◇聖書箇所:エゼキエル書 36章22-38節(10月31日)

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」…エゼキエル36:26

主は、イスラエルの家が、国々の間でご自身の聖なる御名を汚した、と繰り返し指摘されました(21-23節)。そしてそのゆえに、それらの国々の民に対して自ら、ご自身が聖であることを示す、そのために事を行う、と言われましたが、それはイスラエルの家のためではなく、ご自身の聖なる御名を聖いものとして保つためでした。さらに主は、その具体的なこととして、ご自身の民を、散らされている諸国の間から導き出し、先祖たちに与えた地に連れ戻し、そこで地の産物を祝福して増やすので、民はもう飢饉で苦しむことがなくなる、と言われました。そのようにして、荒れ野となっていた地は再び耕され、人々はそこに住みつき、その数は羊の群れのように増していくとの約束を与えられた主は、こう言われました。「わたしがあなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人の住めるところとし、廃墟は建て直される」(33節)。つまり、イスラエルの回復は、まず民の不義のきよめが先決であり、それに伴うものとして、回復と祝福がもたらされるということなのです。では、その不義のきよめはどのようにしてなされるのか…。主は、「きよい水をあなたがたの上に振りかける」、「新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える」と言われました。それは、神の霊により民に光が照らされ、罪の告白と悔い改めがなされ、霊が刷新されて、聖霊の満たしと支配を受ける、ということです。31節には、「あなたがたは自分たちの悪しき生き方と、良くなかった行いを思い出し、自分たちの不義と忌み嫌うべきわざを憎むようになる」とあります。それはまさしく、聖霊の働きであり、そのようにして、イスラエルの回復は主の主権のうちになされ、諸国の民もそれを認めるのです(36節)。私たちも聖霊によって取り扱われ、神の民にふさわしく整えられていることを覚えたいと思います。

砕かれた心とたましいを持つ者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 35章◇(10月29日)

「おまえたちはわたしに向かって豪語し、わたしに向かってことばを重ねたが、わたしはそれを聞いている。」…エゼキエル35:13

25章で語られたエドムへの主のさばきが(25:12-14)、ここで再び告げられています。「セイルの山」とは、死海の南に広がる地を指しますが、そこにはイサクの息子のうち、兄のエサウの子孫であるエドム人が住みついていました。そのセイルの山に顔を向け、わたしはおまえを敵とする、そこの町々を廃墟とし、荒れ果てさせる…と預言するよう、主はエゼキエルに命じられたのです。「おまえはいつまでも敵意を抱き」とありますが(5節)、エサウの子孫であるエドム人は、イスラエルの民を、エサウへの神の祝福を奪った弟ヤコブの子孫として憎み、敵意を抱き続けてきました。北イスラエルと南ユダの両国が強国に蹂躙されても、ざま見ろと嘲笑し、傍観していたのです。そしてそれゆえに、主は、セイル山の地には、殺された者のしかばねが満ちると言われたのです。そのエドム人たちが主を怒らせた理由は、それだけではありません。彼らはさらに、イスラエルのユダの住民が連れ去られ、荒れ果てているのを見て、そこを占領し、自分たちの地としようと考えたのです。しかし、イスラエルの神が、そのことを許されるはずがありません。エドム人たちが神の民を侮辱し、その地は自分たちの餌食となると豪語したそのことばは、神ご自身に向けられているのであって、それゆえに主は、「全地が喜ぶほどに、わたしはおまえを荒れ果てさせる」と言われたのです。そのように神は、ご自身の民が受ける侮辱や迫害を決して見過ごすことはないのです。それをご自分へのものとして受けとめられ、それに対して報いてくださるのです。そしてそれは、主がイスラエルの民を愛し、ご自身の所有のものとして守り、主の御名が汚されないようにするためです。私たちもまた、キリストに贖われた神の所有の民として、たとえ理不尽な扱いを受けても、主はそれに報い、幸いをもたらしてくださるのです(マタ5:11)。その主の御手とまなざしを覚えて歩みたいと思います。

心にいつも平安がありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 34章◇(10月28日)

「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」…エゼキエル34:16

主は、「イスラエルの牧者」たちに向って預言するよう、エゼキエルに命じられました。ここでのその牧者とは、本来、主のみことばを教え、民を正しい道へと導くはずの祭司や預言者、また、国を正しく治め、民を支えるはずの王や高官たちのことです。しかし彼らは、弱って傷ついている者を放置し、力と暴力によって民を支配し、自分たちのことだけを考えていたのです。主は、そのように無視され、虐げられた民のことを「わたしの羊」と呼び、真の牧者の不在ゆえに羊たちが地の全面に散らされたことを嘆き、捜す者もない…と言われました。しかし主は、ご自身の所有であるその羊たちの群れを捜し求め、諸国の民の中から彼らを導き出し、イスラエルの地へと連れ戻して、その良い牧草地で養うようにされるのです。羊たちはそこで、平安のうちに憩うのです。「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる」(23節)。そのダビデとは、ダビデの血を受け継ぎ、まことの羊飼いとして民を守り、導き、養うお方、そして、御国をもたらし、その王として世を統べ治められるお方、メシアなるイエス・キリストを指しています。その主イエスは、いなくなった一匹の羊を見つかるまで捜し歩き、見つけたら大喜びでその弱った羊を肩に担いで家に戻った人のたとえを語られましたが(ルカ15:4-6)、キリストはまさにそのようなお方であって、主の預言はイスラエルの民だけでなく、すべての国民に対するものとして成就するのです。「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人間で、わたしはあなたがたの神である…」(31節)。その主のことばを、自分たちのものとしてしっかりと受けとめ、良い牧者なる主イエスに従い続けていきたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 33章17-33節◇(10月27日)

「彼らは群れをなしてあなたのもとにやって来る。そして、わたしの民はあなたの前に座り、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは口で甘いことばを語り、心で利得を追っている。」…エゼキエル33:31

21,22節には、ついにバビロンがエルサレムの町を占領し、敵の手から逃れた者がエゼキエルのもとに来てそれを告げたこと、また、その者が来た前日の夕方には、主によってエゼキエルの口が開かれて、預言のことばを民に語ったことが記されています。以前に主が言われていたことは(24:25-27)、今や現実のものとなったのです。しかし、陥落後のエルサレムに残った者たちは、主に立ち返ろうとはしませんでした。アブラハムは一人でこの地を所有していたのだから、わざわいを逃れた自分たちがこの地を所有するのは当然のことだ…と主張し、それまでのさまざまな罪を悔い改めないままで、そこでの生活を続けようとしたのです。そしてそのような彼らは、剣と疫病により、また獣の餌食となり死ぬようになる、その地は荒れ果ててしまうと、主は告げられたのです。一方、捕囚となってバビロンにいたイスラエルの民も、エルサレム陥落の知らせを聞き、自分たちはどうなるのか…と、エゼキエルのもとに群れをなしてやって来るが、そのとき語られる神のことばを聞いても、単に聞くだけでそれを実行しようとはしない、不信仰で不誠実な者たちなのだ…と、主はエゼキエルに語られたのです。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」(默3:19)。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」(ヤコ1:22)。自らの罪を悔い改めず、主に立ち返ろうとしない者、また、神のことばを聞いても、それを行おうとしない者は、神に喜ばれることはできないのです。エルサレムの陥落を耳にしてもなお、自分の利得を追う者たちの罪深さを思わされます。私たちがそのようにならないために、絶えず自らの姿勢を吟味する者でありたいと思います。

柔らかい心を持つ者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 33章1-16節◇(10月26日)

「しかし、見張りが、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告されず、剣が来て彼らの中の一人を討ち取った場合、その者は自分の咎のゆえに討ち取られるが、わたしはその血の責任を見張りに問う。」…エゼキエル33:6

神のさばきのことばがずっと語られているエゼキエル書ですが、33章から一転し、エルサレムとイスラエルの家の回復についての預言へと変わっています。主はまず、見張りとして立てられる者の役割と責任を明らかにし、エゼキエルがイスラエルの家のための見張りとされていることをさらに告げ、その働きをしっかり果たすようにと彼に命じています(1-9節)。それはすでに語られていましたが(3:17-21)、イスラエルの回復のためにはそれが必要不可欠なのだと、あらためて主は告げられたのです。神がそこで強調されているのは、もしその命令に従わず、悪しき者に警告をしようとしないならば、その者は自分の咎のゆえに死ぬこととなり、かつ、見張りであるエゼキエルが、その者の血の責任を問われるということです。しかし、警告を発した上でなお、悪しき者がその道から離れず、神に立ち返らないならば、エゼキエルはその責任を問われることはないのです。そこでも主は、見張りの役割と責任の範囲を、明確にしておられるのです。見張りは、剣が来るのを目撃したら、角笛を吹き鳴らして、そのことを民に警告として知らせなければなりません。それが見張りの役目だからです。そのために民の中から立てられているからです。もしそれを怠るなら、その責任が問われるのは当然なのです。私たちもまた、終わりの日が近づいていることを人々に知らせる見張りとされています。その日には神の審判がなされ、神が備えられた救いにあずかっているか、すべての人が問われ、そうである者たちは天の御国で永遠に生きる者とされ、そうでない者たちは地獄で永遠に苦しむ者として分けられてしまうのです。そして、その日が必ず来ることを、私たちはみことばを通して教えられているのです。見張りとしての役目を果たすべく、置かれたところで、角笛を吹き鳴らし続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 32章17-32節(10月25日)

「わたしが生ける者の地に恐怖をもたらしたので、ファラオとその大軍は、無割礼の者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる-神である主のことば。」…エゼキエル32:32

エジプトに対するさばきの預言の最後の部分です。ここでは、かつて、エジプトと同じように、まことの神を認めず、おごり高ぶり、神によってさばかれた国々の名が挙げられており、22,23節には、その代表格としてアッシリアが取り上げられています。彼らもバビロンと同様、多くの国々を支配して帝国を築き、北イスラエルを滅亡に至らせましたが、剣に倒れ、穴の奥にある彼らのための墓の周りに、その集団は置かれることになるのです。今日の箇所には墓ということばが繰り返されていますが、地下の国、穴という別の表現も意味は同じであり、それらは、死者が行くところである「よみ」を指しています。アッシリア、エラム、メシェクとトバル、エドム、シドン人…と、すでに神のさばきを受けてそこにくだったそれらの国々の中に、エジプトもまた加えられるのです。また、「無割礼の者たち」という表現も幾度となく使われていますが、それは、割礼を受けるイスラエルの民にとっての異邦人、まことの神を信じない国々のことです。アッシリアやエジプトのような、どんな強大な国であっても、神によってさばかれ、よみに行くなら、地上で築いた富も名声もそこではまったく意味を持たず、そこにいる他の者たちと同じく、恥辱を負うことになるのです。私たちもまた、かつてはまことの神を認めず、身勝手で自己中心な歩みをしていました。自らの知恵と力で人生を切り拓こうとする、傲慢な者であったのです。しかし、キリストは天から来られ、そんな私たちの身代わりとなって十字架にかかり、よみにくだり、死者の中からよみがえり、全人類のための贖いを成し遂げてくださいました。そのことを信じるすべての者は、よみでの恥辱、地獄での永遠の苦しみを負うことなく、歓喜のうちに天の御国に入れられ、神とともに永遠に生きるのです。そのような者とされていることを感謝したいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 32章1-16節◇(10月24日)

「わたしは多くの国々の民をあなたのことで茫然とさせる。彼らの王たちも、わたしが彼らの前でわたしの剣を振りかざすとき、あなたのことでおぞ気立つ。あなたが崩れ落ちる日に、彼らはみな自分のいのちを思い、その震えは止まらない。」…エゼキエル32:10

エジプトへの主のさばきがずっと語られてきましたが、32章はそのことばの最後にあたる箇所です。主はエゼキエルに、エジプトの王ファラオについての哀歌、つまり彼らの葬式の時に人々が悲しみをもって歌うものとして、彼にそれを語り告げるようにと命じられました。ファラオは、自分を国々の中の若獅子だとし、諸国の間で最も力ある王として高ぶり、傲慢に振る舞っていました。しかし主は、ファラオは若獅子ではなく海に住む巨獣のようであって、ばたばたと暴れ回れ回っている彼を地引き網で引き上げ、地に投げ捨て、野に放り出すので、その死体の肉は鳥や獣に食い荒らされ、その流れ出る血は谷にまで及ぶようになる、と言われたのです(2-6節)。4~10節には、他国の民がエジプトの滅亡の知らせを耳にすると、苛立ち、茫然とし、自分のいのちがどうなっていくかを思って、震えが止まらなくなる、とあります。それは、それらの者たちが、ファラオとエジプトの悲惨な結末を嘲笑せず、明日は我が身…他人事ではない…と、深刻に受けとめ、危機感を持ったということです。そのように、他者の身に降りかかる災いを知り、それに対して無関心にならず、自分自身を省みる者は幸いです。「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい」(ルカ21;34)。終わりの日が必ず来る…その時、神の審判がすべての者に対してがなされる…。神は、そのことを、預言者を通して明確に語られ、そのことばは、聖書の中に収められています。どうせまだ来ないさ…と楽観的になることなく、その日に備えて身を整え、また、救いに至る道が備えられていることを、人々に伝えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 30章◇(10月22日)

「それゆえ、神である主はこう言われる。『わたしはエジプトの王ファラオに敵対し、丈夫な腕も砕かれた腕も、その両腕を砕く。そして、その手から剣を落とす。』」…エゼキエル30:22

エジプトに対して主が語られた、さばきのことばが続いています。剣がエジプトの上に下り、それだけでなく、同盟国であるクシュ(エチオピア)などにも及び、刺された者は倒れ、富が奪われ、基が破壊され、町々は廃墟となって荒れ果ててしまうのです。10節には、バビロンの王ネブカドネツァルの名があります。エジプトのそのわざわいは、実際には、「諸国の中で最も横暴な者たち」であるバビロンによってなされるのです。しかし彼らは、主によって遣わされるのであり、「わたしは」、「わたしは」と繰り返され、そのことが強調されています(10-19節)。そのようにして、エジプトの主要都市は滅び、ナイル川も干上がってしまうのです。20~26節は、エルサレムが陥落する直前に、主からエゼキエルに与えられた預言です。神の都がバビロン軍によって包囲され、絶体絶命の危機に陥ったゼデキヤ王は、エジプトに助けを求めましたが、そのエジプトもまた、主が遣わされたバビロンに攻められて、エジプト王ファラオの強い丈夫な腕は、砕かれてしまうのです。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない」(申5:15)。モーセの時代、主は、奴隷となって苦しんでいたご自身の民を、力強い御手と伸ばされた御腕をもってエジプトの地から連れ出されました。そしてエゼキエルの時代においても、その御腕をもってファラオの腕を砕かれ、後にネブカドネツァルの腕も砕かれるのです。そして、その主の御腕は、ご自身に拠り頼む者たちに伸ばされており、私たちは、日々、悪しき者の手から守られているのです(詩138:7)。そのように、常に主の御手の中にあって支えられていることを覚え、その主にますます信頼して歩み続けたいと思います。

平安と確信が与えられますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 29章◇(10月21日)

「イスラエルの家にとっては、もう頼みとはならなくなる。これに助けを求めたときの咎を思い起こさせることになる。このとき彼らは、わたしが神、主であることを知る。」…エゼキエル29:16

29~32章には、エジプトに対する主のことばが書かれています。エゼキエルは、エジプト王ファラオとエジプト全体に預言するよう、主から命じられました。彼らは、「川は私のもの。私がこれを造ったのだ」と言って(3,9節)、肥沃な土地をもたらすナイル川を誇り、高ぶり、天地を創造された神を認めようとしなかったため、主は、エジプトを「自分の川の中に横たわる巨獣」と呼び、そのあごに鉤を掛け、魚とともに川から引き上げ、荒野に投げ捨てるようにする、と言われたのです。そのエジプトは、イスラエルにとって、しばしば、侵略しようとする諸外国に対抗するために同盟を結ぶ相手となってきました。しかし、主がそのようにエジプトをさばかれるので、彼らは、弱く細い葦から作る杖のように、もはやまったく頼みにならず、無理に身を預けてもへなへなと折れて、腰を痛めさせるだけなのです(5-7節)。そのようにして、主がエジプトを打ち砕かれるので、エジプト人たちは諸国に散らされ、40年の間、彼らの地は荒廃し、そこに人も家畜も住まなくなります。しかし、その40年の終わりになると、あわれみ深い主は、彼らを集めてそれぞれの出身地に帰らせ、かつてのようにではありませんが、小さな王国として再出発させるのです。それらのことを通して、イスラエルは、エジプトを含む他国に助けを求めることが神の前に咎であること、そして、自分たちにとって神だけが、力であり、助けであり、拠り頼むべき存在であることを、あらためて知るようになるのです。詩人もこう言っています。「主は私の力私の盾。私の心は主に拠り頼み 私は助けられた」(詩28:7)。ともすれば私たちも、窮地に陥ると、安易に人間的ものに頼って解決を得ようとしますが、どんなときにも、主に拠り頼む心を持って歩む者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 28章◇(10月20日)

「神である主はこう言われる。『わたしがイスラエルの家を、散らされていた諸国の民の中から集めるとき、わたしは国々の目の前で、わたしが聖であることを示す。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住む。』」…エゼキエル28:25

ツロに対する主のことばはなおも続きます。本章の2~10節には、ツロの罪深さの頂点として、ツロの王が高慢になり、「私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている」と言ったことが取り上げられています。確かにツロの王には豊かな知恵と英知が与えられ、各国との交易事業に成功し、豊かな富を築くことができましたが、そのことを誇り、心を高ぶらせて自分を神とするなら、それは神が最も忌み嫌うことの一つであって(出20:3)、神はそのような者を容赦せず、さばきによって滅ぼされるのです。そのようなツロの王に対して主は、諸国の中で最も横暴な他国人を連れて来て攻めさせるので、あなたは彼らの剣によって刺し殺され、滅びの穴に投げ込まれることになる、と告げられました。「それでもあなたは、自分を殺す者の前で『私は神だ』と言うのか」と、主は突っ込まれましたが、もしもツロの王が本当に神であるなら、その偉大な力を現わし、敵を敗走させ、自らのいのちを守ることができるはずです。しかし、もちろんそのようなことはなく、人であって神ではないのだから、私が語ったように死ぬしかない…と、主は告げられたのです。24~26節には、周辺諸国に対する主のさばきがなされ、それらが滅亡した後に、イスラエルの回復が与えられることが預言されています。北イスラエルはアッシリアによって、南ユダはバビロンによって国が滅ぼされ、民は国々に離散することになりましたが、主はご自身の民をそこから集め、ヤコブに与えられた地に再び住まわせ、彼らはそこで平安のうちに生活するようになるのです。神こそ主であることを、彼らもまたあらためて知ることになるのです。神を神として認めること、自分の力や知恵を誇らずへりくだること、主に感謝と賛美をささげ、すべての栄光を主に帰すこと…。私たちにもそのようなあり方が求められていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 27章◇(10月19日)

「おまえの漕ぎ手は おまえを大海原に連れ出したが、東風が大海のただ中でおまえを打ち破った。」…エゼキエル27:26

主はエゼキエルに、ツロについての哀歌を唱えよと言われ、ツロに告げるべきさまざまなことを語られました。ツロは、自らのことを「私は美の極みだ」と言って、おごり高ぶっていましたが、主はまず、海に突き出た島であるツロを船にたとえ、その各部分となり、それを進ませるのに関わった者たちの名を挙げられました(5-10節)。またツロは、地中海の国々や、イスラエルとユダを含む中近東の国々と交易をし、多くの富を蓄えていましたが、主は、それらの者たちの名と、彼らが取引に使用した品々を具体的に挙げられました(12-24節)。主はツロに、「おまえの事業が多岐にわたった」と言われましたが、それらの品々もまた、宝石、金属、穀物、油、香料、布など、さまざまな種類のものであったのです。しかし、それらの交易品を満載した船は、大海原の上で突然強い東風に遭い、難破してしまうのです(26-27節)。そしてそれは、主のさばきによってツロが滅ぼされることを意味していました。ツロを知っているすべての国々の人々は、その豊かな財宝と商品で地の王たちを富ませたツロが、そのような悲惨な最期を遂げることに驚き、唖然とし、その王たちはおぞ気立ち、慌てふためき、商人たちは傲慢であったツロを嘲るようになるのです。自らを誇り、多くの富と財宝を手にし、多くの国々と人々を支配し、有頂天になっていたツロ…。それはまるで、贅を尽くして建造され、人々を魅了する豪華客船のようです。しかし、それはある日突然、主のさばきによって、海の深みへと沈んでしまうのです。そしてそれは、いつの日か突然やって来る、終わりの日の主のさばきの暗示でもあるのです。主イエスは、ともしびを持って花婿を迎える娘たちのたとえを話されましたが、いざその時になって油を切らして慌てふためくことがないように(マタ25:8)、しっかりと備える者、またその日が必ず来ることを人々に伝える者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 26章◇(10月18日)

「…ツロは諸国の餌食となり、それに属する沿岸側の町々も剣で滅ぼされる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」…エゼキエル26:5-6

26~28章には、ツロに対する主のことばが書かれています。ツロはイスラエルの北西、地中海沿岸にあり、一部は陸続きの島の上に、他は本土の肥沃な平原地帯にあり、地中海の貿易を支配する強大な都市国家となっていました。またその島は堅固な岩からできており、周りからの侵入を寄せつけない、天然の要塞となっていたのです。そのようにツロは、自己の繁栄と強さを誇り、エルサレムがバビロンによって侵略されて陥落したのを知ったときには、あははと嘲笑い、「私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった」と言ってユダを見下しました。しかし、主は、そんなツロに対して、「わたしはおまえを敵とする」と言われ(3節)、さばきを宣告されたのです。実際、バビロンの王によって軍隊がツロに派遣され、まず沿岸側の町が攻撃されて破壊されました。その後、難攻不落の島も、紀元前4世紀、ギリシャのアレキサンドロス大王の時代に、預言通り陥落することとなったのです。また、15~21節には、そのツロの滅亡を目の当たりにして、国々が身震いする様子が書かれています。当時のツロは、各国との交易を積極的に行い、植民地まで持ち、その繁栄と強大さは、周りから褒めそやされていました。ツロ自身、築かれた多くの富と、侵略を阻む堅固な要塞のゆえに、自らを誇り、傲慢になっていました。しかし主は、そのようなツロを打ち砕かれたのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴18:12)。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き(なさい)」(1テモ6:17)。ともすれば私たちも、自らの力と知恵を誇り、富に頼ってしまいますが、謙遜さを持ち、ますます主に拠り頼み、ただ神に望みを置く者でありたいと思います。

主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 25章◇(10月17日)

「わたしは激しい憤りで彼らを懲らしめ、彼らに大いなる復讐をする。わたしが彼らに復讐するとき、彼らは、わたしが主であることを知る。」…エゼキエル25:17

25章以降には、ユダの周辺諸国に対して告げられたさばきが記されています。アンモン人の地はユダの東方にありました。彼らは、ユダと敵対関係にあったため、エルサレムの聖所がバビロンによって犯され、ユダの民が捕囚となったき、そのことを喜び、嘲りましたが、主は、そのような態度のゆえに、彼らを東の人々の手に渡し、滅ぼし、根絶やしにすると告げられたのです(2-7節)。モアブ人とエドム人はユダの南東と南に位置していました。セイルは山地の名でありエドム人を指します。彼らもまた、ユダの地がバビロンに蹂躙されているのを傍観し、喜ばしく思っていました。エドム人はエサウの子孫からなる民族であり、ユダの兄弟国となり得る存在でしたが、友好的であろうとせず、敵対し、嘲ったゆえに、その民は剣で倒れ、町は廃墟とされるのです(13節)。ユダの西方、地中海沿岸に住むペリシテ人もまた、昔からイスラエル・ユダと敵対しており、ダビデが倒した巨人ゴリアテは、そこからやって来た者でした。彼らは神の民に恨みを持ち、復讐を常に企てていましたが、ユダが滅亡したことを知るとそれを喜び、嘲ったゆえに、主によって滅ぼされることになってしまうのです(15-17節)。それらのさばきを主がなされる意図とは、彼らが「私が主であることを知る」ことでした(5,7,11,17節)。そしてそれは、それらの国々が、神の民が苦難に遭っているのを見て喜び、嘲り、イスラエルの神はどこにいるのか、ユダの国も自分たちの国と何ら変わらないではないかと神を侮ったゆえに(8節)、主が、ご自身の存在とその御力を、彼らに知らしめようとされたということなのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。主を認め、主を畏れ、主に聞き従おうとしているでしょうか…。ユダ、そしてその周辺諸国を反面教師とし、ますます神を畏れ、主の道をまっすぐに歩む、そのような者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 23章29-49節◇(10月15日)

「あなたは姉の杯、深くて大きい杯を飲む。物笑いと嘲りがたっぷり入った杯を。」…エゼキエル23:32

オホリバに対する主の宣告は続きます。主は彼女の心が離れ去った者、すなわちバビロンに彼女を渡されるため、彼らは憎しみをもって彼女を取り扱い、その労苦の実を奪い取り、丸裸にして捨て去ります。そしてそれは、彼女が異邦の民と姦淫をし、身を汚したからなのです。また主は、オホリバが姉オホラの道を歩んだため、姉の持つ深くて大きい杯をオホリバに渡し、物笑いと嘲りが満ちたその杯を飲ませるので、彼女は酔いと悲しみに満たされる、と言われました。そのように、その「恐怖と荒廃の杯」の中身は、飲み干さねばなりませんでした。なぜなら、彼女が主を忘れ、淫行を重ねたために、彼女を愛する主のねたみを引き起こしたからであり、主は、「あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに投げやったから、あなたも自分の淫らな行いと、淫行の責めを負え」(35節)と告げ、オホリバを非難されたのです。その後、主は、二人の姉妹の罪深さについて、エゼキエルにあらためて語られました。彼女たちは偶像と姦通し、火の中を通らせた自分たちの子どもを偶像のいけにえとするというおぞましいことをし、こともあろうに、主が定められた安息日に、神を礼拝すべき主の聖所において、そのような汚れたことを平気で行ったのです(37-39節)。この23章を読むと、二人の姉妹として例えられている、サマリアとエルサレムの町、イスラエルとユダの国、そしてその住民たちの罪に満ちた行いに、思わず眉をひそめたくなります。しかし私たちもまた、神以外のものに心を奪われ、主を自分のうしろに投げやり、自分勝手な歩みをする罪深い者たちであり、恐怖と荒廃の杯を飲まなければならなかったのです。しかし、そんな私たちの身代りとなって罪を負うために、主イエスは来られ、神が与えた苦い杯を飲み干し(マタ26:42)、十字架にかかって死なれ、よみがえり、私たちを贖ってくださいました。そしてそれは、私たちに対する主の深い愛とあわれみのゆえなのです。そのことを覚えて感謝したいと思います。

救いの喜びに満たされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 23章1-28節◇(10月14日)

「オホラは、わたしのものであったのに、姦通し、その愛人アッシリアに、青い衣を着た軍人たちに欲情を抱いた。」…エゼキエル23:5

23章には、主が語られた二人の姉妹のことが書かれています。その姉のオホラとは、サマリアを首都とする北イスラエル王国であり、妹のオホリバとは、エルサレムを首都とする南ユダ王国のことです。主は、ご自身のものである二人が、他国との淫行を重ねたことを非難していますが、それはすなわち、異教の神である偶像を慕い求めたこと、また他国と同盟を結び、契約を結ばれた神にでなく、そのことに拠り頼んだことを意味しています。彼女たちはかつてエジプトにいましたが、そのときから淫行をしていました。そして北と南に国が別れてからも、姉のオホラはアッシリアの軍人たちに欲情を抱き、姦通をし、偶像で身を汚したのです。そしてそれゆえに、主はオホラをアッシリアの手に渡し、恋い慕って頼り切っていた彼らの手で、国が滅ぼされるようにされたのです。それを見ていた妹のオホリバは、姉よりもいっそう恋情を募らせてアッシリアとの淫行を重ね、バビロンが力を持つようになるとそちらに欲情を抱き、その後、バビロンに攻められるようになると、エジプトとの昔のことを思い出して、彼らと淫行を重ねたのです。そして彼女もまた、憤られた主のさばきを受け、その民はバビロンの剣に倒れ、また連れ去られることとなったのです。「わたしがあなたに、わたしのねたみを向けるので、彼らは激しい憤りをもって、あなたに事を行う」(25節)。主は、イスラエルとユダの二人の娘を愛しておられるゆえに、彼女たちが他の者に心奪われるのをねたまれるのであり、そのことを悔い改め、ご自身に立ち返ってほしいからこそ、あえて彼女たちをさばき、懲らしめられたのです。しかし、主は見捨てられたわけではありません。彼女たちへの愛は、永遠に変わることがないのです(エレ31:3)。そして私たちもまた、キリストにあって、神の子どもとされ、永遠の愛をもって愛され、真実の愛を尽くされているのです。そのことに感謝したいと思います。

ただ主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 22章17-31節◇(10月13日)

「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」…エゼキエル22:30

主は、エゼキエルを通して、イスラエルの家は金かすとなったから、わたしは怒りをもってその民をエルサレムの中に集め、そこに火を吹き付け、町の中で溶かすようにすると言われました(18-22節)。金かすとは、純度の高い金属を得るための精錬の過程で生じる、他の金属の不純物であり、取り除くべき不要なものです。主は、25節以下で、そのような者たちの正体を明らかにしています。まず主は、エルサレムには偽預言者がおり、主が語っていないことをまことしやかに語り告げ、人々を惑わし、富と宝を奪い取っていると非難されました(25,28節)。また主は、祭司たちも、聖なるものを取り分けず、俗なるものをそこに持ち込み、安息日もないがしろにしていると言われ(26節)、さらに、町の高官たちも、人々を食いものにし、自分の利得を貪っており、それはまるで、獲物をかみ裂く狼のようだ、と指摘されました(27節)。一方、民衆もまた、困窮している人々を助けようとせず、逆に彼らからかすめ取って苦しめ、寄留者を虐げている者たちであって、そのように、金かすだらけのエルサレムに対して主は憤られ、怒りの火で彼らを滅ぼし尽くすと、ご自身のさばきを宣告されたのです(29-31節)。「破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった」と主は言われました。破れ口に立つ者とは、神と人との間に立ってとりなし祈る者であり、それは本来、祭司や預言者といった霊的指導者の役割です。しかし、彼らは堕落し、人々も神の教えから離れて自己中心の歩みをしており、主は、破れ口に立つ者を一人も見つけることができなかったのです。破れ口に立ってとりなす…それはいつの時代にあっても、必要不可欠なことです。私たちの存在は決して大きくはありませんが、その働きがいかに大切かを覚え、人々のため、国のため、世界のために、とりなし続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 22章1-16節◇(10月12日)

「おまえは自分が流した血で咎を負う者となり、自分が造った偶像で身を汚し、自分の日を近づかせ、自分の年を来させた。だから、わたしはおまえを国々のそしりの的とし、すべての国の笑いぐさとする。」…エゼキエル22:4

主は、エルサレムを「流血の都」と呼び、エゼキエルに対し、この都にその忌み嫌うべきわざを告げ知らせよ、と命じられました。3節以下にその具体的なことが記されていますが、血を流し…偶像を造り…身を汚し…と、主は、彼らの罪に満ちた数々の行為を非難し、それによりエルサレムが汚されていることを嘆き、憤り、国々のそしりの的、笑いぐさとすると、告げておられるのです。「血を流す」とは、暴力をふるい、他者を傷つけることを意味しています(6節)。またそれは、ことばによる「暴力」によって、人の心を傷つけることも示唆しています(9節)。さらにそれは、自分自身や自分の子どもをわざと傷つけ、流れ出たその血を偶像の神にささげるという、異教的な行為も含まれているように思えます(4節)。いずれにしてもそれらのことは、罪に満ちた、主が忌み嫌われる行為であって、弱者への虐げ(7節)、性的不品行(9-11節)、不正な利得(12節)などの罪と相まって主の怒りを引き起こし、さばきがエルサレムの上に下されるのです。エルサレム…そこは主の臨在が現わされる神殿があり、「シオンの娘」とも呼ばれる、神が愛される特別な場所、聖なる都です。そこに悪が蔓延し、主は「流血の都」、「おまえ」と、エルサレムのことを呼ばなければならなかったのです。主の心は痛み、悲しんでいたに違いありません。しかし、やがてそのエルサレムにおいて、主は、メシアとして送られたご自身の御子であるイエスを十字架につけ、そこで流された聖い血潮によって、ユダヤ人だけでなく、すべての民の罪をきよめてくださったのです。エルサレムを、聖なる都として回復されたのです。そしてやがて、主イエスは天から再びそのエルサレムに来られ(ゼカ14:4)、全世界に対するさばきをなされ、新しいエルサレムをもたらされるのです(黙21:2)。その主の再臨への希望を、しっかりと持ち続けたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 21章18-32節◇(10月11日)

「バビロンの王は道の分かれ目、その二つの道の始まりに立って占いをする。彼は矢を振り混ぜ、テラフィムに伺いを立てて、肝を調べる。」…エゼキエル21:21

18節以降では、バビロンの王、すなわちネブカドネツァルが、イスラエルに対する主のさばきのために用いられることが、明確に記されています。彼は、アンモン人を攻めるべきか、それともエルサレムを攻めるべきかを、さまざまな占いによって判断しようとし、結果として、エルサレムにバビロン軍を向わせることとしたのです。その結果を知っても、エルサレムの住民は、それがむなしい占いによるものだとし、意に介しませんでした。しかし、それが現実のものとなったときに彼らは、自分たちの罪と咎を思い知ることになったのです。それは主に背き、偶像を慕い求め、主の御声に聞き従おうとはしなかったからであり、ゼデキヤ王もまた、自らが率先して主の道に歩もうとはせず、人間的な考え、策略により、生き延びようとしたからです。そのようなユダに対する主のさばきは徹底的であって、エルサレムの荒廃ぶりは深刻なものとなってしまうのです(24~27節)。28~32節は、バビロンに対抗するためにユダが同盟をむすんだアンモン人に対する、神のさばきの預言です。彼らは、エルサレムに対するバビロンの攻撃がいよいよなされようとしても、まやかしの占いにより、エルサレムが滅亡するなどあり得ないとしてユダの民に伝えましたが、そのようなことのゆえに、さばきの剣が彼らの首に当てられ、主の激しい怒りの火が吹き付けられるのです。バビロンの王は、どう攻めるべきかを、テラフィムの偶像に伺いを立て、占いによって決定しました。アンモン人たちも、まやかしの占いにより、エルサレムの住民にとって耳障りの良いことを伝え、住民たちもそれを鵜呑みにしました。しかし、すべての造られた者に求められているのは、まことの神に尋ね求め、主の御声を聴き、それに従って歩むことなのです。私たちもますます主を畏れてへりくだり、主のみことばを受け取り、それに聞き従う者でありたいとと思います。

霊の耳がさらに開かれますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 21章1-17節◇(10月10日)

「人の子よ。エルサレムに顔を向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。」…エゼキエル21:2

主は、エゼキエルに対し、ご自身がなされるさばきについて預言すべく、エルサレムに顔を向け、聖所に向って語りかけるよう命じられました。そのさばきとは、主が彼らを敵とされ、さやから抜かれた剣が民と君主の上に下り、みな断ち滅ぼされてしまうということでした。また主は、そのことを民が聞き流さず、危機感をもって受けとめるようにすべく、民の前で激しくうめくようにとも命じられました。そして、なぜうめくのかと尋ねられたら、その主のさばきが必ず実現し、すべての者の心が萎え、力を失った手が垂れ下がり、意気消沈するようになるからだと彼らに伝えよ、と言われたのです。「その剣は磨かれて手に握られ、研がれ、磨かれて 殺す者の手に渡される」(11節)。その主のさばきは、実際には、バビロンを通してなされるものでした。また、退ける杖(10,13節)とは、最後の王ゼデキヤのことであり、その預言は、ダビデの家系のその王が打たれてついにユダの国が滅びるという、決定的なものであったのです。エゼキエルはその時、捕囚の民とともにバビロンにいました。にもかかわらず、エルサレムに顔を向け、そのように預言することが求められたのです。うめく彼に尋ねる民とは捕囚の者たちであり、彼らは、エルサレムが滅びるわけがない…と楽観視していたのです。そんな中、エゼキエルは、声が届くはずがないエルサレムに向って預言し、捕囚の民の前で演技するように激しくうめき、神のさばきが必ずあることを伝えたのです。彼は、もどかしく、辛く、孤軍奮闘するような思いになったに違いありません。しかし彼は、預言者、すなわち主のことばを預かった者として、主の命令に忠実に聞き従ったのです。そして私たちもまた、同じように、主の口となってみことばを人々に伝えることが、求められているのです。そのことを覚え、それぞれ置かれているところで、使命感をもって、その働きをなす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 20章1-26節◇(10月8日)

「しかし、わたしは手を引いた。わたしの名のことを思い、彼らを導き出すのを見ていた国々の目の前で、わたしの名が汚されないようにした。」…エゼキエル20:22

主に尋ねるためにエゼキエルの元にやって来た民の長老たちに対し、「わたしは決してあなたがたの求めに応じないと」と告げるよう、主はエゼキエルに命じました。そしてさらに、民の先祖たちが、忌み嫌うべき偶像を慕い、身を汚し、そのようにして、主に聞き従おうとしなかったことを彼らに知らせよ、と言われたのです。主は、エジプトで奴隷となって苦しんでいたイスラエルの民をあわれみ、そこから救い出して約束の地へ導き入れると誓われました。その後、忌まわしいものを投げ捨てるように主から命じられたのに、それに聞き従わずに逆らった民に対して主は憤られ、彼らを滅ぼそうと一旦は思われましたが、主がその怒りを収めたため、そのさばきが実行に移されることはありませんでした。そして、そのようなことは、その後も繰り返されたのです。「しかし、わたしはわたしの名のことを思い…わたしの名が汚されないようにした」(9,14,22節)。主がご自身の民を断ち滅ぼすことを思いとどまられたのは、民に対するあわれみのゆえだけではありません。主は、ご自身の名が周辺諸国の民からそしられ、嘲られることがないようにし、ご自分が偽りのない真実な存在であることを、すべての民に知らしめるためにそうされたのです。パウロもこのように言っています。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(2テモ2:13)。主は真実なお方です。「このようにする」と、ご自身が誓われたこと、約束のことばは、必ずその通りになるのです。後になってそれを取りやめたり、変更したりすることはないのです。主は、ご自身の御名にかけて、それを成就されるのです。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタ24:35)。真実な主のことばにますます信頼し、主の御名によって信仰をもって祈り、主の御力の現われを待ち望みたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 19章◇(10月7日)

「この獅子は、やもめたちを犯し、町々を廃墟とした。その吼える声のために、地とそこに満ちているものは、おののいた。」…エゼキエル19:7

主はエゼキエルに対して、イスラエルの君主たちのために、哀歌を唱えるようにと命じられました。哀歌とは、葬儀で歌われる、死を嘆き悲しむ歌のことですが、その中で、獅子やぶどうによってイスラエルと王たちを比喩的に表わし、ユダの3人の王たちとイスラエルの民に対して、彼らの悲惨な末路を伝えさせようとしたのです。「あなたの母は…雌獅子だ」(2節)。母とは南ユダ王国であり、その母が海、養い育てた若い獅子とは、エホアハズ王のことです。彼はエジプトに連れて行かれ、そこで死ぬこととなりました(4節)。またそのあとに雌獅子が立てた別の若い獅子とは、エホヤキン王のことであり、彼はバビロンに連行され、牢獄に入れられたのです(9節)。10節以降では、母は今度はぶどうの木に例えられていますが、その木の強い枝とはゼデキヤ王であり、彼もまた、折られて枯れ、火に焼き尽くされてしまうのです(12節)。そのようにして3人の王たちは、国のリーダーとして、主のみこころを民の先頭に立って行おうとはせず、主の目に悪であることを率先して行ったゆえに、民が捕囚とされ、国が滅びるというわざわいの元凶となったのです。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます」(黙5:5)。イエス・キリストは、ユダ族の王であるダビデの子孫として生まれました。このお方こそ、神のみこころをすべての人々に伝え、民を正しい道へと先頭に立って導く真の獅子であり、十字架と復活による贖いによって死と悪魔に勝利され、今もすべてを統べ治めておられる御国の王なのです。このキリストによって贖われた私たちは、御国の民とされ、王の庇護と養いのうちに生かされています。そしてやがて地上から主の御許に移され、御国において永遠に主とともに生きる者とされるのです。荒野の試練の中にあっても、王なる主にますます信頼したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 18章19-32節◇(10月6日)

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない-神である主のことば-。だから立ち返って、生きよ。」…エゼキエル18:32

父の咎を子も負わねばならない、と考えていたイスラエルの民は、今起きている国のわざわいは、先祖の罪に対する主のさばきであって、なぜ自分たちの世代がそれによって苦しまねばならないのか、主の道は公正ではない、と言っていました。そして、どうせ何も変わらないなら、自分たちの好きなようにすれば良い…とし、悪と不正の道を歩み、忌み嫌うべきことを行っていたのです。そんな彼らの誤りを主は指摘され、先の世代が罪を犯しても、人が公正と義の道に歩むなら、それは神に覚えられている…。また、その人が悪を行っていたとしても、その罪から立ち返り、主の掟を守るなら、その人がさばかれることはない、生きる者となる、と言われました。元より主は、聖であり義なるお方であると同時に、恵み深くあわれみ深いお方であって、人が悪を行い、さばきを受け、罪に定められて死に至ることを喜ばれないのです。主が願っておられるのは、人が悪の道からご自身へと立ち返り、生きる者となることなのです(23,32節)。主は、アダムの子孫である人類が、すべての掟を守って公正と義を行い通すこと、そのように努力し、自らの行いによって救いを得ることができないことを、もちろん知っておられました。だからこそ、すべての人の救い主であるメシアを遣わすことを、預言者を通して民に伝え、時至って、その約束を成就してくださったのです。その救いとは、一人の人、すなわち人の姿を取られた神であるメシアが、全人類の罪を一身に負い、神のさばきを受けて死ぬ者とされ、罪のないその血が流され、その死からよみがえられたことにより、罪人が義とされ生きる者となるという、すべての世代に及ぶ神の救いです。そしてそれは、ただ一方的な神の恵みとして与えられ、信仰によって受けることができる救いなのです。そのようにして私たちの罪が赦され、義なる者とされていることを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福がますます満ちあふれますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 18章1-18節◇(10月5日)

「見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」…エゼキエル18:4

イスラエルには昔から、「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざがありました。そしてそれは、父や先祖の罪の責任を、子や子孫が負わなければならないとする思想に基づき、共同体としてのイスラエル民族の連帯責任を、強調するためのものでした。主は、そのことわざについて、エゼキエルを通し、あなたがたはそれを繰り返し言っているがいったいどうしたことか、と民に問いただされました。それは、当時、多くの者がバビロンによって捕囚として連れて行かれましたが、残った者たちは、そのことわざをいわば悪用し、そのようなことになったのは先祖の罪が原因であって、自分たちには罪がないと正当化し、なぜそんな不条理が通るのか、神は不公平だとさえ言っていたからです。それに対し、主は、彼らの間違いを指摘されました。たとえ父や先祖の罪の影響が子や子孫に及んだとしても、神は機械的に、後の世代の者たちにわざわいをもたらすわけではない…。主の前に正しく歩む者たちは、前の世代の者たちが罪深くあったとしても、主から義と認められるのであって、血の責任はあくまで、罪を犯した者自身にあるのだと、民に告げられたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。おそらく、父や祖先の罪の責任が、自分にあるとは考えないでしょう。しかし、自分が幸せになれないのは、あの人のせいだ、環境が悪いからだ…と、周りのせいにし、神に不満を漏らすような傾向は、私たちのうちにも少なからずあるのです。アダムが、「この女が…」と言って、自分の罪の責任をエバに転嫁しようとしたことが思い起こされます(創3:12)。しかし、主は、「あなたはどうなのか」と、自分と神との関係がどうであるか、その歩みがあるべきものとなっているかを、私たち一人ひとりに問われているのです。日々主の前に出て、みことばに照らして、それがどうであるかを、吟味する者でありたいと思います。

静まって主の御声を聴くことができますように。

◇聖書箇所:詩篇 139篇◇(10月4日)

「そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません。」…詩篇139:6

小さな存在に過ぎない自分に対して、神はどのように関わってくださるのか…それは悪者からの圧迫を受け、恐れを感じていた詩人にとって、大きな関心事でした。しかしある時、主は人の思いの及ばない偉大なお方であるということを示され、詩人は恐れおののきつつ、感謝と喜びをもって、そのことを告白しているのです。1-6節においては、「知る」ということばが何度も使われています。「あなたは私を探り 知っておられます」。「私の道のすべてを知り抜いておられます」。「あなたはそのすべてを知っておられます」。そしてそれは、主が詩人のすべての言動を見聞きしているということにとどまらず、詩人の心中、思いを知っておられるということであり(2節)、詩人はそのことに驚嘆しているのです。7-12節においては、「どこへ」、「そこに」ということばが繰り返されています。「私はどこへ行けるでしょう…どこへ逃れられるでしょう」。「そこにあなたはおられます」。そしてそれは、詩人が自分の考えによって行動し、主の道から外れて行きそうになっても、主の御手が詩人を捕らえ、引き戻し、迷い込まないように導かれるということであり(10節)、主は、そのように、常にともにおられ、羊飼いとして守り、支え、主に信頼する者の歩みを確かなもの、みこころにかなうものとしてくださる方であることを覚えて、感謝しているのです。主は、私たちのすべてを知ってくださっています。人に言えない悩みも、わかってもらえない痛みや悲しみも、私たちが自分について知っている以上に、主はいっさいのことをご存じなのです。また主は、いつでも、どこでも、どんな状況でも私たちとともにおられ、御手で支え、守り、弱く愚かな羊である私たちを、牧者として導いてくださっているのです。だからこそ私たちは、思い煩うことなく、全知全能なる主に拠り頼み、主の御声に従って歩み続けることができるのです。人の思いを越えた主のみわざを、信仰をもって待ち望みたいと思います。

偉大な主を仰ぎ見ることができますように。

◇聖書箇所:詩篇 138篇◇(10月3日)

「私が苦しみの中を歩いても あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし あなたの右の手が私を救ってくださいます。」…詩篇138:7

「心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます」と、詩人は主を賛美し、さらに主を畏れて御前にひれ伏し、主がどれほど恵み深く真実なお方であるのかを思い、その大いなる御名をあがめています。その主は、ご自身の御旨と約束をみことばにより示され、詩人がそれを信仰をもって受けとめて主を呼び求めると、確かにそれに応え、詩人のたましいに力を与えて強くされたのです。そのように、自らの歩みにおいて主のみわざを体験し、主の偉大さをあらためて知らされた詩人は、権力を持った地上のすべての王もまた、その主を畏れ、みことばに聞き従い、主の栄光の現われを求める者、また、主の道、すなわち主のみことば、み教えを口ずさむ者となると、期待を込め、信仰をもって告白しているのです。おそらく王たちの中には、傲慢な者、横暴な者もおり、民を苦しめていたことでしょう。しかし詩人は、そのことを思いつつも、「まことに 主は高くあられますが 低い者を顧みてくださいます。しかし高ぶる者を 遠くから見抜かれます」と、そこに主の介入があることを告げています。主は、虐げられている弱者に目を留めて顧みられ、高慢な権力者たちを見抜いて低くされるのです。そのような、真実なお方、義なる主がなされるみわざを覚えつつ、詩人は再び、自らの歩みに思いを向け、信仰の告白をしています(7節)。たとえ苦しみの中を歩むときでも、主のいのちの中に生かされる者とされる…攻め立てる者がいても、その者の手から救い出されるのだ…と。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ41:10)。私たちも、主のみことばの約束をしっかりと握り、ともにいてくださる主に拠り頼み、ますます主を畏れ、へりくだって歩む者でありたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 136篇◇(10月1日)

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」…詩篇136:1

すべての節の後半に「主の恵みはとこしえまで」ということばがある詩篇です。おそらく、神への礼拝など、イスラエルの民の集いにおいて、この詩篇がしばしば用いられ、導く者が各節の前半を歌い、会衆が「主の恵みはとこしえまで」と、それに応答して歌ったと思われます。詩人はまず、いつくしみ深い神、すべての(偽りの)神々にまさって偉大な神、力ある神、その唯一まことの神を覚え、その大いなる主に感謝せよと告げています。また、神である主が天と地を創造され、地を水の上に敷かれ、太陽、月星をそこに置かれたことを覚え、その創造のみわざをなされた主に感謝せよ、と命じているのです。さらに詩人は、主が、モーセの時代において、エジプトの地で奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をあわれみ、エジプトにさまざまなわざわいを起こされ、力強い御手と伸ばされた御腕をもってそこから連れ出されたことを告げています。そしてその後、約束の地カナンに向っての40年間の荒野の歩みを導かれ、周辺国の王たちを打ち倒され、ついにカナンの地をゆずりとして民に与えられたことを覚え、真実な主に感謝せよと告げています。その主の恵みは、ユダヤ民族だけのものではありません。ご自身の民を荒野においてマナで養われた主は、すべての肉なる者に食物を与えられるお方であり(25節)、すべての者がその主こそ神であることを知るようにと、願っておられます。また、ご自身の民をエジプトの奴隷から解放し、カナンの地に導き入れられた主は、すべての者を罪の奴隷から解き放ち、天の御国へと導き入れてくださるお方なのです。そして、そのために主は、ご自身の御子であるイエス・キリストを、救い主として世に遣わされ、そのキリストは、ご自身の十字架と復活によって贖いを成し遂げられ、死と悪魔に勝利してくださったのです(24節)。キリストにあって聖徒とされた私たちも、主の恵みはとこしえまであることを覚え、天の神に絶えず感謝をささげる者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。