瀬谷キリスト教会-平安と希望と喜びに満ちた人生を!瀬谷キリスト教会は横浜市瀬谷区にあるプロテスタントの教会です。

2017年12月 今日の聖書日課

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 18章1-10節◇(12月14日)

「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。『わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。』」…黙示録18:4

それまでヨハネに説明をしていた御使いとは別のもうひとりの御使いが、バビロン滅亡の宣言のため、特別な権威を帯びて天から下って来て叫びました。「倒れた。大バビロンが倒れた…」。それはまだ起こっていませんでしたが、確実に起こることなので、御使いはそのように過去のこととして叫んだのです。その滅亡の理由が3節に書かれています。「彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒」とは、14:8の「激しい御怒りを引き起こす不品行のぶどう酒」(「淫行のぶどう酒」:新改訳2017)と同じものです。それは道徳的に汚れた行いであり、また霊的な汚れ、つまり神が忌みきらわれる魔術や偶像礼拝などであり、すべての国々の民が、大淫婦、バビロンの影響を受け、それらを追い求める、罪と快楽の生活をしていたのです。また、「地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得た」とも書かれています。「好色」ということばは、「ぜいたく」とも訳せます(脚注参照)。商人たちが扱う商品のリストが12節以降に列挙されていますが、人々が必要以上に自分を飾り立て、華美なものを求め、物質的繁栄を第一とする姿勢がそこにはあるのです。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです」。ヨハネは天からのそのような声を聞きましたが(4節)、主は現代の私たちに対しても同じように警告しています。「バビロン」とは神を無視した人間中心の社会のことであり、そこには欲望と偽善と不正が満ちているのです。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(1ヨハネ2:16)。「この女から離れなさい」という主のことばを心に留め、神の国とその義を第一に求めていきたいと思います。

あらゆる必要を主が満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 17章◇(12月13日)

「この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」…黙示録17:14

前の16章において、第7の鉢による災害により最終的な神のさばきがなされて「事は成就し」、大きな都が3つに裂かれたと記されていましたが、17章と18章では、その大きな都、大バビロンが「大淫婦」とされ、17章ではそのさばきの予告が、18章ではその滅亡が、詳しく描写されています。ちなみに17章では大淫婦がもたらす宗教的な側面に、18章では経済的な側面に焦点が当てられています。その大淫婦は大水の上にすわっており、また、神をけがす名で満ちており、7つの頭と10本の角を持つ緋色の獣に乗っていました。そしてその額には、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名が書かれ、さらに彼女は、聖徒たちとイエスの証人たちの血に酔っていたのです。大水とはもろもろの民族を意味し、その頭と角は王たちのことだと、御使いはヨハネに明かしました。反キリストを操り地上を支配しようとするこの大淫婦は、世界のあらゆる宗教を統一する教祖的存在なのです。しかしやがて仲間割れ、内部分裂が起こります。神の働きかけにより、獣は大淫婦を憎み、裸にし、なんと彼女を火で焼き尽くすようになるのです(16節)。登る道は違っても達すべき頂上は一つ…という、世界統一教を目指す動きは人間的な企みであって、それは神によって分裂させられ崩壊に至るのです。いつの時代でも、人間的な考えとことばに基づいた、「統一」や「平等」を目指す動きが起こってきます。それは宗教においてだけでなく、社会的、道徳的にも、終末に向かってますます広がり大きくなっていくのです。しかし私たちは聖霊による一致を求める必要があります。また神のことばによって真偽を吟味することが大切です。小羊だけが主の主、王の王だという信仰を力強く告白し、キリストの御名を絶えずあがめる者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 16章12-21節◇(12月12日)

「-見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである-」。…黙示録16:15

第6の鉢が大ユーフラテス川にぶちまけられると、水が涸れ、日の出るほう、すなわち東方の国々の王たちがそこを道として侵攻するようになりました。また赤い竜であるサタンの口と、2つの獣の口から、しるしを行う汚れた3つの悪霊どもが出て来ました。彼らは、ハルマゲドン(「メギドの山」という意味)での最終決戦に備えて世界中の国から王たちを集め、最強の連合軍を結成して勝利しようとしたのです。そして最後の第7の鉢が空中にぶちまけられました。すると、御座の聖所の中から、「事は成就した」という大きな声がしました。それは、悪しき者に対する神のさばきが完了した、人類の救いが確かなものとされたという意味です。そしてそれは、第7のラッパのときの天からの声、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(11:15)ということばとつながっているものであり、さらに、主イエスが十字架上で息を引き取るときに発した「完了した」ということばともつながっている、悪魔に対する神の「勝利宣言」なのです。その後、巨大地震が起こり、大きな都は3つに裂かれ、「大バビロンは倒れ」(14:8)、1タラント(35キロ)もある大きな雹が人々の上に天から降ってきましたが、それは11章19節に書かれていることだと思われます。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。…人の子は、思いがけない時に来るのですから」(マタ24:42,44)。主イエスはそのように警告されましたが、ヨハネはそのことを思い出させるべく、15節に同様のことばを挿入しています。「どうせまださ…」と主から着せられた義の衣を脱ぎ、この世と調子を合わせて歩んでいると、終わりの日に、裸で恥をかくことになるのです。そうならないように、絶えず、贖われた者にふさわしくありたいと思います。

聖霊さまの助けと導きが与えられますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 16章1-11節◇(12月11日)

「こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」…黙示録16:9

神の激しい怒りの7つの鉢による災害が起こります。7番目のラッパ(11:15)が吹き鳴らされたときのことがここで詳しく描写されているととらえることができます。これらの災害は1~6番目のラッパのときの災害や、イスラエル人の出エジプトの際の災害と似ていますが、それらの災害が地や海や水の3分の1に、またエジプトに対してしか及ばなかったのに対し、ここでの7つの鉢による災害はそのような制限がなく、すべてのものに及ぶ最後的なものであるのです。第4の鉢が太陽に向けてぶちまけられると、神の被造物である太陽の温度が高くなり、人々はその激しい炎熱で焼かれるようになりました。また第5の鉢が獣の座にぶちまけられると、獣の国は暗黒となり、人々は苦しさに耐えかねて、舌を噛み切って自らいのちを絶とうとさえしたのです。その苦しさの原因は具体的には書かれていませんが、第4の鉢の災害としての灼熱の中に置かれた苦しみや、第1の鉢の災害として獣の像を拝む者たちにできた、ひどい悪性の腫物による苦しみだったのかもしれません。いずれにしてもそれは悲惨な終末的状況でした。しかしそのような目にあってもなお、人々は、主権者である神に対してけがしごとを言い、自分たちの行いを悔い改めようとはしなかったのです。災害が起こってもイスラエルの民を出て行かせなかった、エジプト王パロのかたくなさを思い起こさせます。しかしそのようなかたくなさは、実は私たちのうちにもあるということを思わされます。神に喜ばれない思いやふるまいを主から指摘されてもそれを素直に認めず、曲げようとしない強情さ、罪深さを、私たちは持っているのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブ3:15)みことばと聖霊さまを通して語られる主の御声を聴き、心を柔らかくされ、主の御旨に従順に従う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 15章◇(12月9日)

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。』」…黙示録15:3

ヨハネは天にもう一つの巨大なしるしを見ました。12章に書かれている巨大なしるしに続くものです。そのしるしとは7人の御使いによる7つの災害であり、その内容は16章以降に具体的に書かれていますが、それが起こる前、ガラスの海のほとりに立つ人々が、偉大な神を賛美している情景が心に留まります。その人々は、「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々」であり、神の立琴を手にしていました。海の獣の像を拝まない者は殺されましたが(13:15)、その人々が「打ち勝った人々」と言われているのです。復活のいのちが与えられ、敗北者ではなく勝利者とされ、感謝と喜びをもって主を賛美し礼拝しているのです。その彼らが歌ったのはモーセの歌と小羊の歌でした。モーセの歌とは、旧約時代におけるイスラエルの民が、主によってエジプトから脱出し奴隷から解放されたこと、そのとき海を分けられた神のみわざをあがめる歌です。また小羊の歌とは、すべての国のもろもろの民が、キリストの十字架と復活によって罪の奴隷から贖われ、永遠に生きる者とされたことへの感謝の歌であり、義をもって正しいさばきをなさる真実な主の御前に、ただただひれ伏す思いをもってささげるほめ歌なのです。またその歌は、贖われたユダヤ人も異邦人もいっしょになり、一つの神の民としてささげるものであるのです。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(マルコ8:35、新改訳2017)。サタンとその手下である獣に従うことを拒む者は、たとえそのために辛く苦しい状況に置かれたとしても、それはあくまで一時的なものであって、その決断は確かに主に覚えられ喜ばれているのです。主はご自身の愛する者たちを必ずそこから救い出して、「打ち勝った人々」として御前に導いてくださるのです。死に至るまで忠実な者として主に従いたいと願います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 14章14-20節◇(12月8日)

「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」…黙示録14:19

白い雲に乗った人の子のような方が登場します。「人の子のような方」は前にも現われており(1:13)、キリストであると考えられます。この方は、聖所から出て来た御使いの求めに応じてかまを入れ、地の穀物の実を刈り取って収穫しました。その実は、「取り入れる」と御使いが言っているとおり、焼いてしまうために集める毒麦、つまり悪者ではなく、倉に収めるべき良い麦、義なる者のことです(マタ13:30)。別の御使いがかまを持って聖所から出て来ましたが、火を支配する権威を持ったさらに別の御使いから命じられ、穀物の実ではなく、地のぶどうを刈り集めました。「ぶどうはすでに熟している」と御使いは叫びましたが、それは、収穫にふさわしく甘く熟したということではなく、腐ったぶどうをいつ取り除こうかと思案している中での、機は熟した、今がそのときだという合図であったのです。刈り集められたその大量のぶどうは、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられました。そして中のぶどうは都の中を汚さないよう外で踏まれ、流れ出た血は馬のくつわに届くほどになったとあります。その踏む行為と酒ぶねから流れ出た血は明らかに、悪者に対する神の最終的なさばきを意味していますが、その血は、馬のくつわに達する1m以上の高さとなって、1600スタディオン(約300キロ)の範囲に拡がったのです。それはヨハネにとって恐るべき情景であったことでしょう。「かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。…天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである」(ヨエル3:13-16抜粋)。刈り取りの日、審判のときは確かに来ます。しかし主は、キリストに対する信仰を持ち続ける者のとりでとなられ、ご自身の所有のものとして「取り入れて」くださるのです。感謝と希望と忍耐をもって歩み続けたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 14章1-13節◇(12月7日)

「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに14万4千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」…黙示録14:1

小羊がシオンの山の上に立っているのを見たと、ヨハネは記していますが、それが天における光景か、実際の地上のシオン=エルサレムなのかは不明です。いずれにしても小羊とともに14万4千人の人々がいる、ということに心が留まります。小羊とはキリストです。また、その14万4千人の人々とは、7章にあるように、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者のことです。イスラエルの12部族、キリストの12弟子というように、聖書において12という数字は全体を表わしますが、各部族からそれぞれ千の12倍である1万2千人ずつ、それが12部族の全体で14万4千となるのであって、それが小羊なるキリストとともにいるということは、イスラエルのすべての民族が、患難時代においては、キリストの贖いを受けているとも考えられるのです。その人々は7章では額に「印を押された」とありましたが、今日の箇所では、額には「小羊の名と、小羊の父の名」が記してあったと、より詳しい説明がなされています。6節からは3人の御使いが出て来ます。1人目の御使いは中天を飛びながらすべての人々に、神を恐れ、神をあがめよと大声で叫び、また、2人目の御使いは大バビロンは倒れた、倒れたと宣言しています。大バビロンとは固有の国を指すのではなく、人間が築き上げたものを誇る国家的組織だと言えます。注目すべきは3人目の御使いによる宣告です。獣の像を拝み、獣の名の刻印を額か手に受ける者は、火と硫黄とで苦しめられ、昼も夜も休みを得ないのです。地からの獣は、獣の名の刻印を受けていない者に対し、モノの売買ができないようにしましたが、刻印がある者への神の側からのさばきのほうが、はるかに過酷なものであるのです。悪魔とその手下、それらに従う者へのその神の怒りとさばきを見るとき、逆に牛耳られているように感じてしまう今の時にあっても、忍耐をもって信仰を持ち続け、勝利を先取り感謝することの大切さを教えられるのです(14:12)。

勝利の主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 13章◇(12月6日)

「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。」…黙示録13:18

海からの獣と地からの獣が登場します。海からの獣は赤い竜、つまりサタンと同じように、10本の角と7つの頭とを持っており、その頭には「神をけがす名」が書かれていました。その一つは致命的な傷を負いましたが奇蹟的に直り、人々はそのことに驚嘆してその獣に従うようになり、この獣は神の御名と天に住む者たちをののしり、地上の人々を3年半支配する権威を与えられたのです。これは悪魔の手下の「反キリスト」だと思われます。また地からの獣は、小羊のような2本の角を持ち、火を天から降らせるようなしるしをも人々の前で行い、海からの獣を絶えず拝ませるべくその像を人々に造らせ、その像を拝まない者をみな殺させたのです。これは同じく悪魔の手下の「にせキリスト」あるいは、「にせ預言者」だと思われます。主イエスは弟子たちに、預言者ダニエルが語った「荒らす憎むべき者」が、また、にせキリストやにせ預言者が現われ、しるしを行うと、それらの存在の出現を予告されました(マタイ24:15,24)。さらに地からの獣は、すべての人々の右の手か額に、獣の名、またはそれを示す数字である666を刻印させ、それがないと何も売り買いできないようにしたのです。この「666」が指すのは、一部の人が推理して言うような、バーコード中の3箇所の2本の縦線ではありません。「その数字は人間を指す」と明確に示されているのです。サタンの願いは自分が神になることです。そのために、手下を使って人々が自分を拝むよううまく仕向けるのです。悪魔は今も巧妙な方法によって人々を惑わしています。私たちはそれらの企みを見抜く目を持つ必要がありますが、それはみことばと聖霊の助けによって与えられるのです。もとより私たちは神の所有とされた民であり(1ペテロ2:9)、聖霊によって証印が押されている者(エペソ4:30)なのです。その自覚を絶えずしっかりと持って歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 12章◇(12月5日)

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」…黙示録12:11

理解が難しいと言われるヨハネの黙示録ですが、一つ一つのことばの解釈にとらわれ過ぎずに、全体の構造を俯瞰して把握することが大切です。6~11章には、巻物の7つの封印が解かれて起こる、神のさばき、わざわいが記されていましたが、それが、患難時代と呼ばれる7年間の出来事であり、12章以下に書かれていることはそれと別ではなく、7つの封印のさばきの原則を、別の観点から見て、側面的に補っているものだと考えることができます。つまり12章以下のさばきも患難時代のことなのです。1節に12の星の冠をかぶっている女性が登場します。彼女が産んだ男の子は、鉄の杖をもって国々の民を牧するキリストであり、女性はイスラエルのことです。またその子を食い尽くそうとした赤い竜はサタンであり、天における戦いに負けたその竜は地上に投げ落とされ、男の子を産んだその女性を執拗に追いかけ、さらに神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている女性の子孫の残りの者たちと戦おうと出て行くのです。しかしヨハネはそのときすでに、天からの大きな声が、キリストの勝利を宣言するのを耳にしたのです。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。…兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(竜)に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」(10-11節)。「小羊の血と自分たちのあかしのことば」が武器なのです。キリストは十字架で血を流しすべての人を贖われた!キリストは死に打ち勝ちよみがえられた勝利の主だ!私たちはキリストにより救われ神の子どもとされたのだ!その事実を日々高らかに宣言し、告白するならば、そのキリストの御名によって祈って悪魔を縛るならば、今も私たちはキリストにあって勝利することができるのです。それこそがキリストがもたらされた神の国の祝福なのです。

平安と確信をもって歩むことができますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 11章◇(12月4日)

「第7の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」…黙示録11:15

11章の前半は第6のラッパ(9:13)の後に起こった事(「第2のわざわい」と呼ばれている内容)の続きです。また後半には第7のラッパ(11:15)の後に起こった事(「第3のわざわい」)が書かれています。その第2のわざわいにおいて、「ふたりの証人」と呼ばれる者が登場します。彼らは荒布を着て、1260日(1年を365日とすると3年半)の期間、預言することを許された者たちであり、主の御前の2本のオリーブの木、2つの燭台だとあります。預言者ゼカリヤも、燭台と2本のオリーブの木の幻を見せられましたが(ゼカリヤ4章)、オリーブの実から搾られるのは燭台などに使われる油です。二人はキリストが救い主であることを証しし、最終的な神のさばきが起こることを世界に警告するために、神から油注がれ用いられる特別な器だと思われます。二人はあかしを終えると、底知れぬ所からの獣により殺され、死体が人々の目にさらされますが、神からのいのちの息によってよみがえり、一方で、大地震により生き残った人々は恐れを抱くのです。第7のラッパが鳴ると、大きな声が天に起こりました。それは、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」という最終的な神の側の勝利宣言です。24人の長老たちも、「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します」と、王であるキリストの完全な統治をほめたたえているのです。それは聖徒たちに報いが与えられるときであり、神のさばきにより悪しき者が滅ぼされる「御怒りの日」です。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。キリストは、昔いまし、今いまし、後に来られる王の王なるお方です。患難の多い世にあって、そのお方に望みを置き、拠り頼み、勝利に向かって前進し続ける者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 9章12-21節◇(12月2日)

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、…偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」…黙示録9:20-21(抜粋)

第6の御使いがラッパを吹き鳴らしました。すると、神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声がその御使いに、4人の御使いを解き放すように命じました。その金の祭壇とは8章3節に出ているものであり、聖徒の祈りが香の煙とともに主の御前に立ち上り、それが起こったということがわかります。4人の御使いはそれまで「つながれて」いて、勝手に行動することができない状態にありましたが、神が「定められた時」となりそこから出て行ったのです。そしてその目的は人類の3分の1を殺すことでした。その実行にあたったのは、4人の御使いの指揮下の、2億という途方もない数の軍勢であり、彼らが乗っていた馬の口から出る3つの災害、すなわち、火と煙と硫黄によって人々は死んだのです。第4までのラッパにより起こったのは自然災害で、第5のラッパによるいなごも人間は殺しませんでしたが、第6のラッパとなって、そのように直接人を殺す災害が、神によって許されて起こったのです。イスラエルの民がエジプトを脱出する際のわざわいでも、パロ王に出て行けと言わせたのは、エジプト人の初子が神に打たれて殺される決定的な出来事のゆえでした。しかし、ヨハネが見たのは、生き残った者たちがそのような恐ろしいことを体験してもなお悔い改めずに、偶像を拝み続け、性的不品行や盗みをし続けるという、罪にどっぷりとはまった者たちの姿でした。終末に向け、神のさばきの度合いが増すとともに、悪しき者たちの罪深さもまた増して行く…。何か耐性菌を連想させます。「主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません」(2歴代30:9)。主が民に求めておられるのは、自らの歩みを反省し、主の前に罪を認め、悔い改め、立ち返ることなのです。かたくなではない、柔らかい心を持ち続けたいと思います。

主の深い恵みとあわれみがいつもありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの黙示録 9章1-11節◇(12月1日)

「そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。」…黙示録9:4

第5の御使いがラッパを吹き鳴らすと、一つの星が天から地上に落ちました。その星には底知れぬ穴(「底知れぬ所に通じる穴」:新改訳2017)の鍵が与えられ、その穴を開くと、空が覆われ太陽も暗くなる煙が立ち上ったのです。この星が何を指しているのかは書かれていませんが、「いなずまのように天から落ちた」(ルカ10:18)と主が言われた、サタンであると考えられます。さらに煙の中からいなごが出て来ました。エジプトへのわざわいが思い起こされますが(出10:5)、そのときとは異なり、いなごは草木は食い尽くさず、ただ、額に神の印を押されていない人間だけを、5ヶ月間、苦しめることが許されたのです。その苦痛はさそりが刺したときのような猛烈なもので、しかも人々は死を願っても死ねなかったのです。額に神の印が押された者たち、それは神のしもべです。7章には、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、14万4千人であったとあります。しかしそれだけではありません。あらゆる民族からの、白い衣を着た大群衆、すなわちキリストに贖われた聖徒たちもまた、いなごの害から守られたのです。なぜならエペソ1章13節にはこのようにあるからです。「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました」。福音を聞いて信じ、キリストを主と告白するということは、単に自らの思想、信条を言い表すことではありません。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)とあるとおり、それは聖霊の働きによって内側に起こったことであり、聖霊に証印を押された事実の外への現われなのです。印とは保証です。また所有を表わすものです。神の印が確かに押されていることを忘れずにいたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

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