◇聖書箇所:詩篇 121篇◇(4月30日)

「主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。 昼も 日があなたを打つことはなく 夜も 月があなたを打つことはない。」…詩篇121:5-6

苦難の中にあった詩人は、助けを必要としていました。しかし、八方塞がりの状況の中、その助けがどこからどうやって来るのかわからず、意気消沈し、途方に暮れていたのです(1節)。しかし、うなだれていたその顔を上げ、目を遠くにやると、そこにはどっしりとした山並みが見えました。そして、それがいつも変わらずにあることを思ったとき、詩人は示されたのです。「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」ということを(2節)。「主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない」(3節)。自らの助けが主から来ると確信した詩人は、その主がイスラエルの神であることを覚え、同胞を励ますべくそう告白しました。そのように、たとえ誰にも知られていないかのように思えても、確かに主の御目は一人ひとりに絶えず注がれ、また力強い御手が置かれ、民は守られ、支えられているのです。「主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる」(7節)。そのようにして、主は、民を苦しめ、いのちを奪おうとする、悪者やあらゆるわざわいを遠ざけ、それらから守ってくださるお方です。またそれは、身体的な守りだけではなく、たましいの守り、すなわち霊的な領域、神との関係における悪しき者からの守りであり、さらにそれは、絶えず、どんなときにも与えられており、永遠に続いていく守りなのです(8節)。キリストにあって、そのような神の民として、私もそこに加えられている…。そのようなお方が、私の主となって、ともにいてくださる…。絶えずその主に守られ、導かれて、苦難に満ちたこの地上の荒野を歩むことができる…。それはなんと幸いであり感謝なことでしょうか。その主の守りを、また主の主権を覚えつつ、私たちもまた、うなだれることなく、天に向って信仰の目、霊の目を上げ、ますます主に信頼して歩む者でありたいと思います。

主を仰ぎ見て生きる者とされますように。

◇聖書箇所:詩篇 120篇◇(4月29日)

「主よ 私のたましいを 偽りの唇 欺きの舌から 救い出してください。」…詩篇120:2

詩篇中の120~134篇の15篇は、「都上りの歌」と題された歌集です。その意味については諸説ありますが、聖所への巡礼の途上で歌われたものであると、一般的に考えられています。詩人はまず、苦しみの中で助けを主に叫び求め、それが答えられたという過去の体験を思い起こし、感謝のうちにそのことを告白しています。その上で詩人は、自分のたましいを、悪者の偽りの唇と欺きの舌から救い出してほしいと、主に願い求めています。悪者からどのような被害を被っていたのか、その具体的なことは不明ですが、それは、詩人が自らのたましいという内面、霊的な部分に危機を覚えるほどの、深刻なものであったのです。3節では、詩人は今度は、悪者のその欺きの舌に向って直接語っています。それは、おまえを勇士の鋭い矢が突き通し、えにしだの木の炭火の強い火が焼き尽くす、それが主によってなされるという、信仰による宣言です。6,7節ではあらためて、詩人の敵である悪者が、平和を憎み、争いを好む存在であり、詩人が平和を願って働きかけてもそれが拒絶され、戦いへと発展してしまうということが示されています。そのような中で詩人は、平安のうちに定住する地を見いだせず、嘆かわしい思いにさせられているのです(5節)。そのような偽りの唇、欺きの舌は、人の罪の結果としていつの時代にもあり、現代社会でも、それを必要悪と捉えている人さえあります。では、私たちの唇、舌はどうでしょうか…。「舌は火です。不義の世界です」と聖書にありますが(ヤコ3:6)、主に贖われた者、聖徒として、この世と調子を合わせることなく、御霊の助けと導きのうちに、他者を慰め、励まし、徳を高める舌として、また、神への賛美のいけにえをささげる唇として、福音を伝える口として、ますますきよめられ、用いられたいと心から願います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 12章◇(4月28日)

「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」…ダニエル12:13

12章は終末に関する預言です。その時、ミカエルと呼ばれる存在が立ち上がります(1節)。このミカエルは、10章13節では「最高位の君の一人」とあり、ヨハネの黙示録には、御使いとともにサタンと戦って勝利するとあります(默12:7-9)。その時、世は大きな苦難の中に置かれますが、「あの書」すなわち、「いのちの書」(默3:5)に名が書き記されている者たちは、みな救われるのです。2節には「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます」とあります。終末には最後の審判の時があり、不信者も復活させられ、神のさばきを受けることになります(黙20:12)。そして、聖徒たちは永遠のいのちの中に入れられますが、そうでない者たちは永遠の滅びに定められ、恥辱と嫌悪を味わうことになるのです。4節には「多くの者は知識を増そうと捜し回る」とあります。人々は、この世の終わりや死後の世界について知りたいと願い、そのために自らの知恵と知識を増やそうと努力し、その答えを捜し回ります。しかしそれは、神の啓示によってのみ明らかになることであり、その答えはすでに、聖書のみことばとして与えられているのです。ダニエルは最後に、「終わりまで」、すなわち地上の生涯の終わりである死に至るまで、主に信頼して従い続けよ、忠実な歩みをする者となれ、と命じられています。「時の終わり」とは終末の時であり、神の国が完全に実現する時です。その時、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入れられ、それぞれの土地を割り当てられたように、ダニエルだけでなく、神の聖徒たちはみな、新天新地におけるそれぞれの住まいが割り当てられ、永遠の安息に入ることができるのです。ここに、キリストに贖われた私たちにとっての、真の希望があります。地上でのさまざまな苦難と戦いの中にあっても、その望みをしっかりと抱きつつ、死に至るまで忠実な者として歩み続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 11章20-45節◇(4月27日)

「この王は思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高く上げて大いなるものとし、神々の神に向かって驚くべきことを語る。」…ダニエル11:36a

21節の「卑劣な者」とは、正当な手段によらず、裏切りによって王位を手に入れたシリアの王、アンティオコス・エピファネスのことです。狡猾な彼は、王となってからも欺きによって勢力を増し、エジプトの肥沃な土地を侵略し、南の王と戦って勝利を収めました(21-28節)。その後、彼は再びエジプトを攻めようとしましたが、今度はうまくいかず、引き返す途中にエルサレムを攻撃し、聖所を荒し、異教の神々のための祭壇を築いて、ユダヤの民を堕落させようとしました。しかし、神に忠実な者たちは、決して妥協することなく、迫害によって殉教の死を遂げる者が出る状況となっても、自分たちの信仰を命懸けで守り抜こうとしたのです(29-35節)。36~39節に書かれている内容については、その解釈についていくつかの立場がありますが、アンティオコス・エピファネスの時代の出来事ではなく、後の時代におけることの預言と考え、「この王」を反キリストだと捉える立場が支持されています。その者は尊大な思いを持ち、神よりも自分を高く上げて大いなるものとし、「砦の神」(=戦争、軍備)をあがめるようになりますが、定められたときになると、神の憤りによって滅ぼされてしまうのです。そのことを知るとき、そのような者を非難し、警戒する思いが、私たちのうちに起こります。しかし、その者が、自分自身と無縁の存在だとは言い切れないのです。「反キリスト」…その本質は、キリストに従おうとしないということであり、神よりも自分を高くするということです。私たちが、「自分」という小さな国の王として君臨し、その王座を主に明け渡そうとしないのであれば、みことばではなく、自分の考えや感情を優先させるのであれば、神の目から見れば、私たちも同類の者なのです。そのことを覚え、主の前にますます自らを低くし、王なるキリストを高く上げる者でありたいと思います。

悪魔のわなから守られますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 11章1-19節◇(4月26日)

「そのようにして、これを攻めて来る者は思いのままにふるまう。彼に立ち向かう者はいない。彼は麗しい国にとどまり、自分の手で滅ぼし尽くそうとする。」…ダニエル11:16

ダニエルに触れて力づけてくれた、人のような姿をした方は、これから起こることを彼に告げられました。そのように、11章に書かれていることは、歴史における実際の出来事が、預言として語られたものだと考えられます。2~4節に記されているのは、ペルシアとギリシアの戦いについてです。3人のペルシアの王に続く第4の者とはクセルクセスであり、彼はその富によって強力になりますが、アレクサンドロス大王が治めるギリシアにペルシアはとって代わられます。しかしその後、彼は若くして死んでしまい、国は、ギリシア、小アジア、シリア、エジプトの4つに分割されることとなるのです。5節以降には、「南の王」と「北の王」が出て来ます。南の王とはエジプト(プトレマイオス王朝)の諸王であり、北の王とはシリア(セレウコス王朝)の諸王だと考えられます。最初は、彼らは同盟を結び、和睦を保つために南の王の娘が北の王に嫁ぎましたが、そのような政略はうまくいかず、結局、北の王は南の王の国に攻め入り、2国間のすさまじい闘争が続くこととなったのです(9節以降)。14節の「あなたの民」とは、エジプトから守られるために北の王、アンティオコス3世と同盟を結んだユダヤ人たちであり、16節の「麗しい国」とは、その試みが失敗し、北の王に攻め入られ、滅ぼされる危機を招いたユダヤの国のことです。そのように、いくつもの帝国の栄枯盛衰の中で、イスラエルは翻弄され、そこに住む人々は苦難を味わうことになるわけですが、その小さな国は、主がご自身の民に与えられたものであって、麗しい国、主の所有の民として、支えられ、守られているのです。そしてその国に生まれた「ユダヤ人の王」は、十字架につけられ、よみがえられ、世界の王、御国の王として、今もすべてを統治しておられるのです。その御国の民として、私たちが加えられていることを感謝したいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 10章◇(4月25日)

「その方は言った。『特別に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』その方が私にそう言ったとき、私は奮い立って言った。『わが主よ、お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。』」…ダニエル10:19

ペルシャのキュロス王の治世の第3年、3週間喪に服して断食していたダニエルに、大きな戦いについてのことばと幻が示されました。彼はティグリス川の岸で亜麻布の衣をまとった一人の人を見ましたが、そのからだは緑柱石のよう、顔は稲妻のよう、目はたいまつのよう、腕と足は青銅のよう、声は群衆の声のようであったのです。ダニエルは、その幻を見ているうちに、大きな戦いの壮絶さを思い、苦痛に襲われて力を保てなくなり、地に倒れて眠りに陥りました。しかし、別な人が彼を揺さぶって起こし、恐れるな、あなたのことばは聞かれている、私は終わりの日にあなたの民に起こることを理解させるために来たのだ…と告げたのです。そのことばを、ダニエルは、うつむいて黙って聞いていましたが、今度は、人のような姿をした方が彼の唇に触れ、力を失っていたダニエルを力づけるべく、「恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」と言って励ましました。するとダニエルは奮い立ち、「わが主よ…あなたは私を力づけてくださいました…」と答えたのです。「大きな戦い」とは、終わりの日に起こる、天における神とサタンとの戦いです。使徒ヨハネもまたその幻を見せられて黙示録に記していますが、ダニエルはこの書の11~12章にその戦いの幻を明かしています。そのような中でダニエルは、自分の弱さを覚え、心細くなって恐れを抱きました。しかし、メシアと思われる方から、自分が神に愛されていることを知らされ、安心せよ、強くあれ、すなわち、平安があるように、雄々しくあれという励ましのことばを与えられ、彼は奮い立つことができたのです。力づけられたのです。私たちも、「力を保てなくなる」状況にしばしば置かれますが、主のことばによって励ましを受け、奮い立つ者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 8章◇(4月23日)

「狡猾さによってその手で欺きを成し遂げ、心は高ぶり、平気で多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人の手によらずに彼は砕かれる。」…ダニエル8:25

ベルシャツァル王の治世の第3年、ダニエルにまた幻が現れました。2本の長い角を持つ1匹の雄羊がおり、その角で西、北、南の方を突いていて、それに立ち向かえる獣はおらず、雄羊は思いのままにふるまっていたのです。とそこに、際だった1本の角を額に持つ1匹の雄やぎが現れ、雄羊に向って猛突進し、怒り狂って打ち倒し、2本の角をへし折りました。そして、その雄やぎもまた高ぶっていましたが、その大きな角は折れ、代わりに4本の角が生え出て、さらにそのうちの1本から別の小さな角が出、非常に大きくなり、聖所と天の軍勢を踏みにじるまでになったのです。ダニエルはその幻の意味を知りたいと願いました。すると、ガブリエルという名の御使いと思われる者が、彼のところに来て解き明かしをし、2本の角を持った雄羊とはメディアとペルシアの王であり、また、雄やぎはギリシアの王であり、大きな角の代わりに生え出た4本の角は、ギリシアの後に起こる4つの国であると告げたのです。御使いはこうも告げました。彼らの治世の終わりには別の一人の王が立ち、驚くべき破壊を行い、聖なる民を滅ぼし、君の君に向って立ち上がるようになると…。それは、反キリストの勢力であり、その背後にあるサタンだと思われます。しかしその者は、人の手によらずに砕かれる、神によって滅ぼされると約束されているのです。ヨハネもまた幻を見せられ、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた」と記しました(黙20:10)。それが起こるのは終末のときです。それがいつ来るかはだれにもわかりません。しかし、死に勝利されたキリストは、ご自身の御国をすでにもたらされ、今も確かにこの世界を統治しておられるのです。私たちはそのキリストにあって「勝利者」とされるのです。そのことを覚え、日々、主の介入を待ち望む者でありたいと思います。

心がますます強くされますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 7章◇(4月22日)

「この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」…ダニエル7:14

7章からは、ダニエルが見た幻、黙示が書かれています。時はバビロンの王ベルシャツァルの最初の年であり、すでに5章で見たように、彼の治世においては、エルサレムの宮の器で酒を酌み交わしながら偶像の神々を賛美するという、神を侮辱することが平気でなされたのです。その時代にダニエルが見せられた4頭の大きな獣…それは、獅子のようなもの、熊のようなもの、豹ののようなものであり、第4のものは恐ろしくて不気味で、非常に強いものでした。2章には、ネブカドネツァル王が夢で見た巨大な像のからだの部分の意味が4つの王国であると、ダニエルが王に告げたとありますが、この4頭の獣も、その時代における帝国、すなわち、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマであると、一般的に解釈されています。しかし、それはまた、いつの時代においても登場する、神の存在とその教えを知っていながらあえてそれに逆らい、自らの考えを正当化し、権力を行使して野望を実現しようとする勢力、悪と闇の支配者であると、普遍的に解することができるのです。4頭の大きな獣は、「年を経た方」、すなわち神のさばきを必ず受けるのです。そして「人の子のような方」、すなわちキリストに主権と栄誉と国が与えられ、すべての者がそのお方に仕えるようになり、そのお方は、絶対的な主権のもと、王として力強く統治され、その御国は滅びることなく、永遠に続いていくのです。その神の国は、キリストによってこの地上にすでにもたらされています。私たちのただ中にあって、キリストに贖われ、聖徒とされている私たちは、その祝福の中に入れられているのです。その事実は、悪と闇が地を覆っているような状況の中、痛みと苦しみを覚える私たちにとっての大きな慰め、励まし、希望です。起こっている現実に心奪われず、ますます真実な神に信頼して歩み続けたいと思います。

ただ主に希望を置くことができますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 6章◇(4月21日)

「この方は人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる。実に、獅子の手からダニエルを救い出された。」…ダニエル6:27

ダニエルがダレイオス王に気に入られ、全国を治める者として登用されることを知った大臣や太守たちは、そのことを妬み、彼を陥れようと企みました。彼らは、ダニエルが神の前に祈りを欠かさないことを利用し、王に対する不敬罪に定めて訴えようと考えたのです。彼らに促され、「王以外に祈願をする者はだれでも獅子の穴に投げ込まれる」という文書に署名した王は、ダニエルが彼の神に祈願している、という彼らの訴えを聞いたとき、ようやく彼らの魂胆を見抜きました。しかし、時すでに遅く、ダニエルを救うべく手を尽くした王は、結局、自分が定めたその禁令に基づき、ダニエルを獅子の穴に投げ込むよう命じざるを得なかったのです。その刑が執行された日の翌朝、王が悲痛な思いで獅子の穴に近づき、一縷の望みをもって呼び掛けると、なんと、ダニエルの元気な声が穴の中から聞こえてきました。驚き、喜んだ王は、すぐに彼を穴から引き上げさせ、ダニエルを陥れた者たちを、逆に獅子の穴に投げ込ませました。そして、ダニエルを救い出した彼の神を、すべての者が畏れるようにとの命令を、全土に書き送ったのです。ダニエルは「私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださった…」と王に告白しました。また23節には、「彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである」とあります。そのように主は、ご自身に信頼する者のために御使いを遣わし、わざわいから、敵の手から守ってくださるのです。「わざわいは あなたに降りかからず 疫病も あなたの天幕に近づかない。主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ」(詩91:10-11)。ダニエルを獅子の手から救い出された主は、私たちをも守り、助け、支えていてくださいます。そのことを覚え、どのような困難な状況にあっても、心騒がせず、主に信頼し、主のみわざを待ち望む者でありたいと思います。

神への信仰が増し加えられますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 5章17-31節◇(4月20日)

「それどころか、天の主に向かって高ぶり、その宮の器を自分の前に持って来させ、あなたと貴族たちとあなたの側室や侍女たちは、それを使ってぶどう酒を飲みました…」…ダニエル5:23a

ダニエルは、ベルシャツァル王の求めに応じて、指が壁に書いた文字とその意味を説き明すことを承諾し、まず、ベルシャツァルの父であった先代の王ネブカドネツァルが、いと高き神から偉大な者とされ、威光と栄光を与えられたことについて語り始めました。彼は、心を高ぶらせ、自分の思いのままに人を殺し、生かし、また人を高め、低くしましたが、それゆえに神によって王座から引きずり降ろされ、人の中から追い出され、牛のように草を食べる者とされました。そしてそのことを通し、いと高き神こそが人間の国を支配することを知ったのです。その彼の子であるベルシャツァル王は、そのことを知っていながら、同じように高慢になり、神を侮り、イスラエルの神の宮の器で酒を飲みながら偶像の神を賛美するという、実に罪深いことを行いました。そして神はそれを容赦せず、王を退けて打つことを決意されたのです。指が書いた文字とは、「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」であり、その意味は、王が神のみこころにかなわない者だと分かったため、その治世が終わらせられ、国はメディアとペルシアに分割して与えられるということでした。そしてその夜に王は殺され、メディア人ダレイオスが、王としてその国を引き継ぐこととなったのです。「あなたはこれらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした」(22節)。何が主のみこころであり、主は何を求めておられるのか…それはみことばによって私たちに示されており、御霊はその意味を啓示し、教えてくださいます。そのことを覚えて、私たちが高慢になることがないように、日々、主の前に静まってその御声を聴き、それを自分のものとしてしっかりと受け取り、ますます心砕かれ、へりくだった者、主のみこころにかなう者とされたいと、心から願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 5章1-16節◇(4月19日)

「ベルシャツァルは、酒の勢いに任せて、父ネブカドネツァルがエルサレムの宮から持ち出した金や銀の器を持って来るように命じた。王とその貴族たち、および王の側室たちや侍女たちがその器で飲むためであった。」…ダニエル5:2

ネブカドネツァル王は世を去り、子のベルシャツァルが王となって国を治めていました。ある日、彼は、千人の貴族たちを集めた大宴会において、父がユダとの戦いで戦利品として手に入れた、エルサレムの宮の金銀の器を持って来させ、それで酒を酌み交わしながら、さまざまな偶像の神々をともに賛美していました。そのとき王は、人間の手の指が現れ、壁に何かを書いているのを見ました。それが何かはわかりませんでしたが、見ていた王はしだいに動揺し、顔色が変わり、からだががたがたと震えだしたのです。そこで彼は呪法師などを集め、意味を告げさせようとしましたが、それどころか彼らは、その文字を読むことさえできなかったのです。宴会の様子の異変に気づいた王母は、落ち着くよう王に命じた上で、ユダからの捕虜の一人であるダニエルという優秀な人物がおり、彼なら解き明かすことができるはずだと言い、彼を早速、王の前に連れて来させました。「もしおまえが、その文字を読み、その意味を私に告げることができたなら、…この国の第三の権力を持たせよう」(16節)。そのとき王は、解き明かしを得たい一心で、ダニエルにそのように約束しました。しかし、彼にとって、イスラエルの神への礼拝に用いられるべき聖なる器を、酒の勢いに任せ、偶像の神が賛美される宴会の席で使おうとしたことが、そもそも間違えであったのです。それは愚かで、罪深く、神を冒瀆する行為でした。パウロはこう言っています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。そのことを覚え、ますます主を畏れ、日々の言動がみこころにかなうものとなるよう、主に祈りつつ歩みたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 4章19-37節◇(4月18日)

「今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。」…ダニエル4:37

ネブカドネツァル王は、自分が見た夢の解き明かしをダニエルに求めましたが、彼は、それが王にとって悪い内容であったため動揺し、語ることを恐れました。するとそのことを察した王は、正直に話すようにと促し、ダニエルは意を決して、その意味を王に告げたのです。夢の中の天にまで届く高い木…葉が美しく、豊かな実を結び、獣や鳥が住むそれは、ネブカドネツァル自身のことでした。王が持つ権威と力が、いかに強大であるかが、その木によって表わされていたのです。しかし夢の中で、天から降りて来た聖なる者が、その木を切り倒して滅ぼせ、獣と鳥を追い払え、と命じたとおり、王は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、いと高き方が人間の国を支配し、それをみこころにかなう者に与えるようになることを知るまで、そのように取り扱われるのです。果たしてその夢は現実となり、王の髪の家は鷲のように、爪は鳥のように伸びました(33節)。「木の根株は残せ」と、その聖なる者は命じましたが、「7つの時」の期間が過ぎると、王には理性が戻り、回復が与えられ、「いと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美」するようになりました(34節)。彼は、その取り扱いを受ける前、「この大バビロンは…私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか」と言って高ぶっていましたが(30節)、王がその罪を真に悔い改めたかは疑問です。なぜなら36節の王のことばには相変わらず、「私」ということばが繰り返されているからです。そしてそれは、罪赦された罪人である私たちが、自らの歩みを絶えず振り返り、へりくだって、主の前に立ち返り続ける必要があるということを、示唆しているのです。私たちはそれを肉の力でなすことはできません。ただただ御霊の助けと導きによって、そのような者とさせていただきたいと、心から願います。

ますます心砕かれた者とされますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 15章22-47節◇(4月16日)

「そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」…マルコ15:34

安息日の前日、金曜日の午前9時、主イエスはゴルゴタの丘の上で十字架につけられました。十字架の上には罪状書きとして「ユダヤ人の王」と書かれた札がつけられていました。祭司長たちはそれを不服として、そう自称したと書くようピラトに願いましたが、彼は、「そのままにしておけ」と言って、認めませんでした(ヨハ19:22)。十字架上で痛みと苦しみにあえぐイエスを見て、人々は頭を振り、神殿を壊して3日で建てると言ったのだから(ヨハ2:19)、十字架から降りて来て自分を救ってみろ…とののしりました。また、祭司長や律法学者たちも、イスラエルの王に十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう…と言って、イエスを嘲ったのです。3時になると主イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ、間もなく息を引き取られました。そのとき神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けましたが、イエスの正面に立ってそれらの一部始終を見ていたローマの百人隊長は、「この方は本当に神の子であった」と告白したのです。十字架から降りて自分を救う…。神である主イエスは、もちろんそうすることができました。しかし、そのときイエスは、人として、罪を持った全人類の代表として、身代りとなって十字架にかかり、神から見捨てられるという、最大の痛みと苦しみを味わわれたのです。もし主がそこで十字架から降りてしまったら、人類に救いがもたらされることはなかったのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」…。それは本来、私たちが発しなければならない呻きです。そして、主イエスの十字架の贖いによって、神殿の幕が裂けたように、罪のゆえに隔てられ断絶していた神と私たちの関係は解消され、神との親密な関係が回復したのです。そのことを感謝し、全世界の王であられるキリストをあがめたいと思います。

主の統治がますます力強くなされますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 15章1-21節◇(4月15日)

「ピラトは彼らに言った。『あの人がどんな悪いことをしたのか。』しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。『十字架につけろ。』」…マルコ15:14

今日から3日間、主イエスの受難と復活を見ていきます。真夜中の違法な裁判により、神を冒瀆したイエスは死に値すると断罪した祭司長たちは、律法学者たちを巻き込みながら、主イエスを縛って連れ出し、ユダヤ総督であったピラトに引き渡しました。するとピラトは、祭司長たちの訴えに反論しないイエスに驚きつつ、彼らがねたみから無実のイエスを殺そうとしていることを知り、祭りの慣習に従って一人の囚人を釈放すべく、イエスをその者として願うか、と群衆に尋ねました。しかし、祭司長たちに扇動された群衆は、イエスではなく、人殺しをした暴徒たちと一緒に投獄されていたバラバを釈放するよう願い、あの人は悪いことをしていない、というピラトの声を無視して、十字架につけろと叫んで、イエスの死刑の執行を彼に強く要求したのです。そこでピラトは仕方なく、群衆の要求どおり、バラバを釈放し、イエスをむち打ち、ローマの兵士たちに引き渡しました。もしそうしなければ、暴動が起こり、治安を維持できなかったとして、ローマ当局から総督の地位を追われることが、目に見えていたからです。そのように、自らの保身のために言いなりになったピラト…。ホザナと叫んでイエスを歓迎したにもかかわらず、期待外れの弱いイエスに失望し、態度を豹変させ、十字架につけろと要求した群衆…。自分たちよりも人々に注目されていたイエスをねたみ、罪をでっち上げて殺そうとした祭司長たち…。ここには書かれていませんが、主を裏切り、逃げてしまった弟子たち…。そこには、人間の罪が凝縮されています。そして、まさにその罪を赦し、人々を贖うために、主イエスは十字架へと進んで行かれたのです。私たちもまた、紛れもなく、罪深いそれらの者たちのうちの一人であることを覚え、主イエスが身代りに受けてくださった十字架を感謝したいと思います。

十字架を仰ぎ見る者とされますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 4章1-18節◇(4月14日)

「この宣言は見張りの者たちの決定によるもの、この要請は聖なる者たちのことばによるもの…」…ダニエル4:17

ネブカドネツァル王は、また別の夢を見ました。それまで心安らかに過ごし、王宮で贅沢に暮らしていましたが、その夢によって恐れを抱き、様々な幻想が頭をよぎり、脅えるようになってしまいました。そこで王は、呪法師など知者たちを集め、その夢の意味の説明を求めましたが、前回同様、彼らはそれを解き明かせなかったのです。そこで王は、ダニエルを呼びました。彼には聖なる神の霊があり、その霊の働きにより、どのような秘め事も明らかにされることを、王は認めていたからです。王は彼に夢の内容を告げました。それは、地の中央に高い木があり、成長して天にまで届き、その葉は美しく、豊かな実を結んでおり、獣や鳥がそこで憩い、住み家を得、すべての生き物が養いを受けている、というものでした。その夢には続きがありました。幻の中で一人の見張りの者が天から降りて来て、その木を切り倒し、生き物を追い払え、ただしその根株は残し、「7つの時」を過ぎ行かせよ、と命じたというのです。彼は最後にこう告げました。「これは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最も低い者をその上に立てることを、いのちある者たちが知るためである」(17節後半)。天にまで届く高い木…。バベルの塔が思い起こされます(創11:4-9)。人間が地上で名をあげ、国と人々を支配し、大きな権力を有し、神になったような思いで満足しようとするなら、神は必ずその者を打ち倒されるのです。この世界を支配しているのは人ではありません。それは、天と地とすべてのものを創造された神なのです。神は、今も主権をもって、すべてを統べ治めておられるのです。そして、すべての造られた者が、その神を認め、信じ、高慢な思いにならず、御前にへりくだって歩むことが求められているのです。そのことをあらためて覚え、自らのあり方がどうであるかを吟味したいと思います。

主のみこころにかなう者とされますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 3章16-30節◇(4月13日)

「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」…ダニエル3:18

私が建てた金の像を拝まないなら、火の燃える炉に投げ込む…と脅された、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は、そのことをまったく意に介さず、王に対して、もうそうなれば神は私たちを炉の中から救い出してくださる、たとえそうでなくても、私たちは金の像を拝むことは断じてしない…と、きっぱり答えました。それを聞いた王は、烈火のごとく怒り、炉を通常の7倍の熱さにさせた上で、3人を縛って炉の中に投げ込むよう命じました。その炉はあまりにも熱く、王の指示によって3人を連れて行った兵士たち自身が、その高熱によって焼死してしまうほどでした。3人は炉に投げ込まれ、中に落ちて行き、それで一巻の終わりだとだれもが思いました。ところがその後、王は異変を感じて立ち上がりました。彼の目には、炉の中を平気で歩いている3人と、神の子のような者が見えたのです。そこで王は、炉に近づき、ただちに外に出て来るよう、3人に向って叫びました。すると驚いたことに、彼らはやけど一つ負わず、髪の毛が焼け焦げることさえなかったのです。王はそれを見て、それが、3人が信じている神がなされた奇蹟であることを認め、その神に対して不敬なことを言う者は八つ裂きにされる、とさえ言ったのです。「しかし、たとえそうでなくても…」。3人が王に告げたそのことばが心に留まります。それはつまり、たとえ願いに反して炉から救い出されなくても、最善をなさる神を信じ、すべてを委ねているという告白です。また、たとえ何が起こっても、金の像を決して拝まないという宣言です。彼らはそのように、神の主権を認め、神に全面的に信頼し、死の恐れからも自由にされていたのです。キリストに贖われ、御国の民とされ、永遠のいのちの約束をいただいている私たちも、彼らのように、ステパノや多くの聖徒たちのように、主に信頼し、すべてを明け渡し、平安と自由のうちを歩む者でありたいと思います。

主の守りがありますように。 

◇聖書箇所:ダニエル書 3章1-15節◇(4月12日)

「…王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもいたしません。」…ダニエル3:12

ネブカドネツァル王は、金の像を国の中に建てさせました。それは高さが30m弱もある巨大なものでした。そしてその奉献式の席上、王は、伝令官を通じて、諸国民に対し、もろもろの楽器の音を聞いたならば、ひれ伏してその像を拝むようにと命じ、そうしない者はただちに火の燃える炉に投げ込まれるようになる、と告げたのです。それを聞いた民は恐れ、その命令に素直に従いました。しかし、バビロン州の行政をつかさどるように王から命じられて仕えていた、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、すなわち、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの3人は、王の命令に従うことをきっぱりと拒絶しました。それはユダヤ人である彼らはイスラエルの神を信じており、その神が、律法において、偶像を拝むことを明確に禁じていることを知っていたからです(出20:3-5)。3人のことが王に告げられると、王は怒り狂い、3人に対して、今からでも、命令に従い、ひれ伏して像を拝むなら許してやるが、あくまでそれを拒むなら、即刻、火の燃える炉に投げ込む、と脅しました。「ネブカドネツァル王が建てた像」と人々は呼び(3,5,7節)、王自身、「私が建てた金の像」、「私が造った像」と言っていましたが(14,15節)、ネブカドネツァルは、バビロン帝国の王である自らの栄光を思い、その象徴としての金の像を建てて人々に拝ませ、自分が神になったような、高慢な思いになっていたのかもしれません。ヘロデ王が王座に着いて演説したとき、「神の声だ…」という民衆の声を聞いて有頂天になり、神に打たれ、虫に噛まれて息絶えたことが思い起こされます(使12:21-23)。すべての人に求められているのは、唯一まことの神を信じ、神の御前にへりくだって歩み、どのような状況でも、神の教え、みことばに従順に従うということなのです。そして、ハナンヤたちはそのように行動したのです。私たちもまた、そのようでありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 2章25-49節◇(4月11日)

「…その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。」…ダニエル2:44

バビロンの王ネブカドネツァルは、自分が見た夢の内容とその意味を告げさせるべく呪法師たちを呼びましたが、彼らは何もできませんでした。すると王は怒り、ダニエルたちまでも滅ぼそうとしましたが、それを知ったダニエルは、自分がそれを解き明かすと申し出、主からその秘密を明かされ、王の前に出てすべてを告げたのです。ダニエルはまず、その夢が、純金の頭、銀の胸と腕、青銅の腹ともも、鉄のすね、一部が鉄、一部が粘土である足を持った巨大な像が、一つの石によって砕かれてしまい、その石に全地が覆われるという内容だと告げました。さらにその意味として、ネブカドネツァルがその金の頭、その下の各部分はバビロンの後に台頭する国々であり、やがてそれらは、永遠に続く一つの国によって打ち砕かれ、滅びてしまうということであり、一つの石によってそれがなされると告げました。すると、それを聞いた王はひれ伏し、ダニエルたちの神を畏れ、ダニエルをバビロン全州を治める長官に、仲間のシャデラクたち3人を、バビロン州の行政をつかさどる者に任命したのです。王の夢に出て来た巨大な像…それは、歴史における地上の大国、すなわち、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマを表わし、それを打ち砕く一つの石とはキリストを表わし、永遠に続く国とは、神の国であると捉えることができます。ペテロが詩篇を引用して、「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです」と告げたことが思い起こされます(使4:11)。地上のどんな強大な国々もやがて滅びます。しかし神の国は永遠に続き、人々に捨てられ、死なれ、よみがえられたキリストは、王の王、主の主として、主権をもって、すべてを統べ治めておられるのです。そのキリストに贖われ、御国の民とされていることを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ダニエル書 1章◇(4月9日)

「ダニエルは、王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定めた。そして、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願うことにした。」…ダニエル1:8

ユダの王エホヤキムの治世の第3年に、バビロンによってエルサレムは包囲され、王と人々は捕え移されました。その際、バビロンの王ネブカドネツァルの命により、宦官の長は、王に仕えるのにふさわしい優秀な人物を選んで連れて行きましたが、その中に、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人の少年がいました。彼らを含め、それらの者たちは、王の配慮によって特別待遇を受けました。王が食べるごちそうやぶどう酒を与えられ、カルデヤ人の文学や語学を学ぶ教育が施され、3年間の準備期間を経て王に仕えるべく、整えられ、訓練されていったのです。それに対してダニエルは、そのように王の食事を食べることは、身を汚すことになると考え、自分たちは、他の者たちと同じ食事ではなく、野菜と水だけにしてほしいと宦官の長に訴えました。しかし彼はそれを認めなかったため、ダニエルは、今度は彼の部下の世話役に対し、10日間の試行期間を設けるよう提案してそれを実行させ、その結果、4人は、王の食事を与えられている他の者よりも、むしろ健康であることがわかったのです。王と同じ食事が身を汚すと考えたダニエル…。それは、律法で禁じられている食材を口にしないということだけでなく、異邦人の王の言いなりにならず、神の民として自ら一線を引くという意図があったに違いありません。主は、神は、と繰り返し記されていますが(2,9,17)、ダニエルは、すべてのことが主の主権の中でなされていることを知り、その主のみこころだけがなるようにと願い、主の導きに従って行動したのです。「この世と調子を合わせてはいけません」(ロマ12:2)。私たちもまた、神の民として、この世の常識や価値観に染まるのではなく、一線を引いて行動する者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 119篇153-176節◇(4月8日)

「私の唇に 賛美が湧きあふれるようにしてください。あなたが私に あなたのおきてを教えてくださるからです。」…詩篇119:171

「主よ あなたの定めにしたがって私を生かしてください」。そのように詩人は、繰り返し主に願い求めています(149,154,156節)。詩人は、自分のいのちが主から与えられ、恵みとあわれみによって生かされているという意識を、常に持っていたのです。そして主のみことばこそが、歩むべき道を示し、悪者の攻撃を受ける自分を守り支えてくれるものであり、それによって、平安と希望を持って生きることができる…と、感謝していたのです。「君主たちは ゆえもなく私を迫害します。しかし私の心は あなたのみことばにおののいています」(161節)。詩人が受ける迫害、味わわされる苦難…それはゆえのないものであり、理不尽なことでした。そして、その悪者どもは、神に背き、おきてを求めようとせず、肉の欲望のままに歩んでいたのです。しかし、だからといって詩人は、神を非難したり、神から離れてしまうことはありませんでした。むしろ、なお一層、主の教えを心に留め、仰せを守り行ない、主の道からそれずに歩み続けていたのです。主を畏れていたのです(153,157,161節)。「あなたのみおしえを愛する者には 豊かな平安があり つまずきがありません」(165節)。詩人は、繰り返し、自分が主のみことばを喜び、愛し、慕い求める者であると告白しています。主のみことばはすべて真実であり、主の仰せはことごとく正しく、詩人は意志を向けてそれを選び取っているのです(160,172,173節)。義のさばきが、悪者どもに対して必ずなされることを信じて、すべてを主に委ねていたのです。詩人にとって、その歩みが順風満帆でなく、逆境の中に置かれるものであっても、これが道だ、これに歩めと、主に教えられて導かれる歩みは平安であって、唇に嘆きのことばではなく、主へのほめ歌が湧きあふれるようにされることが、切なる願いであったのです。私たちもまた、みことばを愛し、喜ぶ者、主に絶えず賛美をささげる者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:詩篇 119篇129-152節◇(4月7日)

「あなたの恵みによって 私の声を聞いてください。主よ あなたの定めにしたがって 私を生かしてください。」…詩篇119:149

「みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます」(130節)。詩人は自分が、知恵のない者、思慮の足りない者であることを自覚していました。そして、その自分が、この世の悪と不法に支配されず、正しく確かな歩みをするためには、日々、主のみことばの戸が開かれ、真理の光に照らされ、その中を進むことが必要不可欠だと示されていました。だからこそ詩人は、主の仰せを渇望し、主の御顔を慕い求めていたのです。「私の激しい思いは私を滅ぼし尽くすほどです。私の敵があなたのみことばを忘れているからです」(139節)。詩人にとって、すべての人が、主のみことばに従って歩むことが切なる願いでした。なぜなら悪者が肉の思いに支配され、闇を愛するゆえに、結果として、自分が虐げられ、蔑まれ、苦難の中にあると考えていたからです。そのように、悪者が神に背を向けて歩み、利己的な歩みを重ね、弱者を食いものにするそのあり方を、詩人は憤るだけでなく、涙を流して悲しんでいたのです(136節)。「私は心を尽くして呼び求めます。主よ 私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります」(145節)。呼び求める、叫び求めると、繰り返されています(146,147節)。詩人は、夜明けの見張り番が立つよりも前に起きて、主の御声を聴くことを求めていますが、同時に、一方通行のやり取りではなく、自らの窮状を訴え、救いを求める願いを主に聞いてもらいたいと、切に願っているのです。それは、詩人にとって、そのような、他人や雑音に邪魔されない、主との一対一の濃密な交わりこそ、苦難の中にあっても、主からの慰めと励ましを受け、主に愛され、生かされている自分を知ることができる、疲れても、倒れても、再び立ち上がって進む力を主からいただく、なくてはならない大切なときであったからです。もちろんそれは、私たちにとっても同じです。ディボーションと呼ばれるその時間を日々確保し、主との親しい交わりを持ちたいと思います。

心に平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 119篇105-128節◇(4月6日)

「それゆえ私は すべてにおいて 戒めにしたがってまっすぐに歩み 偽りの道をことごとく憎みます。」…詩篇119:128

「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です」(105節)。よく知られている聖句です。詩人のこのことばから、この世は闇に覆われており、みことばの光に照らされなければ、私たちの歩みがおぼつかなくなってしまう、主の道からはずれ、迷い出てしまうということを、あらためて教えられます。詩人はそのことばに続けて、義の定めを守るということを決意し、宣言しています。そしてそれは、みことばに照らされたら、そこに留まり続けるのではなく、さらにその先へと「私の道」を進むよう、主のみこころを実践するように主から求められている、ということを示唆しているのです。「悪を行う者どもよ 私から遠ざかれ。この私は 私の神の仰せを守る」(115節)。悪を行う者、神に背き、闇を愛する者どもは、人々にさまざまな誘惑を仕掛け、自分たちの中に引きずり込もうとします。しかし、そんな彼らに対して詩人は、遠ざかれ、他の人がどうであっても、「この私は」、「私の神の」仰せを守ると、断固たる決意をもって、宣言しているのです。「それゆえ 私はあなたの仰せを愛します。金よりも 純金よりも」(127節)。詩人は、主の仰せを守り、みことばに従う者は、主の御手の中で守られ、支えられ、生かされるということを知っていました。だからこそ、この世の富、高価な金よりも何よりも、主の仰せを愛し、追い求め、それに従う者となると主に告白しているのです。「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります」(72節)という思いを深めているのです。そして、ただだ主の恵みによって生かし、取り扱い、おきてと定めを教えてください、悟らせてくださいと、主の前にへりくだっているのです(124-125節)。私たちも詩人に倣い、主にそのように告白したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 119篇81-104節◇(4月5日)

「私のたましいは あなたの救いを慕って 絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」…詩篇119:81

「救いを慕って」ということばが心に留まります。慕うとは、切に求めること、そばにいたいと思うことです。悪者からの攻撃を受けて恐れ、苦難の中で心が折れそうになることから、守られ、助け出され、救われる…。詩人のたましいは、主がくださるその救いを待ち望んでいたのです。また詩人は「あなたのみことばを慕って」とも言い換えています(82節)。偽りにより迫害する者がいても、みことばが弁護し、守ってくれるのです(86節)。「もし あなたのみおしえが私の喜びでなかったら それなら私は 私の苦しみの中で滅んだでしょう」(92節)。詩人は、みことばを慕い求め、愛し、喜び、真実な主に信頼し、その救いを待ち望んでいました。だからこそ、苦難の中にあっても、希望を失うことはなかったのです。主の介入を信じて、耐え忍ぶことができたのです。「私は 老人たちよりも見極めができます。私があなたの戒めを守っているからです」(100節)。「見極めができる」とは、何が真実で何がそうでないのかを見分け、物事の本質を見抜くことができる、ということです。詩人は、「あなたの仰せは 私を敵よりも賢くします」とも言っています(98節)。またヘブル人への作者も、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」と言っています(ヘブ4:12)。自分よりも長く生き、経験の豊富な人生の先達よりも、自分は見極めができるとする詩人は、高慢になっているわけではありません。むしろ主を畏れ、御前にへりくだり、主に拠り頼む者、みことばを慕い求め、守り行う者こそ、真に知恵のある者、賢い者だと告白しているのです。人からの助言ももちろん有益ですが、何よりも主のみことばによって、事を見極める者、また自らの思いや計画を見分け、吟味する者でありたいと思います。

主にあって正しく判断することができますように。

◇聖書箇所:詩篇 119篇57-80節◇(4月4日)

「主よ 地はあなたの恵みに満ちています。 あなたのおきてを私に教えてください。」…詩篇119:64

「私は 自分の道を顧みて あなたのさとしの方へ足の向きを変えました」(59節)。詩人はそのように言っています。主の道を歩む者こそ幸いな者である、とする詩人は、あなたの戒めの道、おきての道を教えてください、と主に願い求めていますが(27,33,35節)、実際に自分の歩んでいる道が、その主の道からはずれていないか確認することを怠らず、それていることがわかったなら、すぐに正しい方向へと向きを変えていたのです。そのように、私たちにとって、「歩きっぱなし」ではなく、自らの歩みがどうであったかを振り返り、内省し、向きを変えること、軌道修正し続けることが大切なのです。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました」(71節)。人は、平安と喜びに満ちた日々を望んでいます。問題がなければ、悩み苦しむなく日々を過ごせるなら、どんなに楽だろうかと考えます。しかし詩人は、苦しみが自分に幸いをもたらしてくれた、それが主の教えを学ばせ、主の道へと導いてくれたと告白し、感謝しているのです。私たちにとっての苦しみのとき、それは主が与えてくださる訓練のときです。私たちはその中で、自らの力や知恵の限界を知り、砕かれ、神を呼び求める者とされるのです。主の教え、真理のみことばに従って歩む幸いを見いだすのです。そして、苦難のただ中にあっても、主にある平安と希望をもって歩む者とされるのです。「主よ あなたはみことばのとおりに あなたのしもべに良くしてくださいました」(65節)。主は、真実なお方、私たちの歩みを良いもので満たしてくださるお方です。苦難を通して私たちを訓練し、成長させ、主のみこころにかなう者として、きよめ、整え、用いてくださるのです。その主のみことばをますます慕い求め、金銀にまさるものとして尊び(72節)、感謝と喜びをもってそれを守り行う者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:詩篇 119篇1-32節◇(4月2日)

「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。」…詩篇119:32

176節まである詩篇119篇を7日間かけて読んでいきます。「幸いなことよ 全き道を行く人々 主のみおしえに歩む人々」。このことばをもって書き始める詩人は、主のみおしえ、おきて、仰せを守り行う者は、主の道、全き道、真実の道を歩む者であり、幸いを得ることができ、確かな歩みを重ねることができると言っています。「どのようにして若い人は 自分の道を 清く保つことができるでしょうか」(9節)。若者は、自分の可能性を信じ、多くのことにチャレンジする思いがありますが、一方、自制心や忍耐力が不十分で、この世の誘惑に負けてしまうこともあります。そのような中、主のみことばは、一人ひとりの足のともしびとなり、進むべき主の道を照らし、さまざまな罪と悪から守ってくれるのです。「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために」(11節)。こつこつと貯金をしているならば、いざという時にその蓄えが大きな助けとなるように、日々、主のみことばを心に蓄えるならば、悪しき者の誘惑に会っても、蓄えられたみことばを剣とし、それを退けることができるのです。主イエスと同じように、悪魔に勝利する者となるのです(マタ4:1-11)。「あなたのさとしこそ 私の喜び 私の助言者です」(24節)。神のことばは主ご自身です(ヨハ1:14)。不思議な助言者なる主は(イザ9:6)、みことばを通して私たちに適切な助言を与え、歩むべき道を教え、多様な価値観が存在するこの世にあって、何が正しくて何が誤っているのか、どう判断すればよいのか、神の国の規範を示してくださるのです。そして、その真理の道に従う者は、心に平安があり、喜びがあり、真の自由が与えられるのです。主の仰せの道は、決して曲がりくねった窮屈な道ではなく、安心して走ることができる道であり、私たちの心は広くされるのです。この道で間違いない、という確信が与えられるのです。主のみおしえを守り、そのような全き道を進み続けて行きたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 118篇◇(4月1日)

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。」…詩篇118:1,29

「主に感謝せよ…その恵みはとこしえまで」。そのことばをもって、この詩篇は始まり、終わっています。それに挟まれた部分でも、いくつかの表現が繰り返し語られており、詩人が確信していることが強調されています。詩人が苦しみの中から主を呼び求めると、主はその求めに答え、助け出し、導かれました。その体験を通して詩人は、主が自分の助け手、味方となってくださるので、誰をも恐れることなく、主に身を避け、信頼して歩むことができる、敵に取り囲まれたとしても、主の御名によって彼らを断ち切ることができると、告白しています。そのように、人や自分に信頼するのではなく、主に拠り頼む人こそ、幸いな者、真に強い者なのです(5-14節)。「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった」(22節)。主イエスは、このことばを引用し、その捨てられた石、要となる石が、ご自分を指しているということを示唆されました(マタ21:42)。神が遣わされたメシア…それは、人々が思い描いていたような姿ではなく、輝きも見栄えもなく、人々から蔑まれ、のけ者にされ、痛めつけられ、十字架によって殺された一人の人でした。しかし、そのイエス・キリストのいのちこそが、すべての人を罪から救い出す、贖いの代価となったのです。人々から捨てられた石が、そのように、私たちが生きるために欠くことのできない、要の石となったのです。まさにそれは、主がなされた救いのみわざであり、人の目に不思議なこと、思いもよらない奇しい恵みであったのです。「祝福あれ 主の御名によって来られる方に」(26節a)。そのようにイエスを歓迎した群衆は(マタ21:9)、祭司長たちにそそのかされ、「十字架につけろ」と叫ぶ者となりました(同27:22)。しかしキリストに救われた私たちは、その贖いを感謝し、主をあがめ、御国の民とされていることを喜び祝う群れであるのです(24,27,28節)。主が備えてくださった救いを絶えず感謝し、主にほめ歌をささげたいと思います。

感謝と喜びが心にありますように。