◇聖書箇所: レビ記 22章1-16節◇(4月25日) 「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。」…レビ22:2 「聖なるもの」についての規定が書かれています。「聖なるもの」とは、3節にあるように、イスラエルの民が主のために聖別したもの、すなわち、主の前にささげるべく持って来て差し出されたもののことです。それを扱う際にはぞんざいにせず、細心の注意を払うようにせよと、主は祭司たちに命じられたのです。そのように祭司たちは、汚れたままで聖なるものに近づくことがないよう、自分の身を常にきよく保つようにし、民がささげたものを軽率に取り扱うことがないように心掛け、その聖なるものを食し、また祭司としてのすべての職務を果たすことが求められました。「一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない」とありますが(10節)、祭司は、神によって選ばれ、任命され、責任と権利が与えられた存在であって、彼らはしっかりとその自覚をもって、自らの務めを果たす必要があったのです。そうでないなら、死に至ることさえあったのです(9節)。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」(ヨハ15:16a)。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(1ペテ2:9)。私たちもまた、主によって選ばれ、救われ、召し出された者であり、主の働きを担う者として任命されているのです。「祭司」として身をきよく保つべきなのです。イエス・キリストは罪のないご自身を、「聖なるもの」として神の前に差し出されました。キリストこそ真の大祭司であられ、その贖いによって、罪人である私たちは、罪責を負って死ぬことがなくなったのです。キリストにあって義と認められ、神の民とされているのです。祭司の務めを担っているのです。しっかりとその自覚を持ち、自らをきよく保ち、この世と調子を合わせることなく、委ねられている務めを果たす者でありたいと思います。 感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。 |
◇聖書箇所: レビ記 21章◇(4月24日) 「ただし、垂れ幕のところに行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する主だからである。」…レビ21:23 レビ記21-22章には、祭司たちに対する規定が書かれています。レビ族の中から立てられる彼らは、イスラエルの民の罪が赦されるようとりなすべく、神と民との間に立ち、幕屋や神殿においていけにえをささげ、祈り求める者たちです。そのような大切な務めを担っている祭司たちに対して主は、自分の身を汚してはならない、聖でなければならないと、繰り返し命じています(1-15節)。また16節以下では、主は祭司であるアロンの子孫に対し、身に欠陥のある者は祭壇に近寄ってはならない、すなわち、祭司の務めにあたることができないと、繰り返し告げておられます。主の前にささげるいけにえの動物は、傷のないものでなければなりませんでしたが、それをささげる祭司たち自身もまた、身体的に欠陥がないこと、聖所をきよく保つことが求められたのです。「欠陥」ということばには強い否定のニュアンスがあり、平等を求める現代では、神のその命令は差別的に思えるかもしれません。しかし、よくよく考えれば、その身の欠陥は外面のことだけではないのです。祭司たちを含めてすべての人の内には、神の聖さとは相容れない欠陥、すなわち「罪」があることを教えられます。本来、私たちは、だれひとりとして神に近づくことはできないのです。大祭司は傷のない動物の血を携えて神に近づきましたが、大祭司なるキリストが自らいけにえとなって十字架にかかり、罪のないご自身の血を流されたからこそ、主を信じる私たちは、キリストにあって、身に欠陥のない者とみなされ、神に大胆に近づくことができるのです。そしてさらに、キリストに贖われた聖徒たち一人ひとりが祭司とされ、人々の救いをとりなし、福音を宣べ伝える働きを担っているのです(1ペテ2:9)。そのようにして、「身に欠陥のある者」が神に用いられることを感謝しつつ、その務めを忠実に果たす者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: レビ記 20章◇(4月23日) 「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである。」…レビ20:26 レビ記20章には、18章の内容と重複していますが、カナン人たちが風習として行なっていた、主が忌みきらう行為があらためて列挙され、彼らと同じようにそれらを行なってならないと、イスラエルの民への命令が書かれています。2-5節に出てくる「モレク」とは、カナン人たちが信じ仕えていた、雄牛の頭を持った偶像のことです。また10-21節には姦淫などの性的な罪が扱われています。そして、18章と比較すると、「~してはならない」と禁じられていたそれらの行為について、20章では、それらを破った者へのさばきが告げられており、「必ず殺されなければならない」、「その血の責任は彼らにある」と、死という厳罰を主が命じておられることがわかります。そのことを知るとき、私たちは困惑するかもしれません。今はそのような時代ではない…それは自分たちにはそのままあてはまらない…と考えるかもしれません。しかし、「わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである」と言われた主のことばは、キリストによって贖われた聖徒たち、神の所有のとされた霊的なイスラエルの民にとって、決して無視してよいものではないのです。律法の精神、神の御旨は、新約の時代に生きる者にとっても無関係ではないのです。そしてそのことを覚えつつ、私たちは神が備えてくださった救いを感謝すべきなのです。律法学者たちは、姦淫の罪で捕らえた女性に対し、レビ記20章10節を持ち出し、石打ちによって殺そうとしましたが、主イエスは、「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われ、彼女には、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と告げられたのです(ヨハ8:7,11)。神に選り分けられ、キリストにあって罪赦された者として、神に喜ばれるあり方を常に選び取る者でありたいと思います。 主の御旨に従うことができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 24章36-53節◇(4月22日) 「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」…ルカ24:49 エマオへの途上で主イエスと出会った二人の弟子がエルサレムに戻り、事の次第を仲間に話している中、主は突然、彼らの真ん中に立たれました。すると彼らは、それが幽霊だと思って震え上がり、取り乱してしまったのです。そこで主が、十字架につけられたときの釘の跡が残る手足を見せ、なおも半信半疑であった彼らの前で焼いた魚を食べてみせると、弟子たちはようやく、自分たちの主がよみがえられたことを認めるようになりました。その後、主は、弟子たちに対して宣教命令を与えられました。罪の赦しを得させる悔い改めをあらゆる国の人々に宣べ伝えるべく、彼らをご自身の証人として用いることが主のご計画であったのです。そして、そのために、いと高き所、すなわち天におられる父なる神から力が着せられると告げ、それまではエルサレムにとどまるよう命じられたのです。そのように弟子たちが「力を着せられる」とは、主が天に昇られた後、約束されたもうひとりの助け主、聖霊に弟子たちが満たされることを意味していました。そしてルカは、その聖霊の働きを、福音書の続編である「使徒の働き」でさらに記しているのです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)。私たちはそれぞれ、「イエスは主です。私の救い主です」と認め、口で告白し、救いにあずかることができたのです。それは、聖霊の働きによって、私たちの霊の目が開かれたからにほかなりません。そして聖霊は、今も、そのように告白して救われる人々を起こそうと働いておられるのです。主の宣教命令…それは、主に贖われ、主のいのちに生かされている私たちが、何のためにこの世に存在し、人生において何を目指すのかという問いへの答えです。その主の命令に従う忠実なしもべとして、聖霊に満たされ、恐れずに主を証しし、人々に福音を宣べ伝える者とされたいと願います。 主の使命を全うすることができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 24章13-35節◇(4月21日) 「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」…ルカ24:27 復活された主イエスは、エルサレムからエマオへと向かう二人の弟子にも現われました。しかし、彼らの霊的な目はさえぎられていたため、二人はその人がイエスだとはわからなかったのです。そして、会話をしながら3人で歩き続ける中、二人は自分たちの主のことを、「行いにもことばにも力のある預言者」、「イスラエルを解放する方」と説明したのです。またそのイエスの墓が空だったという仲間の報告を聞いても、二人は主のからだがそこになかったことに困惑し、暗い顔になっていたのです。彼らはイエスの復活が事実だと思っていなかったのです。そんな二人を主イエスは、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言って嘆かれました(25節)。そして、聖書全体からご自分についての預言のことばを説き明かされ、一緒に食卓につき、パンを裂いて二人に渡されました。するとそのとき、ようやく彼らの目が開かれ、二人は、その人が自分たちの主であるとわかったのです。また、それまで二人はイエスを、単なる預言者、地上の国を治める王だと誤解していましたが、そうではなく、罪を赦し、救いをもたらすメシアだと、正しく理解したのです。主が二人とともに食卓につき、パンを取って神をあがめ、裂いてそれを渡されたという行為は、主イエスが定められ、今も教会でなされ続けている聖餐式を連想させます。そしてそれは、単なる儀式ではなく、主イエスのからだと流された血潮を深く覚えるときであり、よみがえられ、死に勝利された主をほめたたえるときなのです。私たちも、そのような主との親しい交わりを持ち、聖書全体から説き明かされるみことばに耳を傾ける中で、霊の目が開かれていくのです。聖日ごとに礼拝にあずかり、また日々時間を取ってみことばを読み、祈り、主と深く交わることの大切さをあらためて教えられます。人の知恵ではなく、御霊の啓示によって、さらに主を深く知る者とされたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 23章44-56節◇(4月19日) 「この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。」…ルカ23:52-53 安息日の前日の金曜日、主イエスは十字架につけられました。太陽の光が失われ、全地が闇に覆われる中、午後3時になると主は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と大声で叫び、息を引き取られました。そしてそのとき、神殿の至聖所と聖所を隔てている幕が真ん中から裂けましたが、それは、人類の罪の贖いが完成し、隔てが取り除かれ、すべての者がキリストにあって神に近づけるようになったことの象徴であったのです。この出来事を目撃したローマ軍の百人隊長は、「本当にこの方は正しい人であった」と告白し、「十字架につけろ」と叫んでいた群衆もみな、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行きました。それがどのような悲しみであったのかは不明ですが、おそらく、「正しい方」を死なせてしまったという、良心の呵責であったのでしょう。ところでそのとき、主の弟子たちはいったいどこにいたのでしょうか…。ルカは何も記していませんが、群衆の中に紛れ込んでいたのかもしれません。しかし、そうだったとしても、イエスの仲間だと指摘されることを恐れて、彼らはびくびくしていたに違いありません。そんな彼らと対照的なのが、ヨセフという議員と、主に付き従った女性たちです。ヨセフはピラトから許可を得、十字架上のイエスのからだを取り降ろし、亜麻布で包み、岩に掘られた新しい墓に納めました。イエスが説いた神の国の実現を切望していた彼は、議員の立場を失うことを恐れず、人の目も気にせず、自分に出来ることをしたのです。女性たちもそうです。主のからだに塗る香料と香油を用意し、安息日が開けるのを待ったのです。そのように、神の国を求め、主のみこころがなされるために、自分に示されていることを忠実になす者となる…。それは、今に生きる私たちにも求められているのです。自分の十字架を負って、主に従う者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 23章26-43節◇(4月18日) 「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」…ルカ23:43 アラム語で「ゴルゴタ」と呼ばれる「どくろ」という場所で、主イエスと二人の犯罪人が十字架につけられました。すると、祭司長や律法学者たち、さらには議員や多くの民衆もそれを見て、「もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」とイエスをあざ笑い、刑の執行にあたったローマ兵たちも、「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とばかにし、さらには十字架上の犯罪人の一人も、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言って主をののしったのです。しかし、主は十字架から降りようとはされませんでした。なぜなら、もしそうするなら、人類の救いは実現しないからです。贖いが完成しないからです。十字架にかかられた主イエスは、ゲツセマネで苦しまれたときと同じように、全き人としてのご自分を貫いておられたのです。そしてそのようにあざけっている者たちの罪のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と神に祈り、ご自分のいのちを差し出すことを良しとされたのです。主イエスのそのとりなしのことばを聞いたもう一人の犯罪人は、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と。死刑に処せられた彼は、重大な罪を犯したに違いありません。死ぬ間際にそのようなことを言うのは虫が良すぎるとも思えます。しかし彼はそのとき、確かにイエスをキリストだと信じ、心から神のあわれみを願い求めたのです。すると、その犯罪人の信仰の告白を聞かれた主イエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と彼に言われました。パラダイスとは、パウロが「第三の天」に引き上げられたと語った場所であり(2コリ12:2,4)、贖われた者が食べるいのちの木があるところです(黙2:7)。その犯罪人はそこに入ることを許されたのです。「信仰による義」(ロマ3:28)を心に留めたいと思います。 主の受難を深く覚えることができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 23章13-25節◇(4月17日) 「それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」…ルカ23:24-25 ピラトは宗教指導者たちや民衆を呼び集め、イエスを取り調べたところ、死刑に値する悪事をしていないことがわかった、それはヘロデも同じである、よって私はむちで懲らしめたうえで彼を釈放する、と彼らに告げました。ところが、それを聞いた彼らは逆上し、その男を殺せ、バラバを釈放しろと、大声でしつこく要求し続けました。それは、祭りのたびに、民衆が望む囚人を一人赦免することが慣例であったからです(マタ27:15)。そのバラバとは、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた者だと、ルカは繰り返し述べています(19,25節)。そして、結局ピラトは、彼らの要求に屈してバラバを釈放し、代わりにイエスを引き渡し、彼らの好きなようにさせました。ピラトは、この騒ぎが暴動へと発展し、自分がその責任をローマ当局から問われ、総督の地位を追われることを恐れたのです。だから、イエスが無罪だとわかっていたにもかかわらず、自らの保身のために群衆たちの言いなりになったのです。また、民衆は祭司長たちに扇動され、自分たちの国の占領者であるローマへの不満も相まって、感情のおもむくままに行動していたのです。一方、突然釈放されたバラバは、どう思ったでしょうか。まったく予期していなかったことに戸惑いを感じつつも、自由が与えられたことをうれしく思ったことでしょう。そしてそのバラバは、私たち自身のことでもあるのです。暴動を起こさず、人を殺していなくても、神に背を向けて身勝手な歩みをしていたということにおいて、すべての人が神の前に罪人であるのです。しかしその私たちは、イエスが十字架にかけられて殺されることと引き替えに、特別に赦免されて死刑を免れることとなったのです。それは、本来あり得ないことであって、神の一方的な愛とあわれみのゆえになされたことなのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。 栄光と誉れが主にありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 23章1-12節◇(4月16日) 「それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。」…ルカ23:9 最高法院においてご自分が神の子であることを認められた主イエスは、有罪だとの判決を受け、宗教指導者たちによってユダヤ総督ピラトのもとに連れて来られました。23章には、群衆、祭司長と律法学者たち、ピラト、ヘロデなどが登場しますが、主イエスと関わったそれらの者たちには、それぞれの思惑があったのです。まず、祭司長や律法学者たちは、民衆から人気があり、自分たちのあり方を批判するイエスを苦々しく思っており、イエスを消し去ろうと企んでいました。彼らのうちには強い嫉妬心と敵対心があったのです。また、ユダヤ全体を統轄する総督としてローマ当局から遣わされたピラトは、ユダヤ人たちが暴動を起こさないようにうまく治め、自分の立場を守ることが最大の関心事でした。さらに、ガリラヤの領主であったヘロデ(幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)は、単なる好奇心から、イエスが行うしるしを何か見たいと望み、いろいろ質問したのです。そこには人間的な関心しかありませんでした。そのような者たちとの関わりにおいて、主イエスは冷静かつ毅然とした態度を持ち続けました。興味本位のヘロデの質問には一切答えず、彼と兵士たちから侮辱されても、それをやめさせようと、神の力を行使することはありませんでした。ゲッセマネでの祈りの中で、父なる神に従い、「杯を飲む」ことを決意された主は、十字架へと向かう道を、一歩一歩進んでおられたのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23)。私たちが主に従おうとするとき、さまざまな誘惑や攻撃にさらされます。しかし、それらに対して「肉」によってではななく「霊」によって応じる、すなわち、祈りとみことばによって立ち向かうことが大切なのです。そして御霊の力と助けによってこそ、私たちもまた、毅然とした態度でそれらを退けることができるのです。そのようにして主に従い続けたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 22章54-71節◇(4月15日) 「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われた主のことばを思い出した。」…ルカ22:61 祭司長たちに捕らえられた主イエスのことが心配で、こっそりあとについて行ったペテロは、大祭司の家の中庭にいた人々から、あなたもイエスの仲間だと指摘されると、いや違うと、三度そのことを否定しました。そしてそれは、主がペテロに予告していたとおりのことであり(34節)、あなたと一緒なら死であろうと覚悟はできていると豪語していた(33節)ペテロの大失態であり、彼が自分は主の弟子として失格だと認めざるを得ないような出来事でした。彼は中庭から外に出て行って、激しく泣いたと書かれています(62節)。ペテロが主を三度否み、鶏が鳴いたとき、イエスは振り向いて彼のことを見つめられました。では、その主のまなざしはどのようであったのでしょうか…。おそらくペテロは、自分がしたことの重大さを思い、主から責められていると感じたことでしょう。あるいは、彼は気が動転していて、自分を見つめるその主のまなざしに気づかなかったかもしれません。しかし、ペテロの弱さを知っておられた主のそのまなざしは、彼を咎めるものではなく、「わかっているよペテロ…」という、愛とあわれみに満ちたものだったに違いないのです。なぜなら主は、彼の信仰がなくならないようにと、すでにとりなして祈っておられたからです(32節)。その主イエスのまなざしは、私たちにも向けられています。主は、私たちの弱さをご存じであられ、信仰がなくならないように、父なる神の右の座において、今も私たちのためにとりなし続けてくださっているのです(ロマ8:34)。愛とあわれみに満ちた主のそのまなざしの中、たとえ主の道からそれてしまうようなことがあっても、自分はだめだと責めたり落ち込んだりすることなく、罪を言い表して立ち返り、赦され、主に従い続けるべきなのです(1ヨハ1:9)。主が私たちにそう願っておられるということを覚えたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 22章39-53節◇(4月14日) 「そこで、彼らに言われた。『どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。』」…ルカ22:46 主イエスはオリーブ山に行かれ、弟子たちも従いました。そしてそこで、主イエスは、父なる神との親密な交わりを持たれました。祈りという対話により、自らの願いや思いを父に伝えると同時に、父の思いを知ってその御旨がなるようにと、すべてを明け渡そうとされたのです。具体的には「杯」、つまり自分がかかることになる十字架の苦しみを思い、願わくばそれを取りのけてほしい、しかし父の御旨が最優先されるようにと祈ったのです。それは主にとって、激しい葛藤、大きな戦いの時でした。イエスは苦しみもだえて、汗が血のしずくのように地に落ちたと記されています(44節)。そこはオリーブの実を押し潰して油を搾り取る作業場があったため、「ゲッセマネ」(油絞りの意)と呼ばれていた場所でしたが、そのとき主イエスは、自分が押し潰され、父が求める純粋な油が搾り取られるようになるのを願っておられたのです。一方、そこで主と一緒に祈っていた弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまっていました。その悲しみが何を指すのかは書かれていませんが、主が予告されていたご自分の死が(ルカ18:32-33)、現実のものとなりつつあるのを悟ったゆえの悲しみであったに違いありません。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と、主が弟子たちに繰り返し語られたことばが心に留まります(40,46節)。その「誘惑」とは、神のみこころよりも自分の願いを優先させようとする人間の心のあり方を意味しています。荒野において悪魔からいくつかの誘惑を受けた主イエスが、神のみこころをみことばによって宣言し、その誘惑を退けたことが思い起こされます(マタ4:1-11)。そのように、神の助けを祈り求め、みことばによって支えられ、守られなければ、弱い私たちはその誘惑に陥ってしまうということを、あらためて教えられます。絶えず目を覚まし、主のみこころがなるようにと祈り求め、自らを主に明け渡す者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 22章14-23節◇(4月12日) 「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」…ルカ22:20 主イエスは、12人の弟子たちと一緒に、ある家の二階の大広間を借りて過越の食事をされ、ご自分が苦しみを受ける前、すなわち十字架にかかられる前に、そうすることを切に願っていた、と言われました(15節)。そしてそれは、その過越の食事で裂かれ、分け与えられるパンと、血のような色のぶどう液が、主ご自身のからだと流される血潮を象徴するものであり、十字架と復活のみわざがなされた後の時代において、聖徒たちがその贖いを覚えて感謝すべく、パンとぶどう液を食す「聖餐のとき」を持つようにと、主ご自身がそこで制定されたからです。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです」。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」。パンを取り、ぶどう液の杯をかかげ、そのように告げながら分かち合われる主イエスの姿とそのことばは、弟子たちの心に深く刻まれたに違いありません。その後、主イエスが鞭打たれ、肉が裂かれるのを見たとき、彼らは、その主のことばをありありと思い出したでしょう。そして、神のさばきが過ぎ越すための子羊の血は、主イエスご自身が流される血なのだ…と、強く示されたことでしょう。ヘブル書の作者はエレミヤの預言(エレ31:31)を引用してこう言っています。「神は人々の欠けをせめて、こう言われました。『見よ、その時代が来る。-主のことば-そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる』」(ヘブ8:8)。いけにえの動物の血と律法の遵守による救いという古い契約ではなく、ご自身の血といのちによる新しい契約を、主イエスはもたらしてくださいました。私たちは生まれつきの罪人ですが、そのことを信じるゆえに、神のさばきは私たちを過ぎ越し、罪から解放され、永遠に生きる者とされるのです。2千年前になされた主と弟子たちの過越の食事…。それは聖餐式として今なお続けられ、私たちも弟子としてそこに招かれているのです。そのことを覚えたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 22章1-13節◇(4月11日) 「彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。」…ルカ22:13 過越の祭りと呼ばれる、種なしパンの祭りが近づきました。群衆がイエスになびくのを見て苦々しく思っていた宗教指導者たちは、イエスを捕らえて殺そうと願っていましたが、彼らは、イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダがイエスを裏切ろうとしているのを知ると、渡りに舟と喜び、彼に銀貨を与える約束をしたのです。一方、主はペテロとヨハネに、過越の食事の用意をせよ、と命じられました。そして、どこに用意すればよいかと尋ねる彼らに、都に入り、水がめを運んでいる男の人について行き、その人が入る家の主人に対して、わたしが弟子たちと一緒に過越の食事をする客間を探していると伝え、二階の大広間に用意するよう指示したのです。限られた時間の中で、13人もの大人数が入れる広い部屋を確保して過越の食事の用意をする…。そのことを主から命じられた二人の弟子は、困惑したかもしれません。実際それは、決して容易ではなかったことでしょう。しかし、必要を知っておられ、すべてを支配しておられる主イエスご自身が、その食事の場所をも備えてくださっていたのです。二人は主の指示に従えば良かったのです。それにしても、1-16節において「過越」ということばが何度も出てくることにあらためて心が留まります。ルカは「過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日」と記し(7節)、明日の箇所になりますが、主は弟子たちに、この過越の食事をすることを切に願っていた…過越が神の国において成就するまでわたしが過越の食事をすることは決してない…と言われたのです(15-16節)。それは、その過越の祭りが、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民がエジプトを脱出した際になされた主のみわざを記念するためのものであり、主と弟子たちの過越の食事は、イエスの十字架と復活により、人々への神のさばきが過ぎ越し、罪の奴隷から解放されるという贖いの完成の前祝いでもあったからです。それは単なる「最後の晩餐」ではないのです。そのことを覚えたいと思います。 主が必要を満たしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 21章20-38節◇(4月10日) 「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」…ルカ21:36 「終わりの日」についての主のことばの続きです。神の都エルサレムは軍隊に囲まれ、人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれます。また、太陽、月、星にしるしが現われ、海と波は荒れどよめき、人々は恐れますが、そのとき、人の子、すなわちキリストが、雲のうちに力と栄光とともに再臨するのを見るのです。それは、神のさばきの日であり、アブラハムの子孫、ご自身の民であるユダヤ人のみならず、すべての国々の民が、神の御旨からはずれた歩みをし続け、ご自身に立ち返ろうとしないことへの神の怒りの現れです。そのようなかたくなな心、罪を持ったすべての人たちは、そのままでは聖なる神から義と認められることはないのです。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、その審判によって人類が滅びることのないよう、ご自身のかけがえのないひとり子を世に遣わし、そのイエス・キリストは、十字架にかかってご自身のいのちをささげ、3日目に墓からよみがえり、贖いのわざを成し遂げてくださいました。そしてその良き知らせは、神のことばとして聖書に記され、すべての人が受け取るべきものとして与えられています。その一つ一つの神のことばは、真実であって、決して消え去ることなく、永遠に立つものなのです。異邦人によるエルサレムの蹂躙(24節)は、ローマ軍によってAD70年に成就しました。しかし終わりの日は、それから2千年後の今もまだ来ていません。私たちは「それから」(25節)より前の時代を生きているのです。そして、私たちは、その日が突然臨んでも慌てふためくことなく、人の子の前に立つことができるよう、いつも目を覚まして祈っているべきなのです。すなわち、絶えず主のみこころを尋ね求め、主の光のうちを歩むべきなのです。ともしびの油を持たずに花婿が来るのを待ち、眠ってしまった愚かな娘たちのたとえを思い出します(マタ25章)。油断せずに備え続ける者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 21章1-19節◇(4月9日) 「ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。」…ルカ21:14-15 エルサレムの神殿の荘厳さや美しさに感嘆している人々に向かって、主イエスは、この宮が崩れ去る日がやって来ると言われました。すると彼らは、いつそれは起こるのか、どんな前兆があるのかと尋ねました。その「彼ら」とは、マタイやマルコによれば弟子たちであり(マタ24章、マコ13章)、彼らは見えるものに心奪われていたのです。弟子たちのその質問に対する主イエスの答えが、8節以降に書かれています。天と地が新しくされ、神による審判がなされ、神に義と認められる者たちとそうでない者たちとが分けられるようになる、その「終わりの日」について、主は彼らに教えようとされたのです。戦争、暴動、大地震、飢饉、疫病…。それらのことが終わりの日の前兆であると主は言われました。それらはすでにこの世界において起こっています。しかし、主は、だからといって終わりはすぐには来ない、それらの前に迫害が起こり、あなたがたが人々に証しをするための機会となる、そしてそのときに弁明することばと知恵を、わたしはあなたがたに与える、と言われたのです。世の終わりがいつなのか…私たちはそのことについて、あれこれと考えたり、それがわからないといって恐れたりする必要はないのです。主に導かれて人々に語る証しは、だれも対抗したり反論したりできないものであり(15節)、また、主の名のゆえに人々から憎まれても、髪の毛一本さえ失われることはないと、主は聖徒たちに対して約束しておられるからです(18節)。私たちにとって大切なのは、どのような状況になっても、恐れず、慌てふためかず、ひたすら主に信頼し続けることです。そして、次々に起こることの意味を見抜く霊の目と、何をどう弁明すればよいのか教えてくださる、主の語りかけを聴く霊の耳を整えることなのです。主に祈りつつ、そのための備えをしっかりとしていきたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 20章27-47節◇(4月8日) 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」…ルカ20:38 死者の復活を信じていないサドカイ人たちが、主イエスのところに来て質問しました。それは、申命記25章5-10節にある「レビラート婚」と呼ばれる戒めについてです。彼らは主にこう尋ねました。7人兄弟の長男が妻をめとり、子がないままで死に、さらに次男、三男…と兄弟がその妻をめとっても子を残さず、結局7人とも死んで妻も死んだ場合、復活したらその妻はだれのものになるのか…と。彼らは、イエスがその問いに答えられず、復活はないと認めるようになることを期待していたのです。しかし主イエスの答えは、彼らが予想しなかったものでした。主は、死者の中から復活するのにふさわしいと認められ、その者たちが入れられる次の世では、今のこの世と同じような営みがなされるのではない…そこではめとることも嫁ぐこともないのだと答えられました(35節)。そのように、復活が確かにあること、そして「次の世」、すなわち天の御国がどのようなものであるかについて、サドカイ人たちは誤った理解を持っていたのです。同じことがマタイとマルコの福音書にも書かれていますが、そこには、主が彼らに、あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしている…と言って非難したとあります(マタ22:29、マコ12:24)。主イエスはさらに、神がモーセに現れたとき、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれたことに言及し、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」と言われました。そのように、私たちの人生は、この地上で肉体の死を迎えたらそれで終わりではないのです。その先に続く永遠の世界が確かにあるのです。そしてキリストは、すべての者がその天の御国で永遠に神とともに生きるために、ご自身の十字架と復活によって、罪からの救い、贖いのみわざを成し遂げられたのです。私たちがキリストにあって救われ、永遠のいのちをいただいていることを覚え、主に感謝したいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 20章20-26節◇(4月7日) 「すると、イエスは彼らに言われた。『では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。』」…ルカ20:25 律法学者や祭司長たちは、義人を装った回し者をイエスの元に遣わしました。それは、その者に意地悪な質問をさせ、答えのことばじりをとらえて総督に訴え、イエスを捕らえる口実にしようとたくらんでいたからです。その回し者たちは、ユダヤの民衆がローマ皇帝カエサルに税金を納めることの是非を主イエスに尋ねました。それは、イエスが納めるべきだと答えれば、神よりもカエサルを重んじる不敬虔な者だとし、拒むべきだと答えれば、カエサルを認めずローマ帝国に反逆する者だとし、どちらにしても、イエスを捕らえるのは正当だと訴えることができるようにするための、罠であったのです。ところが、その質問に対する主の答えは、彼らを驚嘆させ、反論できないようにするものでした。主イエスは、広く流通しており、彼らも使っているデナリ銀貨の肖像と銘がだれのものかと尋ね、カエサルのものだと彼らに認めさせた上で、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と告げたのです。それはすなわち、両者は決して対立するものではなく、神の絶対的な主権のもとにカエサルが立てられ、平和がもたらされ、社会的な秩序が保たれ、人々は安心して暮らすことができているのだ…そのカエサルに税金を納めることは当然の義務であって、それによって神を敬わないことにはならないのだ…という主張であったのです。パウロはこう言っています。「王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです」(1テモ2:1-3)。私たちが、国の指導者たちのためにとりなして祈ることは、主のみこころなのです。そのことを日々実践したいと思います。 平安のうちに歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 19章41-48節◇(4月5日) 「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」…ルカ19:41 41-44節には主イエスの嘆きと悲しみが記されています。エルサレムに近づかれた主は、目の前に広がるそのうるわしい都が、異邦人の手によって蹂躙される日がやがて来ることを思い、涙を流して言われました。やがておまえの敵が四方から攻め寄せ、おまえと中にいる子どもたちを地にたたきつける…と。実際、エルサレムの町は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊され、ユダヤ人たちは家族や家を失い、逃げ出すことになったのです。「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ」(44節)。その「訪れ」とは、メシアなるイエスご自身の訪れであり、主がもたらされた神の国の福音、良き知らせの訪れのことです。多くのユダヤ人たちがその訪れを歓迎せず、自分たちとは無関係のものとして拒絶し、受け入れようとしなかったことを意味しているのです。その後主イエスは、都に入り、実際にそのような扱いを受けようとしておられました。人々からののしられ、つばきされ、十字架にかけられる時が刻々と近づいていたのです。そのような中、主は、都を前にして嘆かれ、深い悲しみを覚えて涙されたのです。そしてその悲しみとは、主の宮が壊され、都全体が陥落し、多くの同胞のいのちが失われてしまうということ以上に、人々が、神が備えられた救いを受け取ろうとせず、なおも罪と闇の中に留まろうとすることへの、心の痛みであったのです。その主の御目は、今もすべての人に対して向けられています。なぜなら、その一人ひとりのために、主はご自身のきよい血を流し、十字架で死なれ、墓からよみがえり、贖いのわざを成し遂げられたからです。そして、人々がその良き知らせの訪れを知り、イエスを主と信じて救われ、聖霊が住まわれる主の宮として建て上げられることを、心から願っておられるからです。すでにその恵みにあずかっている私たちは、主が御目を注いでおられるその方々に、メシアの訪れ、神の国の福音の訪れを、感謝と喜びをもって伝えていきたいと思います。 主にますます用いられますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 19章28-40節◇(4月4日) 「イエスは答えられた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』」…ルカ19:40 主イエスの「エレサレム入場」と呼ばれる記事です。エルサレムに近づかれた主は、二人の弟子を村に遣わし、ご自分が乗るためのろば、しかも、まだだれも乗ったことのない子ろばを連れて来るように命じられました。それを聞いた彼らは戸惑ったに違いありません。なぜなら、通常、王などの地位の者が乗るのは立派な馬であり、自分たちの主が背の低い子ろばに乗ることが、滑稽であるように感じたからです。また、初めて人を乗せる子ろばがその役目を果たせるのか、心配であったからです。その二人が実際に村に入ってみると、状況はすべて主が言われたとおりでした。確かにろばの子がつながれており、ほどこうとすると持ち主から理由を問われ、主がお入り用なのだと答えると、使用を認めてくれたのです。なぜなら、それらは主ご自身が備えられたことであり、ゼカリヤが預言していたことだったからです(ゼカ9:9)。戻ってきた二人の弟子は自分たちの上着を子ろばの上に掛け、主はそれに乗って進んで行かれました。すると今度は人々が、自分たちの上着を脱ぎ、その通られる道に敷いたのです。それらの行為は主を王と認め、服従する心の表れです。さらに進むと、大勢の弟子たちが大声で神を賛美し始めましたが(38節)、そのことばは、主の降誕における天の軍勢の賛美のようでした(ルカ2:14)。一方、それを苦々しく見ていたパリサイ人たちは、弟子たちを叱ってやめさせるようイエスに求めましたが、主は、この人たちが黙れば石が叫ぶと言って一蹴しました。その石を含め、この場面に登場する、子ろば、自分たちの上着を敷いた二人や人々、さらには弟子たちの賛美が指し示しているのは、イエスが王であり、メシア、すなわち全世界の救い主であるという紛れもない事実なのです。主に贖われた私たちもまた、そのように、イエスはキリスト、世界を治めるまことの王だと「叫び」、人々に大胆に証しする者でありたいと思います。 主の御名があがめられますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 19章11-27節◇(4月3日) 「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」…ルカ19:17 「ミナのたとえ」が書かれています。マタイの福音書に出てくる「タラントのたとえ」(25:14-30)と比較すると、共通点と相違点があります。ミナのたとえでは、主人は王となって帰ってくる者であり、主はそのたとえを、弟子を含む、そこにいた人々に向かって話されたのです。そのたとえにおいて、主人の指示は、1ミナを資本金として商売をせよということであり、その主人は遠い国で王位を授かってから戻って来ることになっていました。しかし主人の国の人々は彼を憎んでおり、使者を送り、王としての受け入れを拒否する意志を先方に伝えたのです。結局それは無効とされ、主人は王となって戻り、1ミナを預けたしもべ全員にに結果を報告させました。10ミナ、5ミナとそれぞれもうけを出した者たちは、それに見合う数の町の統治権が与えられましたが、あるしもべは、その主人が、預けなかったものまで取り立てると恐れ、何もせず、1ミナを布に包んだまましまっておいたのです。すると、それを知った主人は、それならなぜ銀行に預けて利息を得なかったのかと怒り、1ミナを彼から取り上げ、10ミナ持っている者に与えるよう指示したのです。このたとえを主が話された理由が11節に書かれています。人々が考えていた神の国とは、政治的な意味でのものであり、民衆はそうでないと分かるとイエスを憎みました。しかし、主がもたらされた神の国とは、全世界の王なるキリストが支配・統治される霊的な王国であって、主は、そのただ中で人々になされる、救い、癒やし、解放などのみわざを人々に告げ知らせること、すなわち神の国の福音の宣教を、ご自分の弟子たちに命じられたのです。そのたとえにおける主人とは主イエスであり、主は再びこの地に来られます。そのときイエスを王として拒絶した者はさばかれてしまうのです(27節)。また、しもべが主人から預けられたミナとは神の国の福音です。それを多くの人々に届ける忠実なしもべでありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 19章1-10節◇(4月2日) 「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」…ルカ19:10 ローマから委託され人々から税金を取り立てる取税人…。そのかしらであったザアカイは、人々から非国民呼ばわりされ、「罪人」として、のけ者にされていました。そのザアカイは、エリコの町を通って行かれる主イエスのことを噂に聞き、自分も一目見ようと通りに出ましたが、背が低かったため群衆が壁となって見ることができません。そこで、いちじく桑の木に登るという行動に出たところ、まもなくそこを通りかかったイエスから声を掛けられたのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている…」と。木の下に立ち止った主イエスが、上を見上げてそのように言われたのを聞いたとき、ザアカイは驚いたに違いありません。なぜなら主イエスが、自分の名を呼び、「あなたの家に泊まることにしている」と言われ、その訪問があらかじめ計画されていたことだと、示唆されたからです。また、人々から金を脅し取るという罪を犯していたにもかかわらず(8節)、主イエスがそんな自分と積極的に関わろうとされたからです。ザアカイは急いで木から降り、大喜びでイエスを自宅に迎え入れました。そして、主の前で罪を告白し、財産を貧しい人に施すことや、脅し取った物を4倍にして返すことを約束したのです。すると主イエスは彼に向かってこう言われました。「今日、救いがこの家に来ました…人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」と。ザアカイが自分の行為を反省し、人々への施しと弁償を約束したから「救い」が彼の家に来たのでしょうか…。そうではなく、救い主なるイエスが彼の家に来られ、非国民扱いされていた彼を受け入れられたからこそ、その愛に、恵みに応え、神のみこころにかなう者でありたいという切なる願いが、彼のうちに起こされたのです。私たちもまた「失われた者」でした。そして、主に名を呼ばれ、救いの恵みにあずかったのです。そのことをいつも、驚きと喜びと感謝をもって受け止めたいと思います。 救いの喜びが絶えずありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 18章31-43節◇(4月1日) 「「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」」…ルカ18:41 一人の盲人のいやしの記事が書かれています。その人はいつものように道端に座って物乞いをしていましたが、大勢の人々の足音が聞こえたので、いったい何事かと尋ねると、ナザレ人イエスが通られるのだと言うのです。癒やしと解放のみわざをなされていたイエスのうわさは、彼の耳にも届いていました。そして、そのイエスがエリコの町にも来られたと知って、この自分の目が見えるようにしてもらいたいと、彼は強く願ったのです。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」。そのように彼が大声で叫ぶと、人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます声を張り上げて叫びました。すると主イエスは立ち止まり、彼を呼び寄せ、「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねられたのです。その盲人が自分に何を求めているのか…。それは明白であり、主イエスがそれを知らないはずはありませんでした。しかし、そのとき主は、あえて彼にそう尋ねたのです。その人は、そんなこと決まっているじゃないか、と思ったでしょうか…。そうではありません。彼は、イエスは必ず自分を癒やしてくださるという信仰をもって、「主よ。目が見えるようにしてください」と答えたのです。すると、それを聞いた主は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」と彼に告げ、盲目であった彼の目は、ただちに見えるようになったのです。「わたしに何をしてほしいのですか」。主は私たちにも、あえてそう尋ねられます。そしてそれは、あなたはわたしを誰だとするのか、あなたはそのことを本気で願い、わたしがそうするのを信じているのか…という問いなのです。その盲人は、目が見えるようになった後、神をあがめながらイエスについて行ったとあります。そして、人々はそれを見て神を賛美したのです(43節)。そのように、私たちの上になされる主のみわざを通し、人々が神をほめたたえるようになることを願いたいと思います。 主に叫び求めることができますように。 |