝利にあずかることを、先取り感謝することなのです。「彼らの口には 神への称賛があり 彼らの手には 両刃の剣があるように」ということばを、しっかり心に留めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 148篇◇(12月29日)

「主は御民の角を上げられた。主にある敬虔な者すべての賛美を 主の近くにいる民 イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。」…詩篇148:14

3つ目のハレルヤ詩篇です。最初のハレルヤの後に、「天において主をほめたたえよ。いと高き所で 主をほめたたえよ」とあり、詩人はまず1~6節において、天に存在する被造物である、御使い、太陽、月、星などに対し、「主をほめたたえよ」と繰り返し命じています。それらはこの世界の始まりにおいて、神が創造されたものであり、終わりの日に新天新地が打ち立てられるまで、みこころのうちにずっと存在し続けるものであるのです。7~14節では、今度は地上における被造物である、海の巨獣や家畜、鳥、また、自然現象である雹や雪、地を形成する山や丘、木々や植物など、さらに、主の似姿として造られた人間である、地の王たちやすべての国の老若男女の人々に対しても、主をほめたたえよと命じています。「主の御名だけがあがめられる」(13節)。そのように、ほめたたえられ、あがめられるべきなのは、イスラエルの神、主の御名だけであり、異教の神々の名ではなく、人の手による偶像の名ではなく、強大な帝国の君主の名でもないのです。なぜならそれらは偽りのものであり、神がその存在を許されている被造物の一つだからです。「主は御民の角を上げられた。主にある敬虔な者すべての賛美を…」。主が「角を上げる」とは、すなわち、その者を強くし、勝利を与え、生きながらえさせるということです。また、その者をご自身のものとして、喜んでくださる、誇りとされるということです。主は、ご自身を畏れ、力と主権を認め、そのみこころを行う者、主に絶えず賛美と感謝と栄光をささげる者を、そのようにしてくださるのです。そして、その主の民、イスラエルの子らとは、血肉によるイスラエルのことだけでなく、キリストにあるすべての者たちのことなのです。その恵みと祝福にあずかっていることを覚え、ハレルヤと、主をほめたたえたいと思います。

主の喜びが心にありますように。

◇聖書箇所:詩篇 147篇◇(12月28日)

「主は あなたの地境に平和を置き 最良の小麦であなたを満たされる。」…詩篇147:14

2番目のハレルヤ詩篇です。「ハレルヤ。まことに われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく 賛美は麗しい」と、詩人は、神に賛美をささげることの素晴らしさをまず告白し、さらに、その神がどのように偉大であり、義であるお方であるかを語り告げています。「主は星の数を数え そのすべてに名をつけられる」(4節)、「神は濃い雲で天をおおい 地のために雨を備え また 山々に草を生えさせ」(8節)。そのように神は、その力強い御手で天と地に大いなることをなされるお方であり、同時に、「主は心の打ち砕かれた者を癒やし 彼らの傷を包まれる」(3節)、「主は心の貧しい者を支え…」(6節)と、小さな一人ひとりに対して、愛といつくしみをもって関わってくださるお方なのです。「神は馬の力を喜ばず 人の足の速さを好まれない。主を恐れる者と 御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」(10-11節)。詩篇146篇3節にも、「あなたがたは君主を頼みとしてはならない」とありましたが、地上的、人間的なものを頼みとせず、主を畏れ、主の御恵みを待ち望む者を主は喜ばれ、力と助けと導きを与えられ、その歩みを確かなものとしてくださるのです。「主は あなたの地境に平和を置き 最良の小麦であなたを満たされる」。それは、そのように主に拠り頼む者たちに対する、祝福の約束のことばです。人は、世にあって、さまざまな争いや戦いに巻き込まれ、試練や苦難の中に置かれますが、主は、ご自身を頼みとする者、待ち望む者の歩みの中に平和をもたらし、また、日々の糧、それも最良の小麦を与え、すべての必要を満たしてくださるのです。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてください…」と、ヤベツも神に祈りましたが(1歴4:10)、その祝福はもちろん、独り占めするためでなく、周りに押し流されていくためにあり、地境の向こう側の地は、神の国の領土とされるべきものなのです。主がそのために私たちを用いてくださることを、感謝したいと思います。

祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:詩篇 146篇◇(12月27日)

「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人。」…詩篇146:5

詩篇146~150篇は、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる、いわゆる「ハレルヤ詩篇」ですが、その最初の146篇は、ハレルヤの後に、「わがたましいよ 主をほめたたえよ」という、詩人が自らのたましいに対して呼び掛けて励ますことばをもって始まっています。詩人はさらに、「私は生きているかぎり 主をほめたたえる。いのちのあるかぎり 私の神にほめ歌を歌う」と告白しています(2節)。そしてそれは、この地上での最後の瞬間まで神をほめたたえる、そしてそこにつながる今の日々のすべての時間においても、いついかなる時も、ハレルヤと神をあがめるという、堅い決意なのです。「あなたがたは君主を頼みとしてはならない。救いのない人間の子を」(3節)。詩人は、地上の主権者たち、人間的な権威や力に頼る者となるなと、警告しています。なぜなら4節にあるとおり、人のいのちは神の御手にあるのであって、死を迎えるならば、どんなにすぐれた計画もそれが実行されないままで終わってしまうからです。それに対して、イスラエルの神は、天地万物を創造し、とこしえまでも真実を守られるお方であって、その神に望みを置いて拠り頼み、主の御手によって助けられ、支えられる者こそ幸いな者なのです。盲人、在留異国人、みなしご、やもめ…(8,9節)。それらの者たちは人からさげすまれていますが、神は、ご自身に望みを置く彼らを愛し、あわれみ、守り、支え、養ってくださるのです。私たちは何に望みを置き、何に頼って生きているのでしょうか…。「あなたがたは君主を頼みとしてはならない」と詩人が戒めているとおり、私たちが頼るべきは、人ではなく、自らの力でもなく、財産でもなく、神なのです。「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人」という詩人のことばをしっかりと受けとめ、ますますそのような者として歩み、いのちのある限り、ハレルヤと主をほめたたえたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:詩篇 145篇◇(12月26日)

「主を呼び求める者すべて まことをもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられます。 また 主を恐れる者の願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救われます。」…詩篇145:18-19

詩人は、1~7節において、神の偉大さ、神がなされる大能のみわざ、王である神の主権について語っています。「その偉大さは測り知ることもできません」(3節)、「私はあなたの偉大さを語ります」(6節)。「大能のみわざ」、「奇しいみわざ」、「恐ろしいみわざ」(4-6節)。「あなたの主権の栄光の輝き」(5節)…と。その神はまた、情け深く、あわれみ深く、寛容な心を持ち、豊かな恵みを注いでくださるお方であって(8-9節)、ご自身が造られたすべてのものをいつくしみ、一人ひとりに真実に関わってくださるのです。ともすれば人は、自分の知恵や力で難局を乗り切り、人生を切り拓けると考えますが、それは大きな誤りであり、すべての者は、その神の恵みとあわれみのうちに生かされているのです。さらに詩人はこう告白しています。「主は倒れる者をみな支え かがんでいる者をみな起こされます。すべての目はあなたを待ち望んでいます…」(14-15節)。人生において、どんなに大きな試練、苦難の中に置かれたとしても、私たちは、主にあって、倒れ果ててしまうことは決してありません。主が、力強い御手で引き起こし、支え、一人ひとりの歩みを守り導いてくださるからです。その主は、切なる思いで主を呼び求めるすべての者の祈りに答え、願いをかなえてくださるお方です(18-19節)。実際、詩人は、主との交わりのときを持つべく、日々、主の御前に出て静まり、祈りをささげ、主のみわざの現われを待ち望んでいたのです。そして主は、ご自身のみこころのうちに、その祈りに答え、必要を満たしてくださったのです。そのように、偉大な神は、決して遠く離れてはおらず、主を呼び求める者のすぐ近くにおられるお方なのです。私たちも、ますますその主を慕い求め、みわざの現われを待ち望む者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:マタイの福音書 2章1-12節◇(12月24日)

「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」…マタイ2:12

生まれたばかりのメシアに会うために、東の方の博士たちが、はるばるエルサレムまでやって来ました。彼らがメシアの誕生を知ったのは一つの星が昇るのを見、それをしるしとして受けとめたからです。彼らはメシアがいる場所を町の人々に尋ねましたが分からず、仕方なくそこに留まっていましたが、そのことを耳にしたヘロデ王は、やがて自分の立場が危うくなるのを恐れ、律法学者から、預言によればメシアはベツレヘムで生まれることになっていると聞き出し、その場所を把握しました。そして王は、東方の博士たちをひそかに呼び、現れた星の出現の情報から、さらに幼子のいる場所を特定しようとしましたが、結局わからず、博士たちが見つけたら報告してもらうように依頼し、彼らを送り出しました。博士たちは、そのように、王との会話の中で、幼子がエルサレム近郊の村、ベツレヘムにいると知ったのです。彼らは早速そこに向いましたが、またもや星が彼らの先を進んで導き、幼子がいるところの上にとどまったのです。博士たちが示された家畜小屋の中に入ると、そこには、飼葉桶に寝かされた幼子が眠っていました。すると彼らはその子がメシアであることを確信し、持って来た高価な贈り物を献げて礼拝したのです。そして、夢の中でヘロデのところに戻るなとの警告を受けたので、そのまま別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。マタイは、この一連の出来事の中に、確かな主の守りと導きがあったことを伝えています。そして保身のために幼子を殺そうとさえしたヘロデ王と(2:13)、自らのすべてを献げるために天から来られ、粗末な飼葉桶に寝かされたイエス・キリストとを、さらには、ヘロデに従った律法学者たちと、主の導きに従った東方の博士たちとを、ここで対照的に描いているのです。私たちもまた、キリストの前に持てるものをささげる礼拝者として、御霊の導きに従順に従う信仰者として、歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 22章12-21節◇(12月23日)

「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」…黙示録22:20

「わたしはすぐに来る」。主がヨハネに告げられたその約束のことばが心に留まります(7,12,20節)。そしてそのことは、フィラデルフィアの教会に対して、自分の冠を奪われないよう、持っているものをしっかり保ちなさい、という警告とともに、語られていたことでした(3:11)。また10節には「時が近いからです」とあり、そのこともこの書の読者に対し、冒頭で告げられていました(1:3)。ヨハネは、この書の最後において、主が再び来られること、それがそう遠くはないことを強調しているのです。「御霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください』と言いなさい」(17節)。「来てください」という表現は、コリント人への手紙第一の16章22節にもありますが、そこでは「マラナ・タ」という原語(元々はアラム語)をそのように訳しています。それは、「御国が来ますように」という主の祈りに通じる叫びです。王の王なるキリストのご支配が、全領域において完全になされますようにという、切なる願いなのです。「時が近づいている」、「すぐに来る」…。そのように告げられている私たちは、いざとなって慌てないように、しっかりと備えをしてその時を待ち望まなければなりません。主が来られてからもう2千年が経ったではないか…どうせまだまだ後のことさ…と考えて油断すべきではないのです。真実な主の約束は、必ず成就するからです。もちろん、その時まで主が何もなされないわけではありません。インマヌエルなるお方がともにあり、祈りに答え、大能の力をもって私たちの生活に介入し、みわざをなしてくださるのです。神の国がキリストによってすでにこの地にもたらされ、その統治が始まっているからです。「主よ、来てください」という、再臨を待望するその叫びは、日々、すべてを主に拠り頼み、主を待ち望む、私たちの歩みの延長線上にあるのです。マラナ・タ、主よ、来てください…と、主を求め続けたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 22章1-11節◇(12月22日)

「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」…黙示録22:3-4

ヨハネはまた、水晶のように光り輝いて流れるいのちの水の川を、御使いによって見せられました。その川は、都にある神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていました。そしてその川の両岸には、12種の実がなる「いのちの木」が植わっており、毎月必ず、そのうちのどれかの実が結ばれるようになっていたのです。また、そのいのちの木の葉は、諸国の民を癒したとありますが(2節)、都に住む民は、キリストを信じて救いを受けた、あらゆる国からの者たちであり、死も苦しみもない祝福の中に生きている人々であって、その「癒し」とは、病の癒しではなく、神とともに永遠に生きる者とされている喜びをもたらす、という意味だと思われます。都にはもはや、神ののろいを受けるべきものは何一つありませんでした。竜であるサタン、その手下の獣、偽預言者、悪者たちはみな、火と硫黄の池に投げ込まれたからです。都には、キリストに贖われた聖徒たちだけがいて、神に仕え、主の御顔を間近で仰ぎ見ることが許され、その額には神の御名が記されていたのです。また、都にはもはや夜がありませんでした。そのことはすでに、21章23,24節に書かれていますが、神である主が民を照らされるので、ともしびの光も太陽の光も不要だからです(5節)。創世記1章には、神が天地創造において、闇に覆われていた世界に「光、あれ」と命じて光を造られ、光を昼、闇を夜と名付けられたとありますが、新天新地においては、神ご自身が光となり、闇である夜はもはや消え去り、昼だけが存在するのです。そしてそれは永遠に続くのです。そのように、堕落して罪に陥った人間を、子羊の血によって贖い、再びご自身の豊かな祝福と永遠のいのちにあずからせるその救いは、すべて神が計画し、神が実行される、回復のみわざなのです。その神に、賛美をささげ、栄光を帰したいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 21章9-27節◇(12月21日)

「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。」…黙示録21:22

ヨハネは、7つの鉢を持っていた7人の御使いの一人によって高い山に連れて行かれ、聖なる都エルサレムが、神がおられる天から降ってくるのを見ましたが、御使いによればその都は、「子羊の妻である花嫁」でした。11~21節には、その都の構造、寸法、建材などが記されています。その形は幅、奥行き、高さが等しい立方体であり、その長さは1万2千スタディオン、2千2百kmもある巨大なものでした。また、そこには大きな高い城壁があって、イスラエルの12部族の名前が刻まれた12の門がありました。さらに、その城壁には12の土台石があり、それには、キリストの12使徒の名が刻まれていたのです。都のその城壁は碧玉で造られており、都全体は透き通ったガラスのような純金でできており、城壁の土台石は、サファイヤ、めのう、エメラルド、トパーズなどの異なる12の宝石によって飾られていました(19,20節)。旧約時代の祭司がつけていた胸当てにも、12の宝石が埋め込まれていましたが、それは小さな1つのものであり、それに比べて都の城壁の土台石は、多くの宝石により飾られていたのです。また、12の門もそれぞれ1つの真珠からできており、都の大通りは純金であったとあります(21節)。そして、そのような高価で貴重な材料が惜しみなく使われているということは、すなわち、その都が神の栄光に満ちたものであることを意味しているのです。その都には神殿がありませんでした。なぜなら、神と子羊自身が都の神殿であって、聖徒たちは、何の制約もなく、いつでも自由に、直接的で親密な、神との交わりを持てるからです。またその都は、神の栄光によって照らされ、夜がなく、門は常に開かれており、敵に備えて閉じられることはないのです。そのような都にやがて迎え入れられるという主の約束は、苦難に満ちたこの地上にある聖徒たちにとって、大きな希望、励ましです。そしてその祝福の先取りとして、私たちは聖霊の宮とされているのです。そのことを覚え、感謝したいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 21章1-8節◇(12月20日)

「また私に言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。…』」…黙示録21:6

ヨハネは、新しい天と新しい地を見せられました。以前にあった天と地は過ぎ去り、海もなくなりました。海は、反キリストとされる獣が上ってきたところであり、海の底は光が届かず闇に満ちており、新しい天地には、海はもはや不要なのかもしれません。またヨハネは、聖なる都、新しいエルサレムが、飾られた花嫁のように整えられて、天から下って来るのを見ました。さらにヨハネは、御座から出る大きな声を聞きました。その声は、神の幕屋が人々とともにある、神は彼らの神としてともにおられると告げ、また、その神が、人々の目から涙をぬぐい取り、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもなくなる、それは、以前のものが過ぎ去ったからだと、キリストに贖われた聖徒たちがそこで受ける、驚くべき祝福について、明らかにされたのです。聖書の最初の書である創世記には、エデンの園においてアダムとエバがサタンに誘惑され、罪を犯し、神によってそこから追放されたことが書かれていますが、その神は、御子をこの世に遣わし、その十字架と復活により、それ以来断たれていた、ご自身と人類との本来あるべき関係、親密な交わりを、自ら修復してくださったのです。そしてそれは、サタンと獣が火の池に投げ込まれ、新しい天と地、新しいエルサレムが備えられ、神の民がそこに迎え入れられることによって完成するのです。そのことが、聖書の最後の書、黙示録に記されているのです。そのように神は、初めに天と地を創造し、終わりに新しい天と地を創造されます。最初の人アダムの原罪により失われた、神と人との本来の関係を、ご自身の御子、キリストの贖いによって取り戻し、最後に悪の勢力を一掃し、エデンの園の交わりを回復させ、聖徒たちを新しい都に住まわせるのです。まさに神こそ、アルファでありオメガ、初めであり終わりである方なのです。その神の民として加えられていることを感謝したいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 20章◇(12月19日)

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」…黙示録20:6

20章には、いわゆる千年王国のことが記されています。ヨハネが見ていると、天からの御使いが、竜、すなわちサタンを捕らえて縛り、千年の間「底知れぬ所」に投げ込んで鍵をかけ、封印をしました。その後、獣もその像も拝まず、その刻印も受けず、キリストへの信仰のゆえに斬首され殉教した聖徒たちが生き返り、キリストとともに千年の間、王として地を治めました。しかし、残りの死者はその千年が終わるまでは生き返りませんでした。そのようにして、千年期が始まる前の「第一の復活」にあずかる者は幸いな者、聖なる者であって、その人々に対して、火の池である第二の死(14節)は何の力も持たないのです。そして彼らは、キリストとともに治める王とされると同時に、礼拝ととりなしの祈りの働きを担う祭司とされ、神とキリストに仕えることになるのです。その千年期が終わると、サタンは牢から出され、聖徒たちの陣営と聖なる都を包囲して最後の戦いに挑みます。しかし、サタンに召集された者たちは、天から下って来た火によって焼き尽くされ、彼らを惑わしたサタンは、獣、偽預言とともに火と硫黄の池に投げ込まれ、昼も夜も、永遠に苦しみを受けることとなるのです(10節)。11~15節には、神がなされる「最後の審判」について記されています。そのときすでに地と天は消え去り、すべての死者が生き返って、大きな白い御座に着いておられる神の前に立ち、数々の書物に書かれていることに従ってさばかれ、いのちの書に名がない者はみな、火の池に投げ込まれます。しかし、名がある者は新天新地に迎え入れられ、神とともに永遠に生きる者とされるのです。それ以外の選択肢はありません。すべての者が、そのどちらかに定められることとなるのです。私たちの家族、友人、関わる人々の名がいのちの書に記され、ともに御国に入れるようとりなし、福音を伝えたいと思います。

主の導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 19章11-21節◇(12月17日)

「…鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。」…黙示録19:15-16

ヨハネは天が開かれているのを見ました。するとそこに、白い馬に乗っている方がおり、その目は燃える炎のようで、その頭には多くの冠があり、身には血に染まった衣をまとっていました。また、その方は、「確かで真実な方」、「神のことば」と呼ばれていましたが、その方とは、ヨハネが彼の福音書の最初に「初めにことばがあった」と記している、キリストにほかなりません。さらに、ヨハネは天の軍勢を見ましたが、彼らは、白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗り、「確かで真実な方」に従っていました。その方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ており、鉄の杖で彼らを牧し、また、神の憤りのぶどうの踏み場を踏まれるとありますが、それは、終わりの日に、キリストがすべての人々をさばかれ、悪と不義を一掃されるということを意味しています。そしてその方の衣とももには、「王の王、主の主」という名が記されていました。ヘンデルの「メサイア」でも歌われるその表現は、キリストが、地上のどの王よりも力があり、正義を貫き、民を守り、養い、導く、まことの王であられ、また、この世のどんな優れた者も及ばない大いなる権威を持ち、すべてを統べ治めておられる主権者であられることを、意味しているのです。ヨハネはさらに、その方と彼に従う軍勢に対して、獣と地の王たちの軍勢が戦いを挑むのを見ましたが、彼らはまったく歯が立たず、捕らえられ、獣の刻印を受けた者たち、人々を惑わした偽預言者とともに、生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれることとなったのです(20節)。そのように、キリストと彼に従う聖徒たちは、最終的な勝利を収めることが定められているのです。患難の中に置かれても、王の王、主の主なるキリストにひたすら拠り頼み、希望を抱いて従い続けたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 19章1-10節◇(12月16日)

「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」…黙示録19:8

大バビロン、大淫婦がついに滅ぼされました。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの…」と、神の勝利をほめたたえる、大群衆の大きな声のようなものが、天で響き渡るのをヨハネは聞きました。そしてそれは、「神のさばきは真実で正しい…ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた…」と続き、聖徒たちを殉教させた憎むべき大淫婦を、神は決して放置されなかったと、証ししたのです。「なぜこんなことが…」と、理不尽なことに悩み苦しむことがあっても、大きな苦難の中に置かれていても、聖徒たち一人ひとりは神によって愛され、守られており、見捨てられることは決してないのです。彼らの声に呼応して、24人の長老たちと4つの生き物も、「アーメン。ハレルヤ」と、神を賛美し、礼拝しました。さらに、「神のすべてのしもべたちよ…私たちの神を賛美せよ」という御座からの指示に従い、全聖徒による、激しい雷鳴のような大きな声がとどろき渡りました。そしてそれは、「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう…子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから…」という、宣言のことばであったのです(6-7節)。神が主権者であられ、御国の王としてすべてを統べ治めておられるのは、聖徒たちにとって疑いようがないことですが、終わりの日には、すべての者にそれが明らかにされるのです。そして、子羊の婚礼の時を迎え、教会が、聖徒たちが、キリストの花嫁として、永遠に続く愛の関係の中に入れられるのです。それは歓喜に満ちた瞬間であり、私たちはその時が来るのを待ち望んでいるのです。その時に花嫁がまとうのは「輝くきよい亜麻布」です。それは「聖徒たちの正しい行い」だとあります。その行いとは、神ご自身が教会と聖徒たちに備えてくださる良い行い、神の国を建て上げる働きです。それを忠実に果たし、輝かしい姿で、子羊の前に立ちたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 18章11-24節◇(12月15日)

「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」…黙示録18:16-17

大バビロン、大淫婦が神によってさばかれ、彼女が焼かれる煙を見ると、商人たちは「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ…」と言って泣き悲しむと、ヨハネは記しています。また、船長や水夫たち、海で働く者たちもみな、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」(18節)と言って、同じように泣き悲しむのです。しかし、彼らの悲しみ、それは、大きな都バビロンが滅ぼされてしまうと、商人たちにとって最高の顧客を失うこととなり、もはや富を得ることができなくなるからです。また海で働く者たちもまた、商人たちの貿易がなくなると、船の利用も途絶えるため、利益が失われるからです。そのように大淫婦のさばきを嘆き悲しむ彼らは、あくまで物質的繁栄を追い求める利己主義者なのです。「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから」(20節)。御使いからのものと思われる天からの声は、彼らの嘆きとは対照的に、大バビロンの滅びの最終宣告をし、そのことを喜ぶようにと、聖徒たちに命じています。そのように、神の義が現わされるとき、神に贖われた聖徒たちのうちに歓喜の叫びが湧き起こり、神の勝利と栄光がほめたたえられるのです。「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(1ヨハ2:17)。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから…」(マタ5:12)。私たちの喜びとは、主に贖われ、天で永遠に神とともに生きる者とされていることです。この地上での歩みは一時的であって、そこでの繁栄や楽しみを追い求めても、神のみこころを行おうとしないなら、そのはかない喜びはやがて悲しみに変わってしまうのです。天における主からの報いを待ち望みつつ、主が備えられた道を歩み続けたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 18章1-10節◇(12月14日)

「それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。『わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。』」…黙示録18:4

前の17章において、大バビロンと呼ばれる大淫婦のさばきの予告が、鉢を持つ7人の御使いの一人からなされましたが、18章では彼女の身に起こるより具体的なことや、彼女と関わっていた者たちが泣き悲しむ様子が、これまでとは違う御使いたちによって告げられています。一人の御使いは「倒れた。大バビロンは倒れた…」と、その後に確実に起こることを先取りしてそう叫びました。3節には、大淫婦と関わりを持っていたすべての国の民、王たち、商人たちのことが書かれています。「淫行のぶどう酒」とありますが、14章8節にも同じ表現が出て来ます。それは道徳的に汚れた行いであり、また霊的に汚れていること、つまり神が忌み嫌われる偶像礼拝や魔術であり、世の中の多くの者が、大淫婦の影響を受け、淫行のぶどう酒を飲み、罪と快楽の生活をしていたのです。また、商人たちは、彼女の過度のぜいたくによって富を得た、と非難されています。彼らが扱う商品が12節以降に挙げられていますが、人々が必要以上に自分を飾り立て、華美な生活をし、物質的な繁栄を追い求めて生きる…そのようなあり方がそこから読み取れます。商人たちもまた大淫婦の影響を受け、人々の欲望につけ込んで商品を売り、儲けていたのです。その商品リストには、「奴隷」や「人のいのち」さえ載っているのです(13節)。「…この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい」。ヨハネは天からのその声を聞きましたが(4節)、主は、いつの時代においても、ご自身の民、聖徒たちに対し、そのように命じておられるのです。「大バビロン」の都とは、神を無視した人間中心の社会のことであり、そこには罪と悪と欲望が満ちているのです。「彼女のところから出て行きなさい」ということばを心に留め、神の国と神の義を第一に求める者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 17章◇(12月13日)

「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」…黙示録17:14

前の16章において、第7の鉢の中身が空中に注がれると、「事は成就した」という大きな声が御座から出て大地震が起こり、大きな都は3つに裂かれ、「神は大バビロンを忘れず…激しい憤りのぶどう酒の杯」を与えられた…と書かれていましたが、17~18章では、その大バビロンが「大淫婦」と呼ばれ、そのさばき、滅亡が詳しく描写されています。したがってその2つの章の内容は、16章での出来事を別の観点から記したものと考えられます。その大淫婦は、神を冒瀆する名で満ちている、7つの頭と10本の角を持つ緋色の獣に乗っており、その額には「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記され、聖徒たち、イエスの証人たちの血に酔っていました。彼女を見て非常に驚いたヨハネに対して、御使いは、7つの頭と10本の角は、それぞれ7人、10人の王たちのことだと説き明かしました。13節には、その10人の王たちが一つ思いになり、自分たちの力と権威を、彼女が乗っている獣に委ねる、と書かれています。しかしやがて、彼らのうちに内部分裂が起こります。10人の王たちと獣は、大淫婦を憎むようになり、彼女がつけていた贅沢な衣や装飾をはぎ取って裸にし、その肉を食らって火で焼き尽くすと言うのです(16節)。そのように、人間的な一致によって神に敵対しようと企んでも、神によって分裂させられ、崩壊してしまうのです。彼らは子羊に戦いを挑みましたが打ち負かされました。なぜなら子羊なるキリストは、主の主、王の王だからです。キリストは、この地上におけるどのような者よりも強大な権威を持つお方であり、今も、世界のすべてを統べ治めておられるのです。終末が近づくと人間的な統一の動きが加速しますが、主が求めておられるのは御霊による一致です。子羊なるキリストとますます一つ思いになり、忠実なしもべとして主に仕えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 16章12-21節◇(12月12日)

「-見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである-」…黙示録16:15

第6の御使いが鉢の中身をユーフラテス川に注ぐと、その水は涸れ、また竜と獣と偽預言者の口から、蛙のような3つの汚れた霊が出て来ました。それらはサタンの手下の汚れた悪霊どもの霊であり、諸国の王たちのところに出て行き、神がもたらされる大いなる日の戦いに備えて、ハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めたのです。第7の御使いが鉢の中身を空中に注ぐと、天の御座から、「事は成就した」という大きな声がしました。そして、雷鳴がとどろき、歴史上起こったことのないほどの強い揺れの大きな地震が起こり、諸国の町々は倒れ、地上の光景は一変したのです。また神は、大バビロンへのさばきとして、激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられました。さらに、1タラント、すなわち重さが約34キロもある雹が天から降ってきました。そのようなものに当たれば、人はひとたまりもなく、生活に必要な設備や家屋が受ける被害も甚大なものとなります。21節には「その災害が非常に激しかった」とあります。しかし、それにもかかわらず、人々は悔い改めず、神を冒瀆し続けたのです。「事は成就した」…。それは、サタンとその手下どもの霊、神にあくまでも従おうとしない頑なな者たちに対する、神の勝利宣言です。また、この世の国々は神とキリストとのものであり、そこに、王の王なる主の主権が完全に確立し、世に対する最終的な審判によって、救いと滅び、永遠のいのちと、永遠の死が確かにもたらされるということを警告する、人類に対する最終通告なのです。そしてそれは、主イエスが十字架上で息を引き取られた時に発せられた、「完了した」ということばと繋がっているのです。私たちは今、キリストが再び来られて実現する、その終わりの日を目前にして生きています。そして、主は盗人のように来られるのです。その時になってあたふたすることがないように、しっかりと備え、目を覚まして、花婿なるキリストを迎えたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 16章1-11節◇(12月10日)

「こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。」…黙示録16:9

いよいよ、神の憤りに満ちた7つの鉢の中身が、御使いによって注がれます。それは7番目のラッパ(11:15)が吹き鳴らされたときのことであり、「最後の7つの災害」(15:1)のことです。1~11節には、5つの鉢により起こった災害が記されていますが、それはすさまじく、それまでの6番目までのラッパのときの災害は、地や海や水の3分の1にしか及びませんでしたが、最後の7つの災害ではそのような制限がなく、すべてのものに及んでいるのです。第4の御使いが鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は一気にその温度を増し、地にある人々は激しい炎熱で焼かれるようになりました。さらに第5の御使いが鉢の中身を獣の座に注ぐと、獣の王国は闇におおわれ、人々はひどい苦しみに耐えかねて、舌を噛み切って死のうとしたのです。イスラエルの民がエジプトを出ていこうとしたときにも、それを認めない王ファラオの頑なさのゆえに、次々にわざわいが起こりましたが、ここでも人々は、自らの罪、悪しき行いを悔い改めようとせず、ますます頑なになり、神の御名を冒瀆し続けたために、神の憤りもさらに増し、災害が次々に起こっていったのです。「そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった」とあるとおりです(11節)。「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」(ヘブ3:13)。そのような頑なさは、実は私たちのうちにもあるということを思わされます。神のみこころではない思いやふるまいが私たちにあるとき、そのことを主ご自身から、また人を通して示されますが、そのときにそれを素直に認めようとせず、言い訳をして悔い改めようとしないなら、それは神に喜ばれるあり方ではないのです。神のみこころは、みことばに示されています。また、御霊の語りかけによって教えられます。日々、主との深い交わりを持ち、自らのあり方を吟味し、悔い改めと柔らかい心をもって、主に従っていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 15章◇(12月9日)

「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。『主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。』」…黙示録15:3

ヨハネは天にもう一つの大きなしるしを見ました。それは、7人の御使いによる7つの災害であり、「最後」だと書かれています。神の憤りは極まって最終段階に入り、そのわざわいが起こされるのです。その具体的な内容は次の16章以降に記されていますが、その前に、ガラスの海のほとりに立つ人々が、神を賛美しているのです。その人々は「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った」者たちであり、竪琴を手にしていました。神を冒瀆する獣の像を拝まない者たちはみな殺されましたが(13:15)、その人々が「打ち勝った」と言われているのです。彼らは殉教者ですが、敗北者ではなく勝利者とされ、感謝と喜びのうちに主をほめ歌い、礼拝しているのです。その歌とは、モーセと歌と子羊の歌でした。モーセの歌とは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民が、指導者モーセに従ってそこから脱出し、海が分けられてできた乾いた道を進んだことを覚え、その救いのみわざをなされた偉大な神をあがめる歌です(出15章)。また、子羊の歌とは、すべての国民が、神の子羊であるキリストの十字架と復活によって罪の奴隷から贖われ、永遠に生きる者とされたことを覚え、その救いを与えてくださった、愛とあわれみに満ちた神に感謝する歌です。そしてそれらの歌を歌う人々は、ユダヤ人と異邦人の区別なく主に贖われた一つの神の民、聖徒たちなのです。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です」。神に従い通すことを選び取った者たちは、地上でのいのちを奪われましたが、しかし彼らは、天においてそのように告白し、ただ主をあがめているのです。この地上ではさまざまな患難がありますが、私たちもまた信仰をもって主に従い続け、勝利者として御国に入れられ、喜びをもって神にほめ歌を歌いたいと思います。

主からの平安と希望がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章◇(12月8日)

「また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに14万4千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。」…黙示録14:1

ヨハネは、また別の光景として、子羊がシオンの山の上に立っており、14万4千人の大群衆がその子羊とともにいるのを見ました。また、その人々の額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていました。その子羊とは子なる神であるキリストであり、その父とは御子の父なる神であり、14万4千人の人々とは、子羊なるキリストによって贖われ、主のもとに召された聖徒たちのことです。その14万4千人の人々は、7章4節に書かれている「印を押された者たち」のことであり、そこではイスラエルの12部族が挙げられ、各部族から1万2千人が印を押されたとありますが、聖書において12という数字は「全体」を意味するものであり、それは、ユダヤ人を含むすべての民族において、キリストに贖われた「大勢」の者なのです。6節からは3人の御使いが登場しています。1人目の御使いは、中天を飛び、地に住むすべての人々に対して、神を畏れ、礼拝し、神に栄光を帰せ…と大声で叫び、また、2人目の御使いは、倒れた、倒れた、大バビロンが…と宣言しています。そしてその大バビロンとは、実際の国というよりむしろ、人間が自らの力で築き上げたことを誇る国家的な組織や集団を意味していると考えられます。注目すべきは3人目の御使いによる宣告です。獣の像を拝み、額か手に獣の名の刻印がある者は、御使いたちと子羊の前で、火と硫黄によって苦しめられるのです。13章で登場した地からの獣は、獣の名の刻印がなければ物の売買ができないようにしましたが、刻印がある者に対する神のさばきは、そのように、はるかに過酷なものとなるのです。ともすれば、この世には悪がはびこり、サタンに牛耳られているようにも思えますが、真実で義なる神は、必ず正しいさばきをなされるのです。その勝利を先取り感謝し、主にますます信頼しつつ、今の時を、忍耐と信仰をもって歩む者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 13章◇(12月7日)

「また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。」…黙示録13:16

13章には海からの獣と地からの獣が登場します。海から上ってくる獣には、大きな竜であるサタンと同じように10本の角と7つの頭があり、その頭には神を冒瀆する名がありました。そしてその頭の一つが致命的な傷を負ったにもかかわらず奇蹟的に治ったため、人々は驚嘆してその獣に従い、獣と竜を拝むようになったのです。またこの獣には、神の御名と幕屋、天上の者たちを冒?し、地上の者たちを3年半支配する権威が与えられました。この獣は、サタンの手下の「反キリスト」かもしれません。一方、地からの獣は、子羊の角に似た2本の角を持ち、火を天から降らせるような大きなしるしを行い、海からの獣の像を造るようにと地に住む者たちに命じました。そして、その像がものを言うことさえできるようにし、その像を拝まない者たちをみな殺すようにしたのです。主イエスは弟子たちに、終わりの日が近づくと、偽キリストや偽預言者たちが現れて、大きなしるしや不思議を行い、人々を惑わすと言われましたが(マタ24:24)、地からの獣は、そのような者たちのことなのかもしれません。さらに地からの獣は、すべての人の右の手か額に、獣の名、またはその名が表わす数字である「666」の刻印を受けさせ、それがないと物を売り買いできないようにしたのです。そうなると買い物がいっさいできないため、普通に暮らすことができません。そのようにして地からの獣は、人々を自分の支配下に置こうとしたのです。その「666」の数字は人間を表わしているとあります(18節)。サタンの願いは自分が神になることであり、そのために手下を使い、人々が自分を拝むように仕向けるのです。そしてそれは巧妙な手口で知らぬ間に進んでいくのです。聖徒である私たちには、聖霊によって証印が押されており、666の刻印の支配は受けませんが(エペ4:30)、そのようなサタンの悪だくみを見抜く者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 12章(12月6日)

「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに 竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも 自分のいのちを惜しまなかった。」…黙示録12:11

次にヨハネが見た幻では、一人の女の人が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に12の星の冠をかぶっており、身ごもっている彼女は、子を産む痛みと苦しみのゆえに、叫び声をあげていました。するとそこに、7つの頭と10本の角を持ち、その頭に王冠をかぶっている赤い大きな竜が現れ、天の星の3分の1を地に投げ落としました。また、その女の人から産まれてくる子を食べてしまおうとして、彼女の前に立って待ち構えていたのです。彼女は男の子を産みました。「この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた」と5節にあります。その男の子とはメシア、イエス・キリストであり、その子を産んだ女の人とはイスラエルのことです。その子は御座におられる神のみもとに引き上げられ、一方、彼女は、荒野にある、神に備えられた場所に逃げ、そこで1260日間、守られ、養うようにされたのです。その後、天に戦いが起こりました。その大きな竜、すなわち、神に敵対し、全世界を惑わす者であるサタンには手下どもがおり、彼らは、御使いらによる神の軍勢と戦いましたが勝つことができず、天に居場所がなくなって追放され、地上に投げ落とされることとなったのです。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである」(10節)。その時ヨハネは、天において大きな声が、そのように言うのを聞きました。そしてさらに、兄弟たち、すなわち、殉教した者を含むすべての聖徒は、子羊の血と自分たちの証しのことばのゆえに、竜である悪魔に打ち勝った、という勝利宣言を耳にしたのです。そのように主を証しし、主の御名と血潮にある力を宣言するならば、私たちは、背後にサタンが働くさまざまな霊的な戦いにおいて、勝利することができるのです。恐れず、キリストにあって勇敢に戦う者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 11章◇(12月5日)

「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。」…黙示録11:17

3節に「二人の証人」が登場します。彼らは粗布をまとい、1260日(1年を360日とした3年半)の間預言する者であり、主の御前に立っている二本のオリーブの木、二つの燭台であるとも書かれています。この二人は、雨が降らないようにする権威や、水を血に変える権威を持っており、それらがエリヤやモーセを想起させることから、その二人のことなのだとする見解があります。しかし、この書の1章20節によれば、燭台は教会のことであって、ここでも、その二人は教会である、と理解することができます。その二人は、キリストが救い主であると証しし、神のさばきが来ることを警告すべく、神に用いられる存在です。二人は、証言を終えると、底知れぬ所から上ってくる獣によって殺されてしまいますが、神からのいのちの息が吹き入れられて生き返り、世の人々はそれを見て、大きな恐怖に襲われたのです。その後、二人は天に上げられ、一方、地上では大地震が起こって7千人が死に、生き残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰したのです。ヨハネがそのような幻を見せられた後、第7の御使いがラッパを吹き鳴らしましたが、起こったことはわざわいではなく、天からの大きな声による宣言と、24人の長老たちによる神への礼拝でした。その声はこう言いました。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される」(15節)。また、長老たちも、「あなたは偉大な力を働かせて、王となられました」と言って、王の王、主の主であるキリストをあがめ、その統治が完全なものであり、やがて聖徒たち、御名を畏れる者たちに報いが与えられ、悪しき者たちが滅ぼされる時が来ることを、主の前に告白したのです。聖徒たち、教会は、いつの時代にあっても、霊的な戦いの中でもがき苦しみますが、キリストがともにおられ、守り、支え、勝利をもたらされるのです。その主にますます信頼し、みわざを待ち望む者でありたいと思います。

希望をもって歩み続けることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 10章◇(12月3日)

「そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」…黙示録10:10

「もう一人の強い御使い」が天から下って来ました。彼は、太陽のような顔と火の柱のような足を持ち、開かれた小さな巻物を手に持っていました。そして、その御使いが右足を海の上、左足を地の上に置き、獅子が吼えるように大声で叫ぶと、7つの雷が声を発して語ったのです。ヨハネはその内容を書き留めようとしましたが、それを禁じられました。その後、御使いは右手を天に上げ、神にかけて誓いましたが、それは、時は残されておらず、第7のラッパが吹き鳴らされると、神の奥義、主が定められた計画は預言どおりに実現する、そのようにして、終わりの日がいよいよ近づくという宣告であったのです。さらにヨハネは、天からの声によって、その御使いの手にある開かれた巻物を受け取るよう命じられました。そして彼がそれに従うと、御使いは、それを取って食べよ、それは、あなたの口には蜜のように甘いが、腹には苦いと言い、ヨハネが食べると実際そうであったのです。その巻物とはつまり、神の教え、使信が書かれた書です。それは蜜のように甘いと、エゼキエルも言っています(エゼ3:3)。しかし、ヨハネにとってはその甘さとともに、腹に感じる苦さもあったのです。そしてそれは、神の恵みに満ちたことば、祝福の約束のことばがそこに書かれているだけでなく、終わりの日になされる神のさばきの使信も含まれており、それをヨハネが、歓迎されない中、迫害を受ける中、人々に対して率直に語る使命が、主から与えられているということを示唆しているのです。黙示録22章18-19節には、この預言の書のことばに何かをつけ加えたり、逆に何かを取り除くならば、その者は神から厳しい扱いを受けるとあります。終わりの日のさばきを伝えるのは私たちにも「苦い」ことですが、ともに永遠に生きる者とされることを願い、愛と知恵をもって、人々に神の使信を正しく伝える者でありたいと思います。

主の導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 9章12-21節◇(12月2日)

「これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。」…黙示録9:20

第6の御使いがラッパを吹くと、神の御前にある金の祭壇の四隅の角から声が出て、4人の御使いを解き放つよう命じました。その4人の御使いは、勝手に行動できないように留め置かれていましたが、神が定められた時となり、解放され、そこから出て行ったのです。その目的は、地上にいる人類の3分の1のいのちを奪うことでした。その実行にあたったのは、4人の御使いの指揮下にある、2億という途方もない数の騎兵と彼らが乗った馬でした。その馬の頭は獅子の頭のようであり、その口からは火と煙と硫黄が出ており、またその尾は蛇のような頭を持ち、それが人類に害を与えた結果、3分の1が殺されたのです。そのようにして、人類の3分の2は生き残りました。しかし、災害によって殺されなかったその残りの者たちは、そのような恐ろしい体験をしてもなお、自分たちのあり方を悔い改めず、偶像を拝み続け、殺人、魔術、淫らな行いをやめようとはしなかったのです。第6のラッパが吹かれて初めて、人間が直接殺されるという災害が神によって許されて起こりましたが、終末に向ってさばきの度合いが増すと、悪しき者たちの罪深さも増すのです。彼らの心はますます頑なになっていくのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタ3:2,4:17)。それはバプテスマのヨハネが人々に語った教え、主イエスが宣教を開始したときの最初のメッセージです。すべての人は、罪の性質を持って生まれたゆえに、罪と無縁ではあり得ません。しかし、キリストにあって、罪赦され、義と認められ、御霊の助けのうちに神のみこころを行う者とされるのです。そして主は、聖徒とされた私たちに対しても、何度でも悔い改め、神に立ち返り、主の道をまっすぐ歩むようにと願っておられるのです。柔らかい心で主に従い続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 9章1-11節◇(12月1日)

「その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。」…黙示録9:5

第5の御使いがラッパを吹くと、一つの星が天から地に落ちました。そしてその星が、与えられた鍵を使って底知れぬ所に通じる穴を開くと、空が覆われて太陽が暗くなるほどの煙が立ち上り、その中からいなごが出て来たのです。エジプトへのわざわいが思い起こされますが(出10:5)、そのいなごは草木を食い尽くしませんでした。また、いなごにはサソリのような尾と針があり、それによって人を刺して苦しめる力が与えられていました。ただしそれは、額に神の印を押されていない者たちに対してのみ有効であって、かつ、それで彼らを死に至らせることはできず、5ヶ月間苦しめることが許されたのです。「その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く」(6節)。サソリに刺されて生じる苦痛があまりにもひどく、それがずっと続くことに耐えきれず、死にたいと切に願っても、そうすることはできないのです。額に神の印を持たない者たち、すなわち、神に背き、キリストの救いを拒み、あくまでも自分の思いを押し通して生きようとする者たちは、そのようなさばきに遭うのです。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」(エペ1:13)。私たちは、福音を聞き、それを信じて救われ、約束の聖霊によって証印を押された者たちです。印とは契約の履行の意思表示であり、保証となるものであり、また、これは自分のものだと、所有を表わすものです。私たちは、イエス・キリストを自分の主として告白して救いを受けましたが、聖霊によるのでなければ、だれもそう言うことはできないのであって(1コリ12:3)、その証印とは、聖霊の働きにより内側に起こったことの現れとしてのものなのです。私たちにそのような神の印が押されていることを、しっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。