◇聖書箇所: 列王記 第一 21章1-16節◇(7月9日)

「ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」」…1列王21:3

アハブは、宮殿のそばにあったイズレエル人ナボテのぶどう畑を自分の野菜畑にしたいと願い、それ相当の代価を支払うから譲ってほしいと彼に持ちかけましたが、ナボテは王からのその申し出をきっぱりと断りました。すると、自分の願いどおりにならなかったアハブは不機嫌になり、ふて寝をして、食事も取らなかったのです。それを知った妻イゼベルは策をめぐらし、二人のよこしまな者に「ナボテは神と王を呪った」と偽りの証言をさせ、町の人々に彼を石打ちにして殺させました。それを聞いたアハブは、自分の望みが叶ったことを単純に喜び、さっそくその畑を取り上げるべく下って行ったのです。自分の思い通りにならないと気が済まないアハブの幼児性、駄々っ子のために何でもしてやる母親のように、平気で人のいのちを奪うイゼベルの残忍性、たとえ王からの要請であっても主の教えに従ったナボテの信仰深さ…。聖書はそれらを明らかにしています。土地は神の所有物であり、先祖のゆずりの地を他人に売り渡すことは禁じられていました(民数36:7)。ナボテにとって、アハブの申し出を承諾するのは、主ご自身に背くことでした。そしてそれは、「あり得ないこと」であったのです。もし自分がナボテの立場だったら、彼のように毅然とした態度で王の要請を拒否しただろうか…と考えさせられます。なぜなら、ナボテが実際そうであったように、権力者である王に逆らえば、自らの身の危険を招くことになるからです。議会に引き出され、大祭司から、イエスの名によって人々に教えてはならない、とあらためて禁じられた使徒たちは、「人に従うより、神に従うべきです」と答えました(使徒5:29)。主に贖われた私たちも、だれからの要請であっても神に従う者、神のみこころでないことをきっぱりと拒む者、絶えず主のみことばに立って歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 20章22-43節◇(7月8日)

「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」…1列王20:42b

イスラエルとの戦いに敗北を喫したアラムの王ベン・ハダデは、イスラエルの神は山の神だから強いのだ、平地での戦いなら私たちのほうに勝ち目がある、と言う家来たちのことばを聞き、彼らの言いなりになって、翌年、再び戦いを交えました。しかし、その戦いもまた、さんざんな結果となり、アラム軍は大打撃を被りました。そのような中、ベン・ハダデの家来たちが、腰に荒布をまとい、首に縄をかけた姿でアハブのところに行き、ベン・ハダデが助けてほしいと懇願していると伝えると、なんとアハブは、彼を呼び寄せて和平の契約を結び、何の危害も加えずに、そのまま帰らせたのです。しかしそれは、主の御旨ではありませんでした。主は一人の預言者を用いてアハブにこう言わせました。見張っておくべき者を逃したらいのちを取られると言われていたのに、自分はそうしてしまった…と。すると、それが自分のことを指していると思わなかったアハブは、あなたはそのとおりにさばかれると、彼に告げたのです。なぜアハブはベン・ハダデを聖絶しなかったのか…。それはアラムとの2回の戦いでの勝利により、傲り、高ぶっていたからです。契約という人間的な方法に安易に頼る心があったからです。エリヤがバアルの預言者たちを聖絶したように、アハブも、宿敵ベン・ハダデを帰すべきではなかったのです。それが神の御旨だったのです。同じように、取り除くべきものをそのままにしていないか…、人間的な方法によって安易に対処しようとしていないか…と、主は私たちにも問い掛けておられます。わたしのみこころを尋ね求め、わたしに拠り頼む者、聞き従う者となってほしい…と、願っておられるのです。うまく行ったからそれでいい…ではなく、静まって絶えず主の導きを求め、それに従う者でありたいと思います。

主のみこころをなすことができますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 20章1-21節◇(7月7日)

「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」…1列王20:13b

イスラエルのアハブ王とアラムの王ベン・ハダドとの最初の戦いが記されています。ベン・ハダドはアハブの元に使者を遣わし、金銀や身内の者を渡すよう求めましたが、アハブがそれを拒否したため、ベン・ハダドの指示によりアラムの軍勢が配置され、臨戦態勢となりました。一方、アハブのところに一人の預言者が来て、主のことばを告げました。それは、アラムの大軍は戦いに敗北する、その戦いを主導するのは諸国の首長に属する若者たちである、とのメッセージでした。それが聞いたアハブがさらに、だれがその戦いを仕掛けるのか、とその預言者に尋ねると、彼は、あなたです、と王に答えたのです。アハブがその若者たちの人数を調べると232人でした。彼は、その者たちを先頭にし、7千人のイスラエルの民も続いて出陣させました。すると彼らはアラムに打ち勝って大損害を与え、主のことばのとおりとなったのです。「ひとりの預言者」の名は不明です。しかし、彼を通して語られた主のことばに従ってアハブが行動を起こしたからこそ、イスラエルは勝利し、主が意図されたとおり、アハブは主こそ神であることを知ることとなったのです。妻イゼベルの影響もあって、主に対するアハブの姿勢はなお揺れ動きますが、バアルの預言者がエリヤとの対決に敗北し聖絶されたこと、エリヤが言うとおり大雨が降ったこと、そしてアラムとの戦いでの勝利と、一つ一つの出来事を通して、主はアハブやイスラエルの民に確かに働きかけておられたのです。主は私たち一人ひとりに対しても、ご自身の働きを託しておられます。その小さなことを忠実に果たすなら、また、「預言者」として主のみことば、メッセージを取り継ぐなら、主は私たちを通して人々の心に働かれるのです。そのために用いられる者とされたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 18章25-46節◇(7月5日)

「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」…1列王18:38-39

18章の後半には、エリヤとバアルの預言者たちとの戦い、つまり、イスラエルの神と彼らが仕える偶像との戦いの結末が書かれています。そもそもその偶像は、人の手によるいのちのない物体に過ぎず、初めから戦いにはなり得なかったのです。バアルの預言者たちは朝から真昼までバアルの名を呼び続け、彼らの祭壇の上に火が下るよう願い求めましたが、何も起こりませんでした。すると彼らはますます大声で叫び、自分たちの身を傷つけることさえしましたが、結局何一つ起こらなかったのです。一方、エリヤは、イスラエル部族の数にしたがって12の石で祭壇を築き、薪を並べて切り裂いた雄牛を載せ、それらに水を注ぎ、簡単には燃えないように濡らした上で主に祈り求めました。すると、主の火がたちまち降り、雄牛と薪だけでなく石と土までが焼き尽くされたのです。民はみな、それを目の当たりにして主を畏れ、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白しました。27節のエリヤのことばは皮肉に満ちており、そう言われてむきになって騒ぎ立てるバアルの預言者の姿は実に滑稽です。しかし、ときに神以外の人間的なものに心奪われ、「どっちつかずによろめいて」(21節)しまう私たちにとって、彼らや、彼らの言いなりになっていた民の愚かさ、罪深さは、決して他人事ではないのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」とのみことばが思い起こされます(黙3:15)。エリヤは自分の番になったときまず、壊れていた主の祭壇を築き直しました(30節)。私たちもまた、日々、祭壇を築き直し、すなわち自らのあり方を悔い改めて主との関係を築き直し、唯一まことの生ける神、主の御名を呼び求め、主のみわざを待ち望む、そのような者でありたいと思います。

信仰がますます強められますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 18章1-24節◇(7月4日)

「私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。」…1列王18:12b

18章の前半に書かれているのは、エリヤとバアルの預言者たちとの対決の序盤戦です。エリヤはアハブ王に、全イスラエルとバアルやアシェラの預言者たちを、カルメル山の自分のところに集めさせました。そして、2頭の雄牛のうち1頭をバアルの預言者たちに選ばせ、残りの1頭を自分のものとし、それぞれその雄牛をほふって薪の上に載せ、自分たちが信じる神の名を呼んだら、それに神が火をもって答えるかどうかを見ようと提案したのです。イスラエルの民は「それがよい」と同意しました。エリヤは、その戦いを挑むべく初めてアハブと会う際に、自分からは直接出向かず、王の宮廷長官であったオバデヤという人物にことづけを依頼しましたが、彼はすぐには承諾しませんでした。なぜなら、王に伝えた後にエリヤが姿をくらましてしまうと、王の怒りを買い、殺されてしまうと恐れたからです(9,12,14節)。私は必ずアハブの前に出るとのエリヤのことばを聞くと、ようやく彼は重い腰をあげ、アハブのところに行って話しをしました。オバデヤは幼少のときから主を畏れ(恐れ)ていました。イゼベルが主の預言者たちを虐殺したときも、百人の預言者を救い出しました。しかし本当に主を畏れていたならば、彼は、神の人であるエリヤを通して語られたことばに尻込みせずに、ただちに従うべきだったのです。神の主権を認め、自分のいのちは主の御手の中にあることを覚えて主に委ねつつ、神が忌み嫌われる偶像が国の中から一掃されることを、何より願うべきであったのです。「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)。パウロはそう告白しています。主に贖われた私たちもまた、人を恐れずに主を畏れ、主にすべてを委ねつつ、ためらうことなく主のことばに従う者でありたいと思います。

主の御声に従順に従うことができますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 17章◇(7月3日)

「その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」…1列王17:24

ヨルダン川の東、ギルアデの地に住むティシュベ人エリヤが登場します。預言者である彼は、飢饉が近いことをアハブ王に警告した後、主のことばに従ってケリテ川のほとりに身を隠し、川の水と、主が備えられた烏が朝夕に運んで来る、パンと肉とによって養われました。しばらくしてその川が涸れると、主はエリヤに、シドンのツァレファテにいるひとりのやもめのところに行き、そこに住むようにと命じました。彼がそのようにすると、実はそのやもめは、食糧が尽き、最後のパンを作って息子と食べて死のうとしていたところだったのです。エリヤが彼女に、油と粉は飢饉の間なくならない、まず私のためにパン菓子を作って持って来なさいと告げ、彼女が従うと、そのとおりになりました。さらに、彼女の息子が病気で死ぬと、エリヤはその子の上に三度身を伏せて主に祈り、息子を生き返らせてあげたのです。その奇蹟は、異邦人の地、しかもアハブ王の妻イゼベルの出身地シドンで起こりました。ツァレファテはツロのさらに北にある地中海沿岸の町です。異邦人であるこのやもめの女性は、エリヤが神の人であり、彼が語る主のことばは真実であると告白したのです。そしてそれは、彼女が自分の体験を通して、エリヤが信じて祈ったイスラエルの神は確かに生きておられ、神に拠り頼む者の必要を満たし、いのちをもたらす方であることを信じた、ということにほかならないのです。エリヤもやもめの女性も主のことばに従い、神の奇蹟を体験し、主の豊かな祝福にあずかりました。それこそが、「神の民」のあるべき姿なのです。イスラエルという、地理的、血による民族だけが「神の民」ではないのです。17章に書かれているこれらの出来事は、そのことを暗示しています。キリストにあって、信仰によるアブラハムの子孫、神の民とされた私たちも、ますます、主への従順と信頼をもって歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 16章21-34節◇(7月2日)

「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」…1列王16:30-31

王として12年間イスラエルを治めたオムリは、その治世の7年目にシェメルという人物から山を買い、その山に町を建ててサマリアと名付け、ティルツァからそこに首都を移しました。彼は主の目の前に悪を行い、それは彼以前のだれよりも悪いものだったとあります(25節)。オムリが死ぬと彼の子アハブが王となり、22年間イスラエルを治めましたが、彼もオムリと同じく、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行ないました(30節)。それはつまり、イスラエルの王たちが犯した罪は大きくなっていくばかりで、まるで坂道を転げ落ちるように、その歯止めがかかることはなかったということです。「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」と記されています。アハブは、シドンの王の娘イゼベルを妻とし、彼女が信じていた異教神バアルのために神殿を建て、祭壇を築き、さらにはアシェラ像まで造るという、イスラエルの神に対する決定的な背信行為におよびました。列王記の記者はこの書の残りの部分(17-22章)のすべてを使い、アハブの治世の出来事を記していますが、そこには、彼やイゼベルがいかに罪深いかを伝えようとする意図があるのです。しかし神は、イスラエルを見放されませんでした。そのような状況の中、預言者エリヤが、歯止めの役割を果たす者として立てられ、イスラエルが主のみこころを行なうために用いられていくのです(17章~)。現代社会にまん延する悪と罪も悪化の一途をたどり、闇はますます深くなっていますが、そのような中、聖徒である私たちは、歯止めの役割を果たす者、世の光、地の塩として遣わされているのです。この地をあわれんでくださいととりなしつつ、忠実に主に仕えていきたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: 列王記 第一 16章1-20節◇(7月1日)

「ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら王宮に火を放って死んだ。これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のゆえであった。」…1列王16:18-19

引き続き北イスラエルの王たちの歩みが記されていますが、そこを読んで気づかされることは、慣用句的な表現が繰り返されているということです。「ヤロブアムの罪に歩み…イスラエルに罪を犯させ、わたし(主)の怒りを引き起こし…」(2,7,13,19節)。そしてそれは、イスラエルにおいて、ヤロブアムが金の子牛を造ったことにより始まった偶像礼拝がいかに罪深く、また民の中に浸透していたのか、にもかかわらずそれを止める王は一人も現れず、そのことを主が嘆き悲しみ、次々と立つ王たちを退けなければならなかったのかを示しているのです。預言者エフーによる主のことばのとおり、バアシャは滅び、その子エラも家来のジムリの謀反により殺され、その後、ギベトンでの戦いを指揮していた将軍オムリが民に支持されて王とされると、追い詰められたジムリは自決しました。彼が王であった期間はわずか七日間でしたが(15節)、にもかからず、「主の目に悪であることを行い…イスラエルに罪を犯させた…」と記されているのです。罪の本質とは何か…をあらためて考えさせられます。自分はそのような血なまぐさいこととは無縁だし、王のような地位を求めることもない…と思うかもしれません。しかし、罪の本質…すなわち、神を第一とせず、人間的、地上的なことに心を寄せ、主を喜ばせることを追い求めず、主と心を一つにして歩もうとしないなら、私たちも、主の前には、それらの王たちと大差ないのです。キリストによって贖われ、霊的なアブラハムの子孫とされている私たちは、どのようにして神に仕えていくのか、主のみこころをこの地に実現していくのか、神の栄光を現わす者となるのか…。そのことが問われているのです。イスラエルの王たちを反面教師としつつ、ますますそのことを主に尋ね求めていきたいと思います。

主のみこころにかなう者とされますように。