◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 8章◇(11月30日)

「また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。」…黙示録8:3

巻物の7つ目の封印が子羊により解かれると、神の御前に立つ7人の御使いにそれぞれラッパが与えられ、それらが一つ一つ吹き鳴らされるたびに、天変地異となるわざわいが次々に起こりました。それは、地上の3分の1がその影響を受け、地が焼け、海が血となり、川の水が苦くなり、太陽・月・星が暗くなるという恐ろしいものです。しかし、第7の封印が解かれたとき、ラッパはすぐに吹き鳴らされず、天に半時間ほどの静けさがありました。そして、ラッパを吹く7人とは別の御使いが、香炉を持って祭壇のそばに立ち、聖徒たちの祈りに添えて香の煙を神の御前に立ち上らせ、その香炉を祭壇の火で満たして地に投げつけると地震が起こり、それを合図として、7人の御使いたちがラッパを吹き鳴らし始めたのです。「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った」と、4節にもありますが、聖徒たちが何を祈ったのかは書かれていません。それはおそらく、御名があがめられ、御国が来るように、みこころが地でもなされるように…と、主イエスが弟子たちに教えられたとおり、神の完全な統治、悪魔の最終的な敗北、主の栄光の現われを求める祈りであったことでしょう。また、わざわいがこれから起こる中で、主に立ち返り、いのちを得る者が起こされるように…という祈りでもあったに違いありません。もしそうでないなら、地上に住む者たちに対し、「わざわいだ、わざわいが来る…」と、中天を飛ぶ鷲が警告する必要もないはずなのです(13節)。「私の祈りが御前への香として 手を上げる祈りが夕べのささげ物として立ち上りますように」(詩141:2)。天と地において、すべての聖徒たちの祈りが、香の煙とともに神の御前に立ち上り、主がそれを確かに受け取っておられるということを教えられます。聖徒とされた私たちもそれに加わり、主に祈りをささげたいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 7章◇(11月29日)

「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」…黙示録7:17

6章で6つの封印が解かれ、7つ目の封印は8章で解かれますが、その間に挿入されたように挟まれているのが7章です。そこには、白い衣を身にまとったあらゆる民族からの大群衆の姿が描かれています。彼らはなつめ椰子の枝を手に取り、御座に着いている神と子羊なるキリストの前に立ち、自分たちに救いをもたらしてくださった神と子羊に向って、賛美の声を上げていました(10節)。また、御使いたちも御座の前にひれ伏して、「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように」と言って神を礼拝していたのです(12節)。すると、そこにいた24人の長老たちのうち一人が、その大群衆がどのような者たちかをヨハネに解き明かしてくれました。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです」(14節)。彼らは、キリストの血によって贖われ、罪赦され、神に義と認められた者たちです。また、白い衣によって象徴されているように、迫害という大きな患難によって殉教し、着ていた衣が血に染まったとしても、子羊の打ち傷と流された血潮によって癒され、いのちが取り戻され、勝利が与えられている聖徒たちなのです。それゆえ、彼らは、永遠のいのちを与えられ、神の御座の前にあって、昼も夜も絶えず神に仕えているのです。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない」。迫害を受けた彼らの中には、獄中で何も与えられずに餓死したり、火あぶりにより焼死したりした者もいました。しかし、彼らはもはやそのような目に遭うことはなく、彼らの悲しみと痛みは取り去られ、喜びへと変えられるのです。そしてそれは、聖徒とされた私たちが、この地上にあって先取りして受けることができる、神の国の祝福なのです。主にあって勇敢に歩み続けたいと思います(ヨハ16:33)。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 6章◇(11月28日)

「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」…黙示録6:11

御座に着いておられる方から巻物を受け取った子羊は、その巻物の7つの封印を一つずつ解いていきました。6章には、1~6番目の封印が解かれたときに起こった出来事が記されています。第1の封印が解かれたとき、ヨハネは弓を持つ者が乗る白い馬を見ましたが、その者は勝利を重ねることを願う、侵略者を表わしていると思われます。第2の封印を解くと、火のように赤い馬が出て来ました。馬に乗っている者には大きな剣が与えられ、地から平和を奪うことが許されるため、人々は互いに殺し合うようになり、赤に象徴される流血の争いが起こったのです。第3の封印を解くと、秤を持つ者が乗った黒い馬がおり、「小麦1コイニクスが1デナリ」という声が聞えました。それは1日分の賃金で小麦1リットルしか買えないということであり、飢饉が起こることを示唆しているのです。第5の封印を解いたとき、殉教者たちが自分たちの血の復讐をするよう神に迫りましたが、彼ら全員に白い衣が与えられ、同じように殉教する者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるようにと言われました。そのように終末が近づくにつれ、地上における聖徒たちに対する迫害は、激しさを増すことが示唆されていますが、復讐を単に待つように…ではなく、「休んでいるように」という指示が殉教者たちにされたことが心に留まります。そのように、辛く苦しいところを通らされた彼らは、最終的な終末を前にしてすでに、主のみもとにおいて、休息が与えられているのです。そしてそれは、地上において今なお苦しむ者たちに励ましと慰めを与えるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。その主の招きに応答し、主のみもとに進み行き、休息を与えられる者でありたいと思います。

心に平安がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 5章◇(11月26日)

「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』」…黙示録5:12

ヨハネが見た天の御座の光景の続きです。御座に着いておられる方の右の手には、字が書かれた巻物が握られていましたが、7つの封印がされていて、それを解いて巻物を開くのにふさわしい者がだれも見つかりませんでした。ヨハネは、そのことを知って激しく泣きました。しかし、長老の一人はヨハネに、泣いてはいけない、ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼が7つの封印を解くことができる、その巻物を開くことができると告げました。そう言われたヨハネが見ると、御座と4つの生き物と長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っており、それには角と目が7つずつあり、御座に着いておられる方から巻物を受け取っていたのです。巻物が子羊の手に渡ったとき、4つの生き物と24人の長老は子羊の前にひれ伏し、新しい賛美の歌をもって礼拝をささげました(9-10節)。「屠られ」、「血によって…贖い」、と彼らが歌ったその子羊とは、無論イエス・キリストです。キリストは、罪のないご自身をいけにえとしてささげ、十字架にかかり、血を流し、いのちを代価として、すべての人を罪の奴隷から買い戻し、贖ってくださったのです。そのキリストこそ、神から巻物を受け取って封印を解くのにふさわしい方、それができる唯一の存在であったのです。「あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」。「神のために」とあります。神はご自身のために、すなわち全世界の救いと回復というご自身のご計画を成し遂げるために、人々を罪の中から救い出し、聖徒たちに油を注ぎ、この地を治めさせ、祭司としてとりなしの働きをさせておられるのです。キリストがもたらされた神の国を拡大するために、それぞれのところに遣わし、用いておられるのです。私たちもまた、そこに加えられていることを覚えたいと思います。

主の油注ぎがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 4章◇(11月25日)

「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」…黙示録4:11

4章と5章においては、天の御座の光景が記されています。ヨハネは、ラッパのような音の声で、「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう」と語りかけられ、御座に着いておられる方、すなわち栄光に満ちた神のみ姿を、直接見ることが許されたのです。その御座の周りには24の座があり、白い衣を着て金の冠をかぶった24人の長老たちが座っていました(4節)。また、6つの翼を持ち、前後が目で満ちている4つの生き物がいて、それらは獅子、雄牛、鷲のように見えましたが、その一つは人間のような顔を持っていました(7-8節)。それらは、神が創造された生き物の代表かもしれません。その4つの生き物は、昼夜休みなく、御座におられる神に向って「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」と言って賛美し、礼拝をささげていました。さらに24人の長老たちもそれに加わり、御座に着いておられる方の前にひれ伏し、かぶっていた自分たちの冠を神の前に投げ出して、「あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方…」と言って賛美し、神を礼拝していたのです。そのような光景を目にしたヨハネは、地上にあって、島流しにされた状況の中で、大きな励ましと希望を与えられたに違いありません。そして自分もそこに加わるようにして、そのところで主をあがめ、礼拝をささげたことでしょう。長老たちが冠を投げ出したその行為は、自らを低くし、持てるものを神の前に明け渡し、すべての栄光を神に帰すということを意味しています。私たちはそのような態度で礼拝をささげているか、自らの日々の歩み、生き方がそのようなものであるか…と思わされます。創造者であられ、全能者であられ、主権者であられる主の前にますますへりくだり、ただ主に栄光と誉れと感謝をささげる者でありたいと思います。

励ましと希望が与えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 3章14-22節◇(11月24日)

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」…黙示録3:15

7つ目の使信はラオディキアの教会に対するものです。主は、「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」と言って非難されました(16節)。彼らは、主を信じてその教えに聞き従うことにおいて、またキリストの福音を人々に宣べ伝えることにおいて、さらに地の塩、世の光として主の証人となることにおいて、熱意がなく、中途半端で、惰性でそれらのことをただ習慣的に行うような者たちであったのです。彼らは自分たちがキリストを信じて罪赦され、救われていることに満足していました。また物質的に豊かでした。しかしさらに深みに漕ぎ出し、主が備えておられる豊かな霊的祝福にあずかり、神の国を押し広げ、その祝福を周りに押し流していく、そのことを追い求めてはいなかったのです。そして、そんな彼らは満たされてはおらず、実はみじめで、貧しく、裸だ…と、主は言われたのです。彼らに対して主は、火で精錬された金をわたしから買い、裸の身を覆う白い衣を買い、目が良く見えるための目薬を買うようにと命じられました(18節)。そしてそれは、「買う」ということばが示唆しているように、自らが貧しい者で、足りないもの、欠けた部分があることをまず正しく理解し、その上で、犠牲を払うことをいとわずに、それを得るように努めよ、ということなのです。「…だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし…」(20節)。そのように、主と食事をしつつ親しく交わる中で、主のことばを聴き、主のみ思いを知り、真理に目がさらに開かれていくのです。そしてそれは、すべての聖徒たちに対して主が求めておられることであって、ラオディキアの信徒たちのように、大丈夫です、間に合ってますと、戸を閉ざすような者であってはならないのです。生ぬるくないか…現状に満足していないか…絶えず主と親しく交わっているか…と、自己吟味したいと思います。

祝福の基とされますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 3章1-13節◇(11月23日)

「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。」…黙示録3:11

1~6節は、サルディスの教会への使信です。「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と非難されていますが、それは彼らの霊的な状態のことを指しているのであって、目を覚ますようにと命じられていることから(2,3節)、彼らがこの世の快楽を求め、主のみこころに従って歩もうとしない、ということが示唆されます。しかし、そんなサルディスの教会にも、わずかながら、「衣を汚さなかった者たち」がいました。彼らは、この世のものに染まることを拒み、主の教えを守り、きよさを保つ者であったのです。そして、その者は終わりの日に白い衣を着せられ、勝利にあずかり、主とともに永遠に生きる者となる、その者の名はいのちの書から決して消されることはない…と、主は言われたのです(4,5節)。7~13節は、フィラデルフィアの教会への使信です。信徒たちが持っている霊的な力、神への信仰は必ずしも強固なものでなく、頼りないところもありましたが、彼らは、主のことばを守り行い、主の名を否まなかった、すなわち、キリスト者としてその名に恥じないよう、主の御名が汚されないよう、畏れをもって歩んでいたのです。そしてそれゆえ主は、「だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた」と言われたのです(8節)。「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守った…」(10節)。悪しき者であるサタンは、聖徒たちを常に誘惑し、何とか神から引き離そうと働いています。しかし、忍耐をもって神に信頼し続け、主のことばに聞き従い続ける者は幸いなのです。その者は、主から守られ、勝利を得る者とされ、神とキリストと新しいエルサレムの名が書き記されるのです。それはつまり、神の所有の者、新しい都の住民とされることの保証です。持っている自分の冠、愛と信仰と忍耐を悪しき者に奪われないよう、しっかりと保ち続けて歩みたいと思います。

主の守りがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 2章18-29節◇(11月22日)

「ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。」…黙示録2:25-26

ティアティラの教会への使信が書かれています。信徒たちは、さまざまな苦難の中にあっても、愛と信仰に根差し、希望を捨てずに忍耐し、主の働きに励み、奉仕を忠実に行い続けていました。そして主は、彼らのその歩みを知っていると言われ、称賛を与えているのです(19節)。一方で主は、彼らが、イゼベルという、預言者だと自称している女性を「なすがままにさせている」と、非難しています。彼女は教会に誤った教えを持ち込み、人々を惑わし、さらに性的不品行や偶像礼拝をも行わせていましたが、教会はそのことに対して断固とした態度を取らずに放置していたのです。「なすがままにされる」と訳されている原語は、「許す、容認する」という意味のことばで、新共同訳では「大目に見る」と訳しています。「あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい」。ティアティラの教会が持っていた良きもの、愛と信仰と忍耐…。ご自身の再臨のときまで、それをしっかり持ち続けて保つようにと、主は彼らに命じ、励ましています。そしてそのためには、主のみこころではないこと、主が喜ばれないものをなすがままにすることなく、きっぱりと排除すべきなのです。これぐらいならまあいいか…と、大目に見てはならないのです。そうするならば、痛い目に遭うこととなるのです。そしてそれは、教会の歩みにおいても私たちの生活においても当てはまる、真理なのです。「勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える」。最後まで主のわざを守る者とは、主の御声に聞き従い、みことばを守り行う者であり、その者こそが勝利にあずかり、忠実なしもべとして主から称賛され、栄冠を与えられるのです。主の御旨ではないものを断固として拒絶し、内から排除する…。そのことを徹底する者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 2章1-17節◇(11月21日)

「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」…黙示録2:4-5a

2章以降に、アジアにある7つの教会に対する使信が書かれています。今日の箇所では、エペソ、スミルナ、ペルガモンにある3つの教会への主のことばが記されており、そこには称賛に値することとともに、責められるべきことも含まれ、そのことの悔い改めが求められています。エペソの教会が褒められている点、それは彼らの忍耐です。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった」と3節にあります。しかもそのように試練と苦難に耐えた彼らは、使徒と自称する者たちの偽りの教えに我慢がならず、それが神の教え、真理ではないと見抜いて退け、教会を守ったのです。私たちもまた、みことばにしっかりと立ち、霊的な洞察力を主から与えられ、偽りを見抜くことが求められています。一方、そのエペソの教会が主から責められた点、それは、「初めの愛から離れてしまった」(4節)ということです。その愛とは、教会の兄弟姉妹や周りの人々に対する愛であり、また、神を慕い求め、その教えを忠実に守り行うという主に対する愛であり、さらに、弱さと足りなさを持った、欠けだらけの自分自身に対する愛でもあります。偽教師たちの教えから教会と自分を守ろうとするあまり、剣とよろいを常にまとうようなあり方となり、彼らから素直な心、純真さが失われていたのかもしれません。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハ4:10)。その一方的な神の愛、罪人である私たちの贖いこそが、私たちの愛の源泉です。戻るべき原点です。そこに日々立ち返り、変わることなく注がれている神の愛を受け取り直すとき、私たちは、初めの愛から離れていることを気づかされ、悔い改め、初めの愛を再び持つ者とされるのです。そのような主の取り扱いを求めたいと思います。

平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの黙示録 1章1-8節◇(11月19日)

「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」…黙示録1:8

パトモス島に流された主イエスの弟子のヨハネが、そこで幻を見せられて書き記したとされているこの黙示録は、1節にあるとおり、神が、イエス・キリストの黙示、つまり隠されていることを人類に啓示するために、ヨハネを通して与えられた預言の書です。3節には、「…それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである」とあります。黙示の書ゆえに、象徴的な表現が多用され、理解が難しく、またまだ遠い先のこととして敬遠されがちですが、終わりの日は確かに近づいているのであり、そのことばをしっかりと心に留め、良き備えをする者は幸いなのです。4~8節の短い部分において、実に多くのことが語られています。今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者である神は、ご自身の御旨に従って無から有を生み出し、この世界をもたらされた創造主であり、アルファでありオメガ、すなわち、初めであり終わりであるお方であって、父と御子と御霊の三位一体なる神として、今もすべてを統べ治めておられる主権者であるのです。そして、御子であるキリストは、私たちを愛し、身代りとなって十字架にかかり、いのちをささげ、その血によって私たちを贖い、罪の奴隷から解放し、あらゆる国からの者を神の所有の民とし、祭司としてとりなしの働きを担わせ、ご自身の救いと栄誉を告げ知らせる者として用いてくださるお方なのです(6節、1ペテ2:9参照)。「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る…」(7節)。そのキリストは、今は天の父の右の座において、私たちのためにとりなしておられますが、やがて再び、雲とともにこの地上に来られるのです。そして、教会と聖徒たちは、キリストの花嫁として迎えられるのです。その時に、私たちの近しい者が悲しむことがないように、ともに喜び踊る者とされるように、祈り、とりなし、主のみわざを証ししていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 48章◇(11月18日)

「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる。」…エゼキエル48:35b

エゼキエル書最後の48章では、イスラエル12部族に対する土地の配分について記されています。そしてそれは、かつてイスラエルの民が、約束の地として主から与えられたカナンに入り、土地の割り当てを受けたその区分とは異なっています。特にルベン、ガド、マナセの半部族は、かつてはヨルダン川の東側に相続地を得ましたが、この48章では、彼らも他部族と同じく、西側に所有地を得ているのです。その理由は不明ですが、終末においては、そのような分かれた状況が解消され、一つの民としての一体性が強く現わされるようになると思われます。30~35節は、エルサレムの町の門についての記述です。東西南北、その四方にはそれぞれ3つの門があり、合計12の門にはイスラエルの各部族の名がつけられていますが、そこには、相続地の割り当てのないレビ族の名も含まれています。そしてその門についての描写は、ヨハネに啓示されたものとも似通っているのです(黙21:12-13)。そのことからも、エゼキエルが見た幻が、来たるべき新しいエルサレムの予型であることが示唆されています。最後の35節には、この書の結びのことばとして、「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる。」と書かれています。その前にある、イスラエル12部族の名がつけられた門についての描写と合わせて考えると、神に選ばれたイスラエル民族が、「神が人とともにいる」という恵みを、四方に、全世界に分かち合うために用いられ、またその神を求める世界中の民が、イスラエルを通して神と出会い、イスラエルとともに祝福を受けるようになるという真理を、ここからもあらためて教えられます。そのように、キリストによって贖われた異邦人の民もまた、霊的なイスラエル、神の民とされ、血肉のイスラエルの民とともに、新しいエルサレムにおいて神と小羊に礼拝をささげ、永遠に主とともに生きることになるのです。そして主は、今も、インマヌエルなるお方として、私たちといつもともにいてくださるのです。その主にますます拠り頼んで歩んで行きたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 47章◇(11月17日)

「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」…エゼキエル47:9

エゼキエルは、最後の幻として、もう一度、神殿への入口となる東向きの門に連れ戻されましたが、彼がそこで見たものは、神殿の敷居の下から東の方へと流れ出る水でした。その水は、最初は足首まででしたが、案内人に従って渡っていくと、膝、腰とその深さは増していき、ついには渡ることのできない流れの川となったのです。案内人は「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる」とエゼキエルに告げました。「海」とは、アラバの海、すなわちエルサレムの南東に位置する死海のことです。その死海は塩分濃度が海水の10倍もあり、硫黄も含まれているために魚などの生物が住めない、まさに「死の海」ですが、神殿から流れる水がそこに注ぎ込むと、すべてのものが生きるようになると言うのです。さらに、その川の両岸にはあらゆる種類の果樹があり、毎月新しく結ばれるその実は民の食物となり、生い茂るその葉は病を癒す薬となるのです(12節)。ヨハネの黙示録22章2節にも、都の中央に流れるいのちの水の川の両岸にいのちの木があり、12種の実を毎月結び、その葉は諸国の民を癒すと書かれていますが、エゼキエルが見た幻は、終わりの日に完成する永遠の都の予型なのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハ7:38)。神殿から流れ出る水によって、死海があらゆる生物が住むところと変えられるように、生ける水の川、すなわち聖霊の流れは、罪に縛られ霊的に死んでいる者を「生きる者」と変えるのです。そしてそれは、キリストの十字架と復活による贖いにほかなりません。死をいのちに変えるという神の救いと回復のみわざが、聖書全体を貫いていることを覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 46章◇(11月16日)

「しかし、民衆が例祭の日に主の前に入るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入る者は北の門を通って出て行かなければならない。」…エゼキエル46:9a

46章においても、エゼキエルが幻の中で見せられた新しい回復の神殿で、来たるべき終末のときに神の民が献げるささげ物や、礼拝の手順について述べられています。捕囚となってバビロンにいた者たちは、その具体的で詳細な記述によって、神が必ずそのとおりにされるという確信のうちに、将来への希望を持ったに違いありません。8~10節には、君主と民衆が神殿に出入りする際の規定が書かれています。君主の場合は東側の玄関の間を通って出入りしますが、民衆の場合は北あるいは南の門を通って出入りし、かつ、入った門には戻らず、反対側の門から出るというように定められていました。それはつまり、人の流れが一方通行になるように動線を制御するということであり、人の滞留をなくして、混乱や事故が起こるのを防ぐという意図があったと考えられます。現代社会においてさえ、そのような人流制御の考え方は浸透しておらず、事故が起こることがしばしばですが、旧約の時代においてすでに、神によってそれが示されていたことが心に留まります。そしてそこから、新しい神殿においては、イスラエルの民だけでなく、キリストにある世界中の聖徒たちが神を礼拝するために集うために、その人数が、私たちの想像を絶するようなおびただしいものとなるということを、あらためて教えられるのです。「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」「ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」(1コリ14:33a,40)。教会の活動においても、私たちの日々の歩みにおいても、神が定める秩序に従うことが大切です。そうでなければそこに混乱が生じ、問題が引き起こされてしまうからです。そして、従うべきその秩序は、みことばから原則を学び、祈りのうちに御霊によって示されるものなのです。神が備えてくださっている秩序に従い、平安と確信をもって進んで行きたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 44章◇(11月14日)

「神である主はこう言われる。『心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民は、だれもわたしの聖所に入ってはならない。イスラエルの子らの中にいる異国の民はみなそうだ。」…エゼキエル44:9

44章4-14節には、エゼキエルが見せられた神殿で奉仕をする者たちの規定が記されています。神殿の前に連れて行かれたエゼキエルが見ると、主の栄光が宮に満ちており、彼は畏れをもってその場にひれ伏しました。すると主は、主の宮のすべての掟と教えについて、ご自身が語られることを心に留めるようにと命じられたのです。7節には「心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民を連れて来て、わたしの聖所にいさせ、わたしの神殿を汚した」とあります。そのことばを表面的に理解するならば、異邦人で救われた者にも割礼が必要ということになりますが、もちろんそうではなく、8節にあるように、祭司が自らの任務を果たさず、それを安易に異邦人にさせるそのあり方が問題とされているのです。さらに、その主のことばは、「心に割礼を受けず」と、外見上の割礼よりもそのことを先に取り上げているのであって、それを霊的にとらえるならば、「異国の民」とは、必ずしも血筋におけるユダヤ人以外の民、異邦人を意味しているのではない、ということを教えられます。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます」(ロマ2:28-29)。割礼とは、ユダヤ人と異邦人を区別するための、単なる外面的なものではありません。主が求めておられる真の割礼とは、砕かれたたましいとへりくだった心をもって、主に仕えることであるのです。パウロは、「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです」とも言っています(ピリ3:3)。割礼には痛みが伴います。日々、主の取り扱いを受け、悔いた心で主に従う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 42章◇(11月12日)

「祭司たちは、聖所に入ったら、聖所からそのまま外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は聖であるから、そこに置き、ほかの服に着替えてから民に属するところに近づくのである。」…エゼキエル42:14

エゼキエルは、神殿の中央に位置する本殿から、北側の外庭にまた戻され、北の方の建物に面している部屋に連れて行かれました。その建物は内庭と外庭との間に位置し、3階建てでバルコニーがあり、3階の部屋はそのバルコニーが広く取られていたために、下の階よりも狭くなっていました。その建物は、文章だけだと分かりづらいですが、聖域、つまり本殿がある部分に面した側にある100キュビトの長さの部分(2節)と、外庭に面した側にある50キュビトの部分(8節)との2つに分かれており、さらにそれは、聖域を挟んで、北側と南側に、まったく同じ構造・寸法のものが建てられていました(10-12節)。それらの4つの建物のうち、聖域に面している南北の建物の部屋は、「聖なる部屋」として、神殿での奉仕にあたる祭司たちが、ささげ物を食する所となっていました。またそこは、ささげ物を置いておく場所としても使われ、さらにそこは、奉仕を終えた祭司たちが服を脱いで着替えるための場所でもあり、彼らは、祭司服を着たまま外庭に出て、民に近づくことはできなかったのです。エゼキエルが幻で見せられたこの神殿は、将来的に神によって備えられるものですが、そのように、聖なるもの・領域と、そうでないもの・領域を明確に区別することが、そこでも求められているのです。そしてそれは、いつの時代にあっても変わらない、神がご自身の民に対して要求されること、みこころであり、キリストに贖われて聖徒とされている私たちもまた、それに従うべきなのです。パウロは「この世と調子を合わせてはいけません」と言っています(ロマ12:2a)。私たちはこの世に生かされている者ですが、そのように、神の聖なる民として、世と「一線を画す」者とされ、地の塩、世の光として用いられるようにと、主に願い求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 41章◇(11月11日)

「彼はまた、本殿の奥に長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に『これは最も聖なる所だ』と言った。」…エゼキエル41:4

41章は、神殿の本殿についての記述です。エゼキエルは、自分を案内する人について本殿の玄関の間から入り、壁柱、壁などの幅を測るのを見せられながらさらに進み、聖所、そしてその奥の至聖所まで行きましたが、そこでその人は、「これは最も聖なる所だ」と告げたのです。また、本殿の三方の周囲、すなわち右と左と至聖所の裏には、壁で区切られた脇間があり、それは三階建てで、その数は各階30室ずつ、合計90室ありました。それらは、祭司が神殿で奉仕するときに控え室であり、その務めに必要な器具などを保管する場所であると思われますが、それは、本殿をぐるりと取り囲むようになっていたため、構造的に本殿の建物全体を支える役目も果たしたのです。エゼキエルが見たその神殿には、ソロモンによる最初の神殿と同じ部分、違う部分がありましたが、明らかに異なるのは、聖所と至聖所を隔てる幕がないことです。また記述を見る限り、至聖所には契約の箱もありません。契約の箱は主の臨在の象徴であり、大祭司が年に一度その前に出て、動物のいけにえの血をそこに振りかけ、民の罪のためのとりなしをしますが、その神殿に隔ての幕と契約の箱が存在しないということはすなわち、キリストの血による贖いが成し遂げられるのでそれらが不要になるということであり、その神殿が、新約時代の教会、聖霊の住まわれる宮とされる聖徒たちを指し示し、さらには、やがて打ち立てられる新しいエルサレム、聖なる都において、全能の神である主と子羊自身が神殿となるということをも、示唆しているのです(默21:22)。「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます」(ヘブ10:19)。大祭司なるキリストは、ご自身の尊い血潮により、全人類のための贖いを成し遂げられました。このキリストにあって私たちは、主の前に大胆に進み、聖なる方と親しく交わる者とされるのです。その恵みを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 40章28-49節◇(11月10日)

「北向きの部屋は、祭壇の任務に当たる祭司たちのためのものである。彼らはツァドクの子孫であり、レビの子孫の中で主に近づいて仕える者たちである。」…エゼキエル40:46

28節以降に書かれているのは、エゼキエルが幻の中で見せられた、神殿の内庭の光景です。内庭にも外庭と同じように門がありましたが、そこでの階段は、外庭にあるものよりも1段多い8段となっていました。また、南、東、北の3つの門の構造と寸法は、等しくなっていました。38節からは、その内庭においてささげられる動物の犠牲を準備するための部屋についての説明です。そこには、全焼のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を屠るための台が、それぞれ2つずつありました(39節)。44節からは、祭司たちの部屋についての記述です。北門のわきにある南向きの部屋は、神殿全体の任務にあたる祭司たちのためのもの、また南門のわきにある北向きの部屋は、特に祭壇の任務にあたる祭司たちのものでした。そのように部屋が明確に分けられていたのは、主に近づいて仕える祭司たちが汚れてしまうことがないよう、聖さを保つための配慮であったと思われます。「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである」(レビ20:26)。聖であるように主が求めておられるのは、祭壇の任務にあたる祭司に対してだけではありません。それは、聖なる神が所有されている、イスラエルの民すべてに対してであり、またそれは、汚れたものに近づかないという外面的なことだけでなく、内面、すなわち心のあり方において、肉ではなく、神の聖い霊の導きと促しに従って生きるということでもあるのです。キリストの血潮によってきよめられ、罪赦された私たちもまた、神が所有される民として、自分自身を聖く保ち、傷のない神の子羊としてご自身をささげられた主をますますあがめ、ほめたたえる者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 40章1-27節◇(11月9日)

「…『人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべてのことを心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。』」…エゼキエル40:4

主は、エルサレムの都がバビロンによって陥落してから14年目のちょうどその日、捕囚となっていたエゼキエルを幻のうちにイスラエルの地に連れて行かれ、さまざまなものを彼に見せられました。エゼキエル書の40章以降の最後の部分は、そのことが記された黙示文学としてのものであり、それを象徴的に理解するか、また、終末のことを指していると取るかなどについて、さまざまな議論があります。いずれにしてもエゼキエルは、「神々しい幻」、つまり、あたかも神の元に引き上げられたかのように、主の臨在が満ちる中でその幻を見せられたのであり、それをしっかりと目に焼き付け、将来起こることとしてイスラエルの民に伝えるよう求められたのです。エゼキエルのその取り扱いは、都が占領されてから14年目の「ちょうどその日」でした。それは偶然ではなく、主が意図されたことであったのです。主は、絶望していた民に希望をもたらし、彼らの悲しみを喜びに変えるべく、その特別な日を選んで、すべてがご自身の御手のうちにあることを、まずエゼキエルに示されたのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。主は、この世界のすべてを御手の中に治めておられ、時間をも支配しておられ、私たちの歩みにおいて、「ちょうどその日に」、「ちょうどその時に」、ご自身のみこころに従って事をなされるお方です。それは決して偶然ではなく、主の最善のご計画なのです。そのことを通して、主は、ご自身が全能者であり、主権者であることを人々に現わし、私たちが、畏れと謙遜と信仰をもって、ご自身に従うようにされるのです。また、失意と悲しみの中にある私たちを励まし、平安と希望と喜びをもたらしてくださるのです。そのことを覚え、どんな状況にあっても、ただ主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 39章◇(11月8日)

「わたしは二度と、わたしの顔を彼らから隠すことはない。わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐからである-神である主のことば。」…エゼキエル39:29

「…ゴグよ、わたしはおまえを敵とする」(1節)。神は、イスラエルにゴグを遣わして攻めさせますが、今度はそのゴグを敵とされるのです。38章18節以降にすでに、ゴグのうちで同士討ちや疫病が起こると書かれていますが、39章ではさらに神のそのさばきが進展しています。「その日、わたしは、イスラエルのうちに、ゴグのために墓場となる場所を設ける。…そこにゴグと、その大軍すべてが埋められ、そこはハモン・ゴグの谷と呼ばれる。七ヶ月間、イスラエルの家は、その地をきよめるために彼らを埋め続ける」(11-12節)。そのように、ゴグの部隊と民は猛禽や野獣の餌食となり、おびただしいその屍を谷に埋めるのに7ヶ月、武器を火で燃やすのに7年もかかると言うのです。イスラエルが神に不信の罪を犯したために、民は諸国の手に渡され、イスラエルの山々はゴグに攻められるわけですが、その後にゴグがそのようにさばかれるのは、主がご自身の聖なる御名を汚させないためであり、諸国の民が、イスラエルの神こそ、すべてを統べ治める主権者であると知るためであるのです(7節)。「今、わたしはヤコブを回復させ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わが聖なる名への、わたしのねたみによる」(25節)。主が、ご自身の御名に対してねたまれるとありますが、それは、その聖なる御名を断じて汚させないとする、主の強い思いの現れにほかなりません。それほどまでに激しい感情をもって、主は熱心に働かれるのです。イスラエルは回復されるのです。異邦人である私たちもまた回復され、救われ、そのことを通して、主の御名が人々に知られ、あがめられるようになる…それが主のみこころなのです。その主のご支配が、きよめの働きが、私たちのうちにますますなされるようにと、日々、主に祈り求める者でありたいと思います。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 38章◇(11月7日)

「…ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。」…エゼキエル38:16

「ゴグ」への預言、主のことばが書かれています。36-37章にはイスラエルの終末的な回復が啓示されていましたが、38-39章には、その前に起こる、イスラエルの中心、神の都エルサレムへの攻撃が示されています。そしてそれは、終わりの日の前に起こる、神に敵対する悪しき勢力による、神の民への反抗を表わしているのです。ゴグはこう言うのです。「私は無防備な国に攻め上ろう。安心して暮らす平穏な者たちのところに侵入しよう。彼らはみな城壁もなく住んでいる。かんぬきも門もない」(11節)。そのように、回復が与えられて再び平穏に暮らす日々が将来与えられるという、主からの約束のことばは、バビロンの地で捕囚となっていたイスラエルの民にとって、大きな希望となっていたに違いありません。しかし、敵の攻撃を想定して城壁を築くことをせず、かんぬきと門もなくしているならば、主が言われたように、その平穏な暮らしは、突然破られることになるのです。「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから」(マタ24:42)。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい(1ペテ1:13)。私たちは、終わりの日が必ずやって来るということを知っています。けれども、ともすれば、どうせまだまだ先のことだ…とたかをくくったり、私はもう救われているから大丈夫だ…と油断したり、この世での生活を充実させることに必要以上に心を向けてしまったりしがちです。しかし主は、そうならずに、目を覚まし、心を引き締め、身を慎み、悪しき者の誘惑と攻撃に対抗しつつ、キリストの再臨を待ち望む者となることを求めておられるのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 144篇◇(11月5日)

「私たちの息子らが 若いうちから よく育てられた植木のようになりますように。私たちの娘らが 宮殿にふさわしく刻まれた 隅の柱のようになりますように。」…詩篇144:12

詩人は、敵との戦いのただ中にあって、主をほめたたえています。主が詩人の手を強くし、戦いのために備えさせてくださるからです。その敵が国を攻め取ろうとする強大な国家であっても、主は、詩人に恵みを与え、砦、やぐら、盾、避け所となり、守ってくださる救い主であり、また、国のリーダーである詩人と心を合わせて敵と勇敢に戦う民を、立ち上がらせてくださるのです(2節)。5~11節は救いを求める祈りであり、先取りの感謝です。創造者であられ、主権者である主が、天から降りて来られ、山々に触れて噴煙を上げさせ、稲妻を矢のように空から地に放つとき、敵はかき乱され、詩人はその剣かから解き放たれ、民は勝利を得ることができるのです。12~15節には、主を神とする民の幸いが語られ、実際にそのようになることへの願いが書かれています。「私たちの息子らが…よく育てられた植木のようになりますように。私たちの娘らが…隅の柱のようになりますように」。詩人は、自分たちのこどもたち、次世代の若者たちが、主にあって守られ、成長し、しっかりと自立するようにと願っています。そしてそのために、彼らに主の訓戒を教え込み、背後でとりなしの祈りをもって支える、そのようなあり方を率先して行い、民にも推奨したのです。そのように、リーダーが何よりも主を畏れ、主を待ち望む者となり、民が主にあって一つとされ、リーダーと心を合わせ、次世代の者たちが主のみことばによって教育される群れは、国家であれ、教会であれ、家庭であれ、主がくださる守りと祝福と繁栄のうちを歩むことができるのです。私たちはキリストによって贖われ、神の民とされ、その神のみこころを知っています。そして、祭司としてとりなし、自らが関わる群れにおいて、そのあり方を実践する者とされているのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

みこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所:詩篇 143篇◇(11月4日)

「私は昔の日々を思い起こし あなたのすべてのみわざに思いを巡らし あなたの御手のわざを静かに考えています。」…詩篇143:5

詩人は、自らが置かれている状況を主に訴えています。敵から追われる身である詩人は、常に緊張を強いられるゆえに、心とたましいが追い詰められ、いのちが地に打ちつけられるような思い、光のない闇の中に閉じ込められたような思いになり、霊が衰え果て、心もすっかり荒れすさんでしまったように感じていたのです(3-4節)。しかし詩人は、絶望して自暴自棄になることなく、神への信頼、期待を持ち続けました。そして、主が自分に対してなされたすべてのみわざを、一つ一つ数えるようにして思い巡らし、また、この世界のすべてを造られ、統べ治めておられる主の御手のわざを考え、その主がどれほど偉大であり、真実であるお方であるかということを、静まって黙想したのです(5節)。「あなたに向かって 私は手を伸べ広げ 私のたましいは 乾ききった地のように あなたを慕います」(6節)。詩人はそのように、静まりと黙想により思いを新たにし、主に向き直っています。そして、自らの過去において、また、世界の歴史の中で偉大なみわざをなされた主は、これからも変ることなく自分に関わり続けてくださる、主は真実なお方、良いお方、信頼するに足りるお方であるとの確信が与えられた詩人は、両手をいっぱいに広げ、その主を慕い求め、主のみわざを待ち望んだのです。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩103:2)。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザ30:15b)。試練と苦難の中で、落ち着いているのは難しいことかもしれません。しかし慌てふためくことなく、現実に目を奪われず、主の前に静まって、御手のみわざを思い巡らすならば、騒いでいたその心は静められ、御霊は慰めと励ましを与えてくださるのです。主からの力を得るのです。そのようにして絶えず主に信頼して歩みたいと思います。

平安と希望がありますように。

◇聖書箇所:詩篇 142篇◇(11月3日)

「主よ 私はあなたに叫びます。『あなたこそ私の避け所 生ける者の地での 私の受ける分。』」…詩篇142:5

詩人の叫びが心に留まります(1,5,6節)。心の中の思いを吐き出すかのように、ことばを口にし、声を上げる…。それが「叫び」です。詩人は、自分のいのちを狙う敵から追われる中にあって、恐れと苦しみと嘆きを内に留めることなく、ただ主に向って叫び、あわれみを乞い、助けを求めたのです。詩人は孤独でした。敵に見つからないように、荒野の洞窟に潜み(詩篇のタイトル参照)、誰にも頼ることができないという、追い詰められた状況の中にあった詩人にとって、主だけが唯一の支えであったのです。なぜなら、主は、たとえ心がしなえ、霊が衰え果ててしまっても、敵が仕掛けている罠も知っておられ、その上で、自分が歩むべき道を備え、平安と希望のうちに、その道へと進ませてくださるお方であるからなのですそのことを覚えつつ、詩人はあらためて主に叫びました。「あなたこそ私の避け所 生ける者の地での 私の受ける分」と。そのように詩人は、敵を恐れて洞窟に隠れているが、自分にとっての真の避け所は主であって、そこに逃げ込むなら、安全で、安心で、生きる者、いのちを保つ者とされる、私が受けるその分が備えられている…と確信し、そのことを主の前で力強く告白したのです。7節には「牢獄」とありますが、それは、敵から追われるという試練、迫害の比喩であり、同時に、そのことを恐れ、心とたましいが縛られてしまっているという、詩人の内面をも指しています。しかし、全能者であり主権者である主が、避け所となり、いのちを保つ者としてくださることを確信し、それを口に出して叫んで告白したとき、詩人はその恐れと縛りから解放されたのです。そして、感謝の思いが湧き上がり、神を敬う者たちとともに主の御名をあがめるという光景を、詩人は幻として見せられたのです。私たちも「牢獄」に閉じ込められることがありますが、詩人のそのことばを叫び、告白する者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 141篇◇(11月2日)

「私の主 神よ まことに 私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けています。私のたましいを危険にさらさないでください。」 …詩篇141:8

「主よ 私はあなたを呼び求めています。私のところに急いでください…」(1節)。詩人は、そのような呼び掛けをもって主を求めています。そして詩人は、自分の祈りが、主の御前にかぐわしい香りとして立ち上り、主が喜ばれるささげ物となるようにと願っているのです(2節)。その詩人の望みとは、主が自らの口に見張りを置き、唇の戸を守ってくださること、すなわち、口から出る自分のことばが、主のみこころにかなったものとなること(3節)、また、心が悪い思いに満たされて、悪者どもの行いに加わり、彼らの「ごちそう」を一緒に食べて楽しむような者とならないように…ということ(4節)でした。「正しい人が真実の愛をもって私を打ち 頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように…」(5節)。詩人はさらに、そのように祈っています。もちろん主は、直接の語りかけをもってご自身のみこころを示されますが、その主はまた、主の前に正しく歩んでいる人の、愛に基づく助言や忠告を通しても語られるお方であり、その取り扱いは、頭に注がれる油、神の恵み、あわれみなのであって、それを拒むことなく、主からのものとして素直に受け入れられるようにと、詩人は願っているのです。「私の主 神よ… 私のたましいを危険にさらさないでください」。詩人はそのように祈り、その後に、悪者の手からの守りを願っています。そのように詩人は、何にも優先して、自らのことば、心、たましいが、神に敵対する悪しき者の誘惑と攻撃から守られるように、霊の目が神に向けられるようにと、外面的なことよりもまず、自分の内面が主によってきよめられ、整えられるよう願い求めているのです。そして、そのようなあり方は、私たちにも求められていることなのです。「私の唇の戸を守ってください」、「たましいを危険にさらさないでください」と祈り、人を通して語られる主からの助言に対し、素直に耳を傾ける者でありたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:詩篇 140篇◇(11月1日)

「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し  貧しい者のために さばきを行われることを。」 …詩篇140:12

詩人は主に向って、よこしまな悪しき者の手から守り、暴虐を行う者から守ってくださいと、繰り返し願い求めています。彼らは、蛇のように舌を鋭くし、毒のあることばを発する者たちであり、罠を仕掛け、落とし穴を設けて、詩人を陥れようとしているのです(1-2節)。そのような中にあっても、詩人は決してひるみません。「私の主 神 私の救いの力よ。あなたは私が武器を取る日に 私の頭をおおってくださいました」と告白し、高ぶるその悪者どもの企みを遂げさせないでくださいと、助けと守りとさばきを、主に願い求めているのです。からだの中でも頭はとりわけ大切な部分です。衝撃を受けると大きなダメージとなります。戦闘においては、必ずヘルメットをかぶってその頭を防護しますが、詩人は、主が頭をおおってくださった、主ご自身がかぶととなり、敵の攻撃から守ってくださった…と完了形の動詞を使い、先取り感謝しています。それに対して、詩人を取り囲む悪者どもの頭は、高ぶって何もつけていないので、自らの唇の害悪がおおうようになり、さらに、主のさばきによって、燃える炭火が降りかかり、火の中に入れられ、深い淵に落とされ、立ち上がれなくなるのです(9-10節)。ダビデが巨人ゴリヤテと戦ったとき、サウルは自分のよろいかぶとを着せようとしましたが、ダビデは、借り物の武具は慣れていないからと言って、それを脱ぎ、石投げ一つで戦って彼に勝利しました。人からの借り物、人間的なものに拠り頼まず、主に信頼する者は、決して打ち負かされることはないのです。主は、悪しき者どもに苦しめられている、弱く貧しい者たちの叫び、訴えを聞かれ、その者たちのために立ち上がり、さばきを行ってくださるからです。そのように、私たちも、悪しき者のさまざまな攻撃から、主によって守られていることを覚え、ますますその主に拠り頼み、また御名を賛美しつつ、歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。