◇聖書箇所:ヨブ記 20章◇(10月30日)

「私は自分への侮辱となる訓戒を聞く。だから、悟りを与える霊が私に答えを促すのだ。」…ヨブ20:3

ツォファルの2回目の主張です。彼もまた、1回目よりも厳しい口調をもって、ビルダデと同じように、悪しき者、神に逆らう者が、どのような目に遭うのかということについて、さまざまな比喩を用いて語っています。悪者が傲り高ぶり、我が物顔に振る舞おうとしても、神が彼を追い払われるので、誰も彼を見つけることはできなくなります(8節)。彼は若くしていのちを失い、土のちりの上に横たわることになるのです(11節)。贅沢な食事は腹の中で毒となり、吐き出されてしまうのです(15節)。弱い者を踏みにじり、多くのものを奪い取って自分のものとしようとしても、神の燃える怒りが彼に及ぶため、そのからだは矢によって射抜かれてしまうのです(25節)。そのような一般論を滔々と述べ、苦難の中にあるヨブはその悪者に属する者だと決めつけようとするツォファル…。彼にとって、ヨブが、「『彼をどのように追いつめようか。事の原因は彼にあるのだから』と言うなら、あなたがたは剣を恐れよ。…」(19:28-29)と言ったことばは、侮辱としか受けとめられないのです(3節)。また、「悟りを与える霊が」と言っていますが、それは神の霊ではなく、「私の悟りの霊」という別訳のとおり(新改訳3版)、それは自らの知恵、人間的な考えによるものなのです。その自説を押し通し、ヨブに認めさせようとする、独りよがりのツォファルにとって、ヨブの主張、警告は、彼を憤らせるものでしかなかったのです。神の御声を聞いた…主に示された…。ともすれば私たちもそのように、自分の思い込み、独りよがりの判断で、性急に事を進めようとしたり、人を安易に責めたりしてしまいます。しかし、主の前にへりくだり、静まって祈りを積み重ね、みことばによってその思いを吟味し、主のみこころを確かめる、真理を尋ね求める、慎重さ、丁寧さが求められるのです。多忙な日々にあっても、主との交わりを確保し、そのような態度で歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 19章◇(10月29日)

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。」…ヨブ19:25

自分を一方的に悪人に仕立て上げる友人たちに対し、これ以上一緒にいてほしくないという思いになりながら、ヨブは、自分のことを何度も辱め、いじめて恥じることのない彼らの態度を非難するとともに、彼らの主張に反論し、神が自分を不当に扱っているのだと、自分の正しさをあらためて主張しています(2-6節)。さらにヨブは、これまで以上に厳しい口調で神を非難しています。「神はわたしから栄光をはぎ取り」(9節)、「打ち倒し」(10節)、「怒りを燃やし」(11節)、「敵のように見なされる」…と。そしてその結果、兄弟、親族、親友など、近しい関係にあった者たちは自分を離れ、見放し、もはや妻にさえ嫌われ、若輩の者に蔑まれると嘆き、「私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている」(20節)と、自らの悲惨さを訴えています。そのような中、やや唐突に、ヨブは自分を贖う方の存在を告白しています(25節)。それまでも彼は、「仲裁者」(9:33)、「証人、保証人」(16:19)の存在に言及していましたが、ここではより明確に、強い確信をもって、「贖う方」がやがて土のちりの上に立たれ、その方を自分の目ではっきりと見るときが来ると告げ、「私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ」と言っているのです(26-27節)。そのように、ヨブにとって「贖う方」は、まるで闇に差し込む一筋の光のように、苦難の中にあって希望をもたらす存在となりました。たとえ置かれた状況が辛いものであっても、自分は贖い主に確かに覚えられている、人が次々に離れていっても、自分はその方から決して見捨てられることがない…。ヨブの心にあったその思いは、近い将来にもたらされる救いを待ち望みつつ、今の時を耐え忍ぶ力となったに違いありません。そしてその思いは、主のあわれみのうちに、霊の働きにより、啓示として彼に与えられたものであったのかもしれません。神は人の心に永遠を与えられるお方です(伝3:11)。みことばにより与えられる希望のうちに歩み続けたいと思います。

永遠への思いが与えられますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 18章◇(10月28日)

「いつになったら、あなたがたはその話にけりをつけるのか。…」…ヨブ18:2

エリファズとヨブのやり取りを聞いていたビルダデは、彼らの議論が堂々巡りのようになっていると感じ、その前にまず理解すべきことがあると言って議論を遮り、悪しき者、不正を働く者、神を畏れようとしない者を「彼」と呼んで、その者がどのようになるかを論じています。5節以降にそのことが書かれてます。悪者は策略を練り、人を罠に陥れようとしますが、皮肉なことに、他の者が仕掛けた罠に捕らえられて、自分が倒れてしまうのです(9-10節)。また、もたらされるわざわいにより、悪者の皮膚は冒され、からだが蝕まれ、死に瀕するようになってしまうのです(13節)。さらに悪者の子孫も末裔もいなくなり、そのことを知って多くの者が驚き、悪者に対する神の扱いを覚えて、恐ろしくなるのです(19-20節)。そのようにビルダデは、悪者の悲惨さを述べましたが、彼は、ヨブがまさにそれだと暗に指摘しているのです。「いつになったら…けりをつけるのか…」。ビルダデの考えによれば、この世の人の歩みは方程式のようであり、正しい者は神の祝福を受け、悪しき者は神からわざわいを受けるというあまりにも単純化されたものであって、ヨブが置かれた悲惨な状況は、彼を悪者だとすれば容易に理解できる、それ以上議論することは無意味だとするものです。しかしそのように結論づけてけりをつけようとしても、人生に起こる不条理な事柄の理由について、その明確な答えを見いだすことはできないのです。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」(ロマ11:33)。神が備えられる道は、人間には極めがたい、測り知ることができない、とパウロは言っています。しかしその神に信頼する者は、決して失望させられることがなく、慌てふためくことがないのです(ロマ10:11,イザ28:16)。どのような状況にあっても、最善に導いてくださる主に信頼し、すべてをその御手に委ねて歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。 

◇聖書箇所:ヨブ記 17章◇(10月27日)

「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」…ヨブ17:15

「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです」(1節)。そのように語るヨブは、多くの大切なものを失い、自分も痛み苦しむ中で、この地上での生を保ち続ける気力を失いかけていました。一方で、そのような時にこそ、寄り添い、慰め、励ましてくれるはずの友人たちが、自分を責め立て、嘲ることに、ヨブは辟易し、憤り、許せない思いになっていたのです(2-5節)。さらに、友人たちだけでなく、神は世間の人々に対しても、自分が笑いものになるようにしたので、多くの者が顔に唾し、蔑むようになったと、ヨブは嘆いています。「心の直ぐな人はこのことに驚き恐れ、潔白な人は神を敬わない者に向かって憤る」(8節)。人々にとって、悲惨な目に遭っているヨブは、神に歯向かった報いを受けているとしか思えなかったのです。もちろんヨブは、自分だけでなく、人がさまざまな苦難に遭うことを知っていました。そして人は、「夜は昼に変わり、闇のあるところに光が近づく」(12節)と言い、明けない夜はない、だから耐え忍んで望みを持ち続けようと、自分に言い聞かせて生きていたのです。しかし、もはやヨブは、そのように考えることもできず、よみを自分の住まいとすることを望むようになっていました(13節)。厭世の思いさえ抱くヨブの弱さをここに見ます。「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ」(詩62:5)。詩人と同じく、そう告白する者は幸いです。私たちの望み、それはただ神から来るのです。その神は、この世界のすべてのものを造られ、私たちを母の胎の中に形造り、いのちを与えて生まれさせ、日々生かしてくださっているお方なのです。どのような状況にあっても、その神に信頼するなら、神は私たちの避け所となってくださり、私たちの心に平安と希望を与えてくださるのです(同8節)。この世のものにではなく、神に望みを置く者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 16章◇(10月26日)

「その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。」…ヨブ16:21

エリファズの主張の後、ヨブは答えました。「そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ」(2節)。友人たちが語ることが間違っていなくても、それは何度も聞いたわかりきったことであり、辛い思いをしている自分が慰められるものではなく、みじめな思いを増すだけだ…、もし逆の立場だったら、自分はもっとましなことを語ることができる…と、ヨブはそのように友人たちに反論しています(2-5節)。「神は激怒して私を攻めたて、私に向かって歯をむき出される」(9節)。「神は私の腎臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流された」(13節)。ヨブの思いは、神にも向けられていきます。自分が今置かれている状況は、神によって引き起こされたものだ…その神はさらに、友人たちを送って自分を責め立てさせ、苦しみに追い打ちをかけているのだ…と、そのように神を非難しているのです。そのような中で、「天には私の証人がおられます」(19節)と、ヨブが主張していることに心が留まります。神からは容赦なく痛めつけられ、友人たちからも嘲られている…まさにその四面楚歌の状況においても、ヨブは、自分のことを弁護し、とりなしてくれる存在がいるはずだと、そこに望みを置いているのです。おそらくヨブの時代においても、メシア的な存在が預言されていたのでしょう。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました」(1テモ2:5-6)。キリストは仲介者として私たちを弁護してくださいます。しかしそれは、私たちが正しいとするのではなく、私たちの罪を赦してほしいという神へのとりなしであり、自らが身代りとなって刑罰を受けるという、贖いによる仲介なのです。神が私たちをあわれみ、そのような弁護者、仲介者、贖い主を与えてくださったことを覚え、感謝したいと思います。

平安と希望がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 15章17-35節◇(10月25日)

「ぶどうの木のように、その未熟な実は落とされ、オリーブのように、その花は振り落とされる。」…ヨブ15:33

3人の友人によるヨブへの語りかけは一巡し、15章にはエリファズの2回目の主張が記されています。1-16節では「あなた」と繰り返され、ヨブに対する個人的な非難がなされていますが、17節以降では、すべての悪しき者に対する見解が述べられています。その内容は間違いではありませんが、エリファズは依然としてヨブを慰めようとせず、その悪人なのだと決めつけているのです。「悪しき者は一生もだえ苦しむ」(20節)。エリファズは、まずそのように結論を述べています。そしてさらに続けて、その具体的なことを語っているのです。「その耳には恐ろしい音が聞こえ」、「彼はいつも剣につけ狙われている」、「苦難と苦悩は彼をおびえさせ」…と。そしてそれは何よりも、悪者が、主権者なる神に反抗し、みこころに反した歩みをしているゆえに、神がその者をさばき、追い払おうとされるからなのだと、エリファズは主張しています。「それは、彼が神に対して手向かい、全能者に対して尊大にふるまい、分厚い盾を取って、傲慢にも神に向かって突き進むからだ」(25節)、「神の御口の息によって追い払われる」(30節)とあるとおりです。神は、ご自身が造られ、生かしておられる一人ひとりが、実を豊かに結ぶことを願っておられます(33節)。その実とは、神のみこころをこの地において行うということであり、神の栄光を現わすということであり、天上の祝福を人々に押し流す者となるということであって、その期待に応えない者は、神に取り除かれてしまうのです。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。…わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハ15:4)。キリストに贖われた私たちは、ぶどうの木の枝であって、実を結ぶために、ぶどうの木である主イエスにしっかりととどまるよう、命じられています。神の期待に応え、置かれたそれぞれのところで、豊かに実を結ぶ者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 14章◇(10月23日)

「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。」…ヨブ14:10

「女から生まれた人間は、その齢が短く、…」(1節)、「花のように咲き出てはしおれ、…」(2節)と、そのようにヨブは、人の生がいかにはかないものであるかと語り、それなのに私にわざわいを与え、さばきの座に連れて行くのか…と神に詰め寄っています(3節)。そして、神がそれぞれのいのちの日数を定めているなら、その間は持っている自由を楽しませてほしい、それを邪魔せずに、かまわないでいてくれと訴えているのです(5-6節)。「木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し…」(7節)。またヨブは、植物には再生能力があるが、人間にはそのような力はなく、この地上においては、死んでしまえば倒れたままで、よみに下るしかないのだと嘆いています(10-14節)。ヨブの時代には、そのよみに下った者が最終的な審判を受け、再び目覚めさせられるときが来るのか、そのことはまだはっきりと啓示されていませんでした。復活の信仰を明確に持つまでには至っていなかったのです。「あなたがいつも人に打ち勝つので、人は去って行きます」(20節)。神はすべての人のいのちを握っており、それぞれに定められた日数が終わりに達すれば、それは取り去られてしまう…。それに対して人が抗っても、何もなし得ず、この地上からよみへと追いやられる…。そうなればもはや、自分の子孫の歩みがどのようであるのか、まったく伺い知ることはできない…。ただ孤独で放って置かれるのだと、ヨブは嘆いています(21節)。復活の希望、永遠の歩みへの確信がないことが、いかに不幸であるか、人の心を萎えさせるのかということを、あらためて思わされます。幸いなことに、私たちは今の時代にあって、キリストに贖われ、永遠のいのちの約束が与えられ、終わりの日に起こることの啓示をみことばによって受けています。この地上での歩みは決して楽なものではありませんが、そのことに感謝しつつ、主に喜ばれる、誠実な歩みを重ねていきたいと思います。

主からの励ましがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 13章◇(10月22日)

「あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください。」…ヨブ13:21

「あなたがたが知っていることは私もよく知っている。私はあなたがたより劣ってはいない」(2節)。「しかし、あなたがたは偽りを塗る者、みな無用の医者だ」(4節)。ヨブは、3人の友人たちがみな、まるですべてを悟っているかのような顔をして、教師が生徒に教えるごとく、医者が患者を治すごとく、自分の上に立って関わってくることに辟易し、そのような強い口調で反発しています。ヨブはまた、友人たちは自分を慰めようとしているのではなく、神のため、すなわち神の代弁者として関わろうとしており、偉そうなことを言っても実は、彼らは自らのうちにある罪を棚に上げているのであって、彼らは神を欺いている、神が調べればすぐにそれはわかる、彼らは偽善者にほかならないと言っているのです(7-12節)。「黙れ。私に関わるな。…」(13節)。ヨブの感情はさらに高まっています。彼は、自分は友人たちよりも誠実に歩んできたとの自負をもって、「なおも私の道を神の御前に主張しよう」(15節)、「自分が義とされることを私は知っている」(18節)と言い、そのことに反論できる者などいないのだと断じているのです。20節以降は、神に対するヨブの直接的な訴えです。それまでの強い自己主張とは異なり、神の前におののきつつ、抱いている思いを率直に述べ立てるヨブの姿があります。「あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください」(21節)。このとき、ヨブにとって神は恐ろしい存在であり、その手は、自分を痛めつけ、苦しめる手でしかありませんでした。しかし、神は陶器師であられ、粘土から造られた作品である人間は、その形をなおも変えられ、整えられ、陶器師の気に入るものとして完成されるまで、その御手の中で取り扱いを受け続けるのです(イザ64:8,エレ18:4-6)。そこには痛みも伴いますが、主の御手は、私たちを罰する手ではなく、私たちを救い、支え、整え、永遠の御国まで導く御手であることを覚えたいと思います。

ただ主に信頼して歩むことができますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 12章◇(10月21日)

「私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。」…ヨブ12:3

ツォファルの主張に対して、ヨブは反発しています。彼は、自分にも良識があり、指摘されたことを知らないわけがないのに、正しく誠実であるのに、その自分が友人たちから批判され、見下され、笑いものとされていることに憤りを感じているのです(2-4節)。さらに、安らかに過ごしている正しい者にわざわいをもたらし、神を怒らせる悪者が安らかに歩むようにされる、そのような取扱いをする神をも、暗に批判しているのです(5-6節)。一方でヨブは、神が主権者であり、すべてのものの創造主であり、神がご自分の思いのままに事をなされ、被造物を取り扱われることを認めています。神はすべての生き物のいのちの源なる方であり、それは獣や鳥や魚も知っているとヨブは言うのです(7-10節)。14-25節においては、人間の世界と歴史の中に現わされる神の力と取扱いが語られています。滅ぼされる者が悪人だとは限らないのに、人間は神のなさることを、ただ黙って従順に受けとめるしかないのか…と、ヨブの心には納得できない思いが満ちています。それが、非難がましい口調のことばとなって、ほとばしり出ているのです。パウロはこう言っています。「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」(1コリ8:2)。知らないヨブに教えてやろうとして語った友人たち…。それを聞いて、これくらいのことを知らない者がいるのかと反発したヨブ…。友人たちもヨブも、自分の知識と知恵を誇る者となってしまっていたのです。そしてそのような者は、神の摂理さえも自分の理解の範囲内で受けとめようとするのです。しかしそれは神の前に高慢であって「知識は人を高ぶらせる」とあるとおりなのです(1コリ8:1)。私たちはすべてを知り得ることはできません。しかし、そのことを認めつつ、神が真実なお方であり、最善の道を備え導いてくださると信頼し、従っていく者でありたいと思います。

へりくだる心が与えられますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 11章◇(10月20日)

「あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。」…ヨブ11:7

3人目の友人であるナアマ人ツォファルが口を開きました。「あなたの無駄話…」、「あなたが嘲るとき…」と、彼は、自分は誠実だと主張するヨブに対して、神があなたに唇を開いていたなら、知恵の奥義を告げ、知性を倍にしてくださっただろうと説き、悟りを得ていない愚か者であるヨブが、自分の言い分を饒舌に述べ、神に不平をぶつけようとするのを苦々しく感じて非難しています。次にツォファルは、神の崇高さと深遠さを説いています。全能者である神のみ思い、なされるみわざは天よりも高く、よみよりも深いところまで及ぶのであって、あなたがそれを見いだし、測り知ることなどできないのだ…と。彼の主張は間違ってはいません。しかし他の友人と同じくツォファルは、あくまでヨブのうちに罪があるという前提で、ヨブを「指導」すべく、上からの目線で語っているのであって、大きな痛みと苦しみの中にあったヨブにとって、それは慰めのことばとはならなかったのです。13節以降はヨブへの勧告です。もし~すれば~できると、ツォファルは説いています。もしあなたが神に向って手を伸べ拡げ、自らを明け渡し、また悪を遠ざけ、不正を行う者とならないなら、欠けのない者として神の前に顔を上げ、恐れずに堅く立つことができる、だからそのことに努めるように…と、彼はヨブに指導しているのです。「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)。しかし、人はアダム以来、神の前に誰もが罪人であって、そのような自らの努力をもってもなお、義なる者とはなり得ないのです。人はただ、神の一方的なあわれみによって、救いにあずかることができるのです。そしてその頂点として、神はご自身の御子をこの地に遣わしてくださったのです。ともすれば私たちも、自分のがんばりで神の好意を得ようとしてしまいますが、神に祈り、あわれみを求め、信仰によって義とされる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 10章◇(10月19日)

「私の生きる日はわずかなのですか。それならやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくふるまいたいのです。」…ヨブ10:20

「私のたましいはいのちを忌み嫌う」(1節)…。ヘブル語での「たましい」とは、「霊魂」のことではなく、自分の全存在という意味です。ヨブは、自らのからだ、感情、理性、すべてが、受けているわざわい、痛みと苦しみに苛まれていることに対して憤り、いのちを与えている神に不満をぶちまけたい思いに駆られているのです。「何のために私と争われるのかを教えてください」(2節)。またヨブは、誠実に歩み、不義から遠く離れているはずの自分に対して、悪人が受けるべきわざわいをもたらしている神の意図が理解できず、その疑問への答えを得ようと願い、そのように神に訴えているのです。「もし、私が罪ある者となるなら…」(14節)、「もし、私が悪しき者とされるのなら…」(15節)、「再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう」(16節)、「私に向って苛立ちを増し加え、いよいよ私を苦しめられるでしょう」(17節)。ヨブは、もはや神への信頼を失い、自分を虐げる存在としてしか、神のことを捉えられなくなりつつありました。そして、生まれて来なければ良かったと、自分が神から受けた生を否定しているのです。しかし、そのような中でもなおヨブは、「私はわずかでも明るくふるまいたいのです」と、生きる希望を見出そうとしています。ヨブのうちにあった生と死への思いの葛藤が読み取れます。それは神に対する信仰と不信仰の葛藤でもあり、私たちのうちにも少なからず生じるものなのです。そのような思いを持ちながらもなお、たとえ神に対してぶつける非難であっても、ヨブが神に向かうことをやめずにいることに心が留まります。詩篇には「神よなぜ…」ということばを多く見出すことができます。私たちはどうでしょうか…。あきらめたり、人間的なものを頼りにしたりせず、すべてを受けとめてくださる神に向かい続ける、そのような者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 9章21-35節◇(10月18日)

「私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。」…ヨブ9:21

ビルダデの主張に対してヨブは、彼の言うことが間違っていないことを認めた上で、「しかし、人はどのようにして、神の前に正しくあり得るのか」と語り(1節)、創造主であり主権者である神の前に、人は何もなし得ない、神がなさることに逆らえない、と述べています(12節)。その上でなおヨブは、自分が誠実だと主張し、それなのになぜ、わざわいを受け、痛み、苦しまなければならないのか…と、その疑問をぶつけています。彼にとって、神が、誠実な者も悪い者も、それぞれの歩みに応じた報いを与えようとせず、一緒くたに扱い、さばき、絶ち滅ぼそうとしているとしか思えなかったのです(22節)。27節以降ではヨブのことばは敬語になり、「あなた」という呼び掛けがなされていますが、おそらくヨブは、神に直接訴えたい気持ちが抑えられなくなったのでしょう。彼はこう言いました。「私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを」と(28節)。友人たちは、神の前に罪を認めて悔い改めよ、そうすれば神はその罪を赦し、わざわいは取り去られるだろうと主張しているが、たとえそうしても、神は自分を顧みず、墓の穴に沈めるのだろうと、ヨブは言っているのです(31節)。ビルダデは、「神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」と主張しましたが(8:20)、本当にそうなら、誠実な自分をなぜ神が退けようとするのかと、その疑問の答えが得られずにヨブは苦しんでいました。しかし、主イエスは、「罪深い取税人のようにはならず、自分は正しく生きている」と主張するパリサイ人ではなく、「罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人こそが、神に義と認められる者である、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる、と言われたのです(ルカ18:10-14)。自分の正しさを主張する者ではなく、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだって祈る者でありたいと思います。

自分を低くすることができますように。 

◇聖書箇所:ヨブ記 8章◇(10月16日)

「神がさばきを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか。」…ヨブ8:3

友人として二人目にヨブに語ったのは、シュアハ人ビルダデでした。「いつまで、あなたはこのようなことを語るのか」と、彼は開口一番、ヨブを非難しています。わざわいに遭いながらも自分は正しいとするヨブのことばに憤りを感じた彼は、神がさばきや義を曲がることなどない、あなたが受けているわざわいは、あなたのうちにある罪に対する報いにほかならないと断じ、神にあわれみを乞え、罪を悔い改め、純粋で真っ直ぐな者となり、あなたの義の住まいを神に回復してもらうようにせよと、ヨブに迫っているのです(2-7節)。「すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消え失せる」(13節)。「見よ。神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」(20節)。ビルダデは真理を語り、それがすべての人に適用されうることだと信じて疑いません。そしてヨブが神を敬わない者だと決めつけて批判しているのです。彼の語ることは間違ってはいません。しかしそこには、エリファズと同様に、目の前で痛み苦しんでいるヨブに寄り添い、慰めと回復をとりなす姿勢は見られないのです。「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」(マタ7:4-5)。言っていること自体は正しい、しかしそこには愛やあわれみがなく、あくまでも正しい自分の主張を押し付け、認めさせ、従わせようとする…。それは、主イエスが偽善者だと言って非難したパリサイ人たちのあり方にほかなりません。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。ビルダデにとってヨブは友人であり、単なる隣人以上の関係であったはずです。私たちも主イエスの心で友人や隣人を愛することができるよう、祈り求めたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 7章◇(10月15日)

「私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。私は、自らを重荷としなければならないのですか。」…ヨブ7:20

腫物で打たれ、痛みと苦しみの中にあったヨブ…。彼は、自分がそのような状態に置かれ、放置されているのではなく、敵の動きを監視するかのように、自分の上に常に見張りが置かれているかのように感じていました。また、眠りについたとしても、悪夢におののき、幻によっておびえ、心は絶えずかき乱されていたのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください…」と、ヨブは神に訴えています(11-16節)。そんなヨブはさらに、神に対する非難の思いを隠せず、「いつまで…」、「どうして…」と問いただしています。「いつまで私から目をそらしてくださらないのですか…」(19節)、「どうして、あなたは私の背きを赦さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか…」(21節)。20節にも「どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」とあります。「標的」とは、攻撃の目標のことですが、神はヨブを憎んで叩き潰そうとしていたわけではありません。神は、試練を与えてヨブを取扱い、彼のうちにある、自己を正当化する高慢さや、神の絶対的主権を認めない頑なさに気づかせ、ご自身のみこころにかなう者としてきよめ、整えようとしておられたのです。19~21節のヨブの神への訴えの中に、「私」ということばが何度も繰り返されていますが、神は、ヨブの持っていたその自我を砕き、取り除こうとしておられたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。主イエスは弟子たちに、「みこころが天でおこなわれるように、地でも行われますように」と祈るよう教えられましたが、その「地」とは、この地に住む、私たち一人ひとりのことでもあるのです。まず自分自身が、そのように主のみこころにかなう者となることを願いとし、主がそれぞれに与えておられる有益な訓練をいとわず、しっかりと受けていきたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 6章◇(10月14日)

「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」…ヨブ6:24

エリファズのことばを聞き終えたヨブは、それに反論するように語り始めました。まずはあらためて、自分の苦しみ、痛みが大きくて耐え難いものであること、それがどうしたことか神からもたらされていることを、納得できない思いをほのめかしつつ語っているのです(2-7節)。次にヨブは、自分の願いがかなえられればよいのに…と言っていますが(8-9節)、それはいのちが取られ、苦悩から解放されることでした。そうなればどんなに楽になることか…と思ってもそうならないことを嘆く一方で彼は、「私は聖なる方のことばを、拒んだことはない」(10節)と、思わず、自分はこれまでずっと正しく歩んできたはずだ…と、自己正当化、自己弁護しているのです。ヨブはさらに、そのように悪や不正とは無縁の歩みをしていた自分がなぜわざわいを受けなければならないのか、なにがいけなかったのか、教えてくれ、悟らせてくれと、友人たちに訴えています(22-24節)。そのようにヨブにとっての苦悩とは、腫物によるからだの痛みや、愛するものを失った悲しみ以上に、受けている苦難の原因がわからないということでした。その意味では、彼もまた、エリファズと同様、因果応報の考えに立っていたのであり、主のなさることは人には測り知れないと、神の絶対的主権を認め、徹底的に自分を低くし、すべてを益となされる主に自分を明け渡すあり方ではなかったのです。物事には必ず結果をもたらす原因がある…。それはこの世の常識であり、科学的な考え方だと言えるのかもしれません。そして私たちもともすればそれに慣れてしまい、神がなさることが自分で納得できず、その理由を見いだすことができないと、神から離れてしまうのです。しかし、「天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない」(箴25:3)とあるように、神は主権者であられ、主がなさることは人には測り知れないのです。しかし神は、それぞれにとっての最善をなさるお方なのです。そのことを覚え、ますます神に信頼して歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 5章◇(10月13日)

「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、自分自身でこれを知れ。」…ヨブ5:27

「さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者はいるか」と、エリファズはヨブに語っています。ヨブが不当な苦しみを訴えたとして、確かにそうだとそれに答え、ヨブを弁護してとりなしてくれる人などいない。また、不幸や労苦は雑草のように自然に生え出るものでなく(6節)、人間の罪に対する報いなのだから、ヨブよ、あなたのうちにある罪を告白し、悔い改めるしかないだろうと、エリファズは彼の考えに基づいて主張しているのです。8-16節ではエリファズは、嘆き悲しむ者、貧しい者を顧みて救い出してくださる神について語っています。そしてその神に対して8節、「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう」と彼は言っていますが、そのことばから、自分の敬虔さ、謙遜さ、知識を誇り、それに比べてヨブよ、なぜあなたはそうしないのかと、ヨブの不敬虔さを責める思いを読み取ることができます。「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない」(17節)。あくまでもエリファズは、ヨブが神からの叱責、訓戒を受けているとの理解に立っています。そして、それを拒むことなく受け、罪を悔い改め、神からの救いといやしを受けよと勧めています。これが真理なのだから、あなた自身がそのことを悟り、実際に行わなければならないのだと、そのような教育的なことばをもって語り終えているのです。「『誇る者は主を誇れ。』自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です」(2コリ10:17-18)。エリファズの語った「教理」は間違いではありません。しかし苦難の中にあるヨブと自分を比較する彼のあり方は、神のみこころにかなうものではなかったのです。また彼のうちには、ヨブへの愛とあわれみの心がなかったのです。私のうちに神に誇れるものは何もない…。私はただ神の恵みとあわれみによって生かされている…。常にその理解に立って謙遜に歩む者でありたいと思います。

あわれみの心を持つことができますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 4章◇(10月12日)

「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。」…ヨブ4:7

ヨブに降りかかった災難を聞いて駆けつけた3人の友人は、全身が悪性の腫物で覆われているヨブの姿を見てことばを失い、声を上げて泣き、ただ黙して七日七夜、彼とともに地に座っていました。しかし、ヨブが自分の生まれた日を呪って語ったことばを聞いた彼らのうちには、同情だけでなく義憤の思いが湧き始め、友人のうちテマン人エリファズが、口火を切ってヨブに話し始めたのです。彼が第1に主張したことは「因果応報」、つまり正しい行ないをして、身が潔白である者が神に打たれるわけがない、ヨブのわざわいもまた彼のうちに何らかの罪があり、その実を刈り取っているのだということでした(7-9節)。また彼は、人は神の前に正しくあり得ないのであって、その罪のゆえに、神はすべての者をご自身のさばきの対象とされるのだとも主張したのです(17-21節)。エリファズのその主張は、ある意味正しいと言えます。聖書はアダムの罪によって死がこの世界に入ったと語っています。原因となるものが結果を生じさせるという考え方が間違っているとは言えません。しかし義でありきよいお方である神はまた、愛とあわれみに満ちたお方であって、アダムの時以来、人類の救いの計画をずっと推し進めておられるのです。そしてその救いにあずかるのにふさわしいものを、人は何一つ持ち得ないのです。そのように神の愛と恵みは人間の思いを超えた驚くべきもの、一方的なものであって、それはご自身のひとり子、イエス・キリストの贖いによって頂点に達するのです。エリファズのことばは、ヨブに罪を認めさせ、正しい道に導こうとする訓戒です。そこにはヨブが慰められることばはありません。しかし彼は、まずヨブの痛みに寄り添い、苦しみを分かち合うべきであり、ヨブの上に立って指導するのではなく、ヨブと同じところに一緒にいて、神にとりなすべきだったのです。そのようなあり方が、私たちにも求められていることを覚えたいと思います。

愛をもって人々に寄り添うことができますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 3章◇(10月11日)

「ヨブは言った。私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。」…ヨブ3:2-3

「ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った」と1節にありますが、それはつまり、自分はこの世に生まれて来なければ良かった…と、あまりにもつらくて苦しい苦難の中にあって彼が、このまま生きているより、いのちを取られたほうがましだ、と感じていたということです。ヨブは神を呪ってはいません。自分が誕生した「日」を呪い、その日を忌まわしく思っているのです。しかし彼は、「なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか」とも言っています(11節)。母の胎にヨブを形造り、いのちを吹き込み、胎の戸を開いて生まれさせたのは神であって、自分の生誕を呪うヨブは結局、神を呪っていることになるのです。17-19節では「かしこ」のことが語られています。「かしこ」とは遠いところ、すなわち「天」を指しています。ヨブはその「かしこ」を思い、そこで苦しみから解放され、安らぎと憩いを得ることを願っていたのです。全身を悪性の腫物で打たれたヨブがそう考えるのは無理もないと思うかもしれません。しかし神から与えられているいのちと日々を生きるのを拒絶するのは、神ご自身を拒絶することであり、それは今の自分のことしか考えようとしない、短絡的、近視眼的な態度であったのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(1コリ10:13)。神は真実なお方であって、私たちをみこころにかなう者として整え、ご自身の働きにおいて尊く用いるために訓練しておられるのです。苦難のただ中にあっては、私たちはとてもそう思えないかも知れませんが、試練には意味と目的があること、そしてその試練とともに脱出の道が備えられていることをしっかりと受けとめ、助けてくださいと主に叫び求めつつ、忍耐と希望をもって歩み続けていきたいと思います。

主からの平安がありますように。

◇聖書箇所:ヨブ記 1章◇(10月9日)

「ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。」…ヨブ1:22

善行に励めば良い結果を得ることができる、悪行を避けるのはそれが悪い結果をもたらすからだ…。そのように考えて行動する「因果応報」の法則が果たしてこの世界に存在するのか…。人類は昔からそのことを追求し、そのことがこのヨブ記でも主題として扱われています。正しく歩んでいたヨブに、ある日突然、思いがけない災難が襲いかかりました。彼の家畜やしもべたちや、7人の息子と3人の娘までもが、次々にいのちを奪われてしまったのです。しかしそのことを知った彼はなんと、地にひれ伏して、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って神を礼拝したのです。実はそのことの背後には、神とサタンとのやり取りがありました(6-12節)。ヨブの苦難は神の承諾のもと、サタンが起こしたことであったのです。神はヨブについてこう評しました。「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」…と。そのような希有の存在のヨブだからこそ、想定外の事態においても神を礼拝できたのでしょうか…。しかし2番目の報告者は「神の火が天から下って…」と、それが神からのものだと言ったのです。それを聞いたヨブは、神への怒りを覚えなかったのでしょうか…。「誠実」ということばは、「まじめ」、「我欲を持たない」という意味で一般的に使われますが、神が言う「誠実」とは、何よりも、神を畏れて真実に歩む、心を尽くして主を愛するというあり方を意味しているのです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5,マル12:30)。自分はヨブのようには到底なれない…それが私たちの正直な気持ちかもしれません。しかし彼の姿勢は、聖書全体を通し、一貫して私たちに命じられているものなのです。主を畏れ、主を愛し、真実に歩み続ける…。そのようなあり方を常に願い、追い求める者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 8章31-39節◇(10月8日)

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」…ローマ8:37

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか」(31節)と、それまで述べてきたことのまとめとして、パウロは、「今の時の苦難」に置かれている私たちは敗北者なのか…と、疑問形で読者に繰り返し問いかけ、もちろんそうではない、キリストにある私たちは勝利者なのだと、その結論を鮮やかに示そうとしています。だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか…だれが私たちを罪ある者とするのか…だれが私たちをキリストの愛から引き離すのか…。そのときパウロは、それが、聖徒たちを迫害し、心をくじいて神への信仰を失わせようとする者たちであると同時に、自分たちのうちに残っている罪を責め立て、キリストにある救いの事実を揺るがせようとする敵、すなわちサタンのことを考えていたのです。しかしパウロは、揺さぶりをかけてくる、外からの、また内における敵に対して、きっぱりと答えています。神が義と認めてくださるのだ…キリストが神の座に着き、とりなしていてくださるのだ…私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者なのだ…と。さまざまな苦難の中にあって、多くの聖徒たちが、なぜこのようなことが起こるのか…神は私のことを見捨てたのか…と、神を疑う思いにさせられていたことでしょう。しかし、苦悩の中にあったパウロは、神から強い確信を与えられたのです。死も、いのちも、今あるものも、後に来るものも、どんな被造物も、キリストにあって注がれている神の愛から、私たちを引き離すことなど決してできないのだ…と。そしてそのことをここで力強く宣言しているのです。その神の愛は、もちろん、キリストに贖われた私たちの上にも注がれています。私たちも苦難の中に置かれ、罪や弱さを責め立てられますが、キリストにある神の愛から、私たちを引き離せるものは何もないのです。パウロを通して語られたその宣言のことばを、私たちも自らの口をもって告白したいと思います。

みことばを通して確信が与えられますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 8章18-30節◇(10月7日)

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」…ローマ8:28

「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りない…」(18節)と、パウロは、彼が当時受けていた苦しみを、将来に約束されている栄光と対比させながら語っています。「今の時の苦難」とは、聖徒たちが直面していた迫害や困難であるとともに、パウロが7章において吐露した、罪との葛藤によって生じる苦悩でもあります。一方、「やがて私たちに啓示される栄光」とは、将来、神が救いを完成させたときに現わされる、ご自身の輝かしい栄光を指しているのです。19~22節で、人間以外の被造物もまた、滅びの束縛からの解放、神の子どもたちの現れを待ち望んでいると述べたパウロは、さらに23節以降において、聖徒たちがその被造物に先駆けて苦しみ、からだが贖われるのを待ち望んでいる、すなわち主イエスが再臨され、栄光のからだが与えられ、罪から完全に解放されるのを心待ちにしている、その希望があるからこそ、今の時の苦難を耐え忍ぶことができるのだと言っています。しかし、聖徒たちの戦いは決して孤独な戦いではありません。私たちのうちに住まわれる御霊が、弱い私たちを助け、とりなしてくださるのです。そして、そのことにより私たちは、すべてのことがご自身のみこころにかなうものとなるべく、神は、私たちに試練や苦難をも味わわせ、それらを相働かせて益とされるのだと知るのです。パウロが、「神を愛する人たち…召された人たちのため」…と言っていることに心が留まります。キリストに贖われ、主の教えを守り行う聖徒たちだからこそ、神はそのような取扱いをなされ、ご自身のご計画を進められるのであって、それは何よりも神にとっての「益」であり、訓練を受けて成長する私たちにとっても「益」なのです。すべてのことが意味ある有益なものとして神から与えられている…。そのことを覚えたいと思います。

心に平安がありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 8章1-17節◇(10月6日)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」…ローマ8:13

私は本当にみじめな人間です…と悲痛なことばを発したパウロは、救いをもたらされたキリストを通して神に感謝し、さらに「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(1節)と、それまでの議論の結論を力強く提示しています。そしてそれは、キリストにあるいのちの御霊の律法が、聖徒たちを罪と死の律法による束縛から解放してくれたゆえなのです(2節)。しかしそのとき人間の側に、努力して獲得できるものや、何か誇れるものがあったわけではありません。罪の奴隷となって支配され、自由を奪われて苦しんでいた私たちのために、神が愛とあわれみをもって、ご自身の御子を肉体をもった人としてこの地上に遣わし、私たちの罪のきよめのために、私たちの身代りとして、罪に対する処罰を、肉において下してくださったのです(3節)。「ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります」とパウロは明確に告げています(12節)。それは、私たちが御霊に従って歩むという義務であり、その御霊は、聖徒たちのうちに住み、死ぬべきからだをも生かしてくださるお方なのです。義務とは必ず果たすべきものであり、私たちは、肉に従ってではなく御霊に従って生きる者でことを主に告白し、そのとおりに歩むべきなのです。さらにパウロは、14節以降において、そのように神の御霊に導かれる者たちは、みな神の子どもであると言っています。そのように私たちは、キリストにあって、「子」としての特別な扱いを受けるようにされ、かつては神にむやみに近づくことを恐れていたのに、今や「アバ、父」と親しく呼ぶことができる関係へと修復されたのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハ1:12)。そのようなすばらしい特権が与えられていることを感謝しつつ、その身分にふさわしく、日々、御霊に従って歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 7章13-25節◇(10月5日)

「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」…ローマ7:25

律法は聖なるもの、正しく良いものであると述べた(12節)パウロはさらに、自分に死をもたらしたのは自分のうちにある罪であって、律法によってそのことが明らかにされたのだと語っています。神はアダムに戒めを与えて、それに逆らうならあなたは必ず死ぬと言われましたが(創2:17)、ここでパウロが言っているのは肉体の死ではなく霊的な死であり、その苦悩を彼は味わっていたのです。元より律法は霊的なものであり、人がその律法を守り行って神のみこころのうちを歩み、主から豊かな祝福を得るようにと(詩1:2-3)、神が定めて与えられたものです。そのことを認めた上でパウロは、そのことを自分も願っているのにそうできない、逆に自分がしたくないことをつい行ってしまうと、自らのうちに葛藤、戦いがあることを正直に認めて告白しています。彼は「私は…売り渡されて罪の下にある者」だと感じていたのです(14節)。15~24節にはパウロの悲痛な叫び、赤裸々な告白が続いています。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」(19節)。「そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します」(21節)。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(24節)。そのような絶望の中、キリストを通して神に感謝しますと、与えられた救いにパウロは感謝しています。罪の力に翻弄され、願いとは裏腹に悪を行ってしまうみじめな自分を死から救い出してくれるのは、イエス・キリストだけなのです。パウロが見いだした善と悪の対立は、もちろん私たちのうちにも存在しています。しかし、救いの完成への途上にある聖徒たちは、苦しみもがきつつ、キリストの権威と御霊の助けによって、勝利を重ねることができるのです。そのことを覚え、主にますます拠り頼み、感謝と喜びと希望をもって前進したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 7章1-12節◇(10月4日)

「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」…ローマ7:6

6章で、私たちはかつては罪の奴隷であったが今やキリストにあって罪から解放されている、と語ったパウロは、7章で再び律法のことについて語っています。そしてそれは、聖徒たちが罪から解放されているだけでなく、律法の縛りからも解かれていることを伝えるためなのです。パウロはまず、当時の法律での婚姻のことを例に出して説明しています。夫がいる妻が他の男性と関係を持てば、当然ながら姦淫罪が適用されますが、その夫が亡くなれば婚姻関係も解消されるため、姦淫の罪には問われなくなります。キリストとともに死に、キリストとともに生きる者とされた聖徒たちもまた、律法による支配から解かれたので、罪に定められることはなくなったのです。では律法は不要で悪いものなのか…。パウロはそのような誤解を与えないよう、7節以下で説明を加えています。律法がなければ、人は肉の欲望に従って生き、神に逆らう生き方をしていても、それが悪いことだとは思わず、平気で罪の中にとどまり続けてしまう…。だから律法は決して悪いものではなく、正しくて良いものなのだ…と。6節の「古い文字」とは、文字によって書かれている律法を表していますが、同時に、その律法に縛られた生き方、古い契約に基づく私たちのあり方をも意味しています。それに対して、「新しい御霊」とは、御霊による新しい生き方のことであり、キリストの血による新しい契約の中に入れられたすべての聖徒たちは、この世の価値観、自分の考えや感情に従って歩むのではなく、御霊が照らしてくださる光によってみことばの意味を正しく悟り、神のみこころに従って歩むべきなのです。罪の支配のもと、死のために実を結ぶ者であった私たちですが(5節)、そこから救い出された者として、御霊の導きに従って歩み、人々への証しとなる良い実を結ぶべく、忠実に主に仕えていきたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 6章1-14節◇(10月2日)

「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。」…ローマ6:12

「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と、罪人が義とされるために、神の恵みとキリストの義の賜物が満ちあふれるようになったと述べたパウロは、それを曲解する者たちが、さらに恵みが増し加わるために罪にとどまろうとしないよう、決してそんなことはない、罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きられようかと、その考えを強く否定しています。さらにパウロは、聖徒たちが受けたバプテスマの霊的な意義を明らかにしています。キリストにつくバプテスマを受けた者はみな、キリストの死にあずかったのであり、キリストとともに葬られ、同時にキリストの復活にもあずかって、キリストとともによみがえったのだ…と。そのように聖徒たちは、すでに古い罪の自分に死んで、罪の奴隷から解放されているのだから、自分を罪に支配させてはならない、からだの欲望に従ってはならない、自分自身を神に献げ、その手足を義の道具として、神に用いられるようにせよ、とパウロは命じているのです。そしてそのことは、「罪があなたがたを支配することはない」(14節)ということばと矛盾してはいません。聖徒たちは罪によってもはや支配されないということと、誘惑に負けてその権利を放棄し、罪の支配に自分を明け渡してしまうというのは、別のことだからです。聖書は、キリストに贖われた聖徒たちのうちから罪が取り去られ、きれいさっぱりなくなった…とは言っていません。私たちは罪の性質を宿しながらも、キリストにあって神に義と認められ、神に似た者に日々変えられ続けているのです。そして、罪の奴隷から解放されて得た自由の中で、どう生きるのかが問われているのです。肉の情欲に従うのは、キリストとともに死に、キリストとともに生きる者とされた私たちにはふさわしいものではなく、神に喜ばれる生き方ではないのです。常にみことばから教えられ、聖徒にふさわしく歩みたいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ローマ人への手紙 5章12-21節◇(10月1日)

「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」…ローマ5:18

12~21節においてパウロは、アダムとキリストを対照的に示しつつ、罪と義について、死といのちについて論じています。12節に「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り」とありますが、それは創世記3章に書かれてあるとおり、最初の人アダムの一つの行為によって、全世界に罪が拡散していったことを意味しています。さらに、「罪によって死が入り」とありますが、その死は人間の肉体的な死のみならず、霊的な死、すなわち神とのそれまでの親密な関係の破局と断絶を意味しているのです。13節では罪と律法の関係が語られています。モーセの律法以前にも、アダムが罪を犯したときから、罪は全人類に浸透していました。しかし人はその罪の存在を自覚して認めるには至っておらず、律法によって初めて、人は自らの罪の現実を正しく認識するようになったのです。そしてその全人類の罪に対して、神の恵みによる賜物、すなわち罪の赦し、壊れた神との関係の修復を多くの人にもたらすために、一人の人イエス・キリストがこの地上に来られ、十字架と復活による贖いを成し遂げてくださったのです。一人の人アダム→多くの人の罪と死、一人の人キリスト→多くの人の義と救い、アダムの一つの違反→多くの人の断罪、キリストの一つの義の行為→多くの人の義認と、ここでパウロはそのような鮮やかな対比を示し、神の恵みと義の賜物がいかにすぐれて偉大なものであるのかを、読者に対して強調しているのです。「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます」。キリストが私たちに、義といのちをもたらされたのです。私たちは例外なく肉体の死を迎えることになりますが、霊的な死、つまり神のさばきによる永遠の滅びを免れ、永遠のいのちへと導かれているのです(21節)。恵みの賜物として与えられたその救いを心から感謝し、神に感謝をささげたいと思います。

さらに多くの人が救いにあずかりますように。