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◇聖書箇所: エレミヤ書 52章17-34節◇(12月6日) 「…バビロンの王エビル・メロダクは、即位した年のうちにユダの王エホヤキンを呼び戻して、獄屋から出し、優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。」…エレミヤ52:31-32 ユダの王エホヤキムの死後、その子エホヤキンが18歳で即位しましたが、その3ヶ月後にバビロンがエルサレムに攻め上り、彼は捕虜としてバビロンに連行され、投獄されてしまいました(2列24:12)。しかし、その後、バビロンの王がネブカドネツァルからその子エビル・メロダクに代わると、王の特別なはからいによって彼は獄屋から出され、優しいことばをかけられ、なんと一生の間、彼は王の前でいつも食事をし、生活費まで支給され、何不自由なく暮らすことができるようにされたのです。それは捕虜として投獄されていたエホヤキンに対する異例の取扱いでした。そのときバビロンには、同じように連れて来られた他国の王たちが何人もいましたが、エホヤキンはそれらの者たちの中で最も高い位が与えられ、そのような破格の優遇措置を受ける者とされたのです。なぜそのようなことになったのか…その理由は書かれていませんが、神がそのように計画され、バビロンの王に働きかけられたから違いありません。そもそも、主の御旨は、ご自身に従わないユダの民を悔い改めさせるために、バビロンを用いて懲らしめを与えることであり、ご自身の民を根絶やしにすることではなかったのです。バビロンに捕らえ移された神の民が主に立ち返り、エルサレムに帰還して神殿を再建するための準備期間として、主の守りと導きのうちに、エホヤキンとユダヤの民は、バビロンで生活をしていたのです。エホヤキン(別名エコヌヤ)の孫であったゼルバベルは、民の帰還後、神殿再建を進める総督として用いられた人物です。そして彼の名は、キリストの系図に載っているのです(マタ1:12)。主の恵みとあわれみによって生かされているイスラエルの民…。そして私たちもキリストにあって神の民に加えられ、主の豊かな恵みと祝福にあずかっているのです。そのことを覚え、主のはからいに感謝したいと思います。 すべての栄光と誉れが神にありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 52章1-16節◇(12月5日) 「カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。」…エレミヤ52:8 エレミヤ書をずっと読み進めてきましたが、最後の章となりました。今日の箇所の内容の一部は、39章1-10節の記事と重複していますが、本書の著者は、バビロン軍によるエルサレムの陥落と、ユダの王や首長たちの悲惨な最期を繰り返して語り、それを忘れることがないようにと、読者に対して強調しようとしたのかもしれません。エレミヤ書に書かれていたことを振り返ってみるとき、イスラエルやユダの国の歴代の王たちが、国を治め、民を導く者として、主によって立てられていたのにもかかわらず、その主を畏れず、主に聞き従おうとしなかったこと、またその王のもとにある民も同じであったことを思わされます。だからこそ主は、バビロンを用いて彼らを懲らしめたのであり、国家のリーダーである王はどうあるべきなのか…ということを考えさせられるのです。今日の箇所では、カルデヤ(バビロン)の軍勢に追われて、ゼデキヤ王の軍隊の兵士たちは、みな王から離れて散ってしまったとあります。エルサレムを包囲され、兵糧攻めにあって苦しんでいた民衆を見捨てて逃げ出した王、そして本来、忠誠を尽くして王を守るべきなのに、王を見離して散っていった家来たち…。そこには、なんとか生き延びようと、自分のいのちを救おうとする、身勝手で自己中心の王や兵士たちの姿が描かれているのです。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見いだすのです」(マタ16:25)。主イエスは弟子たちにそう言われました。私たちは、主に贖われ、王であるイエスに仕えるしもべであり、主イエスから離れずについて行くことが求められています。苦難の中で、自分のいのちを救おうとするなら、すなわち、主イエスに従わずに、人間的な方法に頼っても、それは単なる一時しのぎにしかならないのです。主に拠り頼み、主の御力とみわざの現れを日々体験しつつ、主のいのちにあふれて歩む者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 51章45-64節(12月4日) 「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。」…エレミヤ51:45 主はバビロンで捕囚となっていたユダの民に、バビロンから出よ、バビロンに対するご自身の怒りから逃れよ、と命じられましたが、それは、主が、ご自身の民を解放し、自由を与えてくださるということを意味しています。彼らはもはや捕囚の身分ではなくなるということです。またそれは、主の前に高ぶり、刻んだ像を拝むバビロンが、主によって裁かれ、完全に断ち滅ぼされるということであり、その彼らの巻き添えになって滅ぼされないようにせよという、ユダの民への警告でもあったのです。その主の語りかけは、「それぞれ」が自分に対するメッセージとして聞き、「それぞれ」が決断して従うべきものです。そしてそれは、「自分自身を救う」ために、主が備えてくださった解放と救いの道です。かつてイスラエルの民が、奴隷として虐げられていたエジプトから脱出したことが重なります。そしてそれは、霊的な意味では罪の奴隷からの解放と救いです。エレミヤを通して語られたその主のことばは、すべての時代のすべての民に対する、罪からの救いを示唆するメッセージなのです。主は私たちを愛して、御子イエス・キリストを遣わされました。それは罪の奴隷から私たちを贖い、解放し、自由にするためであり、やがて終わりの日になされる神の裁きから、私たちが救われるためであったのです。「行け。立ち止るな。…エルサレムを心に思い浮かべよ」(50節)。キリストにあって神の救いにあずかり、聖徒とされた私たちは、罪に満ちたこの世に未練を持つことなく、主の栄光と臨在に満ちた新しいエルサレムを思い、天に向かって地上の荒野での歩みを進めている者たちなのです。「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え」。アドベントの中にあって、そのことばに接するとき、救われるべき人々、その主の命令に従うべき者たちがまだ大勢いることを思わされます。先に救われた者として、その人たちの救いのために、とりなし続けたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 51章20-44節◇(12月3日) 「それゆえ、主はこう言われる。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する。バビロンの海を干上がらせ、その泉を涸らす。」」…エレミヤ51:36 20-23節には「あなたによって…砕き」ということばが繰り返されています。そのように、バビロンは国々を砕くための道具(鉄槌、1節)として主に用いられますが、彼らがシオンにおいて行ったすべての悪のゆえに、主は、ご自身の民の目の前で、彼らに報復されるのです(24節)。28節の「メディア」は、後にペルシャに併合された強大な国ですが、主は、バビロンを滅ぼすために、今度はその者たちや27節に書かれている諸国を道具として使い、バビロンの地を、住む者が誰もいない、荒れ果てた地とされるのです。すると、バビロンの戦士たちは、そのような状況に追い込まれて、戦う気力をすっかり失い、砦の中に座り込んでおろおろとおじ惑うのです(30-32節)。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する」。ご自身の民に向かって主はそう言われました。そのように主は、御名を呼び求めて訴える者たちの声に確かに耳を傾け、力強い御腕を動かし、彼らを敵の手から守ってくださるのです。正しい報いをなされるのです。「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し 貧しい者のために さばきを行われることを」と詩篇に書かれているとおり(詩140:12)なのです。主は、根拠のない敵の偽りの訴えを退け、聖徒たち一人ひとりを弁護してくださるお方です。パウロも、「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです」と語っています(ロマ8:33)。主は、私たちの訴えに確かに耳を傾け、それを取り上げ、私たちを虐げようとする者から守ってくださいます。また、神に選ばれ救われた私たちを、責め立てる者がいても、私たちが、神に愛され、キリストにあって罪赦され、義なる者であると、弁護してくださるのです。誰にも理解してもらえないと心細く感じるときも、人を見るのではなく、何よりも主に祈り、主を呼び求めたいと思います。 主からの慰めと励ましがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 51章1-19節◇(12月2日) 「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」…エレミヤ51:5 主は、ご自身の教えに従わず、みこころに逆らい、ご自分から離れてしまったイスラエルとユダの民を見捨てることなく、バビロンの手から救い出し、回復を与えると約束されました。しかしそれは、彼らがそのような取扱いを受けるのにふさわしい者たちであったからではなく、ひとえに主の深いあわれみによることであったのです。10節は、そのようにしてバビロンから解放される、主の民の告白です。「主は私たちの義を明らかにされた」。しかしそれは、彼らの正しさが主に認められた、ということではありません。あくまでも主の恵みにより、そして、主がアブラハムと結ばれた、子孫の祝福という約束を伴った契約のゆえに、そのように取り扱われるということなのです(19節)。ここに、主からの一方的な罪の赦しに基づく、民の救いと回復が示唆されているのです。ご自身の民に対する、主の一方的な恵みとあわれみ…義と認めてくださること…。それは決して、自動的、機械的にもたらされるものではありません。アブラハムは、満天の星を見上げるように主から命じられ、あなたの子孫はこのようになると告げられ、子がいなかった高齢の彼はその主を信じたのです。そして主は、その信仰のゆえに、アブラハムを義と認められたのです(創15:5-6)。そのように、神によって義とされるということは、契約と信仰に結びついたことであって、人間の側のがんばり、知恵、知識、富など一切のものは、その根拠とはなり得ません。そして私たちも、キリストが人類のために成し遂げてくださった、十字架と復活による贖いを信じたゆえに、主の血潮による新しい契約に基づき、罪赦されて、義と認められたのです(ロマ3:24)。それはただ、神の恵みとあわれみによることであって、神の民に加えられた私たちもまた、決して主に見捨てられることはないのです。そのことを深く心に留めたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 50章21-46節◇(12月1日) 「高ぶる者よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。-万軍の神、主のことば-おまえの日、わたしがおまえを罰する時が来たからだ。」…エレミヤ50:31 50章の後半でも、バビロンに対して主がなされるさばきがが語られています。「全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか」とありますが(23節)、諸国を圧倒的な勢力をもって征服した大国も、彼らがイスラエルの神を侮り、自らの力を誇って高ぶっていたために(29、30,32節)、主によって無残にも滅亡させられるのです。創世記11章には、頂が天に届く塔を建て、自分たちの名をあげようとする企みを主が阻止し、彼らのことばを混乱させて散らされたという記事がありますが、そのバベルの塔が建てられた場所が後のバビロンです。神と対等な立場になろうとするバビロンの高ぶりは、彼らの先祖の時代からすでに現されていたのです。主はまた、「主に争いを仕掛けたからだ」とバビロンに指摘しておられます(24節)。神に造られた人が、神に勝つことなどできるわけないのに、主に争いを仕掛ける、戦いを挑む…それがどれほど愚かで罪深いことであるのか、彼らは気づきませんでした。自分たちの戦力、財宝、偶像の神を誇り、肉の思いに支配された彼らは、自分たちがどれほど神の前には無に等しい存在であるのか、わからなくなってしまっていたのです。35-38節には「剣が…、剣が…」と繰り返されていますが、諸国の民を襲い滅ぼすために彼らが頼った剣が、今度は自分たちのところに下るという、皮肉な結果となってしまうのです。私たちはバビロンのように主に争いを仕掛けることはないでしょう。しかし、主からの恵みを当たり前のように日々受け取っているとしたら、それらに対する感謝が湧いてこないとしたら、そのくらいならわざわざ祈らなくてもやれると思うなら、それは、自分の存在を神の前に高くしようとする、高ぶりの兆しなのかもしれません。神がおられなければ、主が与えてくださらなければ、私は一歩も前に進めない、何もすることができない…。常にそのように自分を低くして歩みたいと思います。 ますます謙遜な者とされますように。 |