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◇聖書箇所: エレミヤ書 37章◇(11月12日) 「ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」」…エレミヤ37:3 ユダの最後の王ゼデキヤは、バビロンの王ネブカドネツァルによって王とされた人物です。つまり彼は、傀儡の王であり、バビロンの王の言いなりになっていたのです。そんな彼は、ユダの国の王としてのリーダーシップを発揮することのない、優柔不断で煮え切らない者でした。2節には、預言者エレミヤによって語られた主のことばに、ゼデキヤも彼の家来たちも聞き従わなかったとあります。しかし、続く3節を見ると彼は、祭司ゼパニヤを通してエレミヤに対し、主に祈ってほしいと要請しているのです。それは、国がバビロンに実効支配されている現状において、エジプトに頼ることが打開策になるかもしれないと考えつつも、その判断ができずにいたからです。エレミヤを通して語られた主のことばに従おうとはしない、しかし、窮地に陥ると神に助けを求める…。「苦しいときの神頼み」ということばがありますが、そのときの状況によってころころと変わるゼデキヤの態度は、まさにそのような、自分勝手で、ご都合主義のものでした。一方、エレミヤは、その態度が終始一貫していました。偽預言者たちのように人々に耳障りのよいことばを語らず、捕らえられて牢獄に入れられようとするときにも、言い訳をして逃れようとはしませんでした。常に主のことばをまっすぐに余すところなく語り、主のみこころに従うという決意をもって歩んでいたのです。主のことばをまっすぐに受け入れ、主のみこころに従うことを選び取る…。そのような者を主は顧みてくださいます。エレミヤはゼデキヤ王によって監視の庭に入れられ、パンを毎日与えられて過ごすようになりましたが、主ご自身がそのようにして隠れ場を備え、守り、養ってくださったのです。私たちも決意と覚悟を持って、どんなときにも主に信頼して歩んでいきたいと思います。 主の守りと助けがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 36章21-32節◇(11月11日) 「これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。」…エレミヤ36:24 首長たちの報告を聞いたユダの王エホヤキムは、巻物を家来のエフディに取りに行かせ、王宮の暖炉の前でそれを読ませました。しかし、王と彼の家来たちは、そこに書かれていた主のさばきとわざわいのことばを聞いても平然とし、なんと王は、それが数段読まれるごとに小刀でその巻物を裂き、首長たちが止めるのも無視して暖炉の火にくべ、すべて焼き尽くしてしまったのです。その後、主はエレミヤに、燃やされた巻物にあったことばを、再度、新たな巻物に書き記すよう命じられました。主がモーセに与えたさとしの石の板が、民の不従順のゆえに砕かれても、再度与えられたことが思い浮かびます(出34:1)。そして主は、エホヤキムは王座から退けられて屍となり、彼の子孫や家来たちも罰せられ、わざわいはユダの人々にも及ぶとエレミヤに告げられたのです。本来エホヤキムは、ユダの王として、主を畏れ、主の御旨を知り、それに従って正しく国を治め、また、みことばに聞き従うようにと、人々にも命じるべきでした。しかし、神のことばを侮り、それが書かれた巻物を切り裂いて燃やすという不敬虔な態度のゆえに、神にさばかれ、その最期は悲惨なものとなったのです。彼の父ヨシヤ王は、主の宮で見つかった律法の書のことばを聞いたとき、心を痛めて自分の衣を引き裂き、主に悔い改めましたが、エホヤキムは神のことばが書かれた巻物を裂いたのです。私たちが、彼のように聖書を切り裂くことはしないとしても、みことばを心に留めず、軽んじ、その教えに聞き従おうとしないなら、それは、神を侮ることなのです。箴言には「みことばを蔑む者は身を滅ぼし、命令を尊ぶ者は報われる」とあります(箴13:13)。みことばは神ご自身であって(ヨハ1:1)、キリストに贖われ、神の民とされた私たちは、みことばを通して主の御旨を知り、自分を吟味し、衣を引き裂く、すなわち、悔い改めて主に立ち返るべきなのです。そのような者でありたいと思います。 ますます主を畏れる者とされますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 36章1-20節◇(11月10日) 「そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」」…エレミヤ36:16 ユダのエホヤキム王の第4年に、エレミヤは主から、「巻物を取り…わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ」と命じられました(2節)。するとエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼び、自分に語られた主のことばを口述筆記させたのです。その後さらに、エレミヤは彼に、その巻物を持って主の宮に行き、巻物に書き記した主のことばを、断食の日にユダの民に読み聞かせるよう命じました(6節)。バルクがそのことを忠実に実行すると、主の宮にいてその主のことばを聞いたゲマルヤの子ミカヤは、その内容を王宮にいた首長たちに報告しました。すると、それを聞いた彼らは事の重大さを思い、バルクを呼んで彼から直接そのことばを聞きました。そして、主の使信にあらためて恐れおののいた彼らは、そのことばを王に告げなければならないと判断し(16節)、バルクに対しては、エレミヤとともに身を隠すように促したのです(19節)。その巻物には、民が悪の道から立ち返るよう、主が下そうとされているわざわいのことが書かれてありました。したがって、バルクがそれを主の宮で語れば、人々から疎んじられ、いのちを奪われる危険もありました。しかし彼は、そのことを恐れず、自分に与えられた使命を全うしたのです。そして、その主のことばを真剣に受けとめたミカヤ、さらには首長たちも、その主のことばを伝えるために行動を起こしたのです。そのようにして、エレミヤを通して語られた主のことばは、巻物に書き記され、人から人へと伝播していったのです。聖徒とされた私たちも、主のさばきから救われるための使信である、キリストの福音を人々に伝える使命を受けています。その使信は、「必ず王に(人々に)告げなければならない」ものであることを覚え、置かれたところでその使命を果たす者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 34章◇(11月8日) 「それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。」…エレミヤ34:16 ゼデキヤ王は民と契約を結び、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、再び奴隷にしないことに同意させました。その結果、奴隷たちはいったんは解放されましたが、民はその後、心を翻して奴隷たちを連れ戻し、再び彼らを奴隷として働かせたのです(9-11節)。主は、エジプトを脱出したご自身の民に、同胞であるヘブル人の奴隷を7年目には自由の身にしてやらなければならないという律法を、モーセを通して与えておられました(出21:2,申15:12)。主は民に、彼ら自身、かつてエジプトにおいて奴隷として虐げられていた者であって、そこから主に贖い出されたことを覚えるべきだとしてそのように命じられたのです。しかし、彼らの先祖たちはその趣旨を理解せず、律法を守ってこなかったのです。そのように、奴隷に対して不誠実であるということは、主の律法への違反行為、主への不従順であって、それは主に喜ばれることではないのです。怒りを覚えた主は、剣と疫病と飢饉によって民を懲らしめ、バビロンの手によって町々を荒れ果てた地とすると言われました(22節)。主イエスはこう言われました。「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタ7:12)。人がなかなかそうしないのは、自己中心という罪があるからですが、自分が神から受けている恵みへの感謝の思いがないため、それを他者と分かち合うという意識に結びつかないということでもあります。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18,マタ22:39)。その教えはつまり、「自分が神に愛されていることを覚え、感謝し、受けているその神の愛を押し流すようにして、隣人を愛せよ」ということなのです。神に愛され、贖われ、恵みの中に生かされていることを、絶えず忘れない者でありたいと思います。 感謝の心がいつもありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 32章26-44節◇(11月6日) 「まことに、主はこう言われる。「わたしがこの大きなわざわいのすべてを、この民にもたらしたように、わたしは、今彼らに語っている幸せのすべてを彼らにもたらす。」」…エレミヤ32:42 主はエレミヤに、わたしにとって不可能なことは一つもない、と言われましたが(27節)、それはエレミヤが、大いなる力と伸ばされた御腕をもって天と地を造られた主、また、しるしと不思議をもって民をエジプトから導き出された主を覚え、あなたにできないことは何一つない、と告白した(17-22節)ことを受けての語りかけでした。その主はさらに「それゆえ」と言われ(28節)、民にわざわいをもたらすとまず告げられました。エルサレムの町はバビロンの手に渡され、彼らによって焼かれるのです。そしてそれは、民が主の目の前に悪を行い続け、主の怒りを引き起こしたからにほかならないのです(30-32節)。しかし主のご計画にはさらにその先があります。主はまたも「それゆえ」と言われ、そのような背信の民を散らされた国々から連れ戻し、カナンの地に帰らせ、そこで安らかに住まわせると、回復を約束されました。39-42節において「幸せ」と4回繰り返され、41節では、彼らを幸せにし、わたしの喜びとし、心と思いを込めて、彼らをこの国に植えると、驚くべきことが語られているのです。主のみこころは、ご自身の民が幸せになり、ご自身の栄光を現わし、神の国の祝福をこの地に押し流す者となることです。そしてそのために、民を御手のうちに治め、懲らしめ、回復させ、用いられるのです。その主は「彼らに一つの心と一つの道を与え」(39節)と言われましたが、その心と道はただ一つのものであって、いくつもあるわけではないのです。そしてそれは、主の教え、みことばとして(詩1:1-3)、道であり真理でありいのちであるお方イエス・キリストとして(ヨハ14:6)、御霊に支配された心として(ロマ2:29)、主を求めるすべての者に与えられているのです。キリストに贖われた主の民として、その一つの心と一つの道を、日々追い求めていきたいと思います。 幸せと祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 32章1-25節◇(11月5日) 「すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、これが主のことばであると知った。」…エレミヤ32:8 預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁されていましたが、彼はそこで、主からのことばを聴きました。それは、あなたのおじシャルムの子ハナムエルがやって来て、アナトテにある自分の畑を買ってほしいと頼み込むようになる、という内容でした。そして、その主のことばは、確かにそのとおりになったのです。しかしエレミヤは、そのことを知らされたとき、いったいそのことに何の意味があるのか…と思ったことでしょう。なぜなら、そのとき、エレサレムはバビロンの王の軍勢によって包囲され、彼自身は監禁状態にあったからです。しかしエレミヤは、そのことの意味を主に尋ね求める中で、再びこの国で家や畑が自由に買われるようになる、すなわち、国が解放され、民が帰還する日が来るということを、エレミヤは主から語られたのです(15節)。だからこそ彼は、近い将来に起こるそのときのために、ハナムエルの願いを聞き入れ、彼から畑を買ったのです。そもすれば私たちの歩みは、忙しい日々の目の前のことを単にこなすだけになってしまいますが、将来のことについても主に尋ね求め、そこにつなげるために必要なことを今から行動に起こしていくことが大切です。また、今は意味がよくわからないことも、それが将来のために必要なものであり、私たちには測り知れない主のご計画があることを信じて、日々求められている一つ一つのことに、忠実に取り組むということもまた大切なのです。遠くを見る目と近くを見る目を、両方持つ者となる…。主はそのように、私たちに対して求めておられます。そしてそれは、主との親密な交わりを持ち、主の御声を聴ことを通してなされていくのです。多忙な中にあっても主の前に静まり、その時間を確保したいと思います。 霊の目と耳がますます開かれますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 31章23-40節◇(11月4日) 「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」…エレミヤ31:33 31章の後半ではユダの家の回復と祝福が語られていますが、特に31-34節において「新しい契約」の預言がなされていることに心が留まります。主はご自身の民を、奴隷として虐げられていたエジプトの国から連れ出され、モーセを通して契約を結ばれましたが(出24章)、新しい契約はそのようではないとあります(32節)。しかしその新しい契約もまた、古い契約と同じように、神が民との間に一方的に結ばれる契約であり、律法が存在するのです。イスラエルの民の歴史、それは、主から与えられた律法、すなわち主の教えと戒めに聞き従おうとせず、契約に違反し、神の怒りを引き起こすということの繰り返しでした。そして、そのことのゆえに主は、イスラエルとユダの国を滅ぼすと言われたのです。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、彼らの時代の後に、新しい契約を結ばれ、律法を文字として書物に書き記した古い契約とは異なり、ご自身の律法を民の心に直接書き記し、それを単なる命令として理解するのではなく、ご自身の御旨、切なる願いを悟るためのもの、いのちを保つためのものとして、一人ひとりがそれを受け取るようにと願われたのです。ヘブル人への手紙8章8-12節には、エレミヤを通して語られたその新しい契約についての預言が、そのまま引用されています。新しい契約は、十字架にかかり、罪のない尊い血を流し、完全ないけにえとしてご自身を神にささげられたキリストによって、すべての民との間に神が結ばれたものとしてもたらされました。そのようにしてキリストは、古い契約よりすぐれた、新しい契約の仲介者となられたのです(ヘブ8:6)。そして私たちも、その契約によって神の民とされ、律法を心に書き記されているのです。日々の歩みにおいて、御霊の啓示によってその奥義を知らされ、主への感謝と愛と従順のうちに、その律法、みことばに聞き従う者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 31章1-22節◇(11月3日) 「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」…エレミヤ31:3 30章に続き、イスラエルとユダの回復がそれぞれ語られています。彼らは「イスラエルのすべての部族の神」(1節)によって、回復の中で一つとされるのです。3節のことばが心に留まります。主の、ご自身の民への愛は「永遠の愛」であって、人の愛のように一時的、条件つき、見返りを求めるような愛ではありません。主は、その愛のゆえに、民に真実の愛を尽くし続け、今も、御手の中で彼らを守り、養い、導き続けておられるのです。4-6節には、主によってもたらされる回復の喜びが、生き生きと描写されています。また、その回復が確かなものであると強調すべく、「再び」と繰り返されています。主は、北イスラエルの民に対して、「再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り」と語られましたが、さらに主は、エフライムの山で見張る者たちが、「さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう」と、民全体に呼びかける日が来る、と告げられたのです。それはつまり、北と南の王国に分裂したイスラエル民族のうちにあった、両者間の敵対意識がなくなり、主によって再び一つとされ、エルサレムの神殿において、主を一緒に礼拝するようになるということです。そのように主がもたらされる回復、建て直しは、一時的、部分的ではなく、土台からなされる根本的なものなのです。主は、キリストによって贖われた私たちをも、ご自身の民として加えてくださいました。そしてその一人ひとりを永遠の愛をもって愛し、真実の愛を尽くし続けておられるのです。御手の中で守り、養い、導き続けてくださっているのです。からだの病や心の傷をいやし、全き回復をもたらしてくださるのです。「荒野」にあっても恵みを見出し、主の元で安息を得たい(2節)と思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 29章15-32節◇(11月1日) 「それは、二人がイスラエルの中で恥辱となることを行い、隣人の妻たちと姦淫し、わたしが命じもしなかった偽りのことばをわたしの名によって語ったからだ。わたしはそれを知っており、その証人である-主のことば。」…エレミヤ29:23 エレミヤは、偽預言者であるアハブとゼデキヤについて、二人はバビロンの王の手に渡され、民の目の前で彼に打ち殺されると告げました(21節)。それは、隣人の妻たちとの姦淫という、性的不品行の罪もさることながら、彼らが偽り、自分たちのことばを主の名によって主のものとして人々に語るという、冒涜の罪を犯したからです。神の名を口に出す…それは本来、イスラエルの民にとって畏れを伴うことでした。実際、「主の名をみだりに口にしてはならない」という律法(十戒)を破ることを必要以上に恐れて(出20:7)、巻物の中に書かれている「ヤーウェ」という神の名を読むときには、わざわざ、「アドナイ」といちいち読み替えていたのです。しかしエレミヤの時代には、神を畏れる者が少なくなり、主の名によって、偽りのことばが平気で語られていたのです。そのような時代を経て、父なる神は、人類の救い主として、ご自身の御子イエスをこの地上に遣わされました。そのキリストは、すべての人の罪を赦すために、身代わりとなって十字架にかかり、死からよみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。そのキリストの御名は、流された血による新しい契約において、さばきとのろいではなく、勝利と祝福をもたらす名となっているのです。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」(ヨハ14:14)。イエス・キリストはそのように言われました。私たちが、主の名によって人々に語り、主の名によって勝利を宣言し、また、主の名によって祈り求め、主の名によって祝福をとりなすとき、そこに、大いなる主のみわざが現されるのです。そして、ただ主があがめられ、主に栄光が帰されるのです。ますますキリストの御名をあがめ、御名によってすべてのことをなす者でありたいと思います。 主の祝福が豊かに満ちあふれますように。 |