◇聖書箇所:マルコの福音書 5章21-34節◇(1月30日)

「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」…マルコ5:34

12年もの間、長血と呼ばれる、月の障りが止まらない婦人病で苦しむ女性がいました。医者からは食いものにされ、見放され、その症状はさらに悪化していたのです。彼女は、噂に聞いたイエスならきっと癒してくれる…と期待し、イエスが近くに来た際に触れてもらおうとしましたが、多くの人々がいたため、衣にでも触れれば…と考え、群衆をかき分け、うしろから主に近づいたのです。そのようにしてイエスの衣に触れた瞬間、彼女は、自分のからだの中に変化が起き、病気が癒されたと感じました。同時に主イエスも、自分のうちから力が出ていったことに気づき、誰が触ったのかと尋ね、名乗り出た彼女から事情を聞くと、「安心して行きなさい、苦しむことなく、健やかでいなさい」と言われたのです。その女性は、イエスに手を置いてもらえば癒されると考え、それを願っていたことでしょう。しかし、イエスを取り囲む多くの人がいたため、それは難しかったのです。しかし彼女は、あきらめずにイエスに近づき、せめて衣にさえ触れれば…と考え、それを行動へと移しました。そして、主はそれを良しとされ、彼女の長血を癒され、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。私たちも考えます。きちんと時間を取り、主の前に静まり、聖書を開き、黙想と祈りをすべきだ…と。しかし、現実は厳しいのです。多くのことを抱え、期待とはほど遠い状況に置かれます。けれども、その中でも、主に近づくことが大切なのです。近づくことができるのです。たとえ3分でも、いや一瞬でも、心を主に向け、主の守りを、導きを、祝福を祈り求めるなら、主は、確かにそれに応えてくださるのです。そのように、どのような状況でも、主を求め、待ち望み、主にひたすら拠り頼む心、それが信仰なのです。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコ4:8)。ますますそのような者として歩みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 4章35-41節(1月28日)

「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」…マルコ4:39

多くのたとえをもって、人々に神の国について教えられた主イエスは、夕方になると弟子たちに、湖の向こう岸へ渡ろう、と言われました。そこで弟子たちは、群衆を残したまま舟を漕ぎ出し、しばらくは順調に進んでいましたが、突然、激しい風が起こり、湖面が波立ち、水が舟の中に入って来たため、舟は沈みそうになったのです。慌てた弟子たちは必死に水をかき出しましたが、状況は悪化し、舟はいよいよ沈没するかと思われました。そんな中、主イエスはなんと、船尾でずっと寝ていたのです。それを見て腹立たしく感じた弟子たちはイエスを叩き起こしましたが、起き上がった主が、風に対して「黙れ、静まれ」と叱りつけると、とたんに風はやみ、何事もなかったかのように、湖はすっかり穏やかになったのです。主イエスが人々に教えられた神の国…それは、神の統治、支配にほかなりません。そしてそれは、メシアであるイエスによってこの地にもたらされ、終わりの日に完成するのです。その御国の王なるイエスが主権を持ち、すべてを統べ治めておられるのであれば、その主のことばに風や波が従うのは当然のことでしたが、弟子たちはまだ、その理解、信仰にまでは至っていなかったのです。主イエスが人々から悪霊を追い出し、病を癒すのを、弟子たちは見ていました。神の国のことも聞いていました。しかし、彼らは主イエスがどのような存在かを、まだ悟っていませんでした。だから慌てふためいたのです。だから沈没を恐れたのです。だから「向こう岸へ渡ろう」と言われた主のことばを忘れてしまったのです。彼らは後に、主イエスが「黙れ、静まれ」と風を叱りつけられたことばを、主を腹立たしく思って非難した、自分たちへのものでもあった…と感じたかもしれません。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。みことばに立ち、どのような状況の中でも慌てず、静まり、御国の王なる主に信頼する者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 4章21-34節◇(1月27日)

「蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」…マルコ4:32

「蒔かれた種のたとえ」を話された主は、また、明かりは燭台の上に置くために持ってくるのではないか…と言われ、さらに、持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられてしまう…と言われました(21-24節)。では、その「明かり」や持っている者の「もの」とは、何を意味するのでしょうか…。26節以降では、神の国について、主は再び、種のたとえを話しておられますが、そのように、21-24節のことばが「種の話」に挟まれていることから、それらもまた、種が示すもの、つまり、みことばであり、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音であり、闇を照らす世の光なるイエス・キリストの教え、御国の奥義、そして、キリストご自身、すなわち、道、真理、いのちである(ヨハ14:6)、と理解することができるのです。さらに主イエスは、神の国の性質に関して、「このようなもの…」と2つのたとえにより教えられましたが、その1つ目は、種が地に蒔かれると、ひとりでに芽を出して育ち、苗となり、穂を出し、実をならせ、収穫をもたらす、ということです。またその2つ目は、吹けば飛ぶような小さなからし種の種も、それが地に蒔かれると芽を出し、ぐんぐんと育ち、どんな野菜よりも大きくなり、鳥が巣を作れるほどの木になる、ということです。それらの教えによって主が伝えようとされたこと、それは、神の国には、私たちの想像を超えた大きな成長力があり、それが種となって蒔かれるなら、あっというまに成長し、拡がっていくものである、ということです。しかし、その種が地に蒔かれなければ、それはそのままなのです。キリストは、神の国の福音という良き知らせ、いのちのことばを、「明かり」として持って来られました。そしてそれは、升や寝台の下にではなく、燭台の上に置かれるべきなのです(21節)。その光に人々が照らされるように、祈り、労する者でありたいと思います。

御国がさらに拡がりますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 4章1-20節◇(1月26日)

「道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。」…マルコ4:15

主イエスは、群衆に向って話しをする中で、多くのたとえによって彼らを教えられましたが、そのひとつが、今日の箇所に書かれている「蒔かれた種のたとえ」です。ある種は道端に落ち、それを見つけた鳥によって食べられてしまいました。また別の種は土の薄い岩地に落ち、すぐに芽を出しましたが、根を深く張ることができずに枯れてしまいました。さらに別の種は茨の中に落ち、芽を出して育っても茨にふさがれてしまい、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は、芽生えるとすくすくと成長して豊かな実を結び、それは、30倍、60倍、100倍にもなったのです。話しが終わった後、弟子たちとともに何人かがそのたとえの意味を尋ねると、主イエスは彼らに、次のように説き明かされました。道端に落ちた種とは、みことばを聞いても、蒔かれたその種をサタンに取られてしまう者であり、岩地に落ちた種とは、困難や迫害が起こると、信仰の根がないためにすぐにつまずいてしまう者であり、茨の中に落ちた種とは、この世の思い煩いや富の惑わしによって心がふさがれ、実を結べない者であり、良い地に落ちた種とは、主を求める心を持ち、みことばを素直に受け入れ、豊かな実を結ぶ者たちのことなのだ…と。私たちの住んでいるこの日本においては、残念ながら、道端に落ちた種がサタンによって奪い取られてしまい、種が芽生えるまでに至っていないのが現状なのかもしれません。しかし私たちは、あきらめずに、みことばの種を蒔き続けるべきなのです。もっと畑の奥まで入っていって、主に立てられた農夫として、収穫を待ち望みつつ、その働きを忠実になし続けるべきなのです。より多く種を蒔けば、より多くの実が結ばれるのです。蒔かれるその種の中に、いのちがあるのです。「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る」(詩126:5)。主にあって、そのような者とさせていただきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 3章20-35節(1月25日)

「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」…マルコ3:35

主イエスと弟子たちは、次々に集まってくる群衆への対応に忙殺され、食事もできないほどでしたが、そのように一心不乱に人々を癒し、悪霊の追い出しをしているイエスのことを「おかしくなった」と人々が言っているのを聞いて、イエスの家族はイエスを連れ戻そうとしてやって来ました。また、律法学者たちもわざわざエルサレムから下って来て、イエスは悪霊どものかしらによって悪霊追い出しをしているのだと、触れ回っていたのです。主イエスは彼らに対して、もしそうなら、それはサタンの国の内部分裂であって、その国は立ち行かずに滅んでしまう…そんなことはあり得ない…そうではなくて、サタンを縛り上げる力をわたしが持ち、その手下の悪霊どもを追い出しているのだ…と言われました。そして、あなたがたは、わたしが汚れた霊につかれていると言って聖霊を冒瀆しているが、そのような罪は赦されず、永遠の罪に定められると言って、彼らを非難されたのです。そのやり取りの後、イエスの家族が家の外に立ち、人を送って中にいたイエスを呼びましたが、主は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言って、それに取り合おうとはしませんでした。そして、ご自分の周りにいる人々を見回して、神のみこころを行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母だ…と言われたのです。主イエスは、家族のことを嫌っていたわけではありません。仲違いしていたのでもありません。そのような冷たい態度を取られた理由、それは、家族が人々の言っていることを真に受けて、イエスを連れ戻そうとしていたからです。そしてそれは、神の国の働きを止めることになるからです。家族はイエスのことが心配だったのでしょう。しかし単に人間的な思いで行おうとしたそのことは、神のみこころではなかったのです。人のためを思ってすることが、必ずしも主が望まれるものとはならない…。そのことをここから教えられます。主のみこころは何か…そのことを絶えず尋ね求める者でありたいと思います。

主の御声を聴くことができますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 3章13-19節◇(1月24日)

「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」…マルコ3:14-15

主イエスは山に登り、ご自分の意にかなう者たちを選ばれ、弟子とされました。それは、漁師であったシモンとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟を初め、後に主を裏切ることになるイスカリオテのユダを含む12人でした。彼らは「使徒」と呼ばれましたが、そのことばには「遣わされた者」という意味があります。彼らは使者、使節、キリストの使命を受けて出て行く聖徒なのです。主イエスが彼らが選ばれた目的、それは、①彼らをご自分のそばに置くため、②彼らを遣わして宣教をさせるため、③彼らに悪霊を追い出す権威を与えるためでした。主はシモンとアンデレに対して、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われましたが(1:17)、それはまさに、人々が罪の中から救い出され、捕らわれているものから解放されるということであり、主はそのために弟子たちを選び、任命し、人々のところに遣わされたのです。しかし、彼らはすぐに出て行ったわけではありません。その目的の最初に、「彼らをご自分のそばに置くため」と書かれているのです。使徒たちは主とともに生活し、深い交わりを持つ中で、自分たちのことを主がいかに愛し、受け入れ、大切に思ってくれているかを肌で感じ、そして、さまざまな真理、神の御旨を教えられ、神の国を建て上げるために自分たちが重要な任務を担うことを知り、その実現に期待をふくらませていったのです。私たち一人ひとりもまた、主イエスに選ばれ、任命された主の弟子です(ヨハ15:16)。主によって世に遣わされるために立てられている「使徒」であって、その役割、求められていることは、12弟子と同じなのです。そしてその第一になされるべきことは、「主のそばに置かれる」こと、すなわち、主との深い交わりを持ち、主の愛に満たされ、主のみ声を聴き、主の御旨を知るということなのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

静まりのときが与えられますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 3章1-12節◇(1月23日)

「それから彼らに言われた。『安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。』彼らは黙っていた。」…マルコ3:7

主イエスが安息日に会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がおり、主はその人を真ん中に立たせました。それをじっと見ていたのが、パリサイ人たちです。律法主義者である彼らは、安息日にも独自の規定を設け、人が生きるために必要な労働をも制限していましたが、それによれば、人を安息日に癒すことは違反であり、イエスがその人を癒すなら訴えることができると考え、神を礼拝する心はそっちのけで、その時を待っていたのです。彼らの心のうちを知っておられた主イエスは、神が定めた安息日の意義を問われました。神のみこころは、安息日に善を行うことか、悪を行うことか、いのちを救うことか、殺すことなのか…と。しかし、パリサイ人たちが何も答えず黙っているのを見た主イエスは憤り、彼らの心が頑ななのを嘆き悲しみ、片手の萎えているその人に手を伸ばすように言われました。そして彼がそのようにすると、手は元どおりになったのです。癒されたのです。パリサイ人たちはモーセの律法を曲解していました。安息日の教え(出20:8-11)を表面的にしか捉えていませんでした。たとえ安息日であっても、人が生きるために必要なこと、人が癒され回復することを、神が良しとされるとは考えずに、単にその行動だけを見て、規定に違反している…と、人を裁いていたのです。彼らには、主が求めておられる、愛やあわれみの心はなかったのです。安息日は「主の安息」であって、聖なる日として、他の日と区別して取り分けるべきものであり、神がなされた偉大な創造のみわざを覚え、また、神の救い、解放のみわざを忘れないようにするために、そしてその中で人が真の安息にあずかるために、神が制定された日なのです(出20:10-11,申5:15)。その意義と精神を正しく理解し、律法主義的にならず、しかし、特別な日として尊んで、主をあがめ、栄光を主に帰す者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 2章1-17節

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」…マルコ2:5

主イエスの一行が再びカペナウムに入り、ある家に滞在していると、それを知った多くの人々がやって来ました。そこで主が、人々にみことばを語っていると、そこに、4人の人に担がれた一人の中風の人が連れて来られました。そして彼らは、人がいっぱいでイエスに近づけないのを知ると、なんと、家の屋根をはがして穴を開け、そこから、中風の人の寝床をイエスの前につり降ろしたのです。それは大胆な行動でした。主イエスの話は中断し、上からは屋根の一部がパラパラと落ち、人々は彼らを非難したことでしょう。しかし主は、なんとかして中風の人を癒してもらいたいと願い、そのような行動に出た彼らを良しとし、その信仰を認め、その中風の人に、罪の赦しを宣言されたのです。それは、その人にとって、罪の赦しこそ、病気の癒しに先立って必要であったからです。するとそこにいた律法学者たちは、人の罪を赦すことができるのは神以外にはいない…この人は神を冒瀆している…と心の中で考えました。そこで、それを見抜いた主イエスが、中風の人に、起きて寝床を担いで家に帰るよう命じると、その人はただちにその主のことばに従い、皆の前を出て行きました。そのようにして主は、ご自分のことばが単なる口先だけのものではないことを、人々の前で証明されたのです。神である主イエスは、ご自身の権威あることばによってこの世界を創造されました。「光、あれ」と仰せられると光が生じ、同様にしてすべてのものを造られたのです。ヨハネは「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と記しています(ヨハ1:1)。その主のことばは、無から有を生み出すものであり、人にはできないことを可能にするものであり、罪人を赦し、病人を癒し、捕らわれた人を解放し、自由にする力を持つものなのです。聖書に書かれている一つ一つのみことばに心を留め、その揺るがない土台の上にしっかりと立ち、信仰の歩みを進める者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 1章35-45節◇(1月20日)

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」…マルコ1:41

主イエスの元には、病気の癒し、悪霊からの解放を求めて、常に多くの人が集まって来ていました。しかし、主は、どんなに忙しくても、父なる神との交わりを決して欠かすことはありませんでした。誰にも邪魔されることがないように、朝早く、まだ暗いうちに起きて、寂しいところに出て行き、そこで祈っておられたのです。そのような祈りの時間も、主の後を追ってきた弟子たちにより中断されましたが、主は、彼らから、皆が自分のことを捜していると聞くと、「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」(38節)と言い、父から与えられた使命を全うすべく、ご自分を必要としている人々の所へと、心新たにして出て行ったのです。40節以降にはツァラアトの癒しの記事が記されています。ツァラアトは人の皮膚や家の壁にかびのような症状をもたらすもので、当時、それに冒された者は汚れているとされていました。そのツァラアトに冒された人が主イエスに癒しを求め、「お心一つで、私をきよくすることがおできになります」と訴えると、主は、人が近寄らない彼の患部に手を伸ばして触り、「わたしの心だ。きよくなれ」と告げ、たちどころに癒してくださったのです。その主イエスは、今も、すべての人を愛し、恵みといつくしみを注ごうとしておられます。人々から見放され、見捨てられたような人に対しても、きよくなれ、癒されよ、救いを受けよと、深いあわれみをもって、御手を伸ばし、触れてくださるのです。それが、主イエスの心、神のみこころだからです。私たちも、何か、自分が必要とされていないように思ったり、孤独だと感じることもありますが、そのようなときにこそ、主との深い交わりを持ち、主の御声を聴き、主の御手に触れられ、癒しと回復を主から受けたいと思います。

心に平安がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 1章21-34節◇(1月19日)

「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」…マルコ1:22

漁師たちをご自分の弟子として召し出された主イエスは、彼らとともに、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに行き、安息日にそこにあったユダヤ教の会堂に入り、集まっていた人々に対して教えられました。するとみなは、その教えが、律法学者たちのものとは違い、イエスが権威ある者として語り、自分たちの心に届くものであることに驚きました。会衆の中には、汚れた霊につかれた者がいました。その霊は、イエスの権威と力に恐れをなし、自分たちを滅ぼしに来たのかとわめきましたが、主イエスが「黙れ。この人から出て行け」と一喝すると観念し、その人をひきつけさせ、大声をあげて出て行きました。すると、その様子を目撃した人々は、イエスとその教えが権威に満ちていることに、あらためて驚いたのです。主イエスの弟子たちは、会堂を出ると、シモンとアンデレの家に入りました。そこにはシモンの姑がおり、病気になって高熱を出していたのです。主イエスがさっそく、彼女の手を取り、寝ていた床から起こすと、すぐに熱が引いて癒され、元気を取り戻した彼女は、一行をもてなしました。主イエスの評判はまたたく間に周辺に拡がり、人々は病人や悪霊につかれた人々をみな、イエスのもとに連れて来ました。そして主は、速やかに、それらの者たちを癒され、悪い霊を追い出されたのです。それらはすべて、主が持っておられた権威によることであり、その権威は、メシアとしての権威、王としての権威にほかなりません。主は「時が満ち、神の国が近づいた」と言われましたが(1:15)、主イエスが権威を行使して、癒し、解放、救いのみわざをなされたということはすなわち、神の国をそれぞれの地域で、また人々の中で、地上におけるさまざまな領域において、押し拡げられたということなのです。奪われていた支配を取り戻されたということなのです。その主が、今も、そのように働いておられること、どのような権威も、主の権威に従わせられるということを覚えたいと思います。

ただ主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 1章12-20節◇(1月18日)

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」…マルコ1:17-18

バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた主イエスは、すぐに、御霊によって荒野へと導かれ、そこで40日間、サタンによる試み、誘惑を受けられました。マタイやルカは、その期間、主が断食されていたこと、また、サタンがどのように誘惑したのか、そのやり取りを記していますが、マルコはそれらには触れていません。あたかも、それが、宣教を開始する前に通るべき、一つの過程であるかのように、そして主が、当然ながらそれをクリアされたことを示唆するように、簡潔に記しているのです。バプテスマのヨハネは、マタイによれば、領主ヘロデの指示によって捕らえられ、後に殺害されることになりましたが、マルコはそのことも記さず、主イエスがヨハネから引き継ぐようにして、ヨハネが伝えていた「神の国が近づいた。悔い改めよ」というメッセージを語ったこと、そして、それだけでなく、「福音を信じなさい」と、「神の福音を宣べ伝えた」ことを強調しています。16~20節には、主イエスが、ガリラヤ湖を仕事の場としている漁師たちに声を掛け、ご自分の弟子として召し出されたことが書かれています。彼らはそのとき、湖上で網を打っていたり、舟の中で破れた網を繕っていたりしましたが、彼らは、主イエスに呼ばれると、生活に必要なものや、家族をもそのまま残して、ただちに主に従いました。彼らには迷いやためらいはなかったのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。彼らは、主イエスが宣べ伝えていた神の国の祝福が、どれほど豊かなものであるか、そして、人々がその祝福にあずかるために、自分たちがイエスの働きに加えられ、主に用いられることが、どれほどわくわくするようなことなのか…「大漁」を経験したことがある彼らは、それを理解し、期待に心をふくらませたに違いありません。私たちもまた、キリストの弟子とされた者として、期待をもって主に従っていきたいと思います。

主の祝福を押し流す者とされますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 1章1-11節◇(1月17日)

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」…マルコ1:1

マルコの福音書は、4つの福音書の中で一番早い時期に書かれ、マタイやルカはマルコのものを参考にして、自分の福音書を著わしたとされています。また、マルコの福音書には、イエス・キリストの降誕の場面が描かれておらず、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場面から書き始められており、全体の分量は他の福音書に比べて少なく、文体も簡潔なものとなっています。マルコは、預言者イザヤの書にあることばとして、2節と3節にそのことばを記していますが、実は、2節のことばはマラキ書3章1節の引用であり、3節がイザヤ書40章3節のみことばです。そしてそれは、マルコが間違えたわけではなく、厳密な記述にこだわらずに2つをまとめて、「イザヤの書に」と表現したのだと思われます。そのマラキ書3章1節を実際に見てみますと、そこには、「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る…」とあり、さらに続く2節には、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう…」と書かれています。それは明らかに、終末における神のさばきの暗示なのです。マルコは福音書の最初にこう記しました。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。福音とは、「良き知らせ」という意味のことばです。神の御子であるイエス・キリストが人類にもたらされた救いの良き知らせを、マルコは人々に伝えるためにこの福音書を記しました。そしてそのメッセージには、この世の終わりの日にすべての人が神の御前に出て審判を受け、キリストを信じる聖徒たちとそうでない者たちが分けられ、それぞれ、永遠のいのちを受けるようになり、永遠の滅びに至るようになるという、その警告も当然含まれているのです。人はともすれば、将来のことを考えず、今を充実させることに力を注ぎますが、永遠を見る目を、すべての人が持つべきなのです。旧約の預言者たち、福音書の記者たち、主イエスの視点を、私たちも持ちたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 11章1-26節◇(1月16日)

「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。」…創世記11:9

10章32節に、「大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出た」と書かれていますが、そのとき人々が話していたことばは、一つの共通の言語でした。彼らにとって意志の疎通は容易であり、同じ心で物事を進めることができたのです。それ自体は好ましいことでしたが、彼らの心の考えは良いものではありませんでした。東の方へ移動した民は、そこに平地を見つけて住み始め、れんがを作って家を建て、町を形成していきましたが、彼らは「自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう…地の全面に散らされるといけないから…」と言い(4節)、それを実現すべく行動を始めたのです。そこには、天に届きたいという彼らの高慢な心、神に頼らず結束して生きようとする心があり、その根底には、神に背こうとする人々の罪の性質があるのです。もちろん神は、そのようなことを許される方ではありません。そのことを知った神は、彼らの話しことばが通じないようにされたので、彼らの企みは頓挫し、塔と町の建設は中止され、一致団結すべく集まっていた大勢の人々は、地の全面へと散らされることとなったのです。パウロはこう言っています。「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ロマ14:8)。バベルの塔を建てようとした人々は、自分たちのため、神の領域に届くため、一つの町に集まって自分たちの力で生き抜くため、そのような動機で事をなそうとしました。しかし、すべての人は、主によって罪赦され、神の子どもとされ、神のみこころを行うため、神の国を建て上げるため、神の栄光を現わすために生かされているのであって、それこそが、私たちの存在の意義であり、人生の目的なのです。「主のために生きる」。その決意を新たにしたいと思います。

ますますへりくだった者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 9章(1月14日)

「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。」…創世記9:16

「大洪水後」のことが書かれています。神は、ノアと彼の3人の息子たちを祝福し、彼らに、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と言われ、彼らの子孫が増し加わり、地の上に拡がっていくようになることを、ご自身の御旨として示されました。また神は、人が地のすべての生き物を支配し、それらを治める者となるという、定められたその役割をあらためて告げられ(1:26)、さらに、それらのものを緑の草と同じように食物としてよい、つまり肉食を行ってもよいのだと、彼らに言われたのです(3節)。9~17節には、神がノアと彼の息子たちに対して語られたことが記されていますが、それは、神が彼らとの間に立てられる契約についてです。その契約は、人間におけるそれとは異なり、双方による調整と合意に基づくものではあく、神が主権をもって「そのようにする」と一方的に定め、宣言されたものであったのです。その契約の内容とは、神がノアとその息子たち、また、彼らの後の子孫たち、さらには、彼らとともにいる、地のすべての生き物に対するものであり、すべての肉なるものが、再び大洪水の大水によって滅ぼされることはないという、すでに主が心の中で決めておられたこと(8:21)の表明でした。そして、そのしるしとして、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる」、「虹が雲の中にあるとき、わたしは…永遠の契約を思い起こそう」と言われたのです。「思い起こそう」と主は言われましたが、それはもちろん、虹を見るまで忘れているということではありません。神は真実はお方であり、人間のように、その契約を勝手に破棄されないのです。それを貫き通されるのです。そそして、その祝福の契約は、キリストの血による新しい契約として引き継がれ、聖徒とされた私たちとの間にもそれは結ばれているのです。神が契約の神であり、祝福を与えてくださるお方であることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 8章◇(1月13日)

「ノアは主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。」…創世記8:20

地の上に大洪水が40日間あり、水は150日間増え続けましたが、神が地の上に風を吹き渡らせると、ようやく150日の終わりになって地の上から水が引き始めました。また、箱舟は水によって高い所に押し上げられ、アララテの山地にとどまっていましたが、水かさが減るに従い、その周辺の山々の頂きも現れるようになりました。ノアは、水が地の上からどの程度引いたのかを調べるために、烏、ついで鳩を放ち、鳩がオリーブの木の枝を持って帰ってくるのを見て、水がそこまで地の上から引いたことを知りました。そしてノアが、箱舟の覆いを取り払って辺りを見渡すと、水はすっかり引いて、地の面は乾いていたのです。神はノアに、箱舟の中にいる彼の家族を初め、すべての生き物がそこから出るようにせよと告げられ、まず、ノアと彼の妻、息子たち夫婦が外に出ると、獣、家畜、鳥たちのつがいも、種類ごとに次々に箱舟から出て来ました。そのときも、ノアがそれらを出すようにしたのではなく、主ご自身がそれらに働きかけられたことが暗示されています(18,19節)。主が主権をもってすべての事をなされ、そこに主の選びと救いが現わされたのです。ノアはその主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜、また鳥からいくつかを取って、全焼のささげ物として献げました。すると主は、それを芳ばしい香りとしてかがれ、喜ばれ、もう2度と同じようにして生き物を打ち滅ぼすことはしないと、心の中で誓われたのです。ノアが主のために行ったこと、それは主への礼拝にほかなりません。私たちもまた、キリストにあって、主の選びと救いにあずかったことを覚え、感謝し、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず主にささげる者(ヘブ13:15)でありたいと思います。

救いの喜びがありますように。

◇聖書箇所:創世記 7章◇(1月12日)

「入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」…創世記7:16

神がノアに命じて造らせた箱舟が完成すると、神は、雄と雌のつがいを、きよい動物からは7つがいずつ、きよくない動物からも1つがいずつ、また空の鳥からも7つがいずつ取るように命じられました。それらの種類が箱舟の中に入れられて、全地の面で生き残るためです。ノアはすでに6百歳という超高齢でしたが、すべて主から命じられたとおりに行いました。そのようにして、いのちの息のあるすべての肉なるものと、ノア、彼の妻、セム、ハム、ヤフェテの3人の息子たちと彼らの妻の8人が箱舟の中に入ると、主は入口の戸を閉ざされました。その後、主が言われたとおり、40日40夜大雨が地の上に降り続けたので、大洪水が起こり、地の上には水がみなぎり、箱舟は水に押し上げられ、水面に浮かんで漂いました。一方、箱舟に入ることができなかったすべての人、肉なるものは、その大水に呑み込まれて死に絶えました。大水が迫って来たとき、おそらく彼らは箱舟に殺到し、自分たちも中に入れてくれと、必死になって戸を叩き、叫んだことでしょう。しかしその戸が開けられることはなく、みな地の面から消し去られてしまったのです。神から命じられたノアが、あらゆる種類の生きもののつがいを取って集めるために与えられた時間は、わずか7日間でした。しかも6百歳という年齢であった彼がそのことを成し遂げるのには、大きな困難があったに違いありません。しかし、みことばには、ノアが連れて来て箱舟の中に入れた…とは書かれていません。9節には、「雄と雌がつがいになって箱舟の中のノアのところにやって来た」とあるのです。神がそれらのもののうちに働き、箱舟へと向わせのです。そしてその全部が入ってから戸を閉ざしたのもまた、主ご自身であったのです。ここに主権者なる主の働きを見ることができます。そしてその中でノアは、自分がなすべきことを忠実に行ったのです。私たちもまた、そのような者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 6章◇(1月11日)

「そして主は言われた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。』」…創世記6:7

神の命令を破った最初の人アダムは、神の前に罪人となり、彼につながっているすべての人は、生まれつき罪の性質を持つ者となりました。そして、男女が結婚して子どもたちが生まれ、さらに人の数は増えていきましたが、それとともに人の悪もまた増大し、その心の思いはいつも、神の御旨からはずれたものとなっていたのです(5節)。そこで主は、人をはじめ、家畜、鳥に至るまで、地の面から消し去ろうと考えられました。「主は、地上に人を造ったことを悔やみ…」とありますが(6節)、それは、私たち人間と同じように、なぜそんなことをしたのか…と、自責の念にかられるという意味ではありません。なぜなら神の被造物はすべて、非常に良かったからです(1:31)。神が悔やむとは、ご自身の意図からはずれ、人が罪を犯して悪に傾くのを、遺憾に思われるということなのです。神は、計画の実行のために、ノアを選ばれました。彼は正しい人で、同世代の中にあって全き人であり、主の心にかなっている人物であったからです。神は彼に箱舟を造るように命じられましたが、それは、長さが約132m、幅が約22m、高さが約13mの大きなもので、三階建ての構造を持っていました。そしてそこに、ノアの妻、息子たち夫婦、さらにすべての生き物のつがいを連れて入るようノアに指示し、彼はすべてそのように行ったのです。そのように、その箱舟に入ることができた者たち、生き物は、地の面から消し去られることはありませんでした。神が箱舟を与え、その中で守られ、生き延びることができたからです。そしてその箱舟は、人類の救い主として神が送られた、イエス・キリストの予表、型です。その舟の乗船口は今も開かれており、すべての人がそこに乗り込むようにと、神は願っておられるのです。私たちがすでにそこの中に入れられていることを感謝しつつ、まだ外にいる人々の救いをとりなしたいと思います。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所:創世記 5章(1月10日)

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」…創世記5:24

「これはアダムの歴史の記録である」と1節にありますが、5章にはアダムの子孫の名とそれぞれの生きた年数が、系図として記されています。また、1,2節には、あらためて、人が、神によってご自身の似姿とされ、男と女に造られた存在であることが明らかにされています。3節には、最初の人アダムに、彼の似姿として与えられた男の子として、セツの名が挙げられていますが、そこには、カイン、アベルの名は出て来ません。4章に書かれている、カインによるアベル殺害という出来事のゆえに、ここではあえて、彼らの名前には触れず、その後に生まれたセツが、公式の記録として記されているのです。21~24節には、エノクという人物のことが書かれています。それまでのアダムの子孫たちについては、定型句のように、「息子たち、娘たちを生んだ」とされていますが、そのエノクだけが、「神とともに歩み」ということばがつけ加えられ、「神が彼を取られたので、彼はいなくなったと書かれているのです(22,24節)。ヘブル人への手紙の著者は、そのエノク、そしてその後に生まれたノアについて、さらに、カインに殺されたアベルについても、彼らが「信仰によって歩んだ人物」であり、神に喜ばれていたということを記しています(ヘブ11:4,5,7)。そしてその中で、こう書かれているのです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)。信仰とは、神への畏れ、みことばへの服従、自分の思いの明け渡しであり、神への絶対的な信頼、大いなる期待にほかなりません。ヘブル書に挙げられている者たちは、その信仰のゆえに、神に喜ばれ、称賛されているのです。その彼らと同じように、私たちもまた、ますます神を切に求め、信仰によって歩む者とされたいと願います。

霊の目がさらに開かれますように。

◇聖書箇所:創世記 4章◇(1月9日)

「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」…創世記4:7

人類最初の殺人事件が起こりました。アダムとエバの間に生まれた長子カインは、神が自分のささげ物である大地の実りに目を留めず、弟アベルがささげた羊の初子に目を留めたことに腹を立て、アベルを野に誘い出し、彼に襲いかかって殺してしまったのです。神は、カインがそのようにして怒り、ご自分に対して顔を上げずにいたため、「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない」と言って、カインが罪を犯すことにならないようにと、警告をされていました。それにもかかわらずカインは、その神のことばに従おうとはしなかったのです。カインは、そのように神から告げられたときに、神がすべてを知っている、見通しておられるということに気づくべきでした。しかし、自分のささげ物が受け入れられなかったということへの怒りを持ち続け、弟への嫉妬の思いを内に秘め続けていた彼には、冷静な判断ができなかったのでしょう。もしそれができていたら、アベルを野に誘い出そうとしたときに、天からの神の視線を覚え、事を実行することを躊躇したはずなのです。そのように、神のまなざしを意識せず、神のことばに従おうとせず、神を恐れようとしない態度、あり方こそが、人の罪深い行動を生み出す温床となる…。そのことを、この記事からあらためて教えられます。そして、カインがそのような者であったからこそ、神は彼のささげ物に目を留められなかったに違いありません。神がアベルのささげ物に目を留められたのは、そのささげ物が、カインがささげたような穀物ではなく動物であったというような、単純な理由ではないのです。ひるがえって、私たちのあり方はどうでしょうか…。カインの過ちを教訓とし、ますます神を畏れ、主のまなざしを意識し、みことばに聞き従う者でありたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:創世記 2章15-25節◇(1月7日)

「また、神である主は言われた。『人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。』」…創世記2:18

神である主は、ご自身のかたちとして地のちりから造られた人を、エデンの園に置かれました。またその人は、アダムという名で呼ばれました。そのアダムがそこで神から与えられた役割は、園を耕し守ることでした。つまり、農耕と防御という勤労をアダムに課したのです。また主は、園にあるどの木からでも自由に食べて良いが、善悪の知識の木からだけは食べてはならない、もし食べるなら必ず死ぬことになる、と警告されました。さらに主は、ひとりでいるアダムのために、ふさわしい助け手を与えられました。その助け手はそれまでの生き物の創造とは異なり、アダムのからだの一部であるあばら骨の一つを取り、そこから造り上げられたのです。深い眠りから覚めたアダムの元に、造られたその助け手が主によって連れて来られました。すると彼は、その人が、自分のあばら骨の一つから造られたことを知り、こう告白したのです。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」(23節)。「…だから」とありますが、聖書の脚注にあるように、ヘブル語で男(人)は「イシュ」であり、自分ととても近い存在であるという意味で、アダムは自分の助け手を「イシャ:女」と名付けたのです。そのように、最初の女性は、主によって、アダムの助け手として、彼のからだの一部を取って造られました。それは深遠な奥義であり、その二人は互いに相手を必要としており、補い合い、支え合って生きることが神のみこころなのです。また、その創造の順序から、男女の間には、優劣、上下関係ではなく、神が定めた秩序があるのだということを教えられます。それらは、世的な男女の関係、あるいは結婚に対する考えとは大きく異なっているかもしれません。しかし、私たちは、そのことをみことばからしっかりと受けとめ、その真理に従って歩む者でありたいと思います。

主の道をまっすぐに進むことができますように。

◇聖書箇所:創世記 2章1-14節◇(1月6日)

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」…創世記2:7

神は、第7日に、それまでのすべての創造のわざをやめてそれを完成され、その日を祝福し、聖なるものとされました。新改訳3版では「わざを休まれた」と訳されていますが、神は、人間と同じように、労働により疲労し、休息と回復を必要とされるお方ではありません。わざを「休んだ」のではなく「やめた」のです。そしてそれは、それまでのわざが、追加したり変更したりする必要などない、完全なものであったことを意味しているのです。5節以降には、人が造られたときのことが書かれていますが、それは、すでに1章27節に記されていることを、あらためて別の観点から詳しく述べたものです。7節には、人が大地のちりによって形造られたこと、そして、その鼻から神がご自分のいのちの息を吹き込まれたとき、地のちりからなる人が「生きるもの」となったという、驚くべきことが明らかにされているのです。そしてそのことは、私たち人間が、神の息を吹き込まれるとき、すなわち神の霊をうけるときに、真に「生きるもの」とされるという、霊的な真理を示唆しています。人が単に、食べて、寝て、起きて、自分の思いや欲求のままに生きているだけであるならば、神を求めようとしないならば、それは本当の意味で「生きるもの」とはなっていないのです。その人は、神が与えてくださる真の喜び、平安、希望を、まだ受け取っていないのです。「わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(エゼ37:5)。神は、干からびた骨に対して、そのように告げられました。人が干からびたようになっていても、神が息を吹き込まれるなら「生き返る」のです。そしてその神の息とは、神の霊、聖霊であり、神の口から出る一つ一つのみことばなのです。神が造られた「非常に良い」本来のあるべき存在とされるべく、神の息吹を受けて日々生かされる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 1章14-31節◇(1月5日)

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」…創世記1:27

世界の始まりにおける神の創造のみわざとして、第4日から第6日になされたことが記されています。第4日には天の大空で光る物として太陽と月と星が造られ、地の上を照らし、昼と夜を治める役割が与えられました。また第5日には、水の中の生き物や大空を飛ぶ鳥が造られ、さらに第6日には地の獣や家畜が造られ、その後、人類の祖先となる、最初の人が創造されたのです。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう…」(26節)。三位一体の神はそのように、「われわれ」の「かたち」として人を造ろうと言われましたが、その「かたち」とは、単に外見のことではなく、その性質、知能などの内面を含む、すべてを意味しています。そのように人は、神のかたちとして、神に似せて造られた、特別な存在であるのです。人は、男と女に創造されました。それはその男女が夫婦となり、子どもが与えられ、子孫が増えて地に満ちるという祝福にあずかるため、その主のみこころをなすためです。また神は、人が地の獣、海の魚、空の鳥…と、すべての生き物を支配するという役割を与えられました。そして神は、人が生きるための食物として、種のできる草や、実をつける木を与えてくださったのです。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第6日」(31節)。神がご自身がなされた創造のわざを終え、すべてのものを見られたとき、それは非常に良かったとあります。また「夕があり、朝があった」(19,23,31節)と、第4~6日においても、ご自身の意図どおり、すべてが秩序をもって動いていました。その神は、私たちの歩みの中にも介入し、導いてくださるお方であり、私たちが主のみことば、御声に聞き従うなら、その歩みは備えられ、整えられ、確かなものとされるのです。その主にすべてを委ね、治められ、平安のうちに歩みたいと思います。

主のみこころがなりますように。

◇聖書箇所:創世記 1章1-13節◇(1月4日)

「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。」…創世記1:3-4

この世界は、茫漠として何もなく、闇に覆われている地に、神が光をもたらされることによって始まりました。「光、あれ」と神がことばを発すると、そのとおりに光が生じたのです。神がそのように命じられると、無から有が生み出され、神の意図されるところ、みこころがなされたということに、あらためて心が留まります。ヨハネの福音書の最初にも、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…すべてのものは、この方によって造られた。…光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と書かれていますが(ヨハ1:1-5抜粋)、そのように、ことばをもって光をもたらし、闇を破ることが主の創造の最初であって、それは三位一体の神によるみわざであったのです。「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日」(5節)。多くの人は、闇を破る光をもたらし、朝を迎えさせてくれるのは太陽だと考えており、それに手を合わせ拝む者さえいます。しかし、太陽はあくまで神の被造物であって、昼を治めるものとして、神が配置されたものなのです(16,18節)。「夕があり、朝があった」(5,8,13節)。「闇はこれ(光)に打ち勝たなかった」…。私たちの歩みにおいても、光のない闇の中に置かれているように思えるときがあります。そして、この状況がいつまで続くのかと怒りをあらわにしたり、もうだめだと投げ出したりしてしまいます。しかし、その闇と思えるときは、主にあって打ち破られ、光の満ちた朝が必ずやって来るのです。だから、希望を投げ捨ててはならないのです。「あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあるとおりなのです(ヘブ10:35-36)。そのことを覚えつつ、どんなときにも神を待ち望み続ける者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 3篇◇(1月3日)

「私は身を横たえて眠り また目を覚ます。 主が私を支えてくださるから。」…詩篇3:5

詩人は嘆いています。そして神に訴えています。自分に敵対し、命を狙う者どもが多数いることを。その彼らは、詩人が神に頼り、助けを求めても、「彼には神の救いがない」と言ってあざけり、神のことを見くびって侮辱しているのです。しかし、言うまでもなく神は、そのような存在ではあり得ません。救い主として、敵の手から守ってくださるお方なのです。そのことを信じて疑わない詩人は告白しています。「主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭を上げる方」(3節)と。そのように、神は、ご自身を待ち望む者から決して遠く離れてはおらず、主を呼び求めるなら答えてくださり、御手を伸ばして、悪者からその者を救い出してくださるお方なのです。詩人はまた「私は身を横たえて眠り また目を覚ます」と言っています。人は、不安や思い煩いがあると、安眠することができません。実際、詩人は、寝ている間に襲われる状況にあったことでしょう。しかし詩人は、主に信頼し、平安のうちに眠りにつき、希望をもって朝を迎えることができたのです。「まどろむこともなく 眠ることもない」(詩121:4)主の守りを信じて疑わなかったからです。その主が自分の味方となってくださるならば、たとえ敵の数が何万という大勢であっても、彼らに取り囲まれても、主が盾となって自分の周りを取り囲んでくださるので、詩人は恐れることはなかったのです。「あなたは私のすべての敵の頬を打ち 悪しき者の歯を砕いてくださいます。救いは主にあります」(7-8節)。「彼には神の救いがない」…。詩人の敵の目には、全能の神の力強い御手は見えていませんでした。しかし、主に信頼する者たちの霊の目は開かれており、それを見ることができるのです。「救い」とは、罪の赦しのことだけではありません。さまざまなとらわれからの解放であり、敵の攻撃からの助けです。主こそわが神、救い主…と告白し、神の救いを待ち望む者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 2篇◇(1月2日)

「あなたは 鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。」…詩篇2:9

詩篇2篇には、王なるメシアの支配が語られています。2節の「主に油注がれた者」とは、まさしくメシアのことです。その王に対して、地上の王たちは、結束して逆らい、戦いを挑もうとするのです。彼らは、自分たちが握っている権力を少しも手放したくなく、民衆の称賛を受けるのは自分一人であるべきだと考えているからです。3節がわかりづらいですが、「彼ら」とは、地上の王たちを支持する国民たち(1節)の声かもしれません。王と彼らは自分たちを支配しようとするメシアに反発するのです。そんな彼らのことを、天の御座に着いておられる主はあざ笑い、怒りをあらわにし、自ら、ご自身の都であるシオンに王を立てたことを、宣言されるのです(4-5節)。「わたし」、「わたし」と繰り返す主のことばに、真の主権者はこのわたしであって、おまえたちではない!と、彼らの愚かさ、傲慢さ、罪深さを糾弾し、きっぱり退けようとする、主の強い意志が感じられます。その油注がれたメシアとは、神の御子であるイエス・キリストであり、「彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器をくように」(默2:27)とヨハネも言っているように、キリストは、王の王、主の主として、国々を統べ治め、地の王たちを含むすべての者をご自身の権威に従えさせ、従おうとしない者たちを打ち砕き、粉々にされるのです。「それゆえ今 王たちよ 悟れ… 恐れつつ 主に仕えよ… 主が怒り おまえたちが道で滅びないために」(10~12節抜粋)。詩人はそのように地上の王たちに警告していますが、それは、キリストの主権を認め、そのことばに聞き従うようにとの、すべての人への促しなのです。またそのキリストは、インマヌエルなるお方であり、主に拠り頼む者たちといつもともにいて、悪しき者たちから守り、支え、導いてくださるのです。「幸いなことよすべて主に身を避ける人は」(12節)。詩人のそのことばをしっかり心に留めたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。