◇聖書箇所:創世記 35章◇(4月29日)

「神は彼に仰せられた。『あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。』こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。」…創世記35:10

ヤコブたちはベテルに着きました。そこは、かつてヤコブが主の臨在を経験した場所です(28:10-19)。そのところからハランへと一人で向ったヤコブは、多くの家族、家畜、財産とともに帰還したのです。そして、それは確かに、主の約束(28:15)の成就でした。ヤコブの娘ディナをめぐって起きたさまざまな事の中、沈黙を続けておられた神は、ヤコブに明確に語られました。立ってベテルに上り、そこに住み、神のために祭壇を築きなさい…と。するとヤコブは、速やかに主に応答し、霊的リーダーシップを再び発揮して、家族を初めすべての者にそのことを伝えるとともに、その前にまず、異国の偶像の神々や耳輪など、あらゆる異教のものを取り除き、身をきよめ、衣を着替えよ…と命じたのです。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ」(10節)。主は、以前ペヌエルで告げられたことを(32:28)再び語られました。そしてそれは、単なる繰り返し、呼び方だけのことではなく、「イスラエルでなければならない」、すなわち、「イスラエル」=「神が戦う」、「神が支配する」ということが、名実ともになるようにせよという、神の命令であったのです。ペヌエルでそのように語られた後も、ヤコブと呼ばれ続けていた彼は、「イスラエル」になりきれない者でした。彼は、エサウだけでなく、神ご自身をも「押しのけて」いたのです。しかしそのヤコブは、21節以降で「イスラエルは…」と呼ばれ始めるのです。私たちのうちにも「ヤコブ」が残っています。しかしその「ヤコブ」は「イスラエル」へ変えられるのです。そのために私たちも、偶像、つまり神以外のものに拠り頼むことを捨て去り、世的な要素を取り除いて「身をきよめ」、祭壇を築く=主を礼拝することが求められているのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

すべてを主に明け渡すことができますように。

◇聖書箇所:創世記 34章18-31節◇(4月28日)

「それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。『あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった…』」…創世記34:30

ヤコブの息子たちは、シェケムとその父ハモルに対し、シェケムがディナを妻とするための条件として、彼ら一族のすべての男たちが割礼を受けることを主張しましたが、それを聞いた二人は自分たちの町に帰り、人々を集めてそのことを説明し、同意するよう説得しました。二人は言いました。「そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう…」(23節)。すると、そのことばを聞いた人々はみな、二人の言うことを聞き入れ、男たちは全員、割礼を受けたのです。その3日後、割礼の傷の痛みが彼らに残っているとき、レアが産んだ6人の息子のうち、2男のシメオンと3男のレビが剣を取って彼らの町に入りました。そして、ディナの兄として怒りに燃えた二人は、ハモルとシェケムを含むすべての男たちを殺害し、ディナを救出したのです。さらにその後、ヤコブの残りの息子たちもその町に入り、財産を略奪し、妻や子どもたちを捕虜にしたのです。それを知ったヤコブは嘆きました。「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった…彼らが…私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう」(30節)。「私」、「私」と繰り返すヤコブ…。彼にとって、娘のディナが救い出された喜びよりも、自分が異邦人に脅かされるへの恐れのほうが大きかったのです。そして、そのように、自分が被害者であるような発言をした父に、息子たちは反発したのです(31節)。ヤコブは、息子たちがシェケムとハモルに対して割礼を受けるよう迫ったとき、それをやめさせませんでした。それを棚に上げてのその態度は、無責任と言わざるを得ません。置かれた状況の中で自分は何を求められているのか…。主の御声をしっかり聴いて行動したいと思います。

主のみこころを行う者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 34章1-17節◇(4月27日)

「ヤコブは、シェケムが自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちは、そのとき、家畜を連れて野にいた。それでヤコブは、彼らが帰って来るまで黙っていた。」…創世記34:5

ヤコブとレアの間に生まれた子に、ディナという娘がいましたが、あるとき、ヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を辱めるという事件が起きました。その後、シェケムが彼女に心を奪われ、妻に迎えたいと父に申し出ると、ハモルはヤコブのところにやって来て彼と交渉し、両家の間で姻戚関係を結ぶということを提案したのです(9節)。一方、ヤコブの息子たちは、妹が汚されたことを父ヤコブから聞くと心を痛め、激高しました。そして、シェケムとハモルをだまそうと、悪だくみをしたのです。それは、ディナをシェケムに嫁がせる条件として、シェケムの一族がユダヤ人の慣例である割礼を受けることを主張し、それを受け入れた者たちが割礼後の痛みで動けない間に、彼らを攻撃して打ち滅ぼしてしまう計画でした。では、ディナの父であるヤコブは何をしたのでしょうか。ディナが汚されたことを聞いた時、ヤコブが怒ったとも、シェケムを非難したとも書かれていません。彼は沈黙を保ち、そのことを野から帰って来た息子たちに告げたのです。さらに彼は、ハモルが姻戚関係を結ぶことを提案し、シェケムが花嫁料や贈り物について言及した場に息子たちを同席させ、シェケム一族が割礼を受けることを彼らが主張しても、何も口を挟まなかったのです。ヤコブには、息子たちの考えがわかっていたはずです。割礼という行為をそのように利用することは主のみこころではない、と理解していたはずです。しかし、彼はそれを止めようとはしませんでした。黙認したとしか思えません。けれども、父親であり家長として、ヤコブは、悪をもって悪に報いてはならない、という主の教えを、息子たちにきちんと教えるべきであったのです。そうしなかったことが悪い影響を及ぼし、のちの息子たちの間の分裂へとつながったのかもしれません。どんな時にも、主のみ教えに従って行動する者でありたいと思います。

主の御声を聴くことができますように。

◇聖書箇所:創世記 33章◇(4月26日)

「…私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。」…創世記33:10

自分や家族がエサウから打たれるかもしれない…と恐れていたヤコブは、ヤボクの渡し場に一人残って神と格闘し、ももの関節が外されることによって自我が砕かれ、名前もイスラエル、「神が戦う」と変えられました。そして顔と顔を合わせて神を仰ぐ中で祝福を受け、彼はそこを、ペヌエル、「神の御顔」と呼んだのです(32:30)。以前は、分散させた家畜や奴隷を先に進ませ、自分はその後方に位置するという、そんな人間的なやり方で身を守ろうとしていたヤコブでしたが、主に取り扱われ、変えられた彼は、いよいよエサウと4百人の者がやって来ると、自らその集団の先頭に立って進み、途中、7度も地にひれ伏し、エサウに尊敬と謝罪の意を表わしました。するとエサウは、ヤコブを迎えるために走り寄り、抱きしめ、口づけをしました。エサウのうちには、過去のことへのわだかまりやヤコブへの憎しみはなかったのです。万感の思いがこみ上げた二人は、涙を流し、神が備えてくださったその再会を喜び合いました。そこには二人のことばは何も書かれてありませんが、許しと和解が確かに起こったのです。ヤコブや家族が、エサウの怒りに触れて打たれることはなかったのです。そしてそれは、神が備えた守りであり救いであったのです。「兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです」と言ったヤコブは、ペヌエルでのことを思っていたに違いありません。弟ヤコブと兄エサウの再会…。主イエスがたとえで話された、放蕩息子と父親との再会が思い起こされます。分けてやった財産を使い果たした身勝手な息子を、父親もまた走り寄って彼を抱き口づけしたのです(ルカ15:20)。拒絶したり罰したりせず、快く受け入れたのです。息子の帰還を心から喜んだのです。そしてそれらは、キリストにあって神に立ち返る者にもたらされる、赦しと和解と祝福を示しているのです。その神に信頼し、人や状況を恐れず、主の守りのうちに歩んでいきたいと思います。

主のみ顔を仰ぐ者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 32章13-32節◇(4月25日)

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」…創世記32:28

32章の1-12節で強調されているのは、ヤコブがエサウに対して抱いていた恐れです。エサウが4百人を引き連れて来るという使者の報告を聞き、ヤコブは非常に恐れました。彼は、カナンへの帰還はエサウとの和解が必須だと、強く思わされていたのです。だからこそ、故郷に帰れ、子孫を増やそう、と言われた神のことばを盾にするようにして、お守りください…と主に祈り求めたのです。ヤボクの渡し場を渡ったヤコブは家族を先に行かせ、自分だけ後に残りました。すると、神ご自身が人の姿を取り、夜明けまでそのところでヤコブと格闘されました。その格闘はヤコブの祈りに対する神の答えだったのです。「その人はヤコブに勝てないのを見てとって」(25節)とは、ヤコブが神に助けを祈り求めつつも、神に明け渡し切っていない彼の自我、自分の考えに頼ろうとする心を、神が見られたと言うことです。神はその格闘の中で、ヤコブのももの関節を外されました。そしてヤコブの元を去って行こうとする神に対し、彼が、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と食い下がると、神は、あなたの名は、もうヤコブ(「押しのける者」の意)ではなく、イスラエル(「神が戦う」の意)と呼ばれる、と告げられたのです。「押しのける者」として、父イサクをだまし、兄エサウから祝福を奪い取ったヤコブは、ラバンの元での20年間の試練を通して主に取り扱われ、さらに、神との格闘においてももの関節を外されることにより、自我を砕かれ、弱い者とされました。その結果ヤコブは、兄に対する恐れ、神に委ねきれない思いが取り除かれ、イスラエル、「神が戦う」、「神が治める」者とされたのです。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリ12:10)。パウロはそのように言いました。私たちもまた、自分のうちにあるさまざまな弱さは、主にあって強くされるためのものであることを覚えたいと思います。

ますます主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 32章1-12節◇(4月24日)

「どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。」…創世記32:11

ヤコブたちを追って来たラバンと、神の守りと導きのうちに和平の契約を結び、彼と別れたヤコブは、さらに旅を続けました。そして、その途中でセイルの地、エドムの野にいる兄エサウに使者を遣わし、家畜や奴隷を差し出して、彼の好意を得ようとしました。それは、かつて自分が、父イサクをだましてエサウの祝福を横取りしたため、彼がいまだに恨みを持っていると考えたからです。その使者は戻ると、エサウが4百人の者とともに迎えにやって来ると報告しましたが、それを聞いたヤコブは非常に恐れました。それは、エサウが自分たちのことを打ち、復讐するのではないかと危惧したからです。そこでヤコブは、もしそうなっても損失が最小限で済むように、一緒にいた家畜や奴隷を、二つの宿営に分けました。そしてヤコブは神に祈りました。エサウの手から私を救い出してほしい、兄が子どもたちや妻を打つことを恐れている…と。そのように彼は、自分のうちに恐れがあることを率直に主に言い表し、主に救いを求めました。さらに彼は、「『あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ」(9節)、「『あなたの子孫を…多くて数え切れない海の砂のようにする』とあなたはかつて言われた」(12節)と、神が語られたことば、約束を告白しつつ、真実な神が必ずそのとおりにしてくださると信じて、そこに望みを置いたのです。私たちも、さまざまなことに対して恐れを抱く者です。そして、主は、もちろんそのことを知っておられます。しかし、率直にそのことを自らの口で主に言い表し、どうしてほしいのかを主に訴え、主のみことば、約束に立ち、それを告白することを、主は良しとされるのです。ヤコブのように、私たちもまた、主の御前に出て、率直に自らの不安、恐れ、願いを言い表し、みことばを拠り所とし、真実であられる主に祈り求めたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:創世記 31章22-35節◇(4月22日)

「神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。『あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。』」…創世記31:24

ヤコブたちが自分のもとをひそかに去ったことを知ったラバンは、身内の者とともに彼らを追い、ギルアデの山地で追いつきました。ラバンはヤコブに会うと、なぜ私の前から逃げて去ったのか、しかも私を欺いて何も言わず、娘や孫たちに挨拶もさせずに…と彼を非難し、もし知っていたなら、タンバリンや竪琴で喜び歌って送り出したのに…と、心にもないことを言ったのです。そのときラバンは、その場でヤコブに害を加えて捕らえ、一行をハランの地に引き戻すこともできましたが、実際にはそうしませんでした。なぜならイスラエルの神が、「ヤコブと事の善悪を論じないようにせよ」と彼に釘を刺していたからです。もしヤコブに手荒なことをするならさばかれてしまう…と彼は考え、神を恐れたのです。「事の善悪を論じないようにせよ」とは、人間的な考えで事の良し悪しをうんぬんするな、ということです。神が計画し実行することに口を挟むなということです。主(ヤーウェ)こそが神であることを知れということです。「アラム人ラバン」とわざわざ書かれていますが、異邦人であり異教の神を信じる彼にそれを告げるべく、ヤコブに追いついた日に神は夢の中で彼に現われたのです。そして、「あなたがたの父の神が私に…」(29節)と、彼はそれを、ヤコブの神だと認めざるを得なかったのです。この記事は、まことの神と偶像の神の対決の場面でもあります。「なぜ私の神々を盗んだのか」とラバンは言いましたが、ラケルが盗んだテラフィムとは、ラバンが信じていた神であり、人の手による偶像でした。そしてその偶像は、ラケルがそれを隠し持っていても、ものを言うこともできず、一方、まことの神は、異邦人ラバンに夢の中で現われ、彼がヤコブたちに危害を加えることを制止されたのです。その神は、私たちが信じている神であり、私たちを敵の手から、悪しき者から守ってくださるお方であることを、覚えたいと思います。

ますます主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 31章1-21節◇(4月21日)

「わたしは、あのベテルの神だ。あなたはそこで、石の柱に油注ぎをし、わたしに誓願を立てた。さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」…創世記31:13

ヤコブは神に豊かに祝福され、多くの家畜の群れを持ち、富む者となりました。しかし、彼の繁栄を妬んだラバンの息子たちは、ヤコブは父の者をみな取って富をものにしたと、根も葉もないことを言い、ラバン自身も、ヤコブに対しての態度を硬化させていました。そして、そのような中、主はヤコブに対し、生まれ故郷に帰れ、わたしはあなたとともにいる、と言われたのです。そこでヤコブは、妻のラケルとレアを呼び寄せ、あらためて、自分が彼女たちの父ラバンから受けた仕打ち、すなわち、何度も欺かれ、受け取るべき報酬を何度も変えられたこと、それにもかかわらず、神が自分のことを顧み、ラバンが与えようとしなかったぶち毛や縞毛のやぎを与えてくださったことを、二人に話しました。さらにヤコブは、神が御使いを通して夢の中で語られ、わたしはベテルの神だ、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰れ、と命じられたことを彼女たちに告げました。すると二人は、神が告げられたとおりにしてください、と言って、ヤコブに従う意志を表明したのです。「私の父の神は私とともにおられる」(5節)。「神は、彼が私に害を加えることを許されなかった」(7節)。「神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さった…」(9節)と、ヤコブは告白しました。また神も、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た」(12節)と、彼に告げられました。ヤコブが生まれ故郷に帰るのは、彼がベテルにおいて、「無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神とな(る)」(28:21)と誓ったことへの、神の応答にほかならないのです。真実な神が、ヤコブとともにあり、守り、導き、ご自身のご計画を推し進められる…そのことをここに見ることができます。そしてその神は、私たちのことをも確かに顧みてくださっているのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 30章25-43節◇(4月20日)

「このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった。」…創世記30:43

ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに、そろそろ独り立ちさせてほしい、妻子たちとともに自分の故郷に帰らせてほしい、と願い出ました。するとラバンは、「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう」と言い(28節)、話しをすり替えようとしたのです。それは彼が、ヤコブが自分の財産を増やしたことを認めており、そのヤコブを手放すことを快く思わなかったからです。実際、ラバンの財産は、ヤコブのおかげで増えて多くなっていました。しかし、ヤコブには、それに見合う報酬が与えられてはいませんでした。そこでヤコブはある提案をラバンにしましたが、それは、ぶち毛や斑毛の羊ややぎ、黒毛の羊など、当時、価値が低いとされていたものを、自分の報酬としてほしいということでした。ラバンはそれなら…と承諾しましたが、それらをすぐには渡さず、自分の息子たちに預けました。彼はそのようにして、事を先送りにし、引き続きヤコブを自分のために働かせようとしたのです。するとヤコブは奇妙な行動を取りました(37-42節)。アーモンドなどの木の若枝の皮を剥ぎ、白いところをむき出しにしたものを、やぎの群れが水を飲みにくるときの水ぶねの中に、群れに差し向かいになるようにして置いたのです。すると、不思議なことに、群れにさかりがつき、まるで目の前に置かれた白い枝に影響されたかのように、ヤコブがラバンに要求した、ぶち毛、斑毛などの羊ややぎが産まれたのです。さらに彼は、強い群れのときにそれを行い、そのときに産まれた強いものを、自分の所有としたのです。奇妙に思えるヤコブの行動は、主の知恵によるものです。彼は、すべてを主に信頼しその結果を委ねていたのです。なぜなら、羊ややぎに子を産ませるのはあくまで神であり、ヤコブ自身がその毛色を操作することはできないからです。ヤコブは、ラバンの策略により窮地に置かれても、主の知恵と導きを求めて行動し、祝福を豊かに受けるようにされました。私たちもそのような者でありたいと思います。

主からの知恵が与えられますように。

◇聖書箇所:創世記 30章1-24節◇(4月19日)

「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。」…創世記30:22

今日の箇所に描かれているのは、ヤコブの2人の妻となった姉妹の間に繰り広げられる、ドロドロとした争いの出来事です。自分の子をどれだけ多くヤコブから得るかによって、いかに相手より優位に立つかという戦いです。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます」と、姉のレアに嫉妬してヤコブに迫るラケル(1節)、それに対し、「おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ」と、彼女に怒りをぶつけて、神をもなじるヤコブ(2節)、息子のルベンが野で取ってきた「恋なすび」(受胎効果があると信じられていた薬草)で取引し、ヤコブとまた夜をともにすることをラケルに承諾させ、「あなたをようやく手に入れた…」とヤコブに告げたレア…(16節)。3人の言動からは人間のエゴ、罪深さ、醜さしか伝わってきません。しかし、そのような中で視点を神に転じるならば、いかに神が愛に満ち、あわれみ深いお方であるかということ、また、ご自身が持っておられる計画は、人には測り知れないものである、ということを教えられます。「神はレアの願いを聞かれたので…」(17節)、「神はラケルに心を留められた…」(22節)とあるとおり、対抗意識むき出しの彼女たちを主はあわれみ、心に留めて、ヤコブに約束された子孫を、与えてくださったのです。ヤコブの子を産んだのはその2人だけではありません。ラケルの女奴隷ビルハ、レアの女奴隷ジルパも、それぞれ、ダンとナフタリ、ガドとアシェルと、2人の子を産んだのです。奴隷は人としてまともに扱われない存在であり、2人とも、ヤコブの子を産むよう主人から命じられて従ったのです。「子の数を増やす」ためです。彼女たちのことばはいっさい書かれてはいません。人間的な見方をすれば、そのようにして奴隷が産んだ子が、イスラエル12部族の基となるのはあり得ないことです。しかし神は、人が見るようには人を見られないのです。ご自身の思いは人の思いとは異なるのです。そして、神は一人ひとりを高価で尊い存在として造られ、ご自身のご計画のために用いられるのです。そのことを覚えたいと思います。

へりくだって歩む者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 29章15-35節◇(4月18日)

「主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。」…創世記29:31

主の守りと導きのうちに、母リベカの兄ラバンに会うことができたヤコブは、彼の二人の娘のうち、妹のラケルを愛していました。彼女は容姿が美しく、ラケルこそ妻とすべき女性だと彼は確信したのです。ヤコブは、ラケルを妻としたい、とラバンに願い、そのために7年間あなたにお仕えします、と申し出ました。しかし事はそう簡単には進みませんでした。その7年が経ち、結婚の祝宴を催したラバンは、ヤコブとその夜をともにする相手として、なんとラケルではなく、姉のレアを行かせたのです。ヤコブはラバンにだまされたのです。朝になってそのことを知った彼は驚き、憤り、ラバンに文句を言いましたが、ラケルを妻として迎えるためにはレアとの婚礼の1週間を終え、さらに、もう7年間ラバンに仕えなければなりませんでした。しかも、レアとの夫婦関係を解消することはできなかったのです。ヤコブはやむなく、理不尽とも言えるその要求を受け入れました。レアには4人の男の子が産まれました。しかし、ラケルの胎は閉ざされたままでした。レアは子どもたちに、ルベン、シメオン、レビ、ユダという名をつけましたが、その名前にはそれぞれ「子を見よ」、「聞く」、「結ぶ」、「ほめたたえる」の意味がありました。彼女は、出産のたびに、自分に対する主のあわれみを覚え、「悩みを見られた」、「嫌われているのを聞かれた」、「夫は私に結びつく」、「主をほめたたえよう」と言ったのです。ヤコブは、自分が兄ヤコブをだましたことを思い起こし、自らのその罪を悔い改めさせられたことでしょう。同時に、旅の途中、夢の中で主から、「あなたをこの地に連れ帰る。わたしは…決してあなたを捨てない」告げられたことを思い起こしていたに違いありません。ヤコブにとってラバンの元での試練は、自らを省み、砕かれ、従順と忍耐を学び、主の祝福を受けるための、主の訓練だったのです。私たちも、日々の試練をそのように受けとめる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 29章1-14節◇(4月17日)

「そしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。」…創世記29:11

ヤコブは、ハランに住む母の兄ラバンに会うための旅を続けていました。すると途中に井戸があり、羊の群れを飼う人々が水を飲ませようと待っていました。ヤコブが彼らに、どこから来たのかと尋ねると、ハランからだとの答えがあったので、さらに、ラバンを知っているかと聞くと、彼らは、良く知っている、ちょうど彼の娘ラケルが羊を連れてやって来るところだ、と答えました。そこでヤコブは、そこに到着したラケルに口づけして挨拶し、自分がラバンの甥であることを告げたのです。ラケルにとってヤコブはいとこでしたが、そのような親戚が突然現れたことに彼女は驚き、走って家に戻り、父にそのことを告げました。すると、それを聞いたラバンは、すぐに井戸のところに走って行き、ヤコブを抱きしめて口づけし、自分の家へと連れて帰ったのです。ヤコブがラケルに出会ったとき、声をあげて泣いたとありますが、なぜ彼は泣いたのでしょうか…。ヤコブが故郷を後にしてはるばるハランの地までやって来たのは、父から命じられたとおり(28:2)、ラバンの娘たちの中から妻を迎えるという目的があったからです。しかし元々は、兄のエサウにいのちを狙われ、逃げて身を守る必要があったからです(27:43)。彼の涙…それはおそらく、そのような恐れと緊張から解放された思いになったからであり、何よりも、神が約束されたとおり(28:15)、旅の道中も主がともにいて、守られ、導かれ、ハランの地に無事にたどり着き、ラバンの娘に実際に会うことができたという、神への感謝の思いが湧き上がったからです。私たちの人生の旅路にも、さまざまな試練や困難があります。その中で、次々に恐れやストレスに襲われます。しかし主は、キリストの贖いによって救われ、神の民、霊的なアブラハムの子孫とされた私たちとともにいて、決して見捨てず、見放さず、その歩みを守り、導いてくださるのです。そのことを覚え、感謝と希望をもって、主が備えておられるその道を歩み続けたいと思います。

平安が心にありますように。

◇聖書箇所:創世記 27章30-46節◇(4月15日)

「エサウは父に言った。『お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。』エサウは声をあげて泣いた。」…創世記27:38

イサクが弟のヤコブを祝福し終わり、彼が出て行ったとき、入れ替わるようにして、兄のエサウが、猟で得た獲物で作ったおいしい料理を手にして、イサクの元にやって来ました。そして、約束どおり、自分を祝福してほしいと、彼は父に願ったのです。すると、エサウのそのことばを聞いたイサクは驚き、自分がだまされたことを知って身震いし、私はおまえの弟のヤコブが持って来た料理を食べ、すでに彼を祝福してしまった、彼は必ず祝福されるだろう…と、エサウに告げたのです。それを聞いたエサウは激しく鳴き叫び、私も祝福してくださいと、父に迫りました。しかし、イサクが、その祝福は奪い取られてしまったのだから、おまえを祝福する分はもう残っていないのだ、と言うと、彼は再び泣いて嘆き悲しみ、ヤコブを殺そう…と、堅く決めたのです。猟から戻って来たエサウが、自分の祝福が奪われたことを父から聞き、激しく泣き叫んだのを知ったリベカは、ヤコブの身を案じ、ハランに住んでいる自分の兄ラバンのところへ逃げ、そこにしばらくとどまっているよう、彼に命じました。彼女は、時が経てば、やがてエサウの怒りは収まり、弟からされたことを忘れるだろう…と、楽観的に考えていたのです。「兄が弟に仕える」と、主はリベカに告げられました(25:23)。夫であったイサクも当然それを知っていたはずです。またイサクは、おいしい料理を食べさせてくれ、おまえを祝福できるように…とエサウに言いましたが(27:4)、そのような要求は神の祝福とは本来関係がないことです。そこに、神の主権を軽んじ、自分の肉的な思いを通そうとしたイサクの姿があります。そしてそれは、空腹を満たすために、一杯の煮物と引き換えに長子の権利を弟に売ったエサウと、本質は同じなのです。神の主権を軽んじ、主のみこころに反して自分の思いを押し通すことがないよう、ますます主を畏れる者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 27章1-29節◇(4月14日)

「イサクは、その子に言った。『どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。』彼は答えた。『あなたの神、主が私のために、そうしてくださったのです。』」…創世記27:20

自分のいのちはもう長くないと悟ったイサクは、お気に入りのエサウを呼び寄せ、獲物をしとめ、おいしい料理を作って食べさせてほしい、と願いました。一方、その会話を耳にした妻リベカは、自分が愛していた(25:28)弟のヤコブにそのことを告げ、エサウの祝福を奪うようにと彼を仕向け、自分が調理するから、最上のやぎを2匹、群れから取って来るようにと、彼に命じました。母リベカからそう言われたヤコブは、自分の肌が兄のように毛深くなかったので、もし父が自分に触ったらばれてしまうと指摘しましたが、リベカは、エサウの衣と子やぎの毛皮を使い、イサクをだまそうと考えていたので、自分の言うとおりにせよ、と言って押し通したのです。準備は整い、ヤコブは父を欺くべく、母が調理した料理とパンを持って父のところに行き、言われたとおりにしたと告げました。するとイサクは、料理を持ってくるのがあまりにも早く、またその声がヤコブに似ていたので、本当にわが子エサウか…と繰り返し尋ねました。ヤコブはそのたびに、ひやひやしたに違いありません。しかし、結局イサクはだまされて、ヤコブを祝福したのです。リベカとヤコブは共謀してイサクをだましました。どうしてこんなに早く…とイサクに問われると、ヤコブは、「主が私のためにそうしてくださった…」と言って偽ったのです。それは、倫理的な観点から言えば許されることではありません。しかし彼らは、エサウを偏愛していたイサクから、主の祝福をなんとか得ようとしたのです。そしてそのエサウは、長子の権利を弟に売っていたのです(25:33)。神の祝福を軽んじる者と、それを奪い取ろうとさえする者の対比が、ここに描かれています。そしてそこから、私たちもまた、神の祝福を軽んじることなく、それを熱心に求めるべきことを教えられます。主の祝福を押し流すべく、ますますそうありたいと思います。

主の祝福がさらに増し加えられますように。

◇聖書箇所:創世記 26章17-35節◇(4月13日)

「これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」…創世記26:5

イサクの時代に飢饉が起こったことが記されていますが、飢饉はアブラハムの時代にもありました。そのときはアブラハムはエジプトに下って行きましたが、主は、イサクに対して、そうしてはならない、あなたはわたしが告げる地に住みなさい、と命じられました。さらに主は、「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する…」とイサクに約束され、そのようにして、イサクの父アブラハムへの誓いを果たす、つまり、ご自身がアブラハムと結ばれた契約を実行すると言われたのです。4節に「あなたの子孫」ということばが3回出て来ます。3節にも、「あなたとあなたの子孫に…国々をすべて与える」とあります。主は、イサクに対して、ご自身が与える祝福は、彼だけでなく、次の世代、さらに次の世代まで続いていくのだ…と言われたのです。実際、アブラハムの子であるイサクが受ける祝福は、主が、ご自身に対するアブラハムの信仰と従順を喜ばれたゆえに、イサクにもたらしてくださったものにほかならないのです。そのことを思うとき、信仰者の主に対する信仰と従順は、その者から出る子孫に対しても大きな影響を及ぼし、彼らの上に主の祝福がもたらされていくのだ、ということを教えられます。イサクの子孫…それはヤコブであり、彼の息子たちであり、彼らの子どもたちは、約束の地カナンでイスラエル12部族を形成し、そこから王が立てられ、国が築き上げられていったのです。それは、霊的なアブラハムの子孫とされた私たちも同じです。主への私たちの信仰と従順は、私たちの子孫、後に続く世代に大きな影響を与え、彼らの祝福につながっていくのです。私たちの人生は自分自身だけのものでなく、神の国の拡大は、世代を越えてなされていくのです。今この時代に生かされている私たちが、将来の世代に貢献できるものは何か…と考えさせられます。永遠を思う心、永遠を見る目を持つ者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:創世記 26章1-16節◇(4月12日)

「これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」…創世記26:5

イサクの時代に飢饉が起こったことが記されていますが、飢饉はアブラハムの時代にもありました。そのときはアブラハムはエジプトに下って行きましたが、主は、イサクに対して、そうしてはならない、あなたはわたしが告げる地に住みなさい、と命じられました。さらに主は、「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する…」とイサクに約束され、そのようにして、イサクの父アブラハムへの誓いを果たす、つまり、ご自身がアブラハムと結ばれた契約を実行すると言われたのです。4節に「あなたの子孫」ということばが3回出て来ます。3節にも、「あなたとあなたの子孫に…国々をすべて与える」とあります。主は、イサクに対して、ご自身が与える祝福は、彼だけでなく、次の世代、さらに次の世代まで続いていくのだ…と言われたのです。実際、アブラハムの子であるイサクが受ける祝福は、主が、ご自身に対するアブラハムの信仰と従順を喜ばれたゆえに、イサクにもたらしてくださったものにほかならないのです。そのことを思うとき、主に対する信仰者の信仰と従順は、その者から出る子孫に対しても大きな影響を及ぼし、彼らの上に主の祝福がもたらされていくのだ、ということを教えられます。イサクの子孫…それはヤコブであり、彼の息子たちであり、彼らの子どもたちは、約束の地カナンでイスラエル12部族を形成し、そこから王が立てられ、国が築き上げられていったのです。それは、霊的なアブラハムの子孫とされた私たちも同じです。主への私たちの信仰と従順は、私たちの子孫、後に続く世代に大きな影響を与え、彼らの祝福につながっていくのです。私たちの人生は自分自身だけのものでなく、神の国の拡大は、世代を越えてなされていくのです。今この時代に生かされている私たちが、将来の世代に貢献できるものは何か…と考えさせられます。永遠を思う心、永遠を見る目を持つ者でありたいと思います。

主の祝福がさらに拡がっていきますように。

◇聖書箇所:詩篇 16篇◇(4月11日)

「あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。」…詩篇16:11

「神よ 私をお守りください」。詩人はそのような神への訴えをもって、この詩を書き始めています。それは、自らのうちにある、喜び、希望、そしていのちを奪おうとする悪しき者たちの存在を覚え、彼らから守られる必要を感じていたからです。そして詩人は、「私はあなたに身を避けています」と、主が避け所となって自分を守ってくださることを堅く信じ、告白しているのです。「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」(2節)。詩人はさらに、そのように言っています。神は、自分を悪しき者たちの手から守ってくださるだけでなく、自分が受けるべき幸い、すなわち、平安、喜び、希望といった、内面の満たし、祝福をくださる唯一の存在であることを、詩人は信じて疑わないのです。「主は私への割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます」(5節)。詩人は、自分の受ける分が主によって必ず確保されると信じ、またそれは、主が定められた、自分の割り当て分だと知っているのです。ここに、詩人の謙遜と主への明け渡しを見ることができます。彼は、自分の分を越えたものを得ようとしてあくせくしたり、心を騒がせたりすることはないのです。「それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます…」(9節)。「…満ち足りた喜びが あなたの御前にあり楽しみが あなたの右にとこしえにあります」(11節)。詩人は、「喜び」ということばを繰り返し、強調しています。そしてそれは、備えられているいのちの道を、前にいて導いてくださる主に従って進み、苦難のときも、ともにおられる主に支えられ、揺るがされるず、倒れることなく、歩み続ける者の祝福、幸いにほかならないのです。私たちもまた、そのように告白しつつ、主に従い、いのちの道をまっすぐに歩み続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 15篇◇(4月10日)

「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」…詩篇15:1

いったいだれがあなたの幕屋に宿ることができるのか、あなたの聖なる山に住むのはどのような者なのか…と、詩人は主に尋ねています。そして、それはつまり、どのような人が主の御前に受け入れられ、ご自身のみこころにかなう者として喜ばれるのか…という問いにほかなりません。またそれは、この詩の読者に対しての問い掛けでもあるのです。そのことについて、詩人は、主との交わりを通して教えられたこととして、2節以降において、自らその答えを明らかにしています。それは、まず、「全き者として歩み 義を行い 心の中の真実を語る人」です。すなわち、主のみ教えに従い、戒めをことごとく守り行い、心の中にある思いを正直に告白し、罪を悔い改め、主に赦しを乞う人です。また、主のみこころにかなう人とは、隣人に対する中傷、悪口、そしりをいっさい口にせず、主に捨てられた者を蔑み、主を恐れる者を尊ぶ者です(4節)。その「主に捨てられた者」とは、主を自ら捨てた者であって、そのような罪深い者と交わることをせず、自分をきよく保つのです。そして、悪と不正を憎み、主を畏れる者たちとともに、主を慕い求めるのです。そのような人は、利己的なあり方とは無縁なのです(5節)。詩人が提示しているその答えには、人と神との関係と、人と隣人との関係が示されています。まず神との関係が正しく真実なものとされなければ、隣人との関係もまた、主のみこころにかなうものとはなり得ない、ということを教えられます。そしてそれは、自分の肉の力、努力ではなし得ないことであり(詩14:3参照)、だからこそ、主は、私たち罪人に、救いを備えてくださっているのです。キリストにあって、聖霊の助けと導きによって、主のみこころを行う者、揺るがされることなく歩む者とされたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 15章33-47節◇(4月8日)

「そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』訳すと『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」…マルコ15:34

主イエスは午前9時に十字架につけられましたが、正午になったとき、突如闇が全地をおおい、午後3時まで続きました。そして3時になったとき、イエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。「エロイ」というアラム語は「わが神」という意味ですが、それを聞いた人々は、イエスがエリヤを呼んでいると勘違いし、エリヤが降ろしに来るのではないかと考え、それを見ようとしていたのです。しかし、まもなく主イエスは大声をあげて息を引き取られました。そしてそのとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに避けました。その幕は、大祭司のみが年に1回入ることができる至聖所と聖所を隔てるものであり、それが裂けたということは、主イエスの死により、神と人との間の隔てがなくなったことを表わしていたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、主イエスは十字架上で叫ばれました。イエスは神の子でしたが、そのとき、「わが父、わが父…」とは言われませんでした。それはすなわち、イエスが神の子としてではなく、全人類の代表として、すべての罪を一身に負い、身代りとなって十字架にかかり、そこで、神から見捨てられるという、この上ない痛みと悲しみを味わわれたということを意味しているのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それは本来、私たちが、私が、罪のゆえに十字架につけられ、神から見放されるという絶望の中で、うめき、苦しみ、発しなければならなかったことばです。しかし、そうはなりませんでした。それは、イエスが十字架にかかって血を流し、いのちをささげてくださったからです。隔ての幕が裂けて取り除かれたからなのです。主イエスの十字架が私のためであったことをあらためて覚え、主に心からの感謝と賛美をささげたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 15章16-32節◇(4月7日)

「『キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。』また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」…マルコ15:32

ピラトからイエスを引き渡されたローマ兵たちは、イエスを総督官邸の中庭に連れて行き、そこでイエスをもてあそび始めました。彼らは、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫び、さらに、葦の棒で頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝むしぐさをし、イエスをからかったのです。その後、彼らは、イエスに元の服を着せ、十字架の横木を負わせ、十字架につけるために、町のはずれにあるゴルゴタの丘へと引き立てて行きました。また、その途中からは、そこをたまたま通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせたのです。丘に着くと兵たちは、イエスを十字架に釘付けてそれを立て、その上部に「ユダヤ人の王」と書いた罪状書きの札を掲げました。するとその姿を見た通りすがりの人々は、そこから降りて自分を救ってみろ、とののしり、また祭司長たちも、十字架から降りるのを見たら神の子キリストだと信じよう、と言って嘲ったのです。ローマ兵たちも、群衆も、祭司長たちも、またイエスと一緒に十字架につけられた二人の強盗も知らなかったのです。メシアであるイエスにとって、つけられたその十字架から降りて、自分を救うことなどわけないことを。しかし、もし実際にそのようにしたなら、自分たちの罪が赦される道が閉ざされてしまうということを。そして、イエスは確かにユダヤ人の王であり、そればかりでなく、この世のすべてを統べ治める、絶対的な主権を持ったまことの王であるということを…。けれども、キリストに贖われた聖徒である私たちは、もちろんそのことを知っています。だからこそ、日々、キリストの十字架を思い、自らの罪が赦されていることを確信し、王なるキリストをあがめ、キリストの主権の下で歩み続けて行くのです。主が最後まで父に従われたことを感謝したいと思います。

救いの喜びが心にあふれますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 15章1-15節◇(4月6日)

「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」…マルコ15:15

最高法院の裁判において、神を冒瀆したゆえに死に値すると判決が下された主イエスは、祭司長たちによって縛られ、ユダヤ総督ピラトに朝早く引き渡されました。ピラトは、イエスが人々から熱狂的な支持を受けていたのを知っていたので、あなたはユダヤ人の王なのか、とイエスに尋ねましたが、主は、あなたがそう言っている、とだけ答え、あとはいっさい口を開かれませんでした。そのときエルサレムの町は、過越の祭りを迎えて大勢の人がいましたが、祭司長たちに扇動された群衆は、バラバという犯罪人を釈放するよう要求し始めました。それは、祭りのたびにピラトが、人々が願う囚人を赦免して釈放するというならわしを、彼らが知っていたからです。ピラトは、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、彼らのねたみからのことだとわかっていたので、ユダヤ人の王を釈放してほしいのか、と群衆に尋ねましたが、彼らは、「十字架につけろ」と叫ぶばかりでした。そこで彼は、要求どおりバラバを釈放し、イエスをむちで打たせ、十字架につけるためにローマ兵に引き渡したのです。祭司長たちはイエスの多くの罪状を並べ立てていましたが、ピラトは、それらがでっち上げだとわかっていました。しかし彼は、群衆の機嫌を取り、満足させるために、あえて、無実のイエスを十字架につけることを承諾したのです。それは、もし群衆が暴動を起こすならば、ユダヤ総督としての自分の立場を失うことになる、と恐れたからです。そのように、保身のために罪のないイエスを死に追いやったピラト…ねたみからイエスを十字架につけるよう要求した祭司長たち…イエスが政治的英雄ではないと知ると、それまでの熱狂を殺意に変えた群衆…。そして表舞台から姿を消したイエスの弟子たち…。それらは、自らの肉に従って行動する罪深い者たちの姿であり、かつては私たちもそうであったのです。そのことを覚え、主の十字架による救いを感謝したいと思います。

栄光が主にありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 14章53-72節◇(4月5日)

「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『私は、あなたがたが話しているその人を知らない』と言った。」…マルコ14:71

祭司長たちが差し向けた者たちに捕らえられた主イエスは、大祭司の家に連れて行かれ、そこに集められた長老や宗教指導者たちによって急遽開催された、最高法院の裁判にかけられました。そこではイエスに不利な多くの偽証がなされましたが、それらが一致しなかったため、結論が出ず、判決を下すことができませんでした。そこで、大祭司が進み出て、主イエスに対し、「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」と尋ねると、主はそうだと認め、さらに、人の子が神の右の座に着き、やがて雲に乗って再びこの地に来るのを、あなたがたは見ることになる、と言われました。すると大祭司は、そのことばを神を冒瀆するものだと断定し、裁判に出席してた者の全員一致で、イエスを死刑に定めたのです。一方、イエスが捕らえられた時、一旦は逃げたものの、気になって後を追って来たペテロは、大祭司の家の中庭にいましたが、大祭司の召使いの女性から、イエスの弟子だろうと指摘されると、即座に否定しました。そして彼は、さらにそこにいた人たちから同じことを指摘されるたびに、違う、知らない、と言い張り、3度否定したちょうどその時に、鶏の2度目の鳴き声を聞いたのです。われに帰ったペテロは思い出しました。鶏が2度鳴く前にあなたは3度わたしを否む、と主から言われたことを。そして、まさにそのようになったことに愕然とし、自らの罪深さ、ふがいなさを思い、敗北感に打ちのめされた彼は、その場に泣き崩れました。彼は、主を否んだ時、嘘ならのろわれてもよいと誓いさえしたのです。しかし、ペテロがのろわれることはありませんでした。主はペテロの弱さ、罪深さを知っておられ、愛とあわれみをもって彼を受けとめ、そのペテロを含む、すべての人の罪を赦すために、十字架へとさらに進んで行かれたのです。私たちもまた、不信仰なふがいない者ですが、キリストに愛され罪赦されていることを、感謝したいと思います。

主の愛とあわれみを深く覚えることができますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 14章43-52節◇(4月4日)

「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。」…マルコ14:50

主イエスを捕らえるために、裏切り者のユダを先頭に、祭司長や律法学者たちから差し向けられた群衆が、剣や棒を手にして主イエスの元にやって来ました。そして、ユダが「先生」と言って主イエスに口づけしたのを合図に、人々はイエスに手をかけて捕らえたのです。そのとき、弟子のひとりが剣を抜いて切りかかり、大祭司のしもべの耳を切り落としましたが、その後、主イエスと一緒にいた者たちは皆、一人残らずイエスを見捨てて逃げてしまいました。ヨハネによれば、切りかかったのはペテロでしたが(ヨハ18:10)、マルコは、「そばに立っていた一人」と記し、また主を見捨てて逃げ出したのも「皆」と記しています。あえて名前を出さず、「弟子」ということばも使わなかったマルコは、「決してつまずきません」と言い張った彼らの弱さ、もろさ、罪深さを伝えようとしたのかもしれません。さらにマルコは、他の福音書には書かれていない、ある青年のことも加えています。亜麻布1枚をまとった彼は、捕らえられたイエスの後について行こうとしましたが、群衆は彼もまた主イエスの弟子だと思ったのか、その青年を捕らえようとしたため、彼は恐ろしくなり、着ていた亜麻布を脱ぎ捨て、裸で逃げたのです(51-52節)。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、…私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)。主イエスは捕らえられ、苦難のしもべとして、いよいよ十字架に向かわれます。その十字架上で主は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)と叫ばれることになりますが、その前にまず、弟子の一人であったユダに裏切られ、残りの弟子たちからも、主について行こうとした者からも、群衆からも見捨てられ、屈辱と悲しみを味わわなければならなかったのです。その場面にもし自分がいたら…きっと同じ行動を取るでしょう。主が受けられた痛みの大きさと、自分の罪深さをあらためて覚えつつ、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 14章26-42節◇(4月3日)

「ペテロは力を込めて言い張った。『たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。』皆も同じように言った。」…マルコ14:31

「あなたがたはみな、つまずきます」と、主イエスは弟子たちに予告されました。「つまずく」とは、主イエスへの信仰を失うことです。そしてそれは、自分が試練や逆境に置かれたとき、それに心を奪われ、恐れや不安が大きくなり、主に信頼できなくなってしまうからです。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』。主はみことば(ゼカ13:7)を引用されました。ご自分を羊飼い、弟子たちを羊とし、その羊飼いが打たれる、すなわち敵対者に捕らえられると、羊は自分たちの身の危険を感じ、逃げて散り散りになる、と言われたのです。しかし、そのとき主イエスは弟子たちに、「あなたがたは私につまづいてはならない」とは言われませんでした。なぜなら、ゼカリヤが預言したとおり、彼らがつまずくことを、主は知っておられたからです。そしてそのことによって、羊である弟子たちは、自分たちの弱さ、信仰のなさを、思い知らされることになったのです。ペテロを初め、弟子たちは、自分たちは決してつまずかないと言い張りました。しかし彼らが自らの肉により誇ったその自信は、いとも簡単に打ち砕かれたのです。そして、そのような信仰の薄い弟子たちを、主は見捨てず見放さず、彼らに、「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」と言われました。それは彼らを召し出されたその地で、彼らを霊的に立て直し、ご自身に再献身させるためであったのです。私たちもまた、弱い者、信仰の薄い者です。自分を買いかぶらず、そのことを主の前に素直に認め、信仰と力を日々主からいただくことが求められているのです。そのような私たちを主は見捨てず、信仰の歩みの原点、初めの愛に立ち帰らせてくださるのです。ますますへりくだり、主の恵みとあわれみのうちを歩みたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 14章1-11節◇(4月1日)

「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。」…マルコ14:8

主イエスがベタニアのシモンの家で食事をしていると、ある女性が非常に高価なナルド油という香油が入った壺を持って来て、突然それを割り、油をイエスの頭に惜しみなく注ぎました。すると、そこにいた何人かの者は驚き、憤慨し、なぜそれを3百デナリ(200万円に相当)以上で売って、貧しい人たちに施さなかったのかととがめ、彼女を厳しく責めたのです。ところが主イエスはその女性を弁護し、そのままにさせよ、彼女はわたしのために良いことをしてくれたのだ、と言われ、さらに、貧しい人々への施しはいつでもできるが、わたしに対してはそうではない、彼女がしてくれた行為は、埋葬されるわたしのからだに香油を前もって塗ることとなったのだ…と言われたのです。人々は、その高価な香油がイエスの頭に注がれるのを見て、もったいないと思ったのです。その行為は無駄だとさえ言ったのです(4節)。人々は、彼女がしたことの意味をまったく理解していませんでした。しかしその女性は、人々をいやし、悪霊を追い出し、罪の赦しを宣言されるイエスこそ、自分が持っている油を注ぐのに価するお方だと信じて疑わなかったのです。そして、そのイエスをあがめ、愛し、自分にできることをしようと決意したのです。彼女にとってそれは喜びであったのです。ともすれば私たちは、主にささげものをする際に、もったいない…と、それを惜しむ思いになってしまいます。しかしそれは、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ」という最も大切な教えを実践することであり、彼女が高価な香油を主に惜しみなくささげたように、私たちもまたそうすべきなのです。自分にできることを精一杯するその姿勢を、主は喜んでくださいます。そのささげものは、主のために尊く用いられるのです(8,9節)。主のために、ますます喜んでささげる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。