◇聖書箇所:マルコの福音書13章28-37節◇(3月31日)

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」…マルコ13:33

主イエスはさらに、終わりの時について語られました。いちじくの木の枝が柔らかくなって葉が出るのを見て、夏が近づいているのを知ることができるように、さまざまな事象や偽預言者たちの出現などにより、終わりの日が近いことが分かる…。しかし、それが具体的にいつなのかは、父なる神だけが知り、定めておられるのだ…と。そして、だから気をつけて目を覚ましていなさい、と主は言われ、そのことを3度繰り返して強調されました(33,35,37節)。さらに、たとえを使い、旅に出た主人が帰って来るのが、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないのだから、主人がいつ帰って来ても迎えられるよう目を覚ましているように、主人から割り当てられた仕事をきちんと果たし、責任を全うするように…と、弟子たちに教えられたのです。「目を覚ましていなさい」。もちろんそれは、46時中ずっと起きていよ、ということではありません。それは、霊的に眠ってしまわないようにせよ、終わりの日が来るのはまだ先だ、だから少しぐらい気を抜いても大丈夫だ、と油断しないようにせよ、突然その時が来ても、慌てることがないように、常に備えていよ、という意味です。「目を覚ましていなさい」。主はそのように弟子たちに命じられましたが、それは、すべての人に言っているのだ、とも言われたのです(33節)。なぜなら、終わりの時には、すべての人が神のさばきの座に立たされるからです。私たちは、キリストに贖われた者、キリストの弟子として、主が命じられたように、自分自身、目を覚まして油断せずに備えるべきですが、同時にその備えは、人々への福音宣教の働きを、なし続ける、あきらめない、ということでもあるのです。そしてそのために、まず、祈りをもってとりなすことが大切なのです。「目を覚ましていなさい」。自らのため、人々のため、この世界のため、主のしもべとして、与えられている働きをしっかりと果たす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書13章14-27節◇(3月30日)

「そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」…マルコ13:27

終わりの時について、主イエスはさらに語られました。「荒らす忌まわしいもの」が立ってはならない所、すなわち、本来は神のみが立つべき聖なる場所に立ち、自分を神だとするなら、それが終わりの時だ、ユダヤにいる人たちは山へ逃げよ…と。その「荒らす忌まわしいもの」とは、ダニエルが預言した異教徒の王であり、究極的にはサタンのことです。そしてその時起こる苦難は、過去になく将来にもないような、厳しいものとなるのです。また、その時には、偽キリストや偽預言者たちが現われ、しるしや不思議を行なって人々を驚かせ、選ばれた者たちを惑わし、神から引き離そうとして働きます。しかし、その苦難に続いて、太陽、月は光を失い、星は天から落ち、天にある力は揺り動かされ、人々は、人の子、すなわちキリストが、偉大な力と栄光とともに、雲に乗って来られるのを見るのです。そしてキリストは、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを集められるのです。その「選ばれた者」とは、血筋によるユダヤ人たちのことではありません。それは、キリストを信じて贖われた者たち、霊的なイスラエルとされた神の民、私たちを含む聖徒たちのことです。主は、主はご自分が選ばれた者たちのために、苦難の日数を少なくしてくださるのです。「…くださいました」と過去形が使われていますが、それは、神がすでに定められた、確かなことなのです。聖徒たちにとって、終わりの時は恐ろしい瞬間ではなく、選びの民としてキリストの元に集められ、主が悪しき者に完全に勝利されるのを見て、歓喜に沸く時なのです。だからといって、漫然と日々を過ごすべきではありません。主は「気をつけていなさい」(23節)、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(33節)と、繰り返し警告しておられます。そのときまで信仰をしっかりと持ち続け、また、家族や友人も選びの民に加えられるようにと、とりなし、主の救いと再臨を伝えていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書13章1-13節◇(3月29日)

「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」…マルコ13:13

主イエスの弟子の一人が、神殿の荘厳さ、それに使われている石材の立派さに驚嘆し、なんとすばらしい石、すばらしい建物でしょう…と、主に言いました。しかし、主は彼に、これらの石がほかの石の上に残ることは決してない、と言われ、神殿の崩壊を予告されたのです。すると、それを聞いたペテロたち4人の弟子は、そのようになるのは世の終わりに違いないと考え、不安になり、いつそのようなことが起こるのか、その実現のときの前兆はどのようなものか…と主イエスに尋ねました。それに対して主は、人に惑わされないように気をつけよ、と言われ、偽キリストの出現、戦争の勃発、地震や飢饉の発生などの事象は、あくまで産みの苦しみの始まりであって、まだ終わりのときではない、と教えられました。主はさらに、弟子たち自身に起こることとして、人々からの迫害について語られました。捕らえられ、引き渡され、打ちたたかれ、指導者たちの前に立たされる…と。そしてそれは、迫害する者たちに証しするためだ、そのとき何を話すか心配しなくてよい、なぜなら、聖霊ご自身があなたがにことばを与え、あなたがたを用いて福音を人々に伝えられるからだ…と、主は言われたのです。どんなに立派な神殿もやがては崩れ落ちます。しかし、戦い、試練の中にあっても決して崩れない、霊的な神殿こそが大切だと主は語っておられるのです。それは、キリストという揺るがない土台の上に立って歩む聖徒たちであり、その聖徒たちが召し集められている教会です。試練や戦いの中に置かれた私たちが体験する主の助け、救い、揺るがない平安…。それを私たちが積極的に証しし、それを聞いた人々が主を求め、主と出会い、みことばを信じて救われていく…。福音宣教とは、そのような一人ひとりの聖徒たち、教会の「生きた証し」にほかならないのです。聖霊の助けと導きにより、ますます大胆に証しする者、群れとさせていただきたいと思います。

忍耐をもって証しし続けることができますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書12章38-44節◇(3月28日)

「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」…マルコ12:44

主イエスは、宮の献金箱の向かい側に座り、人々が神への献金をささげる様子を見ておられました。するとそこに、多くの金持ちが来て、多額のお金を投げ入れているのが見えました。またそこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨2枚を投げ入れたのが見えました。レプタ銅貨とは最少額の通貨であり、当時の1日分の賃金1デナリの128分の1、日本円で言えば約50円に相当するものです。すると、その様子を見た主イエスは、近くにいた弟子たちを呼び寄せ、この貧しいやもめは、献金した他のだれよりも多くをささげたのだ…なぜなら、レプタ2枚は貧しいこの人が持っている生活費すべてであって、それを差し出したのだから…と言って、彼女を賞賛されたのです。なぜ、その女性がそのようにしたのか…生きる手立てのすべてをささげてしまってどう生きて行くつもりなのか…。ここではそのようなことには触れられていません。ただ、主イエスが驚きをもってそのように弟子たちに言われたこと、そして、あり余る中からささげた金持ちの形式的なあり方や、やもめの家を食い尽くし、人々に見栄を張るような宗教指導者たちの姿勢(40節)とが、対照的に描かれ、彼らが暗に批判されているのです。その貧しいやもめは、神に信頼していたのです。生活費すべてをささげたら生きていけない…とは考えませんでした。神は必ず良くしてくださる、必要を満たしてくださる…と信じて疑わなかったのです。おそらく、彼女にとってはそれが日常的であり、主を愛することを行動として表わすものであったのでしょう。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(30節)。生活費のすべてをささげるということは、まさに「いのちを尽くす」ことです。愛するとはささげることだ、ということをあらためて教えられます。私たちも、ますます主を愛し、主にささげ、主に信頼する、そのような者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 12章28-37節◇(3月27日)

「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」」…マルコ12:29-30

律法学者の一人が主イエスに尋ねました。すべての律法の中でどれが第一の戒めなのか…と。すると主イエスは、申命記6章4節と5節を引用し、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛することが何よりも大切なのだ、と答えられたのです。「あなたの神、主」ということばに心が留まります。その神は、恐ろしくて近寄りがたい存在ではなく、イスラエルという共同体にしか目を留めない方でもなく、「あなたの神、主」、すなわち、私たち一人ひとりと個人的に近しい関係を持ってくださる神、卑しいしもべ、はしためのような私たちの主人として、真実に愛し、守り、目を掛けてくださるお方なのです。そして、みことばは、その神の愛と恵みに感謝し、応答し、神を愛しなさい、それも口先だけでなく、心といのちと知性と力を尽くして、持てるものを総動員して、あなたの全存在を掛けて、あなたの神、主を愛しなさいと、命じているのです。主イエスが引用された申命記の箇所の後には、ほかの神々に従って行ってはならない、主を試みてはならない、主が命じられたさとしと掟を必ず守りなさい、エジプトから連れ出されたことを覚えなさい、とあります。それらはすべて、主を愛するゆえの具体的なあり方であり、それを、私たちの感情と知性とすべての領域において、最善を尽くして実行することが求められているのです。その第一の戒めには「いのちを尽くし」とあります(新改訳3版の訳は「思いを尽くし」)。そのことばを通して、その戒め、律法を完全に実践されたのは、十字架という苦難を受けられ、いのちをささげてくださった、主イエスご自身なのだ、とあらためて教えられます。そのことを覚え、感謝しつつ、御霊の助けと導きを受け、みことばを実践する者とされたいと思います。

主との親密な交わりを持つことができますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 12章1-12節◇(3月25日)

「彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。」…マルコ12:12

主イエスは、祭司長たちなど、民の指導者である彼らにに対して、「何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」(11:33)と言い、宮きよめの行動を非難する彼らとの口論を避けましたが、その後、彼らの心に迫るべく、たとえによって話し始められました。そのたとえとは、ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、その収穫の一部を得るためにしもべを遣わしたところ、農夫たちがそのしもべを打ち叩いて送り返し、代わりの別のしもべたちにも同じようにして殺しさえしたため、ついにその主人は自分の息子を遣わしましたが、その息子も同じ目に遭ったので、主人は農夫たちを殺し、ぶどう園はほかの者に与えられる…というものでした。そのたとえを聞いた彼らは、それが自分たちを指して語られていることに気がつきました。すなわち、イエスを捕らえて殺そうとしている自分たちが、農夫たちだということです。そのたとえにおいて、ぶどう園の主人は神を、遣わされたしもべたちは預言者たちを、最後に遣わされた息子は主イエスご自身を示していましたが、彼らがどこまでそれを理解していたかは不明です。ともかく、イエスに対する殺意をあばかれたと感じた彼らは、その場でイエスを捕らえてしまおうとも考えましたが、群衆の反応を恐れて、その場を立ち去ることにしたのです。主イエスは、そのたとえを話した後で、詩篇のみことばを引用されました(詩118:22-23)。そこには、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」とあります。なぜ捨てたのか…それは、自分たちには要らない、役に立たない、邪魔だとしたからです。しかし、実はそれが、必要不可欠な、なければ立ち行かない、そのような存在であったのです。そのイエス・キリストによって私たちが贖われたことを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

栄光と誉れが神にありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 11章27-33節◇(3月24日)

「…『何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。』」…マルコ11:28

主イエスと弟子たちがエルサレムの町に戻り、主が宮の中を歩いていると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、ある質問をしました。それは、前日にイエスが、宮の中で売り買いしている者たちを追い出し、商売人の道具を倒したことを問題視し、だれがそのようなことをする権威を授けたのか、という問いでした。祭司長たちは、宮で商売する者たちから利益を得ていたため、主イエスの取った行動を容認できなかったのです。しかし主イエスは、彼らのその質問にすぐに答えようとせず、わたしが尋ねることに答えたらわたしも答えようと言われ、ヨハネが授けていた悔い改めのバプテスマは、天から来たのか、それとも人から出たのか、どちらなのかを答えよ…と言って、彼らに迫りました。そのように言われた祭司長たちは、思わぬ展開に戸惑いつつ、どう答えればよいか…と、彼らの中で論じ合いました。そして、天からと答えれば、それならなぜヨハネを信じて悔い改めようとしないのか、神に逆らっているではないか…と言われ、人から出たと言えば、ヨハネのバプテスマが無意味であり、ただの人に過ぎないとしているとして、人々から反発を受けるだろうと考えた彼らは、結局、「分かりません」とイエスに答えたのです。「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問われた主イエスは、ご自分が尋ねたことに彼らがまともに答えようとしないのを知り、彼らの質問に答えるのを拒否しました。しかしそれはもちろん、メシアとしてのご自身の権威であり、宮きよめだけでなく、人々の病の癒し、悪霊の追い出し、罪の赦しの宣言など、すべてのイエスのみわざは、神の権威によってなされていたのです。その権威は弟子たちにも付与されていましたが(マル3:14-15)、聖徒とされた私たちも、その主イエスの御名の権威によって、祈り、とりなし、宣言し、主のみわざの現れを待ち望む者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 11章12-25節◇(3月23日)

「するとイエスは、その木に向かって言われた。『今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」…マルコ11:14

空腹を覚えられた主イエスは、葉の茂ったいちじくの木が遠くにあるのを見られ、何かありはしないかと、わざわざご自分でその木を見に行かれました。それはつまり、そのいちじくの木になっている実を取って食べ、空腹を満たすことを期待されていたということです。しかし、その木は葉ばかりが生い茂っており、肝心の実は一つもついていませんでした。それを見た主イエスは、失望し、その木に向って厳しいことばを発せられました。翌朝、そのいちじくの木の前を一行が通り過ぎると、なんとその木は、根元から枯れてしまっていました。それを見たペテロは主が言われたことばを思い出し、その通りになったと主イエスに告げると、主はそのことに直接答えず、「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります」と言われたのです。主イエスを失望させたそのいちじくの木もまた、その例外ではなかったのです。15~19節には、宮に入られた主イエスが、その中で売り買いしている者たちを見て憤慨し、彼らの商売に使われる台や腰掛けを片っ端から倒されたという記事が書かれています。主は、祈りの家と呼ばれている神殿が強盗の巣にされてしまった、と言って嘆かれましたが、そのありさまは、主イエスの目に、霊的な実が結ばれず、商売繁盛という枝葉ばかりが茂っているものとして、期待はずれのいちじくの木と重なって映ったことでしょう。このいちじくの木の記事から学ぶべきこと、それは、主の期待に答えて実を結ぶ者は主を喜ばせ、主の期待を裏切って実を結ばない者は、主を失望させてしまうのだ、ということです。そして、その結果に対して主は正しい報いをなされるのです。神はいつくしみとともにきびしさを持っておられるお方です(ロマ11:22)。神に選ばれた者として、大きな実、多くの実でなくても、日々、小さな実を着実に結ぶ者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 11章1-11節◇(3月22日)

「『祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。 ホサナ、いと高き所に。』」…マルコ11:10

オリーブ山のふもとまで来たとき、主イエスは二人の弟子に、つながれている子ろばを連れてくるようにと命じ、それをだれかに咎められたら、主がお入り用なのだ、と言うよう指示されました。その二人の弟子が出て行くと、主が言われたとおり、家の戸口に子ろばがつながれており、それをほどいていると咎められたので、主からの指示どおりにして許可を受け、子ろばを連れ帰りました。その後、主イエスは、連れて来られた子ろばに乗って、弟子たちとともにエルサレムの町の中へと入って行かれました。弟子たちは、自分たちの上着を、主が乗られるろばの背中に掛け、町の人々も、自分たちの上着や、取ってきた葉のついた枝を道に敷いて、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と叫び、イエスを熱狂的に歓迎したのです。「ホサナ」とは、神への賛美の叫びですが、元々は「お救いください」という意味のことばです。彼らはまた、「祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に」とも言っていましたが、人々にとっての、その「救い」、「国」とは、ローマ帝国の支配からの解放、救いであり、ダビデが王であったイスラエルの国の再建、という意味であったのです。だからこそ、彼らは後に、その同じ口をもって、「十字架につけろ」と真逆のことばを叫び、イエスをののしる者となってしまったのです。「ホサナ、いと高き所に」。しかし、キリストに贖われ、聖徒とされた私たちは知っています。主イエスがメシア、すべての者の救い主であられ、ご自身の十字架と復活によって死と悪魔に勝利され、今もすべてを統べ治めておられる、御国の王であられるということを。そして、その主が、ご自身の御国の完全な実現のために、私たちを尊く用いてくださるということを。「主がお入り用なのです」ということばは、その一人ひとりへのことばでもあるのです。そのことを覚えつつ、ますますへりくだり、自らを主におささげする者でありたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 10章46-52節◇(3月21日)

「イエスは彼に言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにしてください。』」…マルコ10:51

主イエスの一行がエリコの町を出て行くとき、道端に座っていたバルティマイという名の盲人の物乞いが、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めました。すると、それを聞いた多くの者たちは、彼をたしなめ、黙らせようとしましたが、彼は、そう言われてもやめずに叫び続けました。そして、その声はイエスに届き、主は歩みを止め、バルティマイを呼んで来させ、ご自分の前に立った彼に向かって、「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねられたのです。弟子たちは、その主のことばを聞き、こう思ったことでしょう。<目が見えるようになることに決まっているではないか…なぜ主は、わざわざそのことを聞かれるのか…>と。そして、彼らのその予想どおり、バルティマイはこう主イエスに答えました。「先生、目が見えるようにしてください」。すると主は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と言われ、すぐに、バルティマイの目は見えるようになったのです。バルティマイは、イエスの噂を聞き、その方なら自分の目もきっと見えるようにしてくださる、と信じて、イエスに会える日をずっと待ち望んでいたのです。主はそのことを知っておられましたが、彼に会ったとき、何をしてほしいのかをあえて尋ね、自らの口をもって答えさせたのです。彼は「ダビデの子のイエス様」と叫んでいました。「ダビデの子」とはメシア(キリスト)の称号です。彼の答えは、イエスが見えるようにしてくださるという、メシアに対する信仰の告白にほかならなかったのです。「わたしに何をしてほしいのか」…。主は私たちにも尋ねておられます。言わなくてもご存じのはず…ではなく、それを自らの口で言い表すことを、主は求めておられるのです。神に向って発するそのことばは、祈りであり、信仰告白であり、先取り感謝であり、主はそれを喜んで聞いてくださるのです。そのことを覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 10章32-45節◇(3月20日)

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」…マルコ10:45

先頭に立ってエレサレムに上っていく主イエスの姿に、弟子たちは驚き、恐れを覚えました(32節)。それは、主の顔の表情や足取りが、有無を言わせないような、きっぱりとしたものであったからに違いありません。そんな弟子たちの心を知っておられた主は、彼らを呼び寄せ、ご自身の受難と復活について語られましたが、それは、3度目であり、十字架にかかる前の最後の予告でした。その主のことばを聞いた後に、ヤコブとヨハネの二人が主の元に来て、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」と頼み込みました(37節)。しかし主は、その依頼を拒み、それは自分が許すことではなく、それは備えられた人々に与えられるのだ、と言われたのです(40節)。なぜ、ヤコブとヨハネはそう言ったのでしょうか…。それは、偉くなりたい、一目置かれたい、尊敬と称賛を受けたい…と願っていたからです。誰が一番偉いのか…と、少し前に弟子たちが論じ合っていたことが思い起こされます。そしてそのときも、主はご自身の苦難と復活を告げておられたのです(9:30-35)。主の思いを悟ろうとしない、自己中心的な弟子の罪深さがここに示されています。そんな弟子たちに主は言われました。自分は神と人々とに仕えるために、また人々の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのだ…と。それは、ヤコブとヨハネの願いとは真逆のあり方です。そしてともすれば私たちも、仕えるよりも仕えられることを、与えるよりも受けることを願う生き方をしてしまうのです。しかし、主がご自身の弟子たちに求めておられるあり方は、それとは正反対のものであり、それが御国の価値観であり、それは天に宝を積むことなのです。私たちも、主イエスに贖われた弟子として、受けるよりも与える者となっているか、神と人々とにへりくだって仕えているか、絶えず自己吟味したいと思います。

主に倣って歩む者とされますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 10章1-16節◇(3月18日)

「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」…マルコ10:15

主イエスに触れていただこうとして、人々が子どもたちを連れてやって来ました。主イエスがなされるみわざのことを聞いた彼らは、自分の子どもたちが神の祝福にあずかることを願っていたのです。ところが、その様子を見た弟子たちは、彼らを叱りつけ、子どもたちを主イエスの前から追い払おうとしました。おそらく、主が忙しくて疲れておられるのを知って、これ以上煩わされないようにするため、配慮してそのようにしたのでしょう。しかし、そのような態度を取る弟子たちに対して、主イエスは憤りを覚えられました。彼らが子どもを邪魔者扱いしていたからです。彼らは、自分たちの中で誰が一番偉いかと論じ合っていたとき、子どもを抱いた主から、このような子どもたちの一人をわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのだと言われたことを、すっかり忘れてしまっていたのです(マルコ9:37)。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです」(14節)。主イエスにそのように言われて叱責された弟子たちは、驚いたことでしょう。神の国はこのような子どもたちのものなのか…と。彼らは、大人が手助けしないと何もできない、未熟で弱い存在である子どもたちより、さまざまな働きをしている自分たちのほうが、神の国にはふさわしいと考えていたに違いありません。しかし、神の国には、そのような地上的な価値観はないのです。能力や実績を求められるわけではないのです。神の国に入るために求められること、それは、自分は弱く未熟な者だとへりくだり、キリストを通して神の国に入ることができると素直に信じて、子どもたちのように、キリストを慕い求めて、主の元に行くことなのです。すべての人は、神の国の祝福にあずかるために、幼子のようになって主のふところに飛び込み、主に触れていただくことができるのです。その恵みを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 9章38-50節◇(3月17日)

「もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。」…マルコ9:43

42節以降には、主イエスが、「つまずかせる」ものを排除するように教えられたことが記されています。主は、ご自身を信じている小さい者たちの一人を誰かがつまずかせるなら、その者は、石臼を首に結びつけられ、海に投げ込まれたほうがよい、と言われ、あなたの手や足や目が自分自身をつまずかせるなら、それを切り捨て、えぐり出すように…とさえ、弟子たちに言われたのです。そのようにしてまでも、主イエスが一人ひとりに対して求めておられること、それは、メシアであるご自身を通して、「いのちに入る」ということであり、「神の国に入る」ということです。そうでなければ、終わりの日における最終的な審判によってさばかれ、消えない火の池のあるゲヘナに投げ込まれ、そこで永遠に苦しむことになってしまうからです。「つまずかせる」とは、つまり、神が備えてくださっている道、神の国に入ることができる道へと進まないようにする、妨害するということです。ともすれば私たちは、この世のものを求め、それを得て満足し、キリストを求めようとしない者になってしまう…また、他者がその道へと進もうとしていることの妨げにさえなりかねない、そのことを主イエスは指摘し、そうならないようにと弟子たちに教え、警告しているのです。あなたのからだの一部がそのようなものとなり得るのだ、そしてそうなるなら、いっそのことそれを取り除いて、「五体満足」でなくても、いのちに入ること、神の国に入ることを選び取れ…という主の指摘が心が留まります。そしてそのために私たちは、絶えず自分自身に塩気を保って(50節)、この世のものの影響を受け、腐敗しないよう、気をつけなければならない、ということを教えられます。みことばにより、御霊の助けにより、そのような者とされたいと心から願います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 9章30-37節◇(3月16日)

「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。』」…マルコ9:35

主イエスの一行がカペナウムに向う途中のこと、主は弟子たちに、ご自身の死と復活についての2度目の予告をされました。しかし、弟子たちにはそのことばが理解できず、主に尋ねるのも恐れていたとマルコは記しています。カペナウムに着くと、主は弟子たちに尋ねました。来る途中、何を論じ合っていたのか…と。しかし、弟子たちは答えず、黙ったままでした。彼らは、主が言われたことの意味についてではなく、弟子の中でだれが一番偉いかということを論じ合っており、それは主に喜ばれるものではない…と、皆が感じ取っていたからです。すると、弟子たちのそのような思いを知っておられた主は、「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」と言って、彼らを諭されました。そしてさらに、一人の子どもを腕に抱いて、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた方、父なる神を受け入れるのだ、と言われたのです。当時、子どもたちはしばしば邪魔者扱いされていました。そして、一方的に、大人に服従させられていたのです。「受け入れる」とは、その存在を認めて尊重することです。愛すること、自分の持てるものを喜んで与えることです。そしてそれは、先頭に立ちたいなら、皆の後になって仕えよ、という教えと同じあり方なのです。高くなりたいなら、自らを低くせよ、小さい者、弱い者、低いところの者たちを愛し、仕えよ、と主は言われたのです。いじめ、虐待、パワハラ…世に蔓延しているそれらは、自分が支配したい、高い位置にいたい、偉くなりたいという思いの表れです。そしてそれは、自分、自分、…という罪の性質から来ているのです。私たちもこの世にあって、弟子たちと同じ誘惑を受けますが、主が願っておられるように、ますます自分を低くし、人々の後になって仕え、小さい者を受け入れる者でありたいと思います。

神の国の価値観を持つことができますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 9章14-29節◇(3月15日)

「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」…マルコ9:23

主イエスと3人の弟子が山から下りて残っていた弟子たちのところに戻って来ると、群衆が弟子たちと何かを論じ合っていました。そこで主が、いったい何事かと尋ねると、口をきけなくする霊に取りつかれた子どもの父親が、息子からその霊を追い出してほしいと弟子たちに願ったが、彼らにはそれができなかったのだ、と答えました。それを聞いた主は、「ああ不信仰な時代だ」と言って嘆き、その子をご自分のところに連れて来させたところ、その子は汚れた霊の働きによって引きつけを起こし、地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回りました。そして、それを見た父親は、「おできになるなら、私たちをあわれんで助けてください」と、主イエスに願い求めたのです。そこで主イエスは、その父親に対して、できるなら、と言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのだ…と言って、父親の半信半疑の姿勢をやんわりと非難しました。すると、主のそのことばから自らの不信仰を示された父親は、そのような自分を恥じつつ、「信じます。不信仰な私をお助けください」と、あらためて懇願したのです。それを聞いた主イエスは、汚れた霊を叱ってその子から追い出し、癒しと解放のみわざをなされました。その父親は息子を連れて来て、主イエスから霊を追い出してもらうつもりでした。ところがイエスが不在だったのでがっかりし、しかたなく残っていた弟子たちに頼みましたが、彼らにはそれができなかったため、やっぱりだめか…と落胆し、群衆と弟子たちとの間で論争が起こったのです。「あなたがた」(19節)とは、人間的な思いにとらわれていた父親、過去の成功体験のゆえに(6:13)祈らずに事にあたった弟子たち(29節)、イエスを認めず批判を繰り返す律法学者たち(14節)、それらの者たちを指しているのです。彼らを反面教師とし、人を見ずに主ご自身への信仰を持つ者、へりくだって祈り深く事をなす者、主イエスの権威を認める者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 9章2-13節◇(3月14日)

「そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。』」…マルコ9:7

今日の箇所は「キリストの変貌」と呼ばれる記事です。主イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて高い山に登られました。すると突然、着ていた衣が、彼らの目の前で、この世にはない白さで輝きました。そしてそれは、キリストが、罪や汚れとは無縁の、栄光に満ちたお方である、ということを表わしていたのです。またそこに、モーセとエリヤが現われ、主イエスと3人で語り合っていました。モーセは律法の象徴、またエリヤは預言者の代表であり、その二人は律法と預言者、つまり旧約聖書を表わしています。その旧約聖書の最後の書、マラキ書の最後のことばは、「モーセの律法を覚えよ」(4:4)、「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(4:5)であって、その預言は、先駆者であるバプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストによって成就したのです。しばらくすると、モーセとエリヤは消え、イエスだけとなりました。そしてそれは、律法による古い契約が、神の国の福音による新しい契約によって引き継がれた、ということを意味します。またそれは、いけにえの動物の血による罪の赦し、贖いが、罪と汚れのないキリストの血によって与えられ、その救いが、神の一方的な恵みによるものだということを表しているのです。モーセとエリヤが消える前、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」。それは、主イエスが洗礼を受けて水から上がられたときに聞こえた、父なる神の御声であり、「彼」とは、「わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするため」(マラキ4:6)に、神が遣わしてくださった「預言者エリヤ」、すなわちイエス・キリストなのです。すべての人が、そのキリストのことばを聴き、御国の福音を信じ、キリストの血による新しい契約の中に生きる民とされるよう、とりなし祈りたいと思います。

キリストの良き証し人とされますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 8章27節-9章1節◇(3月13日)

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」…マルコ8:35

主イエスは弟子たちに、あなたがたはわたしをだれだと言うか、と尋ね、ペテロは、あなたはキリストです、と答えました。しかし、主が、人の子は苦しみを受け、殺され、三日後によみがえらなければならない、と言うと、彼は、そんなはずがないと主をいさめたため、下がれ…と、主から一喝されてしまったのです(33節)。その後、主は、すべての者を呼び寄せ、「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」と言われました(34-35節)。「自分のいのちを救おうと思う…」。それはつまり、苦難の道ではなく、平穏無事な道を歩みたいと願うことであり、それはすべての人にとっての本能的な欲求です。しかし主は、そうあることを願っていても、人が、自分を捨てないなら、自分の十字架を負わないなら、そしてわたしに従って来ないなら、そうなることはない…。しかし、一方で、もし人が、わたしと福音のためにいのちをも惜しまずにささげ、失うかのようになったとしても、その人は結局、自分のいのちを救うことができる…と、逆説的な真理を明らかにされたのです。その「いのち」とは、私たちが持つ肉体のいのちのことではなく、私たちの内にあるこころとたましいを生かす、霊的ないのちのことです。そして、その主のことばは、主のために、福音のために生きる者、すなわち、キリストの弟子、しもべとして、自らを主にささげて生きる者が受ける幸い、神の国の祝福を意味しているのです。人が地上的な祝福で満足しても、そこにまことのいのちがないなら、その人生は空しいのです(36節)。聖徒たちに備えられている道は平坦ではなく、むしろ山あり谷ありの道ですが、しかしそれは、天の御国へと確かに通じている道であることを、しっかりと覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 8章1-13節◇(3月11日)

「弟子たちは答えた。『こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。』」…マルコ8:4

主イエスの周りには大勢の群衆が集まり、3日間そこに留まり続けていました。彼らには食べ物がなく、空腹になっていたので、主は弟子たちを呼び寄せ、食べ物を用意するよう依頼されました。ところが、そこはへんぴな場所であったので、弟子たちは困惑し、どこからパンを手に入れればよいのか…と、イエスに尋ねました。すると主は、そこにパンがいくつあるかと尋ね、弟子たちが7つと答えると、群衆を地面に座らせ、7つのパンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、人々に配るよう弟子たちに命じられました。また、わずかにあった小魚も同じようにしました。その結果、人々の数は4千人ほどでしたが、不思議なことに食べ物は尽きず、人々は食べて満腹し、パンが余るほどになったのです。マルコの福音書には、すでに、5千人の給食と呼ばれる記事が書かれています(6:35-44)。ではなぜ、マルコは、ここで同じような出来事を再び記したのでしょうか…。それは、食べ物を用意するようにと主から言われた弟子たちが、すでに主の奇蹟を体験していたにもかかわらず、「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて…」と言って戸惑い、主に不平を漏らしたからです。主に信頼しようとしない、そのような不信仰な彼らの姿を、読者に対して明らかにしようとしたからなのです。食べ物を用意するよう主イエスから命じられた弟子たちは、即座に、「このパンを、この前と同じように、祝福して増やしてください…」と、主に求めるべきだったのです。「どこからパンを手に入れて…」と悩む必要はなかったのです。それなのに、「7つしかない…」と、目に映る現実に心奪われ、目の目にいるメシア、全能なる主イエスに拠り頼もうとしなかったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。試練や困難の中にあっても、主への全き信頼をもって歩む、くよくよ悩まずにまず祈りの声を上げる、そのような者でありたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所:詩篇 14篇◇(3月10日)

「おまえたちは 苦しむ者の計画を 踏みにじろうとするだろう。 しかし 主が彼の避け所である。」…詩篇14:6

「愚か者」について詩人は語っています。彼らは神の存在を否定し、悪を行っても誰にもさばかれない…だから何でもやりたいようにすればよいのだ…と言って、忌まわしいことを平気で行っているのです。「善を行う者はいない」と詩人は繰り返しています(1,3節)。パウロも、すべての人が罪の下にあると述べ(ロマ3:10-12)、この詩篇のことばを引用しています。善を行う者とはすなわち、神を尋ね求め、真理を悟り、神のみこころにかなう者のことですが、主が天から地上を見下ろして捜しても、そのような者はいなかったのです。詩人はまた、「不法を行なう者」について語っています。彼らは、人々を食いものにして利得を得、自分だけが満足する身勝手な歩みをしており、彼らもまた、神を尋ね求めようとはしませんでした。しかし、神が正しい者、すなわち、主を畏れ、主に拠り頼む者とともにおられる「避け所」であることを知ると、恐れたのです。そのように、腐っていて、忌まわしいことを行う「愚か者」、また、自己中心的に生き、欲望を満たす「不法を行なう者」は、神を認めず、主を呼び求めようとせず、おごり高ぶっているゆえに、退けられてしまうのです。そのままでは、神のいのちと祝福にあずかることはできず、滅びに至るしかないのです。「善を行う者はいない。だれ一人いない」。私たちもかつては、その中にいました。しかし、神の一方的な恵みとあわれみによって、私たちはキリストにあって救われ、罪赦されて元どおりにされ、神が造られた本来のあり方に戻され、主の民として祝福にあずかるようにされたのです。主にあって、楽しみ、喜ぶ者とされたのです。そしてその救いは、主が十字架の上で死なれ、墓からよみがえられた、シオン、エルサレムから来たのです(7節)。その神のみわざをあがめ、感謝をささげたいと思います。

感謝と喜びがいつもありますように。

◇聖書箇所:詩篇 13篇◇(3月9日)

「私に目を注ぎ 私に答えてください。 私の神 主よ。 私の目を明るくしてください。 私が死の眠りにつかないように。」…詩篇13:3

「主よ いつまでですか」と、詩人は神に問いかけています。詩人は、自分に敵対する者からの圧迫を受けていましたが、助けを主に願い求めても、状況が一向に変わらないことに落胆し、神は何もしてくれない…自分はもはや主から忘れられたのか…と、感じているのです。そのように、心が憂いと悲しみで覆われている詩人は、「いつまで…」と繰り返し、もう耐えきれない…という思いでさらに神に尋ねています。「いつまで 私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう…いつまで 敵が私の上におごり高ぶるのですか」と。詩人は希望を失いかけていました。闇の中に閉じ込められ、敵の攻撃にさらされ、死さえ覚悟していました。しかし、そのような中、詩人はもう一度自分を奮い立たせ、主に訴えたのです。目が明るくされ、希望を見いだし、生きる力が与えられように…と。そして、敵が「彼に勝った」と言わないように、倒れそうな自分を見て喜ばないようにしてほしいと、神の介入を求めたのです。詩人のその祈り、願いは、確かに神に届きました。詩人の目は開かれ、明るくされ、自分は決して主に忘れられてはいない、主は御顔を隠してはおられない、ということを、あらためて教えられたのです。そして、詩人は、そのことを感謝し、主へのほめ歌を歌い、主が私に良くしてくださったと、告白したのです(6節)。「いつまで…」、「忘れられたのか…」と、苦難の中で、私たちも詩人と同じような思いになることがあります。しかし、あきらめて心と口を閉ざしてしまうことなく、隠れているように見える神に向って声を上げ、「目を注いで私に答えてください」、「私の目を明るくしてください」と、願い求める者でありたいと思います。

主にあって希望を持ち続けることができますように。

◇聖書箇所:詩篇 12篇◇(3月8日)

「主のことばは 混じり気のないことば。土の炉で七度試され 純化された銀。」…詩篇12:6

1節において、詩人は、神を畏れてみこころに従って歩もうとする敬虔な人や、自らのあり方を常に省みて正しく生きようとする誠実な人は、もはやいなくなってしまった…と嘆いています。そして、「主よ お救いください」と切実な思いで主に願っているのです。詩人の周りの人々は、互いにむなしいことばかりを話し、へつらいの唇と二心で語っていました。本心ではないのに、人に取り入ろうとして褒めことばを使ったり、表向きは好意的な態度で語りかけても、実際には利己的な思いが心に満ちていたり、真実な関係ではなかったのです。そして彼らは、「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれが われらの主人なのか」と、大言壮語していたのです(4節)。しかし、詩人は、そのような者たちによって、主の前に真実にあろうとする者たちが踏みにじられることがないように、詩人が願い求めているとおり、主が立ち上がられ、守り、保ち、救ってくださると確信し、そのことを宣言しています(5-7節)。なぜなら、大言壮語する彼らは、誰よりも、神に対して尊大であったからです。新改訳3版では、「だれが、われらの支配者なのか」と訳されています。彼らは、自分たちが巧みにことばをあやつれば、人をだまし、欲するものを手に入れ、この世界を支配できるとさえ考えていたのです。「舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています」(ヤコ3:8)。そのように、人のことばは、しばしば、悪と偽りに満ちたものとなります。しかし主のことばは、混じり気のない純粋なものであって、人を生かし、その歩みを導き、確かなものとするのです。「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です」(詩119:105)。「敬虔な人、誠実な人」とは、何よりも、その神のことばに信頼し、聞き従って歩む者であり、神はその者たちを顧みて祝福し、その口をきよめてくださるのです。真の支配者である主に、すべてを明け渡したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 11篇◇(3月7日)

「主は その聖なる宮におられる。 主は その王座が天にある。 その目は見通し そのまぶたは人の子らを調べる。」…詩篇11:4

「主に私は身を避ける」(1節)と、詩人は、自分の拠り所、隠れ場が、主以外にはないことを、人々の前できっぱりと告白し、宣言しています。それは、詩人の神への信仰をぐらつかせるかのように、<悪者どもは、暗がりで、心の直ぐな者を矢で射抜こうと狙っているのに、神が何もせずに守ってくれないなら、正しい者はいったいどうするのか…>と、彼らが言っていたからです。詩人はさらに、そのような人々に対して、主は、決してそんなお方ではない…と反論しています。主は、天にある聖なる宮におられ、ご自分の王座に座し、その御目をもって、地上に住む一人ひとりに目を注いでおられるのです。そして、正しい者と悪しき者とを調べて見分け、暴虐を行う悪者どもに、義なる憤りを覚えられるのです。その主は、その悪者どもの上に網を下されます。すなわち、ご自身の御旨に従わずに逆らい、身勝手なふるまいをし、正しい者を虐げている彼らにさばきを現わすべく、行動を起こされるのです。そしてそれは、主が天から下される火と硫黄であり、それによって生じる熱風は、彼らが飲み干さなければならない杯となるのです。主にそのように取り扱われて滅びてしまった、ソドムとゴモラの町のことが思い起こされます。「その目は見通し そのまぶたは人の子らを調べる」。主の御目は、すべてを見通しているのです。主は、すべての人の行いと心の中の思いを調べられるのです。主に知られないものは何もなく、主は正しい者を弁護し、守り、揺るがされることがないようにしてくださるのです。そのことを教えられるとき、私たちは、主からの慰めと励ましを受けます。と同時に、主の前に居住まいを正す思いにさせられます。日々、その主のまなざしを覚えつつ、みこころにかなう者として歩むたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:詩篇 10篇◇(3月6日)

「主よ あなたは貧しい者たちの願いを 聞いてくださいます。 あなたは彼らの心を強くし 耳を傾けてくださいます。」…詩篇10:17

「主よ なぜ あなたは遠く離れて立ち 苦しみのときに 身を隠されるのですか」(1節)。詩人は、開口一番、そのように言って嘆いています。詩人にとって、神は遠く離れており、苦しむときに助けてくれず、身を隠して姿を現わそうとしない、頼れない存在であって、自分は孤軍奮闘するしかない…と考えているのです。2-11節には、この世にのさばる、悪しき者どもの傍若無人のふるまいが挙げられています。高ぶって、苦しむ人に追い迫り、その口は呪いと欺きと虐げに満ち、咎なき者のいのちを奪い、苦しむ人を網にかけて捕らえる…。そして何よりも、悪者どもは、神を求めず、主を呪い、侮り、「神はいない」、「揺るがされることがなく 代々にわたってわざわいにあわない」と言っているのです。そんな悪者どもがなぜ放置されているのか…貧しい者、弱い者、苦しむ者たちが、彼らに虐げれられ、いいようにされていて良いわけがない…。そのような思いが湧き上がってきた詩人は、ただ嘆くことをやめ、彼は、その思いを、祈りとして神にぶつけたのです。「主よ 立ち上がってください。神よ 御手を上げてください。どうか 貧しい者を忘れないでください…」(12節)と。そのように主に訴える中で、詩人の霊の目は開かれていき、「あなたは見ておられました。労苦と苦痛を じっと見つめておられました」(14節)、「みなしごと虐げられた者をかばってくださいます」(18節)と、告白するようになりました。詩人の疑いと嘆きは、確信と希望へと変えられたのです。私たちの口は、不平や不満、否定的なことばではなく、主への祈り、賛美と感謝、信仰による告白をするために与えられているのだということを、あらためて教えられます。主は見ておられます。主は耳を傾けてくださいます。私たちをかばい、守ってくださいます。ますますその主に信頼して歩みたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 8篇◇(3月4日)

「人とは何ものなのでしょう。 あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたが顧みてくださるとは。」…詩篇8:4

「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう」。詩人は神をあがめるそのことばをもって、この詩を始め、終えています。詩人はそのことを強調しつつ、力ある全能者なる主に、すべての栄光と誉れを帰すことを願っているのです。その神はまた、創造主であられ、詩人は、「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに…」と言っています(3節)。主が御手を動かし、天と地、この世界のいっさいのものをみこころのうちに造られた…その指のわざを見て、詩人は、自分もまた、その神の被造物であることを思わされているのです。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは…」。神は人を、ご自身と同じかたちに創造されました。かたちとは容姿のことではなく、性質や人格を含む、全人的な意味です。そして人には、被造物を治めるという特別な役割が与えられているのです(6-8節)。もちろん人は、神そのものにはなり得ません。人には欠けがあり、何よりも最初の人アダムによって入った罪の性質のゆえに、そのままでは神の好意を全面的に受けられないのです。そして、それゆえに神は、罪から贖うたためのメシアとして、人の子、イエス・キリストを2千年前にこの地上に遣わされたのです。4~6節はそのメシアを暗示する預言的なことばです(ヘブ2:6-8参照)。その贖いは確かになされましたが、救いが完成するのは、主が再臨される終わりのときです。私たちは罪赦された罪人であり工事中の者なのです。しかし神は陶器師として、その御手で、私たちをご自身の気に入ったものに何度でも造り直してくださるのです。その指のわざ、愛のわざ、あわれみのわざを覚え、主に賛美と感謝をささげたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:詩篇 7篇◇(3月3日)

「神は正しい審判者 日々憤る神。」…詩篇7:11

敵から追われる詩人は、神に身を避け、助け出してほしいと主に願い求めました。さらに詩人は、激しく怒るその敵よりもご自身を高くし、国民の群れを周りに集め、その上の高いみくらに座してほしい、私の義と誠実にしたがって私をさばいてほしい、悪しき者の悪が断たれ、正しい者が堅く立てられるように…と願い求めました。そのように主に訴える詩人は、自分は正しく、間違っていないと、自分のあり方を正当化し、自己義認しているわけではありません。なぜなら、彼は同時に、もしも自分のうちに神のみこころでないものがあるならば、敵が自分のたましいに追い迫り、いのちが地に踏みにじられるように、栄光がちりに埋もれるようにしてほしいと、主に申し出ていたからです(3-5節)。詩人は、神が正しい審判者であることを認めていました。神の御前に立ち返ろうとしない悪しき者、神に逆らう者に対して、神は、剣をもって、燃える火矢をもってさばきをなされると、確信していました。そして詩人は、自分もまた、その対象とされ得る、決して例外ではない…と受けとめていたのです(11-13節)。「善を行う者はいない。だれ一人いない」(詩14:3)。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです」(ロマ3:23-24)。詩人は自らの義を誇ったわけではありません。神に拠り頼む者にもたらされる恵みとあわれみを求めたのです。主に立ち返る者に与えられる赦しと救いに望みを置いたのです。そしてそれを、詩人は自分のものとして受け取り、主をほめたたえたのです(17節)。その神の赦しと救いはすべての国民に開かれており、罪人である私たちも、キリストにあってその恵みにあずかり、義と認められたのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所:詩篇 6篇◇(3月2日)

「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる。」…詩篇6:9

「御怒りで私を責めないで…」、「憤りで私を懲らしめないで…」と、詩人は主に願っています。それ以上の詳しいことは不明ですが、主のみこころに反し、主を悲しませた何らかのことについて、詩人は自らのその罪の赦しを乞い、主の恵みとあわれみを求めています。そのときの詩人は、弱って衰え、恐れおののいており、主の赦しと癒しを必要としていたのです。「私を救ってください。あなたの恵みのゆえに」(4節)。詩人の嘆きは、自らの罪、内面におけるものだけではありませんでした。彼は悪者たちによって苦しめられており、そのことによっても弱り果て、夜ごとに涙で寝床を濡らしていたのです。詩人は死さえも覚悟していました(5節)。そしてそうならないよう、主の介入を切に待ち望んでいたのです。「不法を行う者たち みな私から離れて行け。主が私の泣く声を聞かれたからだ」(8節)。そのような葛藤と苦悩の中で、主に祈り求め、すべてを明け渡した詩人は、その祈りが主に聞かれ、主が御手を動かされ、敵が一瞬のうちに退散させられ、恥を見るようになる、ということを、信仰によって受け取りました。それは突然のことでしたが、まさに主は、恵みとあわれみをもって詩人のうちに働き、そのような確信を与えられたのです。「まことに御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある」(詩30:5)。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(1ヨハ1:9)。主の恵みとあわれみによって、私たちの涙は喜びに変えられるのです。罪は赦され、祈りは受け入れられ、敵は退き、恥を見るようになるのです。私たちもまた、主の前に出て、すべてを主に明け渡し、そのような主の取り扱いを受ける者でありたいと思います。

主の御顔を仰ぎ見る者とされますように。

◇聖書箇所:詩篇 5篇◇(3月1日)

「どうか あなたに身を避ける者がみな喜び とこしえまでも喜び歌いますように。 あなたが彼らをかばってくださり 御名を愛する者たちが あなたを誇りますように。」…詩篇5:11

耳を傾けて…うめきを聞き取って…叫ぶ声を耳に留めて…と、詩人は神に祈っています。それは、詩人が自らの弱さ、足りなさを自覚しており、自分に望みを置くことなく、神にひたすら拠り頼んでいたらです。彼は、朝ごとに主の御前に出て、御顔を仰ぎ、主を待ち望む者であったのです。また詩人は、自分の周りに、誇り高ぶる者たち、偽りを言う者たち、人を傷つけ欺く者たちがいることを見ていました。しかし、一見、そのような者たちによって、正しく歩もうとする者が虐げられてしまうように見えても、詩人は決して彼らを恐れたり、その状況を嘆いたりはしませんでした。なぜなら、義なる神は悪と不法を行なう者どもを憎まれ、ご自身のみこころに従って、彼らを滅ぼしてくださると、信じて疑わなかったからです。そんな詩人が第一にしたこと、それは、声を上げて彼らを非難することではなく、主を畏れ、御前に出てひれ伏し、主を礼拝することでした。また、自らが、主によって備えられている道を、まっすぐに歩み続けられるよう願うことであり、その上で、神に逆らう悪者どもが、神によって責めを負わせられ、自分のはかりごで倒れてしまうよう求めることでした。そのように詩人は、すべてを主に委ね、主の介入を待ち望んだのです(7-10節)。「主よ まことにあなたは 正しい者を祝福し…」とありますが(12節)、正しい者とは、単に、悪と不正から離れている、品行方正な者という意味ではありません。それは、この詩人のように、自らの弱さ、罪深さを認め、主に身を避け、主の御名を愛し、主を誇る者のことであり、そのような者を主は祝福し、いつくしみで覆ってくださるのです。私たちもそのような者とされるべく、朝ごとに主の御前に出て、祈りの声を上げたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。