◇聖書箇所:詩篇 19篇◇(6月30日)

「あなたのしもべも それらにより戒めを受け それを守れば 大きな報いがあります。」…詩篇19:11

「主のおしえは完全で…主の証しは確かで…主の戒めは真っ直ぐで…主の仰せは清らかで…」と、立て続けに語る詩人のことばに心が留まります(7-8節)。主のおしえ、主の証し、主の戒め、主の仰せ…それらはすべて、主のことば、主のみおしえを意味しています。「主のおしえは完全…」。詩篇18篇30節にも「神、その道は完全」とあります。神は完全なお方であり、その神が備えられる道、告げることば、みおしえもまた完全なものなのです。そしてそれは、私たちのたましいを生き返らせ、愚かで浅はかな者に知恵を与えて賢くさせ、嘆き悲しんでいる者の心に喜びをもたらし、私たちの目を明るくして輝きを与えてくれるのです(7-8節)。言うまでもなく、それらは主が与えられる良いものであって、私たちが受けるべきもの、求めるべきものです。しかし私たちが、みことばを聞くだけだけに留まっているなら、神がくださるその祝福に十分にあずかることはできないのです。それを守れば大きな報いがあると、詩人が言うとおりなのです。ヤコブもこのように言っています。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」(ヤコ1:22)。神のみことばに聞き従い、主の戒めを守り行おうとするとき、私たちはそこに困難さを覚えます。そして自分が、その神の求めるあり方からかけ離れた、罪深く、不完全な者であるかを思い知らされます。しかし私たちは、律法的になるべきではないのです。落ち込まなくて良いのです。だからこそ、キリストはその私たちのために来られ、ご自身の十字架と復活によって、私たちの贖いを成し遂げられたからです。律法、すなわち主の戒めは、私たちをそのキリストに導く養育係であり、私たちはキリストへの信仰によって義と認められるからです(ガラ3:24)。そして、私たちが自らの罪を悔い改めて主に立ち返るなら、神はいつでも、キリストにある赦しと祝福をくださるからです。そのことを感謝したいと思います。

平安がありますように。

◇聖書箇所:詩篇 18篇30-50節◇(6月29日)

「神 その道は完全。 主のことばは純粋。 主は すべて主に身を避ける者の盾。」…詩篇18:30

30節のことばが心に留まります。「神 その道は完全」と、ダビデは言っています。神が私たちのために備えてくださっている道は完全であって、私たちがその道からそれずに歩み続けるならば、たとえその行程が、山あり谷あり、遠回りしているように思えるものであっても、一歩一歩、確実に、御国という目的地に向かって進み、やがてそこに到達し、神に迎え入れられるのです。「主のことばは純粋」。主ご自身が語られたことば、また、預言者や、主が立てられた者を通して伝えられた神のことばは、不純物のない、純粋なものであって、人の思いや考えに基づいたことばではない、真理のことば、いのちのことばなのです。また、そのところを別の聖書では、「主の仰せは火で練り清められている」と訳しています(新共同訳)。みことばは、火で精錬された金属のように、朽ちることなく永遠に立つのです(イザ40:8)。「主は すべて主に身を避ける者の盾」。主は、弱く、欠けの多い、人から見下されている者であっても、また、過ちを犯してしまった…取り返しがつかない…と嘆き、苦しんでいるような者であっても、ご自身に身を避ける者、保護を求める者たちの盾となり、その者を責め立てる敵から守ってくださるのです。その敵とは、目に見える存在だけではありません。それは、私たちを神から引き離そうとする悪しき者であり、主は、その悪魔が放つ矢を払い落として、私たちを助けてくださるのです。「主のほかに だれが神でしょうか。私たちの神を除いて だれが岩でしょうか」(31節)。私たちの歩みを確かなものにし、敵の手から守ってくださるのは、私たちを造られ、ご自身の息を吹き入れて生きる者としてくださった神以外にはあり得ないのです。ダビデは、敵に追われる試練の中で、その神に信頼し続けたのです。そして主にあって勝利を得たのです(37-42節)。私たちもまた、ますますこの神に拠り頼んで歩み続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 18篇1-29節◇(6月28日)

「主は 力ある敵から私を救い出されました。 私を憎む者どもからも。 彼らが私より強かったからです。」…詩篇18:17

「わが力なる主よ。私はあなたを慕います」(1節)。詩人はそのようなことばで歌い始めています。そしてその詩人とはダビデであり、サウルの手から救い出された日に、彼がこの歌を主に歌ったとされています。2節には「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら…」と、ダビデは告白していますが、そこには王としての威信やプライドはありません。「身を避ける」、「わが盾」…と、防戦一方、逃げ隠れしなければならない現実を彼は受け入れ、それを良しとしています。そこに、主である神の前にへりくだっているダビデの姿を見るのです。「私は苦しみの中で主を呼び求め わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ 御前への叫びは 御耳に届いた」(6節)。ダビデにとって、そのように、苦しみのただ中にあっても神に叫び求め、それが主に聞かれ、主の御手の中で守られ、助け出されるということは、何よりも心強いことでした。それは、どんな精鋭部隊の警護にもまさる、何にも代えがたいものだったのです。主イエスは人々にこう言われました。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタ5:4)。また偉大な伝道者パウロもこう告白しています。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリ12:10)。悩みや苦しみがないことが幸いなのではないです。求めるべきなのは順風満帆の歩みではないのです。また、自らの弱さや足りなさに落胆しなくてもよいのです。私たちは、自分にではなく、目の前の現実にでもなく、天に目を向け、そこにおられる主に向かって、叫び求めることができるからです。そして主は、私たちのその叫びを聞き、それに応え、力強い御手で引き上げて下さるからです。試練の中にあっても、主の平安に満たされるからです。ダビデのように、自らの弱さを認め、主の前にへりくだり、主を絶えず呼び求める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:詩篇 17篇◇(6月27日)

「しかし私は 義のうちに御顔を仰ぎ見 目覚めるとき 御姿に満ち足りるでしょう。」…詩篇17:15

聞いてください…耳に留めてください…耳に入れてください…と、詩人は、冒頭から繰り返して、自分の訴え、叫び、祈りを聞いてそれに答えてほしいと、やや性急とも思える口調で主に願い求めています。そしてそれは、彼に対して向かい立つ敵の存在があり、その悪しき者たちの手から守ってくれるのは主しかいない…と、詩人が考えていたからなのです。さらに詩人は、そのように訴えることのいわば妥当性として、自らの正しさを訴え、自己弁護しています。「あなたは私の心を調べ 夜 私を問いただされました…何も見つかりません…」(3節)、「私の歩みは あなたの道を堅く守り 私の足は揺るぎませんでした」(5節)。しかし彼は、自分を誇って高ぶっているわけではなく、みことばに従っていることを告白しているのです(4節)。主に対する詩人の訴えはさらに続き、貪欲で獅子のように飢えた敵が身近にまで迫っている状況を告げ、立ち上がって彼らを打ちのめし、剣で私のたましいを助け出してほしい…と、そのことを切に求めています(9-13節)。そして詩人は、主が確かにその訴えを聞き、それに答えてくださるお方であることを確信しているのです。彼の敵は、神を認めず、神の恵みによって与えられているものに対して感謝をすることもなく、それを自分たちの蓄えにし、さらにそれを子孫に残すことによって満足している者たちです。彼らはそのように、地上的なものによって心を満たし、生活を豊かにすることに生きがいを見いだしているのです(14節)。しかし詩人は、この地上での繁栄を決して求めてはいませんでした。彼の願いは、神に義とされた者として、主の御前に進み出て、そのうるわしい御顔を仰ぎ見ることであり、神に愛され、生かされていることを朝毎に覚えることによって、こころとたましいが満ち足りていたのです。私たちもそのような者となっているかと、自己吟味したいと思います。

平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 24章◇(6月26日)

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。」…ヨシュア24:14

地上での生涯を間もなく終えようとしていたヨシュアは、イスラエルの全部族をシェケムに集め、長老やかしらたちを呼び寄せ、彼らを神の前に立たせてから、民全体に対して神のことばを取り継ぎました。2-13節の内容はイスラエル民族の歴史であり、神である主が彼らの歩みに力強く介入され、偉大なみわざを現されたことのあかしにほかなりません。「わたしは…した」という文章が繰り返されていることに心が留まります。そのように、主ご自身がすべてのことをなされ、イスラエルの民は、その主の御手の中で、守られ、導かれていったのです。彼らは、奴隷であったエジプトを脱出し、40年間の荒野の歩みを経て、ヨルダン川の東西の地に相続地を得、そこにある町々に住むようになりました。しかしそれらの町はイスラエルの民が建てたのではなく、先住民が築いていたものであり、そこにあったぶどう畑とオリーブ畑もまた、彼らが自分たちで地を耕して植えたものではなく、すべては主が備えてくださっていたのです(13節)。主のことばを語り終えたヨシュアは、民に命じました。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えよ」と。そしてヨシュアは、民が主を捨て偶像の神々に仕えるようになることの懸念を率直に告げ、「ただし、私と私の家は主に仕える」と宣言したのです(15節)。誠実と真実をもって主に仕える…。それは、常に主のまなざしを意識して歩む、ということです。他の人がどうであれ、自分と主との1対1の関係の中で、絶えず主の御声に聞き従い、みこころを行うものとなる、ということです。そして、そのことを主が喜ばれ、ともにおられ、敵の手から守り、荒野を約束の地へ導いてくださるという信仰を持ち、ただ主に拠り頼むということなのです。私たちも、ヨシュアのように「私と私の家は主に仕える」と告白し、そのことを全うする者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 22章21-34節◇(6月24日)

「祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。」…ヨシュア22:30

ルベン族、ガド族、マナセの半部族による「祭壇事件」の弁明が、21節以降に書かれています。それはいけにえをささげるためのものではない…。主に反逆するつもりは自分たちにはない…。ただ、将来、ギルアデの地にいる自分たちの子らに対して、あなたがたカナンの地にいる者たちの子らが、「あなたがたはイスラエルの神とは無関係で分け前は持っていない」と言わないようにするために、自分たちも同胞の民であることを「証拠」として残すべく築いたのが、その祭壇なのだ…と。それを聞いた祭司ピネハスと族長たちは安堵しました。祭壇が築かれたということを聞いた彼らは、最初それを、主への反逆という宗教的な問題、あるいは、ヨルダン川西側の部族への反逆という政治的な問題ととらえ、その動きを制圧することも考えていましたが、それは誤解だったのです。東側の部族が、幕屋の前にある主の祭壇のほかに、自分たちがいけにえをささげる祭壇を築くことは絶対にない、と明言したのを聞き、彼らや、その報告を聞いたイスラエルの民は満足したのです(30,33節)。しかしそのことは、主の心も満足させたのでしょうか…。申命記には、神が定めた場所以外でいけにえを勝手に献げないようにせよ、とあります(申12:13-14)。東側の部族は、そこではいけにえを献げることはないと弁解しましたが、それならなぜ「祭壇」としたのかが疑問です。彼らは告白しています。自分たちのために祭壇を築こうと考えた…と(26節)。そのように、本来、主のための祭壇が、自分たちのために、自分たちの考えで築かれたことは、主を満足させ、喜ばせたとは思えないのです。安心を確実なものとするために、人間的な考えで「祭壇」を築き、「証拠」を残そうとする…。それは、「不信仰」であって、神が喜ばれるあり方ではないのです。そのような過ちを犯さないように気をつけたいと思います。

目に見えるものにとらわれずに歩めますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 22章1-20節◇(6月23日)

「ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。」…ヨシュア22:10

ヨルダン川の東側に相続地を与えられた、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、残りの部族がヨルダン川の西側に相続地を得るためにヨルダン川を渡って行ったとき、彼らと合流して先住民と戦い、その勝利に貢献しました。その後、その相続地の割り当てが完了したため、ヨシュアは彼らの労をねぎらい、「主を愛し、そのすべての道に歩み…心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい」と命じ、祝福して、彼らの相続地へと送り出しました。すると彼らは、戻る途中、ヨルダン川のそばに大きな祭壇を築きましたが、それは、川の東側に住む自分たちが、将来、イスラエルの神、主とは無関係であり、主のうちに取り分がない…とされることを恐れ、後の世代が「証拠」とするためのものでした(27節)。しかしそれは、そのような人間的な思いから出たのであり、純粋に主のために築いた祭壇ではなかったのです。その祭壇のことを知った西側の部族は、それが主と自分たちへの反逆だと理解し、彼らと戦おうとして集結しました(12節)。その後、祭司ピネハスと各部族の族長からなる者たちが彼らのところに行き、かつて民が荒野で陥った偶像礼拝(民25:1-2)とアカンの罪(ヨシ7章)のことを挙げ、一部の背信が民全体に及ぼした影響を指摘しました。結局、彼らには反逆する意図がないことが明らかになり、同じ民族同士で戦う事態は免れることになりますが、東側の部族も同胞だということは、祭壇を築くようなことをしなくても、主ご自身が子孫たちに示されるのであって、彼らはその主に信頼すべきであったのです。また、そのことによって、東側の部族に対して誤解と不信感を与えることにならないか、事前に十分検討し、吟味すべきであったのです。私たちも、効率が求められる時代にあっても、すぐに行動に移すことなく、その前に十分検討し、謙遜さと慎重さを持ち、何よりも主からの御声をしっかりと聴いてから、事をなす者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 21章27-45節◇(6月22日)

「主は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。」…ヨシュア21:44

イスラエル12部族に対する相続地の割り当て、そして、レビ族の町々の割り当て作業が終わりました。「わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ」と、主はアブラハムに告げられましたが(創13:15)、その約束は確かに実現したのです(43,45節)。主は約束を決して破らない真実なお方なのです。しかしその約束の成就までには、アブラハム、イサク、ヤコブ、…そしてモーセ、ヨシュアと、世代を越えた長い年月を要しました。そして、その途中においてはエジプトでの奴隷生活、40年間の荒野の生活という試練がありました。イスラエルの民の歩みは、常に順風満帆…というわけにはいかなかったのです。そしてようやく約束の地に入った彼らでしたが、そこには、先住民の残りの者たちが残っていました。その存在が完全になくなったわけではなかったのです(ヨシ23:5)。しかし、その残党との戦いにおいても、イスラエルの民が主に信頼し続けるならば、変わらない主の約束は実現され、それに勝利することができるのであり、43-45節は、その意味での信仰告白として書かれているのです。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(ヘブ10:36)。カナンの地に入ってからも、なお戦いはなくならない…。しかし民が神のみこころを行い続けるならば、神はすべての敵を民に渡される…主が約束された良いことは、すべてそのとおりに実現する…。それが43-45節が伝えるメッセージです。そこで「すべて」と繰り返されていることに心が留まります。目に映る現実に心奪われず、神のことばに立ち続けるためには、信仰と忍耐が必要です。私たちも、真実な神にますます信頼し、忍耐をもって、神のみこころを行い続ける者でありたいと思います。

揺るがない信仰が与えられますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 21章1-26節◇(6月21日)

「イスラエルの子らは主の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。」…ヨシュア21:3

レビ部族のかしらたちは、主がモーセを通して告げられたとおり、自分たちの住む町々とその放牧地を他部族の相続地から割り当ててほしいと、ヨシュアや他部族のかしらたちに求めました。彼らには相続地がなく、主ご自身が彼らへのゆずりであったからです(ヨシ13:33)。彼らの所有地として実際に与えられた町々の名前は、11節以降に記されており、その数は全部で48ありますが、その中にはのがれの町も含まれていました。26節までにはそのうちのヘブロンとシェケムの2つしか出て来ませんが、27節以降に残りの4つの町が書かれています。レビ人に与えられたのは、その6つの町すべてであったのです。レビ人とは幕屋や神殿での礼拝の奉仕に携わる者たちで、中でもケハテ族の者たちは、祭司アロンの子孫として、神と人との間に立ち、民の罪をとりなす働きを担いました。残りのゲルション族やメラリ族の者たちも、神と祭司と人々に奉仕するために、神に選ばれていたのです。そのレビ族の所有地に、のがれの町すべてが含まれていた…。祭司として、また祭司を補佐する者として、礼拝において動物のいけにえをささげ、祈りをささげ、民の罪のためにとりなすということの意義について、彼らはあらためて神から深く教えられたはずです。また、その主が恵みとあわれみに富んだお方であり、どんなことがあっても決して見捨てず、見放さず、生かしてくださる主であるということを悟ったに違いないのです。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ロマ8:34)。大祭司なるキリストが私たちのためにとりなしておられる…。キリストに贖われた私たちも祭司とされている…(1ペテ2:9)。そのことの意義をあらためて覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 20章(6月20日)

「人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。」…ヨシュア20:4

「逃れの町」の町の設置については、主はすでにモーセに命じておられましたが(出21:13)、12部族への相続地の割り当ての完了後、ヨシュアはそれをあらためて命じられました。「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者が、恨みと殺意を抱いた遺族などの復讐から逃れるための町です。そのような人間の感情は自然なものですが、それがそのまま加害者にぶつけられないようにし、まずはその者が保護され、真実を明らかにするための裁きがなされるようにする、主の配慮があったのです。そこで、ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川の西側と東側にそれぞれ3つずつ、その町を定めました。どの部族の者も、さらには寄留者すなわち在留異国人も、それらのどれかの町に約1日あれば着けるよう、距離を考えて全体の中に分散させて配置したのです。では、自分たちの住む町がそのような場所に定められた、逃れの町の住民は、それをどう受けとめたのでしょうか…故意ではなく過失であったとは言え、人を殺した者を怖いと感じるのもまた、人間の自然な感情です。しかしその町の住民たちはその者を受け入れ、場所を与え、その者とともに住んだのです(4節)。いっしょに生活したのです。なぜなら、それが主のみこころであったからです。キリストは、ご自身の贖いによって旧約の律法を成就されました。そのキリストの血による新しい契約においては、人のすべての罪は赦されるのです。キリストの十字架こそ、私たちが逃れるべき場所であり、それは、すべての国の人々に開かれているのです。そして、そのキリストによって贖われた私たち、教会は、その逃れの町の住民とされているのです。感情に支配され、人をさばき、憎む者ではなく、愛とあわれみの心を持ち、他者を受け入れ、赦す者でありたいと思います(ルカ6:36-37)。

聖霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 19章24-51節(6月19日)

「ダン族の地域は彼らから失われたので、ダン族は上って行き、レシェムと戦った。彼らはそこを取り、剣の刃で討つと、これを占領してそこに住み、自分たちの先祖ダンの名にちなんでレシェムをダンと呼んだ。」…ヨシュア19:47

相続地が割り当てられていない残りの7部族のために、主の前でくじが引かれ、シメオン族、ゼブルン族…と、次々に相続地が決まっていきましたが、最後の7番目のくじが当たったのはダン部族です。彼らの相続地は、マナセの半部族、エフライム族、ベニヤミン族、そしてユダ族の相続地と境界線を接し、さらに西にある海にまで広がっている、エルサレムの西方に位置する地域でした。しかし彼らは、後に、そこからは遠く離れた地、イスラエルの民への割り当て地全体の北端に位置する、レシェム(ライシュ)という町に攻め上り、その先住民と戦って勝利し、そこをダンと名付けて住むようになりました(士18:27-29)。そうなったのはヨシュアの死後のことでしたが、それは彼らが、せっかく割り当てられた相続地を、アモリ人に奪われてしまったからです(士1:34)。他の部族も、相続地全体を奪われはしませんでしたが、先住民を完全には追い出すことができませんでした。(ユダ族:エブス人(15:63)、マナセ族:カナン人(17:12)等)。彼らは、荒野の歩みを経て相続地を得ても、「さあ、あとはのんびり暮そう…」とはならなかったのです。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(1ペテ5:8)。悪魔は、隙を見て攻め込み、私たちに与えられている相続地を奪おうと狙っています。それをむやみに恐れる必要はありません。なぜなら、主イエスはすでに死と悪魔に打ち勝たれたからです。しかし、私たちは油断してはならないのです。大したことはない…と甘く見ると、痛い目に会うのです。身を慎み、目を覚まし、神のすべての武具をしっかりと身に着けるべきなのです(エペ6:11-18)。恐れず、しかし油断せず、主にあって戦い続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 18章(6月17日)

「ヨシュアはイスラエルの子らに言った。『あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。』」…ヨシュア18:3

ヨシュアはシロに会見の天幕、すなわち幕屋を設けました。イスラエルにとって幕屋は主の臨在の象徴であり、エフライムの相続地にあるシロが政治的、宗教的な中心地となったのです。その後ヨシュアは、そのシロに集められていた民のうち、相続地がまだ割り当てられていなかった7部族に対して、主がすでに与えられた地を占領するのをいつまで延ばしているのか、と問いただしました。なぜ彼らがぐずぐずしていたのかは不明ですが、相続地を決めてもらうのを待っていたのかもしれません。しかし、相続地全体の境界線は決まっていたものの、その中をどのように7分割するのか、その境界線については、実際に彼らが出て行って決めるべきことだったのです。優柔不断な彼らに対してヨシュアは、部族ごとに3人の者を選んで相続地を行き巡らせ、割り当て地を書き記して報告するよう命じると、彼らは出て行き、そのとおりにして戻りました。するとその書かれたものを見たヨシュアは、自分がその割り当てを決めるのではなく、主の前でくじを引き、7つの部族の割り当てを決めたのです。12節以降にはベニヤミン部族の相続地が記されています。そこはユダ族とエフライム族の土地の間の場所でした。信仰とは最善をなされる主にすべてを委ねることです。しかしそれは私たちが何もしないことを意味しません。人間の側が果たすべき分が必ずあるのです。7つの部族はすでに主から与えられていた地を実際に占領すべく、7つの分割をどうするのかを遅滞なく決めるべきであったのです。しかし一方で、どこの土地をどの部族が相続するのか、その割り当てについては、彼らでもヨシュアでもなく、くじによって主ご自身に決めていただいたのです。自分がなすべきことをしっかりと果たしつつ、主の御旨がなるようにと主に委ね、その結果を最善のものとして受けとめる…。私たちもそのようでありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 17章◇(6月16日)

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」…ヨシュア17:18

ヨセフ族、つまりマナセとエフライムの部族は、ヨシュアに対して苦情を申し立てました。主が祝福されたので自分たちは数の多い民となった、それなのに割り当て地はただ一つなのか…と。エフライム部族には、16章に記されているとおり死海の北西部の丘陵地帯に、またマナセ部族には、そのエフライム部族の地の北に隣接して相続地が与えられていました。しかしそれらの土地には、平野だけでなく山地もあったことや、先住民であるカナン人が残っていることを理由にして、別の場所に追加の土地をもらいたいと、彼らはヨシュアに訴えたのです。それを聞いたヨシュアは、数の多い民であるのなら、自分たちで森に上って行って地を切り開くがよいと答えました。しかし彼らはそれに反論し、山地を切り開くには労力が要る…平地にいるカナン人たちは鉄の戦車を持っている…と、否定的なことを並べ立てたのです(16節)。思えば、カナンの地にモーセが斥候を遣わしたときも、ヨシュアとカレブの2人を除いた者たちは口をそろえ、その地に住む民は力強く、町々には城壁があるから、私たちはあの民のところに攻め上ることができない…と、同じように否定的な報告をしていました(民数13:28-31)。しかし主はヨシュアにこう言われました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから」(ヨシ1:9)。そしてヨシュアは、ヨセフ族の次世代の者たちに対して、たとえ山であっても、敵が鉄の戦車を持っていても、主がともにおられ、主が戦われ、主が勝利されるのだから、雄々しく戦って彼らを追い払え、と命じたのです。私たちも、「山」や「戦車」を恐れず、信仰をもって雄々しく戦い、敵が残っている地を主にあって勝ち取りたいと思います。

主に信頼して前進することができますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 16章◇(6月15日)

「ヨセフ族、マナセとエフライムは自分たちの相続地を受け継いだ。」…ヨシュア16:4

ユダ族に続き、ヨセフ族への相続地の割り当てが、16-17章に記されています。それは実際には、ヨセフの2人の息子であるエフライムとマナセの部族に対してなされました。つまり、ヤコブの12人の息子ではなく孫であるその2人の子孫が土地を所有することとなったのです。そしてそれは、2人がヤコブの子とされたからです(創48:5)。ヤコブは、彼らの頭の上に手を置いて祝福するとき、わざと手を交差させて、右手を置いた弟のエフライムに長子の祝福を与えました(創48:14)が、相続地の割り当てについても、まずそのエフライム族の土地が記されています。それは、死海の北西にある丘陵地帯で、そこには会見の天幕が建てられたシロの町が含まれていました。ヤコブの息子の長子はルベンでしたが、彼が父の寝床を汚したため、その長子の権利はヨセフに与えられました(1歴5:1)。ヤコブはヨセフに、「おまえの父の祝福は、…ヨセフの頭の上に、兄弟たちの中から選り抜かれた者の頭の頂にあるように」と告げ(創49:26)、彼に特別な祝福を与えたのです。そしてその祝福は、彼の子であるエフライムとマナセにも、相続地の割り当ての祝福として与えられたのです。兄たちに嫉妬され、井戸の中に投げ込まれ、身売りされ、理不尽な扱いを受けたヨセフ…。その後も彼はエジプトで濡れ衣を着せられましたが、それらの苦難は神の「選び」のゆえでした。神はヨセフを取り分け、聖別し、訓練し、豊かな祝福を与え、そしてその祝福が家族、イスラエル民族、さらにはエジプトや他国の人々に及ぶようにされたのです。それは神のご計画であったのです。私たちもまた、主に選ばれ任命されました(ヨハ15:16)。それは私たちが、この世から取り分けられ、聖別され、試練を通して造り変えられ、整えられ、豊かな実を結ぶためであり、父が栄光をお受けになるためです。また、神から受ける豊かな祝福を周囲に押し流すためなのです。そのような者とされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 15章48-63節(6月14日)

「エルサレムの住民エブス人を、ユダ族は追い払うことができなかった。エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んだ。今日もそうである。」…ヨシュア15:63

ユダ族の相続地の説明の続きです。48節以降には「ユダの山地」の町々(48-60節)、「ユダの荒野」の町々(61-62節)、そして北の境界線上にあるエルサレムの町(63節)について書かれています。そのエルサレムでは、先住民のエブス人をユダ族が追い払えなかったため、エブス人はユダ族とともにそこに住み続けることとなったのです。なぜヨシュアとイスラエルが彼らを追い払えなかったのか…その理由は書かれていません。エルサレムは山々に囲まれた天然の要害のような町であるため、それをうまく利用して、抗戦し続けたのかもしれません。それから約4百年が経ち、南ユダ国の王であったダビデは北イスラエル王国を統一し、それまでユダ国の首都であったヘブロンからエルサレムに移り、そこを全イスラエルの首都としましたが、その際にもエブス人たちは「目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる」と言って抵抗しました。しかし結局、彼らは討ち取られ、エルサレムは解放されたのです。神はしばしば、追い払えないものをあえて置かれたままにされます。それに対して私たちは、なぜ神はこれを取り除いてくれないのか…と不満に思ってしまいます。しかしそれは、私たちが自らの弱さを自覚し、へりくだり、主に拠り頼む者となるようにと、主が与えられたものなのです。パウロもこう言っています。「私は肉体に一つのとげを与えられました。…私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました」(2コリ12:7-9)。そして、すべての営みには神が定めた時があるのです(伝3:1)。エルサレムにエブス人が住み続けたのは、人間的に見れば不本意な、嘆かわしいことですが、それは神のご計画の中にあったことなのです。その主の主権を認め、ますますへりくだって歩む者でありたいと思います。

主の恵みに絶えず感謝することができますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 15章20-47節(6月13日)

「アシュドデと、それに属する町々と、その村々。ガザと、それに属する町々と、その村々。エジプト川に至るまで、大海とその沿岸。」…ヨシュア15:47

15章20節以降には、ユダ部族に割り当てられた相続地の中にある多くの町々の名前が挙げられています。それらは地域ごとにまとめられており、21-32節はネゲブ(南)の地、33-44節は「シェフェラ」(低い丘陵地帯)、45-47節は「ペリシテの野」(地中海沿岸)の地となっています。本来、ユダ部族の領地はさらに南のカデシュ・バルネアまでを含んでいましたが、その周辺は荒野のため、実際にはベエル・シェバ(28節)が最南端となっていました。その説明には「町とその村々」とあります。どこの国でもそうですが、町よりも小さく人口の少ない村々が数多く点在し、そこで人々が生活を営んでいたのです。主がアブラハムと結ばれた契約の祝福が、土地であり子孫(人々)であることをあらためて覚えます。聖書が記しているのは町の名前だけですが、主は、言うまでもなく、町や村で暮らす者たちの名をすべて知っておられ、その一人ひとりに天から御目を注いでおられるのです。私たちのことを「十把ひとからげ」に扱ったりはしないのです。また、それらの町や村は、何もない地から建て上げたわけではなく、そこにいた先住民を、ヨシュアとイスラエルの民が、主にあって追い払って得たものです。そのようにして主の民は、40年間の荒野の歩みを経て、ようやく約束の地であるカナンに入り、そこを占領し、主が相続地として与えてくださった場所に定住したのです。そして主は、彼らの父祖たちがエジプトの地で奴隷であったこと、そこから連れ出されたことを忘れず、ご自身を礼拝するようにと命じられたのです(申5:15)。ペリシテの野には、ペリシテ人たちの生き残りが住みついていました。ユダ族にとってそこは、なお占領すべき地であったのです。主に贖われた私たちにも、世において、また罪の性質を持つ自らにおいて、そのような領域があることを覚えます。主に感謝と礼拝をささげつつ、それらの地を主にあって勝ち取っていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 15章1-19節◇(6月12日)

「ヨシュアは自分への主の命により、エフンネの子カレブに、ユダ族の中でキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父である。」…ヨシュア15:11

15章以降には、カナンの地、すなわち占領したヨルダン川西側の領土の割り当てに関し、イスラエルの民のうち9部族とマナセの半部族に対して、ヨシュアが割り当てた地の位置とそこにある町の名が詳細に説明されています。またそこでは、それぞれの境界線を示すべく、線を結ぶための点となる町の名が具体的に書かれているのです。最初に記されているのはユダ部族の割当地です。その南の境界は死海(塩の海)の南端から西の地中海(大海)に至る線であり、北の境界は死海の北端からエルサレム(エブス)を通ってやはり地中海に至る線であり、東と西の境界線はそれぞれ死海と地中海となっていました。それらに囲まれた比較的広い土地が、最も人数の多いユダ部族のものとして与えられたのです。そのユダ族に属するエフンネの子カレブにヘブロンの町が与えられたことは、すでに14章で取り上げられていますが、13節に再度そのことが書かれています。そしてそこでは、ヨシュアが「自分への主の命により」それを行ったとあります(直訳:「主の口により」…脚注参照)。彼は、なんとなくではなく、自分の考えでもなく、主に尋ね、主の御声を聞き、その指示に従って決めたのです。また、諸氏族の土地の割り当ては、「くじ」を使ってなされました。くじと聞くといい加減なやり方のようにも思えますが、それもまた神が指定した方法でした(民26:56)。そこに神が介入され、主のみこころがなされると信じて、神が決められたその結果を受けとめたのです。相続地の割り当てという重要で責任を伴う作業…。それを人間的な思いや判断で進めるのではなく、信仰をもって主に尋ね求め、委ね、御声に従う…。ヨシュアとイスラエルの民が従ったそのあり方は、私たちや教会にとってももちろん大切なことです。主権者であられ最善をなされる主に信頼し、主のみこころに従いたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 13章15-33節◇(6月10日)

「レビ部族にはモーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおり、イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。」…ヨシュア13:33

13章の後半には、モーセによって割り当てられた、ヨルダン川東側の町々の名が記されています。それはルベン族、ガド族、マナセの半部族に対してそれぞれ与えられた町々であり、相続地です。そして、その文脈の中で、13章14節にも書かれていますが、レビ部族には相続地が与えられなかったことが記されているのです。なぜ彼らには相続地が与えられなかったのか…その理由も明らかにされています。それは、イスラエルの神、主ご自身、主への食物のささげ物が彼らのゆずりの分であったからです。レビ部族は、幕屋や神殿において、神への礼拝の奉仕をもっぱら担う者たちでした。そして彼らは、他の部族の町に住まわせてもらったのです。相続地とは土地であり、ゆずりの分とは生きていく上で必要なさまざまなものです。自分たちの土地があれば、作物を育てて自給自足の生活をすることができます。しかしレビ族は、他の部族とは同じようにはせず、主に養われたのです。主が彼らの必要を満たしてくださったのです。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(1ペテ2:9a)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちもまた、祭司、すなわちレビ族とされています。自らをきよく保ち、主に礼拝をささげ、民のためにとりなす務めを持つ者なのです。そして、その私たちのゆずりの分もまた、主ご自身であり、主が私たちのすべての必要を満たしてくださるのです。「主は私への割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます」(詩16:5)。詩人もそのように告白しました。私たちは他の部族をうらやみ、相続地を探し回る必要はないのです。主が私たちに必要なものを必ず与えてくださるからです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタ6:33)。主が私たちの「ゆずり」であることを、しっかりと覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 13章1-14節◇(6月9日)

「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。『あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。』」…ヨシュア13:1

ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。彼は百十歳まで生きましたから(24:29)、すでに百歳に近かったと思われます。そのヨシュアに対して主は言われたのです。「占領すべき地は非常にたくさん残っている」と。彼は、モーセの後継者としてイスラエルの民を導き、カナンの先住民たちと勇敢に戦ってきましたが、主は、「よくやった、もう休んでよい…」とは言われなかったのです。主は、なお占領すべき地として、真っ先に「ペリシテ人の全地域」を挙げられました。ペリシテ人は地中海沿岸の海の道を占拠しており、ガザ、アシュドデ、アシュケロン、ガテ、エクロンにはそれぞれ領主がいてその地を支配し、強力な都市を形成していたのです。また、北方のレバノンの地域に住むシドン人や、イスラエルの民が追い払わなかった、ヨルダン川東側の地域に住むゲシュル人とマアカ人も残っていたのです。しかしそのような中、主はヨシュアに、カナンの地をイスラエルの9部族とマナセの半部族に相続地として割り当てるように命じられました(7節)。それは、そのようなまだ残っている先住民たちを、主ご自身がイスラエルの子らの前から追い払われるからです。もちろんイスラエルの民は、剣を取って実際に彼らと戦わなければなりませんが、主はそのように約束してくださったのです(6節)。占領すべき地は残っている…。私たちはキリストにあって罪赦されました。しかし罪の性質があとかたもなく消えたわけではないのです。パウロは、自分のしたくないことをしてしまうのはうちに住む罪だと告白しましたが(ロマ7:20)、私たちは日々、その罪からくるものを、御霊によってきよめられる必要があるのです。「主よ、私のすべての領域を支配してください…罪からくるものを聖絶してください…」と、残りの敵を追い払ってくださる主に、そのように祈り求める者でありたいと思います。

主の守りがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 12章◇(6月8日)

「主のしもべモーセとイスラエルの子らは、彼らを討った。主のしもべモーセはルベン人とガド人と、マナセの半部族に、その地を所有地として与えた。」…ヨシュア12:6

ヨシュア記12章には、イスラエルの民が、神が約束された地であるカナンの先住民と戦って勝利し、その地を占領したことが要約されています。またそこには、ヨシュアと民による戦いだけでなく、モーセと民が打ち破った、アモリ人の王シホンとバシャンの王オグの名も挙げられています。その戦いでも「一人の生存者も残さなかった」と書かれています(民21:35)。彼らは聖絶せよとの主の命令に忠実に従い、徹底的に敵を討ったのです。彼らは、東アラバと呼ばれるヨルダン川の東側を征服しました。7節以降には、ヨシュアに率いられた民が討ち取った、ヨルダン川の西側の町々の王が記されています。名前は省かれていますが、それは31人にも及んだのです。しかし、そこに至るまでには数々の試練がありました。彼らはヨルダン川を渡らなければならなくなり(3章)、エリコの町では堅固な城壁が立ちはだかり(6章)、アイとの最初の戦いでは敗北してしまいました(7章)。しかしそのつど主は、川の中に立たなければならない…町のまわりを回ってときの声をあげよ…伏兵を置いて攻め上れ…と、具体的にどうすべきかを指示し、ヨシュアと民はその命令に忠実に従ったのです。そして主がともにおられ、偉大なみわざが現わされる中、彼らは試練をくぐり抜け、敵との戦いに勝利することができたのです。モーセは、カナン全土の征服を見ることはできませんでした。しかし彼は、自分がなすべき分を忠実に果たし終え、ヨシュアという次の世代にたすきを渡したのです。私たちもまた、キリストに率いられた神の民であって、神の国の建設の働きは今もなお続けられているのです。征服すべき地は、私たちの前になお残っているのです。私たちもさまざまな試練に会いますが、ひるむことなく、主に尋ね求め、導きに聞き従って勇敢に行動し、主がなされるしるしと不思議を日々体験しつつ、自らの分を忠実に果たしていきたいと思います。

主が力を与えてくださいますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 11章◇(6月7日)

「主は彼らをイスラエルの手に渡された。イスラエルは彼らを討ち、大シドンおよびミスレフォト・マイムまで、東の方ではミツパの谷まで彼らを追い、一人も残さず討った。」…ヨシュア11:8

ヨシュアと全イスラエルは、カナンの地の町々への攻略を続けました。10章には、カナンの南部の町々との戦いが記されていますが、11章に書かれているのは、北部の町々との戦いです。ガリラヤ湖の北にあるハツォルの王は、南部でのイスラエルの勝利を耳にして彼らを恐れ、周辺の町々の王と盟約を結び、その全陣営はイスラエルと戦うべくヘルモン山麓のメロムに集結しました。それは大勢で、馬や戦車も非常に多かったとあります(4節)。主は「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ」と言われ(6節)、そのとおりに敵をイスラエルの手に渡されたので、ヨシュアたちは彼らを討ち、またハツォルを攻め取り、すべてのものを聖絶して火で焼きました。こうしてカナン北部の戦いにおいても、主が勝利を与えられたので、ヨシュアとイスラエルは、その地をことごとく奪い取ることができたのです。主はヨシュアに、「彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼け」と命じられました(6節)が、それは、敵から奪ったそれらのものを自分たちの戦力に加えるな、ということです。そしてそれは、主が戦われ、主が勝利をもたらされるので、イスラエルがただその主ご自身に拠り頼むようにするためであり、彼らが、人間的な、目に見えるものを誇りとしないようにするためだったのです。「ある者は戦車に ある者は馬に拠り頼む。しかし私たちは 私たちの神 主の御名に拠り頼む」(詩20:7,脚注の別訳)。私たちにとっての馬や戦車とは何か…。それはお金であったり、社会的な地位であるかもしれません。しかし主が命じられたように、詩人が告白するように、私たちが求め、誇り、拠り頼むべきものとは主ご自身なのです。それが、神の民に求められる生き方なのです。ますます主の御名に拠り頼む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。 

◇聖書箇所:ヨシュア記 10章28-43節◇(6月6日)

「主はラキシュをイスラエルの手に渡された。ヨシュアは二日目にそれを攻め取り、その町と、そこにいたすべての者を剣の刃で討った。すべて彼がリブナにしたとおりであった。」…ヨシュア10:32

ヨシュアは全イスラエルとともに、カナンにある町々を次々に攻め取っていきました。マケダ、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビル…。「破竹の勢い」ということばがありますが、まさにそれは、それらの町々の誰にも止めることのできない快進撃であったのです。「~にしたように~にした」、「彼が~にしたとおりであった」という表現が繰り返されていますが(28,30,32,35,37,39節)、それはつまり、ヨシュアとイスラエルの民が、戦いの連続の中にあっても、態度をまったく変えずに、主から命じられたことを忠実に行い続けた、ということです。少しぐらい手を抜いても…、ちょっとは休みたい…などと考えたりはしなかったということです。また、「主は~をイスラエルの手に渡された」(30,32節)、「主がイスラエルのために戦われた」(42節)ということばにも心が留まります。ダビデはペリシテ人である強敵ゴリヤテに対して、「この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される」と告げ、石投げと石一つで彼に勝利しましたが、ヨシュアと全イスラエルがカナンの町々を攻め取った戦いは、彼らの父祖たちに対して、カナンの地を与えると言われた主が、その約束を成就するために、自ら戦われたものであったのです。しかしだからといって、ヨシュアとイスラエルの民は、主が与えてくださる勝利を、何もしないでただ待っていたわけではありません。主が命じられたみこころを、主に信頼し、恐れずに、雄々しくあって、剣を手に持って敵に立ち向かっていく、その中に主がおられ、戦いに勝利させてくださった、ということなのです。私たちもまた、さまざまな戦いの中に置かれますが、倒れて敗北してしまうことは主のみこころではありません。主がその戦いに勝利させてくださるのです。「この戦いは主の戦いだ」と宣言し、恐れずに立ち向かいたいと思います。

主への信仰が増し加えられますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 10章1-27節◇(6月5日)

「主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。」…ヨシュア10:14

エルサレムの王アドニ・ツェデクは、イスラエルと和を講じたギブオンの住民を討つために、周辺の町の王に呼び掛けて同盟を結びました。その彼らがギブオンに攻め込んでくると、そこの住民たちは盟約関係にあったイスラエルに助けを求めたので、ヨシュアはそれに応じ、戦うべく兵を率いてギルガルから上っていきました。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ」という主のことばに励まされたヨシュアたちは、夜通し歩いてギブオンに到着し、奇襲を掛けて敵の同盟軍と戦いました。すると、主はご自身の約束どおりにみわざをなし、「主は彼らをイスラエルの前でかき乱され…」(10節)、「主が天から彼らの上に、大きな石を…降らせられ…」(11節)、「主がアモリ人をイスラエルの子らに渡された」(12節)ので、その戦いはイスラエルの大勝利となったのです。「主は…主が…」と繰り返され、主ご自身が戦われたことが強調されています。同盟軍の5人の王たちは逃げて洞穴に隠れましたが、その後、そこから引き出されてヨシュアの元に連れて来られました。すると、ヨシュアは彼らの首を踏みつけるよう、戦った兵士のリーダーたちに命じて行わせました。それは残酷なことのようにも思えますが、聖絶することが主のみこころだと知っていたヨシュアは、中途半端なことをせず、最後まで手を抜かずにそのようにしたのです。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に主がこのようにされる」(25節)。勝負がついた戦いの後の、このヨシュアのことばもまた、聖絶することに対して躊躇するな、徹底的に排除せよ、ということを意味しています。そして、主に喜ばれないものを自らのうちから取り除くことが、戦いにおいていかに重要であるか、そのような者に主が勝利を与えてくださる、ということもまた教えられます。自分自身はどうかと吟味したいと思います。

主のみこころを行うことができますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 8章18-35節◇(6月3日)

「その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。」…ヨシュア記8:34

主から命じられたとおり、アイの町の西側に伏兵を配置したヨシュアは、町の人々が北から攻め入った本部隊を追い掛けて町を離れるよう、うまくおびき出しました。すると主は彼に、「あなたの手にある投げ槍をアイの方に伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから」と言われ(18節)、ヨシュアはその指示に従いました。そのとき、潜んでいた伏兵が一斉に立ち上がって走り、町を難なく攻め取って火を放つと、その煙が町から立ち上りました。本部隊を追い掛けていた人々が振り返ってそれを見たとき、自分たちが罠に掛かったことにようやく気づきました。しかし時すでに遅く、彼らは挟み撃ちにあって逃げ場を失い、全イスラエルの剣の刃で討たれ、生き残った者は一人もいなかったのです。その勝利の戦いの後、ヨシュアはエバル山に、主のために一つの祭壇を築きましたが、それは、主がモーセを通してイスラエルの民にかつて命じられたとおり、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であり、その上で、神への全焼のささげ者と交わりのいけにえを献げたのです。また、主のみおしえのすべてのことばを、石灰を塗った石に書き記し、それを民の前で読み上げたのです。その際、民の半分はゲリジム山の前に、残りの半分はエバル山の前に立ちましたが、それもまた、主がモーセに命じられたことでした(申27:12-13)。ゲリジム山は主が与える祝福を、エバル山は主ののろいを表わしており、みおしえの書のことばに聞き従って祝福を受けるか、それともそうせずにのろいを受けるか、どちらの道を選ぶのか…と、一人ひとりに選択を迫るものだったのです。アイの町が聖絶されたのを目にして、イスラエルの民はあらためて主を畏れ、祝福を願ったに違いありません。私たちもまた、自分が好む耳障りのよいことばだけでなく、与えられているすべてのみことばを受け取り、それに聞き従い、祝福を願い求める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 8章1-17節◇(6月2日)

「主はヨシュアに言われた。『恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。」…ヨシュア8:1

主はヨシュアに、アイの町に再び攻め上れと命じられました。そして、エリコのときと同じように、「あなたの手に与えた」と言われ、すでに成し遂げられたこととして、その勝利を約束されました。さらに、その戦いの方法について、「町の裏手に伏兵を置け」と、具体的な指示をヨシュアに与えられたのです(2節)。そこでヨシュアは、その戦いのための勇士たちを選び、夜のうちに派遣しました。その数は、前回の敗北のときの10倍にあたる3万人でした。ヨシュアは彼らに、町の裏手に伏兵を置き、他の者たちが町に近づいてアイの人々をおびき出し、彼らが町を離れている隙に伏兵が町を占領して火を放つという作戦を説明し、さらに「主がその町をあなたがたの手に渡される」と告げたのです(7節)。なぜ1回目の攻撃では敗北してしまったのか…。それはヨシュアが、2,3千人もいれば十分だとの偵察隊のことばを信じ、その提案を鵜呑みにして受け入れたからです。それで良いのかの判断を主に尋ね求めなかったからです。また、エリコの勝利における自分たちの力を過信し、アイの町を破るのは容易だとたかをくくったからです。そのように、ヨシュアと民に高ぶりがあったからなのです。しかし、その失敗を通してヨシュアは砕かれ、主の前にへりくだる者とされました。そしてそのヨシュアに対して主は、恐れるな、おののくな、立ってアイに攻め上れ、と言われたのです。王と民と町をあなたの手に与えた、と約束してくださったのです。そればかりか、伏兵を置くようにせよと、その戦い方の指示までされたのです。私たちもまた、人のことばだけで動くようなことをせず、主の前に静まって祈り、みこころを尋ね求め、主の御声を聞いてから行動すべきなのです。そしてそのようにするならば、主ご自身がすべてを導かれ、そこに御力を現わしてくださるのです。そのことを覚えたいと思います。

知恵と導きが主から与えられますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 7章◇(6月1日)

「しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。」…ヨシュア7:1

エリコの町を征服したヨシュアとイスラエルの民は、さらにその西にあるアイの町を攻め取るべく、3千人という少ない者たちをそこに送りました。それは、偵察の結果、難なくそこを討てると考えたからです。ところが、彼らは戦いに敗北して逃げ出してしまいました。想定外の結果に民は意気消沈し、ヨシュアは地にひれ伏し、なぜヨルダン川を渡らせたのか、御名のためになにをされるのか…と、否定的な思いを主にぶつけたのです。すると主は、立てとヨシュアに命じ、民の中に、エリコの町で盗んだ聖別すべきものを隠し持っている者がいる、だから民は敵の前に背を向けたのだ、と告げられました。そしてくじで取り分けるという方法により、その犯人であるアカンが特定されると、彼は、外套と銀と金を確かに盗んで隠し持っている、と告白しました。そこで、ヨシュアと全イスラエルは、それらのものと彼と彼に属するものすべてをアコルの谷に運んで、聖絶したのです。「イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った」と1節にあります。アカンの罪は、直接的には、聖絶せよという主の命令を破ったことですが、それは、イスラエルの民全体に対する神の期待と信頼を裏切る行為であり、それゆえに神が失望し、怒られ、アイでの戦いが敗北するようにされた、ということなのです。信仰とは人が全能者なる神に信頼することですが、神もまた、ご自身の民を信頼しておられるということに心が留まります。イスラエルの歴史は、神のその信頼を裏切ることの連続ですが、それでもなお神は、彼らへの愛とあわれみと忍耐をもって、真実に関わり続けておられるのです。そしてそれは、神の民とされた私たちに対しても同じなのです。主の信頼を裏切っていないか、聖別すべきものを握っていないか、自己吟味したいと思います。

主にすべてを明け渡すことができますように。