◇聖書箇所:ヨハネの福音書 8章12-20節◇(7月30日)

「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」…ヨハネ8章12節

12節以降でヨハネは再び、主イエスと律法学者やパリサイ人たちとの論争の場面を記しています。主は、彼らに、ご自分が世の光として来られ、ご自身に従う者はいのちの光を持つ、と告げられました。著者ヨハネはすでに、イエス・キリストがすべての人を照らすまことの光として世に来られたことを、読者に提示していますが(1:9)、主は、給食の奇跡を体験した人々に、「わたしがいのちのパンです」と言われ(6:35)、さらに、霊的に盲目であった彼らに対して、「わたしは世の光です」と、ご自身がどのような存在であるのかを明らかにされたのです。それを聞いたパリサイ人たちは、その「光」について議論せず、イエスがそのように、自分で自分のことを証しすることを問題視し、その証しは真実ではない、と言い掛かりをつけました。すると主は、それを逆手に取るようにして、律法には二人の人による証しは真実だと書かれている(申19:15)…そしてその二人の証人とは、わたしを遣わした父とわたし自身なのだ、だからその証しは、真実であり有効なのだ…と言われたのです。イエスが神を指して、「わたしを遣わした父」と言っていることは明白でした。そこでパリサイ人たちは、その点をさらに突っ込むべく、あなたの父はどこにいるのか…と尋ねましたが、主はそこでも、彼らが霊的に無知であり、盲目であることを指摘し、「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません…」と突き放したのです。主イエスはご自分のことを、世の光、いのちの光だと言われました。それは、その光がいのちの根源から来る光、いのちを与える光であり、またそれが、いのちそのものである、ということを意味しています。すべての人は、イエス・キリストにあって、真に「生きる者」とされるのです。この世の闇の中にあってもおじ惑うことなく、永遠のいのちに至る歩みを続けることができるのです。そのような者とされていることを感謝したいと思います。

霊の目がさらに開かれていきますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 8章1-11節◇(7月29日)

「イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』」…ヨハネ8章11節

宮で朝早くから人々に教えておられた主イエスのもとに、姦淫の場で捕らえられた女性が律法学者たちによって連れて来られました。イエスに敵意を持っていた彼らは、石打ちの刑にすべしとの律法を持ち出し、その女性に取るべき態度を主に尋ねました。彼らは、イエスが彼女を赦せば、モーセの律法を破ったと訴え、石打ちの刑を命じれば、あわれみのない無慈悲な者だと群衆に印象づけ、さらに、死刑執行権を持つローマ当局の権威を無視する者として、告発するつもりであったのです。ところが主イエスは、彼らに何も答えず、身をかがめて指で地面に何かを書き続けました。そして彼らが答えをしつこく催促するとようやく身を起こし、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われたのです。すると、それを聞いた彼らは想定外のことに当惑し、まず年長の者から、さらに一人、また一人と、そこにいた彼ら全員がその場を去って行きました。その女性と二人だけになると、主は彼女に、だれもあなたにさばきを下さなかったのだから、わたしもさばきを下さない…これからは決して罪を犯してはならない、と言って彼女を去らせました。それは、彼女の姦淫の罪を見過ごされたというのではなく、悔いている彼女の心を知っておられた主が、メシアとして罪の赦しを宣言されたということであり、その後、主イエスは、その女性だけでなく、全人類の罪のために身代りとなって十字架にかかられ、贖いを成し遂げてくださったのです。律法学者たちは、彼女を利用してイエスを陥れることしか考えていませんでした。彼女へのあわれみもなければ、自らの罪を認める謙遜さもなかったのです。そしてそんな彼らは、主イエスと群衆の前で自らのあり方を恥じ、すごすごと退散するしかなかったのです。私たちは彼らを反面教師とし、自分の罪を日々認め、主の贖いを感謝して、赦しの宣言を受け取る者でありたいと思います。

自由と喜びの中を歩むことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 7章37-53節◇(7月28日)

「『私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。』」…ヨハネ7章51節

仮庵の祭りの最終日には、シロアムの池から運び上げられた水が神殿の祭壇に注がれることとなっていましたが、主イエスはそのことを意識し、宮において立ち上がり、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は…その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と叫ばれました。それが何を意味するのか…。著者ヨハネは、主イエスが、ご自分を信じる者が後に受けることになる御霊についてそう言われたのだ、と記していますが、それは、主が栄光を受けられるとき、すなわち、ご自身の十字架と復活による贖いのわざが成就するときのことであったのです。イエスのことばを聞いて、エルサレムの人々の意見が分かれました。ある者はイエスを預言者だとし、ある者は、イエスは国を再興する地上的メシアだとし、別の者は、イエスがガリラヤ出身の者であることを知り、メシアはガリラヤからは出ない、ベツレヘムから出るダビデの子孫だと聖書に書いてある、と言ったのです。そして、その認識は、祭司長やパリサイ人たちも同じでした(52節)。そのように、主イエスのことばを聞いた多くの人々は、「~はずがない」、「~であるべきだ」と、自分の考えに固執したため、イエスをメシアだと認めることができませんでした。彼らが持っていた聖書知識、メシアの来臨の預言の理解は間違ってはいません。しかし、ガリラヤという北のはずれの地の出身者をさげすむ偏見や、イエスの出生地はベツレヘムではなく、ダビデの子孫でもないという先入観が、真理を見えなくさせていたのです。ともすれば私たちも、彼らと同様に自分の考えに捕われ、そうでない状況に苛立ち、神に不満を持ち、他者をさばいてしまいますが、そのように視野が狭く、狭量な者になることなく、ニコデモのように、へりくだった思い、柔らかい心、神のみこころにかなったことばと態度を現わす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 7章25-36節◇(7月27日)

「わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」…ヨハネ7章29節

イエスに悪意を抱くユダヤ教指導者たちが、宮で公然と語っているイエスを放置しているのを見て、エルサレムの人々は、それは、彼らがイエスをメシアと認めたからではないかと考えました。一方、その人たち自身は、メシアは自分たちが知らないところから来るはずであり、ガリラヤ出身の者のわけがない…と考えていたのです。そのことを知った主イエスは、ご自分が確かに神から遣わされた存在であることを、宮において群衆に向って、繰り返し語られました(28,29節)。するとある者たちは、イエスを捕らえてユダヤ教指導者に引き渡そうとし、また別の者たちは、イエスが行なうしるしと不思議を求めていたため、そのことに反対して言い争いました(31節)。そのような群衆の動きを知った祭司長たちは、イエスを捕らえるべく下役を遣わしましたが、主イエスは、自分は自分を遣わされた方のもとに行く…あなたがたはそこに来ることはできない…と彼らに告げました。それは、後に起る昇天の預言でしたが、彼らは何のことかわからず、ギリシャ人の中に離散している人々に教えるために、外国へ行くつもりなのか…とつぶやいたのです。そのように、イエスに対する人々の捉え方は、ことごとく、人間的、地上的なものでした。イエスが神から遣わされたメシアだと信じて受け入れる者は、主が選ばれた12人の弟子以外にはいなかったのです。そしてその弟子たちもまた、霊の目が完全に開かれていたわけではなく、しばしば不信仰ぶりを露呈し、主を嘆かせたのです。父なる神は、罪の中にある人々を愛し、あわれみ、御子の十字架と復活によって、ご自身の救いの計画を実現された真実なお方です。私たちはその主に贖われた者として、どんなときにも、「イエスは主です」、「主は生きておられます」、「主をあがめます」と、イエスはメシアであることを告白して、賛美をささげたいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 7章14-24節◇(7月26日)

「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」…ヨハネ7章19節

仮庵の祭りの期間の半分が過ぎたころ、主イエスは宮に上って、みことばを説き明かし、人々に教え始められました。すると、それまでイエスを捜していた律法学者たちは、イエスがそのように堂々と語り、しかもその内容が、律法の専門教育を受けた者が語るような見事なものであったため、学んだこともないのに、この人にどうして学問があるのか…と、思わず驚きの声をあげました。そこで、主イエスは彼らに、この教えは自分のものではなく、自分を遣わされた方、父なる神のものだ…その方のみここを行い、その方の栄誉を求めるために、自分は神のことばを語り、教えているのだ…と告げました。さらに、主は彼らに、あなたがたは人々に割礼を受けさせることに熱心であり、そのことで満足しているが、モーセの律法を守り行おうとはしていない…と、その偽善ぶりを非難しました。その彼らは、人々が割礼を受けるのが安息日であってもそれを問題とはしていませんでしたが、主イエスが安息日に人々の病気を癒すのを見て憤り、イエスを殺そうとさえしていたのです(5:1-18)。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい」(24節)。彼らは律法の知識を持っていました。しかし、律法を与えられた神の意図、みこころを正しく悟り、へりくだってそれに聞き従おうとはしていなかったのです。彼らは肉体に割礼を受けていました。しかし彼らは、かたくなな心を持ち、自己義認、自己満足をし、うわべで人をさばいていたのです。しかし、主イエスは、律法を成就するために、そして、ユダヤ人だけでなく、ご自身を信じるすべての者に、御霊による心の割礼を与えるために来られたのです(ロマ2:29)。そのお方に贖われた者として、ますます心が主と一つとされ、また、主の似姿へと造り変えられることを、切に求めていきたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 7章1-13節◇(7月25日)

「あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」…ヨハネ7章8節

宗教指導者たちとの議論を終えた主イエスは、なおも12人の弟子たちを伴ってガリラヤ湖近辺を巡り、人々を教え、奇しいみわざをなしておられました。するとイエスの兄弟たちは、仮庵の祭りがもうすぐエルサレムで行われるのだから、そこでもっと大々的に多くの人々の前で働きをすればよかろう、そうすれば弟子たちにも自分の力をアピールできるだろう…とイエスに勧めたのです。イエスの兄弟たちは、イエスが公の場で奇蹟的な力を現わし、人々の病気を癒し、悪い霊を追い出すことを求めているのだと、単純に考えていました。そして、それならば、隠れて事を行う者のように、いつまでもガリラヤにとどまっておらず、大勢の人が集まる仮庵の祭りに合わせて、エルサレムに上るべきだと主張したのです。すると主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と、兄弟たちのその提案を即座に拒否しました。そしてその理由として、悪いことを指摘している自分のことを世は憎んでおり、その世との衝突を避けるために、今は祭りに行かないのだ、と言われたのです。しかし主イエスは、兄弟たちが祭りに行った後、密かにひとりでエルサレムに上って行かれました。8節の脚注によれば、「わたしは『まだ』祭りに上って行きません」と書かれた写本もあります。主は、祭りに行くつもりは全くない、と答えたのではなく、祭りに行くことが御父のみこころだと確信するまで、待っておられたのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。主が言われた「わたしの時」は、私たち一人ひとりの営みにも備えられている、神のみこころにかなった時です。そしてそれは、主との親密な交わりを通して知ることができるものなのです。主の御声をはっきりと聴き、それに従って行動する者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 6章41-59節◇(7月23日)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」…ヨハネ6章54節

「ユダヤ人たち」は、イエスが自らを、天から下って来たパンだと語ったことにつまずき、互いに文句を言い始めました。彼らは、イエスを求めて追いかけた群衆ではなく、イエスに悪意を持った宗教指導者たちであり、41節以降の主のことばは、湖のほとりではなく、カペナウムのユダヤ教の会堂の中で話されたものでした(59節)。彼らは聖書に精通していました。預言者たちの書に何が書かれているか、よく知っていたはずでした。しかし、その一つ一つのことばを純粋な心で受け取ろうとはせず、人間的な思い、悪意と偏見を抱いてイエスに向き合っていたため、神の啓示を受け取れず、メシアであるイエスのもとに素直に来ることができなかったのです(45節)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」と主イエスは告げましたが、霊の目が開かれていない彼らにとっては訳が分からず、何かの儀式的なことを指すのかと思ったかもしれません。しかし主は、それを霊的な意味で語られたのであり、イエスを「食べる」、「飲む」とはつまり、イエスを「天から下って来た」、神から遣わされたメシア、いのちを与える救い主だと信じ、受け入れるということであって、荒野を旅するイスラエルの先祖たちに対し、神が天から降らせたマナは、その予型とも言えるのです。マナによって民は養われ、やがて地上での生涯を終えましたが、天から下って来られた生けるパン、主イエスを信じ、自分のうちに取り入れる者は、永遠のいのちを持つのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」(56節)。「神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります」(1ヨハ3:24a)。主イエスを信じ、受け入れる者は、食べ、飲むという生きるための行為として、その主のことばに絶えず聞き従うのです。そのように歩む者でありたいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 6章34-40節◇(7月22日)

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」…ヨハネ6章35節

神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えるものだという主イエスのことば(6:33)を聞いて、群衆は、そのパンをいつも私たちに与えてほしいと願いました。すると主は、このわたしがいのちのパンであり、わたしのもとに来る人は決して飢えることなく、わたしを信じるなら決して渇くことがないと言われました。「決して」と主は強調され、どんな人のどんな飢え渇きも、わたしは満たすことができるのだ、と宣言されたのです。主はさらに告げられました。「しかし…あなたがたはわたしを見たのに信じません。…わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」と(37節)。そのことばは、主が、人々をご自身のものとして囲いの中に入れ、そこで守り養ってくださるということを示唆しています。しかし主は、一人ひとりを強制的にそうするのではなく、まことのいのちを求め、ご自身に近づく者たちを、そのようにみもとに置いてくださるのです。さらに主は、ご自分のことを、天から下って来て世にいのちを与えるパンであると言われたのは、自らの思いを行うためではなく、ご自分を遣わされた父なる神のみこころを行うためであり、それは、ご自分に与えられているすべての人を一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせ、永遠のいのちを持つようにすることだと告げられました。ルカの福音書15章にある、主が語られたたとえ、失われた1匹の羊を見つけるために、他の99匹を野に残して捜し歩く人のことが思い起こされます。主は、すべての人にいのちを与えるいのちのパンであり、また、すべての人の良き羊飼いとなって、ご自分の囲いの中に入れて養い守り、そして、失われた羊を見つかるまで捜し歩き、取り戻してくださるお方なのです。私たちが、その主に見いだされ、贖われ、囲いの中の羊とされていることを覚え、主に感謝をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 6章16-33節◇(7月21日)

「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。…」…ヨハネ6章27節

弟子たちは、山に退かれた主イエスを残し、舟で湖の対岸の町カペナウムに戻ろうとしたところ、途中で強風を受け、波に悩まされましたが、そこで湖の上を歩いて来られた主イエスを迎え、無事に目的地に着くことができました。一方、主イエスを捜し求めていた群衆は、弟子たちが去ったと知ると、イエスが彼らと合流したと考え、自分たちも小舟に乗ってカペナウムに向いました。そのようにしてご自分の元にやって来た群衆に対し、主イエスは、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言われました。それはつまり、人々がご自分を追いかけている理由は、パンと魚を5千人以上の人々に分け与えるというしるしによって、ご自分をメシアと信じたからではなく、欲求を満たす「パン」、自分たちにとっての益を単に求めているからだ…という指摘でした。主イエスはさらに、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われましたが、彼らが地上的なものを追い求め、それに終始し、それを得て満足していることを知り、そのような態度を改めさせるべく、主はそう命じられたのです。そしてそれは、彼らがメシアであるイエスを信じ、永遠に至る霊的な食べ物を、主イエスから得ることであったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。ともすれば、日常における地上的な必要が満たされることを願い、自分たちにとっての益を追い求めることに終始し、そのために、「~してください」と、一方的に神に要求する祈りをしてしまいがちですが、主は私たちに対しても、主イエスご自身を求めること、また霊の糧であるみことばを受け取り従うこと、そして自らをささげる者となることを願っておられるのです。そのように歩んでいるかと自己吟味し、絶えず軌道修正していきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 6章1-15節◇(7月20日)

「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。」…ヨハネ6章11節

主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の近くの小さな山に登りましたが、一行を追って来た人々を見て主は、どこからパンを買って来てこの人たちに食べさせようかと、弟子の一人であるピリポに言われました。すると彼は、人々の数があまりにも多かったため、全員分のパンを確保することなどできない…2百デナリ、つまり2百万円を出して買っても足りないでしょう…と、主に答えました。すると、別の弟子であるアンデレが、少年が大麦のパン5つと魚2匹を持っていると、主に報告しました。しかし彼もまた、「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」と言い、手持ちの食糧がたったこれだけなら、あってもなくても同然だ…と、自分たちが置かれた状況の厳しさを思い、悲観的になっていたのです。しかし、主イエスは人々を座らせ、その少年からパンと魚を受け取り、神に感謝の祈りをささげた後、それらを人々に分け与えられました。すると、なんとそれらは、一人ひとりに十分に行き渡り、足りなくなることはなく、むしろ余るほどになったのです。それは明らかに、主イエスがなされたしるし、奇蹟でした。弟子たちは人々の多さに圧倒され、持てるものの少なさに失望し、主が人々に食べさせようとしておられるにもかかわらず、それをあきらめかけました。けれども主イエスは、そのわずかなものを神に感謝して受け取り、それを祝福し、必要を満たしてくださったのです。もとより主イエスは、世の初めにおいて、父とともに働いて無から有を生み出された創造主であられ、また悪霊を追い出す権威を持った主権者であられるのです。その主にとって、人々の数の多さや、持てるもの少なさはまったく問題ではないのです。私たちもしばしば、困難な状況におかれ、主から試みを受けますが(6節)、神への感謝、祈り、主への信頼を持ち続ける者でありたいと思います。

主の助けと満たしがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 5章31-47節◇(7月19日)

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」…ヨハネ5章39-40節

主イエスは、ご自分を証しする存在について言及されました。その証しが自分自身だけから出ているなら、それは真実なものではない。しかしバプテスマのヨハネは、自分のことを指し示して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と証ししたのであり(1:29)、「燃えて輝くともしび」として神に用いられたのだ…(35節)と。そしてそれよりもさらにすぐれた証しは、自分が行っているみわざ、すなわち、いやしや解放などのしるしと不思議であり、それは父なる神から与えられたものであって、そのようにして、父が、自分を遣わしたことを証ししておられるのだ…(36節)と、主は告げられたのです。38節以降には、ユダヤの宗教指導者たちの「信仰」が、いかに偽善的で的外れなものかが指摘されています。彼らは、聖書、すなわちモーセの律法と預言者たちの書を開き、その内容についていろいろと調べることに熱心であり、そこから得た知識は、誰よりも豊富でした。しかし、聖書が示しているのは、律法を成就し、人々を罪から救い、永遠のいのちをもたらす存在、すなわちメシアであって、それはまさにイエスのことなのです。そのことがわからないあなたがたは、メシアを純粋に求めておらず、持っている聖書の知識により人々から尊敬されることを願っているのであって、そこには真の信仰はない…と、主は彼らの「信仰姿勢」を強く非難されました。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。彼らと同じ過ちに陥らないよう、表面的、形式的に聖書のみことばを読むのではなく、そこに書かれている真理、それが指し示すキリストについて、さらに深い啓示が受けられるよう、主との豊かな交わりを持ち、御霊の助けと導きのうちに、霊の目が開かれていくことが大切なのです。日々、そのようにして歩む信仰者でありたいと思います。

主のもとにさらに近づくことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 5章19-30節◇(7月18日)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」…ヨハネ5章19節

今日の箇所の前、5章1-18節には、ベテスダの池にいた男の人のいやしの記事が書かれています。彼は、38年もの長い間病気にかかっていましたが、主イエスが、床を取り上げて歩きなさい、と彼に命じられると、ただちにいやされ、そのことばのとおりに歩き出したのです。すると、その日が安息日だったため、ユダヤ人の宗教指導者たちはイエスを非難し、迫害し始めましたが、主が彼らに、「わたしの父は今に至るまで働いておられる…」と、神を自分の父と呼ぶと、それはさらにエスカレートし、彼らはイエスを殺そうとし始めました。19節以降は、彼らに対して告げられた、主イエスのことばです。主イエスは、「子」、すなわちご自分は、父なる神がされることをすべて同様に行うのであり、そうでなければ、自らは何もすることができない…子がなすべきことはすべて父が示されるのだ…と言われました(19-20節)。そのことばに、明らかに、父と御子の一体性が示されています。そしてそれは、世の初めにおける創造のわざから始まり、世の終わりにおけるさばきに至るものであって、私たちの主が、父、子、御霊の三位一体として働いておられる神であることを、あらためて教えられるのです。30節には、終末のさばきにおいても、父のみこころに従い、御子であるキリストによって正しいさばきがなされるとあります。その主は、私たちを贖い、神の子どもとし、今もともにおられ、私たちをご自身のみこころのうちに生かし、導き、主が備えられる善を行う者としてくださっているのです。そして私たちは、終末のさばきに座において、義なる者として認められ、受け入れられ、永遠に神とともに生きる者とされるのです(24,29節)。そのように私たちが、アルファでありオメガである方によって救われ、罪赦され、死からいのちへと移されていることを覚え、感謝と賛美をささげたいと思います。

すべての栄光と誉れが主にありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 4章43-54節◇(7月16日)

「父親は、その時刻が、『あなたの息子は治る』とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。」…ヨハネ4章53節

主イエスの一行がガリラヤに戻ってカナの町に行くと、そこにある王室の役人がおり、息子が病気で死にかかっていたため、彼は息子の癒しを求めて主イエスのもとにやって来ました。ところが主は、あなたがたは、しるしと不思議を見なければ決して信じようとしない、と彼に言われ、その求めを無視しようとされたのです。しかし、その役人は簡単には引き下がりませんでした。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」と言い、事態が切迫していることを訴え、息子を癒やすことができるのはあなたしかいない…と言わんばかりに、ひたむきさをもって、再度願い出たのです。すると主イエスは、その役人のうちに、ご自分への信仰があるのを見て取り、「行きなさい。あなたの息子は治ります」と言われ、彼はそのイエスのことばを信じて家に戻っていきましたが、その途中で、病気の息子が治ったという朗報を、自分のしもべたちから聞いたのです。ヨハネはこの記事の中で、主イエスが役人の息子の癒しを宣言されたのと、家で床に伏せっていたその子の癒しが実際に起ったのが、同じタイミングであったことを強調しています。そして、しもべたちに確認してそのことを知った役人と、その証しを聞いた彼の家の者たちも、「みな信じた」と伝えているのです。そしてそれは、ことばをもってこの世界を創造された主イエスが(1:1-3,創1章)、なおも主権者としてことばをもってすべてを統べ治めておられ、また、物理的な制約を受けることなく、どこにおいてもご自身の臨在とみわざを現わされるお方だということです。病気の息子の癒しは、主が宣言された瞬間に起りました。役人はその主のことばを信じましたが、主の恵みとあわれみがその信仰に先行していたのです。そのお方が私たちの歩みにもみわざをなされることを、先取り感謝したいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 4章27-42節◇(7月15日)

「イエスは彼らに言われた。『わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。』」…ヨハネ4章34節

買い物に行っていた弟子たちは、戻って来ると、主がサマリア人の女性と話しているのを見て驚きましたが、誰も、立ち入って何かを尋ねようとはしませんでした。一方、彼女は、水を汲みに来たにもかかわらず、水がめを置いたまま町へ戻り、自分の身の上をすべて話す人と出会った…この方がキリストなのだろうか…と人々に語り、それを聞いた人々はイエスのもとにやって来たのです。食べ物を買ってきた弟子たちは主に食事を勧めましたが、イエスは、「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」と言われ、さらに、それは父なる神のみこころを行い、そのわざを成し遂げることだ…目を上げて畑を見よ、色づいて刈り入れるばかりになっている…と、弟子たちに告げられました。弟子たちが食べ物を買いに行っていた間に、主イエスはサマリアの女性に積極的に関わり、彼女の渇きがいやされるように生ける水の存在を語られ、彼女が神との交わりに生きる者となるように真の礼拝のあり方を教えられ、ご自分がキリスト、救い主であることを告げられました。「食べ物」とは、生きるために必要なもの、それによっていのちが保たれるためのものです。そしてそれは、肉のいのちのみならず、心とたましいを養う霊的な食物、すなわち、みことばに示される神のみこころなのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」(申8:3)。サマリアの女性は町に戻り、キリストに会ったことを人々に伝え、証ししました。それは神のみこころ、ご計画であって、主イエスが言われたとおり、人々の心の畑は色づいており、多くの者が自らキリストを求めてイエスに近づき、イエスのことばを聞き、そのお方が世の救い主だと信じたのです(42節)。私たちもまた、神のみこころを行い、委ねられている働きを全うする者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 4章16-26節◇(7月14日)

「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」…ヨハネ4章24節

主イエスとサマリアの女性の会話の続きです。主はやや唐突に、夫をここに連れて来るよう、彼女に命じました。すると彼女は、自分には夫がいないと答え、主も、確かにそのとおりだ、あなたには夫が5人いたが、今の男性は正式な夫ではないのだから…と言われたのです。彼女は、知るはずのないことをイエスが言い当てたことに驚き、あなたは預言者だと思うと言い、さらに、サマリア人はこの山で礼拝しているが、ユダヤ人は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っている…と、急に礼拝のことを持ち出して来ましたが、それは、彼女が、預言者だと思い込んだイエスに対し、本当のところどうなのか…と、尋ねたかったからに違いありません。主イエスは、彼女のうちに神を求める心、渇いたたましいがあること、男性関係のことで傷つき、周囲からも白眼視され、大きな痛みの中にあることを見抜いていました。そして、神を礼拝する場所がどこかは本質ではなく、大切なことは、御霊と真理によって父を礼拝することであり、今がまさにその時である、父はそのようなまことの礼拝者を求めておられるのだと告げ、さらに、メシアが来られればそのことも含めて一切が明らかにされる…と、彼女が期待を込めて言うのを聞くと、あなたが話しているこのわたしがまさにそれだと、あかされたのです。場所や形式にこだわらない、御霊と真理によってなされる礼拝…。それはイエス・キリストが、傷のないいけにえとしてご自分をささげて十字架にかかり、死からよみがえり、罪人の贖いを成し遂げることによってもたらされるのです。キリストはそのような礼拝を、ユダヤ人だけでなく、すべての人が招かれ、あずかるべきものとして、もたらしてくださったのです。そしてそこに、私たちも加えられたのです。メシアなる主イエスは、私の罪を赦し、救い出してくださった、今も、ともにいてくださる…。そのことを感謝し、自らを主にささげる(ロマ12:1)、そのようなまことの礼拝者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 4章1-15節◇(7月13日)

「…わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」…ヨハネ4章14節

主イエスと弟子たちは、自分たちに敵意を抱くパリサイ人たちとの関わりを避け、ユダヤからガリラヤへと戻って行きました。途中、サマリヤの地方を通り、弟子たちが買い物に行っている間、主イエスが「ヤコブの井戸」の傍らに座っていると、正午ごろそこに、一人のサマリア人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。それを見た主イエスは、水を飲ませて欲しいと声を掛けましたが、彼女は、イエスがユダヤ人なのに気づくと、なぜサマリア人の自分にそう言うのか…と答えました。当時、ユダヤ人たちは、元々同じ民族である彼らを、アッシリアに征服された後、他国人との雑婚を許したとして軽蔑し、関わりを持とうとはしていなかったのです。すると主イエスは、彼女に言われました。もしわたしがだれかを知っていたなら、私が与える生ける水を、あなたのほうから求めただろう…と。その生ける水とは、主がもたらす霊的祝福のことでしたが、その意味がわからなかった彼女は、それはどこから入手できるのかとイエスに尋ね、主はさらに、その水を飲む人は決して渇くことがなく、その人の内で泉となる…と告げられたのです。その主は、渇きを覚えている私たちにも、その生ける水を与えたいと願っておられます。主は、渇き自体がなくなると言われたのではありません。たとえ渇いても、その生ける水を飲むなら、渇きがいやされ、満たされ、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出る、と言われたのです。そしてそれは、主イエスがくださる、聖霊による喜びであり、平安であり、希望にほかなりません。私たちは、世にあって、不安や悩みや葛藤をもたらす事に遭遇しますが、それらに心が占領されないように、生きる望みを持ち続けられるように、主は守り、助けてくださるのです。その生ける水を絶えず主に求めつつ、この地上の荒野の歩みを続けていきたいと思います。

喜びと平安が心にありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 3章22-36節◇(7月12日)

「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」…ヨハネ3章31節

バプテスマのヨハネの弟子たちは、主イエスがヨルダンの川向こうでバプテスマを人々に授けており、多くの者がそのイエスのほうに行っていることを知ると、嫉妬と対抗意識をもって、自分たちの師にそのことを報告しました。するとヨハネは、その方は天から来られた救い主キリストであって、それに対して自分は、そのお方の到来の道備えをするための存在に過ぎないと語り、花嫁を迎える花婿の声を聞いて喜ぶ者のように、自分も喜びに満ちている、あの方が盛んになり、役目を終えた自分は衰えなければならない…と、弟子たちに告げたのです。その記事の後、31~36節には、著者ヨハネの記した教理的な内容のことばが、再び挿入されています。31節では、上から、天から来られる方、すなわちキリストは、すべてのものの上におられる、と繰り返されており、35節でも、父なる神はその御子の手に、すべてをお与えになったと書かれています。そのすべてのものとは、この世界のあらゆる存在であり、人、他の生き物、目には見えない存在も含む、いっさいのものです。それらはみな、天地を創造された神により造られたのであり、キリストが天に帰られた後も、その御国の王の主権のもとで、統べ治められているのです。そのように、すべてはキリストの御手のうちにあり、私たちの歩みも、キリストによって導かれ、守られており、さまざまな試練や苦難も、キリストのゆるしなしには何一つ起こり得ず、それらのことさえも、キリストにあって益とされるのです。ただ主のみこころだけがなるのです。そのことをしっかりと覚え、その主にますます信頼し、自らの歩みを委ねつつ、日々、神のことば、キリストの教えを受け取り、そこに立ち、御霊の導きのうちに歩み続けていきたい(34節参照)と思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 3章16-21節◇(7月11日)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」…ヨハネ3章16節

16節のみことばは、聖書の中でとてもよく知られています。そしてそこには、神が、人類の救い主として、ご自身の御子をこの世に送ってくださったこと、その御子、イエス・キリストを信じる者が、罪による滅びを免れ、永遠のいのちを得ることができるという、聖書の使信、福音のエッセンスが、凝縮されて書かれているのです。その16節から21節までは挿入部のようになっていますが、ヨハネは、1~15節の主イエスとニコデモとの対話の記事の最後に、「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」というニコデモへの主イエスのことばを記し、それを受けてさらに、16~21節において、重要な教理を読者に提示しているのです。18節では、御子を信じる者と信じない者とが対比されています。終わりの日には、すべての者はさばきの座に出て神の審判を受けることになりますが、キリストを信じる者は、罪のない者、義なる者とされ、信じない者は、罪のゆえにさばかれ、永遠の滅びに定められるのです。19~21節では、「光」ということばが5回も使われています。またここでも、その光と闇、真理と悪が対比されています。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(1:4-5)。キリストはいのちであり、光なるお方であるとすでに語ったヨハネは、世の人々が、光が来てもそれを歓迎して近づこうとはせず、光よりも闇を愛そうとすること、それゆえ神からさばかれてしまうことを指摘し、闇から光の中へ来るように、悪ではなく真理を行うように、永遠の滅びではなく永遠のいのちを受けるようにと、読者に促しています。私たちも、日々、光でありいのちであるキリストを求めて近づき、また、人々がそのお方を信じて永遠のいのちにあずかるよう、さらにとりなしていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 2章13-25節◇(7月9日)

「イエスは彼らに答えられた。『この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。』」…ヨハネ2章19節

過越の祭りが近づき、主イエスと弟子たちはエルサレムの宮へと入って行きました。するとそこには、礼拝する人々が必要とするいけにえの動物を、そこで買って調達できるよう、牛、羊、鳩を売る者たちがおり、また、外国の貨幣をユダヤのものに両替する者たちがいました。主イエスはその商売人たちを見ると、憤りを覚え、動物たちをみな宮から追い出し、両替人たちの台を倒され、そこから出て行くように命じました。そして、あぜんとしている彼らに対し、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と告げたのです。弟子たちは、主のその激しさに驚きつつ、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(詩69:9)というみことばを思い起こしました。一方、ユダヤ人たちはイエスの行動を非難し、「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と、しるしを現わすよう迫り、主イエスが、この神殿を壊すならわたしは三日でよみがえらせると告げると、彼らは、それを物理的な宮のことだと思い、そんなことはあり得ない…と一笑に付そうとしたのです。この「宮きよめ」の記事は他の福音書にもあり、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる…」(イザ56:8)と、主イエスがみことばを引用したことが記されていますが、ヨハネだけが、主が神殿の再建とご自身の復活を結びつけ、預言的に語ったことを伝えています。そしてそれは、主イエスの神性を強調する意図であったのです。その主は、私たちを贖い、永遠のいのちを約束され、ご自身が住まわれる宮としてくださいました。その宮は、真実な礼拝がささげられるべきところ、祈りの家となるべきところであり、その礼拝では、もはや動物のいけにえではなく、主への賛美のいけにえがささげられ、キリストの御名があがめられるのです。私たちがそのような聖徒とされ、その一人ひとりが召し集められ、キリストのからだなる教会に加えられていることを覚えたいと思います。

主の御名がますます高く掲げられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 2章1-12節◇(7月8日)

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」…ヨハネ2章11節

主イエスは、弟子たちとともに、ご自分の故郷、ガリラヤのカナの町での婚礼の祝宴に招かれ、出席しました。そこにはイエスの母マリアがいて、全体の取りまとめをしていましたが、皆が飲んで、食べて、その宴がたけなわになったとき、なんと、用意していたぶどう酒が尽きてしまったのです。困った母は、息子のイエスに向って、「ぶどう酒がありません」と言って助けを求めました。すると、主イエスは母に対して、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」と告げました。それは冷たく、突き放した言い方にも思えますが、このとき主イエスは、母と子ではなく、一人の女性とメシアとしての関係の中で発言されたのであり、わたしの時とは、神としてしるしを行い、ご自分がメシアであることを証しする時であったのです。そう言われても、マリアはひるみませんでした。息子にではなくあくまで神に拠り頼み、「あの方」の権威に従って何でもするようにと、給仕の者たちに指示したのです。すると、主は彼らに、そこにあった水がめに水を縁までいっぱいにし、それを汲んで宴会の世話役のところに持って行き、味見してもらうよう命じたのです。出されたぶどう酒を飲んでみた世話役は、それがとても上質なものであることに驚き、花婿をわざわざ呼んで、彼の用意周到さを称賛しました。花婿は、状況がよく飲み込めなかったでしょう。しかし、世話役とマリアと弟子たちは知っていたのです。それが、主イエスがなされたしるし、ご自分がメシアであることの証拠としての奇跡であると。そのようにして主は、ご自分の栄光を現わされました。そしてその主は、私たちの歩みにも介入され、しるしと不思議をなされ、さまざまな必要を満たしてくださるのです。かめに水を満たした給仕の者たちのように、主のことばに従順に従い、主がなされるしるし、みわざを、目撃、体験する者とされたいと思います。

主を待ち望むことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章43-51節◇(7月7日)

「ナタナエルは答えた。『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」…ヨハネ1章49節

主イエスは、アンデレとペテロに会った翌日、今度はピリポに声を掛け、自分に従うようにと命じました。すると彼は、ナタナエルという人物に、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会」った(45節)と告げましたが、ナタナエルはそれをまともに取り合おうとはしませんでした。なぜなら、ピリポから、その方はナザレの人でヨセフの子イエスだと聞くと、ナザレの隣のカナ出身であった彼は、何もない田舎のナザレから良いものが出るはずがない…と、偏見を持ったからです。ピリポはそんなナタナエルに、とにかくそのイエスに会うようにと促すと、彼は素直に応じました。そして彼に会うやいなや、主イエスは、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と告げたのです。それを聞いてナタナエルは驚きました。そして、イエスを畏れつつ、こう言ったのです。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と。すると主イエスは、私があなたのことを知っていたから信じたのか…あなたはその不思議よりも、もっと大きなことを見ることになる…御使いたちが人の子、すなわちわたしの上を上り下りするのさえ、あなたがたは見ることになるのだ…と、ナタナエルに告げられたのです。ピリポの証言を聞いても、ナタナエルは、そのイエスがナザレの人だと知ると、信じませんでした。彼のうちに、偏見、先入観という人間的な思いがあったからです。主イエスはよみがえられた…と仲間の弟子たちから聞いても信じなかったトマスのことが思い浮かびます。弟子となったナタナエルが、再びこの福音書に登場するのは主イエスの復活後です(21:2)。彼は、他の福音書には登場していません。その彼がここで取り上げられているのは、彼の「信仰」が、主から与えられたものであること、私たちのうちにも偏見や先入観があること、そして、柔らかい心で、メシアを証しすることばを受け入れることの大切さを読者に示すためなのです。私たちも、人間的な思いから解放され、主を信じて歩み続けたいと思います。

信仰が主からさらに与えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章29-42節◇(7月6日)

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』…ヨハネ1章29節

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」…。旧約の時代、祭司は、イスラエルの民の罪が赦されるために、傷のない雄の羊や牛をいけにえとして主の前にささげ、それを屠り、その血を祭壇の側面に振りかけるということを行いました(レビ1章)。バプテスマのヨハネは、イエスが神のみもとから来られたひとり子、傷のない、すなわち罪も汚れもない存在であって、ご自身をいけにえとしてささげ、屠られ、その血によって、世のすべての人の罪を取り除く神の子羊となるのだと、人類の救い主、メシアとしての歩みを、そのように預言的に告げたのです。その翌日、ヨハネが二人の自分の弟子とともに立っていたとき、イエスが歩いて行かれるのを見て、再び、「見よ、神の子羊」と言うと、それを聞いた二人の弟子は、イエスについて行きました。その弟子の一人はアンデレであり、彼は兄弟であるシモンに、自分がメシアに会ったと告げ、シモンをイエスのもとに連れて来たのです。すると主イエスは、そのシモンを見つめて、あなたはケファ(ペテロ…岩の意味)と呼ばれるようになる…と言われました。そして、そのシモンとアンデレの兄弟は、主イエスが選ばれ、召し出された最初の12人の弟子たち、使徒とされたのです。ヨハネは、ヨルダン川において多くの人々に悔い改めのバプテスマを授けていましたが、人々の目、関心が、自分ではなく、来られたメシア、世の罪を取り除く神の子羊である、イエスに向けられるように願っていました。そして、二人の弟子が自分のもとを離れ、イエスについて行くことを良しとしたのです。彼らを、自分のものとしてとどめておこうとは考えなかったのです。そのようにヨハネは、神のみこころがなることだけを願い、へりくだって、すべてを主に明け渡しました。私たちもまた、主を証しし、主に仕え、主のみこころに従う、忠実な神のしもべでありたいと思います。

主の御声に聞き従うことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章14-28節◇(7月5日)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」…ヨハネ1章14節

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた…」。ことばである神、いのちの源であり、すべての人を照らす光としてこの世の闇を打ち破るお方が、人となられた…。ヨハネはそのように記しています。それはつまり、人の目には見えないそのような偉大なお方が、私たちと同じ人として、同時に神として、受肉された神となってこの地上を歩まれ、私たちと親しく交わられたということです。私たちと同じく、寝て、起きて、食べて、笑い、泣き、怒られたということです。そしてそのお方が、へりくだって人々に仕え、病人をいやし、悪い霊を追い出し、私たちを捕われから解放してくださったのです。そして神は、そのお方の先駆者として、人々に神に立ち返るように説き、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを授けるヨハネを遣わされました。あなたは誰なのか…と執拗に尋ねる宗教指導者たちに対し、ヨハネは、待ち望んでいたメシアが、ついに預言のとおりに来てくださったことを喜び、歓迎しつつ、「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と答えたのです。そのように、謙遜に、忠実に自分の役割を果たしたバプテスマのヨハネ…。彼は、自分がなすべき働きが、キリストが来られるための道備えをし、人となられた神、救い主の到来を告げ知らせ、そのキリストを指し示すことであるとわきまえていました。そして人々に、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と語ったのです(ヨハ3:30)。今を生かされている私たちもまた、そのキリストと出会い、キリストを信じて救いを受け、日々、その方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けています(16節)。そのことを感謝しつつ、人々に証しし、キリストを指し示す者として用いられたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章1-13節◇(7月4日)

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」…ヨハネ1章5節

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。ヨハネは、そのことばをもって、この福音書を書き始めています。創世記の最初には「はじめに神が天と地を創造された」とありますが、ヨハネも、まず、この世界の始まりについて言及しています。しかし、ヨハネが読者に注目させようとしているのは、その創造のことではなく、それをなされた「ことば」という存在です。「ことば」が神とともにあり、「この方」がすべてのものを創造され、しかも、その「ことば」は神であったと記されています。それはつまり、「ことば」と「神」は別の個の存在であり、かつ、同一の一体な存在であるということです。人にはその神秘、奥義は容易には理解し得ませんが、ヨハネはそのような「ことば」が、世の初めからおられたことを強調しているのです。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」(4節)。ヨハネはまた、その「ことば」にいのちがあり、「人の光」であると記していますが、この節を新共同訳では、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と訳しています。この世は闇に覆われており、そこにいる人間は、「光」によって照らされなければ、どこをどう歩めばよいのかわからず、恐れ、おじ惑い、確信と希望をもって生きることができないのです。しかし5節には、その「光」が闇の中に輝き、闇はこれに打ち勝たなかったと、過去形で記されています。ヨハネは、その闇と対決するために「光」が来られたこと、その戦いの決着がすでについていることを、ここで宣言しているのです。その「光」、「ことば」、いのちをもたらす方とは、イエス・キリストです。また「闇」とは、この世の諸悪であり、人間の罪であり、その背後に存在する悪魔です。その闇は光にすでに打ち負かされているのです。死さえも打ち破られて永遠のいのちがもたらされているのです。戦いはすでに終わっているのです。そのことを覚え、希望をもって歩み続けたいと思います。

主の勝利を確信することができますように。

◇聖書箇所:詩篇 128篇◇(7月2日)

「幸いなことよ 主を恐れ 主の道を歩むすべての人は。」 …詩篇128篇1節

「主を畏れる」とは、びくびくして主を怖がることではありません。それは、新共同訳にあるように、「主を畏れる」こと、すなわち、主に畏敬の念を持ちながら、主の前にへりくだり、主を待ち望む者となることです。そのように主を畏れ、主の道を歩み続ける人こそ幸いな者であり、それは、自らの知恵や力が乏しいこと、神が求めるあり方に届かない罪深い者、心が貧しい者であることを認め、天におられる主だけが、そこに赦しと祝福を与えてくださると信じて歩むことなのです(マタ4:3)。とは言え、人はそのように、主を畏れ、祝福を求めて、ただじっと待っているわけではありません。人はそれぞれになすべきことがあり、主の助けと導きを祈りつつ、そのことをこつこつと行っていくのです。そしてその労苦を通して日々の糧を得るのであり、それは主の恵み、主にある幸いな歩みにほかならないのです。そのように主を畏れ、主の道を歩む人にもたらされる祝福は、その人自身だけにとどまりません。その人の妻は家の奥にいて、豊かな実を結ぶぶどうの木のようになり、また、食卓を囲むその人の子らは、オリーブの若木のようになり、その人を喜ばせ、楽しませ、その人の助け、支え、とりなし手となってくれるのです。そしてそこには孫たちが加えられ、その祝福は拡大していくのです。「見よ 主を恐れる人は 確かに このように祝福を受ける」。「あなたは いのちの日の限り エルサレムへのいつくしみを見よ」(4,5節)。そのように、主を畏れる人は確かに、主の祝福を豊かに受けるのです。その人はいのちの日の限り、主の恵み、いつくしみを目にしつつ、主に感謝と賛美をささげる者とされるのです。「幸いなことよ 主を恐れ 主の道を歩むすべての人は」。このみことばをしっかりと心に留め、主の道を歩み続けていいきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:詩篇 127篇◇(7月1日)

「若いときの子どもたちは 実に 勇士の手にある矢のようだ。」…詩篇127篇4節

「主が家を建てるのでなければ…主が町を守るのでなければ…」と詩人は言っています。もしそうでなければ、人が家を建てても、町を守るために見張っても、その働きはむなしいのだ…と。なぜなら、人の知恵や力には限界があり、そこに全能者なる主の御手のわざが現わされないなら、その働きは全きものとはならず、また、栄光が主に帰されることがないからなのです。人は、朝早くから起き、夜遅くまで、事をなすために、一生懸命働きます。もちろんそれは、大切なこと、尊いことに違いありません。しかしそれが、単に人間的ながんばりによるものであるなら、それはむなしいのです。人は神の前にへりくだり、主に拠り頼み、主によって助けられ、導かれ、事を成し遂げてくださる主にすべてを委ねつつ、一つ一つをなすべきなのです。そしてそのような人は、平安のうちに眠りにつくことができるのです。後半の3~5節では子どものことが語られています。「見よ、子どもたちは主の賜物 胎の実は報酬」と詩人が言うとおり、子どもたち一人ひとりは、神がそれぞれの母の胎の中に形造り、いのちを与えられた尊い存在、神からの贈り物であって、親の所有物ではないのです。「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です」(詩篇139:13)と、詩人は告白しています。子どもたち、若者には、がむしゃらに突き進む活力があります。恐れずに立ち向かう大胆さがあります。それはまさに、勇士の手にある矢のようであって、この世を支配しようとする敵を打ち破るために、神に尊く用いられるのです。しかし、彼らにはまた、多くの誘惑があります。だからこそ、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と命じられているのです(伝12:1)。そして、大人の者たちが、神から託されたこどもたちを、主の器として育成すべく訓戒すること、次世代の者たちの守りと成長と祝福をとりなすことが、主から求められているのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

ますます主のみわざを待ち望む者とされますように。