◇聖書箇所:詩篇 116,117篇◇(3月31日)

「主が私に耳を傾けてくださるので 私は生きているかぎり主を呼び求める。」…詩篇116:2

詩人は苦しみと悲しみの中にありました。よみの恐怖に襲われていました。詩人に敵対する者によって、いのちを脅かされていたのかもしれません。あるいは重い病の中にあって、生きる望みを失いかけていたのかもしれません。ヨブが受けた苦難が思い起こされます。そのただ中で、詩人は主の御名を呼び求めました。「主よ どうか私のいのちを助け出してください」(4節)と。すると主は、その声を聞かれ、御手を動かして、詩人のたましいを死から救い出してくださったのです。涙に暮れていた詩人はその悲しみから解放され、神なんかいない…とする、信仰のつまずきから守られたのです(8節)。「主は情け深く 正しい。まことに 私たちの神はあわれみ深い」(5節)。主に救われ、助け出された詩人は、そう告白しています。そのように主は、人々がどのような苦難の中にあっても、主を呼び求めるならば、確かにその声に耳を傾け、愛とあわれみをもってそこから救い出してくださるのです。押し潰され、干からびたようになっていたその心とたましいには、主によって、全き平安が取り戻されるのです(7節)。「主が私に良くしてくださったすべてに対し 私は主に何と応えたらよいのでしょう」(12節)。主に助けられ、救い出された詩人は、そのように主に尋ねました。そして、「救いの杯を掲げ」、「感謝のいけにえを献げ」、「主の御名を呼び求める」ようにと示され、そう告白したのです(13,17節)。それはすなわち、自分がいかにして苦しみと悲しみの中から救い出され、死の恐怖から解放されたのかという証しであり、それを感謝と喜びをもって人々に語り、主の御名をあがめ、主は私に良くしてくださったと言って、栄光を主に帰すことなのです。私たちもまた、それぞれ、苦しみの中から救い出されたこと、罪の奴隷のかせから解かれたことを人々に証しし、「主は私に良くしてくださった」と栄光を主に帰して、愛とあわれみに満ちた主に応えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 115篇◇(3月30日)

「あなたがたが祝福されるように。 天と地を造られた方 主によって。」…詩篇115:15

「ただあなたの御名に 栄光を帰してください」。そのような願いを真っ先に主に祈っている詩人は、多くの者が自らの力と知恵を誇り、人々もそれらの者を称賛し、また、人の手による偶像を慕い、それに仕えていることが耐えられない思いであったのです。なぜなら主だけが、天地を造られ、すべてを支配し、恵みとまことに満ち、人を祝福することができるお方だからです。多くの国々の者たちは、目に見えないイスラエルの神を、「いったいどこにいるのか」と言って嘲ります。その彼らは、金銀でできた自分たちの神を誇り、それに拠り頼みます。しかしそれらは、たとえ立派に見えても、見えず、聞けず、歩けず、話せないただの物であり(4-7節)、それにひれ伏すのは、実に愚かで罪深いことなのです。しかしイスラエルの神は、確かにご自身の民とともにおられ、ご自身の望むところをことごとくなされるのです。詩人は、イスラエルの民に向い、その主をいよいよ畏れ、主に信頼せよ、と命じています(9-11節)。そして主は、そのような者を心に留め、立場や貧富に関係なく、盾となって敵の手から守り、助け、祝福してくださるのです。そしてその祝福は子孫にまで及んでいくのです(14節)。「死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者たちも」(17節)。主を認めず、主に信頼せず、その御声に聞き従おうとしない者、そして、自分の悟りとがんばりによって歩もうとする者は、主が与えてくださる永遠のいのちにあずかることができず、永遠の滅びに至るのです。死に至ったあとから、主に立ち返ることはできないのです。そして結局、そのような者の口から主への賛美が生まれることはないのです。しかし、主を信じる私たちはそうではありません。絶えず、今からとこしえまで、恵みとまことに満ちた主をほめたたえるのです。主に信頼して歩み、豊かな祝福にあずかり、主にすべての栄光を帰す者とされるのです。そのような歩みが主に備えられていることを、感謝したいと思います。

あらゆるときに主に信頼する者とされますように。

◇聖書箇所:詩篇 114篇◇(3月29日)

「イスラエルがエジプトから ヤコブの家が ことばの異なる民のうちから出て来たとき ユダは神の聖所となり イスラエルは神の領地となった。」…詩篇114:1-2

短い詩篇です。並行法が多用されています。イスラエルの民は、単にエジプトという場所から出て来たというのではなく、「ことばの異なる民」のうちから、異国の地で奴隷としてて虐げられていた中から、主によって助け出されたのであって、そのことが暗示されています。2節の「ユダは神の聖所となり」とは、神がご自身の民とともにおられ、大いなる御力とみわざを現わしてくださるということです。また「イスラエルは神の領地となった」とは、敵が神の所有の民に近づき、荒らしたり奪おうとしたりしても、神が排除されるということです。「海は見て逃げ去り ヨルダン川は引き返した」(3節)。それは、イスラエルの民がエジプト軍に追われたとき、目の前の海が分かれて乾いた地が現れ、民がそこを通って逃げたこと(出14:22)、また、ヨシュアと民が、ヨルダン川を渡って約束の地に向おうとしたとき、その川の水がせきとめられたことを指しています(ヨシ3:16)。「山々は雄羊のように 丘は子羊のように跳ね回った」(4節)。それは、神がなされるそのようなみわざを見て、山や丘、すなわち神の領地とされたイスラエルの民が喜び踊るということの、比喩的表現だと捉えることができます。あるいは、山や丘に住む異邦人たちが、イスラエルの神の前に恐れをなし、慌てふためくさまを表わしているのかもしれません。主はそのように、ご自身の民とともにあり、さまざまな試練と困難の中にあって、大いなる御力とみわざを現わし、道を開き、敵の手から守り、硬い岩から泉をあふれさせ(8節)、民を喜び踊らせてくださるお方なのです。私たちがキリストに贖われ、霊的な神の民とされ、そのような祝福にあずかっていることを覚えて、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

恐れずに進むことができますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 14章◇(3月28日)

「主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」…ゼカリヤ14:9

ゼカリヤ書の最後の章です。「見よ、主の日が来る」ということばで書き始められているその日とは、主が、ご自分の所有とされた聖徒たちとともに来られる日であり(5節)、それは、患難の時代の後にキリストが再びこの地上に来られる、再臨の日のことを指しているのです。また、その前には、エルサレムを攻めて神の民を滅ぼそうとする、諸国からの者たちが起こす戦いがあることが告げられていますが(2節)、それを許されたのは神であり、その試練を通して主は、民の霊の目を開かせ、彼らが、メシアを信じなかった罪を悔い改め、ご自身に立ち返るようにされるのです。そして主は、その苦難の中でも民を守り、その戦いに介入してくださるのです(3節)。「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」(4節)。主イエスは弟子たちの目の前で天に上げられましたが、御使いは、その主が、同じ有様で再び来られると、オリーブ山で告げました(使1:11-12)。「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る」(8節)。13章1節には「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とありますが、そのいのちの水は、エルサレムから流れ出てすべての国々に至り、地の果てにまでおよぶのです。そしてそれは、キリストがもたらされる、救いであり、永遠のいのちであり、癒しと解放と喜びなのです。「主は地のすべてを治める王となられる」。キリストは、必ず、この地上に再び来られます。そして、悪と闇を支配するサタンとの戦いに勝利し、神の国を完成し、王の王、主の主として、いっさいを完全に統べ治められるようになります。すべての民は、唯一の神である主の御名をあがめ、礼拝するようになるのです。その預言がいつ成就するかは誰にもわかりませんが、再臨の主を、御国の完成を、信仰をもって待ち望み続けたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 12章◇(3月26日)

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」…ゼカリヤ12:10

主は、エルサレムを、周辺国の民をよろめかせる「杯」、また「重い石」とすると語られ、敵がエルサレムの町を襲おうと向って来ても、進軍する馬を打って盲目にする、と告げられました。さらに主は、ユダの首長たちを火鉢やたいまつのようにするため、周りの異邦の民は焼き尽くされると言われました。そのようにして、主ご自身によって、神の都エルサレムは周囲の敵から守られ、その住民はかくまわれ、エルサレムに攻め上ろうとするすべての国々は根絶やしにされてしまうのです(2-9節)。その後、主は、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐと語られました。彼らは自分たちが突き刺した者のために嘆き、激しく泣くようになるのです。そしてその突き刺した者とは「わたし」だと主は言われたのです。それはつまり、後の日に、自分たちが殺した者が、実は神であったことを知り、彼らがその罪の大きさに打ちのめされ、嘆き悲しむということです。主の弟子のヨハネは、主イエスの十字架の死を福音書に記す中で、この10節のみことばを引用しています(ヨハ19:37)。そのことばはまだ完全には実現していませんが、やがてイスラエルの民が、メシアであるイエス・キリストを拒んで殺したことを悔い改めるようになるということの、終末的な預言なのです。イエスがのろわれた者として十字架にかかってくださったのは、ユダの民のためだけではありません。それは、すべての国のすべての人々のため、私たちのためであり、あらゆる罪と咎を赦し、その中から贖い出すためであったのです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」(イザ45:22)。十字架の主を日々仰ぎ見、嘆きと悲しみではなく、感謝と喜びをもって歩む者でありたいと願います。

主の平安で心が満たされますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 11章◇(3月25日)

「私は彼らに言った。『あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。』すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。」…ゼカリヤ11:12

イスラエルの周辺諸国には立派な森があり、バシャンには見事な樫の木が生え、レバノンの杉の木はソロモンによる神殿建設の材料として用いられました。しかしそれらの木々は、主が送られる火で焼き尽くされ、牧者たちはそのことを嘆くのです。そしてそれは、悪い牧者たちの繁栄がなくなることの預言的な描写なのです(1-3節)。4~17節にはさらに、その偽りの牧者について記されています。その者たちは、羊を愛さず、あわれまず、どうなってもかまわないのです。その牧者とは、イスラエルとユダの歴代の悪王たちを指しており、彼らは自分自身の名声と繁栄を求めるだけで、結局、国も民も自分も、アッシリアやバビロンによって奪われてしまったのです。主は、ゼカリヤ自身が牧者となるよう命じられました。それは、後に来られるメシア、イエス・キリストの予型です。しかし多くの者たちは、そのメシアを自分たちの牧者として認めず、受け入れず、その御声に聞き従おうとはしなかったのです。主イエスの弟子の一人であったユダは、銀30シェケルで主を祭司長たちに売り渡しましたが(マタ26:15)、12節のことばはそのことの預言です。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(ヨハ10:11)。真の牧者なるイエス・キリストは、すべての人を罪の中から救い出すために十字架にかかられ、いのちを捨て、死からよみがえり、その贖いを成し遂げてくださいました。私たちは、その良い牧者に守られ、養われ、導かれている羊であって、悪い羊飼いのところの羊のように、見捨てられることはないのです。そして、その良い羊飼いは今も、さまよっている羊たち、弱り果てて倒れそうになっている羊たちをあわれみ(マタ9:36)、ご自身の囲いの中に入れてくださっているのです。主のものとされた羊として、主が導かれる義の道を(詩23:3)、歩み続けていきたいと思います。

主の御声を聴き分けることができますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 10章◇(3月24日)

「わたしは合図をして彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数を増す。」…ゼカリヤ10:8

天地を造り、人を造られた主は、いつくしみ深く、恵み深く、雨を与え、すべての人を生かしておられるお方です。しかし、主のことばに聞き従わず、人の偽りのことばや空しい慰めに心を向けるなら、人々は羊飼いのいない羊のように弱り果て、苦しむことになるのです(1-2節)。人々を惑わすそのような者たちを主は罰し、真の指導者を立て、その指揮の下に戦場に出て行き、勇敢に戦う兵士たちを起こされます。そして主が彼らとともにおられるので、彼らは敵を打ち破り、勝利を得るのです(3-5節)。「わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる…」(6節)。神の民は諸国に散らされますが、民が遠く離れた異国の地で主を慕い求め、主が彼らをあわれみ、そこから連れ戻してくださるので、彼らは子孫とともに、イスラエルの地に帰還するようになるのです(9節)。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申31:8)。主は、ご自身の民とともにおられます。主は民を決して見放さず、見捨てられないのです。パウロもこう言っています。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(2コリ4:8-9)。たとえ自分の思いとは異なる状況に置かれても、主はご自身の定められた時と方法に従って、私たちを助け出してくださるのです。良き羊飼いなる主イエスがおられるので、私たちは、その主にあって守られ、力づけられ、導かれて歩み続けるのです(12節)。さまよい、苦しむことはないのです。そのことをしかと覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 9章◇(3月23日)

「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。…」…ゼカリヤ9:9

本書の9~11章には、イスラエル(ユダ)の近隣諸国に対する神のさばきが記されています。それは、10章までのゼルバベルの時代の神殿再建の後に起こることです。9章では、エルサレムに来られる王の存在が預言されており、「娘シオンよ、大いに喜べ…」と、それがいかに、大いなること、待ちわびていたことかが強調されています。その王は「義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って」来られる方であり、「諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」のです(9-10節)。それは油注がれた方、メシアのことです。主イエスは、十字架の苦しみを受けるべく、エルサレムの町に入って行かれる際、弟子たちに命じて子ろばを連れて来させ、それに乗って進まれました。マタイはそのことを記す中で、ゼカリヤのことばを引用し、それは預言が成就するためであった、と告げています(マタ21:4)。当時、王が乗るのは馬であって、ろばに乗るのは極めて異例のことでした。しかし、平和の君であり、柔和でへりくだったお方であり、地上的な武力によってではなく、神の権威と御霊の力によって悪しき者に勝利し、すべてのものを統べ治め、ご自身に従わせられるメシアにとって、馬ではなくろばに乗るのがふさわしかったのです。「その日、彼らの神、主は、彼らをご自分の民の群れとして救われる。…」(16節)。ゼカリヤを通して語られた、メシアの来臨の預言は、来たるべき主の再臨の約束のことばでもあります。主は、散らされたユダヤ人たちを捕われから解放し、イスラエルに帰還させ、キリストによる救いにあずからせ、異邦人の聖徒である私たちと一つにし、終わりの日に、天の御国へと引き上げてくださるのです。その約束が私たちにすでに与えられていることを感謝しつつ、さらにそこに多くの残りの者が加えられるよう、とりなし祈る者でありたいと思います。

信仰をもって主を待ち望むことができますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 8章◇(3月22日)

「ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」…ゼカリヤ8:13

8章には、前の7章とは対照的に、主がエルサレムを回復し、民を祝福し、異邦人たちが万軍の主を尋ね求めるようになるという、約束のことばが書かれています。それは、主の民にとって、わざわいから幸い、悲しみから喜び、のろいから祝福への180度の転換にほかなりません。その祝福の具体的な描写がなされています。かつては敵を恐れ、平安と希望を失っていた民の歩みに、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地が産物を生み出し、天から露が滴り恵みとなるのです(12節)。そしてそれは、かつては民の先祖たちの背きに怒られ、わざわいを下すと決断された主が、打って変わって、ユダの家に幸いをもたらそうと堅く決意されるゆえであり、そこにはご自身の民に対する主の愛とあわれみが満ちているのです。そのような、主の民に対する好意に満ちたみ思い、すなわち主に愛され、受け入れられ、赦されているという事実こそが、何よりも民にとって、感謝と喜びと平安の源泉なのです。主は「恐れるな」と繰り返し語っておられますが(13,15節)、「全き愛は恐れを締め出します」とあるとおり(1ヨハ4:18)、どのような困難な状況でも、人からどんなに非難されても、私たちは、変わらない愛で愛してくださっている主の御手の中で、まなざしの下で、心安らかにされて歩み続けることができるのです。「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから」(23節)。多くの異邦人がそのように神の民に言うようになるのです。私たちもあなたの神の救いと祝福にあずかりたい…と、人々が万軍の主を尋ね求め、主の御顔を慕い求めるようになるのです。そのすばらしい預言は、主にあって必ず実現します。そして主は、そのために、聖徒とされた私たち一人ひとりを、教会を祝福し、油注いで用いてくださるのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かに満ちあふれますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 7章◇(3月21日)

「ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。」…ゼカリヤ7:11

ベテルの地から数人の者たちが、主のみこころを尋ね求めるべく、祭司や預言者たちのところに遣わされ、これまでのように第5の月にも断食をして泣かなければならないのか…と尋ねました。彼らは、断食をして嘆くことはもはや無意味だと考えていたのです。すると主は、ゼカリヤを通してすべての民に対し、これまで行ってきた断食は、わたしのためではなく、実は自分たちのためではなかったのか…と指摘をされました。断食、それは、食を断ち、その時間を主との交わりに充て、主の御声を聴き、罪を悔い改め、主を待ち望むときです。しかし、彼らの断食の目的は、自分たちの願いを聞き入れてもらうことであって、かつそれは、真実に主を求める心が伴わない、形式的なものだったのです。さらに主はゼカリヤに対し、民が、ご自身を畏れようとせず、誠意とあわれみを互いに示さず、むしろ悪を企み、やもめやみなしごたちを虐げていると指摘しました。そして、彼らが、心を石のようにかたくなにしてみ教えに聞き従わないゆえに、怒りをもってさばくと告げられました。「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない…」。自己中心で身勝手な民に対し、主はそのように言われたのです(13節)。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サム15:22)。主は、単なる儀式としての「宗教行為」を嫌われるのです。そのような形式的ないけにえは要らない、それよりも、わたしに聞き従ってほしいのだ…と主は言われるのです。私たちの信仰の歩みが表面的なものになっていないか…。主の御声を聴き、主のみこころを知り、それに従順に従う者となっているか…。自らの願望の実現、利益を求めるために、主を利用するようなことになっていないか…。時に日常の歩みから退き、立ち止まって、そのように自己吟味する者でありたいと思います。

静まるときが与えられますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 5章◇(3月19日)

「すると彼は私に言った。『これは全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はみな、一方の面に照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はみな、もう一方の面に照らし合わせて取り除かれる。』」…ゼカリヤ5:3

ゼカリヤは飛んでいる巻物を見ました。それは長さが約9m、幅がその半分もある巨大なものでした。御使いは彼に、それが全地の面に出て行くのろいであり、盗む者や偽って誓う者が絶ち滅ぼされるために、主から送り出されたものであることを告げました。ゼカリヤが次に見たのは「エパ升」でした。それは1エパ(=23リットル)を計量する升であり、鉛のふたがかぶせられていましたが、それが持ち上げられると、中に一人の女が座っているのが見えました。すると御使いは「これは邪悪そのものだ」と言い、その女を閉じ込めるべく、開けた鉛のふたを閉め、上に鉛の重しを置いたのです。さらにゼカリヤは、翼を持った二人の女がそのエパ升を持ち上げ、持ち去ろうとしているのを見ました。そこでその意図を御使いに尋ねると、御使いは、彼女たちは、エパ升の中の女のためにシンアルの地に神殿を建て、そこの台の上に升を置こうとしているのだと答えたのです。その幻の中の巻物とは、神の教えが書かれた律法の書であり、それに照らして違反している者たちは神のさばきを受け、取り除かれるということを示しています。また、エパ升の中の女は罪悪を象徴しており、神の恵みとあわれみによって、それが民の中から取り除かれることを表わしています。シンアルの地とはバビロンの地方のことで、そこに建てられる悪の神殿へ持ち運ばれ、最終的に神のさばきを受けることになるのであり、翼を持ち、エパ升を運ぶ二人の女は、神に遣わされる御使いなのです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハ1:29)。律法を成就されたキリストは、私たちを取り除かず、ご自身の贖いによって、私たちの罪を取り除いてくださいました。そして再び主は来られ、最終的なさばきをなされるのです。しっかり備えてその日を迎えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 4章◇(3月18日)

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」…ゼカリヤ4:6

ゼカリヤはさらに別の幻を見せられました。彼が見た金の燭台には7つのともしび皿があり、それらは一つの台座から伸びる7本の管の上に付いていました。その燭台はメノーラーと呼ばれ、幕屋や神殿において用いられるものです。またその燭台の左右には2本のオリーブの木がありました。ゼカリヤが主にその意味を尋ねると、御使いはその問いには直接答えず、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と主はゼルバベルに告げておられると彼に語り、また、大いなる山もゼルベベルの前で平らにされると語りました。そのゼルバベルとは、エルサレム神殿の再建のため、大祭司ヨシュアとともに民を励まし導いた指導者であり、ダビデの直系の子孫、すなわち、イエス・キリストの先祖にあたる人物です(マタ1:12)。その後、ゼカリヤが再び、燭台の左右の2本のオリーブの木が何かを尋ねると、それは全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だと、御使いは答えました(14節)。その二人とは、神殿再建のために主が立てて用いられた大祭司ヨシュアとダビデ王の直系のゼルバベルであり、その油注がれた二人は、メシアであるイエス・キリストにおいて一つとされるのです。そして、闇を照らす光を放つ燭台は、神殿であり、神の民であり、新約の時代における教会、聖徒たち一人ひとりであるのです。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」。そのことばの意味は、単に、人が何かをなすときに、自らの力ではなく御霊の力に拠り頼め、という勧めではなく、イスラエルの回復と神の国の完成が、人間的な力によらずに、神の霊によってなされるという終末的な預言です。そしてそのために、教会が、聖徒たちが、世の光として用いられ、ともにおられるキリストが、その働きを助け、導き、励ましてくださっているのです。主にあって光を放ち続ける者でありたいと思います(イザ60:1)。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 3章◇(3月17日)

「御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。『彼の汚れた服を脱がせよ。』そしてヨシュアに言った。『見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」…ゼカリヤ3:4

3章には、ゼカリヤが見せられた別の幻が書かれています。主はゼカリヤに、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを見せられましたが、彼の右には彼を訴えようとしているサタンが立っていました。しかし、主はサタンに対し、ヨシュアは「火から取り出した燃えさし」だと言われ、また主の使いは、ヨシュアの汚れた服を脱がせるよう、自分の前に立っている者たちに命じたのです。さらに御使いはヨシュアに、「あなたの咎を除いた」と告げ、またゼカリヤは、ヨシュアの頭にきよいターバンをかぶらせるよう進言しました。すると、御使いの前に立っていた者たちは、それらの指示に従い、ヨシュアに礼服を着せ、きよいターバンをかぶらせたのです。7~10節には、その後、主の使いを通してヨシュアに語られた主のことばが記されています。大祭司とは、民の代表として、主の前に出て礼拝をささげ、民の罪の赦しをとりなして願う存在であり、ゼカリヤが見た大祭司ヨシュアとは、人類の祝福の基となるべき、神が選ばれたご自身の民を表わしています。彼らが主の道からそれずに歩み、主の教えと戒めを守るなら、彼らは主に委ねられた地、領域の良き管理者として用いられ、そこは、主の栄光と祝福が満ちあふれるところとされるのです。「見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる」(8節)。「若枝」とは、いのちの象徴であり、メシアとして来られるイエス・キリストを指しています(イザ11:1)。そのキリストの贖いによって、地の咎が取り除かれ、人々の罪は赦されるのです。そしてそれは、ヨシュアが着ていた汚れた服が脱がされ、礼服が着せられ、頭にきよいターバンがかぶらされたという光景に表わされているのです。私たちがキリストにあって罪と咎が赦され、やがて白い衣を着せられて主の御前に立つ者とされていることを覚え(黙3:5)、主に感謝をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 2章◇(3月16日)

「その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。…」…ゼカリヤ2:11

ゼカリヤは、御使いが測り綱を持って、エルサレムの大きさを測りに行こうとしている幻を見せられました。当時、エルサレムの神殿の城壁は破壊されていましたが、主ご自身が、町を取り巻く火の城壁となられ、そのただ中で栄光となる、そこに人と家畜があふれるようになると、主は別の御使いを通してゼカリヤに語られたのです。「さあ、すぐに、北の国から逃げよ」(6節)。北の国とはバビロンのことです。そこからすでに帰還した人々がいた一方、そこに残っていた者たちもおり、主は彼らをせき立てておられます。バビロンは神にとって、ご自分の大切な瞳に触れる者であって、神は、彼らに拳を振り上げて報復し、ご自身の民を奪還して連れ戻されるのです。「娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」(10節)。そのように、主は、民のエルサレム帰還後の祝福を示唆しておられます。神殿と城壁の再建には時間を要しますが、そこに臨在される主が、民を楽しみ喜ばせてくださるのです。神の民にとって何より必要なのは、目に見える神殿や城壁ではなく、いつもともにおられる神の守りに信頼する信仰なのです。さらに主は、ユダの民だけでなく、多くの国々が主に連なるようになること、またその中にあって、選ばれた者たちのただ中に住まわれ、ご自身の臨在と栄光を現わしてくださるということを、ゼカリヤに語られました。それは将来起こることの預言であり、そのみわざは今すでに現れているのです。そして主が、「あなたのただ中に住む」と言われたその「あなた」には、肉のアブラハムの子孫のみならず、霊的な神の民、すなわち、キリストによって贖われ、信仰によるアブラハムの子孫とされた私たちも加えられているのです。御国の福音はすべての民族に証しされ、それから終わりが来ると主は言われましたが(マタ24:14)、主に連なるべき残りの人々に、先に救われた者として、主のみわざを証しし、福音を伝えていきたいと思います。

主にあって楽しみ喜ぶことができますように。

◇聖書箇所:ゼカリヤ書 1章◇(3月15日)

「それゆえ、主はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。-万軍の主のことば-測り縄がエルサレムの上に張られる。』」…ゼカリヤ1:16

ゼカリヤは、ペルシャの王ダレイオスの治世の第2年、ハガイとほぼ同じ時期に活動を開始した預言者です。彼は、バビロンによって滅ぼされ、捕囚となっていたユダの民がエルサレムに帰還した後、破壊された神殿の再建を完成させるために、主から受けたことばを語って、民を戒め、励まし、動機付けを与えようとしたのです。彼は、「わたしに帰れ。…そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」という主のことばを聞きました。また、主は彼に、「あなたがたの先祖のようであってはならない」とも言われましたが、それは、先祖たちが、悪の道、特に、神が忌み嫌われる偶像礼拝の道に進み、バアルにひざをかがめて仕えていたからでり、彼らは、そこから立ち返れと、預言者を通して語られた主のことばに耳を傾けようとせず、神の怒りを引き起こしていたからです。7~17節に記されているのは、ゼカリヤが主から見せられた第1の幻です。「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される」と、御使いを通して主は語られました。主はエルサレムをねたむほどに愛しておられました(14節)。シオンが荒れ果て、宮が壊されたままになっている状況は、主に大きな痛みと悲しみをもたらしていたのです。宮の再建は、民以上に、主ご自身の切なる願いであったのです。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(1コリ3:16)。神の宮である私たちも、悪しき者によって攻められ、壊され、荒れ果てていた者でした。しかし、あわれみに満ちた主は、御子の贖いによって私たちを罪から救い出し、宮を再建し、御霊が住まわれ、ご自身の臨在と栄光が現わされるところとしてくださっているのです。その主に、ねたむほどに愛されていることを覚えつつ、御霊の働きの現れをますます待ち望みたいと思います。

感謝と賛美が心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 5章13-20節◇(3月14日)

「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」…ヤコブ5:16

ヤコブは13~18節で、祈りの大切さを強調していますが、その前の文脈では苦難と忍耐について記し、ヨブの試練の結末にも触れつつ、「耐え忍んだ人たちは幸いだ」と言っています。苦難にあっても祈りは天に届き、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主の御手によって、私たちは守られ、助け出され、恵みを受けるのです。その苦しみは、迫害のような試練からくるものもあれば、病気を患うことによるものもあります。ヤコブは、病人ばいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらうよう勧めています(14節)が、その油自体に特別な力があるわけではありません。主が癒してくださることを信じて、その主の御名によって祈るとき、主がそれに答えて、働いてくださるのです。ユダヤ人にとっては、病気の癒しと罪の赦しは別々のことではありませんでした。ヤコブは、信仰による祈りは病んでいる人を救い(回復させ:3版)、その人が罪を犯しているなら、その罪は赦されると言っています(15節)。救い主イエス・キリストは、私たちを病気から、とらわれから、そして罪から解放してくださるお方なのです。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」。「正しい人」とは、品行方正な人ではなく、主を信じ、自らの罪を悔い改め、キリストにあって、神から義と認められた人(「義人」:3版)のことです。人の祈りは、機械的に神に聞かれるわけではありません。神は、ご自身のみこころにかなう者がささげる祈りを喜ばれ、特別なものとして、それに答え、ご自身のみわざと御力を現わしてくださるのです。聖書には、アブラハムやダビデやエリヤなど、信仰の先達たちの祈りが記されています。彼らは時に主にしがみつくようにして、心を注ぎだして祈りました(17-18節)。聖徒とされた私たちもまた、そのように、主に祈り求め続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 4章◇(3月12日)

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」…ヤコブ4:10

この手紙の読者に対してヤコブは、あなたがたの間の争いや戦いはどこから来るのか、その根本原因は何か…と問いかけ、それはあなたがたの心の中にある欲望ではないか…と言っています。つまり、自分が欲するものをどうしても手に入れたいと熱望し、そのためには手段を選ばず、他者と争い、戦い、いのちを奪うことさえする…と、ヤコブは指摘しているのです(1-2節)「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」(3節)。その欲するものを主に願い求めても、それがその人の肉の欲から出ており、自分の快楽のためであると知っておられる主は、それを与えようとはされません。そしてそのように、自分の思いを優先させ、神を第一としない者は、世を愛し、神に敵対する者だとヤコブは言っています(3-4節)。そのように、これが欲しい、あれを手に入れようと考え、計画している者たちは、自らのいのちが神から与えられており、地上での歩みがいつどうなるかは主の御手の中にある、ということを理解していないのです。彼らは、主の主権を認めておらず、常に自分が中心であって、主のみこころを頭ではわかっていても、それを行おうとはしないのです。そしてそれは「罪」なのです(13-17節)。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(6節)。ヤコブは詩篇(138:6)のことばを引用しつつ、神の前にへりくだり、主に従うようにと命じています(7,10節)。私たちの人生の主は自分ではありません。それは、ご自身の尊いいのちをもって贖ってくださったキリストであるのです。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と言っています(ガラ2:20)。主に贖われ、生かされている者として、心を尽くして主を愛し、主にすべてを明け渡し、ますますへりくだって、主のみこころを行う者でありたいと思います。

主だけを誇りとすることができますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 3章◇(3月11日)

「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」…ヤコブ3:9-10

1~12節でヤコブは、からだの中の「舌」という小さな器官が人の存在全体に大きな影響を及ぼすことを示し、その舌を制御することの大切さを強調しています。そして、馬が口にくつわをはめられて従順に人に従うことや、船が強風を受けていても舵の操作によって目指す方向に進めるということを、たとえとして述べています。しかしながら、舌は不義の世界のもの、すなわち人の罪の性質が外に表われる器官であり、しばしば人は、自らを誇り、大言壮語し、他者をののしり、それらによって、小さな火が森を燃やすように、罪の汚れが、その人の存在全体にまで及び、一生を台無しにしてしまうようなものであって、自分の力ではだれもその舌を制することはできないのです。「舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています」と、ヤコブは言っています(8節)。人の舌を制御するのは御霊です。2千年前の五旬節の日、弟子たちの上に聖霊が臨まれると、彼らは「御霊が語らせるままに」(使2:4)、いろいろな国のことばで、神の大きなみわざについて語ったのです。すなわち、主を証しし、主をほめたたえ、主に栄光を帰したのです。そしてそれは、サタンの誘惑のことばによって罪に陥り、なおも「この女が私にくれたので私は食べたのです」と言って責任転嫁した(創3:12)アダムの子孫である私たちの舌を、本来意図された舌として神が取り戻してくださったということを意味する、象徴的な出来事であったのです。今も私たちが聖霊に満たされ、舌を制せられるなら、口から出るのは賛美のことばです。その口から呪いのことばが出るなどあり得ないのです。そのことを覚えつつ、ますます主の油注ぎを受け、御霊に舌を完全に制御され、愛に満ちたことば、人を励まし生かすことば、キリストを証しし、ほめたたえ、神に栄光を帰すことばを語る舌としてくださいと、主に祈り求めていきたいと思います。

主の似姿へとさらに造り変えられますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 2章14-26節◇(3月10日)

「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」…ヤコブ2:26

今日の箇所でヤコブは、「信仰と行ない」について述べています。神を信じる者が自分の信仰を言い表すだけで、その信仰に行ないが伴わないとしたら、その信仰は無益で、死んだものだと言っています。それは例えば、衣食に困っている人にやさしいことば掛けをするのみで、実際に必要な物を与えないということなのです(15-16節)。またヤコブは、信仰の父アブラハムが、神に命じられ、息子イサクを縛って祭壇の上で屠ろうとしたことや、遊女ラハブが、エリコを偵察しに来た二人の者を自分の家にかくまい、窓からつり降ろして逃がしたことを挙げ、そこには、神への信仰だけでなく、信仰による行ないが伴ったこと、そのようなあり方が神に喜ばれ、彼らが義と認められたのだと強調しています(21-25節)。その主張に反論する者たちは、信仰がない行動だけの人々をさばき、自分たちの信仰深さを誇っていました。しかしヤコブは、そんな彼らを批判し、あなたがたの行ないのない(空しい)信仰を見せてくれ、私は行ないによる(本物の)信仰を見せよう、と言っているのです(18節)。ヤコブは決して、人が義とされるのは、信仰ではなく行ないによるのだ、と言っているわけではありません。神への信仰と、その信仰が当然もたらす行ないと、どちらも聖徒たちに求められているのだ、と言っているのです。信仰と行ないは、しばしば車の両輪に例えられます。それが両方、バランスよく働くことによって、車は前に進むのです。聖徒たちの信仰と、一人ひとりの手のわざを通して、主のみこころがこの地になされていくのです。私たちの持っている信仰が、日々の行動や生活態度に何の影響も及ぼさないなら、行ないを伴わないものだとしたら、その信仰は、ヤコブの言うとおり、空しいもの、死んだものに過ぎません。自分は今どのような行動が求められているのか…そのことを絶えず主に尋ねて歩む者でありたいと思います。

主の導きと促しがありますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 2章1-13節◇(3月9日)

「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」…ヤコブ2:13

今日の箇所では、人をえこひいきしないようにせよと、命じられています。2~3節には、集会に出席する、身なりが立派な人と貧しい人に対する言動が、露骨に異なる場合が例として書かれていますが、それは、貧富の違いで人を差別するということであって、言うまでもなく、そのような態度は、聖徒としてふさわしくないのです。人は、身分や地位の高い人におもねり、低いと思われる人を見下す傾向を持ち、表面的な見方で他者を判断しがちですが、神は、貧しい者であっても、主を愛する、信仰に富む者とし、約束された御国を受け継がせてくださるのです。一方、富んでいて善良と思える者たちが、聖徒たちを虐げ、辱めることもしばしばあり、物質的な豊かさは、その人の内面を現わしていないのです(5-7節)。神は、何よりもご自身を愛すること(申6:5)、また、隣人を自分自身のように愛することを求め(レビ19:18)、それを律法として民に与えて、主イエスも、その律法を守って生きる大切さを語られました(マル12:28-34)。ヤコブもまたここで、後者の教えを「最高の律法」とし、それを守ることが立派な行ないだと言っています。もし人がえこひいきをするなら、たとえ他の律法を守ったとしても、そのような者は律法の違反者となってしまうのです。キリストは、私たちを罪と律法の束縛から解放し、「自由をもたらす律法」(12節)を与えておられますが、それは、神の真実な愛と深いあわれみに基づく教えであって、聖徒とされた私たちは、終わりの日に、それまでの歩みについての正当なさばきをなされ、みこころにかなう報いを与えられる主を畏れて、キリストにある者としてふさわしく、愛とあわれみをもって語り、行動すべきなのです。日常の歩みにおいて関わる人々に対しての私たちの言動が、果たしてそのようなものであったか…と、自らのあり方を、あらためて吟味したいと思います。

ますます主の似姿へと変えられますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 1章12-27節◇(3月8日)

「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」…ヤコブ1:25

19節以降では、神のことばを聞いて、それを実践することの大切さが強調され、その一例として「怒り」が取り上げられています。私たちは他者の話をろくに聞かず、自分のことを一方的に話し、すぐに怒りを表わす罪深い者ですが、そのような肉的、感情的なあり方ではなく、みことばに支配、制御された歩みをすべきなのです。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」(22節)。みことばは、単なる道徳的な教えではありません。みことばは、聞いて「恵まれた」と言って終わるものでもありません。みことばは、神ご自身であり(ヨハ1:1)、私たちは、それを聞いて受け入れ、神にすべてを明け渡し、主の完全なご支配の中を歩む者となることが求められているのです。「自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです」(26節)。聖書の中で、イエスを主と告白して救われ、キリストに従って歩むその道を、「宗教」と呼んでいる箇所はありません。ヤコブは、「自分は宗教心にあつい」と言っているにもかかわらず、みことばを単に倫理的な指針としてしか理解せず、しかも聞いているのにそれを行わない者たちを批判し、皮肉としてそのように言っているのです。キリストは、私たちを罪と律法ののろいから解放し、自由をもたらすために来られ、十字架と復活の贖いによってそれを成し遂げられ、律法を成就されたお方です。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、それから離れない人、実際に行う人」とは、そのキリストから目を離さずに、しっかりと従ってついて行く者にほかなりません(ヘブ12:2)。自らの肉のがんばりによってではなく、主への全き明け渡しと御霊の助けによって、ますますそのような者とされて歩みたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヤコブの手紙 1章1-11節◇(3月7日)

「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」…ヤコブ1:6

1節にあるように、この手紙の著者は「ヤコブ」という名のユダヤ人キリスト者であり、イエスの兄弟ヤコブであろう、とされています。彼は復活の主に会って信仰を持ち、エルサレム教会の指導者となった人物です(使15:13)。この手紙が書かれた動機は不明ですが、キリスト者の生活や行ないについて実際的な教えが多く書かれており、そこから私たちは、さまざまなことを学べるのです。最初に取り上げられている主題は「試練」です。ヤコブは聖徒たちに対し、試練に会うときには喜びなさい、と命じています(2節)。なぜならそれは、神が与えられる「訓練」であって、そのことを信仰をもって受けとめ、忍耐を働かせてそれに向き合うなら、その中で神に取り扱われ、全き者へと変えられていくからです。「…だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」(5節)。そのようにヤコブは、困難な状況に対処する知恵を必要としている者たちに、その必要を知っておられ、それを満たしてくださる神に、願い求めよと言っています。そしてそこでも、疑わず、神に信頼し、求めるようにとヤコブは命じています。彼にとって「信仰」は、この手紙全体を貫いている重要な主題なのです。信仰とは、神への期待と信頼です。そしてそこには、自分のうちには知恵も力もないと認める、へりくだりがあるのです。自らの弱さ、足りなさに悩む必要はありません。それを恥じることもないのです。ただそれを素直に認め、良いものをくださるお方、恵みとあわれみに満ちておられる神に向って、率直に求めればよいのです。そうすれば神は、喜んで、その人の欠けを補い、必要を満たしてくださいます。それが、神がすべての人に願っておられること、主のみこころなのです。幼子のような心と態度をもって、ますます神に拠り頼み、主を待ち望む者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 33章◇(3月5日)

「幸いなイスラエルよ、だれがあなたのような、主に救われた民であろうか。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。敵はあなたに屈し、あなたは彼らの背を踏みつける。」…申33:29

モーセは死を目前にして、イスラエルの民に祝福のことばを語りました。ヤコブが同じように、自分の息子たちに語ったことが思い起こされます(創49章)。主は、奴隷であったご自身の民をエジプトから連れ出し、荒野の歩みを導き、モーセを通して守り行うべきみおしえを与え、約束の地に導き入れてくださるお方であって、その主が、各部族に対して祝福のことばを与えておられるのです。レビとヨセフには他の部族に比べて多くのことばが語られ、レビ族が果たすべき役割として、主の定めと教えをイスラエルに教えることと、主の御前での礼拝を導くことが言及されています。またヨセフについてはヤコブが語った「祝福」を「賜物」ということばとし、それらが「兄弟たちの中から選り抜かれた者の頭の頂きに臨むように」と、ヤコブの表現がそのまま使われています。26~29節は結びです。「エシュルンよ」と、イスラエルの別の呼び名で呼び掛け、神が民を助けるために絶えず働いておられること、下には主の永遠の腕があることが告げられています。その御腕は力ある腕、主権をもってすべてを支配しておられる腕であり、敵を追い払い、勝利を与え、民を守り、支え、安らかに住まわせてくださる、頼もしい御腕なのです(詩44:1-3)。「幸いなイスラエルよ、だれがあなたのような、主に救われた民であろうか」。主はまた、民を助ける盾であり、勝利を与える剣であり、そのような主がともにおられるイスラエルは、幸いな民、主の救いと祝福にあずかる民なのです。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(1ペテ2:9a)。私たちもまた、キリストに贖われ、神に選ばれ、神の所有の民とされた幸いな者であることを感謝しつつ、主の救いと祝福にあずかる民がさらに増し加えられるよう、人々に福音を伝えていきたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所:申命記 32章36-52節◇(3月4日)

「これは、あなたがたにとって空虚なことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばによって、ヨルダン川を渡って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことになる。」…申32:47

自分たちの主を捨て、異邦人の神々を慕い、主のねたみを引き起こし、怒りを燃えさせるイスラエルの民ではあっても、主は、彼らを絶ち滅ぼさず、なおもあわれみ、敵の手から救い出されるのです。そしてそれは、その神々が偽りのものであり、助けてくれず、隠れ場とならないことを、すべての者が知るためなのです(36-38節)。「今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない」。主は唯一の神であられ、すべて者は、その方によって母の胎の中に形造られ、いのちが与えられるのです。そして、その神を信じ、主のことばに聞き従って生きることが求められているのです。また、その神を侮り、主の民に敵対する者には、主ご自身が復讐されるのです(41節)。歌のことばを語り終えたモーセは、民にこう告げました。「これは、あなたがたにとって空虚なことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ」。主のみ教えを守り行う者は、どんな苦難や戦いにあっても、守られ、生きる者となるのです。いのちは奪われないのです。そしてそれは、主のことばが、いのちそのものだからなのです。受肉した神のことばとして地上を歩まれたキリストは、道であり、真理であり、いのちなるお方であって、その主イエスを信じ、その道に従う者は、誰一人滅びることなく、永遠のいのちを持つことができると、神は約束してくださいました(ヨハ3:16)。そして、主の導きにより、そのキリストと出会い、贖われ、信仰によるアブラハムの子孫として神の民に加えられた私たちは、その約束を握りつつ、地上での荒野の歩みを続けているのです。そしてやがて、主が備えてくださっている約束の地、天の御国に入れられ、主とともに生きる日々を永遠に過ごすこととなるのです。そのことを覚え、感謝と希望をもって、主の道を歩み続けたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 32章19-35節◇(3月3日)

「主は言われた。『わたしの顔を彼らから隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。』」…申命32:20

「主は見て、彼らを突き放された。主の息子と娘たちへの怒りゆえに」(1節)。将来、イスラエルの子らが、ねじれた世代、真実のない子らとなり、人の手による偶像、異国の神々に心を奪われ、主のねたみを引き起こし、主の怒りを燃やすことが、予告として歌われています。それに対して主は、ご自身の顔を彼らから隠し、顧みることをやめられ、また、異邦の民を用いて、逆にイスラエルの子らがねたみと怒りを持つようにされるのです。さらに主は、ご自身の義をもって彼らにさばきを与えるべく、24節に書かれているようなさまざまなわざわいを、蛇の毒とともに彼らの上に次々にもたらされるのです。一方、イスラエルの敵が、そのように主の民が苦しむのを見て、自分たちの力と神々の助けによって、彼らに勝つことができたと誤解し、高ぶり、主の御名がけなされることがないようにするために、主は、イスラエルの子らに起こったことはご自身のさばきのゆえだと、すべての人々が知り、記憶に留めるようにされました(26-27節)。「まことに彼らの岩は私たちの岩に及ばない」(31節)。彼らの岩、すなわち敵が信じる偽りの神々が、私たちの岩であるイスラエルの神に優ることなどあり得ません。元よりヤーウェは唯一の神であって、世界を創造され、主権をもってすべてを統べ治めておられるお方なのです。たとえ敵が、自分たちのほうが優位だと思っても、それは、主がご自身の子らに与える懲らしめによって、一時的にそうなっているのに過ぎないのです。敵のぶどうの木は、甘い実を結ばない毒ぶどうの木であり(32-33節)、彼らは繁栄することができないのです。ご自身の民に対する主の願いは、時代を越え、国が異なっても、変わることはありません。それは、ご自身の教えに聞き従い、主を愛し、慕い求め、喜ばせる者となることなのです。主の御顔は私たちから隠されてはいません。ますますその麗しい御顔を仰ぎ見つつ、歩んでいきたいと思います。

平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所:申命記 32章1-18節◇(3月2日)

「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせる。長老たちに問え。彼らはあなたに話す。」…申命32:7

主が命じられたとおり、イスラエルの子らに教え、主の証しとする歌を、モーセは書き記しました。彼はまず、「主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」と告白し、主をほめたたえています(4節)。歌は時代を越えて歌い継がれますが、そのように、この歌を通して、自分たちの主に従わない後の世代の者たちが、主がいかに偉大なお方であり、その力強い御手で父祖たちを守り、助け、祝福してくださったかを知って、主に立ち返るようになることが期待されていたのです。15~18節には、カナンの地に入った民が、自分たちを造られた主を捨て、先住民たちの異なる神々を慕い求め、主のねたみを引き起こして怒りを燃やさせることが、預言的に歌われています。「エシュルン」とはイスラエルに対する詩的な呼び名です。「彼らは、神ではない悪霊どもにいけにえを献げた」。それらの異教の神々は、たとえ人の目には頼もしく映っても、実はその背後にいるのは、神に敵対する勢力、悪魔の手下の悪霊どもであって、それらを礼拝する者には、主のさばきとのろいがもたらされることとなるのです。「主はあなたを造った父ではないか」(6節)。イスラエルの神である主は、キリストに贖われた聖徒たちにとっての父でもあられます。そしてその主は、この地上での荒野の歩みを続ける一人ひとりに御目を留め、抱いて世話をし、大切なご自分の瞳のように、絶えず守ってくださっているのです。鳥のひなのように弱い私たちを、敵の手から守り、翼を広げてその羽根に乗せて運んでくださっているのです。さまざまな必要に対して、最良のものを与えてくださっているのです(10-14節)。そのことを、歌として主の民が口ずさんだように、私たちも絶えず心に留め、告白し、主に賛美をささげたいと思います。

主の御名だけがあがめられますように。

◇聖書箇所:申命記 31章◇(3月1日)

「わたしが彼らを、彼らの父祖たちに誓った乳と蜜の流れる土地に導き入れるとき、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々の方に向かってこれに仕え、わたしを侮ってわたしの契約を破る。」…申命31:20

31~34章には、死を前にしたモーセの最後のことばが語られていますが、彼は、イスラエル全体に向って、これから渡っていく地の国々を主が根絶やしにされ、そこを占領させてくださると改めて語り、また、新しい指導者となるヨシュアに対しても、強くあれ、雄々しくあれ、主があなたとともにおられる、主はあなたを見放さず、見捨てない…と繰り返し告げ(7,8,23節)、励ましました。さらにモーセは、主がそれまで自分に語られたみおしえを書き記したものを、祭司と長老たちに渡しましたが、それは、主が定められた時ごとに、それが民全体に読み聞かされ、彼らが、生きる限り、主を畏れ、そのみおしえのすべてを守り行う者となるためでした(9-13節)。主は、民が、入っていく地で、異国の神々を慕い、偶像礼拝を行ない、イスラエルの神を捨てて、結ばれた契約を破るようになることを知っておられたのです(16~18節)。だからこそ、民が常にみことばを思い起こし、それを守るよう願っておられたのです。20節のことばが心に留まります。「衣食住足りて礼節を知る」ということばがありますが、主は、イスラエルの民が、乳と蜜の流れる豊かな地に入り、荒野の生活とは一変して、満ち足り、肥え太るようになると、逆に、彼らはご自身を侮り、捨て去り、他の神々に仕えるようになると言われたのです。そして実際、彼らはそのように歩み、主の怒りを何度も引き起こすこととなったのです。ともすれば私たちも、苦難のときには主に熱心に祈り、真剣に助けを求めますが、そうでなくなると、主を慕い求めず、みことばを守り行わず、この世のものに流されてしまいがちです。しかし主は、どんなときにも、ご自身が示される道を歩むようにと願っておられるのです。永遠のいのちへと続くその道を、まっすぐに歩み続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。