◇聖書箇所:詩篇 4篇◇(2月28日)

「平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。 主よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます。」…詩篇4:8

「追いつめられたとき」と1節にあります。詩人は、自分のいのちを狙う敵に追われ、死を覚悟するような目に何度も遭っていました。しかし義なる神は、悪しき者が、ご自身のみこころに逆らって行動することを放置せず、みこころに従う正しい者を御手の中で守り、支え、助けてくださるのです。詩人は、その主を呼び求め、救い出され、身も心も解き放たれる経験をしていたのです。しかし「多くの者」、すなわち神を認めず、その主権に自らを明け渡さず、あくまでも自分の知恵と力によって豊かさを求める人々は、苦難の中に置かれて追いつめられると、恐れ、おののき、「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」…と言って嘆くのです(6節)。そのように、神を認めない者たちにとっては、穀物とぶどう酒が豊かにあっても、真の喜びに満たされることはないのです。しかし、主に拠り頼み、主を待ち望む聖徒たちにとっては、たとえ試練の中に置かれていても、主の御顔の光に照らされ、目に見える現実の向こうに備えられている勝利と祝福を霊の目で見ることができ、その心は恐れではなく、平安と喜びで満たされるのです。「あなたの重荷を主に委ねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない」(詩55:22)。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。私たちが願う人生…それは、苦難のない日々を、平穏無事に過ごして終えるというものではありません。この詩篇の作者が体験したように、一難去ってまた一難、波瀾万丈の歩みであっても、主から与えられる平安のうちに、感謝と喜びをもって生きることなのです。そしてそのただ中に現わされる神のみわざと御力を覚え、神をあがめ、主に栄光を帰すことなのです。心が騒ぐことに直面しても、慌てず、主に信頼し、祈り、主を待ち望む者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:創世記 25章19-34節◇(2月27日)

「エサウは、『見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう』と言った。」…創世記25:32

アブラハムは生涯を全うし、息子イサクもリベカを妻に迎えてから20年近くが経っていましたが、彼らには子どもが与えられませんでした。そこでイサクが主に祈るとその祈りは聞かれ、リベカは双子の男の子を産みました。兄の名はエサウ、弟の名はヤコブと名付けられましたが、それは、ヤコブが出てくるとき、エサウのかかとをつかんでいたからです(ヤコブ=「かかとをつかむ者」の意)。二人の子どもは成長し、兄エサウは、巧みな狩人として獲物を得るべく野を駆け回っていましたが、弟のヤコブは、兄とは対照的に穏やかで内向的な性格で、いつも天幕の中で過ごしていました。そして、その二人に対し、両親は異なる思いを持っていました。猟の獲物を好む父イサクはエサウを愛し、そうでない母リベカはヤコブを愛するという、歪んだ愛情をそれぞれ注いでいたのです。ある日、エサウが野から帰って来ると、ちょうどそのとき、ヤコブが煮物を作っていました。そこで、疲れ切っていたエサウがそれを食べたいと言うと、ヤコブは、それと引換えに長子の権利を売るようにと迫ったのです。するとエサウは、そのときは、目の前の煮物を食べることのほうが、自分にとってはるかに意味あることに思えたので、弟のその申し出をあっさりと受け入れました。長子の権利は決して小さなものではありません。それは、財産などの2倍の相続権であり、家長の霊的権威を受け継ぐことでもあって、神がもたらされる祝福なのです。しかしエサウはそれを軽んじました。煮物を食べて空腹を満たすという、肉的な欲求、目の前の必要にとらわれ、それを長子の権利よりも優先させ、刹那的に行動してしまったのです。そして、そのように長子の権利を「侮った」(34節)エサウは、神の祝福を失うことになってしまうのです。私たちはどうでしょうか…。目の前の必要が満たされることを願って、そのための思いや時間や労力を優先させ、神を求めることを後回しにしないよう、主からの祝福を失わないようにしたいと思います。

何を優先すべきかを判断することができますように。

◇聖書箇所:創世記 24章50-67節◇(2月25日)

「彼らはリベカを呼び寄せて、『この人と一緒に行くか』と尋ねた。すると彼女は『はい、行きます』と答えた。」…創世記24:58

リベカをアブラハムの息子イサクの妻として送り出すことへの同意を、アブラハムのしもべから求められた彼女の兄ラバンと父ベトエルは、事の次第を聞き、そこに主が介入しておられることを認めると、自分たちはそのことの良し悪しを言うことなどできない、リベカをどうぞお連れください…と答えました。するとしもべは、そのことばを聞くやいなや、二人へのお礼を言うよりもまず、主を畏れ、地にひれ伏し、感謝と喜びをもって主に礼拝をささげました。そして、リベカを無事に主人とイサクの元に連れ帰り、自らの使命を完了すべく、すぐに出発したいとラバンとベトエルに伝えると、リベカとの別れを惜しむ兄と母は、もう10日間ほど待ってもらえないだろうかと言ったのです。そこでしもべが、そのような猶予はないと告げると、家族はリベカに、彼女自身の意志を尋ねました。すると彼女は、ためらうことなく、「はい、行きます」ときっぱり答え、すぐに出発することを承諾したのです。そこで家族は、リベカの祝福を祈って彼女を送り出しました。リベカにとって、愛する家族と離れ、見知らぬ地に行くのは、勇気のいることであったでしょう。おそらく家族とは、もう一生会えなくなるのです。しかし、彼女もまた、一連の事の中に主の確かな導きを感じ、そして、自分が主に選ばれ、召し出された者であると、受けとめていたに違いありません。だからこそ彼女は、この人と一緒にいくか、と家族から問われると、「はい、行きます」と即座に答え、しもべの後について行ったのです。主に贖われ、召し出された私たちもまた、このことが主から出たものであるかどうかと吟味し、そうであると認めたなら、主の導きに対して「はい」と従順に従い、速やかに行動を開始する者でありたいと思います。

主の主権を認めることができますように。

◇聖書箇所:創世記 24章28-49節◇(2月24日)

「次のようなときは、あなたは私との誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行ったときに、もし彼らがあなたに娘を与えないなら、そのとき、あなたは私との誓いから解かれる。」…創世記24:41

アブラハムのしもべと出会ったリベカは、走って家に帰り、自分の身に起こったことを家の者に告げました。すると、それを聞いた彼女の兄ラバンは、急いで泉のところに走って行ってその人に会い、家に迎え入れてもてなし、食事を提供しました。しかし、そのしもべは、それにすぐに手をつけようとはせず、話したい重大な用件があると言って、そのことを切り出したのです。しもべが話したそのことばは34~49節に書かれてあり、それは、すでに起こったことの彼の口による要約ですが、その中に注目すべきことばがあります。彼は、主人であるアブラハムがこう言ったと告げたのです。「私は主の前に歩んできた。その主が御使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。…」(40節)。アブラハムは、自分の全財産の管理を任せていたそのしもべに全幅の信頼を置き、息子イサクの妻を迎えるために、彼を自分の親族がいるところへ送り出しましたが、その際に、主が御使いを遣わして彼を守り導いてくださるように、その旅を成功させてくださるようにと祈り、かつ、もし親族が娘を与えようとしないなら、彼の特別な使命はその時点で終了すると告げていたのです(41節)。もちろんしもべ自身も、現地に着き、すぐに主に祈りましたが、そこで起こった主の奇しい導きと、彼の祈りへの即座の答えは、そのような背後のアブラハムのとりなしのゆえでもあったのです。そしてアブラハムは、自分の思いに固執することなく、主権者なる主のみこころがなるようにと委ねていたのです。あらためて、彼の信仰の深さを思わされます。自分が出て行って最前線で労する者とされても、また残って背後で祈りとりなす者であっても、どちらの立場に置かれたとしても、主に信頼し、その働きを忠実になす者でありたいと思います。

主のみこころがなりますように。

◇聖書箇所:創世記 24章1-27節◇(2月23日)

「彼は夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来るころ、町の外の井戸のそばにらくだを伏させた。そうして言った。『私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。』」…創世記24:11-12

アブラハムは、自分の財産管理を任せている最年長のしもべに対し、自分の国の親族のところに行き、息子イサクの妻となる娘を見つけて、連れ帰るよう命じました。それはイサクの妻がカナン人の娘となることを避けるためでしたが、アブラハムは、ふさわしい娘が自分の国で見つかっても、イサクがそこに移り住むことは認めませんでした。主が与えたのはカナンの地だったからです。重要な使命を帯びたそのしもべは、主人の10頭のらくだを連れて長い道のりを進み、アラム・ナハライムの、アブラハムの兄弟ナホルの町に着きました。するとそのしもべは、町の外の井戸のそばにらくだを伏させ、次のように主に祈ったのです。この泉に水を汲みに来る娘に、水を飲ませてほしいと願ったとき、それに応え、さらにらくだにも飲ませましょうと言う者こそ、イサクの妻として迎えるべき人です、どうぞ、取り計らい、その娘を与え、主人に恵みを施してください…と。その祈りのことばを言い終わらないうちに、ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘リベカが水を汲みにやって来ました。そこでしもべが彼女に水を求めると、なんと彼女は、まさに祈ったとおりに、しもべに水を飲ませ、らくだにも飲ませましょうと自ら申し出たのです。その様子を黙ってじっと見ていたしもべは、彼女こそイサクの妻として迎えるのにふさわしい人だと、確信しました。そのしもべは、大切な任務を進めるにあたり、まず主に祈り、主の導きを求めました。そしてその祈りがただちに聞かれたことに驚きつつ、彼は主の前にひざまずき、主をあがめて礼拝したのです(26,27節)。私たちもまた、主の働きを担う者ですが、ますます主のまえにへりくだり、主の介入と導きを祈り求め、主のみわざの現れを待ち望みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 23章◇(2月22日)

「アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れた。アブラハムはエフロンに、彼がヒッタイト人たちの聞いているところでつけた価の銀を支払った。それは商人の間で通用する銀四百シェケルであった。」…創世記23:16

アブラハムの妻サラは、ヘブロンの地で、127歳の地上の生涯を終えました。アブラハムはその死を悼んで泣き、その後、彼女の亡きがらを墓に葬るために、ヘブロンに住むヒッタイト人たちに、私有の墓地を譲渡してほしいと申し出ました。すると彼らは、自分たちの最上の墓地にぜひ葬ってほしいと、アブラハムに答えたのです。それを聞いたアブラハムは、立って彼らに謝意を表し、その上で、具体的な希望の場所として、エフロンという者が所有している、マクペラの洞穴を譲ってほしいと願い出ました。すると、その場にいたエフロンは無償での譲渡を申し出ましたが、アブラハムは有償での取り引きにこだわり、結局、エフロンから提示された、銀4百シェケル(約4.5㎏)という、かなりの高額での購入を決断して買い取り、そこにサラを葬ったのです。なぜアブラハムは、無償で墓地を譲り受けることを固辞し、また、エフロンからふっかけられたとも言える、銀4百シェケルという高額な言い値に対し、値切り交渉も一切せずに取り引きに応じたのでしょうか…。おそらくそれは、彼が、エフロンを初めヒッタイト人たちに借りを作りたくなかったからであり、彼らと対等な立場を確保したかったからです。その土地の所有権を確実に自分のものとし、それを後の子孫の代にまでも受け継ぐようにするためであったのです。そしてそれは、カナンの地を与える、と約束された主のことばを、彼が常に心に留めていたということを示唆しているのです。ヒッタイト人たちが示した人間的な好意を安易に受け入れず、土地の所有権を確かなものとするために、犠牲を払って畑地と墓地を取得したアブラハム…。そのこだわりに、神の御旨に断固として従い、神のご計画がなされようにと願う、彼の思いを見ることができます。私たちも、そのような者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 22章◇(2月21日)

「アブラハムは答えた。『わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。』こうして二人は一緒に進んで行った。」…創世記22:8

アブラハムに大きな試練がやって来ました。なんと彼は、息子イサクを山の上で全焼のささげ物として献げよと、神から命じられたのです。それを聞いたアブラハムは、驚き、悩み、苦しんだことでしょう。ようやく与えられた大切なひとり子を献げるなんて…と。しかし彼は、その理由を神に問いただすことはしませんでした。神のことばに聞き従い、翌朝早くイサクを連れ、二人の若者とともに、神に指示されたモリヤの地へと向ったのです。3日後にその場所に近づくと、アブラハムは若者を残し、そこからは、イサクと二人だけで山の上へ進みました。イサクにはささげ物を燃やすための薪を背負わせ、自分は火と刃物を手に取って。その途中、イサクから、ささげ物の羊はどこにいるかと尋ねられましたが、彼は、それは神ご自身が備えてくださるのだ、と答えたのです。二人は山の上に着きました。そして祭壇を築き、アブラハムが、イサクを縛って並べた薪の上に載せ、刃物を取って息子を屠ろうとしたまさにその瞬間、その子に手を下してはならない…あなたは自分のひとり子さえ惜しむことがなかったと、御使いを通して神から言われたのです。そこでアブラハムは、角を藪に引っかけていた一匹の雄羊を取り、イサクの代わりにそれを献げました。アブラハムの試練…それは神が意図して与えられたチャレンジ、信仰のテストでした。そして彼は、それに合格したのです。神は確かに、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」とアブラハムに告げられました(21:12)。そして彼は、そのことばをしっかりと握り、神は必ず、ご自身の約束を成就されると堅く信じたのです。「神はアブラハムに『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました』」(ヘブ11:18,19)。主の山には備えがあるのです。そのことを信じ、主のことばに従順に聞き従いたいと思います。

恐れずに進むことができますように。

◇聖書箇所:創世記 21章22-34節◇(2月20日)

「アブラハムは言った。『私がこの井戸を掘ったという証拠になるように、七匹の雌の子羊を私の手から受け取ってください。』」…創世記21:30

21章の後半にはゲラルの王アビメレクが再び登場し、彼とアブラハムの間に結ばれた契約のことが記されています。王は、あなたが何をしても神はあなたとともにおられる、とアブラハムに告げ、自分たちを裏切ることなく誠意を示すことを神によって誓ってほしいと、アブラハムに求めました。するとアブラハムは、「私は誓います」と、素直にアビメレクの要求に応じました。すると、今度はアブラハムが、彼が所有する井戸をアビメレクのしもべたちが奪い取ったことを、王に抗議しました。するとアビメレクは、そのことは知らなかったと言いつつ、自分の部下の非を認めて謝罪したため、アブラハムはそれを受け入れ、羊と牛を彼に与え、王との間に契約を結びました。その後、アブラハムは奇妙な行動に出ました。彼は、王に与えた羊の群れの中から、7匹の雌の子羊を事前に取り分けていましたが、自分がこの井戸を掘ったという証拠とするために、その7頭の雌の小羊を受け取ってほしいと、アビメレクに求めたのです。王はそれを了承し、二人はあらためて誓いを交わし、その場所はベエル・シェバと呼ばれました。「ベエル」は「井戸」、「シェバ」は数字の「7」を意味します。また「誓い」は「シャバ」で、「シェバ」と同じ語根を持っています。ですから、「ベエル・シェバ」は、「完全な誓い(=契約)の井戸」(7は完全を表わす数)という意味の地となったのです。そのベエル・シェバは、ハガルとその子イシュマエルが荒野をさまよい、水が尽きて彼女が死を覚悟したとき、神が井戸へと導き、いのちを得させた場所でもありました(21:14-19)。そのように主は、荒野においていのちの水、救いを与え、争いの中に和解、平和をもたらし、深い恵みとあわれみをもって、それぞれを顧みてくださるのです。私たちとも、いつもともにいてくださるお方なのです。そのことを覚え、感謝したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 20章◇(2月18日)

「今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。…」…創世記20:7

アブラハムはロトと別れ、ネゲブ地方に移り、ゲラルに寄留していましたが、妻サラを妹だとまた偽ったため、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れました。するとその夜、神が夢の中で彼に現れて、彼女は夫のある身であり、あなたは彼女のゆえに死ぬと告げられたのです。驚いたアビメレクは、嘘をついていた二人に自分は騙されたのであり、自分自身は全き心と汚れのない手でこのことをした…と神に弁明しました。すると神は、そのとおりだ、だからわたしは、あなたが彼女に触れないようにし、罪を犯さないように守った、と言われたのです。虚偽の申し立ての理由を王から問われたアブラハムは、神を畏れない人々が妻のゆえに自分を殺すと思った…サラは異母兄弟であって、全くの嘘ではない、と弁明しました。それは詭弁であるようにも思えますが、そのことを責める神のことばは書かれていません。むしろ神は、アビメレクを通し、家畜の群れ、奴隷、領地をアブラハムに与え、王はサラに、銀千枚をあなたの兄に与える、これはあなたを守るものとなろう、あなたはすべての人の前で正しいとされるだろう、と告げ、さらに神は、アビメレクに対し、アブラハムは預言者である、彼に祈ってもらっていのちを得なさい、とさえ言われたのです。神は、ゲラルに寄留していたアブラハムを祝福し、サラを守られました。次章には、彼女の出産のことが記されていますが、その主の御手の中で二人の歩みが導かれ、助け手が与えられ、必要が満たされていったこと、ゲラルの王に対して、まことの神がおられることが証しされたことを、ここに見ることができます。そして、神のご計画は奇しく、主の道と思いは私たちのそれよりもはるかに高く、測り知ることができないことを、あらためて教えられるのです。私たちもまた、ますます主に信頼し、主の導きを尋ね求め、歩みを進めていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 19章23-38節◇(2月17日)

「神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。」…創世記19:29

ソドムとゴモラの町は、主によってついに滅ぼされました。ロトたちがツォアルの町に逃げ込むと、主が硫黄と火を天から降らせられたので、それらの町に住んでいた民はみな死に絶えたのです。また、逃げるときにはうしろを振り返ってはいけないという、御使いのことばに従わなかったロトの妻は、塩の柱になってしまいました。その翌朝、アブラハムが、かつて立ったことがある場所から、ソドムの町がある低地の方を見下ろすと、まるでかまどの煙のように、焼き尽くされた町から、煙が立ち上っているのが見えました。それによって彼は、ソドムが主によって滅ぼされたことを知りました。そしてそれは、その町にいた正しい者の数が、10人に満たなかったということを意味していたのです。では、アブラハムが主に対して、50人、45人…10人と、ソドムの町に正しい者がいるなら、その町を赦し、滅ぼさないでほしいと、しつこく食い下がるようにして願ったことは、無駄であったということなのでしょうか…。そうではありません。創世記の著者は、神はアブラハムを覚えておられ、彼のとりなしのゆえに、滅ぼされるソドムの町からロトを助け出された、と記しているのです。ソドムの町が滅ぼされないように…。アブラハムのその願いは叶えられませんでした。しかし、甥であるロトとその家族の身を案じ、救われるようにと願ったその祈りは、確かに主のもとに届いていたのです。それは、アブラハムが願っていたこととは異なる結果となりましたが、主はその祈りに答えてくださったのです。そのとりなしはもちろん無駄ではなく、主に覚えられていたのです。そのことを知るとき、私たちは大いに励まされます。そして、とりなしの働きの大切さをあらためて教えられるのです。信仰と忍耐をもって、そのことをなし続けていきたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:創世記 19章1-22節◇(2月16日)

「彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する主のあわれみによることである。その人たちは彼を連れ出し、町の外で一息つかせた。」…創世記19:16

ソドムに着いた二人の御使いを、町の門のところに座っていたロトは迎えて伏し拝み、自分の家に泊まるように勧めて招き入れ、夕食のごちそうをふるまいました。一方、町の者たちはみな、町の外から来た二人に興味を持ち、二人をもてあそぼうと淫らなことを考え、ロトの家を取り囲んで、二人を引き渡すようにと迫りました。そこでロトは、家の外に出て、人々を説得して追い返そうとしましたが、彼らはまったく聞く耳を持たず、強引に戸を破って家の中に侵入しようとしました。すると、二人の御使いは、ロトを助けて家の中に引き入れ、ソドムの町が滅ぼされることを告げ、身内の者たちを連れて急いで町を脱出するようにと、ロトに命じたのです。ロトは、すでに嫁いでいた二人の娘のところに行き、事情を話し、一緒に逃げるよう促しましたが、娘婿たちはそれを悪い冗談だと思い、まともに取り合おうとはしませんでした。結局、夜が明けるころ、二人の御使いにせき立てられ、手を引かれて逃げたのは、ロト、彼の妻、そして家に残っていた二人の娘の4人のみだったのです。「彼はためらっていた」と16節に記されていますが、ロトは何をためらっていたのでしょうか…。それは、町が滅ぼされるという警告を聞いても逃げようとしない娘夫婦たちを含め、多くの人々を残したまま、自分たちだけが町を脱出するということのためらいであったに違いありません。彼は、ソドムの町の人々が神に背き、罪と咎の中におり、そのままでは滅びに至る…との危機感を、日頃から持っていました。「この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです」(2ペテ2:7-8)とあるとおりです。私たちもまた、やがて終わりの日が来ることを知っている者として、ロトと同じ心を持ち、キリストにある救い、御国の福音を、人々に伝えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 18章16-33節◇(2月15日)

「また彼は言った。『わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。』すると言われた。『滅ぼしはしない。その十人のゆえに。』」…創世記18:32

アブラハムが食事を提供した3人の人、主と2人の御使いはそこから立ち上がり、ソドムの方を見下ろしました。そして、その町は罪と悪に満ちており、そこを滅ぼすべきかどうかを判断するため、実際に町を見て確かめたいのだと、主はアブラハムに告げられたのです(21節)。すると、それを聞いたアブラハムは、事の重大さを思い、町が滅ぼさないようにしなくては…と考え、主に対して、町に正しい者がいるのに、悪い者と一緒に滅ぼしてしまわれるのか、さばきは公正になされるべきではないか…と訴え、町にいる正しい者たちを心に留めてほしいと願いました。そのソドムには甥のロトが住んでいました。それに対して主は、「もしソドムで、わたしが正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう」と言われましたが(26節)、アブラハムは、正しい人がその人数に達しなかったら…と不安になり、45人、40人、30人、20人…と、粘り強く主と交渉を重ね、最終的に10人に減らしてもらったのです。「あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである」(17:5)。アブラハムの心には、主から告げられたそのことばが深く刻まれていました。彼は、ソドムやゴモラの町の人々ももちろん、主の救いと祝福を受けるべきだと考え、ソドムに住むロトへの思いを越えて、それらの町々が滅ぼされないようにと、主に食らいつくようにしてとりなしたのです。それは、自分の保身のために妻に嘘をつかせた、かつての「アブラム」ではなく、まさに、多くの国民の父という意味である、「アブラハム」としての姿、あり方でした。今なお、霊的な闇が地を覆い、罪と悪が満ちていますが、主に選ばれ、キリストに贖われ、祭司とされた私たちも、人々の救いと祝福をとりなす者でありたいと思います。

祝福を分かち合う者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 18章1-15節◇(2月14日)

「主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」…創世記18:14

ある日、天幕の入口に座っていたアブラハムの前に、3人の客人が現れました。彼は彼らを迎え、もてなすために、サラに上等の小麦粉で急いでパン菓子を作るよう命じ、また若い者に柔らかくておいしそうな子牛を渡して調理させ、それらを自ら客人の前に運び給仕しました。アブラハムは彼らがただ者でないと感じていましたが、それは主と二人の御使いだったのです(18:1,22, 19:1)。出された食事を終えると、彼らはアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいますか」と。妻が客人の前に姿を見せる習慣は当時なかったので、天幕の中にいるとアブラハムが答えると、客のひとりは、自分は来年の今ごろ必ずあなたのところに戻って来る、そのときあなたの妻サラには男の子ができている、と告げたのです。アブラハムはすでに、そのことを主から聞かされていましたが(17:21)、天幕の入り口にいたサラも、そのときそのように彼らが話していたのを聞いたのです。それを聞いたサラは、思わず心の中で笑いました。なぜなら、翌年90歳になる老人の自分が子どもを産むなど、世の常識から考えてあり得ないことであったからです。すると主は、アブラハムに仰せられました。サラはなぜ笑うのか、なぜ神のことばを否定するのか、主に不可能なことなどあるだろうか…と。そしてそれは、主がアブラハムに告げられていたこと、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(17:1)と同じメッセージにほかならないのです。「主にとって不可能なことはない」。その霊的事実を、アブラハムとサラが信仰を持って受けとめるようにと、主は彼らに対して働きかけられました。その主は、全能者であられ、この世界の創造主であられるのです。私たちも、常識や自分の考えにとらわれず、絶えず神の約束のことばに心を留め、全き者として歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 17章15-27節◇(2月13日)

「アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。『百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、90歳の女が子を産めるだろうか。』」…創世記17:17

アブラムが99歳のとき、主は彼に現れてご自身の契約を立て、カナンの地を与え、子孫を大いに増やすと約束し、また、あなたの名はアブラハム(「多くの国民の父」の意)となると仰せられましたが(17:1-8)、さらに神は、妻サライの名も「サラ」(「王女」の意)と呼ぶように命じ、彼女を祝福してあなたに男の子を産むようにする、彼女は国々の母となる、と告げられました。アブラハムは神の前にひれ伏していましたが、その神のことばを聞くと、思わず笑ってしまいました。それは彼が、自分は百歳、サラは90歳であり、そのような高齢の者が子を産めるわけがない、子の父となれるはずがない…と考えたからです。そして彼は、女奴隷ハガルが産んだ子、イシュマエルが祝福されるよう、神に願ったのです。すると神は、ご自身のことばを信じようとしないアブラハムに対して、確かにあなたの妻サラが、来年の今ごろ男の子を産むのであり、あくまでその子との間に、わたしは契約を立てるのだ、と言われ、その子の名をイサク(「彼は笑う」の意)とつけよ、と命じられたのです。そのように語られたアブラハムは、どう感じたのか…。それについては何も書かれていませんが、おそらく、サラによって必ずあなたに男の子を与える、と神が約束されたにもかかわらず、それを疑い、笑ってしまったことを、恥じたことでしょう。そして、全能者なる神のことばは真実である、ということをあらためて覚え、主の前に悔い改め、イシュマエルさえも祝福してくださる(20節)主の恵みとあわれみに感謝したに違いありません。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです」(ヘブ11:11)。私たちもつい、「~はずがない…」と否定的に考えてしまいますが、真実であるお方、主に、信頼し続ける者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:創世記 16章◇(2月11日)

「サライはアブラムに言った。『ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」…創世記16:2

アブラムの妻サライは、カナンの地に住んで10年後のあるとき、自分の女奴隷ハガルを夫のアブラムに与え、夫が彼女のところに入るようにし、ハガルに生まれる子を自分のものとするという計画を立て、それをアブラムに提案しました。するとアブラムはそれを受け入れ、サライのもくろみどおり、ハガルは身ごもったのです。ところがそのことにより、ハガルはサライを見下すようになったため、サライがアブラムにそのことを訴えると、彼は、ハガルを自分の好きなようにすればよい、とサライに答えました。そこでサライはハガルを苦しめたので、彼女はいたたまれなくなり逃げ去りました。その後、彼女は、現れた御使いに促されてサライの元に帰りましたが、その子イシュマエルは、その後も、アブラムとサライにとって、やっかいな存在となったのです。サライからその提案を受けたとき、なぜアブラムはそれを拒まなかったのでしょうか。ハガルはサライの女奴隷であって、その子は自分の跡継ぎとしてふさわしくないと、どうして考えなかったのでしょうか…。それは、サライは子どもが産めないからだであり、しかも高齢だ、だから、彼女の言うとおりにするのもやむを得ない…と、常識にとらわれ、安易に妥協したからです。サライの計画が主のみこころかどうか、吟味しなかったからです。サライは、自分が子を産めないのは主のせいだ…と不信仰なことばを口にしつつ、その提案をしましたが、それを聞いたアブラムは、自分に与えられた主の祝福の約束を彼女と分かち合い、自分たち夫婦に必ず子が与えられる…と彼女を励まし、心を合わせて主に祈り求めるべきだったのです。私たちも、常識にとらわれず、安易に妥協せず、主のことばをすり替えず、忍耐と祈りをもって、主の約束の実現を待ち望み続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:創世記 15章(2月10日)

「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」…創世記15:6

主のことばがアブラムに臨みました。「わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい」(1節)。ところが、そのことばを聞いたアブラムの反応は、喜びや感謝ではなく、戸惑いと疑いでした。そして、そのことを初めからご存じであった主は、開口一番、彼にこう言われていたのです。「アブラムよ、恐れるな」と。アブラムはハランを出たときすでに75歳であり、子がいませんでした。彼にとって、その主のことばは、信じがたいものであったのです。アブラムは主に抗議するかのように言いました。「あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか」と(2節)。すると主は、それを明確に否定し、あなた自身の子が跡継ぎとならねばならない…とアブラムに言われ、さらに、彼に満天の星を見上げさせ、「あなたの子孫は、このようになる」と告げられました(4,5節)。そのとき、アブラムの霊の目は開かれ、彼は悟ったのです。神にとって不可能なことは何もない…その全能の神はすべてのものを造られたお方、無から有を生み出されるお方であって、その主の約束のことばは真実なのだ…と。そしてそのように信じたアブラムを、主は彼の義と認められた、すなわち、ご自身の御旨にかなう者として、喜ばれたのです。信仰の父と呼ばれるアブラ(ハ)ム…。今日の箇所の記事から、その彼にも人間的な弱さがあったことがわかります。しかし、その彼に対して主は、ご自身の偉大な創造のみわざを見させ、祝福の約束のことばをあらためて告げ、閉ざされていた彼の目を開き、信仰を与えてくださったのです。そのように、アブラムは、主の側からの働きかけがあったからこそ、それに応答し、その約束、祝福にあずかる者とされたのです。その主は、今も、私たちに対して働きかけておられます。現実に心奪われず、聖書に記されている主のみわざ、約束のことばにますます心を留め、信仰により歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 14章◇(2月9日)

「彼はアブラムを祝福して言った。『アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。』…」…創世記14:19-20

シンアルの王、エラサルの王、エラムの王、ゴイムの王の4人は盟約を結び、周囲の国を支配していましたが、彼らに対抗すべく、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ツォアルの王の5人は連合を結成し、シディムの谷、今の死海の場所で戦いを挑みました。しかし、強い勢力を持っていた彼らに勝つことはできず、結局、5人の王たちは逃げ去ることとなったのです。4人の王たちはソドムとゴモラにあった財産や食糧をすべて略奪し、ソドムに住んでいたロトと彼の財産も奪い去りました。すると、それを知ったアブラムはロトを助け出すべく、3百人あまりのしもべたちを引き連れて彼らを追跡し、ダマスコの北の地で戦って勝利を収め、ロトと彼の財産やしもべたちなど、すべてを取り戻したのです。そのように戦いに勝利したアブラムと彼のしもべたちは、言うまでもなく、戦いのための訓練を受けた者ではなく、ただの一般人です。その彼らが、4人の王たちの配下にあった百戦錬磨の兵士たちを打ち破ることができたのは、戻って来たアブラムを迎えたサレムの王メルキゼデクが彼を祝福して告げたように、いと高き神が、その敵をアブラムの手に渡してくださったからだったのです。王でありかつ祭司であったメルキゼデクは、キリストの予型です(ヘブ5:6,10)。そのキリストは、王であり、祭司であり、預言者である油注がれたお方であって、ご自身の十字架と復活によって贖った聖徒たちを、敵との戦いに勝利させ、「祝福を受けよ」と告げられるのです。また、悪しき者に奪われている人々を取り戻すために、戦いに未熟なその一人ひとりを、尊く用いられるのです。「この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される」(1サム17:47)。羊飼いであったダビデはそう宣言し、たった一つの石でゴリヤテに勝利しました。私たちもまた、そのようでありたいと思います。

主が勝利を与えてくださいますように。

◇聖書箇所:創世記 13章◇(2月8日)

「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。」…創世記13:18

エジプトを追い出されたアブラムは、サライ、ロトとともに、ベテルとアイの間にある、以前に祭壇を築いたところに戻り、そこで主の御名を呼び求めました。そのときにはアブラムもロトも、多くの家畜の群れと財産を所有する者であったため、双方の家畜の牧者たちの間で争いが起こり、一緒には住めない状況となっていました。そこで、アブラムがロトに対して、別れて住もうと提案すると、彼はそれに同意しました。そして、ヨルダンの低地全体を見渡すと、それはエジプトの地のようによく潤っていたので、ロトはそこを自分の住む場所とし、ソドムに天幕を移しました。そのとき彼は、そのソドムの人々が邪悪で罪深い者たちであり、後にその町が滅ぼされるようになるとは、知るよしもなかったのです。一方、アブラムは、東へ移動したロトと別れると、カナンの地に住むことを決めました。それは主が、そこへ行くようにとハランで示され、あなたの子孫にこの地を与えると約束された土地であったからです(12:1,7)。そして主は、その選択が御旨にかなうものであることを彼に示すべく、そのことを再び強調されたのです(14-17節)。飢饉が起こったとき、すぐにエジプトに行き、自らの保身のため、妻のサライに自分の妹だと嘘をつかせたアブラム…。そのことがばれて王ファラオから非難され、カナンの地に戻り、祭壇を以前築いた場所で、主の御名を呼び求め、主との交わりを持ったアブラム…。そのような異なるアブラムの姿が、対照的に描かれています。その後彼は、ヘブロンに天幕を移し、マムレの樫の木のそばに住みましたが、そこでも主のために祭壇を築きました。アブラムは、エジプトでの失敗を通し、試練に遭うとき、まず静まって主と交わり、主の御声を聴くことの大切さを学んだに違いありません。私たちもまた、そのような者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 11章27節-12章(2月7日)

「アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。」…創世記12:16

ノアの3人の息子のうち、長子であるセムの子孫からテラが生まれ、彼からアブラム、ナホル、ハランが生まれましたが、アブラム、その妻サライ、ハランの子ロトは、テラに連れられ、ウルを出てハランに移り住みました。その後、主はアブラムに対し、ハランを出てわたしの示す地に行け…そうすればわたしは、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする…と言われたのです。主に聞き従ったアブラムは、サライ、甥のロトとともにハランを出て、カナンの地に入りました。そして、シェケムにおいて、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と主から語られると、彼はそこに祭壇を築き、さらにベテルの東に移動してそこでも祭壇を築き、感謝をもって主に礼拝をささげ、主の御名を呼び求めたのです。ところが、さらにネゲブの方へと旅を続け、その地に飢饉が起こると、アブラムは、エジプトに滞在するために下って行きました。そしてエジプトに近づくと、妻サライの美貌に魅惑されたエジプト人は、夫である自分を殺すに違いないと考え、サライに、妹だと嘘をついてほしい、と頼み込んだのです。案の定サライは人々から注目され、エジプト王ファラオの宮廷に召し入れられ、アブラムは、多くの家畜の群れや奴隷を所有するようになりました。創世記の記者は、「アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ」と、そのことを記しています。しかしそれは、あくまで「アブラムにとって」であり、主にとっては、ご自身のみこころではなかったのです。飢饉が起こったとき彼は、すぐにカナンの地を離れてエジプトに行かず、まず主の御旨を尋ね求めるべきだったのです。サライに嘘をつかせたことと合わせ、そこに、人間的な思いで安易に行動した彼の弱さを見ますが、私たちはそれを反面教師とし、どんなときにも主に信頼する者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 7章24-37節◇(2月6日)

「そこでイエスは言われた。『そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』」…マルコ7:29

主イエスは、ガリラヤを離れ、地中海沿岸の異国の地であるツロの地方に行かれ、ある家に入ってそこに滞在していました。すると、イエスがそこにいると知った一人の女性がその家を訪れ、主の足もとにひれ伏し、自分の娘から汚れた霊を追い出してほしい、と願ったのです。彼女は、シリア・フェニキア生まれで、ギリシャ国籍を持つ異邦人でしたが、それを知った主イエスは、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない…」と言って、彼女の要求を拒みました。「子どもたち」とはユダヤ人たち、「小犬」とは異邦人のことであり、主は彼女に対して、あえてそう言われたのです。ところが彼女は、そのような差別的な扱いをされてもひるみませんでした。なおも主にすがりつくようにして、「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」と言って、願いを聞いてくれるよう迫ったのです。すると主イエスは、彼女のうちにあるご自身への強い信仰を見られ、その願いを聞き入れ、家にいる娘に取り憑いていた悪霊を、ただちに追い出されました。そして、「悪霊はあなたの娘から出て行きました」と言われた彼女が急いで帰宅すると、その主のことばどおり、娘はすでに悪霊から解放され、すっかり良くなっていたのです。「そこまで言うのなら」…と、主イエスは、母親のことばと態度に感心されましたが、彼女にとって、自分の娘が苦しみ続けているのを見るのは、つらかったのです。だから、小犬だと軽蔑されても、たとえユダヤ人のおこぼれ、パンの屑でもいいと考え、それを求めたのです。そして、そのように、何としても娘を治してもらいたい…とあきらめずに食らいつき、この方ならきっとそうしてくれる…と考えた彼女のひたむきさ、期待と信頼の大きさに、主は心を動かされたのです。その母親に倣い、私たちも、ますます熱心に、そしてへりくだって、主をひたむきに求めていきたと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 6章45-56節◇(2月4日)

「そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。」…マルコ6:51

群衆にパンと魚を分け与え、満腹させるというみわざをなされた主イエスは、弟子たちだけを舟に強いて乗り込ませ、向こう岸に向わせました。その舟は向かい風のために前に進めず、一晩中漕ぎ続けても目的地に着けないでいましたが、それを見た主は、夜明けごろ、湖の上を歩いて彼らに近づき、通り過ぎようとされました。ところが弟子たちは、その姿を見てもそれがイエスだとはわからず、てっきり幽霊だと思っておびえ、取り乱し、叫び声をあげました。そこで主が、「しっかりしなさい。わたしだ…」と声を掛けて安心させ、その舟に乗り込まれると、ただちに風はやみ、湖は静かになったのです。弟子たちは、主が湖の上を地上と同じように歩かれたこと、また、あれほど吹き続けていた風が、主が舟に乗り込んだとたんにぴたっとやんだことに、非常に驚きました。そんな彼らのことをマルコは、「パンのことを理解せず、その心が頑なになっていた」と伝えています。彼らは、そのような自分たちの理解を超えたことを、すでに体験していました。同じように突風が起こって波をかぶり、舟が沈みそうになったときも、主が叱りつけらると、風はただちにやんだのです。5つのパンと2匹の魚しかなかったのに、それらが5千人以上の人々に行き渡るのを、つい半日前に、彼らは目撃していたのです。それにもかかわらず弟子たちは、主がメシアであり、御国の王であり、すべてを支配しておられるということを、まだ完全には理解できていませんでした。彼らは、主がいない状況の中で、向かい風という困難に遭うと、懸命に漕ぐことだけに心が捕らわれてしまい、主に助けを求め、来てくださいと叫ぶ、そのような者ではなかったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。心が頑なになっていないか、幼子のような心で主を呼び求める者であるか、自らのあり方を吟味したいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 6章30-44節◇(2月3日)

「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」…マルコ6:34

2人ずつ組になって人々のところに遣わされ、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人をいやした12人の弟子たちは、働きを終えると戻って来て、それらをすべて主に報告しました。すると主は、忙しくして食事も取れなかった彼らを気遣い、自分たちだけで寂しいところに行き、休息を取るようにと命じられました。その後、主イエスは彼らと合流しましたが、そこには、弟子たちによってなされるみわざを求めて、すでに多くの人々が集まっていました。すると、その様子を見られた主は、群衆が羊飼いのいない羊の群れのようであったので、彼らを深くあわれみ、多くのことを教えられました。そして、時刻も遅いので人々を解散させてほしい、と願った弟子たちに対し、あなたがたが人々に食べる物をあげなさい、と命じられたのです。弟子たちは当惑しました。群衆は男性だけで5千人近くおり、彼らの手元にあったのは、わずかにパンが5つと魚が2匹であったからです。いったいどうすれば、こんなに多くの人々に食べさせられるのか…と、弟子たちは途方に暮れたに違いありません。しかし主は、群衆を組に分けて座らせ、神をほめたたえてそのパンを裂き、分けた魚とともに弟子たちに渡して、人々に配らせたのです。すると、なんとそれは全員に行き渡り、しかも人々を満腹させ、残りをかごに集めるほどになったのです。そのように主イエスは、羊飼いのいない羊の群れのようであった人々をあわれみ、たましいを養うみことばを語り、また、空腹であった彼らをあわれみ、肉体の飢えを満たしてくださったのです。そのように主は、私たちの霊的な必要とともに、実際的な必要をも満たしてくださる、良い牧者なのです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」(詩23:1)。そのダビデの告白を私たちも口にし、ますます主に信頼して歩みたいと思います。

主の恵みとあわれみが注がれますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 6章14-29節◇(2月2日)

「王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。」…マルコ6:26

ヘロデ王(14節)とは、第2神殿の建設に関わったヘロデ大王の息子の一人で、ガリラヤとペレアの領主であった、ヘロデ・アンティパスのことです。彼は、自分の兄弟ヘロデ・ピリポの妻へロディアと略奪結婚し、そのことをバプテスマのヨハネから非難され続けていましたが、ヨハネが正しい聖なる者だと認めていたので、彼を恐れて保護し、その教えを喜んで聞いてさえいたのです。しかし、へロディアはそうではありませんでした。邪魔な存在であるヨハネを殺してしまいたいと、日頃から考えていました。そして、王の誕生日の祝宴で踊り、王や列席の人々を喜ばせた娘への褒美として、なんと、ヨハネの首を王からもらうよう、娘に要求させたのです。ヘロデがその要求を娘から受けたとき、何でも欲しい物をあげよう…と誓ったことを、悔やんだことでしょう。しかし、預言者であるヨハネを殺害することは、明らかに神の御旨に反することであり、ヘロデは、王としての権威をもって、それには応じられない、他の物にせよ、と言って、拒否すれば良かったのです。しかし彼は、そうしませんでした。列席していた人々の手前、対面を保ちたかったからです。また、娘やへロディアから、悪く思われたくなかったからです。そのようなヘロデのことを、私たちは、なんて愚かで浅はかな者なのか…と思います。しかし、人の目を気にして、悪く思われたくないと考えて、対面を保とうとして行動するのであれば、私たちもまた、ヘロデが捕らわれていたものによって、心が縛られているのです。そこには平安がありません。自由がありません。そしてそれは、私たちを神から引き離そうとする、悪しき者の罠なのです。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる」(箴29:25)。どんなときにも主を畏れ、主に信頼し、主のみこころを行う者、真理によって自由にされる者でありたいと思います。

主の平安がありますように。

◇聖書箇所:マルコの福音書 6章1-13節◇(2月1日)

「こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。」…マルコ6:12-13

主イエスは弟子たちとともに、ご自身の郷里であるナザレの町に行き、安息日にそこの会堂に入り、神の国の福音を人々に教えられました。すると人々は、そのことばが知恵に満ちたものであり、またそれに伴って、癒しや解放の力あるわざがなされることに驚きました。ところが、イエスのことは幼い頃から知っている…その両親や兄弟姉妹は、自分たちと親しい者ではないか…とあげつらう声があがると、人々はそのような人間的な見方に同調し、最初の驚きは嘲笑へと変わり、イエスをメシアだと信じようとはしなかったのです。主は、そんな郷里の人々の不信仰に驚かれました。その後、主イエスは、近くの村々を巡って教えられ、また、12人の弟子たちを二人一組とし、汚れた霊を制する権威を彼らに授け、人々のところに遣わされました。その際、余分なものは持たず、人々の世話に頼るようにせよ、と彼らに命じられました。実際、そのような主の弟子たちを受け入れ、歓迎し、彼らを通して病が癒され、悪霊が追い出される多くの人が、そこにはいたのです。彼らは主イエスのことを聞いていましたが、弟子たちでは力不足だとは考えず、ひたすら神を求め、神に期待したのです。そしてその信仰に、主は応えられたのです。マルコは、その2つの対照的な記事を通し、人を見るのではなく、神が立てられ、遣わされた者を認めること、その者を通して、神ご自身が語られ、働かれるのを信じることの大切さを、ここで読者に示しています。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。有名な説教者を常に追っかけているような者がいる一方で、無名な伝道者や教会の兄弟姉妹が語るお奨めのことばに、アーメンと素直に応答する者がいるのです。そして、主は、ご自身を求める後者の人々を喜ばれるのです。人間的な思い、狭い視野を持つ者ではなく、ますますへりくだって、主を飢え渇いて求める者でありたいと思います。

純粋な思いで主を求めることができますように。