◇聖書箇所:箴言 15章16-33節◇(11月30日)

「よく相談しなければ、計画は倒れる。 多くの助言者によって、それは成功する。」…箴言15:22

「わずかな物を持って主を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い」(16節)。「わずかな物」と「豊かな財宝」が対比されています。人は、経済的に豊かになれば心に余裕ができ、平安に暮らせると考えます。しかし実際には、人間の欲求には際限がなく、さらに豊かに、さらに良い物と追い求め、心は落ち着くことがないのです。一方、持てる物がわずかでも、何よりも主を畏れ、主に拠り頼み、与えられている物に感謝するなら、心には平安と喜びがあるのです。そのほうが良いのです。22節では、人の立てる計画のことが書かれています。計画を立てても他者に相談しないなら、それは、その計画がすぐれており、漏れや誤りがないと考えるからです。しかしそれは、独りよがりで高慢な態度であって、その計画はうまくいかず、倒れてしまうのです。失敗に終わるのです。そうならないためには、他者に相談して意見を求め、多くの助言を得た上でそれを実行することが大切であり、そうすれば成功するとみことばは言うのです。自分だけで考えて決めずに他者に相談するということは、自分は不完全で足りない者だと認めることです。どんなに知恵や知識がある人でも一人では限界がありますが、自分とは違う視点を持った他者からの助言によって、立てた計画の不備が明らかにされるのです。そしてそれによって修正した計画は、より確かなものとなるのです。何よりも、私たちは主に助言を求めることができます。主からの助言こそが第一に求めるべきものです。自分がしようとすることがはたして正しいのか、主のみこころにかなうものなのか…。私たちは、誰よりもまず、主ご自身にそれを尋ねるべきなのです。その主は「不思議な助言者」(イザ9:6)であって、私たちに多くのことを教え、導いてくださるお方なのです。独りよがりにならず、主に尋ねて知恵と導きを受け、さらに多くの助言者を得て計画を推し進める、謙遜な者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 15章1-15節◇(11月29日)

「悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。 心に楽しみのある人には毎日が祝宴。」…箴言15:15

知恵のある賢い者とそうでない愚か者が発することば、聞くことばの違いが、いくつかの節で対比させて書かれています。1,2節にあるように、あることで誰かと意見が対立して口論となったときに、愚かな者は感情的になり、思ったことをすぐに口に出し、それが激しいことばとなって相手の怒りをあおるのです。しかし、賢い者は知恵を働かせて柔らかなことばで対応するので、相手の憤りを鎮めることとなるのです。また愚か者は、そのように自らの心の思いを一方的に吐き出す一方で、他者からのことばはまともに聞こうとはしません。自分に対する訓戒や叱責はなおさらのことであって、そのことばを侮り、語る相手を嘲り、耳を塞いで聞き入れようとはしないのです。そして、そのような愚か者の歩みは死に至るのです(10節)。しかし、叱責を大事にする者は賢くなり(5節)、神のみこころにかなう者へと変えられ、主の祝福にあずかるようになるのです。そのように、聞くこと、語ることにおいて、自分の肉の思いに従って振る舞う者、自分にとって都合の良いものだけを求めて生きる愚か者の心には、感謝も喜びもありません。絶えず不平や不満を口にし、他者を批判する一方、自らを客観的に見て吟味しようとしないので、成長するどころか、心の不健全さがからだをむしばむのです。しかし、神を畏れ、みことばを聞いて受け入れ、それに従って歩む者は、知恵が神から与えられ、真理を見出すので、さまざまなことの中にあっても、それに振り回されることはないのです。神に祈り求め、主の助けと導きを受けて歩むので、うちには平安があるのです。主に愛され、常に見守られているゆえに(3節)、その心には感謝と喜びが満ちるのです。「心に楽しみのある人には毎日が祝宴」とありますが、その楽しみとは、この世が与えるのではなく主がもたらされるものであり、祝宴とは、主が私たちを招かれる場なのです。主が与えてくださる祝福の豊かさをあらためて覚えたいと思います。

主にあって楽しみ喜ぶことができますように。

◇聖書箇所:箴言 14章20-35節◇(11月28日)

「弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、 貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」…箴言14:31

31節のことばが心に留まります。寄留者、孤児、やもめ、ハンディキャップを持った人のような、弱い者、貧しい者を邪魔者扱いする者は、自分を母の胎の中に造られた方、いのちを与えて生かしてくださっている神をもそしって罵る…。しかし、あわれみの心をもってそのような社会的弱者に関わろうとする者は、創造主なる神を畏れて敬うようになるのだと言うのです。それは、私たちと神とのつながりと、私たちの隣人との関わりは、別々のものではなく、一体性があるということなのです。「自分の隣人を蔑む者は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ」と、21節にもあります。自分の隣人、弱い人、貧しい人に無関心ではなく、愛とあわれみをもって積極的に関わるということは、聖書全体を通して示されている神のみこころにほかなりません。「ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない」(申24:21)とあるとおりなのです。主イエスも、そのような最も小さい者たちの一人に、愛とあわれみをもって真実に関わることは、すなわち王である神ご自身に対してするのだ…と、その大切さをたとえにより弟子たちに教えられました(マタ:40)。主イエスのこの地上での歩みは、まさにそのことを実践されたものであって、その主に贖われた聖徒たちは、主に倣い、主と同じ心で、人々と関わるよう求められているのです。神の愛をしっかりと受け取っている者こそが、他者を真実に愛する者とされるのです。神との強いつながりが、隣人との距離を近いものとするのです。私たちは、主との親しい交わりを持つ中で、いかに罪深く心の貧しい自分が神に愛されているかを教えられ、そのことへの感謝と喜びが湧き起こるのです。そして、その応答としての神への愛、自らを献げる思い、また隣人へのあわれみの心が、御霊によって与えられるのです。そのことを覚え、主との交わりをますます深めていきたいと思います。

主の愛が心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所:箴言 14章1-19節◇(11月27日)

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」…箴言14:12

14章には「道」について語られている格言がいくつかあります。12節の「人の目にまっすぐに見える」道とは、人の見方において正しいと思われる道であり、倫理的な正しさ、ヒューマニズムに基づくあり方を意味します。もちろんそれは素晴らしいことですが、神の目から見る正しさとは、ご自身のみこころにかなうあり方であって、そうでないなら、その道はいのちには至らないのです。「まっすぐ歩む者は主を恐れ、曲がった道を行く者は主を侮る」(2節)。神が私たちに求めておられる歩むべき道…それは、神を畏れ、神に信頼して歩む道にほかなりません。人の目にはまっすぐで正しい道に見えても、その人が主を侮り、神のことばに従って歩もうとしないのなら、その道は神の目には曲がったものであるのです。「心の放埒な者は自分の道に満足する。善良な人は彼から離れる」(14節)。「放埒」という耳慣れないことばが使われていますが、それは「勝手気ままに振る舞う」という意味です。わがままで自己中心なあり方のことです。自分は正しい、間違っていない、他人からとやかく言われたくない…と、自己肯定、自己満足して生きているならば、そのようなあり方は神のみこころではないのです。その道は終わりが死となる道なのです。主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ14:6)。私たちが、社会や人々とのつながりを積極的に持って、ボランティアなどで社会的貢献をするのは大切なことです。また教会において、奉仕を熱心に行なうのも尊いことです。しかし私たちが主を慕い求め、主に拠り頼み、主に聞き従って歩んでいないならば、私たちの目にその道がまっすぐなものに見えるとしても、それは神の目にはそうではないのです。いのちに至る道、主が備え導いておられる道を、まっすぐに歩んでいきたいと思います。

自分の歩みを見極める(15節)者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 12章◇(11月25日)

「愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。」…箴言12:16

16節には怒りのことが書かれています。怒りをすぐ表わすのは愚か者だと…。「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」とヤコブも言っています(ヤコ1:19)。怒り自体が悪いわけではありません。怒りもまた神が人間に与えられた感情であり、神ご自身もまたそれをお持ちだからです。みことばは、その怒りの感情に支配されるな、怒りたくなる状況でもすぐに怒りを爆発させず冷静になれ、と教えているのです。1節には「叱責を憎む者は間抜け者」とあります。叱責とは、自分のあり方における改めるべき点を他者から指摘されることですが、それを憎み、怒り、聞く耳を持たない者は間抜け者だと言うのです。そしてそのような者は、常に自分は正しい、間違っていないと考えており、違う見方をする者の声を受け入れようとはしないのです。私たちの怒り…それもまた、自分の考えは正しいという前提で、他者に対しても「こうあるべき」と、自分の価値観の枠に押し込めようとし、その枠からはずれることに対して寛容になれない、その心から生じるものです。しかしそれは、自分が他者を支配して従わせようとし、上に立とうとすることであり、高慢なあり方なのです。16節の後半には「賢い人は辱めを気に留めない」とありますが、もし不当な辱めを受けたとしても、主はご存じだ、主が弁護し、正しく報いてくださる…と委ねることができる、それが賢い人、知恵のある者、主を畏れる者なのです。すべてのことは主の御手のうちにあると、主の前にへりくだり、神の絶対的な主権を認めるなら、私たちの不要な怒りは取り除かれます。自分の思い、考えに固執するのをやめ、最善をなしてくださる主に自分を明け渡し、全面的に信頼して歩むことを日々続けていくならば、いちいち些細なことでイライラする心は変えられていくのです。神こそが正しいお方、主権者であって、決して自分ではない…。常にその理解に立ち、ますます主を畏れ、へりくだって歩む者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:箴言 11章◇(11月24日)

「気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。」…箴言11:24

11章の中に書かれている、富や財産に関する教え、ことばが心に留まります。「財産は御怒りの日には役に立たない」(4節a)。「悪者が死ぬとき、その望みは消え失せ、財力への期待も消え失せる」(7節)。富や財産を築けば幸せになれる、何でもできる、夢は叶う…と考えるのは妄想です。どんなに裕福になっても、築いたその財産はこの世でしか通用しないものであり、人が神よりもそれらを頼みとし、神を第一としないならば、決して幸いを得ることはできないのです。「自分のために、天に宝を蓄えなさい」と主イエスも言われました(マタ6:20)。「自分の富に拠り頼む者は倒れ、正しい人は若葉のように芽を出す」(28節)。ここでの「正しい人」とは、神に拠り頼む人、神に従う人のことであり、「若葉のように芽を出す」とは、いつも生き生きとし、ぐんぐんと成長して、やがて実を結ぶようになる、神によって祝福され、栄えるということです。新共同訳ではそこを、「神に従う人は木の葉のように茂る」と訳しています。主の教えを喜びとしてそれを口ずさむ人は、流れのほとりの木のように、時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える、という詩篇1篇2-3節のみことばが思い起こされます。「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される」(25節)。ここでの「おおらかな人」とは、くよくよしない明るい者ではなく、その前の節にあるように、物惜しみせず気前よく施す者のこと、他者に与えることを喜びとする者のことです。主イエスも、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました(使20:35)。その主は、十字架に掛かり、ご自身のいのちさえ惜しみなくささげてくださったのです。そしてそれは、私たちの罪を赦し、私たちを神の前に正しい者とし、永遠のいのちに至る者とするためであったのです(8,19節)。神が備えられたその救いを感謝しつつ、さらに神の義を追い求める者、キリストに倣う者でありたいと思います。

主から与えられる喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所:箴言 10章17-32節◇(11月23日)

「正しい人の舌は選り抜きの銀。悪しき者の心は無価値に等しい。正しい人の唇は多くの人を養い、愚か者は良識がないために死ぬ。」…箴言10:20-21

10章では正しい者と悪者とが対比されていますが、特に後半ではそのことと関連して、「舌」、「唇」、「口」という語が多く出てきます。昨日の箇所でも、「正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す」とあります(11節)。表現は違いますが、それらが意味するものは、私たちの口から出る「ことば」にほかなりません。ところで、私たちの口、舌は何のためにあるのでしょうか…。食物を食べて味わうという目的はもちろんですが、それだけではありません。聖書は、それらは主をほめたたえ、神を礼拝することばを発するためにある、と教えています。私たちの口、唇、舌は、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげるために与えられているのです(ヘブ13:15)。また、私たちの口や舌は、人の徳を高めるためにも用いられるものです。私たちのことばで他者を慰め、励ますことができるのです。パウロは「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペ4:29)と命じています。さらに主に贖われた私たちには、御国の福音を宣べ伝え、キリストにある神の愛と救いのことばを人々に宣べ伝えるために、それぞれに口と舌が与えられているのです(マル16:15)。しかし、舌は自分の意志では制御できません(ヤコ3:8)。主に制していただく必要があるのです。そのために私たちは、知恵であり、いのちであり、主ご自身である、神のことばを日々受け取るのです。そして、そのようにして私たちの内側が神のことばに満たされるなら、御霊によって心と思いがきよめられ、私たちの口から出ることばも、主のみこころにかなうものとされるのです。私のことばと行い、すべての領域を支配してくださいと、主に祈り求める者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 10章1-16節◇(11月22日)

「主は正しい人を飢えさせず、悪しき者の欲を突き放される。」…箴言10:3

1節に「ソロモンの箴言」とあります。ダビデの子であるソロモンは王位に就いたとき、民をさばくための知恵と知識を主に願いましたが、彼は、与えられたその知恵を、2-3行からなる簡潔な文章によって箴言として書き表しました。それは22章の前半まで続いています。そしてそこには、正しい者と悪しき者、知者と愚者、勤勉な者と怠惰な者などが、対比して示されているのです。今日の箇所において、正しい者と悪しき者については、3,6,7,11,16節に書かれています。正しい者は主によって養われ、飢えることがありません。しかし主は、自らの欲望を満たすことを追い求める悪しき者を退けられます。また、正しい者の口から出ることばは、神をたたえる賛美であり、楽しみと喜びを表わすことばであり、人を励まし生かすことばです。しかし悪しき者の口は、不法を隠して見つからないようにするため、常に偽りに満ちています。さらに、正しい者に対して与えられる報いはいのちであり、それはこの地上から、やがて迎え入れられる天の御国へと永遠に続いていくものです。それに対して悪者は、罪の結果として死に至ることになるのです。そのような正しい者の「正しさ」とは、倫理的、人との関係における正しさ以上に、その人と神との関係における霊的な正しさを意味します。神がその人を正しい者、すなわち義なる者と認めてくださるかどうかが問われているのであり、それはこの世の基準とは異なるのです。元より人は、最初の人アダムの原罪のゆえに、すべての者が神の前に罪人であって、その意味では義人は一人もいません(詩14:3、ロマ3:10)。しかし、あわれみ深い主は、人に知恵のことばを与え、主の訓戒を尊びそれに喜んで従う者たちを、ご自身の道へと進ませ、正しい者としてくださるのです。また、メシアを遣わし、その贖いを信じる信仰によって、義なる者、正しい者としてくださるのです。その主の恵みを感謝したいと思います。

ますます主を畏れる者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 9章◇(11月21日)

「『さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい』と。」…箴言9:5-6

「知恵」が前半に、「愚かな女」が後半に登場しています。「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と、どちらも同じことばをもって、町の高い所から人々に招きのことばを呼びかけ、自分のもとに来させ、それぞれ用意した食事によりもてなそうとするのです。しかし、その食事の中身と、招待客の結末は全く異なっているのです。「知恵」の家には7本の頑丈な柱が据えられています。聖書において7は完全を表わす数字であり、「愚かな女」の家との違いが強調されているかのようです。そして、その家の主人である「知恵」がいけにえを屠り、調合されて良い味と香りを備えたぶどう酒を準備し、わたしのパンを食べなさい…わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい…と招待客に促すのです。それは、その人々が、知恵とわきまえのある者とされ、分別のある道を歩み、真のいのちに生きるようになるためです。ここに、その席で出されるパンが、人々の霊の糧である主のみことばであり、また振る舞われるぶどう酒が、私たちのたましいの渇きをいやす御霊であることが暗示されています。一方、「愚かな女」は、人々に出す食事を自ら用意しようとはしません。どこからか盗んできた水と怪しげなパンによってもてなすのです。そしてそれは、招待客をよみの深みに向わせ、死に至らせるものとなるのです。「浅はかな者はみな、ここに来なさい」という招きのことばに、知恵が得られると人々は期待しますが、そんなまやかしの食事を食べてそうなるはずがないのです。ここに、悪魔のさまざまな誘惑と罠が暗示されています。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハ6:35)。主は、いのちに至る食事に私たちを招いておられます。感謝をもってその招きにあずかる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:箴言 8章22-36節◇(11月20日)

「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」…箴言8:34

 22-31節には、この世界の創造のわざを御父とともになされた御子が、「わたし」として語っていることばが書かれています。「わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた」(23節)、「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった」(30節)とありますが、それは使徒ヨハネが彼の福音書で伝えていることです。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。すべてのものは、この方によって造られた…」(ヨハ1:1-2a)。人となって私たちの間に住まわれた、神のことばなるイエス・キリストが、すでにこの箴言の中に示されているのです。34節において「見張り」、「見守って」とありますが、何を見張り、見守るのでしょうか…。その場所は、「わたしの戸の傍ら」、「わたしの門の柱のわき」です。すなわちそこは、主が臨在されるご自身の宮、神殿を意味しています。そこで私たちが見張り、見守るのは、主ご自身であり、その主の御口から出るみことばです。さらに言えば、私たちの心であり、そこから生まれることばと態度です。それが神のみことばから外れていないか見張り、吟味し、主のみこころに従う者となるのです。36節には、「わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ…」とあります。「神の知恵や訓戒など必要ない…」と、人格をもったことばである神に背を向ける者は、悪に満ちたこの世において害を受け、傷ついてしまうのです。そして、その痛みをなくそうとして逆に他者を傷つけたり、それを忘れようととして快楽におぼれたりするのです。そこにはいのちはありません。それは死に向かう道なのです。神を求める者、みことばを聞いて受け入れる者、知恵を得る者こそが、いのちを見出すことができるのです。主の救いと恵みにあずかるのです(35節)。主と自らの心を、日々しっかりと見張りたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 7章◇(11月18日)

「私の命令を守って生きよ。私の教えを、自分の瞳のように守れ。それを自分の指に結び、心の板に書き記せ。」…箴言7:2-3

5節以降には、6章の後半に引き続き、遊女による性的な誘惑への警告が書かれています。しかしそれは、男性だけに対して語られていることではありません。なぜなら、遊女の背後で働いている闇の力、この世の霊、神に敵対する勢力であるサタンによる攻撃に対して、すべての人はしっかりと備える必要があるからです。そうでないと、霊的な命を奪われてしまうからです(26節)。「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちに蓄えよ」と命じられています(1節)。神の教えであるみことばは、守り行なうだけでなく、それぞれが自分のうちに蓄えることが求められているのです。なぜなら、生活の中でサタンから突然襲われたとしても、うちに蓄えられているみことばを剣として取り出し、それを攻撃の武器として戦い、身を守ることができるからです。主イエスが荒野で悪魔からさまざまな試みを受けられた際、「…と書いてある」と即座にみことばを突きつけ、悪魔を退けられたことが思い起こされます(マタ4:1-11)。「それを自分の指に結び…」(3節)。私たちが手を動かして何かの作業をするときに、指に何かが結ばれていたら邪魔になってしまう…と考えるでしょう。しかし、事を行う際に、絶えず神のことばを意識し、それに従って行動するなら、私たちは主からの知恵と助けをいただき、豊かな祝福と勝利のうちにそれを成し遂げることができるのです。また「心の板に書き記せ」ともありますが、そのように、神の命令、教えが、指に結ばれ、心に書き記されているということは、私たちの思いと行いがみことばにより支配され、きよめられ、導かれていくということであって、それこそが、神がすべての者に願っておられるあり方なのです。さらに「私の教えを、自分の瞳のように守れ」とあるように、それを奪われて盲目にならないよう、なくてはならない大切なものとして守るべきなのです。そのことを覚えて歩みたいと思います。

みことばにより勝利を得る者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 6章20-35節◇(11月17日)

「命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。」…箴言6:23

「わが子よ、あなたの父の命令を守れ。…それをいつも心に結び、首に結び付けよ」(20-21節)。親の命令と教え、彼らを通して語られる主の訓戒は有益なものであって、それらを心に留めるならば、悪と闇が満ちているこの世にあって、人はさまざまな誘惑から守られるのです。「訓戒のための叱責は、いのちの道である…」。叱責はいやなもの、避けたいことのように思えます。しかしそれは、私たちを守り、成長させるものであり、それもまた、有益で必要なものなのです。それはいのちの道となって、私たちを真のいのちへと導いてくれるのです。24節以降には、滑らかな舌を持つ悪い女、遊女、隣人の妻と関わりを持つ者が受ける報いが、どれほど悲惨なものであるかが語られています。彼は傷と恥辱を受け、彼の汚名は人々の間で知れ渡り、消し去ることができなくなるのです。また、不倫相手の夫からは、容赦ない復讐を受けることになってしまうのです(33-35節)。そのような結果に至るのは、性的不品行、姦淫の罪を犯す者だけではありません。周りのこと、後のことを考えず、自らの肉の欲を満たすことを求める刹那的な者は、盗みなどの悪を行うことに抵抗なく、人々から蔑まれ(30節)、何よりも主の前に不義なる者となってしまうのです。そうならないために、主の命令と訓戒をいつも心に留め、首に結びつけるようにして意識し、歩むことが大切なのです。そしてそれは、私たちを導き、見守り、話しかけてくれるのです。ことばは神であって、そのように私たちとともにあって、一人ひとりの歩みを確かなものとするのです。与えられた主の教えを、心の奥にしまい込んでしまうのではなく、生活のただ中でそれを思い起こし、反芻して味わい直し、さまざまな場面でそれを適用し、実践する者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 6章1-19節◇(11月16日)

「それゆえ、破局は突然やって来る。たちまち彼は滅ぼされ、癒やされることはない。」…箴言6:15

他者のために保証人となり、誓約をするということはつまり、その人が何かの費用を支払えなくなったときには、自分が肩代わりして弁済しなければならないということです。そしてそのことが悪意によって仕組まれた罠であった場合、「自分を救い出せ」と、決して泣き寝入りせず、なんとしてでも逃れるようにと命じられています。「あなたの目を眠らせず、そのまぶたにまどろみを与えるな」(4節)。そのような姿勢は、自分が誰かから不当な扱いを受けた場合だけに求められることではありません。それは、すべてのことに対して求められている勤勉なあり方であって、「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ」と言われているのです。夏のうちに冬の間の食物を確保しない怠惰な者は、そのときになって、貧しさ、乏しさを味わうことになってしまうのです。蟻とキリギリスの話しが思い起こされます。主に信頼して歩むということは、主の助けと導きを求め、必要が満たされることを疑わずに歩むということですが、それは自分が常に受け身の姿勢で待っていればよい…ということではもちろんありません。人には自分が果たすべき分があり、それを全うするために努力すべきなのです。そのための知恵と悟りを主に求めるべきなのです。よこしまな者、不法を行う者は、悪を企み、人を陥れて食いものにしようとします。しかし、そのような悪者どもの高ぶり、偽り、邪悪な心、まやかし、好戦的な態度などは、主が憎み、忌み嫌われるものであり(16-19節)、彼らが人々の間でのさばるのを、主は決して放置されないのです。あるとき突然、彼らは滅ぼされてしまうのです。しかしそのことをしっかりと受け取っていないと、「正直者がばかを見る」という思いになり、自分のなすべきことに忠実でなくなってしまうのです。「人の道は主の御目の前にある」ということを(箴5:21)覚え、主の御前に真実であり続けたいと思います。

ますます勤勉な者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 5章◇(11月15日)

「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。」…箴言5:21

「わが子よ、注意して私の知恵を聞け。私の英知に耳を傾けよ」と、父から子への訓戒のことばが続いています。5章では「よその女」に気をつけよとの警告があり、性的な誘惑から身を守ることの大切さが強調されています。「よその女の唇は蜂の巣の蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだが、終わりには苦よもぎのように苦くなり…」。誘惑というものはみな、私たちの心に、何かうきうきするような気持ちを起こさせます。また、深入りしなければ大丈夫…という思いを抱かせます。しかし、いったん関わりを持ち始めるなら、どんどんと深みにはまっていき、気がついたときには、そこから抜け出せなくなってしまうのです。そして「よその女」と一緒に居続けるなら、その行き着くところは「死」なのです(5節)。「あなたの道をこの女から遠ざけ、その家の戸口に近づくな」(8節)。誘惑から自分の身を守る最良の方法、それは、何よりもまずそれに近づかないことです。そこには意志も必要ですが、自らの弱さをわきまえ知り、主に助けと守りを祈り求めることが大切です。そして、その道を進み続けるなら、「死」という恐ろしい結末が待っていることを、みことばを通して知ることが重要なのです。そのように、主からの知恵のことばに耳を傾けることをせず、肉に従って歩んでいる者は、死を迎えたときに後悔してこう言うのです。「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った…自分を教える者に耳を傾けなかった」と(12-13節)。しかし時すでに遅く、そうなってからではもはや助かる道はないのです。だからこそ、そうならないようにと、生きる者となるようにと、主は知恵と訓戒のことばを与えてくださっているのです。私たちの歩みの道筋のすべてにおいて、心を向けておられるのです。へりくだってその主の知恵のことばを聞き、訓戒を受け入れる者は幸いです。そのような者として歩み続けたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:箴言 4章◇(11月14日)

「訓戒を握りしめて、手放すな。それを保て。それはあなたのいのちだから。」…箴言4:13

13節後半の「それはあなたのいのちだから」ということばに心が留まります。主の訓戒、教えを手放すなら、私たちのいのちが失われてしまうのです。3章18節にも、「知恵は、これを握りしめる者にはいのちの木。これをつかんでいる者は幸いである」と書かれています。私たちが主の知恵と訓戒を堅く握り続けるなら、神のことば、教えに日々聞き従って歩むならば、主が与えるまことのいのちに生きる者とされるのです。しかしそれを侮り、不要だとして手放す者は、暗闇に迷い込み、死の恐怖に脅えるようになってしまうのです。22節には、「それら(主の知恵と訓戒)は、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒しとなるからだ」とあり、23節にも、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く」とあります。それらの節で「いのち」と訳されているのは、すべて同じヘブル語です。それには目覚め、回復、成長の意味も含まれています。神のことばが、私たちの心とからだとたましいの全領域、存在全体を健やかにするのです。捕われから解放し、病を癒し、私たちを生き生きとさせてくれるのです。主イエスは弟子たちに言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」(マタ16:26)。人が、この世における楽しさや華やかさを求めるのではなく、そこに喜びや生きがいを見いだそうとするのではなく、主が与えてくださる知恵と訓戒をしっかりと握り、その教えに従って正しい道を歩み続けるならば、その道は暗闇に満ちている悪者どもの道とはまったく異なり、夜明けの光のように、どんどんと輝きを増していくのです(18-19節)。そこには本当の喜びと楽しみと希望が満ちており、そのいのちの道は永遠へと続いていくのです。主が私たちのために備えてくださっているその道を、右にも左にもそれず、まっすぐ進み続けていきたいと思います。

心をしっかり見守ることができますように。

◇聖書箇所:箴言 3章21-35節◇(11月13日)

「あなたに物があるとき、隣人に向かって、『帰って、また来なさい。明日あげよう』と言うな。」…箴言3:28

「わが子よ、見失ってはならない。知性と思慮をよく見守れ」(1節)。作者はそのように注意を喚起しています。なぜなら、油断せずに絶えずそれらを見守っていないと、すぐに見失い、道を踏み外して迷い込み、恐れと嘆きと戸惑いの中を歩むことになってしまうからです。「知性」は霊と対立するものではなく、それもまた神から与えられるものです。そしてそれは知識とは異なり、「考える」ことが伴います。それは正しいことなのか…主に喜ばれることなのか…神の導きはどうであるのか…。立ち止まって考え、みことばと祈りによりそれを教えられ、自分のあり方を吟味する…思慮深く丁寧に生きる…。それが、知性と思慮をよく見守るということです。そのようにするなら、私たちのたましいにはいのちがもたらされ、確かな足取りで歩み、平安のうちに身を横たえて眠りにつくことができるのです(23-24節)。「あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない」。「善」とは、すなわち、主のみこころであり、親切や善意を表わすことにとどまらない、もっと広くて深い意味を含んでいます。そしてその根本にあるのは、惜しみなく与える愛、見返りを求めない献げる愛なのです。それは今日、今、与えること、献げることが求められているのです。それを受け取るべき者、必要としている人がいるのです。善を行う力を持ちながら、その実行を先延ばししてはならないのです。33-35節には、悪しき者と正しい者、嘲る者とへりくだった者、愚かな者と知恵のある者が対比され、それぞれが何を主から受けるのかが語られています。主ののろい、嘲り、恥辱を受けるのか、それとも、主の祝福、恵み、誉れを受け継ぐのか、私たちはその選択が迫られており、意志をもって常にその良いものを選び取っていくことが求められているのです。知性と思慮をしっかりと見守りつつ、そのことを行い続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:箴言 2章◇(11月11日)

「思慮はあなたを守り、英知はあなたを保つ。それらはあなたを悪の道から、ねじれごとを語る者たちから救い出す。」…箴言2:11-12

「わが子よ」という呼び掛けをもって、父なる神は、私たちが耳を知恵に傾け、心を英知に向けるよう促し、その結果として得られる祝福を示しています(1-6節)。神から与えられる知恵と英知は、高価な銀のように尊く、私たちがそれを探し求め、隠されている宝のように探り出すことが求められています。そしてそうするなら、主を畏れることをわきまえ知り、神を知ることを見いだすようになり、主の御口から出ることばによって、いのちの道がどこにあるのかを悟るようになるのです。そしてそれは、悪と闇に満ちたこの世にあって、私たちがその影響から逃れるために必須のことなのです。なぜなら、私たちが自分の努力によって悪を避けようとしても、弱い私たちはいつの間にかそれに巻き込まれてしまうからです。私たちにとって大切なこととは、知恵と英知そのものであり、それを与えてくださる方、主の御口から出ることばを日々しっかり受け取ることなのです。保つ…守る…盾となる…救い出す…。7節以降にはそのようなことばが続いています。また16-19節には「死をもたらす女の人」のことが出てきます。人が受けるさまざまな誘惑が象徴的に書かれているのかもしれません。それに対して、私たちがなすべきことは、意志を強く保ち、自らの力により身を避けることではありません。主から知恵と思慮と英知を日々いただいて、それにより、地上の悪者ども、その背後に働いている悪魔の誘惑と攻撃から主によって守られ、救い出されることなのです。「このくらいなら…」と誘惑を軽く考えてはいけないのです。その道の先は死に至るからです。しかし、知恵と英知によって守られ、いのちへ至る道を歩み続ける者は幸いです。道であり真理でありいのちである方、キリストにしっかりと目を留めて歩み続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 1章20-33節◇(11月10日)

「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。」…箴言1:23

20節に書かれている、大通り、広場、街角、町の門の入り口…。それらはみな大勢の人が集まる場所です。その所で「知恵」、すなわち神である主は、ご自身のことばに心を留めて立ち返るようにと、喧噪にかき消されないよう、人々に向って大声で叫んでいるのです。なぜなら、彼らは浅はかなことを愛し、嘲ることを欲し、分別のない者たちであり、知識を憎んでいたからです(22節)。しかし、その主の声は人々の元には届きません。周りがうるさくて聞こえないのではなく、人々が聞く耳を持たないからです。それは、バプテスマのヨハネや主イエスも語った「悔い改めなさい」というメッセージであり、主は人々のあり方を正そうとされたのです。「叱責」ということばが繰り返されていますが(23,25,30節)、その原語であるヘブル語の意味は「懲らしめ、訴え」です。それは、叱り飛ばす、怒鳴りつけるというのではなく、むしろ、同じ節の中にあるように、「忠告」なのです。その主の叱責、忠告に心を留める者は幸いです(23節)。主の道をはずれてしまっても、罪を犯してしまっても、その主の忠告を聞き入れ、自らのふるまいやことばを省み、その過ちを認めて主に立ち返るなら、主はご自身の霊を私たちに注ぎ、真理の光で照らし、みこころのうちを歩ませてくださいます。神は真実で正しい方であって、私たちが自分の罪を告白するなら、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです(1ヨハ1:9)。私たちはこの世の喧噪の中を歩んでいます。そこを離れ、静まって主の御声を聞くことが必要なのです。そして自らのあり方に対する主の忠告を聞いて素直に受け入れ、日々、主に立ち返り続けることが求められているのです。たとえ主の道からはずれることがあっても、歩みを修正し、主に立ち返り、主の御声に聞き従い続けるならば、わざわいを恐れず、安らかに住まうことができるのです(33節)。そのような者とされたいと心から願います。

主の叱責を感謝することができますように。

◇聖書箇所:箴言 1章1-19節◇(11月9日)

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」…箴言1:7

今日からしばらくの間、箴言を読んでいきます。「箴言」と訳されている原語には「…のようだ」という「比喩」の意味がありますが、実際には、知恵のことばが集められた書となっており、旧約聖書の中で、ヨブ記、伝道者の書とともに「知恵文学」に属しています。また2-6節には、この箴言が書かれた目的が示されており、それを読んで心に留める者が、知恵と訓戒を学び、知識と思慮を身に着け、洞察を深めるためだとあります。7節のことばが心に留まります。神である主を恐れる(畏れる)ことが知識の初めなのです。知識とは、単に多くのことを知っているということでなく、物事の本質を理解するということであり、それを初めとして、人生の諸問題に対処するための知恵が与えられ、悪の道から守られるための訓戒を神から受け取る者となるのです。主を畏れるとどうしてそのような者とされるのか…。それは、神がこの世界のすべてを造られ、支配されていることを知るからです。しかしそうでない者は、自分が正しい、自分は知っていると、いつでも自分の考えで事を進めようとするのです。神が人に与えておられる知恵や訓戒を蔑み、素直にそれを受け取ろうとはしないのです。それは、自分がいかに無知で足りない者なのかを、主の前に認めることになるからです。そして、そのように拒む態度は神の前に高慢であり罪なのです。私たちは、創造者、全能者である主の前にへりくだり、自らの知恵ではなく、主の知恵により歩むべきなのです。また、神によって立てられている両親や指導者を敬い、その者たちの訓戒のことばにも従うべきなのです(8節)。この世は多くの知識と知恵を私たちに吹き込んで来ます。しかしそれは罪人たちによる惑わしかもしれないのです。それらを鵜呑みにして従ってはならないのです(10節)。私たちが絶えず心に留めるべきは、主からの知恵と訓戒、すなわち聖書の教えであり、一つ一つのみことばです。みことばの真理の光に照らされて歩みたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨナ書 4章◇(11月8日)

「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」…ヨナ4:11

神は、ニネベの人々が悪の道から立ち返ったので、彼らに下すわざわいを思いとどめられましたが、それを知ったヨナは怒り、いのちを取ってほしい、と神に訴えました。なぜヨナは怒ったのか…それは、アッシリアの国にあるニネベの異邦人たちが、悪事を重ねていたにもかかわらず、神があわれみによって赦されたからです。そして、結局そうなるのだったら、自分がニネベに行くことに意味があったのか…と、自分の存在価値が否定されたように感じたからです。しかしヨナが、「あと四十日するとニネベは滅びる」と告げて回り、それを聞いて人々が神を信じ、悔い改めからこそ、神は下すはずであったわざわいを思い直されたのです。けれどもヨナは、そのように捉えて神に感謝することはありませんでした。自分が結果的に偽預言者のようになってしまったことに怒りを覚えていたのです。そんなヨナに神が、一本の唐胡麻の木を生えさせて日陰を作ってやると、彼はそれを非常に喜びました。しかし翌朝、一匹の虫にその木を噛ませて枯らせると、太陽がヨナの頭に照りつけ、彼は弱り、またもや自分の死を願ったのです。神は彼に言われました。一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻をあなたは惜しんでいる…ましてわたしは、多くの人々と家畜がいるこの大きな都ニネベを惜しまずにいられるだろうか…と。狭量で自己中心的なヨナの心…それは私たちのうちにもあります。自分がしたことは意味があったのか…人から自分は認められ感謝されていない…神が選ばれた民こそ神の好意に真っ先にあずかるべきではないのか…等々。しかしそれは神のみ思いとは異なるのです。人間的な思いを砕かれ、へりくだった心で神と人を愛し、忠実に仕える者へと変えられるよう、祈り求めたいと思います。

主と同じ心を持つ者とされますように。

◇聖書箇所:ヨナ書 3章◇(11月7日)

「神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」…ヨナ3:10

魚の腹の中にいたヨナは、主が魚に命じて彼を吐き出させたので陸地に戻ることができました。そのヨナに対して主は再び、ニネベに行き、ご自分がその町になそうとすることを人々に伝えるようにと命じられました。すると彼は、今度は従順に、ニネベの町へと向ったのです。ヨナは町に入ると、「あと40日すると、ニネベは滅びる」と歩き回りながら叫び、人々に悔い改めを迫りました。すると、そのことを聞いた町の人々は、事態を深刻に受けとめ、神を信じ、断食を互いに呼びかけ、身分の高い者たちも粗布をまといました。さらに、それを聞いたニネベの王も、王服を脱ぎ捨て、人々と同じようにして粗布をまとって灰の上に座り、人々に、悪事と横暴な行いをやめて主に立ち返るように、との布告を出したのです。「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない」(9節)。ニネベの王のそのことばが心に留まります。彼は異邦人であるにもかかわらず、ヨナが信じ、仕えていた神、すなわち、天地を造られ世界を治めておられるイスラエルの神の存在と、その主権を認めていたのです。そして、自分たちに対する神の怒りのゆえに、ニネベは滅ぼされて当然であり、もしもそのさばきを免れることができるのなら、それは神のあわれみにほかならない…と、王は、そのようなへりくだった心を持ち、神の前に自らを明け渡していたのです。そしてその王のことばを聞いた町の人々も、王と同じ心で、主に立ち返ったのです。結局、神は、彼らに下すはずであったわざわいを思い直され、それを実行することはありませんでした。ニネベの町は滅びなかったのです。そしてそれは、ヨナがそこに行き、わざわいが起こると人々に告げなければ、起こり得なかったことなのです。主に贖われた私たちにも、同じ使命が与えられていることを覚えたいと思います。

主の導きに従順に従うことができますように。

◇聖書箇所:ヨナ書 2章◇(11月6日)

「苦しみの中から、私は主に叫びました。 すると主は、私に答えてくださいました。 よみの腹から私が叫び求めると、 あなたは私の声を聞いてくださいました。」…ヨナ2:2

海に投げ込まれたヨナは大きな魚に呑み込まれました。その腹の中からの彼の祈りが2章に書かれています。しかしそれは、祈りであるにもかかわらず、「…してください」という表現とはなっていません。それはヨナが、自分の身に起こった主のみわざを告白し、主に感謝することば、賛美のことばとなっているのです。ヨナは3日3晩、魚の腹の中に入っていました。光のない空間に閉じ込められたヨナは、居心地の悪さを感じていたでしょう。しかし彼は、そこから早く出してほしいとは願いませんでした。なぜならその時間と場所は、ヨナにとって、主と向き合うためのものだったからです。ヨナは乗っていた船から海に投げ込まれましたが、すぐに魚に飲み込まれたのではなく、おそらくその前に海水を飲み込み、意識を失い、海底に沈んで行ったのです(5-6節)。しかし彼は、大きな魚に呑み込まれることにより、九死に一生を得ました。そしてその魚は、主が備えたものであったのです(1:17)。ヨナは「あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました」と告白しています(6節後半)。ヨナは自分が神に救い出されたことを知っていたのです。そして神の命令に背き、御顔を避けて逃れようとしたことを悔い改め、ニネベへの宣教に再度遣わされることを願い「再献身」したのです。主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させました。主イエスは、ヨナの魚の腹の中での守りと地上への帰還は、ご自分の葬りと復活の予型だと言われました(マタ12:40)。それはまた、私たちがキリストの贖いによって、滅びの穴から引き上げられたことをも意味しているのです。パウロのダマスコ途上での出来事も思い起こされます。私たちはどこから救い出され、どう歩むことを求められているのか…。そのことを思い巡らしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:詩篇29篇◇(11月4日)

「主は 大洪水の前から 御座に着いておられる。 主は とこしえに 王座に着いておられる。」…詩篇29:10

本詩篇には「主」ということばが何度も出てきます。1,2節では「主に帰せよ」と、力ある者の子ら、つまり神の民に対して詩人は、主の栄光、力、誉れを帰すようにと命じています。それらは神から出たもの、神が受けるべきもの、人が横取りしてはならないものであり、「主に帰す」のです。パウロも「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように」と言っています(ロマ11:36)。3-9節では「主の声は」ということばが繰り返されており、「主は」ということばもその間に出てきますが、ほぼ同じ意味で使われています。「主の声は水の上にあり」(3節)という表現は、闇が大水の上にあったときに「光、あれ」と主が仰せられて光ができた、その創造のみわざ(創1:3)を思い起こさせます。そのように、主の声、ことばは、無から有を生み出すもの、主ご自身のみこころを実現するものであり、力と権威に満ちているのです。10-11節では、主が王であられ、御座に着いて主権をもって統べ治められること、また、ご自身の民を守り、力を与え、平安をもって祝福されるお方であることが記されています。そしてここでも、「大洪水の前から」という表現があり、ノアの時代の大洪水が示唆されています。キリストは、世の初めから神として、また王として御座につき、創造のわざをなされました。そして、時至って人類の救い主として世に来られ、人の姿を取って歩まれ、十字架と葬りと復活によって、すべての人を贖ってくださったのです。その主は、今も、力と権威に満ちたお方であり、王として主権をもってすべてを統治し、ご自身の民を守り、御声をもってその歩みを導いてくださるのです。私たちも、ますます主のことばに聞き従い、主の豊かな祝福にあずかり、すべての栄光と誉れを主に帰す者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:詩篇28篇◇(11月3日)

「主は私の力 私の盾。 私の心は主に拠り頼み 私は助けられた。 私の心は喜び躍り 私は歌をもって主に感謝しよう。」…詩篇28:7 

「主よ 私はあなたを呼び求めます」。そのようなことばでこの詩を書き始めた詩人は恐れを抱いていました。それは、周りに悪者どもが多数おり、自分が彼らと一緒にされて主の前に引いて行かれ、さばかれるのではないか、という恐れでした。そこで詩人は、自分は決して彼らと同じではないことを認めてほしい、彼らをその悪と行いにしたがって報いてほしい、と願い求めたのです。その悪者どもは、一見善良な者たちでした。隣人と平和を語り、良好な関係を持っているように思えました。しかし、彼らの心は悪事を企み、気づかれないようにしてそれを実行していたのです。そして何よりも、彼らは神を認めず、その主権、力、御手のわざを悟らず、自分の知恵と力に頼り、欲望を満たすことを追い求めて生きていたのであり、そのようなあり方は主のみこころに反しているのです。神がそれを看過されることはないのです。「ほむべきかな 主。主は私の願いの声を聞かれた」(6節)。詩人はそのように言っています。祈りにより何が起こったのか、それまでにどれほどの時間が経ったのか…それはわかりません。しかし確かに「聞かれた」と、詩人は過去形で語っているのです。そしてさらに、「主は私の力、私の盾…」と告白し、喜び踊る心と感謝の歌をもって、主をほめたたえているのです。「主は彼らの力」、「彼らの羊飼いとなって…彼らを携え導いてください」(8,9節)。「私」、「私」と語ってきた詩人は、最後になって、自分を含めて、「彼ら」と、主の民の守り、導き、祝福を願い求めています。そして、その「彼ら」は、キリストに贖われ、霊的なイスラエルとされた私たちをも意味しているのです。主は私たち、私の力、私たち、私の羊飼い…主よ、どうか弱い羊である私たちを守り導いてくださいと、そのように日々祈り求める者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇27篇◇(11月2日)

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」…詩篇27:4

「だれを私は恐れよう」、「だれを私は怖がろう」と、詩人は告白しています(1節)。それは、主が詩人にとっての光であり、救いであり、いのちの砦であるからです。たとえ敵が詩人の肉を食らおうと襲いかかっても、彼らは主によって打ち倒され、崩れ落ちたのです。その主が自分の味方であり、いつもともにおられ、力強いその御手で敵から守ってくださるので、戦いが起こったとしても、詩人は決して動じることがなかったのです。さらに詩人は、主に近づき、主との親密な交わりを持つべく、ただ一つのこととして、いのちの日の限り、主の家に住むことを願い求めました。そのところで、主の偉大さ、麗しさに目を留め、主がどんなに大きな力と権威をもって世界を統べ治めておられるか、ご自身に信頼するものに恥を見させないお方か…など、さまざまなことに思いを巡らし、その主に喜びのいけにえをささげ、ほめ歌を歌うことを求めたのです。そのように詩人は、敵から自分が守られることではなく、主の臨在の中で主を礼拝すること、それも遠く離れてではなく、主に大胆に近づき、御顔を慕い求めることを切望したのです(8節)。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブ4:16)。旧約の時代、主と顔と顔を合わせることは畏れ多いことでしたが、キリストに贖われた私たちは、イエスの血によって大胆に聖所に入り、主の麗しい御顔を慕い求めることができるのです(ヘブ10:19)。至聖所への隔ての幕は、キリストが十字架上でいのちをささげたとき、真っ二つに裂けたのです。「必要なことは一つだけです」と、忙しく立ち働くマルタに主イエスは言われました(ルカ10:42)。静まって、主を慕い求め、親しく交わることを、何にも優先させて歩む者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:詩篇26篇

「主よ 私を調べ 試みてください。私の心の深みまで精錬してください。」…詩篇26:2

「私を弁護してください」(1節)。詩人はそのように主に求めています。それは、周りに悪人どもがおり、彼らが賄賂を手にし、人の血を流し、神の怒りを招く歩みをしていたため、そんな者たちと一緒にされたくない…と詩人が思ったからです。自分が誠実に歩み、主に信頼していることを調べてほしいと、詩人は訴えています。しかし詩人は、自分は非の打ちどころのない正しい者だ、と言っているわけではありません。「私の心の深みまで精錬してください」とも言っているのです。精錬とは、純度の高い金などを作るために、高温で溶かして、含まれている不純物を除去することです。詩人は、そのようにして、自分のうちにある主に喜ばれないものを、取り除いてきよめてほしいと、願い求めたのです。「主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます」(6節)。「主よ 私は愛します。あなたの住まいのある所 あなたの栄光のとどまる所を」(8節)。詩人は、不信実な者、偽善者、悪を行う者たちとは一緒に行動しない、関わりを持たないと告白していますが(4,5節)、それだけで自分の聖さが保てるとは考えませんでした。何よりも、主の臨在を求め、主のみそばに身を置き、主の教えを喜びとすることこそ、主が求めておられることだと知っていたからです。この世においては、幸いな者となるためには、自己研鑽を積み、優れたノウハウを身に着け、自己肯定するようにと教えられます。しかし詩人のあり方はそうではないのです。そのような世的、人間的なものに「よろめく」ことなく、ひたすら主に拠り頼んでいるのです。そしてそれは、すべての人に対して主が求めておられるあり方なのです。「誠実に歩みます」という決断、告白とともに、「私を贖い出してください。あわれんでください」(11節)、「精錬してください」というへりくだりをもって主を求める者こそ、主の恵みにあずかる幸いな者とされるのです。そのような者として歩みたいと思います。

主がいつも弁護してくださいますように。