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◇聖書箇所: 民数記 21章1-20節◇(2月14日) 「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」…民数21:9 イスラエルの民は、アロンの死んだホル山から、通過するのを禁じられたエドムを迂回し、葦の海の道を通って南下していきました。すると、カナンの地から逆に離れていく旅程を進み、水や食べ物もない荒れ果てた地を進む中、民はまたしても神とモーセに逆らい、「なぜ…この荒野で死なせようとするのか」と文句を言いました。それを聞かれた主はただちに燃える蛇を送り、それが民にかみついたので、多くの者が死ぬこととなりました。おそらくそれは、かまれると焼けつくような痛みを生じさせる毒を持っていたため、「燃える蛇」と呼ばれたのでしょう。民はそれが自分たちに対する神からのさばきだと悟り、自らの非を認め、モーセに助けを求めました。そこでモーセが主にとりなして祈ると、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる」と言われ、モーセが実際にそのようにすると、その通りになったのです。旗ざおの上に付けられたその青銅の蛇は太陽の光で輝き、あたかも燃える蛇のように見えたに違いありません。もちろんその蛇自体に力があったわけではなく、神の約束を信じて仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れたのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハ3:14-15)。主イエスは、パリサイ人の指導者ニコデモとの対話の中でこの出来事を引用し、ご自分が十字架にかかられることの意味を話されました。それは、イスラエルの民が毒蛇にかまれても、神の約束を信じて青銅の蛇を仰ぎ見ると死なずに生きたように、十字架につけられた主イエスを、神が約束された救い主と信じて仰ぎ見るとき、その人は罪赦され、死を免れ、永遠のいのちに生きるようにされるということなのです。罪あるすべての人にその救いが備えられているということを覚えたいと思います。 主を仰ぎ見て生きる者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 20章 「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」」…民数20:12 前半には「メリバの水」の出来事が書かれています。ツィンの荒野に入り、カデシュにとどまった民は、そこが荒れ果てた地で飲み水さえなかったため、モーセとアロンに文句を言いました。そこで二人が主に前にひれ伏して導きを祈り求めると、主は彼らの前に現れ、「杖を取れ…会衆を集めよ…彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と約束してくださったのです(8節)。そこでモーセは杖を取り、二人は民を岩の前に召集し、「逆らう者たちよ…この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と彼らに言い、モーセが彼の杖で岩を2度打ちました。すると、岩から水が豊かに湧き出たので、民も家畜もそれを飲むことができました。しかし喜びも束の間、主は二人に対し、あなたがたはわたしを信頼しなかったので、この会衆を約束の地に導き入れることはできない、と言われたのです。主は二人に「わたしが聖であることを現さなかった」と言って非難されました。主は「岩に命じれば」と言われたのであり、「岩を杖で打てば」とは言われなかったのです。さらに、岩から水を出されるのは主であるのに、二人は「われわれが…水を出さなければならないのか」と言って(10節)、主の御名を口にしなかったのです。そのことから、モーセとアロンが、文句を言う民に対し怒り、岩に命じようとせずに、杖で打つという「自分の力」に頼ろうとしたことがわかります。しかしそれは、民を裁く高慢な思いであり、何よりも、主に全面的に信頼しようとしない、不遜で不信仰な態度であったのです。主に助けを祈り求めながら、主の約束のみことばを聞いていながら、自分が持っているものを握りしめて手放さないなら、それは神に喜ばれる態度ではありません。全面的に主に信頼して歩む者でありたいと思います。 主が必要を満たしてくださいますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 19章◇(2月12日) 「それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。」…民数19:9 汚れを除く水に関する規定が書かれています。くびきをまだ負わせたことがなく、傷のない完全な赤い雌牛が祭司に渡され、宿営の外において祭司の前で屠られます。そして祭司はその血を、会見の天幕の正面に向かって7度振りまきます。さらにその雌牛はすべての部分が焼かれ、祭司はそこに杉の木とヒソプと緋色の糸を投げ入れ、焼いた雌牛の灰は集められ、器に入れて保存されるのです。その灰に新鮮な水を加えて作られた「汚れを除く水」は、たとえば、死者に触れて汚れた者の身をきよめるために用いられました。それがその者に3日目と7日目に振りかけられると、汚れが除かれてきよくなったのです。しかしそうせずに主の聖所が汚されたなら、その者は集会の中から断ち切られなければならなかったのです(13節)。「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブ10:22)。民数記19章の完全な赤い雌牛はイエス・キリストの予型です。キリストは罪のない全き神、かつ全き人としてこの地上に遣わされ、罪に汚れた全人類の身代りとなって十字架にかかり、血を流し、汚れを除いてくださったのです。そのようにしてキリストに贖われた私たちは、旧約の民のように雌牛を屠ることはしません。焼いたその灰から「汚れを除く水」を作り、何かによって汚れるたびに、その水を注ぎかけられる必要はないのです。傷のない完全なキリストがご自身をささげられ、1度限りのその贖いによって、全人類の救いを成し遂げられ、そのことを信じる信仰によって、私たちの心に血が振りかけられ、邪悪な良心はきよめられているからです。主の血潮の注ぎを受けた者として、そのことをあらためて覚え、感謝と喜びをもって主の御前に近づき、主と親しく交わる者でありたいと思います。 悪と汚れから守られますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 18章1-20節◇(2月10日) 「今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの子らの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために主に献げられた者として、あなたがたへの贈り物とする。」…民数18:6 主がアロンに告げられたことが書かれています。1-7節はレビ族の聖所での奉仕、アロンの家系の祭司の奉仕についての規定であり、8-20節は祭司たちの分け前に関する規定です。レビ族の者たちは、同族であるアロンとその子らが従事する祭司職を補助し、会見の天幕全体の仕事を担うという任務が与えられていました。もし、その範囲を越えて聖なる用具と祭壇に近づくなら、その奉仕者も祭司も、主によっていのちが取られてしまうのです。6-7節には、そのレビ人の奉仕者たちが、祭司であるアロンたちに対して主が与えられた「贈り物」であること、また祭司の奉仕もまた、主が「賜物」として与えられたものであることが記されています。彼らはそのような自覚を持ち、主を畏れ、へりくだり、求められている役割を忠実に果たしたのです。レビ人たちの中には、アロンの家系の者だけが祭司となることに反発する者たちがいたかもしれませんが、もしもそのように自らの分をわきまえないなら、その者は主に退けられてしまうのです。一方、新約の時代、キリストに贖われたすべての聖徒たちは、聖なる祭司とされています(1ペテ2:9)。キリストの十字架による罪の赦し、主と人々に仕える奉仕のわざもまた、一方的な神の愛と恵みとあわれみによる贈り物、賜物であり、私たちは、そのことを深く覚え、感謝と喜びをもって、そして与えられた御霊の賜物を活かして、自らの務めを忠実に果たすことが求められているのです。教会の働きは、言うまでもなく、教職者だけではなし得ません。さまざまな賜物が与えられた者たちが主によって立てられ、配置され、その尊い奉仕によってキリストのからだが建て上げられるのです。神の国が拡がっていくのです。そのことを覚えて、すべてを主に明け渡し、また一人ひとりの豊かで異なる賜物と働きを尊重し、主と人々とにますます熱心に仕えていきたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 17章◇(2月9日) 「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」…民数17:5 主はモーセに、イスラエルの全部族の族長から、各自の名を書き記した杖を1本ずつ取り、会見の天幕の中にあるあかしの箱の前に置くようにと命じられました。主は、それらの杖のうちから1本だけ芽を出させ、それを主が選ばれたことのしるしとし、その部族のかしらが指導者であることを民が認めて、モーセとアロンへの不平をなくそうとする意図をもってそのようにされたのです。モーセは主の指示に従いました。そして翌日になって彼があかしの天幕に入ると、なんと一晩のうちに、アロンの杖だけが芽を出し、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいたのです。そのようにして主は、レビ族のモーセとアロンが民の指導者として選ばれ、立てられていることを、目に見える形で民に示されました。さらにそのアロンの杖は、逆らう者がそれを見て自らを戒めるためのしるしとすべく、あかしの箱の前に戻されました。ところが民は、そのようになっても、自分たちがモーセとアロンに不平を言ったことを主の前に悔い改めず、今度は、自分たちは全員滅びてしまうと嘆き、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは…と、またもやモーセに文句をぶつけました。アロンの杖を見て立ち返るように…との主の思いは、民に届かなかったのです。人は、主がなさるしるしを見ても、心がかたくななので、主を信じようとしません(ヨハ13:37)。しかし霊の目が開かれるとき、肉の目に映るものの先にある世界を、確かに存在する真実なものとしてとらえることができるのです。そして、神のことばを受け入れ、主を信じて従う者となるのです。かたくなな心は柔らかくされ、主にある平安と希望と喜びをもって生きる者と変えられるのです。不平やつぶやきではなく、主への感謝と賛美を口にする者、目に映る事柄に恐れを抱いたり失望するのではなく、主がなさることを幻として見、先取りしていく者でありたいと思います。 霊の目がさらに開かれますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 16章1-22節◇(2月7日) 「こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」…民数16:6-7 16章には、民の指導者として主が立てられたモーセとアロンに反逆した者たちの行動とその結末とが書かれています。その首謀者は、レビ部族のケハテ族の一人であったコラという者です。彼は、同じようにモーセとアロンに不満を抱いていたルベン族のダタンとアビラム、またオンの3人と共謀し、さらに族長たちを含む250人の者たちも巻き込んで、モーセとアロンに逆らったのです。ケハテ族は、主から定められた役割として、荒野を移動する際に、幕屋で使われる契約の箱、また燭台、机などの用具を運んでいましたが、その際、アロンの子たちの祭司が梱包して布に包み、ケハテ族の奉仕者はその中のものを見ることなく、それを運搬することだけが求められていました。コラはそのことに不満を持ち、モーセとアロンが指導的な立場にあり、またアロンの家系が祭司職を独占していることに嫉妬して反発したのです。コラはモーセとアロンに言いました。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか」と(3節)。しかしすべては主権者なる主が定められたことであって、そのことに反発するコラと彼に同調して従う者たちこそ、分を超えていたのです。そのことばを聞いたモーセはひれ伏し、主に祈り、コラとその仲間全員がそれぞれ火皿を取って火を入れ、香を盛り、明朝に主の前に立つようにと命じました。彼らの主張が正しければ、祭司のみに許されるその行為は主に受け入れられるとし、判断を主に委ねたのです。主が立てられた権威に従う、分を超えず自らの働きを忠実になす、嫉妬や高慢に陥らないよう、聖なる主の前に常にへりくだる…。そのようなあり方は、聖徒とされた私たちにも求められています。そのことを覚えたいと思います。 感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 15章22-41節◇(2月6日) 「祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。」…民数15:28 22-31節には、民が罪を犯したときの規定が書かれています。会衆全体が気づかずにあやまって罪に陥った場合には、全焼のささげ物、穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物が必要でした。また、個人が過失の罪を犯した場合には、罪のきよめのささげ物が必要とされました。一方、主の教えを知っていながら故意に罪を犯した場合には、その者は主を冒瀆したとして民の間から断ち切られ、その咎を負ったのです。主はあわれみ深い方であることを改めて教えられます。気づかずに陥った過失の罪であれば、規定のいけにえ、ささげ物を献げることにより、民のその罪は赦されたのです。しかもそれは、国に寄留している在留異国人に対してもまったく同様であったのです。そして、そのささげ物だけでなく、祭司の宥め(贖い:3版)が必要であったことにも心が留まります。そのとりなしがなされることによって、民の罪の赦しは全きものとなったのです。後に、イエス・キリストはご自身をいけにえとして献げ、罪のないきよい血を流され、十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言って神にとりなし(ルカ23:34)、人々の罪のための宥めをなされました。そしてその贖いによって、モーセの時代の規定は全うされ、更新され、異邦人を含むすべての民の罪の赦しをもたらすものとなったのです。その一度限りの完全なささげ物によって、罪を犯した者たちは、動物のささげ物を携えて、神の前に差し出す必要はなくなったのです。イスラエルの民は、衣服の裾の四隅の房につける青いひもを見て、主のすべての命令を思い起こしました(38-40節)。御霊も私たちに主の教えを思い起こさせてくださいます。そしてその御霊に逆らう冒瀆は赦されないのです(マタ12:31)。主のとりなしと贖いを感謝し、絶えず主に立ち返り、主のみこころのうちを歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 15章1-21節◇(2月5日) 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」…民数15:2 主がモーセに告げられた、ささげ物の規定が書かれています。そこでは、献げられる牛や羊に添えるべき、油を混ぜた小麦粉やぶどう酒についても詳細な指示がなされていますが、それらのものは、イスラエルの子らのうち、19歳以下の次世代の者たちが、40年後にようやく約束の地に入り、そこで定住するようになってから得られる地の産物、収穫です。その教えが語られたとき、彼らはまだ荒野にいて、それらを手にしてはいなかったのです。主は、「あなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り」と言われましたが、それは、その世代の者たちが、主が約束された地に必ず入ることができるということを覚え、その確信をしっかりと持つためでした。主は、荒野にいた彼らに対し、あえてそのように告げて、約束の地において必要となるささげ物の規定を前もって示されたのです。確かにそうなるという幻を見せられたのです。私たちの信仰生活においても、荒野のような試練の中を通らされると、主への信仰がぐらつくことがあります。しかし、主は真実なお方であって、主が私たちに約束されていること、すなわち聖書の一つ一つのみことばは、必ずその通りになるのです。黙示録にはキリストが打ち建てられる新天新地が描かれていますが、荒野にいる私たちがそれを幻として受け取るとき、希望を新たにされ、私たちを導かれる、信仰の創始者、完成者であるキリストに目を留めつつ、歩み続けることができるのです。「一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである」(15節)。主はそのようにも言われました。ここに、キリストの贖いによって異邦人にも開かれる救い、二つのものが一つとされるということを、預言的に見ることができます。主の約束は確かであり、それをしっかり握って歩むなら、私たちはそのみことばによって強められ、支えられるのです。そのことを覚えたいと思います。 霊の目がますます開かれますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 14章26-45節◇(2月4日) 「そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」…民数14:43 わたしを侮った者たちは約束の地に入れないことを民に告げよ、と主はモーセに命じられました。29~35節にその具体的な内容が記されています。①20歳以上の登録された者たちはヨシュアとカレブ以外、約束の地に入れずに荒野で死に絶える。②20歳未満の者たちは約束の地に入ることが許される。ただし40年の間荒野に留まり、親世代の者たちの背信の罪の責めを負う。③偵察隊のうちヨシュアとカレブ以外の10人も、地を悪く言いふらして民を落胆させたゆえに死ぬ…。そして主は、その3番目のことを速やかに実行され、彼らは疫病で死んだのです。すると、その主のことばを聞いた民は嘆き悲しみました。それは自分たちの主に対する態度を後悔する悲しみではなく、約束の地に入れない無念さゆえの悲しみでした。そして「とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう」と、カナンの地に近づけば何とかなるというおろかな考えで、山地の峰のほうに上っていこうとしたのです。主は「葦の海の道を通って荒野へ行け」と民に命じ、先住民との戦いを回避させようとしていましたが、彼らはまたも主にそむき、自分たちの判断を押し通したのです。モーセの警告も無視してそのように行動した民は、結局アマレク人とカナン人に討たれました。そのとき、主の契約の箱は宿営に留まっていましたが、それはまさに、「主がともにおられない」ことの象徴でした。私たちもしばしば、自分の判断で短絡的に行動してしまいます。向きを変えて回り道をすること、時間を多く掛けることを良しとせず、さまざまな面からの検討や、人々への配慮を煩わしく感じ、「とにかくやってみよう…」と、拙速に事を運ぼうとしてしまいます。しかし、私たちは常に、主のみこころは何か、主はどう導かれようとしているのかを尋ね求め、主の御声をしっかりと聴き、それに従うべきなのです。不信仰で不従順であった民を反面教師とし、ますます従順に主に従い続けたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 14章1-25節◇(2月3日) 「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」…民数14:19 偵察隊の報告を聞いて落胆した民は皆、嘆いて叫び、一晩中泣き明かしました。そして、モーセとアロンに不平を言い、なぜ主は我々を敵の剣に倒れるようにされるのかと言って主ご自身をも非難し、モーセとは別の指導者を勝手に立て、エジプトに帰ろうとさえしたのです(4節)。すると、偵察に行ったヨシュアとカレブは、その地は乳と蜜の流れるすばらしく良い地であり、主が我々をその地に導き入れ、それを下さるのだ、と強調しました。さらに、主が自分たちとともにおられるのだから、その地の者たちを恐れてはならない、と民を励ましました。ところが会衆は、2人を石で打ち殺そうと言い出したのです。そこで主はモーセに、「わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剥奪する…」と、さばきを告げられました。それを聞いたモーセは、主に対して必死にとりなしました。「あなたは言われました。『主は怒るのにおそく、恵み豊かであり、咎と背きを赦す…』」(18節)。「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」と。するとそれに対して主は、「あなたのことばどおりに、わたしは赦す」と言われたのです。出エジプトの際、自分は口べただ、民は自分の言うことを聞こうとしない、と主に訴えたモーセは、そのとき、民を説得しようとせず、何よりも神と民との間に立ち、仲介者として主にとりなしたのです。主イエスもまた、口を開かない羊となって屠り場に連れて行かれ、そこで、父よ、彼らをお赦しください…と、十字架の上でとりなされました。宣教のわざが前進するために何よりも大切なのは、魅力的なプログラムによる礼拝や、雄弁な説教者ではありません。人を赦し、救ってくださる主への、熱いとりなしの祈りなのです。私たちその祈りは、確かに主に覚えられているのです。そのことを覚え、祈りをもって主にとりなし続けていきたいと思います。 破れ口に立つ者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 13章25-33節◇(2月2日) 「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」」…民数13:30 カナンの地を偵察して帰ってきた12人の族長たちは、その結果を、モーセとアロン、全会衆に対して、持ち帰ったその地の果物を見せながら報告しました。その地が乳と蜜が流れている肥沃な土地であることは、12人全員が認める一致した結論でしたが、そこに上っていくべきかどうかについては、カレブとヨシュアの2人とそれ以外の者たちで分かれました。上って行ってそこを占領しよう、とカレブたちが主張したのに対し、攻め上れない、先住民たちは自分たちより強い、と言って反対したのです。同じものを見ていたのに、なぜ180度違う主張となったのか…。それは、偵察時に見た先住民たちの背が高かったため、カレブとヨシュア以外の族長たちは、彼らと戦っても勝てるわけがないと勝手に思い込んで、恐れ、意気消沈してしまっていたからです。それに対してカレブとヨシュアの二人は、主がモーセに、「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ」(1節)と言われたことを心に留め、自分の目に映ることがどのようなものであっても、その主のことばを根拠として判断すべきだと考えたからです。「ぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と、カレブは、報告を聞いて動揺する民の前で言いましたが、彼は、自分たちの力によって先住民に打ち勝てるとは思っていませんでした。彼は、エジプトから自分たちを脱出させ、その後も、荒野においてさまざまなみわざを現して来られた主を見上げ、主のことばに信頼し、主ご自身が必ずその地を占領させてくださる、という信仰に立って、「そこを占領しましょう。(「主にあって」)必ず打ち勝つことができます」と信仰告白し、勝利宣言をしたのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリ4:13)。私たちも、見えるものに心奪われず、自らの力に頼らず、全能なる主に拠り頼む者、主の約束のみことばを握って前進する者でありたいと思います。 主が勝利を与えてくださいますように。 |